2009年6月27日 (土)

テンピンルーと早水親重

Photo_3 今回は、早水親重(はやみちかしげ)にスポットを当てる。彼は1939年の上海で小野寺機関に属し、近衛文隆や花野吉平などとともに日中の和平に向けて活動していた。

上海の歴史研究家、許洪新氏は2005年11月と、2006年4月に、ロスアンジェルスに住む鄭蘋如(テンピンルー)の妹、鄭天如さんに国際電話で取材している。早見親重の名前も出てきたようである。

「1930年代後半のある日、お姉さんと兄(おそらく鄭南陽)は、貝当路(フランス租界内、現在の衝山路)にあるホテルに出かけて行きました。その日は、早水さんと陳宝華(CC団幹部)との会談の日でした。

お姉さんは、「早水さんは学問ができてとても頭のいい方。ものごとの本質は何なのか、私に教えてくれる」と言っていました」

別の許洪新氏の記述によると、汪精衛政権樹立のきっかけとなった事件である汪精衛の重慶離脱について、早水親重からピンルーへ情報が伝わっているとなっている。ただし、情報元は不明である。

近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早見親重から、1938年8月にテンピンルーが聞いたことは、汪精衛の重慶離脱の情報だった。ピンルーはすぐに上司嵇希宗(けいきしゅう)を通じて重慶(蒋介石国民党の根拠地)に第一報を連絡した。続く1938年12月、再度報告したが、重慶ではその情報は無視された。12月29日、汪精衛は本当にハノイに向け重慶の蒋介石のもとから離脱した。この時以来、重慶ではテンピンルーの価値を認識するようになった」

次に、「張愛玲 色戒」という著作のある中国の歴史家、蔡登山の情報を見てみる。

「テンピンルーは早水親重の紹介によって、近衛文麿首相の息子、近衛文隆と知り合った」

とある。こちらも情報元は不明であるが、1939年2月に東亜同文書院の学生主事として上海へ派遣されきた近衛文隆とピンルーの出会いは、早水親重が取り持ったということなのだろうか。東亜同文書院で文隆の相談役であった小竹教授は、「近衛文隆追悼集」の中で、

「ある時、中国の高官の令嬢で、日本婦人を母とする女性が、これもしかるべき筋からの紹介で文隆さんに交際を求め、大学を訪ねてきたことがあった」

と書いている。この「しかるべき筋」というが早水親重であった可能性はある。

同じ「近衛文隆追悼集」には、早水親重も追悼文を寄せている。その書き出しはこうだ。

「近衛文隆君との初対面は、などというと、いかにも形式的で堅苦しい感じがする。近衛君を知るものにとっては、むしろ出会いと言った方がぴったりするんだが、その出会いは、多分昭和14年(1939年)の早春の頃、上海の同文書院の学生主事室に訪ねた時だったと思う。日支事変もいよいよ長期戦の様相を帯び、いわゆる近衛三原則の呼びかけも、汪精衛氏ら一統の呼応もあったがこれで問題解決にはならず、事態は益々底なしの泥沼に落ち込んで行くとしか見えない時で、直接交渉(注:蒋介石との)の観点に立って、なんらかの打開の道無きかと種々画策しつつあった私としては、近衛公は、かかる事態をどう処理して行こうとして居られるのか、令息の文隆君に聞くしかなかろうと、同じ思いの武田信近君を伴い訊ねたのであった」

(中略)

「従って話は、打開の方途を共に考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合することになり、蒋介石氏と直接交渉を開く意外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対する悪戯的謀略等もあった。又、当時英国の駐華大使たりし、パトリック・カー氏との会見で、自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては、との彼への示唆もあり、速やかに上京し日本朝野の認識を改めさせねば、事が間に合わなくなると痛感、三人協議の上、上京することにした」

引用終わり

早水親重は、当時小野寺信ひきいる小野寺機関に属していた。小野寺信は参謀本部ロシア課が上海に送り込んだ、蒋介石との直接和平交渉派である。そしてテンピンルーは小野寺機関で翻訳の仕事を得ていた。ピンルーが早水の紹介状を持って文隆を訪ねた、というのはありえる話だろう。

ところで話はすこし脇道にそれるが、上の早水の文章中にある「機関関係者の悪戯(いたずら)的謀略」とは一体何を指すのだろうか。ひとつ考えられるのは、西木正明氏の「夢顔さんによろしく」というノンフィクション小説にも書かれている、ピンルーによる「近衛文隆誘拐事件」のたぐいを指しているのではないかと思う。(許洪新氏も自著で引用している)

独自の和平運動を展開する文隆を、影佐機関はピンルーから切り離し、上海から追放したくてしょうがなかった。1939年5月、影佐禎昭の命令を受けて、上海領事の岩井英一が外務省あてに打電した、文隆の上海生活を勝手に作り上げた謀略電報の存在は岩井本人が明かしている(岩井英一「回想の上海」)。

”近衛文隆は、今晩も東亜同文書院の宿舎を抜け出し、ピンルーとダンスホールで踊り、飲み明かし、朝帰りになりそうだ・・・”、という情報をもとに(当時、ピンルーや文隆には憲兵隊の尾行がついていた)、大捜査網を敷き、「敵方の地下工作員による近衛文隆誘拐事件発生」としてでっちあげ、おおげさに言い立てた・・・。岩井の打った電報は「近衛文隆の存在は百害あって一利なし」で終わっている。事実がどうだったか私には分からない。しかし「いたずら的謀略」とあえて言うからには、このようなことを指しているのかな、と思う。

西木正明氏は、大胆に類推して、ピンルーによる文隆の監禁の模様をストーリーとして書き込んでいる。小説のストーリー部分を中国の歴史研究家が引用し、そのネット上の中国語文章を翻訳して日本で再び引用し、というキャッチボールをしていると、いつの間にか歴史の真実のようになってしまうことがある。こういうことは注意せねばならない。

