2009年12月 6日 (日)

100記事目

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このブログも100記事目になりました。しばらく重い記事が続きましたので、今回は上戸彩さんが「李香蘭」の中でにこやかに歌っている写真を先頭にもってきました。

さて2007年の7月に3人の女性が歌う「夜来香」のミックスを作り試聴ができる記事 を書きました。そのころはココログも音楽ファイルを置けたので、MP3ファイルを今でも置いてあってダウンロードできるようにしていますが、その音源を使って上戸彩さんの「李香蘭」シーンと合体させた動画が作られていてYoutubeにアップされていました。

作成者の方はプロフィールを見たらハワイに住んでいる日本人の男性みたい。知らない間に私との共同作業になってもう一つの作品?が出来てたって感じです。こんなのもありなのかなと。

動画はこちらです

「夜来香」を歌っている順番は、

1.華楽三姉妹 

2.Wei Wei Wuu 

3.上戸彩(日本語の「夜来香」のサビと  「蘇州夜曲」)

4.姜小青(ジャンシャオチン)の中国語の「蘇州夜曲」です。

ちなみに、グーグルで、「夜来香 試聴」で引くとこのブログが先頭に来るようになりました。

あと「テンピンルー」とか「上戸彩 李香蘭」とかもここのブログが先頭に来るようになりました。皆様にアクセスして頂いたお陰です。なんかちょっとうれしかったりして。

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2009年11月 3日 (火)

映画「南京!南京!」を見て

Photo_2 中国で話題の映画「南京!南京!」のDVDを入手したので、見てみた。YAHOOショッピングから某通販社のサイトに入り買ったのだが、届いたのは残念ながら中国製の海賊版DVDのようだった。もともと中国と日本はリージョンコードが違うのでパソコンでしか見れないのだが、途中でデータが壊れているところがあり、とびとびになってしまった。それでも外付けドライブを使うなどしてなんとか全て見ることはできた。中国語もしくは英語字幕である。YouTubeでもNanking Nankingで検索すれば見られる。日本でも近いうちに映画館で配給されるらしい。

この映画を見た少なからぬ中国人がこの映画を批判しているようである。大声で叫び声を上げ映画館を出て行く人や、日本人俳優の舞台挨拶に罵声を投げかける人も出たようだ。中国人の愛国心に応える内容でもなく、中国人の溜飲を下げる内容でもなく、日本への憎悪をかき立たててしまう内容である、ということは一面の真実なのだろう。

私の見たところ、確かに中国人としてはなかなか見るに堪えない映画だと思われた。自国の首都のど真ん中で、数千人が縄で繋がれ、銃弾でなぎ倒され、蒸し焼きにされ、女性は流辱される。心ある人間だったら日本への憎悪を感じるのが普通だ。さらには、一人の日本人兵士の心象風景を細かく描き込み、その葛藤に人間として同情を誘うシナリオとなり、最後にはその日本兵から放免され喜ぶ中国人が描写される。

この映画によって、結果として中国人の反日感情がさらに煽られたことは確実であろう。中国人も日本人も、双方が不愉快になる特異な映画である。しかし映画を見て不愉快になることと、映画の価値があるかどうかは別であり、この映画は見て損はないと思う。中国ではかなりの興行成績となったようだ。聞くところによると中国政府のプッシュもあったようだ。中国政府としては、教育、統治にプラスになると判断したのだろう。

興味をもった点のうち、いくつか上げてみる。(注意:この映画を見ようと思っている人にとってはネタばれになります)

1.数千名が日本軍の捕虜となり、もう銃殺を待つだけ、と言うときに、大声で、

China should not be punished!(中国が罰せられる理由はない!)

