2013年6月 9日 (日)

ポイントオブノーリターン7

近衛文隆は、1939年の2月に上海の地をふたたび踏み、東亜同文書院の職員として働き始めた。これは単に失業中の彼が新たな就職先を見つけた、ということではなく、前の首相で父でもある近衛文麿の和平密使の一人として送り込まれた、のであろうと私は見ている。

近衛文隆の赴任からほどなくして、テンピンルー(鄭蘋如)が日本人の誰かの紹介を携えて近衛文隆の職場を訪れている。この紹介者は、同じく近衛文麿が和平密使として一足早く上海に送り込み、和平工作組織「小野寺機関」に属していた早水親重(はやみちかしげ)と推測される。このあたりは、当ブログ記事「テンピンルーの悲劇 前編」を参照いただきたい。

近衛文隆は、その後5月に、影佐機関の暗躍によって日本に強制的に帰国させられるまでの約4ヶ月弱、上海で和平工作に動くことになるが、その間に彼にとって二度目のとなる蒋介石訪問のチャンスが巡ってきたことを、日本の文献で見ることができる。

以下、繰り返しとなるが「近衛文隆追悼集」に寄せた早水親重の文章を引用する。

 従って話は、打開の方途(注:停滞している日中和平交渉の打開)を考えようじゃないか、という事になって別れた(注:東亜同文書院での早水親重と近衛文隆の最初の面会から別れた)。

 それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。

 また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。

 五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。

引用終わり

上記の早水親重氏の文章からは、1939年4月から5月頃にかけて、クラーク・カー大使が近衛文隆に対して、自分が紹介するから蒋介石との直接交渉に重慶に行ってはどうか、という提案があったととれるので、今回はここを検証してみる。

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(写真は会食中のクラーク・カー大使、右が蒋介石、左に蒋介石夫人。夫人は給仕に何か注文をしているところであろうか。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の伝記、「Radical Diplomat」の103ページに以下の文章が書いてあった。

Clark Kerr left for Chungking, whrere he arrivied on 19 April.
中略

Clark Kerr was naturally sympathetic to the Chinese resistance, but he was also now resident in Chungking, had met Chiang on the twenty-second and even been for a picnic the following week with the Generalissimo and Madame Chiang.
中略

He left Chungking on 19 of May, travelling to Hong Kong, where he hoped to sort out the practicalities of his proposed internment scheme. In Hong Kong he also had several meeting with Edgar Snow, Gunther Stein and others of the pro-Chinese left in the colony who strengthened his resolve on the issue.

 

日本語訳

 

クラーク・カー大使は、(上海から)重慶に出発、4月19日に到着。

 

中略

 

クラーク・カー大使は中国人に対して同情心を持つにいたっていたが、彼は今や重慶の住民ともなった。4月22日に蒋介石に会い、翌週にはなんと蒋介石夫妻とピクニックにも行っている。

 

中略

 

重慶を5月19日離れ、香港に立ち寄り、天津事件(注:天津のイギリス租界における日本側官憲の捜査権限についての圧力)の収集策を練った。彼はまた香港で、エドガー・スノーや、ギュンター・シュタインらの親中派と面談をし彼の解決策に賛同を得た。

引用終わり

ということで、早水親重の追悼文の、近衛文隆がクラーク・カー大使から重慶の蒋介石訪問を誘われたのが1939年4月から5月であるという記述と、クラーク・カー大使の伝記の4月19日重慶到着、5月19日重慶を離れる、という記述はタイミングが整合している。

以下、関連のオーストラリアの新聞記事を掲載する。

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日本語訳

英国大使の交渉

早期和平交渉のうわさ

上海(1939年)4月9日

東京駐在の英国大使ロバート・クレイギーは本日、上海訪問を短く切り上げ東京へ発った。駐華英国大使アーチバルド・クラーク・カーは、クレイギー大使との折衝後、重慶(中国西部の政権首都)へ出発した。ある重要な進展の可能性が噂されている。それは大使が早期和平を試みるという噂だ。

Clarkkerr_19390609peacetalk_deny

日本語訳

うわさを否定

ささやかれているイギリスの和平提案

東京(1939年)6月8日

駐華英国大使が、蒋介石に対して和平の道筋を開くために辞任を要求した、との噂が、今日の東京株式市場をかけめぐり、株式は全面高となっている。

上海(1939年)6月8日

駐華英国大使(アーチバルド・クラーク・カー)は、蒋介石将軍に和平の示唆をしてはいない、と公式に発表した。

以上、1938年の10月の蒋介石・クラーク・カー会談時と同様、日本側にはクラーク・カー大使に和平の望みを託す思いが記事となってあらわれており、イギリス側がうわさを即座に否定する図式が繰り返されている。



ここで横道に少し逸れるが、上記のクラーク・カー大使の伝記の中に、ギュンター・シュタインという名前が出たので、思い出した。以前の当ブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」で出てきた名前なのだ。そこで前の記事を読み返してみると、ギュンター・シュタインは、ゾルゲスパイ団の一員で、東京と中国を行き来して伝書係になっていた人物だった。ゾルゲスパイ団はクラーク・カー大使とも、日本の軍事情報について情報交換をしていたようだ。

以下、以前のブログ記事「テンピンルーとスパイゾルゲ」の中の文章を引用する。

上海のゾルゲ一派と日本のゾルゲ一派の間には無線連絡以外に、伝書使が行き来していたのも事実だ。

 

上に引用した永松の文章の中に、ゾルゲ一派の無線技師、マックスクラウゼンの妻、アンナが下着に隠してマイクロフィルムを長崎出港の船で上海に持ち 込む記述があった。映画のようなシーンであるが、ゾルゲ自身によって書かれた「獄中手記」(1962年みすず書房出版)によるとこう書いてある。

 

かくして、私はクラウゼン、クラウゼン夫人、ギュンター・シュタイン、そして彼女の女友達といった数名の者を、伝書使として使うことができた。1937年の初めから1938年の夏にかけて、私はこの連中を代わる代わる上海へ派遣して書類を運ばせた。