実際のところ、岩井栄一の謀略電報は功を奏して、閣議決定により1939年6月、文隆は上海から去らざるを得なくなり、ほどなくして徴兵され兵士として満州に向かった

悪戯的謀略としてもう一つ考えられることは、東亜同文書院の小竹教授が「近衛文隆追悼集」で、文隆の帰国の理由として挙げていた「近衛文隆暗殺未遂事件」である。南京路で文隆と間違えて銃撃事件が発生していた。小竹教授は文隆の身の危険を案じ、泣く泣く帰国を促したとある。この人違い銃撃事件なども謀略的な臭いがする。影佐機関による文隆への無言の圧力、脅迫のたぐいだったかもしれない。

さて、話を元に戻し、もうすこしだけ早水親重が「近衛文隆追悼集」に寄せた文章を見てみる。

「昭和17年の夏頃だと思う。あくまで素志を貫徹すべく、もはや直接交渉の段階ではなく、できれば中国を介して連合軍との和平交渉にあたるべきだとし、再び上海におもむく事にした。満州を経由して行く方法がついたので、明日もわからぬ小生にとっての別離を兼ねハルビンに回ることにした。かねて友人を通じて阿城(注:文隆の赴任地)に連絡してあったので、一日間の外出許可があり、久しぶりで彼(文隆)の温容に接した。

前記の次第を述べたところ、非常な賛成で、彼の知る米国のことどもを語り、種々なる示唆もあって全く語り明かしてしまった。君の代理で最後までがんばると幾度も語り合ったものであった。ハルビン駅頭、互いに健康を祝し、南北に別れたのが最後になってしまった。いまもなお、昼下がりの満州の太陽のもと、手を振りつつ行く彼の軍服姿が目に焼き付くようだ。

昭和19年、東条内閣総辞職後、土井章、栗本両君らと、中国を介して連合軍との和平交渉の道をあけ、近衛公に取り次ぎ、公の代理として、水谷川氏らと共にこれ努めたが、ついに軍の反対で成らず、その間文隆君がいてくれたならば、と思わぬ日はなかった」

引用終わり

昭和19年の和平工作では、近衛文麿の代理としてと明確に書いてある。早水親重は近衛文麿の和平交渉代理を務めることができるほどの信頼を得ていた人物であったようだ。このことから、許洪新氏の書いている「近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早水親重・・・」という文章にも信憑性が出てくる。

これは、日中の戦争開始に大きな責任を負うべき近衛文麿は、裏では和平の糸口をつかもうと、主流の流れとは違った線から早水親重のような人物を上海に送り込んでいた、ということだ。近衛文麿首相の複雑な思いがかいま見える。

最後に、戦後の早水親重に触れた文章を発見したので紹介したい。1945年12月、敗戦の日本に取材に来ていたアメリカの新聞社「シカゴ・サン」紙の記者、マーク・ゲイン氏による「ニッポン日記」(日本語版 1963年 筑摩叢書)である。この日記の1946年9月26日の冒頭を引用する。

「(昭和21年)9月26日  茨城県磯原村

10日前、私たちは東京を離れてこの県下への旅行に出た。しかし今では、なんだかそれが永遠のかなたのような気がする。二台のジープに食料、ガソリン、毛布、それから5人の乗客を満載して出発した。5人の乗客とはサリー、ジョー、ロイ、私、それに私たちの案内をつとめてくれる早水親重である。彼は詩人であり、舞踊家であり、素人力士であり、中国で特殊な任務をしていたことがあり、内閣の相談役でもあるという多彩な男だ。

私たちの第一の関心は農地問題であり、国家主義の地下組織であった。そして最初の五日間は早水の有能な裁量に一切を任せた。彼は私たちの旅行日程をつくり、地主、国会議員、町村長、村の役員たちとの会見の順序を手際よくきめてくれた。

この五日間、私たちの本部は丘の上にある、ある地主の邸宅の庭に面した豪奢な一続きの座敷だった。庭には池の精のような樹木の間に花が咲き乱れ、くちばしから水を吹き上げる青銅の鶴の噴水がある。久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)もかつてこの座敷に滞在したことがあり、「宮様のお座敷」と呼ばれていた」

(ブログ管理人注:このある地主の邸宅とは、水戸徳川家の休憩所「観海亭」として使われ、磯原御殿とも呼ばれた野口雨情の生家だと思われる。今は近くに野口雨情記念館がある)。

引用終わり

マーク・ゲインの日記からは、早水親重が多方面に才能があり、内閣、農村の重鎮や旧家に人脈があったということが伺える。中国で特殊な任務をしていたとあるが、近衛文麿の密命を帯びた上海での和平工作のことであろう。

このマーク・ゲインという男、満州とモンゴル国境の町で生まれたロシア系ユダヤ人であるが、FBIの捜査によって、ソ連の共産スパイだったことが判明し、後にアメリカとの二重スパイとなることで釈放される、という経歴を持っているようだ。

さて、早水親重であるが、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」 でも書いたように、1939年7月、日本から上海に戻ったところを逮捕され、汪精衛政権が誕生する翌年4月1日まで地下室につながれた。

この逮捕劇を主導した上海憲兵隊特高課長、林秀澄は、早水の釈放に際し、「今まで取り調べもせずに約10ヶ月以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい」と開き直っている。そしてピンルーの消息を尋ねる早水に対し、「「今まだテンピンルーのことをかれこれ言われますとぶち込みますよ」と脅しましたと述べている(林秀澄談話速記録Ⅲより)。

林秀澄は、もう時効だと判断したのか、昭和52年、木戸日記研究会の取材に対し上に書いたように正直に告白している。早水親重ら小野寺機関員や花野吉平らを逮捕監禁したのは、作り上げられた罪、冤罪(えんざい)、あるいは国策捜査と言われるようなものだったのだ。国を主導する者が憲兵隊や検察を使って、ある人物を目的をもって逮捕、ほとぼりが冷めるまで監禁する・・・。ひょっとしたら今でも似たようなことが行われているのかもしれない。

| | コメント (0)

