2012年1月13日 (金)

上海租界の街路名

以下は、映画の合間などに流されていた「日本ニュース」の第161号 1943年7月6日版のニュースの項目である。

1、上海共同租界 還付調印成立

2、吾が潜水艦 盟邦独逸訪問

3、寺内総司令官元帥に(大東亜建設譜)

4、ジャワ日本留学生訓練所(大東亜建設譜)

5、印度独立連盟 比島支部(大東亜建設譜)

6、バンコック国庫貯金銀行 富くじ発売(大東亜建設譜)

7,タイ芸術局直営女学校の勉強風景



冒頭に、上海共同租界の還付調印式成立のニュースがあった。1943年、昭和18年の6月30日、南京で調印が行われている。下の写真はその映像の一部である。

1
(南京市において、汪精衛中華民国政府と日本政府の間で上海租界返還の調印が行われた)

2
(左側が谷駐中国大使、右側が褚民誼(チョ・ミンギ)中華民国外交部長)


この時のナレーションは下記の通りだ。

「上海共同租界こそは、米英の飽くなき野望の象徴であり、また彼らの東亜侵略の基地でもありました。100年の久しきにわたる中国民衆塗炭(とたん)の苦しみも今は昔。

6月30日、南京において日華基本条約改訂に基づき、上海共同租界行政権回収に関する取り決め、および了解事項の調印式が、日本側谷中華大使、中国側チョ民誼外交部長との間にとり行われました。

今回の上海共同租界の撤収は、真に中国解放を念願する帝国が、大東亜建設の道義性と実効性を余すところなく表したものとして、意義深いものがあります」


1842年、阿片戦争で中国が負けてから100年、イギリスとフランス、そして後からやってきたアメリカに牛耳られてきた上海。その上海租界が、日本が英米と開戦し、上海の共同租界(注:英米租界)、そしてフランス租界を接収したことでようやく解放された、という趣旨のニュースである。



今回このような引用をしたのはちょっとした理由がある。上海に赴いた際、ついでに不動産バブル崩壊情報の真偽を確かめようと、物件調査をしてみた。そして上海特有の街路名についてちょっとした新たな知識に触れることができたのだ。

Ruijin_hotel
(今回宿泊した瑞金ホテルと庭園。朝の散歩では鳥の声が清々しかった)




この12月末から年始に3日ほど上海をそぞろ歩きをしてきた。宿泊した瑞金ホテルの近くに思南路(しなんろ スーナンルー)という、落ちついたプラタナス並木の通りがあった。古い屋敷を再生した洒落たカフェやレストランなどもある。旧フランス租界のど真ん中の街路である。
2_2
(思南路のプラタナス並木。中国観光サイトから拝借)

日本へ帰国後、ネットでこの思南路の不動産を調べてみた。するとほどなく次のような物件広告の文章に出くわした。

「思南路原名马斯南路(Rue Massenet),始筑于1912年。就在该年8月13日,法国一位著名音乐家Massenet在巴黎去世。为纪念他,法租界公董局就将此路命名为Rue Massenet即马斯南路」

日本語訳

「思南路は原名を馬斯南路(マォスナンルー Rue Massenet ルー・マスネ)と言う。1912年に建設された。この年の8月13日、フランス人の著名な音楽家Massenet(注:マスネ)がパリで死去した。これにちなみ、フランス公薫局(注:こうとうきょく。フランス租界のフランス人による行政局)長が、この通りをRue Massenetと名付けた。それが馬斯南路である」

3
(洋館が残る思南路)

マスネというフランスの音楽家を検索するとwikipedeiaに、下記の説明が書いてあった。

ジュール・エミール・フレデリック・マスネJules Emile Frédéric Massenet, 1842年5月12日〜1912年8月13日)はフランスの作曲家 

オペラ で最もよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があった。後にほとんどの作品が忘れ去られてしまったが、1980年代以来、時折リバイバルが起っている。その中でも、特に「マノン」と「ウェルテル」は、発表以来、世紀以上にわたって途切れることなく上演され続けてきている。

引用終わり

この物件広告文からわかったことは、フランスの何らかのつながりがある人物や物事にちなんで、街路名がつけられるのだということ。その街路名に対し、発音の近い中国語の漢字が当てられていることだ。




この思南路を北へ向かって歩き、テンピンルーも子供のころ遊んだという復興(フーシン)公園(旧フランス公園)までゆく。すると公園から西に出る通り、香山路(シャンシャンルー)がある。この通りも静かな落ちついた並木道だ。この通りの物件をネットで調べていたら、やはり次のような広告文が出てきた。

「香山路原名莫利爱路(Rue Moliere),为1914年法租界公董局修筑,以法国戏剧家莫里哀命名。1943年汪精卫政权接收上海法租界时改名香山路」



日本語訳

「香山路(シャンシャンルー)は原名を莫利愛路(モリアイルー Rue Moliere ルー・モリエール)と言う。1914年にフランス公薫局が建設したので、フランスの作家の莫里哀(モリアイ)にちなみ命名された。1943年、汪精衛政権が上海フランス租界を接収したが、その時に改名して現在の香山路(シャンシャンルー)となった」