引用終わり


また、おなじく名前の出てきたエドガー・スノウは、共産主義を信奉するアメリカ人作家であり、後の毛沢東のプロパガンダにとって無くてはならない人物となった、この時期の彼は反日プロパガンダの片棒を担いでいた。




話を元に戻す。

今回、このように日英の文書を合わせ読むことで、クラーク・カー大使が近衛文隆に和平進展にプラスになるだろうとの望みをかけて、一回目は1938年10月に長沙にいる蒋介石に、二回目は1939年4月に重慶にいる蒋介石に会わせようとした、あるいは少なくとも中華民国政府を訪問させようとした、という仮説について、時期の整合性が裏付けられた。

私は、この二度目の蒋介石との会談への同行プランには、テンピンルーの推奨もあったと踏んでいる。英国大使館筋と日本側の人的関係は、中国権益と租界統治における対立的立場から難しいものがあったはずである。テンピンルーは、近衛文隆との交際を通じて彼の「人となり」を知る立場であり、また、父親が日本で教育を受けた中国人高等検察官、母親が日本人、そして英語を話せるという希有な人材であった。彼女の仲立ちがあったからこそのプランだったのではないだろうか。



しかし、日中和平の進展にいくばくかの望みを持っていたクラーク・カー大使は、その後1939年6月に入って、銃撃の恐怖にさらされてしまう。決して殺害には至らないのだが、恐怖を与える襲撃のやり方がなされたうようだ。下記に関連記事を掲載する。
Clarkkerr19390614_threats

日本語訳

大使への脅迫

クラーク・カー大使の安全確保を増強

上海(1939年)6月13日

駐華英国大使、アーチバルド・クラーク・カーの安全確保のため、特別警戒が取られている。これは、彼に対する殺害予告にもとづくものだ。中国人の武装警官が、彼の私邸のある和平通りに配置され、イギリス軍と警察官も増強された。大使がどこかに行くときは昼も夜も自動車とバイクに先導され、車内では防弾チョッキを着た武装警官にガードされた。

英国大使館は、先週の土曜日に思い当たることがあった。前回の脅しよりも今回の方が強いものだ。しかし、これが日本側の影響下にあるテロリストの行為なのか、天津租界の殺人容疑者を日本側に引き渡そうとしているイギリスに対する中国側の警告なのかを測りかねている。

この脅迫が行われた1939年6月は、影佐機関、ならびに上海憲兵隊長林秀澄らによる、近衛文隆や早水親重ら和平工作員の日本への強制帰国、テンピンルーと情報交換していた反戦和平派の花野吉平ら軍内文官の逮捕の流れがあった。


その後の影佐機関(梅機関)と、林秀澄率いる上海憲兵隊の傘下にあるテロリスト集団「ジェスフィールド76号」によるテンピンルー射殺の事実などを合わせて考えると、クラーク・カー大使への銃撃による脅迫は、日本側(影佐機関)による工作だと思われる。降ってわいたような、近衛文隆による蒋介石直接訪問および直接和平交渉プランは、影佐機関にとってはやっかいな障害物となったのだろう。



残念ながら、クラーク・カー大使による日中和平仲介につながる動きは、この銃撃騒ぎを境に全く見えなくなりなった。第三国を通じた日中和平はその後は行われた形跡がない。

そして影佐一派が進めていた「汪精衛・中華民国」、との和平が進められると同時に、「蒋介石・中華民国」、との戦争は継続される、という二重構造となった。そして、この構造は1945年8月15日まで続きくのだった。

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2013年6月 2日 (日)

ポイントオブノーリターン6

クラーク・カー大使の尽力もむなしく、1938年7月のイギリス議会は中国援助案を否決した。この時の中華民国側の落胆は相当なもので、「ソ連への結びつきを強化する」という、脅しに近い示唆もイギリスに対してなされる始末だった。

(このソ連へのアプローチの話は、以前にまとめた当ブログ記事 「上海防空戦 8」 を再読すると、あながち嘘ではないかもしれない。日本軍によって壊滅させられた中国空軍は、ソ連空軍の支援による立て直しを模索していた)

そのころヨーロッパでは、ヒットラードイツがチェコスロバキアのズデーデン地方を占領した問題について英仏独伊の4カ国がミュンヘン協定へ向けた会談を行っていた。その結果は、ドイツが既に占領したところは現状維持とし、その代わりに、新たな領土拡張を行わない、とするものであった。これは既に領土拡張を果たしたヒットラードイツの外交的勝利である。



中国大陸に置き換えると、日本のこれまでの占領地を認める代わりに新たな領土拡張は認めないという考えに結びつく。日本側はミュンヘン協定を肯定的にとらえ、中国側は外交的な警戒を強めたことは想像にかたくない。




そのような情況の中、1938年の10月14日、クラーク・カー大使は、長沙(ちょうさ)にいる蒋介石と会談するために上海を出発した。長沙は、中華民国政府のある重慶と、上海の中間地点にある都市だ(長沙の位置)。 蒋介石は、それまで軍事的な指揮をとる根拠地としていた漢口(現在の武漢)を、早晩日本軍が攻略することを見越して密かに脱出しており、長沙を新たな根拠地としていた。実際、10月12日、香港の北にあるバイアス湾に3万人の日本軍が上陸、香港を孤立させ、広東を占領、10月25日には日本軍は蒋介石が逃げた後の漢口を攻略した。

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(写真中央に蒋介石夫妻、左にクラーク・カー大使。Radical Diplomatより転載)

クラーク・カー大使の長沙滞在は、11月24日まで約1ヶ月続く長いものとなったが、蒋介石との最初の会談は11月4日になされた。会談内容は公式には残されていないが、彼の伝記「Radical Diplomat」によれば、クラーク・カー大使から蒋介石へ、反日テロリストの活動場所として、天津のイギリス租界を利用しないことを要求している。反日テロリストは、暗殺や爆発などのテロ行為の後に、中国警察や日本軍憲兵の影響力の及ばないイギリス租界へ逃げ込む事件が多発していたようである。おそらくこれは上海も同じ情況であったろう。