2009年6月22日 (月)

鄭蘋如(テンピンルー)像、中国で除幕式

Photo 上海市郊外の墓園、福寿園というところに、鄭蘋如(テンピンルー)の銅像が完成。2009年6月7日に除幕式が行われた。構想から2年ほどたっての完成である。除幕式にはピンルーの甥で、しばしばインタビューに答えている上海在住の鄭国基氏と、おそらくピンルーの兄弟の孫世代、そして古い友人、死の直前まで住んでいた万宜坊の人々、歴史研究家など100名ほどが集まったようだ。また、アメリカ在住のピンルーの妹、鄭天如(現在の名前は鄭静知)さんや、弟の妻、鄭陸肇氏も除幕式に感謝状を贈っている。

ちなみに、福寿園は53ヘクタールもの広大な公園墓地で明るいタッチの墓石やデザインに凝った墓石で世界の最先端を行っているらしい。

(下の写真は福寿園内のテレサテンのお墓)

Photo

Photo_4

ピンルーの像は見ての通り、身体は斜めになり、両手が交差している。この銅像を作った著名な彫刻家唐世蓄氏によると、死の15秒前のテンピンルーということだ。手を縄で縛られ処刑場所に連れて行かれようとしているピンルーらしい。貞節と永遠の美しさを表した、ということだ。事前に私が予想したのと違って、少し悲しいデザインの像である。像のうしろを見ると、丁黙邨暗殺未遂事件の現場であるシベリア毛皮店と思われる写真をもってきている。これはちょっとどうかと思うが、ここ福寿園では日本人の感覚では考えられないような趣向をこらしたデザインのお墓ばかりなので、これもありなのだろう。

この除幕式は、このブログでも何度も情報を引用している歴史研究家、許洪新氏の新刊の発表も兼ねていた。本のタイトルは「一个女間諜」=「一人の女スパイ」。もしかしたら出版社が銅像の資金協力でもしてるのだろうか。

Photo_5

ピンルーの母親木村はなは、戦後台湾に渡り、1966年に亡くなったが、死に際して蒋介石直筆の額に入った書をもらっている。これは日中混血でありながら、ピンルーの自己犠牲的な行動、上の弟が空軍に入隊して戦死していることなどから、母親として子供に対する愛国教育が模範的であった、という意味の感謝の書らしい。これを鄭国基さんと妹鄭天如さんが話し合った結果、福寿園内にある人文記念館に寄贈することになったようだ(上の写真)。

Photo_6

銅像の足許には、ピンルーの生まれた年と亡くなった年月が刻み込まれた。これまで中国側の定説ではピンルーは1918年浙江省生まれとなっていた。この銅像の建立をもって、彼女は1914年生まれと公式に刻み込まれた。それはとりもなおさず彼女は、「日本生まれ」の女性ということである。彼女ら一家は1914年時点では今の東京都新宿区に住んでいた。それは父親鄭鉞(テンエツ、ツェンユエ)の法政大学留学時代の住所録によって明らかなことである。一家は1917年に中国に渡っている。父からしたら帰国であるが、はな、ピンルー、そして上の弟海澄からしたら生まれ故郷の日本から中国に渡る、ということである。

中国側のサイトに書かれない事実が二つある。

一つは、ピンルーが日本生まれということ。

二つ目はピンルーが日中の混血だったために中国人のクラスメイトからいじめにあってきたこと。

逆に、中国側サイトが常に強調することがある。

それはピンルーはあくまで抗日烈士だった、ということである。

抗日の英雄、ピンルーは中国生まれであるべきだろう。そして、中国人愛国者たちが抗日の英雄を差別したりいじめることなどありえないだろう・・・。そう思いたいのは分かる気がする。

共産党独裁の中国が、蒋介石国民党の地下組織で働いたテンピンルーを抗日の英雄としてたたえる。一昔前は考えられなかったことだ。中国の歴史教科書では、身を挺して日本と戦ったのは国民党軍でなく共産党軍なのである。

おそらく最近の中国共産党と、台湾の国民党政権の友好的な関係が影響しているのだろう。中国共産党は、対台湾政策に余裕を持ち始めている。

それでもやはりピンルーは蒋介石国民党の、今の状況で言い直すと台湾側の人間である。そこで、中国共産党、蒋介石国民党共通の敵、大日本帝国が必要になるのだ。今回の銅像のバックにある看板にもお決まりのように、「抗日英雄」という文字が見える。「抗日」を持ち出すことで、中国共産党と、台湾国民党は一つの場で安心してピンルーを語ることができるのである。

ピンルーが抗日活動をしていたことを私は否定しない。おそらく抗日の人だったろう。残酷なほどに中国を荒らし回る日本軍を追い返したかったろう。しかし、彼女に半分流れる日本人の血はないがしろにするべきではない。彼女は生粋の中国人のような単純な抗日ではありえない。ピンルーを半分は日本人として捉えることで、彼女がかかえていた闇に光が当たる。それは日本人研究者の役目だと考える。

いずれにせよ、家族の元に遺体を返してもらえず、お墓のなかったピンルーに、魂の安住の地ができた。うれしいニュースである。

| | コメント (0)

2009年6月10日 (水)

夜来香3年目

210523 上戸彩「李香蘭」とは切っても切れない縁のある花、夜来香(イエライシャン)。正確に言うと、月下香とも言うチューベローズがドラマで使われました。2007年1月のプレス発表の席でも、李香蘭こと山口淑子氏が上戸彩さんにチューベローズの花束を渡しています。歌の「夜来香」では歌詞の中に、「白い花」と出てきます。学術名の夜来香をたどると黄色い花になってしまうので、以下、夜来香=白い花のチューベローズ、ということにします。(上の写真は今年5月5日に植えた夜来香の芽です。5月23日撮影)