1941年12月8日、日本は英米に宣戦布告、オランダと蒋介石中華民国が逆に日本に宣戦布告。日本軍は即日武力を持ってして上海の英米共同租界を接収。当時フランスはドイツ傀儡(かいらい)のビシー政権が行政を行っていたためか、フランス租界も抵抗なく接収した。



そして1943年6月30日、日本は汪精衛中華民国政府に租界返還を行った。汪精衛政権がまず行ったことの一つが、街路名の改名であった。フランス語の当て字である莫利愛路(モリアイルー)は、フランスとは無関係の名前、香山路(シャンシャンルー)となった。租界内の全ての街路が同様に改名された。

Photo
(冬の香山路)

香山路(シャンシャンルー)・・・・・・、この並木道を歩けば分かるが、当時もおそらく緑が豊かで、庭先の木々からは花の香りが感じられたはずだ。中国語名に改名するときの中国人行政官の思いがにじんでいるような気がする。まずは通りの名前から、欧米からの解放を始めるのだという思い。綺麗な通りのままでいてほしいという思い。とてもいい名前の通りだと思う。

日本軍の工作によりできた汪精衛政権は、内心忸怩(じくじ)たる思いで、傀儡(かいらい)政権の汚名を自らまといながらも、100年にわたる英米仏からの租界解放を実現させ、上海の中国回帰、一例としての街路名の改名を進めていたのだ。



私はテンピンルーの研究をしていて、かねてより、街路の名前が当時と現在で違ってしまっていることがとても不便に感じられてならなかった。街路名を把握するには漢字でまず二つ覚えないといけない。なおかつ、フランス語もしくは英語の街路名も覚えないといけない。全ての街路に三つの名前が存在するのだ。



そして、私は新しいほうの漢字の街路名は、戦後になって中国共産党政権が革命思想のもと改名したのだと思っていた。ところが違った。日本軍の保護下にあった汪精衛政権が名付けたのだった。歴史を知ることで、街路名が複数ある事実は受け入れることができるようになった。欧米支配者の名付けた街路に、後から漢字の当て字をする屈辱感をぬぐい去るのは当然のことだろう。



ところで、ネットで見ることのできる旧フランス租界の不動産広告文では、高級物件であればあるほど、かつてフランス語の街路名がついていたことを売りにしている物件が多い。かつての屈辱のあかしが、むしろ付加価値になる。歴史とはなんと皮肉なものなのだろう。

同時に、少なくとも上海の租界解放を果たした当時の日本。中国への新たな侵略者、という歴史的事実はある。しかし、欧米からの中国解放と、明治維新以来の日本的良さの伝播の思い、というものがもしかしたら一部あったのではなかろうか・・・?大東亜共栄圏思想の根っこの一本くらいには、そういう思いも込められていたのではないだろうか・・・?




1940年、「上海人文記」の「徐小姐のロケット(シュ・シャオチェのロケット)」の章で、映画プロデューサー松崎啓次は外連味(けれんみ)無く、支那の指導者たらんとする自分、そして指導者たる日本を描いた。

2012年、旧フランス租界を出でて、きらびやかな高層ビル街から一歩中国人街に歩み入り、その不衛生さと貧しさ、配慮の無さ、交通法規に対する無秩序さなど、21世紀の現在になってもいまだ解消されていない中国に触れるにつけ、そんな思いが一瞬頭をよぎったのも事実だ。

| | コメント (4)

2011年7月 7日 (木)

日本がかわいそう?

今日、テレビを見ていたら香港のブランドをあさっていく客の大半が大陸の、たとえば上海からの客らしいと。ひとつ100万円とか200万円のエルメスやヴィトンのバッグを平然と買っていく。Photo (長い行列のできる香港のルイヴィトン)


日本のテレビ局が一組の中国人カップルにインタビューをしていた。

福建省から来たという女性が答える。

「お茶の製造で当てました」

隣にいるその夫?がニコニコしながら続ける。

「先月は月給が370万円でしたよ。すごく儲かってます」

男性が続ける。

「日本は景気が悪いからかわいそうですね」

すると、女性がその言葉を遮るように、

「そんなこと言うんじゃないの!そんなことは言わなくていいの!」

としかめっつらをして叱る。

おそらく日本のテレビ局の取材だからと、日本人に気を遣ったのだろう。

この女性の行動はすごく印象深い。

昔、1930年代、支那の指導者役を自認した日本。めくらでかわいそうな支那のためにがんばるんだと。支那国民を苦しめる蒋介石と西欧諸国から支那を救うのだと。

その支那人は、歯を食いしばって、日本に追いつこうとした。それは絶望的に見えた。子供の頃の私の目には、絶対に無理だと思えた。中国人は、ずっと人民服で、自転車をこいでいるのかと思っていた。