と捕虜が声を合わせる。

ふつうの抗日映画であればおそらく、「日本を叩きのめせ」、などとなろう。それが、受動的に「罰せられる理由はない」・・・となっている。そこに日本に対する敵意が見えない。「我々は無実です、殺さないでください」、くらいのニュアンスだ。これは愛国中国人にはがまんできない表現ではないだろうか。

2.日本軍の圧迫に堪えられず南京の城門から外へ逃げようとする中国兵達を、城門を閉じて押しとどめる別の中国兵部隊。中国対中国。一致団結していない中国。これは真っ先に南京から脱出した、指揮官、蒋介石を含む国民党幹部に対する批判であろうか。

3.戦闘シーンに関しては、日本軍と中国軍が市街戦を互角に戦う。戦後作られた日本がらみの戦争映画は対アメリカ軍の太平洋戦争ものや、被害者としての空襲ものだ。そこが市街戦を中心としたヨーロッパ戦線が舞台の戦争映画との違いだった。日本軍がからむ市街戦映画は私は初めて見た。

Photo日本軍への協力者となっていく中国人秘書

4.南京に赴任しているあるドイツ人の秘書を務める中国人が、占領日本軍人に対し、にこにこしながら「ナチ」、「ともたち」などと片言の日本語で媚びを売る(上の写真)。漢奸と呼ばれた親日中国人のはしりである。彼の言葉の力の無さに、本心が揺れているのが見て取れる。日本語を仲間に教え始める彼。占領日本軍がいい人達であってほしいという彼の願いは、しかしたやすく消えていく。彼の罪の意識は、彼の処刑直前に妻の妊娠を日本軍人に伝えるところに現れていた。将来の復讐は子の代に任せた、という日本人にとって恐ろしいメッセージに思えた。

さて、日本人主人公の葛藤が伝えるメッセージは、「戦争は人間を狂わせる」というものだ。制作者はそれをこの映画の「反戦」という主題に結びつけたかったのだろう。南京攻防戦という局地戦での勝者、すなわち日本人と、敗者すなわち中国人を、ラストシーンで別の形で対比させている。戦闘での勝者が最終的な勝者とは限らない、という戦争の不条理を訴えようとしている。

しかし、この映画では、魂をえぐるような突っ込み度合いは、内容の残虐さに比べてかなり弱い。モノクロ映像の美しさとカメラワークの秀逸さもあってか、日本人主人公の心象風景もさらさらと綺麗に流れていく。彼の心がそれほど汚されずに済んだように感じてしまうため、葛藤が弱く感じてしまうのだ。

五味川純平の「戦争と人間」が見せた、刺突訓練で生身の中国人の身体を突けず、身体の脇を突いてしまい、最後には上官からの命令によって心を鬼にして身体を突くシーン、このワンシーンの方が私にはインパクトがあった。私がこの日本兵だったら突けたのか?、突いてしまうか?!恐ろしい。

ちなみに、この映画の「実質的」主人公はこの日本人兵士、角川(中泉英雄)と見て取れる。中国映画の「実質的」主人公が日本人役でありそれを日本人が演じる、というのは映画史上初めてでないだろうか。

2009年11月14日追記

よくよく考えてみたら、映画後半になるにつれて、どんな残虐な映像にも大して心が動かなくなっている自分に気づいた。慣れ、だろう。戦場では悲惨な光景に慣れてしまう。残虐であることが日常的な出来事に感じてしまう。麻痺してしまう。戦場に放り込まれたら自分も同じようにやってしまうかもしれない。そんな心理変化も疑似体験できる映画である。

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感情移入しにくいこの映画の中で、私が最も感動したのは、ある中国人娼婦の女性が、日本軍慰安婦の募集に対して、躊躇しながらもまっさきに手を挙げる場面である。「自発的」な慰安婦制度に対する応募を、人数に達するまで「強要」されてのことだ。彼女の自己犠牲的行動によって、少なくとも一人の女性が慰安婦にならずに済み、また慰安婦制度を成り立たせることで、残されたコミュニティの女性達は強姦の恐怖から解放されるわけだ。

さて、YouTubeのコメントをみるとさっそく反日感情が刺激された発言がある。「日本が二発の原爆を落とされたのは、当然の報いだ」、「三発目の原爆を落とすべきだ」と・・・。この映画の主題が反戦、というのであるのならこのような偏狭的感情を生み出すような手法を採るべきなのだろうか。私は別の手法があっていいと思う。たとえば「火垂の墓」が反米でなくすぐれた反戦映画となったように。監督は「この映画は反日ではなく、反戦映画だ」と言っているが、見る者がどう感じるかは別である。結果的には反日中国人を増やし、現代に生きる日本人がとばっちりを受け、それが嫌中につながり、という循環にならなければよいが。ただし、南京での出来事を隠していてくれないか?と日本人が中国人に言う権利はない。広島の原爆ドームを撤去してくれとアメリカ人が言う権利が無いのと一緒である。