初めて夜来香を植えたのは2年前。植えるのが遅かったのですが、なんとか花が咲くまでいって、素晴らしい香りをかぐことができました。夜来香の過去の記事はこちら

で、その後は、ずぼらな私はかわいそうなことに、咲き終えた夜来香を放置してしまいました。本当は、堀上げ、といって球根を掘り出して保管しておくらしいのですが、10月に咲いた後、そのまま枯れるにまかせて、ベランダに置きっぱなし。土も乾ききってしまいました。

ところが、生物ってすごい生命力ですね。翌年の梅雨時のある日、集中豪雨があって、横殴りの雨でベランダの奥の方まで雨水が届き、鉢にも水が来たのです。その一週間後くらいに、緑色をした小さな芽がいくつか乾いた土から出てきたのです。

驚いて、そらからは水やりをしっかりして、太陽にもよく当てるようにしました。すると数多くの芽がどんどん出てきました。鉢の大きさと、土の栄養からいって、5本くらいの芽を残してあとは芽かきをしないといけないので、大きいのだけ残して、次から次に出てくる芽を毎日毎日取り除きはじめました。栄養を集中させないと花を咲かせるエネルギーが足りなくなるからです。

ところが、生物の生命力に負けました。止めどなく出てくる芽に、芽かきがとても追いつかず、もう自然に任せることにしました。というか、一つ一つの芽が、「私を刈り取らずに育ててください!」と言っているようで、だんだんと芽かきができなくなったのです。もういいや、全部育ってしまえ、と思って水と肥料を与え続け、太陽にいっぱいあてて、秋になりました。夜来香の花の咲く季節です。

結果は、予想通りでした。芽かきしなかった芽はそれぞれ勝手に育ち、乱雑に葉を出しまくりました。栄養を与えたつもりでしたが、足りませんでした。葉を出しただけで、9月になり10月になり、11月になっても茎が出て来なかったのです。一本も。

12月になりました。寒風が葉っぱだけの夜来香を冷たくさせていきました。2年目の夜来香は花を咲かせることもなく、茎すらも出さず、枯れてゆきました。


でも、私には希望が残っていました。この年に得た栄養は絶対来年に活かされるはずだと。Photo 今年の5月になって、おそるおそる、鉢の土を出して、球根を取り出してみました。驚きました。すごい数の球根です。元々の一つの球根に10個くらいの子供の球根がくっついていました。すごいプレゼントです。(上の写真)

その中から大きい順に5個を自分用に確保。もう5個を実家の両親にプレゼントしました。そして去年よりも一回り大きい鉢を買って土も新しく買っていっぱい入れ、5月5日こどもの日に植え付けました。

210531 2年前に通販で買ったときの最初の球根より一回りから二回り大きな球根です。きっと今年はりっぱな花が咲くと期待しています。写真は芽が出て1週間目くらいの夜来香。かなり元気です。


































| | コメント (0)

2009年4月22日 (水)

続 「川島芳子は生きていた!?」

一応タイトルに、!と?を付けさせてもらいました。

(注:4月18日記事「川島芳子は生きていた」を見て に追記をいれております。青字の部分です。ご覧ください。)

2009年4月20日、中国のネットニュースサイトである、「人民網」に、川島芳子の記事が載っていた。人民網は、中国共産党機関紙「人民日報」のネット版である。つまり、国の思想、政策を国民に伝える宣撫、広報機関である。宣撫目的のため、中国人からも「題名と日付しか合っていない」と皮肉を言われる新聞のようであるが、政府、共産党の公式見解を伝えるメディアとしてやはり重要性があるとも見られている。

先日のテレビ朝日の放送と歩を合わせたような記事であったが、独自の内容もあったので、こちらで3つほど紹介したい。もしかしたら、テレビ朝日でも同じ情報を得ていたのかも知れないが、なんらかの理由で、あえて放送を控えたか、本当に時間が無かったか、そのような情報はそもそもなかったか、いずれにせよ放送されなかった部分である。

1. 李香蘭こと山口淑子氏は、「川島芳子以外の何者でもない」と語る?

テレビ朝日の放送では、画家でもある張鈺(ちょうぎょく)さんの描いた方おばあさんの絵をみて、「これはお兄ちゃん」(注:お兄ちゃんとは李香蘭から見た川島芳子の呼び名)だという山口淑子氏の発言を得ていた。しかし、もしこの絵を張鈺さんが、川島芳子の写真を見ながら描いたとしたら、似ていて当たりまえである。これは残念ながらなんの証拠にもなっていなかった。

ところが、人民網の記事では、張鈺さんが山口淑子氏に、方おばあさんの生活習慣や住居、茶室の装飾を伝えると、山口氏は、「それはお兄ちゃんだ」と言ったというのだ。となると話は別である。そして、取材者があらためて山口氏に「方おばあさんは、川島芳子でしょうか?」と訊ね、山口氏が「それ以外考えられない」と答えたというのだ。

山口淑子氏によって15分と制限された取材時間は、結局4時間に及んだという。しかし、山口氏が本当にそう答えたかどうか、我々には確認のしようがない。


2. 筆跡鑑定の結果、方おばあさんは、川島芳子だと・・・

張鈺さんが言うには、方おばあさんは、張鈺さんを描いた肖像画を一枚描いたらしい。そしてそこにはかすかに、”姥留念”(うばの記念、という意味)という三文字が書いてあった。吉林省の筆跡鑑定家である郭相武が、その三文字と、川島芳子が川島浪速に宛てた手紙の文字を比較したところ、癖が一致しており、その癖は、偽者が思いも寄らないものであり、同一人物だと認定したらしい。


3. テレビ朝日の放送では、寺に安置してあった方おばあさんの物と思われる骨片が、なんらかの妨害工作により入手できなかったとなっていたが、実際は、骨片を調査しており、その骨は完全に焼却されていたため十分なDNAが採取できなかったということである。