天安門事件のとき、中国人は人民服を着ていないということを知った。

そして、今、日本はかわいそうがられている。中国人に同情と哀れみの目で見られている。

壮大なる平家物語。

| | コメント (7)

2011年6月 2日 (木)

上海福寿園

上海市図書館に行った前日、鄭蘋如(テンピンルー)の碑がある上海西郊の福寿園に行ってみた。上海中心部から地下鉄に乗って30分弱、遊園地などがある郊外の駅に到着。タクシーに乗って向かう。沼地や古い工場などが点在する寂れた土地にあった。

墓園に入ると、中は西洋風墓地で緑が豊か。日本ではあまり見られないタイプ。

Photo
西洋風の墓地、福寿園。いろいろな区画がある。

Photo_2
かわいらしい女の子のお墓。このように墓石に生前の写真を見ることができるものが多い。

2
小さなお子さんのお墓は、その写真が愛らしいだけに涙を誘う。

Photo_4
墓園の中を大通りが通っていて、その逆側に渡ると、ピンルーの碑があった。
こちらの側の少し離れた区画ににはテレサテンの碑もあった。

しかし、少なくともピンルーの碑の回りには、墓石はほとんどなくぽつりと寂しそうに配置されていた。テレサテンの碑の回りにはいくつか墓石があったが、やはり閑散としていた。

ある程度有名人の墓や碑を配置して、その回りから分譲していく、という方針が見て取れる。

Photo_5
このように、広大な芝生のスペースがいたるところにあり、墓石を分譲する区画となっている。奥に見えるのが博物館で、この墓園にお墓や碑がある方のゆかりの品が置いてあったり、ディスプレイで情報を見ることができる。ピンルーの未発表の写真も何点か見ることができた。戦後、蒋介石からピンルーの母、木村はながもらったという書も実物が飾ってあった。

最寄りの駅から乗ったタクシーの運転手が言うには、周恩来元首相の親族の所有の土地らしい。周囲は他に使い道のないような湿地帯なので二束三文の土地を開発したのだろう。

昨年、出来たばかりのピンルーの碑の前でマスコミを呼んで許洪新氏が自著の発行を宣伝した。そこにはピンルーの甥にあたり、たびたびマスコミに登場する鄭国基氏や、親族が来ていた。

しかし、ピンルーとは一番仲の良かったカリフォルニア在住の実の妹、鄭天如(鄭静知)さんは来ていなかった。

ピンルーの魂は果たしてここに安住しているのだろうか?多少の疑問が残らざるを得ないのも確かだった。







| | コメント (4)

2011年5月 6日 (金)

上海より 9

前回記事「上海より 8」←クリック からの続きです。


これが「それらしき記事」かどうかは、読者の皆様にお任せする。上海図書館で、当時の上海で発行されていた朝刊紙、「新華日報」1940年1月31日版 4ページ目の署名記事を、日本語に訳して引用した。

1



引用開始

「父の祖国に捧ぐ一人の青年」  雷石楡

 

頑丈そうな身体。深い色をたたえた瞳が輝いている。彼を一目見ただけで熱帯地方で生まれ育った人だとわかる。私は一人の青年を皆さんに紹介したい。彼の高貴な心を理解していただけば、なかなか他には居ない人だと分かる。

 

彼の父は広東省汕頭(さんとう)の出身であるが、彼の姓名を知っている親しい友人はいない。そこで私は彼を仮にS君とする。

 

S君は23才。母親はタイ人で家族でタイに住んでいる。弟、妹、母親は中国に来たことがないので、中国の印象はほとんどなく、「中国」という言葉だけを知っている。

 

ところがS君は違った。彼は父親の愛する祖国、中国を学ぼうとした。学生時代、彼は中国語を勉強し、流ちょうな北京語を話せるようになった。

 

抗戦中国の国体を守るため、彼は活発に活動した。同胞を助けるため抗戦組織の仲間を集め大きな力量を見せた。日本が設置した特務機関やタイを苦しめる日本商品扱い店に対抗した。


タイ政府は日本軍と協力関係にあった。S君らに残酷な仕打ちが迫った。彼は幾人かの仲間が拘禁されたり暗殺され、また罪に問われたのを知った。

 

「彼らは真偽を確かめもせず、やみくもに私の仲間を拘束し、追放しました。仕事と財産も没収されました。たとえ追放されなくても困難は変わりません。高額の税を取られ、華僑の学校は再開が許されず、タイで中国語を学ぶことは一種の犯罪となりました。4つ新聞社が閉鎖され、1紙だけがなんとか存続しました。小さな新聞を発行していますが、日常のニュースを報道することしか許されていません」

 

「私は祖国を渇望しています。家族全員がそろって静かに祖国の懐に抱かれていたい。祖国が偉大な革命的力量を発揮してほしいです」

 

彼の身体に流れる血は、明らかに我々中華民族に泉源があると感じる。彼の血は、私の血に正義の炎を燃やす。彼の心は一人の中国人の心と何ら変わりない。

 

