テンピンルーと早水親重
今回は、早水親重(はやみちかしげ)にスポットを当てる。彼は1939年の上海で小野寺機関に属し、近衛文隆や花野吉平などとともに日中の和平に向けて活動していた。
上海の歴史研究家、許洪新氏は2005年11月と、2006年4月に、ロスアンジェルスに住む鄭蘋如(テンピンルー)の妹、鄭天如さんに国際電話で取材している。早見親重の名前も出てきたようである。
「1930年代後半のある日、お姉さんと兄(おそらく鄭南陽)は、貝当路(フランス租界内、現在の衝山路)にあるホテルに出かけて行きました。その日は、早水さんと陳宝華(CC団幹部)との会談の日でした。
お姉さんは、「早水さんは学問ができてとても頭のいい方。ものごとの本質は何なのか、私に教えてくれる」と言っていました」
別の許洪新氏の記述によると、汪精衛政権樹立のきっかけとなった事件である汪精衛の重慶離脱について、早水親重からピンルーへ情報が伝わっているとなっている。ただし、情報元は不明である。
「近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早見親重から、1938年8月にテンピンルーが聞いたことは、汪精衛の重慶離脱の情報だった。ピンルーはすぐに上司嵇希宗(けいきしゅう)を通じて重慶(蒋介石国民党の根拠地)に第一報を連絡した。続く1938年12月、再度報告したが、重慶ではその情報は無視された。12月29日、汪精衛は本当にハノイに向け重慶の蒋介石のもとから離脱した。この時以来、重慶ではテンピンルーの価値を認識するようになった」
次に、「張愛玲 色戒」という著作のある中国の歴史家、蔡登山の情報を見てみる。
「テンピンルーは早水親重の紹介によって、近衛文麿首相の息子、近衛文隆と知り合った」
とある。こちらも情報元は不明であるが、1939年2月に東亜同文書院の学生主事として上海へ派遣されきた近衛文隆とピンルーの出会いは、早水親重が取り持ったということなのだろうか。東亜同文書院で文隆の相談役であった小竹教授は、「近衛文隆追悼集」の中で、
「ある時、中国の高官の令嬢で、日本婦人を母とする女性が、これもしかるべき筋からの紹介で文隆さんに交際を求め、大学を訪ねてきたことがあった」
と書いている。この「しかるべき筋」というが早水親重であった可能性はある。
同じ「近衛文隆追悼集」には、早水親重も追悼文を寄せている。その書き出しはこうだ。
「近衛文隆君との初対面は、などというと、いかにも形式的で堅苦しい感じがする。近衛君を知るものにとっては、むしろ出会いと言った方がぴったりするんだが、その出会いは、多分昭和14年(1939年)の早春の頃、上海の同文書院の学生主事室に訪ねた時だったと思う。日支事変もいよいよ長期戦の様相を帯び、いわゆる近衛三原則の呼びかけも、汪精衛氏ら一統の呼応もあったがこれで問題解決にはならず、事態は益々底なしの泥沼に落ち込んで行くとしか見えない時で、直接交渉(注:蒋介石との)の観点に立って、なんらかの打開の道無きかと種々画策しつつあった私としては、近衛公は、かかる事態をどう処理して行こうとして居られるのか、令息の文隆君に聞くしかなかろうと、同じ思いの武田信近君を伴い訊ねたのであった」
(中略)
「従って話は、打開の方途を共に考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合することになり、蒋介石氏と直接交渉を開く意外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対する悪戯的謀略等もあった。又、当時英国の駐華大使たりし、パトリック・カー氏との会見で、自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては、との彼への示唆もあり、速やかに上京し日本朝野の認識を改めさせねば、事が間に合わなくなると痛感、三人協議の上、上京することにした」
引用終わり