以上が、テレビ朝日の放送で提供された情報以外の部分である。そのほか、たとえば日本側の骨格鑑定調査の結果なども記載されている。歴史調査は往々にしていいとこ取りをしがちで、海外にそれを見つけると、お互いが知らないうちにキャッチボールをしていることがある。今回の中国側調査の結果は、ほぼ100%、方おばあさん=川島芳子ということのようである。

さて、冒頭にも書いたが、人民網は人民日報なる中国共産党機関紙のネット版である。その記事は、政府・中国共産党の意志、政策、思想を国民の間に浸透させる目的を持っている。この川島芳子の記事はいったいどういう意図があるのだろうか。

あるいは、三面記事的、娯楽的要素を持った記事なのだろうか。もしかしたら政治的な要素抜きに、本当にそうなのかもしれない。

記事は、しっかりと最後に囲みで川島芳子のプロフィールを以下のようにまとめている。あくまで川島芳子は中国にとっては悪人であることでは一貫している。

東方の魔女 川島芳子(1906〜1948)

彼女は敵を味方と取り違えて、日本軍国主義の暴威を頼り、清帝国復活の甘い夢を実現するために日本のスパイになった。“男装の女性スパイ”と称されて、満州傀儡政権を画策する日本と、国民党との間に立って、秘密兵器となった。日本の中国侵略戦争で重要な作用を発揮。満州事変、満州の独立などの重大な秘密活動をして、国内外を驚かせ、第一次上海事変で売国奴的な活動をした。日本の諜報機関の一枝の花。

| | コメント (8)

2009年4月18日 (土)

NHK土曜ドラマ「遙かなる絆」スタート

Photo_2

NHKで毎週土曜全六回、夜9時から2時間ドラマとして放送する「遙かなる絆」。

これはお薦めです。原作本の「あの戦争から遠く離れて」を読み、満州に取り残された日本人孤児の実情を知ると共に、置き去りにされた孤児を我が子のように育てた中国人の養母、そして文化大革命の恐怖を知りました。実話にもとづくドラマです。ユンチアンの「ワイルドスワン」も文化大革命を知ることの出来る本でしたが、日本人の実体験にもとづくものは初ではないでしょうか。

演出は、「エトロフ遙かなり」の岡崎栄。

楽しみです。

(以下は、番組視聴後に記載)

で、さっそく第一回を見てみた。しっかりした作りのドラマということは予感させるのだが、第一回として、グッと引きつけるものがなかった。それは、主人公の孫玉福、つまり、残留孤児である城戸幹さんを、原作者である娘、城戸久枝さんが、「父」という三人称で解説をし始めるという番組構成に対する違和感が原因だと思う。

ドラマが始まり、子供時代のちっちゃな主人公、孫玉福(城戸幹さん)に感情を移入し始める。すると突然、現代の場面になって、実の娘役の鈴木杏さんが、孫玉福を「父はこのときはなになに」などと、解説し始める。

孫玉福、そして育ての母に感情移入しつつある私は、突然誰かに観察されて感想を述べられている気がして、なんともばつの悪い気分になり、「そうだ、わたしは視聴者、孫玉福は孫玉福、今の声は娘役の鈴木杏」と、冷静に、客観的な自分に戻らされてしまう。このドラマは、父城戸幹ではなく、娘城戸久枝に感情移入すべきなのだろうか。

原作を読んだ時は思わず涙したものである。原作では、第一部で、孫玉福が育ての母親の愛情をいっぱいに受けて、困難に立ち向かう様がノンフィクション小説のように書かれ、第二部で、娘であり原作者である城戸久枝さんが、父親の足跡をたどる、という完全分離の本になっていた。

テレビではどうやら、娘の目線を常に用意して、過去と現在を行ったり来たりするようである。第一回目は違和感があったが、次回以降どうなっていくか、続けて見てみたい。

| | コメント (0)

「川島芳子は生きていた!」を見て

コメント頂いたcountryさんのご好意に甘えて、ビデオを送って頂き、さきほど番組を全て見ることができた。

まずもって、この番組が科学的検証を重視しようとする姿勢には共感が持てた。同時に、いい悪いは置いておいて「川島芳子は生きていた」という前提のシナリオがあからさまでもあった。「川島芳子はやはり死んでいた。」では企画そのものが通らないし、この番組の製作に入れないからそれは仕方ないところもある。

前回の記事で、孫と書いた張鈺(ちょうぎょく)さんは、よく考えてみれば血のつながりがあるはずもなく、方おばあさん、こと川島芳子に孫のように育てられた人、ということだった。この張鈺さんを最初から最後まで登場させることで、番組の芯のようなものができていて、真偽のほどはともかく、わかりやすく見やすい構成になっていた。

私が最も注目し、唯一証拠足りえると感じたのは、川島芳子の処刑写真と生前の川島芳子の写真にもとづく骨格鑑定、法科学鑑定研究所による分析である。それによれば処刑された人物と川島芳子が同一人物である確率は1%以下、ということだ。これが本当なら、替え玉が川島芳子の刑死写真として使われたとみていいだろう。しかし、この鑑定の作業工程が少しだけ番組で見れたが、プロットする点をわずかにずらすだけで、骨格ががらりと変わる。また、なによりも、替え玉刑死写真の存在は、それだけでは、川島芳子が戦後ずっと生きのびたことの証明にはならない。

残念ながら、DNA鑑定と指紋鑑定は、材料の不足によって不可能だった。「川島芳子は生きていた?」の問いに対する答えは、「おそらく処刑を逃れた」、と言う意味に置いては、骨格鑑定がすでにイエスの確率が非常に高い、という結果を出した。それ以外の、張鈺さんの記憶による再現ドラマや、遺品や歌の披露、いつくかのインタビュー、来日して李香蘭に会うなどの番組構成は、生きのびた後の川島芳子を浮かび上がらせるという肉付けの部分となろう。