人類の進歩は、科学的な知識を持って自分の頭で考えるところにある。そして実行することで現実の明と暗がはっきりする。理想が自分を光明遠大に導く。

 

S君は頭脳明晰な青年だ。それに加えて情熱的な心を持ち、父親の祖国を愛し、理想の新世界を夢見ている。彼は家庭を犠牲にすることを惜しまず、気力とその思いで、中華民族の困難を分かち合おうとしている。S君は我々の最も敬重する人物の一人であり、まさに我々の「強心剤」と言えよう。

 

引用終わり

この記事の主人公は、中国人の父とタイ人の母を持つハーフの男性だ。仲間を拘禁、暗殺で失いながらも、抗戦組織で活動することで、父の国、中国への愛情を表現した。記事ではその彼をこの上なくたたえている。

アジアの数少ない独立国として日本と親密な関係にあったタイ政府は、日本の傀儡政権である中国維新政府、そして上海市を中心に権力を持ち始めた次期政権、汪精衛の中国政府とかぶる。

S君も混血。家族では彼だけが活発に動き、S君の母、弟、妹は静かに暮らしている。ピンルーの置かれた立場と重ならなくはない。


さてどうだろか。

上海まで行った私としては、なにかしら成果がほしい。その心理が私の想像をかき立てた。

・・・・・・・・・・尾崎秀美は、上海特派員時代のツテを頼り、新華日報記者の雷石楡に記事を書いてもらうことになった。雷記者は、実在にせよ想像の産物にせよ、S君なる混血青年への短いインタビュー記事を書いた。S君は、とりもなおさず鄭蘋如の暗喩である。S君をたたえることで、日本人との混血でありながら純粋な中国人の心を持つ人物として鄭蘋如に思い致らせる・・・・・・・・・


当初、私はピンルーの釈放には、彼女を拘束しているのが日本傀儡政権であることから、日系の新聞に出した方が効果的とも思った。しかし当時の新聞検閲体制からすると、政権側に反する意見の記事掲載は不可能だろう。新華日報は周恩来が肩入れした共産党系の大手新聞である。


実際にはテンピンルーは1939年の12月末から1940年1月初旬にかけて拘束された。そして上の記事の出た翌月2月の半ばに、いくばくかの助命嘆願があった中、処刑された。

今回、直接的な史料を得ることはできなかった。永松浅造によって書かれた尾崎秀美によるピンルー釈放の動きは証明できなかった。今後発見される可能性はゼロではないが、私個人としてはやり尽くし感がある。この件につき、終了としたい。

付記:京都の国立国会図書館関西館では、大美晩報、大晩報、華美報、大美報、申報、新申報、新聞報、民国晩報を見ることができた。上海図書館では、新華日報、中央日報、大公報、抗敵報を調べた。小さな新聞社を含めるとこれら以外に数十の新聞が上海では発行されていたようである。

| | コメント (0)

上海より 8

Photo_2

(春の夜の旧アヴェニュージョッフル)

昨年の9月、鄭蘋如(テンピンルー)ゆかりの地を簡単に巡った(「上海より」参照←クリック )。今回は、ピンルーの碑ができた上海市郊外の墓園「福寿園」を訪れること、そして3年前ほどからの宿題をやり遂げることを目的とした。


その宿題とは、
2010年8月8日のブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」←クリック にあるとおり、次の文章の解明である。






(中略)

「東京に帰ったアンナはこの事件のことをゾルゲに報告した。ゾルゲは世論の力で死刑から救おうと考えた。日本の文化人や著名人の署名付きで近衛首相や上海駐留日本陸軍首脳、汪兆銘らに手紙を出させる話をつけた。

また、尾崎秀実らも知り合いの新聞記者のツテを利用して上海の新聞各紙に釈放が(注:ピンルーの釈放が)当然であるとの偽名の投書を掲載させる話をつけた」






上の文章は、戦中は毎日新聞記者、戦後は著述業となった永松浅造が書いた「ゾルゲ事件」からの引用だ。



ゾルゲの行動はおそらくあり得ないだろう。彼は一切の足がつく行動は控えていたはずだ。永松浅造氏は、ペンが走る癖がある。この辺は割り引かせて頂く。


私が注目したのは、ゾルゲ事件に荷担した元朝日新聞上海特派員、近衛内閣嘱託を務めた尾崎秀美(おざきほつみ)の行動の部分だ。


「知り合いの新聞記者のつてを頼り、上海の新聞各紙にピンルーの釈放が当然であるとの偽名の投書を掲載させた・・・・・」



財閥、軍閥、官僚、そして皇族らの結託した結果である日本の戦争。そしてまがりなりにも議会制民主主義の片りんがあった当時の日本ゆえ、これら支配階層は朝日新聞をはじめとした管理された報道により、選挙民を帝国主義に追随するよう誘導した。