会談の二日前の1938年11月2日には、日本政府が「東亜新秩序」なる宣言を発表した。これは

「アジアはアジア人のものであり、欧米列強からアジア人の手に取り戻すべきだ」

という宣言で、満州、日本、中国が平和に手を結ぶことを呼びかけるものだった。蒋介石国民党陣営は、アメリカはもとより、イギリスからの支援もろくに得られない情況や、日本軍の圧倒的な軍事力の前に、日本との融和を求める声も出てきているタイミングだった。蒋介石は、クラーク・カー大使に対して、「もし日本が中国に勝てば、イギリスのアジアにおける地位は終わる」と警告し、危機感をあらわにしたようである。

さて今回のブログ記事「ポイントオブノーリターン」の目的の一つは、クラーク・カー大使が、近衛文隆を重慶に連れて行き、蒋介石、あるいは重慶側要人に会わせて日中和平の一助を担おうとした、という仮説の検証である。それは、繰り返しになるが、中山優氏が「近衛文隆追悼集」に寄せた下記の文章がヒントになっている。中山優氏は、満州建国大学教授で、当時の前の首相で父ある近衛文麿のブレーンの一人。父親文麿が長男近衛文隆の中国戦線慰問旅行の付き添いに指名した人物だ。

この慰問旅行は、1938年10月から11月にかけて行われ、満州、内モンゴル、南京、漢口、そして上海から日本へ帰国、というルートである。そして文隆が上海に滞在中にクラーク・カー大使から、おそらくは間接的に、誘いがあったとされている。

以下、「近衛文隆追悼集」より中山優氏の文章を引用

その頃(注:中国戦線慰問旅行をした1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが 日本の有力者に一度重慶を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するという ことで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は

「捕虜になってもいいから行きましょう」

という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した


引用終わり

このように近衛文隆が重慶に(あるいは蒋介石に会いに)行くチャンスがあったことは日本側の文献に2、3残されているのだが、ことの真偽は不明だった。今回、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」を紐解き、クラーク・カー大使が実際に1938年10月14日上海発で、蒋介石を訪問しているが明らかになったことで、彼が日本人記者を同行させようとしていたことの信憑性が高まった。そして最初に名前が上がったのは、毎日新聞の高石記者だったが、毎日新聞社がこの話に乗らなかったのか、何かの都合が悪かったのか、次に近衛文隆に白羽の矢が当たった、ということだ。

外交交渉のために国の要人同士が会談するときに、マスコミが同行することは現代では当然のことだが、当時もそうだったようだ。前回のブログ記事でも引用したが、ザ・ウエスト・オーストラリアン紙の1938年7月1日にはこう書いてある。


日本語訳

和平の仲介を否定

イギリス大使が語る

香港発 6月30日 

駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」

引用終わり

この記事は、クラーク・カー大使が搭乗した飛行機の中で、記者が聞いた話になっている。おそらく同行記者だったのだろう。


さて、偶然訪れた近衛文隆の蒋介石訪問、面談のチャンスは、付き添い人の中山優氏の慎重な判断によって実現しなかった。文隆はこの中国戦線慰問旅行から11月に日本に帰国した。


そして、翌年の1939年の2月に、今度は上海同文書院という日本人向け大学の学生主事という肩書きを得て、再び上海の土を踏むことになる。彼の悲劇的運命を決定づけた上海における日中和平への試みに、果たしてクラーク・カー大使が絡むのかどうか、を次回は検証してみたい。

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2013年3月17日 (日)

ポイントオブノーリターン5

クラーク・カー大使が香港滞在を短く切り上げ上海へ急ぐことになったのは、1937年末のあたりから、上海でのイギリスビジネス界への日本側の圧力が急速に強まってきたのと、日本軍による挑発が盛んになってきたためだ。

1937年12月5日、上海南方の街、蕪湖(ぶこ、ウーフー)を日本軍が空襲をした時に、3隻のイギリス商船が損害を受け、イギリス海軍レディーバード号にも砲弾の破片が当たる事件があった。一週間後、再びレディーバード号が挑発を受けただけでなく、ビー号も至近弾を受けた。この攻撃では、アメリカ海軍パネイ号が爆撃され沈没、乗組員に死傷者が出た(日本側は、偶発的な誤爆であると主張)。

一方、1938年1月4日には、上海で日本軍が行進しているときにテロリストが手榴弾を投げ込む事件も発生。日本陸軍上海憲兵隊は、共同租界内の管理強化をイギリスに要請していた。イギリスは、ヒューゲッセン駐華英国大使が日本軍機の機銃掃射を受けて帰国して以来約半年間、大使不在が続いていたため、さまざまな外交交渉で見劣りがしていた。そのような中でのクラーク・カー大使の早期着任要請だった。

1938年2月下旬に上海に着いたクラーク・カー大使は、情況分析に約1ヶ月かけた末に、蒋介石に会う準備を始めた。就任の挨拶ということになる。妻のティタも同行している。ちなみに、日本陸軍上海憲兵隊長の林秀澄が台湾から上海へ異動してくるのが3月1日付けなので、ちょうどこの頃のことだ。



クラーク・カー大使が蒋介石へ会うまでの旅程は次の通りだ。

上海を出て香港に到着、数日間を過ごしたあと、イギリス海軍の砲艦で広東へ。広東からは特別列車を仕立てて、800kmの鉄道の旅で杭州へ。杭州から飛行機に乗って、重慶空港に1938年4月9日に到着。空港からはセダンチェアーの馬車に乗って、急峻なガケを登り、中華民国の首都重慶の官邸街に到着。4月12日、公式に就任披露が行われた。

中華民国は本来の首都南京が日本軍に占領されていたため、重慶を首都と定めていた。

下の写真は重慶での就任披露での記念写真。おそらく蒋介石を除く重慶政府要人らだと思われる。最前列真ん中がクラーク・カー大使。Radical Diplomatより転載