この肉付けの部分は、正直言って生きのびた川島芳子を確信させるものは無かった。いじわるを言えば、遺品として提示されたものは、骨董品と言えるものである。どこにでも骨董品市場がある。私も、李香蘭の1940年代のSPレコードを2枚と1920年代製作のグラモフォン(蓄音機)を通販で買ったことがあるが、李香蘭のレコードでいえばインド製のコピーが多く出回っていて、レーベルを見ればわかる。レコードには番号が振られている。コロンビアの「蘇州の夜」は100333bである。これは番組で出てきたレーベルでも確認できた。100333aならA面で「乙女の祈り」が収録されている。今回出てきたレコードは本物である。しかしそれが川島芳子から張鈺さんへ渡された物、という証拠はどこにもない。

また張鈺さんの持っていた蓄音機は非常に珍しい物で、初めて存在を知った。大量生産品にはあのような形のものはない。旧日本海軍では、造船所などの軍需産業に、半ば強制的にほぼ決まった品の寄贈をさせていて、その目録は国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている。その目録を見ると寄贈品のトップのほうに必ず蓄音機が入っている。他には卓球用具やサッカーボール、冷蔵庫や扇風機、おもしろいものでは相撲ふんどしも必ず入っている。長い船上生活での娯楽という意味があったのだろう。

今回見た蓄音機はいかりのマークが入っており、旧日本海軍への寄贈用に作った特注品の可能性がある。これは軍に通じるルートを持った人にしか手に入らない物だと思う。これを張鈺さんが持っているというのは、彼女の親、親戚あるいはもしかして方おばあさんが、旧日本海軍関係者につながる何かを持っていた可能性を示している。

(注:2009年4月25日追記)    改めて番組録画を見て調べてみたところ、この碇(いかり)のマークは旧日本海軍の碇マークとはデザインが異なり、旧日本海軍とは無関係なことがわかりました。

Japanese_navy_mark_3  こちらは旧日本海軍が使用していた毛布に印刷された碇マーク

Photo_3こちらは張鈺さん所有の蓄音機のサウンドボックス上の碇マーク。縦棒の途中に丸いふくらみが入っている

番組では、専門家の意見として「日本の海軍専用に作られた高級蓄音機」と説明されていましたが、サウンドボックスと呼ばれる、針のついている丸い装置、をスローで何度も見たところ、「瑞康洋行」(ずいこうようこう)という印字が読めることがわかりました。「瑞康洋行」という文字を挟むようにして、「瑞商」という文字も印字されているようです。中国語でスイスのことを瑞士と表記するので、瑞商はスイスの会社という意味でしょう。他の同社の蓄音機にも碇マークが同じ位置に入っており、この碇マークは商標マークだと思われます。写真では見えませんが、上部にアルファベットの「SONATA」と印字されており、ブランド名のようです。

Photo

Photo_3この写真は16,500元(約28万円)で中国のネット通販で骨董品として売りに出ている据え置き型蓄音機の、サウンドボックスのアップ。MADE IN SWITZERLANDと印字してある。

瑞康洋行社は、1925年にイギリス国籍のユダヤ人、R.M.Josephなる人物が上海に起業したレコードおよび楽器を扱う会社です。1929年、アメリカ系の音楽関係大手、ブランズウィック社に買収されています。ということで、番組に出てきた蓄音機は、瑞康洋行社がスイスのSONATAに発注しスイスで製造され、瑞康洋行社が上海の上流階級向けに輸入販売していたものと思われます。希少価値のある品であることは確かです。

番組ではいかりのマークに注目し、「専門家によれば日本の海軍専用の高級蓄音機」とナレーションが入りました。私は正直申しあげると、このナレーションに引きずられたのと、「旧日本海軍に関係する蓄音機であってほしい。それが川島芳子と関係があったら面白い」という思いが合わさって、記事を書き進めてしまいました。あやふやな情報に引きずられた事例として、自戒をこめてあえてそのまま残しておきます。

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告すると、Josephは日本軍に逮捕され収容所に入れられやがて行方不明になりました。瑞康洋行社の洋館は、日本軍に接収され、日本軍高級将校が使用するようになったようです。現在は東湖賓館というホテルの一部として営業しています(下の写真)。同じ敷地の中には、当時の上海の裏社会を牛耳った杜月笙(とげっしょう)の別荘もありました。こちらもホテルとして利用されています。以上追記終わり。Photo

ちなみに、番組で川島芳子との関係もとりざたされていた笹川良一は、上海憲兵隊特高課長の林秀澄へのインタビュー集「林秀澄談話速記録3」にも出てくる。それによれば、笹川は上海での鞄持ちとして児玉誉士夫を使っていた。児玉誉士夫は旧日本海軍に巣くって児玉機関を自称し、上海のガーデンブリッジ脇にあるブロードウェイマンションに事務所を置いていた。彼は海軍から物々交換用の物資を手にし、中国人から格安で航空機用の金属原料を調達、海軍に卸していた人物である。そしてブロードウェイマンションの最上階は、川島芳子が上海での居所としていた場所とも言われている。

余談になるが、児玉誉士夫は、戦後戦犯となっが、アメリカGHQとの何らかの取引により釈放されている。また旧日本海軍との取引で得た莫大な資産は、戦後、秘密裏に日本に持ち帰られ、自民党の前身である自由党結党の資金になったという噂もある。この辺は、実にアンタッチャブルな世界であり、日本の大手マスメディアには真相の掘り起こしができない領域だろう。

この番組で放送された一つ一つを掘り下げ行くことは、とても興味深いことだ。いくつか行われたインタビューなど、もう少し掘り下げて検証してほしい部分が多かった。この辺は、広いけど浅い、浅いけど広いテレビメディアから得られる情報の限界であろう。ヒントだけを次々と与えられる感じがして、気が急いてしまう。昨年、読売テレビが、「鄭蘋如の真実」というドキュメンタリードラマを製作した。この時も思ったが、これだけの調査にコストをかけたにもかかわらず、放送時間に収まらないのなら、テレビの枠に固執せず、文字メディアでも世に出していくべきだと思うのだが。