早水親重は、当時小野寺信ひきいる小野寺機関に属していた。小野寺信は参謀本部ロシア課が上海に送り込んだ、蒋介石との直接和平交渉派である。そしてテンピンルーは小野寺機関で翻訳の仕事を得ていた。ピンルーが早水の紹介状を持って文隆を訪ねた、というのはありえる話だろう。
ところで話はすこし脇道にそれるが、上の早水の文章中にある「機関関係者の悪戯(いたずら)的謀略」とは一体何を指すのだろうか。ひとつ考えられるのは、西木正明氏の「夢顔さんによろしく」というノンフィクション小説にも書かれている、ピンルーによる「近衛文隆誘拐事件」のたぐいを指しているのではないかと思う。(許洪新氏も自著で引用している)
独自の和平運動を展開する文隆を、影佐機関はピンルーから切り離し、上海から追放したくてしょうがなかった。1939年5月、影佐禎昭の命令を受けて、上海領事の岩井英一が外務省あてに打電した、文隆の上海生活を勝手に作り上げた謀略電報の存在は岩井本人が明かしている(岩井英一「回想の上海」)。
”近衛文隆は、今晩も東亜同文書院の宿舎を抜け出し、ピンルーとダンスホールで踊り、飲み明かし、朝帰りになりそうだ・・・”、という情報をもとに(当時、ピンルーや文隆には憲兵隊の尾行がついていた)、大捜査網を敷き、「敵方の地下工作員による近衛文隆誘拐事件発生」としてでっちあげ、おおげさに言い立てた・・・。岩井の打った電報は「近衛文隆の存在は百害あって一利なし」で終わっている。事実がどうだったか私には分からない。しかし「いたずら的謀略」とあえて言うからには、このようなことを指しているのかな、と思う。
西木正明氏は、大胆に類推して、ピンルーによる文隆の監禁の模様をストーリーとして書き込んでいる。小説のストーリー部分を中国の歴史研究家が引用し、そのネット上の中国語文章を翻訳して日本で再び引用し、というキャッチボールをしていると、いつの間にか歴史の真実のようになってしまうことがある。こういうことは注意せねばならない。
実際のところ、岩井栄一の謀略電報は功を奏して、閣議決定により1939年6月、文隆は上海から去らざるを得なくなり、ほどなくして徴兵され兵士として満州に向かった
悪戯的謀略としてもう一つ考えられることは、東亜同文書院の小竹教授が「近衛文隆追悼集」で、文隆の帰国の理由として挙げていた「近衛文隆暗殺未遂事件」である。南京路で文隆と間違えて銃撃事件が発生していた。小竹教授は文隆の身の危険を案じ、泣く泣く帰国を促したとある。この人違い銃撃事件なども謀略的な臭いがする。影佐機関による文隆への無言の圧力、脅迫のたぐいだったかもしれない。
さて、話を元に戻し、もうすこしだけ早水親重が「近衛文隆追悼集」に寄せた文章を見てみる。
「昭和17年の夏頃だと思う。あくまで素志を貫徹すべく、もはや直接交渉の段階ではなく、できれば中国を介して連合軍との和平交渉にあたるべきだとし、再び上海におもむく事にした。満州を経由して行く方法がついたので、明日もわからぬ小生にとっての別離を兼ねハルビンに回ることにした。かねて友人を通じて阿城(注:文隆の赴任地)に連絡してあったので、一日間の外出許可があり、久しぶりで彼(文隆)の温容に接した。
前記の次第を述べたところ、非常な賛成で、彼の知る米国のことどもを語り、種々なる示唆もあって全く語り明かしてしまった。君の代理で最後までがんばると幾度も語り合ったものであった。ハルビン駅頭、互いに健康を祝し、南北に別れたのが最後になってしまった。いまもなお、昼下がりの満州の太陽のもと、手を振りつつ行く彼の軍服姿が目に焼き付くようだ。
昭和19年、東条内閣総辞職後、土井章、栗本両君らと、中国を介して連合軍との和平交渉の道をあけ、近衛公に取り次ぎ、公の代理として、水谷川氏らと共にこれ努めたが、ついに軍の反対で成らず、その間文隆君がいてくれたならば、と思わぬ日はなかった」
引用終わり
昭和19年の和平工作では、近衛文麿の代理としてと明確に書いてある。早水親重は近衛文麿の和平交渉代理を務めることができるほどの信頼を得ていた人物であったようだ。このことから、許洪新氏の書いている「近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早水親重・・・」という文章にも信憑性が出てくる。