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首都重慶で中華民国政府に挨拶を済ませたクラーク・カー大使は、今度は漢口(現在の武漢)にまで戻らなければならなかった。重慶には蒋介石はおらず、戦場に近い漢口で軍事的な指揮を執っていたのだ。クラーク・カー大使と妻ティタは、今度は揚子江を600kmも蒸気船で宜昌(ぎしょう)まで下り、そこから漢口への約300kmを飛行機で飛んだ。カー大使は、ソ連とアメリカの両大使と会談をした後、ついに4月24日、蒋介石と会談、夕食を共にすることができた。



蒋介石夫人の宋美麗はアメリカで教育を受けていたため、流ちょうな英語で通訳をすることができたことも幸いし、カー大使は蒋介石の考えに好印象を持ったようである。蒋介石側はクラーク・カー大使に対して、イギリスの対中支援が足りないと申し出るとともに、できるだけ長く漢口にいるようにうながした。英国大使がいる間は、日本軍が爆撃をしてこないだろうという算段である。逆に言うと、すでに漢口が、1938年春の段階で日本軍の爆撃の危機にあることを示している。



実際の漢口攻略戦と漢口爆撃は1938年8月から10月25日のことで、日本軍の占領で終わった。同時に、漢口爆撃の人的被害の写真がアメリカで大きくクローズアップされ、アメリカ人の反日意識が高まってしまう結果ともなった。

約5週間の長旅の末、5月1日にクラーク・カー大使一行は上海に戻ってきた。妻のティタにとってはとても重荷となった旅だったようで、彼女はその後の夫、カー大使への同行を拒むようになってしまった。30歳代半ばの彼女にとっては内陸中国で黄砂にまみれるよりは、上海のナイトライフを楽しむ方を取ったようだ。

一方、クラーク・カーは、漢口が日本の攻略作戦に晒されるまでに少なくとももう一度漢口の蒋介石のもとを訪れているようである。

The West Australian 1938年7月1日の記事にはこう書いてある。

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日本語訳

和平の仲介を否定

イギリス大使が語る

香港 6月30日 

駐華英国大使(サー・アーチバルド・クラーク・カー大使)は、本日、漢口へ向かう飛行機の中で、彼が和平の仲介をしているといううわさを否定した。彼はこう言った。「大使というものはポケットの中にいつも平和の旗を持ち歩いているわけじゃないんだよ。」


相も変わらずの和平仲介のうわさ記事だ。今度は英連邦オーストラリアの新聞に出た。英国にもなんとか和平に持ち込めないか、という期待感があり、それがこのような記事に現れるのだろう。

この訪問からほどなくして、蒋介石は漢口を脱出し、重慶を根拠地とせざるを得なくなる。

続く


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2013年3月11日 (月)

ポイントオブノーリターン4

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写真は上海の英国大使館に赴任したクラーク・カー大使(右から二人目)と妻のティタ(その隣)「Radical Diplomat」 より転載

ここまでの新聞記事を見た限りでは、日本側は、イギリスに日中の和平仲介の役目を期待していた一方、中国側は中国側からの和平仲介は望んでいない、という印象操作をしようとしていたことがわかる。

ところが、クラーク・カー大使の伝記「Radical Diplomat」の87ページに、どうやらそうでもないような記述があった。

以下引用

Since July the Chinese had appealed for British efforts to galvanize international disapproval and push for economic sanction against Japan. In addition, China hoped that Britain would lead an attempt to broker peace. Chamberlain was reluctant to be seen to do either with any alacrity: he also padded away Chinese requests for military and financial aid.


引用終わり


日本語訳

中国は、7月(注:1937年。盧溝橋事件のあった時期)以来、イギリスが、日本への国際的な批判と対日制裁強化を主導するよう、主張していた。
それに加えて、中国は、イギリスによる日本との和平仲介を望んでいた。チェンバレン(注:イギリス首相)は、そのどちらも簡単にできるなどと思われたくはなかった。それどころか、彼は中国からの軍事的、財政的支援要求を断った。


赤字で示した部分の証拠となる事実は、この本には見あたらなかったが、中国側にも日中戦争当初は、早期和平の希望もあったようである。しかし、そのことを中国は悟られたくはないために、新聞記事では強く否定することとなったようだ。

また、クラーク・カー大使の思いとは別に、イギリス本国のチェンバレン内閣は、この時点で中国への肩入れを避ける傾向があったようだ。これは、極東における日英軍事力のバランスが圧倒的に不利であること、来るべきヨーロッパ戦線に集中すべきと判断していたこと、アメリカの参戦を待っていたことが理由であろう。

さて、1938年2月17日、クラーク・カー大使は香港に到着した。その夜の歓迎ディナーで彼は、蒋介石夫人宋美麗の兄で、政治的にも経済的にも中国国民党の5本の指に入る実力者、宋子文と会っている。

宋子文は、1940年以降、たびたび日本陸軍の今井武夫が和平交渉をした相手、宋子良の兄でもある。ただし実際には、今井武夫は偽の宋子良と面会をしていたふしもある(「支那事変の回想」今井武夫著による)。

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上の写真は左側が蒋介石、右側が宋子文。「Shanghai  A Century of Change in Photographs 1843-1949」より転載



クラーク・カー大使は、香港に長めに滞在して、多くの現地在住イギリス人から中国情報を仕入れようとしていたようだが、上海での緊迫した情勢は、それを許さなかった。上海の英国大使館からの電話にせかされて、その月のうちに彼は妻のティタと共に、上海に上陸することとなった。




1938年の2月といえば・・・・・

近衛文隆を政治的に葬り去った日本陸軍憲兵隊の林秀澄が、台湾から上海への赴任命令を受けたのも1938年2月であった。

 ↓参考ブログ記事 「上海防空戦 8」

台湾初空襲の緊張もようやくとけた2月末のことだった。林秀澄は辞令を受けた。

「1938年3月1日付けをもって、中支那派遣軍 憲兵隊付き少佐に任ず」

 

中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。

 

林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。

 