※「火垂の墓」を英語タイトルの「GRAVE OF A FIREFLIES」でYouTubeEで検索するとすぐれたコメントにたくさん出会える。この映画がどれだけ世界中に反戦を訴えることに成功しているかがわかる。

中国人がこの映画を見てどう思うか。反日感情を喚起される以外に、理性的には国防と国民の団結の重要性を学ぶことだろう。「弱かったからこうなったのだ」と・・・。現代中国の突出した軍備増強の深層心理には、このような歴史的経緯が多分に影響しているはずである。この映画を中国政府がプッシュしているのは、なぜか?「中国の軍備増強に正当な理由を与える」、「不安定化しつつある国民の求心力を外国敵視によって強める」、そんなところだろう。

日本公開後、日本人はこの映画を見てどう思うだろうか。野蛮なことが起きたことを信じたくない層からは、「南京大虐殺は無かった」の決まり文句が出てくることは容易に想像できる。それはこの映画を見た中国人が「日本に3発目の原爆を落とせ」と言うレベルと同じくらい幼稚なレベルである。実際南京でやった日本人元兵士がやったと証言しているのだから。このタイミングで日本人監督によるドキュメンタリー映画「南京ー引き裂かれた記憶」 が出るのは、歴史を学ぶ日本人にとっても幸いだ。

我々現代の日本人が対中国でかかえる闇、それは過去の日本人の過ちに対し、どのような信念を打ち立て、どのように振る舞うかである。いま中国人に過去を謝罪しろと言われたときに、私はどう返したらよいのか、いまだ信念を打ち立てあぐねている。日本は国家としてはすでに謝罪をした。個人としてはどうなのか。自分のやっていないことに対して謝るのか。日本人としてはその必要があるのか?いつまでなのか?歴史をどこまでさかのぼって謝る必要があるのか?二度と繰り返すまいという思いなら世界で唯一の非戦憲法を維持していることがその表れではないのか・・・・・云々。

私はこの映画の製作者は、南京での罪を認めない、南京での出来事の存在すら認めない日本人の代わりに、主人公の角川に、事実を突きつけ、反省させ、謝らせたのだ、とも思う。つまり南京での出来事に対し、現代中国人が日本人に成り代わって、どう反省し、どう謝るか、の一つの例を示したのだ。日本人がなかなかやらないから、しかたなく中国人が脚本を通してやってみた。日本人じゃないのにやってみた。そこが日本人にとって、この映画の微妙な違和感というか、突き抜けきれない何かの原因でもあり、また痛いところを突かれた部分なのかもしれない。

最後に、娼婦役を引き受けた江一燕(チャンイーイェン)という女優(冒頭、中程、そして下の写真)の言葉を紹介したい。中国サイト「人民網」の「南京!南京!」特集ページ よりPhoto

以下引用

 江一燕(チャンイーイェン)は撮影を振り返り、「日本人の役者との演技中は、ずっと複雑な気持ちを感じていました」と語る。役に入り込むあまり、撮影以外のときでも日本人俳優と話をすることはなかったという。

しかし最近、杭州で舞台挨拶をしたとき、客席から日本人俳優に罵声が飛び、角川役(注:日本人主人公)を演じた中泉英雄さんが舞台の裏で号泣するという出来事があった。

「私は彼の涙を拭くためにティッシュを渡し、励ましました。彼はあまり流暢ではない中国語で、『ずっと平和が続いて欲しいと思います・・・』と言いました。それを聞いて私も一緒に涙しました。あれが、撮影開始から今まで、彼との1度きりの会話です。」

 江一燕(チャンイーイェン)はまた、「日本の若者に72年前の罪を背負わせるのは不公平です。両国の人々、さらには世界にとって交流や反省のきっかけとなり、平和への期待につながれば・・・。それこそがこの映画の願いなのです」と語った。