この構造を、良きにつけ悪しきにつけ非凡な、また恐ろしくもユートピア的、破滅的な発想で壊そうと試みた尾崎秀美。尾崎がテンピンルーを救おうとしたのなら、それは単にかわいそう、ではなく、尾崎がピンルーのあずかり知らぬ間になんらかの情報面での便益を得ていたことの手掛かりになる。




手掛かりの一端は得られるのものだろうか。

可能性がゼロではないならば、まずは行動してみようかと。


今回ようやく上海図書館を訪れる機会を得た。ここには当時の上海で発行されていた膨大な新聞、雑誌の影印(複写)と実物が保管されている。日本人も、パスポートを提示し、滞在中のホテル住所等や電話番号をカードに記入していけば3ヶ月有効の利用者カードがその場で作成される。

1



資料が多すぎてどこから手を付けていいのか分からなかったが、ピンルーが捕まった翌月の1940年1月1日から、処刑されたといわれる翌2月の末日までの新聞を、書架に並ぶ大手新聞社のものからら見ていくこととした。




その結果、投書欄がある新聞は皆無といってよかった。これは昨年訪れた京都の国立国会図書館関西館での調査でもある程度わかっていた。遺失物の告知や結婚、離婚などの告知など、日本の新聞にはない欄はあった。おそらく告知枠として売られていたのだろう。




そこで、投書欄を探すのをあきらめ、記事を見ていくこととした。鄭蘋如の名前を見つけ出すことはできなかった。そりゃそうかもしれない。もし名前があったら中国側の研究者がとうの昔に見つけ出しているはずだ。




私は方針を変え、

「それらしき記事」

がないものか、目をこらすことににした。

「上海より 9」に続く

| | コメント (0)

2011年3月31日 (木)

文明の転換点

このブログのテーマとはずれるが、いてもたってもいられず書かせていただく。今、文明の転換点に来ているのかもしれないと思う。

この二三百年間、地球を支配し続けている西洋文明。それは地球が46億年かけて作った、利用しやすい形の炭素、つまり石油や石炭、そしてガスなど、を燃焼させて築きあげられている。

そのエネルギーの出し方からちょっとずれて、1930年代に悪魔のエネルギー、原子力が生み出された。

エネルギー = 重さの差 × 光の速さの二乗

アインシュタインが発見した。短い、単純な式だ。

原子を核分裂させて、すこーしだけ軽くすると光の速さの二乗という想像できない大きさの係数を掛け算したエネルギーが生み出される。

ウランを核分裂させて、すこーしだけ軽くする。微妙に軽くすることで、人類を破滅に追いやるエネルギーが出る。

アインシュタインは、ルーズベルト大統領に進言した。原爆を作るべきと・・・。彼の代わりに言い訳すると、ナチスドイツが原爆を開発する前にアメリカが開発してユダヤ人を救いたかったのだ。それは日本に二発落ちたのだが。

戦後、物理学者達は、原爆に飽き足らず、人間の手で太陽を作ろうとした。

ウランの原子核を10万分の1秒で爆発させれば「原爆」と呼ばれる。

同じウランを8時間かけて爆発させれば「原子力発電所」と呼ばれる。

原子力発電所はゆっくりした原爆なのだ。

神のみに許された行為、核の分裂、核の融合、恒星の創造。それを人間も出来ると勘違いした。人間に許されたのは、酸化還元反応だけなのに。木を燃やすまで、炭素を燃やすまでが許されているのだ。

燃やすと二酸化炭素が増えるって?温暖化しますか。

それなら木を植えればいい。還元するのだ。酸化したら還元するのだ。海だって二酸化炭素を吸収する。燃え過ぎたら水をかける。水をかけて消す。

だいたい、原発から奔出する大量の無駄な熱はどうなるのだ。電力として使わなかった熱はどうなるのだ。7割は熱として海に捨てるというじゃないか。隙間から抜け出た核分裂生成物と一緒に。

日本に54もの人工太陽がすでにあり、世界で430以上の人工太陽がある。

これからベトナムにもできる。東芝が国と一緒にがんばって受注した。ロシア、中国にも大量にできる。フランスにも、アフリカにもいっぱいできる。

ボコボコできるだろう。

人工太陽が地球に大量発生する。

人工太陽の操作は難しい。ミスをしないでほしい。一切のミスをしないでほしい。神と全く同じ精度を持って操作してほしい。神にのみ許された太陽を作ったのだから当たり前だ。

地球上に存在しなかった元素が大量発生している。元素記号表の右下の方に並んでいる。聞いたこともないような元素。なにをするかわからない元素。地球が知らない元素。人間の免疫力ではなにもできない。もとに戻らない。還元できない。一方通行。

存在しなかった元素を扱うために、日本では20ほどの法人が作られた。霞ヶ関という「天」から「下」りてきた人達が、東芝、日立、三菱重工、石川島播磨などと協力しながら、産官学で作った機関が20もある。なぜかレンホウさんと枝野さんの仕分けパフォーマンスからもすり抜けた。