その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。

引用終わり

林秀澄とクラーク・カー。

この時点で、知らない者同士の二人は、やがて互いを強く意識せざるを得なくなる。

続く

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2013年2月18日 (月)

ポイントオブノーリターン3

前回の記事では、クラーク・カー大使の中国赴任に関する記事と、写真を掲載した。それによると、彼の中国赴任は1938年1月早々のことと思われたが、実際には2月半ばのことのようである。

このほど、クラーク・カー大使の伝記を入手することができた("RADICAL DIPLOMAT" The Life of Archibald Clark Kerr Lord Inverchapel, 1882-1951 Donald Gillees 著)。当時の新聞記事だけでなく、この伝記を見ることによって、本当に重慶の蒋介石との直接和平交渉の道を開くために、クラーク・カー大使が近衛文隆を重慶へ連れていこうとしたのか、そのヒントが得られたらと思う。

まず、クラーク・カー大使の中国赴任の時期の確認の前に、彼の前任大使に対する銃撃事件に触れる必要がある。クラーク・カー大使の前任者たる中華英国大使は、ナッチブル・ヒューゲッセン大使であるが、ヒューゲッセン大使の退任は、突然訪れた。それは、日本海軍機による銃撃がもととなっていた。

1937年8月26日の午後、ヒューゲッセン大使を乗せた車両は、南京を出て戦火にある上海へ向かっていた。彼の車両の屋根には大きなユニオンジャックが描かれていた。ところが、その車両へこともあろうに、日本海軍機が機銃掃射したのだ。日本側は誤射を主張したが、ことの真相は不明である。

ヒューゲッセン大使は、腹に銃弾を受け、緊急手術で背骨付近から銃弾を摘出することとなった。幸い命には別状がなかったが、英国へ帰国せざるを得なくなった。このとき、まずいことに、日本海軍や日本政府は、面子にこだわり最後まで正式な謝罪をせず、むしろ事件のねつ造を訴える方途に出てしまった。

中国を巡るイギリスの立場と日本の立場は、1931年9月18日の満州事変のころより、既得権益を奪われるイギリス、奪う日本という相反するもので、もともと対日感情の悪いところに、これはイギリス人の反日感情にさらに追い打ちをかける事件となった。

そんな中での1937年12月にクラーク・カー大使の赴任決定である。彼が日中の戦争において、中国側に付くのは自然のことだろう。彼は中国での赴任の間、一貫して本国政府に対して、蒋介石中国政府への支援を訴え続けた。

目を日本の駐日英国大使に向けてみると、当時はクレイギーという大使が東京駐在だった。このクレイギー大使は、親日派であり、中国におけるイギリスの権益は日本との協調によって維持される、という自説を持っていた。このクレイギー大使とクラーク・カー大使はその後の対中国政策でことごとくぶつかることになる。

1938年の1月、クラーク・カー大使は、さまざまな中国専門家からレクチャーを受けた末、妻のTita(ティータ)とともにロンドンを出航、2月17日に香港に到着した。

前回の記事で、1938年2月8日東京電のオーストラリア カルガリー新聞記事が、「新しく赴任した駐華英国大使のクラーク・カー大使が、中国の面子を潰さず、同時に日本の権益も認めてくれるのでは」と日本側が期待している、と書いていたのを紹介したが、まだこの時点では、クラーク・カー大使夫妻は船の中、ようやく10日後に香港に到着するという時間軸だったことがわかる。つまり、日本はそれほどせっぱ詰まっており、洋上にいる新任大使に、和平の期待を抱いていたとも言えよう。

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2013年2月10日 (日)

ポイントオブノーリターン2

引き続き、アーチバルド・クラーク・カー大使というイギリス人大使による日中の和平仲介の動きがあったのでは?という仮説を検証してみる。1938年から1939年のことだ。

オーストラリア発行の新聞記事がネット上にアーカイブされていたので、そこから検証してみる。



まずはこの1938年2月9日の記事から。オーストラリア西部のカルガリーマイナーという新聞の記事だ。1938年2月というと、前年の12月に日本軍が南京を陥落させ、ようやく落ちついてきた頃で、1月には近衛文麿首相が、「今後、蒋介石を相手とせず」という傲慢な声明を発した頃のことである。

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日本語訳

仲介者としてのイギリス
日本ストーリー
東京 2月8日
香港にいる日本特派員の話によると、中国はイギリスに対し、日中和平の仲介役をしてもらおうと接近しているという。
この「日々新聞」特派員は、中国の首相Kung(注:孔祥熙。コウショウギ。蒋介石国民党政府の首相)は、最初の提案において蒋介石夫人を使っているという。「日々新聞」はまた、新しく赴任したクラーク・カー大使が、中国のメンツを潰さず、同時に極東における日本の立場を認めるなんらかの方策をもたらしてくれるだろう、と期待している。(この情報は、香港のいずれのイギリス情報筋でも確認されていない)

ロンドン 2月9日
在ロンドン中国大使は、イギリスに対する和平仲介依頼の話は確認されていないと述べた。

以上引用終わり


次に、翌日の2月10日、キャンベラタイムスの記事である。

Mediation19380210

日本語訳

和平仲介 最新のうわさ 

中国は日本の謀略だと言う

 

香港 水曜日

 

漢口と東京による否定にもかかわらず、中国におけるイギリスの和平仲介のうわさはさらに広がっている。これはクン首相(孔祥熙。コウショウギ)が、香港のイギリス総領事と夕食を共にした事実に端を発している。

 

中国当局は、このうわさは中国国内の分裂を目的とした日本の謀略だ、と発表した。

中国は続ける

ロンドン 水曜日

デイリーテレグラフ上海特派員は、オーストラリア人で蒋介石の相談役であるW.H.ドナルド氏の話として、「報道されているような、蒋介石夫人や親族関係者によるいかなる和平の動きも全くない」と語った。

「中国はやめない」、と彼は続けた。「新しい部隊がルンハイの前線に派遣され、ウーフーと漢口では反撃に出ている。広東では日本の南方への進出を食い止めており、反撃の準備が続けられている」とした。