引用終わり

中泉氏の号泣の原因はこちらの記事 に書いてあった。うれし泣きに近い感動の涙だったことがわかる。

以下引用

ある観客が日本人俳優の中泉英雄さんに、この映画に出演した気持ちをたずねた時だった。会場からは「打倒帝国主義」や日本語で「バカ」と罵る声が上がった。

 中泉さんは少し気まずそうな表情を浮かべて黙りこみ、会場の雰囲気が重くなった瞬間、「日本人の俳優に対してこんなふうなのはよくない」「彼らは尊敬すべき人だ」「彼らは勇敢です」と観客が叫び、熱烈な拍手が送られた。そして拍手が鳴り響く中で、「ありがとう日本の友人」と日本語で叫ぶ若い観客までいた。

 拍手の音は止まらなかった。『南京!南京!』の出演者たちは感動し、中泉さんも通訳の人から中国の観客が言った言葉を聞いて涙を流した。

 休憩室に戻った中泉さんが突然激しく泣き出したため、映画館の責任者が嫌な思いをさせたと謝ると、「違います。私は中国や中国の人たちがすばらしいと思ったのです。侵略も戦争もしてはいけない。永遠にしてはいけないのです」と中泉さんは言った。

引用終わり

江一燕(チャンイーイェン)さんをはじめ、多くの中国人が反日感情を乗り越え、度量と優しさを見せた。日本人は彼女、彼らに何をどう返せるのだろう。来春、日本で公開されたら多くの映画評がネット上にアップされるだろう。それがとても楽しみである。

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2009年10月17日 (土)

テンピンルーの兄弟について少し

「一个女間諜」(一人の女スパイ)許洪新氏著より、ピンルーの兄弟姉妹について書かれた章から少し引用する。

0018 長女、真如(左の写真)は、バイオリンの演奏が得意で、また、魏碑(注:魏の国の時代の碑文文字のことと思われる)の書が上手だった。彼女は比較的おとなしい性格だった。





0019 ピンルーの弟、長男海澄は、日本柔道に精通していた(注:日本の名古屋飛行学校留学中に覚えたのだろう)。彼は人助けに活躍することが多かった。ある日同級生と海水浴場で泳いでいると不意に大波が来た。同級生がおぼれかけると危険を省みず救ったことがあった。

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次男南陽は、囲碁が得意であった。13,14才のころ、段祺瑞と対戦、その後は当時中国で著名な棋士陳祖徳や、中日民間貿易の第一人者岡崎嘉平太らが彼の囲碁仲間となった(注:花野吉平ら多くの日本人が彼の囲碁仲間になっていたようである)。段祺瑞は言った。「これだけの才能のある者は長生きはしないものだ」。南陽は1919年生まれ。2003年にアメリカで84才で亡くなっている。これは長生きというものだろう。


0020_2 一番下の妹(左の写真)、天如は、歌、踊りが好きだった。筆者(許洪新氏)は彼女の成績表を見る機会があった。音楽が98点だった。全般にすぐれ、体育も甲だった。万宜坊内には著名な画家、張充仁がおり、天如は彼の絵画教室「充仁画室」の弟子となった。性格は明朗、狩猟も好きだった。日中戦争後期のある日、兄海澄のいる内陸の航空部隊を訪れた。彼女は美人だったため、プロポーズをしてくる男性が多かった。彼女は条件を出した。日本軍の飛行機を一番多く撃ち落とした人が私にプロポーズしてくださいと。この条件を満たしたのが、後に彼女の夫となった舒鶴年(じょかくねん)氏である(注:彼は日中戦争後の中国共産軍と台湾国民党軍の空中戦で台湾空軍として活躍し勲章を得ている)。

引用終わり

長女真如は、かわいそうなことに、男子倍倍(べいべい)を生んだ後、産後の肥立ちが悪かったのか病気で亡くなっている。日本人地区の虹口(ホンキュウ)にあった日本人経営の福民病院で治療を受けていたようである。