これは、日中の戦争開始に大きな責任を負うべき近衛文麿は、裏では和平の糸口をつかもうと、主流の流れとは違った線から早水親重のような人物を上海に送り込んでいた、ということだ。近衛文麿首相の複雑な思いがかいま見える。
最後に、戦後の早水親重に触れた文章を発見したので紹介したい。1945年12月、敗戦の日本に取材に来ていたアメリカの新聞社「シカゴ・サン」紙の記者、マーク・ゲイン氏による「ニッポン日記」(日本語版 1963年 筑摩叢書)である。この日記の1946年9月26日の冒頭を引用する。
「(昭和21年)9月26日 茨城県磯原村
10日前、私たちは東京を離れてこの県下への旅行に出た。しかし今では、なんだかそれが永遠のかなたのような気がする。二台のジープに食料、ガソリン、毛布、それから5人の乗客を満載して出発した。5人の乗客とはサリー、ジョー、ロイ、私、それに私たちの案内をつとめてくれる早水親重である。彼は詩人であり、舞踊家であり、素人力士であり、中国で特殊な任務をしていたことがあり、内閣の相談役でもあるという多彩な男だ。
私たちの第一の関心は農地問題であり、国家主義の地下組織であった。そして最初の五日間は早水の有能な裁量に一切を任せた。彼は私たちの旅行日程をつくり、地主、国会議員、町村長、村の役員たちとの会見の順序を手際よくきめてくれた。
この五日間、私たちの本部は丘の上にある、ある地主の邸宅の庭に面した豪奢な一続きの座敷だった。庭には池の精のような樹木の間に花が咲き乱れ、くちばしから水を吹き上げる青銅の鶴の噴水がある。久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)もかつてこの座敷に滞在したことがあり、「宮様のお座敷」と呼ばれていた」
(ブログ管理人注:このある地主の邸宅とは、水戸徳川家の休憩所「観海亭」として使われ、磯原御殿とも呼ばれた野口雨情の生家だと思われる。今は近くに野口雨情記念館がある)。
引用終わり
マーク・ゲインの日記からは、早水親重が多方面に才能があり、内閣、農村の重鎮や旧家に人脈があったということが伺える。中国で特殊な任務をしていたとあるが、近衛文麿の密命を帯びた上海での和平工作のことであろう。
このマーク・ゲインという男、満州とモンゴル国境の町で生まれたロシア系ユダヤ人であるが、FBIの捜査によって、ソ連の共産スパイだったことが判明し、後にアメリカとの二重スパイとなることで釈放される、という経歴を持っているようだ。
さて、早水親重であるが、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」 でも書いたように、1939年7月、日本から上海に戻ったところを逮捕され、汪精衛政権が誕生する翌年4月1日まで地下室につながれた。
この逮捕劇を主導した上海憲兵隊特高課長、林秀澄は、早水の釈放に際し、「今まで取り調べもせずに約10ヶ月以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい」と開き直っている。そしてピンルーの消息を尋ねる早水に対し、「「今まだテンピンルーのことをかれこれ言われますとぶち込みますよ」と脅しました」と述べている(林秀澄談話速記録Ⅲより)。
林秀澄は、もう時効だと判断したのか、昭和52年、木戸日記研究会の取材に対し上に書いたように正直に告白している。早水親重ら小野寺機関員や花野吉平らを逮捕監禁したのは、作り上げられた罪、冤罪(えんざい)、あるいは国策捜査と言われるようなものだったのだ。国を主導する者が憲兵隊や検察を使って、ある人物を目的をもって逮捕、ほとぼりが冷めるまで監禁する・・・。ひょっとしたら今でも似たようなことが行われているのかもしれない。


















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