張鈺さん自身、中国残留孤児である日本人の母親と中国人の父親を持つ日中のハーフであった。私は、少し前に「あの戦争から遠く離れて離れて」※という、中国残留孤児の実話本を読んだ。文化大革命当時の中国の、異端的存在、つまり非共産中国的なもの、たとえば残留日本人や国民党的な存在を徹底的に弾圧してきた様子がよくわかる本だった。

この本を読むと、仮に川島芳子が替え玉によって処刑をのがれ、生きていたとして、その後の困難はかなりのものであったと想像がつく。川島芳子、こと金璧輝は日本的な存在であり、清王朝的な存在でもあり、国民党による漢奸裁判で死刑宣告されていたのに、「賄賂」によって生きのびた、という腐敗した国民党からの受益者でもあるのだ。

文化大革命的には、生きのびた川島芳子はまっ先につるし上げ、弾圧すべき存在だったはずである。彼女は生きながらにして死んでいたと言っても過言ではない。まったく表にでることは不可能であったろう。銃殺を逃れたものの、時間をかけて社会的には処刑されていたとも言える。文化大革命時代は住民同士が皆密偵のようになる。この嵐をなんとかやりすごし、1979年まで生きのびていたとしたら、替え玉処刑よりも、こちらの方が驚きだ。

替え玉処刑後の川島芳子の事実を知る立場にいた人たちは、自分の身を守るためにも川島芳子のことは口外してこなかったのだろう。真相は置いておいて、今の中国では「生きていた」とオープンに言えるようになったということである。

「川島芳子は生きていたのか?」の問に対する答えは、文化大革命後の中国の改革開放の進展によって、すくなくとも、

「処刑された」

から

「生きていたかもしれない」

へと変化しつつあるのである。

事実は一つしかない。しかし歴史は複数ある。
歴史は作られる、そういう事例の一つなのかもしれない。

「あの戦争から遠く離れて離れて」を原作とする実話ドラマが4月18日(土)21時から全6回、NHKで放送されます。http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/土曜ドラマ「遙かなる絆」公式サイトはこちら  原作が素晴らしいものだったので、おすすめです。

| | コメント (0)

2009年4月13日 (月)

川島芳子は生きていた?テレビ放送される

たまたまテレビを付けたら、李香蘭役の女優が出ており、また川島芳子の孫と自称する中国人女性も出ていた。この番組は前もって知らなかったのでもう終わりに近いところから見ることとなった。

この張さんは、日本語の「蘇州夜曲」を、李香蘭バージョンの歌い回しで歌っていた。耳で覚えた歌、という感じだった。そしてこの女性が東京に住む李香蘭(山口淑子氏)の自宅を訪ねた。日本にわざわざ古い蓄音機を持ってきていた。彼女が言うには、川島芳子は「方おばあちゃん」という名で通っていたようである。方おばあちゃんから渡されたという形見のレコード「蘇州の夜」も携えていた。この曲は1941年(昭和16年)11月に、映画「蘇州の夜」のサントラとしてコロンビアから出たレコードだ。Clumbiaの独特な赤いレーベルがしっかりと見えたので本物のレコードだろう。

川島芳子は、これを李香蘭に渡せば、全てがわかる、と言い残していたらしい。しかし、張さんがバネの弱くなった蓄音機のゼンマイを巻きながらまわすレコードを聴く李香蘭からは、特に目新しい発言はなかった。

川島芳子の生存説は1948年の処刑直後からある。つまり、もう60年もの間、生存していた、いや処刑されたと議論を呼んでいる。昨年から今年にかけてはひとつの大きな波が来ている。李香蘭は、川島芳子について、既に語れることは全て語っているのだろう。特に著書「李香蘭を生きて」ではかなり詳しく書いている。もはや李香蘭からは新たな事実は出て来ないと思う。もし語り尽くしていない事実を李香蘭が胸の内にしまっていたとしたら、今後とも公にはしないはずだ。

ひとつ、李香蘭の発言で私にとっては興味をひいた発言があった。川島芳子が李香蘭に、「オレを見ろ」だか「オレみたいにはなるなよ」だか、そのように言っていたようなのだ。これまで川島芳子の出てくるドラマでは、一人称がすべて「僕」だった。私はこれが実は結構引っかかっていた。男装をして男っぽく振る舞う川島芳子。たしかに格好はりりしい男装であるが、会話での一人称が「僕」となると、とたんにその男装がお遊びに聞こえてしまう弱さがあった。しかし、今回の李香蘭の発言からは、川島芳子は、自分のことを「オレ」とも言っていたようである。

さて、川島芳子は生きていたか?今回の番組を見てみても、結局なぞが残ったままだった。

私はやはり、益井康一が「漢奸裁判史」で書いた次の一節が全てを物語っているのかなと思う。すこし引用する。

執行官はひざまづくように命じ、やがて一発の銃弾が彼女の後頭部を貫いた。波乱に富んだ34年間の生涯を閉じた。係官の話によると、「彼女は貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と伝えられた。

北京の市民は、「3才の時、日本人の養女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」と言って、彼女に心から同情した。

彼女を惜しむ心理が後日、ちまたに、「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂をふりまいた。

川島芳子の漢奸裁判史についての過去記事はここをクリック

※この番組に関しては、ビデオで番組を全て見てから再度投稿する予定です。

| | コメント (2)

2009年3月21日 (土)

ピンルーのためのアンセム (音楽ミックス)

Shanghai_restration_pro

ピンルーのためのアンセム(聖歌)をミックスで作ってみた。

Shanghai Restoration Project(上海・リストレイション・プロジェクト)という、なぞのプロダクションがあって、当ブログでも「上海人文記 5」 でイメージ写真を使わせてもらっていたが、よくよく聴いてみたら素晴らしい音楽だった。彼らの曲のうち何曲かをピックアップしてピンルーをイメージしながらつなげてみた。