長男海澄と次男南陽を比べると、海澄がどちらかというと正義感のあふれる武闘派、南陽がおとなしめの学究肌だったようだ。海澄は当時エリートしか入校できなかった名古屋飛行学校へ中国人留学生として入校し、パイロットとして養成され優秀な成績を残している。また柔道もこの頃習っていたようである。海澄は日中戦争の終結前に墜落死してしまったが、彼の息子、鄭国基氏は上海郊外に今でも在住しており、映画「ラスト コーション」以来、多くのインタビューに答えている。

次男南陽は、医者を目指して日本に学びに来ていた。まず日本語習得のために成城学園に入学した。大好きな囲碁は日本で覚えたのだろう。中国帰国後は日本が満州に作った南満州医科大学でも研修したことがあり、戦後の上海で開業医となった。その後おそらく母親木村はな、妹天如と一緒だった思われるが、共産中国建国時に台湾に移住。最終的にアメリカに渡っている。1993年8月に台湾新竹市で行われた模範的父親表彰大会に鄭南陽の名前があるが、本人だろうか定かではない。

一番下の天如は、母親木村はなの世話をずっとやいてきた。共産中国となる混乱の時期に国民党とともに台湾に渡っている。現在もロスアンジェルスに健在である。性格的にはピンルーに一番似ているようだ。芸術的な才能があるようだし、美人で自己主張もしっかりする女性だ。

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2009年9月30日 (水)

「一人の女スパイ」より  テンピンルーの素顔 

許洪新氏の「一个女間諜」(一人の女スパイ)を読了した。簡体字で書かれた中国語図書である。初めて中日辞典というものを使った。漢字の部首やつくりから引いていく根気のいる作業だった。その分、鄭蘋如(テンピンルー)の意外な素顔を知ることができた。以下、その一部をかいつまんで紹介していきたい。訳に誤りがあるかもしれず、引用する場合は原文を参照いただきたい。日本では販売されていないが、ネット通販で中国から簡単に取り寄せることができる。

「活発で好奇心旺盛、笑顔の似合う女性、テンピンルー」

中略

ある日、実の妹、鄭天如さんと、ピンルーの父方のいとこ鄭昭が筆者(注:許洪新氏)にいくつかの史料を見せながら語った。彼女は行動的で、スポーツ、文芸、写真撮影、社会活動など全てに興味を持っていた。このような性格は鄭家では彼女だけだった。

ピンルーは水泳をしたり、自転車で遠乗りするのが好きで、また、上の弟海澄からは柔道を習った。鉄琴を演奏し、京劇を歌い、話劇を演じた。1931年3月12日の「図画時報」の一面に、田漢の創作話劇「父帰る」(注:原作は菊池寛)のヒロインを演じたときの写真が掲載されている。このころは大同大学附属中学(6年制)の話劇団のメンバーだった。

ピンルーは写真撮影も大好きで、現在、数百枚にのぼる彼女の写真が残っている。よく友達と外で写真を撮った。1934年5月、「申報図画特刊」誌上には女友達の取った幾枚かの写真が掲載されている。「旧聞珍影」には1930年代の雑誌に掲載されたと思われる池のほとりに座る彼女の写真を見ることが出来る。(下の写真)

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彼女の性格には少しおっちょこちょいのところもある。筆者(許洪新氏)は、ピンルーが書き込んだ1936年2月の学生名簿を見ることができた。ちょうど彼女が民光中学(6年制)商科を高三春期生として卒業し、推薦によって上海法政学院法律科2年に編入したときに記入したものだ。

そこには誤字脱字がとても多い。本来は「慧灵(ケイレイ)女中」(注:慧灵女子中学校の意味か?)と書くところを、「慧灵女」と書いたり、「兄」、「姉」の人数を書く欄に「弟二人」「妹一人」と書いて、それを訂正して「弟」「妹」と書いたりしている。これは彼女のある種おおらかな性格を表している。