引用終わり

中国側は、イギリスの仲介による和平の動きを完全否定している。この二つの記事から真実かどうかはわからない。日本側には、現状を追認した和平への期待があるようである。

ちなみに、クラーク・カー大使の中国赴任は、1938年1月初頭だと思われる(注:その後の調べで1938年2月中旬と判明)。下の写真では「このほど中国への新しい英国大使としてアーチバルド・ジョン・クラーク・カーが指名された」と、1937年12月28日付けのクレジット文が添付されている。写真は彼の就任披露のセレモニーだろう。彼の赴任後一ヶ月で、上記のような日中和平の仲介のうわさが広がったことになる。前任地はイラクで、中国の次に駐ソ連大使となり、戦後はヨーロッパ復興のための米国による援助計画「マーシャルプラン」のきっかけを作った人物だ。

Kerr1937  

アーチバルド・クラーク・カー駐華英国大使

Credit_of_photo_of_kerr

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2013年2月 5日 (火)

ポイントオブノーリターン

アーチバルド・クラーク・カー大使(Ambassador Archibald Clark Kerr)というイギリス人が、1938年から1942年の間、上海にいた。 駐華英国大使である。

カー大使というと、テンピンルーに詳しい方は思い付く人もいるだろう。


カー大使の名前は一冊の日本の文献に出てくる。「近衛文隆追悼集」がそれだ。現在は国会図書館でしか閲覧できないと思う。シベリア抑留で亡くなった近衛文隆の生前中の知人や恩師が彼について語った本だ。その本の中で、元満州の建国大学教授中山優氏と、近衛文麿前首相が和平のための密使として上海に送り込んだ早水親重の二人がカー大使に言及している。



まず中山優氏の方であるが、近衛文隆が父近衛文麿の名代として中国戦線慰問に訪れる際に、近衛公から息子の案内役に指名されたのが中山優教授だ。1938年10月のことで、約1ヶ月にわたり、満州から内モンゴル、南京、漢口、そして上海と回った。


その中山優氏の書いた追悼文より、該当部分をそのまま引用する。

以下引用

 その頃(注:1938年10月頃)、英国の駐支大使はカーという人であった。これが日本の有力者に一度重慶(注:蒋介石国民党の本拠地)を見せたい。そうして、国民党政府の真剣な実状を見てもらいたい。生命の安全は英国が保証するということで、丁度その頃上海に来ていた毎日新聞の高石真五郎氏にこの話を持ち込んだ。高石氏は行けぬが、文隆氏はいかがだろうということを、高石氏の部下のものがすすめて来た。文隆君は

「捕虜になってもいいから行きましょう」

という。私も食指が動かぬわけではなかったが、父君の依託もあるので、強いて止めて上海をつれ出した。

引用終わり

また、ネット上に、「中山優選集」の抜粋が掲載されおり、「近衛家の悲劇」の章で、同じようにカー大使に触れていたので、該当部分のみを引用する。

以下引用

 はじめ別な世界の人のようにおもつていた近衛公とその一家の人たちは、きわめて自然な、癖のない高雅な人たちであつて私には親しまれた。旅行中、文隆君が上海で毎日の高石真五郎氏に出あったら、英国大使のカーが、

「誰か日本人の有力者に重慶をみせて、日本人の認識を改めたい、安全は英国々旗で保証するから行かぬか」

というが僕にはその勇気がない、文降さんが行かぬかとすすめられた。文隆君は捕虜になる覚悟で行こうと主張するのを、私は役目がら漸く引つばつて日本に帰った。公爵夫妻も私の案内役を喜ばれたが、あの時、もし文隆君の主張に従つて二人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異ったものができたかも知れぬ。

引用終わり

次に、早水親重氏の追悼文の該当部分を引用する。

以下引用

 従って話は、打開の方途を考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合する事になり、蒋介石氏と直接交渉を開く以外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対するいたずら的謀略等もあった。

 また、当時英国の駐華大使たりし、パドリック・カー(注:原文のまま。本名はクラーク・カー)氏との会見で、「自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては」、との彼への示唆もあり、速やかに上京する事にした。

 五月下旬相次いで入京し、朝野に呼びかけ、当時参謀本部部員たりし、故秩父宮殿下にまで意見具申する等、共に情熱を傾け、一時好転の兆しも見えたが、かえって当局を刺激するところとなった。

 六月上旬、汪精衛氏等七人の要人が上京、直接陳情となって廟議(びょうぎ)は俄然その方向に傾き、六月五日のいわゆる対支処理要綱で直接交渉派の動きは一切まかりならぬ事とあいなり、万事休した。

 六月八日には近衛君は荻外荘(てきがいそう。近衛家の別荘)に軟禁、小生等二人(注:もう一人は武田信近。影佐機関と対立する小野寺機関所属)は東京より二十四時間以内に退去するようにと軍当局より命ぜられる事になった。小生の知る限り、近衛公に代わって直接交渉の道を開き、少しでも公の責任を軽くせしめんとした彼の雄図も、再び上海の土を踏めず破れ去ってしまった。

引用終わり

以上、二人の文章から読み取れることは、1938年10月頃に、クラーク・カー大使が日本人有力者を蒋介石のいる重慶に案内しようとし、たまたま上海にいた文隆に白羽の矢が立ったこと。そして半年後の1939年5月頃、今度はカー大使が近衛文隆氏を指名して、自らの斡旋により重慶へ案内し、蒋介石と直接交渉させようとしたことの2点だ。

そして、クラーク・カー大使の一連の動きからは、少なくとも1939年5月頃までは、イギリスには日中の和平を仲介しようという意図があったのかもしれない、とも類推される。


近日中に、当時の新聞記事から検証してみようと思う。

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2012年1月13日 (金)

上海租界の街路名

以下は、映画の合間などに流されていた「日本ニュース」の第161号 1943年7月6日版のニュースの項目である。

1、上海共同租界 還付調印成立

2、吾が潜水艦 盟邦独逸訪問

3、寺内総司令官元帥に(大東亜建設譜)