原子力委員会(JAEC)(内閣府)
原子力安全委員会(NSC)(内閣府)
原子力安全 保安院(NISA)(経済産業省)
科学技術・学術政策局原子力安全課 (文部科学省)
原子力発電環境整備機構(NUMO)
(社)日本原子力産業協会(JAIF)
(社)日本原子力学会(AESJ)
(財)原子力安全技術センター(NUSTEC)
(独)原子力安全基盤機構(JNES)
(社)日本原子力技術協会(JANTI)
(財)原子力安全研究協会(NSRA)
(独)日本原子力研究開発機構(JAEA)
(財)原子力研究バックエンド推進センター(RANDEC)
(財)日本原子力文化振興財団(JAERO)
(財)原子力発電技術機構(NUPEC)
(社)火力原子力発電技術協会(TENPES)
(財)原子力国際協力センター(JICC)
(社)原子燃料政策研究会(CNFC)
(財)原子力環境整備促進・資金管理センター(RWMC)
(財)核物質管理センター (NMCC)

20くらい必要なんだろうなぁー。何をするかわからない元素だからなぁー。私にはよく分からないが、中には放射線治療や半導体微細加工などの医療、工業分野に役立っている法人もあるのかもしれない。これらの法人に勤める方々にはがんばって未知の元素をコントロールしてほしい。この20の特殊機関に属する人たちには今こそがんばってほしい。「天」から「下」りてきた人達ならできるはずだ。

原発が廃止されたとする。でも原発から出てきた排ガス、つまり使用済み核燃料、は500年間ほどコントロール下に置かないといけない。

今、原発を廃止したとする。そうしたら、未来の人達は、現代人が使った原発の「生ゴミ」たる使用済み核燃料と、核分裂生成物を管理し続ける。してくれるはず。

奇特な人達だなぁ、未来の人たちって。偉い!今の子供達、子供達の子供達、そのまた子供達。子子孫孫。500年間。彼らは偉い!!過去の人達の贅沢の残滓を、放射線を浴びながら管理してくれるんだから。頭が下がる思いだ。申し訳ない!

でも、教科書に書かれるだろうなぁ。歴史の教科書に。

「500年前の日本では原子力発電所という所で電気を作っていた。80年間程度使って、その放射線や未知の元素を扱いきれず、ついには廃止してしまった。

青森県六カ所村と呼ばれていた土地に、巨大な古墳がある。長い間、そこは皇室関係の墓で、立ち寄ってはいけない場所とされていた。

天皇制が敷かれていた平成時代。宮内庁という役所が管理していたと言われている。先般、発掘が許可され、考古学者が表面の土を50メートルほど掘っていくと、厚いコンクリートにぶつかった。

その下には数え切れないドラム缶が、何層にも何層にも、地下1千メートルにまで積み重なっているのを発見した。天皇家の墓になぜドラム缶が?地中は数百度の熱をもっており・・・」

さて我々日本人も、西洋文明に乗っかっている。明治期以降、西洋人ぶっている。

西洋を表象するもののひとつが、フランス式庭園だ。まず、森を切り開く。動物を追い払う。沼を埋め、丘を削る。でこぼこをならし、平らにする。

ど真ん中にまっすぐに伸びる運河を引き、小舟を浮かべ、噴水から水を吹き出す。

運河をとりまき、庭を造る。定規で引いたまっすぐな庭だ。芝生を植え、植木を整然と配置する。

そうやって自然を征服した感を出すのだ。それが皇帝の力を表すのだ。

人間は自然より強いのだ。人間は自然をコントロールできる。制御できる。

その人間の頂点に立つのが皇帝だ。全能の存在。

日本の庭はどうだろう。

まっすぐな直線がない。

ぐにょぐにょしている。

整然としているのか整然としていないのだか、私のような凡人にはさっぱりわからない。

考えているのか?庭師はいったいなにを考えているのか。

論理があるのか?ないのか?

あるようでない、ないようである。

もやもやしている。

でも、一つだけ言える。

日本庭園には、「自然を征服した感」はまったくない。

人間は自然には勝てないのだ。日本人は皆、そんなことはわかってる。地震、雷、火事、親父には勝てないのだ。人間は、自然に従い、上手におつきあいしながら、生かさせてもらうしかないのだ。

津波には家を持って行かれるのだ。家を建てればそれは火事で燃えるのだ。屋根は台風で吹っ飛ぶのだ。

人間は逃げる。家を置いて逃げる。あたりまえだ。

逃げて恐れおののく。

やがて天地は静かになる。

そうして、また作るのだ。

作ればいいのだ。ただそれだけ。

すぐに、吹っ飛んだり、つぶれたり、燃えてしまう。

だから、石造りの豪勢な家なんか建てない。

そんな家なんか、すぐ地震でただの石ころの山に早変わり。人間は押しつぶされる。

だから、家は木と紙で作る。

木と紙の家を造る。

自然にぐちゃぐちゃにされたら、逃げて、また作る。

そんな文明がやがて最先端になるだろう。

日本人がその最先端を作る。

日本文明によって地球は続いていく。

最近すごく、疲れているので、書き殴らさせてもらった。

自信を失うと強く出る。

そんな感じだ。

文章の責任は一切とらない。

以上。

| | コメント (0)