この美しくも活発な女学生には、自然といくつかのあだ名がついた。ある人は彼女を「校花(学校の花)」と称し、またある人は「学生領袖(学生のボス)」と呼んだ。

中略

ピンルーの写真を見ると、彼女は高級な婦人服を着ていることが多い。妹は言う。「普段は素朴な服装でした。姉は派手な赤や緑の服は嫌いで、オレンジ色が好きでした。学校に行くときはいつも白いブラウスに黒いスカートでした。プライベートでは旗袍(チーパオ)を着ていました。高級婦人服は大抵母親が若い頃着ていたものです。写真撮影用に着ていたのだと思います」

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「伝統的、そして開明的な家庭教育」

中略

万宜坊内の自宅の近くに、李という姓の兄弟が住んでいた。ユダヤ系の富商と付き合いがあり宝石店を営んでいたが、偽物の宝石も扱っているようであった。

ある日、李家の娘からピンルーに「電気ギターを弾くから聴きに来ない?」と誘いがあった。ピンルーは彼女の家にギターを習いに行きたくてしかたなかった。父親に許しを請うと、父親は「だめだ」の一言。もう一度頼んだ。再び「だめだ」と。彼女は上階の自室に駆け上がりひとしきり泣くしかなかった。父親には職業的直感で、子供達がどういう友人つき合うべきかがわかっていた。父親はそれを教えたのだった。


後略

兄弟の子を抱くピンルー(下の写真)

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以上、ピンルーの趣味や、性格について書かれた章から抜粋してみた。彼女がとても明るく活発で多趣味な女性、そして父親からは厳格な家庭教育を受けていたことがわかる。1930年当時に、写真撮影、サイクリング、水泳、鉄琴の演奏、歌や演劇が趣味ということは、上海高等法院主席検察官だった父親鄭鉞(ていえつ、チェンユエ)の高収入と教育熱心さが背景にあったのは容易に想像できる。

また、意外な一面として性格がおっちょこちょいということである。行動が先に立つ、という性格なのだろうか。

彼女の甥の鄭国基氏のインタビューなどで、日本人の母親には差別があり、日本人の血が交じる子供達は学校でいじめもあった、ということであるが、一方でピンルーには「校花」や「学生領袖」という、いい意味でのあだ名がついていた。とにかく目立った存在であったことは確かだろう。学校でのいじめも、日本人の血がまじる、という理由以外に、「できる存在」、「突出した存在」に対する妬みの感情もあったのではないだろうか。いつの世にも、どこにでもある感情である。

個人的に特筆すべきは、これまで見てきた彼女の写真は全て笑顔、ということである。すべて白い歯を見せてにこやかな笑顔を作っている。笑顔でない写真は本当に皆無である。まわりを明るくしたい、幸せを分かちたい、といった彼女の性格がこういうところにも反映しているのだと思う。

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2009年8月22日 (土)

「堀田善衛(ほったよしえ)上海日記」より

Photo_3 日本敗戦直後、国民党の旗の打ち振られる上海を人力車で行く李香蘭(DVD「李香蘭」角川映画より)



2008年11月24日のブログ記事「李香蘭の収容場所」 の続きである。書きかけでそのまま放置してあったのだがここに掲載しておく。

日本の敗戦時に上海にいた堀田善衛の日記から少し。

1945年10月24日の日記より
阿媽(アマ。賄い婦)階級までが、戦には勝ったけれど、よいことは一つもない、物価は高くなる一方で苦しいばかりだ、つまらないと言っているらしい。日本人の屋台に中国人がたくさんたかっているのは、物珍しいだけでなくて、やはり彼らもまた何とかしなければならぬ事態に達しているからかもしれない。何しろ勝ったけれどもちっともよいことがない、これはどうしたことだという反省があるらしいことはたしかだ。この状態は共産党のつけこむところになりはせぬかという論もあるらしい。

Photo_5 日僑の腕章を付けて舞台衣裳を売りにガーデンブリッジを渡る李香蘭(DVD「李香蘭」角川映画より)

1945年12月4日の日記より
菊池氏のところでの話に、新市街、フランス租界などには打倒蒋介石 日僑歓迎などという共産軍らしいビラがはってあるという。(注:日僑(にっきょう)とは日本人収容者のこと)(引用終わり)