4、ジャワ日本留学生訓練所(大東亜建設譜)

5、印度独立連盟 比島支部(大東亜建設譜)

6、バンコック国庫貯金銀行 富くじ発売(大東亜建設譜)

7,タイ芸術局直営女学校の勉強風景



冒頭に、上海共同租界の還付調印式成立のニュースがあった。1943年、昭和18年の6月30日、南京で調印が行われている。下の写真はその映像の一部である。

1
(南京市において、汪精衛中華民国政府と日本政府の間で上海租界返還の調印が行われた)

2
(左側が谷駐中国大使、右側が褚民誼(チョ・ミンギ)中華民国外交部長)


この時のナレーションは下記の通りだ。

「上海共同租界こそは、米英の飽くなき野望の象徴であり、また彼らの東亜侵略の基地でもありました。100年の久しきにわたる中国民衆塗炭(とたん)の苦しみも今は昔。

6月30日、南京において日華基本条約改訂に基づき、上海共同租界行政権回収に関する取り決め、および了解事項の調印式が、日本側谷中華大使、中国側チョ民誼外交部長との間にとり行われました。

今回の上海共同租界の撤収は、真に中国解放を念願する帝国が、大東亜建設の道義性と実効性を余すところなく表したものとして、意義深いものがあります」


1842年、阿片戦争で中国が負けてから100年、イギリスとフランス、そして後からやってきたアメリカに牛耳られてきた上海。その上海租界が、日本が英米と開戦し、上海の共同租界(注:英米租界)、そしてフランス租界を接収したことでようやく解放された、という趣旨のニュースである。



今回このような引用をしたのはちょっとした理由がある。上海に赴いた際、ついでに不動産バブル崩壊情報の真偽を確かめようと、物件調査をしてみた。そして上海特有の街路名についてちょっとした新たな知識に触れることができたのだ。

Ruijin_hotel
(今回宿泊した瑞金ホテルと庭園。朝の散歩では鳥の声が清々しかった)




この12月末から年始に3日ほど上海をそぞろ歩きをしてきた。宿泊した瑞金ホテルの近くに思南路(しなんろ スーナンルー)という、落ちついたプラタナス並木の通りがあった。古い屋敷を再生した洒落たカフェやレストランなどもある。旧フランス租界のど真ん中の街路である。
2_2
(思南路のプラタナス並木。中国観光サイトから拝借)

日本へ帰国後、ネットでこの思南路の不動産を調べてみた。するとほどなく次のような物件広告の文章に出くわした。

「思南路原名马斯南路(Rue Massenet),始筑于1912年。就在该年8月13日,法国一位著名音乐家Massenet在巴黎去世。为纪念他,法租界公董局就将此路命名为Rue Massenet即马斯南路」

日本語訳

「思南路は原名を馬斯南路(マォスナンルー Rue Massenet ルー・マスネ)と言う。1912年に建設された。この年の8月13日、フランス人の著名な音楽家Massenet(注:マスネ)がパリで死去した。これにちなみ、フランス公薫局(注:こうとうきょく。フランス租界のフランス人による行政局)長が、この通りをRue Massenetと名付けた。それが馬斯南路である」

3
(洋館が残る思南路)

マスネというフランスの音楽家を検索するとwikipedeiaに、下記の説明が書いてあった。

ジュール・エミール・フレデリック・マスネJules Emile Frédéric Massenet, 1842年5月12日〜1912年8月13日)はフランスの作曲家 

オペラ で最もよく知られ、その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気があった。後にほとんどの作品が忘れ去られてしまったが、1980年代以来、時折リバイバルが起っている。その中でも、特に「マノン」と「ウェルテル」は、発表以来、世紀以上にわたって途切れることなく上演され続けてきている。

引用終わり

この物件広告文からわかったことは、フランスの何らかのつながりがある人物や物事にちなんで、街路名がつけられるのだということ。その街路名に対し、発音の近い中国語の漢字が当てられていることだ。




この思南路を北へ向かって歩き、テンピンルーも子供のころ遊んだという復興(フーシン)公園(旧フランス公園)までゆく。すると公園から西に出る通り、香山路(シャンシャンルー)がある。この通りも静かな落ちついた並木道だ。この通りの物件をネットで調べていたら、やはり次のような広告文が出てきた。

「香山路原名莫利爱路(Rue Moliere),为1914年法租界公董局修筑,以法国戏剧家莫里哀命名。1943年汪精卫政权接收上海法租界时改名香山路」



日本語訳

「香山路(シャンシャンルー)は原名を莫利愛路(モリアイルー Rue Moliere ルー・モリエール)と言う。1914年にフランス公薫局が建設したので、フランスの作家の莫里哀(モリアイ)にちなみ命名された。1943年、汪精衛政権が上海フランス租界を接収したが、その時に改名して現在の香山路(シャンシャンルー)となった」


1941年12月8日、日本は英米に宣戦布告、オランダと蒋介石中華民国が逆に日本に宣戦布告。日本軍は即日武力を持ってして上海の英米共同租界を接収。当時フランスはドイツ傀儡(かいらい)のビシー政権が行政を行っていたためか、フランス租界も抵抗なく接収した。



そして1943年6月30日、日本は汪精衛中華民国政府に租界返還を行った。汪精衛政権がまず行ったことの一つが、街路名の改名であった。フランス語の当て字である莫利愛路(モリアイルー)は、フランスとは無関係の名前、香山路(シャンシャンルー)となった。租界内の全ての街路が同様に改名された。

Photo
(冬の香山路)

香山路(シャンシャンルー)・・・・・・、この並木道を歩けば分かるが、当時もおそらく緑が豊かで、庭先の木々からは花の香りが感じられたはずだ。中国語名に改名するときの中国人行政官の思いがにじんでいるような気がする。まずは通りの名前から、欧米からの解放を始めるのだという思い。綺麗な通りのままでいてほしいという思い。とてもいい名前の通りだと思う。