2011年2月14日 (月)

日経の「風見鶏」で小野寺信の名が

日本経済新聞朝刊の2面に「風見鶏」というコラムが連載されている。その2011年2月13日付けのタイトルが、

「ヤルタの教訓が問うもの」

と、興味深いものになっていたので、読んでみた。

さきごろ、中国の胡錦涛主席がアメリカを訪問したが、そのときに米中のG2体勢を暗に求めたらしい、というような聞き捨てならない情報提供でこのコラムは始まっている。

そして、米中会談後、今後のアジアの秩序がどうなっていくのか、米欧の政府高官や専門家がストックホルムに集まり、非公開の会議を開いたらしい。コラムは、そこで議論されたという4つのシナリオを紹介していた。

その4つとは、

1. 中国主導のアジア

2. アジア共同体の成立

3. 米主導の秩序の維持

4. 覇権国なき群雄割拠

そして、ストックホルムでの議論は、日本の進路の話題に振られたという。米国との同盟強化に回帰するのか・・・・?日米同盟を弱めて、アジアは中国圏に染まるのか・・・・?

そして、このコラムは「日本の政治家よ、歴史に学び行動せよ」という結論へと連なっていくのだが、そこで、当ブログではおなじみの名前が出てきた。

小野寺信(おのでらまこと)、

である。

そう、1930年代後半の上海で、鄭蘋如(テンピンルー)や、近衛首相の長男文隆、近衛が上海に送り込んだ和平密使早水親重などと一緒に日中間の和平工作を行った人物だ。

以下、「風見鶏」から引用する。

(中略)

 日本には重い教訓がある。ヤルタ協定が結ばれたとき、実は、東京にも「ソ連が対日参戦する」との情報が入ってきた。スウェーデン駐在武官の小野寺信少将がつかみ、極秘電報を送ったのだった。同氏はすぐに終戦するよう重ねて打電したが、軍中枢は黙殺し、政府はこともあろうにソ連に和平の仲介を託した。

 終戦がもたつくうちに日本は2度も原爆を落とされ、ソ連の侵攻でさらに多くの命が散った。北方領土もロシアに実行支配されたままになっている。あまりにも大きなこれらの代償から政治家が何の教訓も学べないとしたら、むなしすぎる。

引用終わり。

以上がこのコラムの結びの文章だ。

私が2008年に書いた小野寺信の記事はこちら

小野寺信と「ストックホルムの密使」

以下抜粋

また、ソ連が日米和平を仲介してくれるようだ、という出所不明の情報によって、かつて「蒋介石を相手とせず!」と豪語した近衛文磨元首相が、ソ連までお伺いして、日本とアメリカの和平を頼みに行く計画がなされていた。ソ連はその話に乗っているふりをして、対日参戦準備のために時間稼ぎをしていただけだった。


ソ連軍は準備が整うや否や満州に攻め入り、近衛文磨の息子文隆を含む日本軍人数十万人のシベリア抑留者や、帰るに帰れない開拓団などの日本民間人に対する惨劇が待っていただけというのはなんともやるせない話だ。そして戦後の対日処理についてソ連に発言権を与えたくない米国は、すぐさま二発目の原爆を落とす。複数の原爆が落とされるという、小野寺の打電した通りになってしまった。

当ブログは知る人ぞ知るマイナーな人物を取り上げてきた。

鄭蘋如(テンピンルー)はもちろん、
小野寺信
早水親重
武田信近
近衛忠麿

などをグーグル検索するとトップに出るか、Wikipediaの次あたりに来る。いずれも、これまでほとんど取り上げられることの無かった、1930年代上海での影の日中和平推進者だ。

また、上に挙げた5人を逮捕したり監禁したり処刑を示唆したりした憲兵隊長、林秀澄についても、人となりが分かると思う。

これらの人物に、一すじの光をあてる、という意味では当ブログもわずかながら貢献できたかと思う。

| | コメント (2)

2011年1月 1日 (土)

おいしい食べ物に国境はない!