これは見事に将来を予見している。中国は戦勝国ではあるが、蒋介石国民党政権は戦後統治の準備が整っておらず、経済が混乱をきたし、人心が離れつつあったようである。虹口に収容されている日本人は商魂たくましく、いろんな屋台を出していて、そこに中国人が買い物に来ていたようである。そんな状況に、共産党が徐々に浸透してきていたようだ。日僑歓迎という共産党ビラからは、戦後に日本を取り込もうという共産党の国際戦略がかいま見える。


1945年12月21日の日記より
大平さんの話によると、杭州のの「槍」(注:武装集団)が全部CCに行ったという。これは大変なことだ。北支サカヒ中将(注:坂井中将か)の軍団も行ったというし、これがもし武装解除という名目でアメリカの中共援助の口実になったとすれば、我々さまよえる日僑の運命もますます悪化するであろう。(引用終わり)

テンピンルーも一時関係していた上海のCC団は、ジェスフィールド76号によって壊滅的な打撃を受けていたが、中国全土でみたら組織として終戦後も残っていたようである。また、「サカヒ中将の軍団も行った」というのは、山西省の日本軍の将兵2600名あまりが武装解除されずに蒋介石国民党の軍閥に組み込まれ、共産党の人民解放軍との内戦に巻き込まれた史実を言っている。この戦後の戦争によって亡くなった日本兵は少なくない。

アメリカはこのころ中国共産党を驚異とは認識しておらず、戦争中は蒋介石国民党を援助していたのが一転して共産党を援助するようになっていた。蒋介石の独裁的な政策運営に不信感があったようである。日本の占領政策もそうであったが、アメリカは途中から共産党弾圧に変化していく。

中国大陸での国共のつばぜり合いは、戦後の日本を自陣営に取り込もうとする静かな戦いとなっており、それが大陸に取り残された日本人にとって生命の保証に役立ったことは間違いないだろう。

中支派遣軍特務部で経済を担当し、テンピンルーの弟南陽とは囲碁仲間でもあった岡崎嘉平太(戦後は全日空社長)によれば、蒋介石は終戦後の日本人の扱いに対して、「以徳報怨」つまり、「徳をもって怨に報いる」と宣言したという。この言葉は実際に実行され、思いの外、中国大陸に取り残された日本人は敗戦に伴う迫害を受けていなかったようである。満州からシベリアに集団で拉致をされた抑留日本人とは際だった違いとなった。

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2009年8月21日 (金)

「近衛家七つの謎」より

工藤美代子氏というノンフィクション作家の書かれた「近衛家の七つの謎」を読んでみた。この作家は皇室ファンと見えて、少々皇室、近衛家擁護の筆致が過ぎるところがあるが、日本語文献としては久しぶりに鄭蘋如(テンピンルー)について言及された本であるので、非常に期待しながら読ませてもらった。第五章で「長男・文隆とハニートラップの謎」という章を設けて、ピンルーと近衛文隆の関係について書かれている。

この第五章の要旨は、「文隆はあえてピンルーを利用した」という、私がこのブログで前回まさに記事にした内容に近いことが書かれていた。日本人としては誰でも、「そうあってほしい」、と思う部分なのかもしれない。これは日本人だからこその歴史の見立てであって、中国人の見立てであるピンルーは純粋な抗日烈士、スパイとして、近衛文隆を誘惑し情報ソースとしたという説とはまた違った角度からの説である。

ただ、工藤氏はこの章の最後をこんなふうに結んでいる。

以下引用

 

テンピンルーと文隆の関係は、今日いわれる「ハニートラップ」だった、というのがこれまでの通説だった。文隆がテンピンルーの色香にはめられた、との解釈がなされてきた。
 だが、小野寺機関との関係などを仔細に見れば、文隆の決意はそれとは逆で、テンピンルーの立場を利用しつつ、蒋介石と対話の糸口を掴もうとしたのだ、という事実が判明した。
(後略)