日本軍の工作によりできた汪精衛政権は、内心忸怩(じくじ)たる思いで、傀儡(かいらい)政権の汚名を自らまといながらも、100年にわたる英米仏からの租界解放を実現させ、上海の中国回帰、一例としての街路名の改名を進めていたのだ。



私はテンピンルーの研究をしていて、かねてより、街路の名前が当時と現在で違ってしまっていることがとても不便に感じられてならなかった。街路名を把握するには漢字でまず二つ覚えないといけない。なおかつ、フランス語もしくは英語の街路名も覚えないといけない。全ての街路に三つの名前が存在するのだ。



そして、私は新しいほうの漢字の街路名は、戦後になって中国共産党政権が革命思想のもと改名したのだと思っていた。ところが違った。日本軍の保護下にあった汪精衛政権が名付けたのだった。歴史を知ることで、街路名が複数ある事実は受け入れることができるようになった。欧米支配者の名付けた街路に、後から漢字の当て字をする屈辱感をぬぐい去るのは当然のことだろう。



ところで、ネットで見ることのできる旧フランス租界の不動産広告文では、高級物件であればあるほど、かつてフランス語の街路名がついていたことを売りにしている物件が多い。かつての屈辱のあかしが、むしろ付加価値になる。歴史とはなんと皮肉なものなのだろう。

同時に、少なくとも上海の租界解放を果たした当時の日本。中国への新たな侵略者、という歴史的事実はある。しかし、欧米からの中国解放と、明治維新以来の日本的良さの伝播の思い、というものがもしかしたら一部あったのではなかろうか・・・?大東亜共栄圏思想の根っこの一本くらいには、そういう思いも込められていたのではないだろうか・・・?




1940年、「上海人文記」の「徐小姐のロケット(シュ・シャオチェのロケット)」の章で、映画プロデューサー松崎啓次は外連味(けれんみ)無く、支那の指導者たらんとする自分、そして指導者たる日本を描いた。

2012年、旧フランス租界を出でて、きらびやかな高層ビル街から一歩中国人街に歩み入り、その不衛生さと貧しさ、配慮の無さ、交通法規に対する無秩序さなど、21世紀の現在になってもいまだ解消されていない中国に触れるにつけ、そんな思いが一瞬頭をよぎったのも事実だ。

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2011年7月 7日 (木)

日本がかわいそう?

今日、テレビを見ていたら香港のブランドをあさっていく客の大半が大陸の、たとえば上海からの客らしいと。ひとつ100万円とか200万円のエルメスやヴィトンのバッグを平然と買っていく。Photo (長い行列のできる香港のルイヴィトン)


日本のテレビ局が一組の中国人カップルにインタビューをしていた。

福建省から来たという女性が答える。

「お茶の製造で当てました」

隣にいるその夫?がニコニコしながら続ける。

「先月は月給が370万円でしたよ。すごく儲かってます」

男性が続ける。

「日本は景気が悪いからかわいそうですね」

すると、女性がその言葉を遮るように、

「そんなこと言うんじゃないの!そんなことは言わなくていいの!」

としかめっつらをして叱る。

おそらく日本のテレビ局の取材だからと、日本人に気を遣ったのだろう。

この女性の行動はすごく印象深い。

昔、1930年代、支那の指導者役を自認した日本。めくらでかわいそうな支那のためにがんばるんだと。支那国民を苦しめる蒋介石と西欧諸国から支那を救うのだと。

その支那人は、歯を食いしばって、日本に追いつこうとした。それは絶望的に見えた。子供の頃の私の目には、絶対に無理だと思えた。中国人は、ずっと人民服で、自転車をこいでいるのかと思っていた。

天安門事件のとき、中国人は人民服を着ていないということを知った。

そして、今、日本はかわいそうがられている。中国人に同情と哀れみの目で見られている。

壮大なる平家物語。

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2011年6月 2日 (木)

上海福寿園

上海市図書館に行った前日、鄭蘋如(テンピンルー)の碑がある上海西郊の福寿園に行ってみた。上海中心部から地下鉄に乗って30分弱、遊園地などがある郊外の駅に到着。タクシーに乗って向かう。沼地や古い工場などが点在する寂れた土地にあった。

墓園に入ると、中は西洋風墓地で緑が豊か。日本ではあまり見られないタイプ。

Photo
西洋風の墓地、福寿園。いろいろな区画がある。

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かわいらしい女の子のお墓。このように墓石に生前の写真を見ることができるものが多い。

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小さなお子さんのお墓は、その写真が愛らしいだけに涙を誘う。

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墓園の中を大通りが通っていて、その逆側に渡ると、ピンルーの碑があった。
こちらの側の少し離れた区画ににはテレサテンの碑もあった。

しかし、少なくともピンルーの碑の回りには、墓石はほとんどなくぽつりと寂しそうに配置されていた。テレサテンの碑の回りにはいくつか墓石があったが、やはり閑散としていた。

ある程度有名人の墓や碑を配置して、その回りから分譲していく、という方針が見て取れる。

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このように、広大な芝生のスペースがいたるところにあり、墓石を分譲する区画となっている。奥に見えるのが博物館で、この墓園にお墓や碑がある方のゆかりの品が置いてあったり、ディスプレイで情報を見ることができる。ピンルーの未発表の写真も何点か見ることができた。戦後、蒋介石からピンルーの母、木村はながもらったという書も実物が飾ってあった。

最寄りの駅から乗ったタクシーの運転手が言うには、周恩来元首相の親族の所有の土地らしい。周囲は他に使い道のないような湿地帯なので二束三文の土地を開発したのだろう。

昨年、出来たばかりのピンルーの碑の前でマスコミを呼んで許洪新氏が自著の発行を宣伝した。そこにはピンルーの甥にあたり、たびたびマスコミに登場する鄭国基氏や、親族が来ていた。

しかし、ピンルーとは一番仲の良かったカリフォルニア在住の実の妹、鄭天如(鄭静知)さんは来ていなかった。

ピンルーの魂は果たしてここに安住しているのだろうか?多少の疑問が残らざるを得ないのも確かだった。







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