 「ピンルーのためのアンセム」音楽ファイルの置き場はこちら



このプロダクションの説明文はこんな感じ。

’30年代の上海のジャズ・バンドにインスピ レーションを受け、文化の壁を超えた新しい音楽を作り出しているシャンハイ・レストレイション・プロジェクト(SRP)。それは“東の国”の楽器とリズム に“西の国”のヒップホップ・ジャズ・エレクトロニカに取り入れたエキゾチックな融合であり、新たな“東西の出会い”といえる。



これまで小説などでピンルーに付けられてきた形容詞は、女間諜やら、東洋のマタハリやら、毒蛇のようなやらで、せいぜい、美貌の女スパイ、がいいところである。その人生は悲劇的でつらいものだったし、差別に苦しみ不登校にもなった。たしかにそうかもしれない。しかし、彼女のことが少しずつ分かってくると別の一面が見えてくる。

上海というアジア一の大都会で、華やかな世界に憧れ、すこし背伸びをしながらも、平和な世界を求めて、自分にできることを精一杯実行する、明るく活発な少女、という一面である。

今回のミックスはそんなイメージを持って選曲し、つなげてみた。

このブログにアップするつもりだったけど、ココログでは1ファイル1Mbまでの制限がかかってしまった。事実上音楽ファイルはアップできなくなったので、シーサーブログにアップしてみた。お時間のあるときに聴いてみてください。

 


 

 

| | コメント (0)

演劇の主演をしていたテンピンルー

Photo

2008年8月の読売テレビによる「鄭蘋如の真実」という番組で、ピンルーが学校の新劇の主役を行ったときの写真が放送されていた。「新劇」というのは、日本のそれまでの歌舞伎や能に代表される、伝統的な、古い演劇ではない、という意味でつけられた演劇のジャンル名である。


中国もやはり、それまでの音楽と舞が中心の京劇に飽き足らない演劇人が、西洋の演劇を学んだり、より近い日本に渡ってきて、新劇を学んだ。東京の築地小劇場が拠点であった。それは中国に持ち帰られ、「話劇」となった。音楽や踊りでなく、「せりふ」で観客に訴えるから「話劇」、ということであろう。ということで、ピンルーがやっていたのは、日本風に言えば「新劇」、中国では「話劇」である。

瀬戸宏著「中国演劇の二十世紀(中国話劇史概況)」によると上海では、1931年の満州事変頃から、すこしずつ学生演劇が盛んになったようである。それまでは左翼系の演劇が多かったようだが、国民党の圧迫もあって勢いを失っていく代わりに、国防演劇というのが盛んになった。

演劇の主題をそれまでの「階級闘争」から、「反帝国主義」「抗日」「反売国奴」などの置いたものである。国防演劇を演じた劇団の多くは学生劇団だった。これらは1935年ごろから本格化したようである。

16_3 写真は「図画時報(Eastan Times Photo Supplement)」一面に掲載された、演劇の主役のときのピンルー

ピンルーが話劇の主役をやったのが、読売の放送では16才の時、とキャプションが付けられている。ピンルーの生まれた年が、1914年だとすると1930年頃のことだ。ピンルーがプロレタリアの労働者運動に荷担する演劇の主役を張るとは思えないので、西洋の翻訳劇か、創作の国防演劇を行ったのだろう。(2009年7月10日追記:中国の歴史研究家、許洪新氏の著書「一人の女スパイ」によると、菊池寛の「父帰る」の翻訳劇の女主人公を演じたようである。1931年当時は、ピンルーは大同大学附属中学の話劇団のメンバーだった。)

映画「ラスト コーション」でも、学生演劇団にワンチアチが入団し、国防演劇を演じるシーンがあった。この「ラスト コーション」は張愛玲の小説「色 戒」を原作としている。「色 戒」の原文では、「在学校里演的也都是慷慨激昂的愛国歴史劇(学校で演じたのは憂い嘆き激昂する愛国歴史劇ばかりだ)」となっている。

「色 戒」のワンチアチと実際のピンルーでは、学校で演劇を行っていたこと、属していた地下工作組織はCC団や蘭衣社の本格的スパイ組織でははなく、その傘下の小規模グループであったこと、などの状況は一致している。

Photo_3 雑誌「良友」は当時の上海で最も部数の出ていたグラビア雑誌

彼女は、美貌の女スパイ、などと言い表されるのが通常である。しかし、当時は珍しかった女性法学士を目指し、中日英の三カ国語が堪能だっただけでなく、演劇の主役をつとめたり、雑誌の表紙に出たり、ラジオ放送でのアナウンスや歌の披露など、マルチタレントな一面も持っていたといえる。

| | コメント (0)

2009年3月18日 (水)

女たちの中国に李香蘭がゲスト出演

Photo さきほどたまたまテレビを見ていたら、番組宣伝コマーシャルをやっていて、「女たちの中国」最終回を明日やるらしい。

「女たちの中国」へのリンクはこちら

日本テレビ系
3月19日(木) 19時から放送


そして、なんとゲストに李香蘭と書いてある。何が語られるか、興味の沸くところだ。戦前、戦中の生の話は今のうちに聞いておくしかない。

今回は残念ながら、テンピンルーは対象外だった。個人的には李香蘭からテンピンルーの話を聞いてみたい。知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか。

→平成21年3月20日、録画した番組を見ましたが、基本的に8月に放映したものの再放送でした。李香蘭(山口淑子氏)の出番は、夏の放送のときに自宅で収録されたインタビューと全く同じものでした。新しい情報としては、甘粕の秘書をやっていた女性へのインタビュー、伊藤博文の妻の逸話などがありました。

| | コメント (0)

«続 ピンルーの勤務したラジオ局