あけましておめでとうございます。

さて、国境は無い!シリーズの第二弾です(笑い)。

前回紹介した、中国のテレビで毎週木曜日夜11時から30分間放送されている日本の観光スポット紹介番組「日本随星行」。

公式サイトには一週間ほど前に中国版のツイッターをスタッフが作ったようで、フォロアーがすでに458人になっている。中国版のツイッターは「新浪」というポータルサイトが「微博」という名前をつけて運営しているようだ。フォロアーのことは「紛糸」と書いて「Fans」と読むみたいだ。ファンってことかな。

どうでもいいけど、日本だと、アメリカのTwitter の日本版をそのまま使うし、検索もアメリカのGoogleの日本版をそのまま使うけど、中国って、ツイッターも検索エンジンも自国製をわざわざ作ってそれが大多数を占めるんだよな〜、なんかすごいな〜。

日本随星行のツイッター←クリック

Photo

この日本随星行、一番最近の放送だと、北京の「小P」(シャオピー)という呼び名のイケメン男性俳優さん?かモデルさんが、大阪の心斎橋に来たときの模様。たこ焼き屋さんで熱々のを食べていた。

撮影スタッフに教えてもらったのか、お店の人とおきまりの

「もうかりまっか?」

「ぼちぼちでんなー」

「もうかりまっか?」

「ぼちぼちでんなー」

を何度も何度も繰り返していた(笑い)。


微博(ツイッター)を覗くと、心斎橋での撮影スタッフの感想が・・・

     

在大阪,会打扮爱打扮的人很多!(笑),真的。走在大街上,看路人的装扮都可以开心半天。而且关西的人特别开朗活跃,同样是日本,和东京简直是两个感觉!

日本語訳:

大阪は、着飾った人が多い!(笑)本当に。街頭を歩いていると、いろんな人がおしゃれしていて、半日いても楽しい。その上関西の人はとても明るく広々として活発、同じ日本でも、東京とまったく別の感じです!

ということで、東京の人、もっと明るく活発にしましょう!(笑い)


脈絡の無い話となりましたが、おいしい食べ物に国境は無い!でした。


今年も皆さんにとっていい年になりますように!!!!

| | コメント (0)

2010年12月 3日 (金)

中国で日本の魅力を伝えるテレビ番組開始

中国の衛星放送、東方衛視というチャンネルが毎週木曜の午後11時から11時半に「日本随星行」という番組を始めた。11月18日の放送からのようだ。

東京、富士山、京都、沖縄、九州、北海道など、全国を紹介していくようだ。中国人のタレントを使って、いろいろな体験をさせている。

日本でも、下記のサイトから過去の番組を見ることができる(※動画は時間帯によってかなり重いので、早朝がおすすめです)。

「日本随星行」のサイト←クリック

Photo_2

Photo

サイトを見ると分かるとおり、日本の観光庁がVisit Japanの一環からか、スポンサーになっている。

国際政治に民間人が翻弄されるのは今も昔も変わらない。

しかし、民間の交流は絶やしてはいけないだろう。

中国からの観光客に普通に接し、普通にもてなすこと・・・

我々が中国に行ったときにそれはきっと返ってくるはずだ。

| | コメント (0)

2010年11月16日 (火)

中国様!

下の写真はAPECでの日中首脳会談での一こまである。

まずは、握手。

Photo

わが首相は、会談の内容よりも、会談を開き、胡錦涛さんと握手することが目標だった。

やっと目標を達成できる!という気持ちが前のめり(右斜め)の格好となった。

こういう「決めのワンショット」は意味を持ったサインとなってしまう。

自分の意図とは全く別に、

「中国様にすがっていく日本」

というイメージ画像になった。

で、会談が始まると、相手の顔を見ずにメモを読み始めた。

Photo_3

胡錦涛さんは、泰然自若に聞いている。

リラックスした胡錦涛さんに対し、不安を隠せないわが首相。

いったいいつから中国と日本の関係はこうなってしまったのだろうか。官房長官をはじめとした参謀役にも責任はあろう。こんな演出が、現首相に賛同しかねる外務官僚の作戦だとしたら高等戦術である。

会談の中身が問われない会談ならば、元首に対しては我が国の元首、天皇を出してもよかったくらいだ。昭和天皇は天皇制を保持できる保証をアメリカより取り付けてやっと降伏した。「聖断」により護持した国体であるならば、「聖断」が「神話」でなく「実話」であることを国民に見せるつけるいい機会ともなったろう。

Photo_2

(天皇皇后両陛下に礼を尽くすオバマ大統領)

わが首相は石にかじりついてでも4年間は首相をやるということである。

どう反応していいかわからない。

さて、くりかえしになって申し訳ないが、

「・・・・・自分達が一人前になるころには支那は、昔世界文化の中心であったように再び世界の中心になるのだ、それにはまず石をかじってでも外敵に抗して、自国の一人ひとりが常に強くなり、偉くなるように心がけねばならぬのだ・・・・・」

1938年の一人の支那少年の言葉である。上海にあった日本人向け大学「東亜同文書院」の学生、山内正朋氏が卒業論文の中で引用した。「尖閣諸島」記事参照←クリック

石にかじりついて首相の座を守ろうとするわが首相。

石をかじってでも外的に抗して偉くなるように心がけようと言った1930年代支那の少年。

彼には、

「君の思いは72年後の11月、日本の横浜でかなったぞ」

と報告したい。

支那の指導者を自負した日本。

石をかじってきた支那、そして中国。

今後の展開がどうなっていくのか、とても楽しみだ。

 

| | コメント (0)

«歌に国境はない