引用終わり

最後を「事実が判明した」と表現されている。これはどうかと思う。工藤氏の歴史の見立てであって、それは確かに私の見立てとも非常に近いものがあるが、私は100%事実とは確信できていない。それだけの史料が無いのだからそこには類推が入る。その類推は、自分のこうあってほしいという思い、自分の人間力を総動員した想像から絞り出される。それが歴史の見立てであって、歴史は歴史を書く人の数だけあるゆえんである。事実は決して判明していない。

工藤氏は、同じくノンフィクション作家である西木正明氏の書かれた「夢顔さんによろしく」を、「事実と誤認させるような書」、というように批判されている。私に言わせれば今回の工藤氏の著書の方がむしろそのうような感じである。なぜなら、西木氏の著書は最初から小説として書かれている。工藤氏の今回の著書はテレビで言うドキュメントドラマのように、小説部分に加えて、史料の引用を豊富に使い歴史資料としても読ませる構成になっているからだ。

工藤氏のこの著書が、テンピンルーと近衛文隆の関係についての参考本の一つとして今後使われることは確かであろう。余計なお世話とは承知ながらその価値が高くなることを身勝手な目的として、文隆とテンピンルーの出てくるこの第五章に限り、誤りを指摘しておく。ことわっておくが、近衛文隆とピンルーをさらりと知っておく上では、大きな誤りではなく、出来ればこう書くべきだったというものである。

では、順に指摘していく。まずは簡単に、道路の名称、方角についてからである。上海の主要な道路名は国民党統治下と共産党統治下では名称が違う。共産党統治下になって付けられた名前は現在まで使われている名前である。工藤氏は新旧がごっちゃで、方角がなぜか90度違うことが多い。工藤氏は小説部分で当時に時間軸を置いて書かれているので、当時の道路名称を使うべきで、もし現在の名称を記載するのならば、( )内併記とすべきだろう。

P205 
「外灘を東西に走る中山東一路海岸に面した・・・」

は、

「外灘を南北に走る黄浦灘路(現中山東一路)河岸に面した・・・」

とすべきである。道路の方角が90度間違っているだけでなく、外灘(ワイタン)は海岸ではなく、黄浦江という川に面しているのである。

P206
「その時、上海税関ビルの一区画東寄り南京東路との交差点にあるサッスーンハウス・・・」

は、

「その時、上海税関ビルの一区画北寄り大馬路(現南京東路)との交差点にあるサッスーンハウス・・・」

とすべきである。方角が90度間違っている。私が道路を気にするのは、これらの本を参考にしながら上海を歩き、昔をなぞってみる歴史ファンがいるからである。なお上海の新旧の地理を知る上で絶対に外せない本は、木之内誠氏著「上海歴史ガイドマップ」である。

Photo_4
(上は黄浦江対岸から見た外灘(ワイタン)のビジネス街。中央左よりのひときわ高い尖塔を持つ建物が上海税関、その少し右(北側)の三角屋根がサッスーンハウス。クリックすると大きくなります)

次に上海の租界について。

P206
「上海には早くから英米の租界が一等地の外灘にでき、さらにフランス租界、日本租界、共同租界があった。十二年八月に始まった第二次上海事変以降は、事実上日本が上海の主要部分を支配していたといえる」

とある。

ここでの誤りは二点ある。まず、上海に日本租界は無かった。上海租界とは中国政府と正式に土地章程を結んだイギリス租界(のちにイギリスとアメリカの共同租界とした)とフランス租界の二つである。俗に言う日本人租界、日本人地区は、日本人が自然と多く住むようになり、日本領事館警察の巡回地区だった虹口(ホンキュウ)地区であるが、ここはあくまで共同租界の中の一部である。共同租界は工部局という行政庁が統治していた。工部局はイギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名からなる参事が議員のような形で選挙で選ばれ住民代表となっていた。常にイギリスが多数決で勝つことになっており、共同租界はイギリスとアメリカが支配する租界である。

二つ目の誤りであるが、1937年の第二次上海事変以降も、日本は上海の主要部分を支配することはできていなかった。上海の主要部分は外灘(ワイタン)と言われる、黄浦江沿いのビジネス地区と、南京路から静安寺路にかけての商業地区である。これらの地区は共同租界の中心地区である。第二次上海事変に勝利したものの、日本はガーデンブリッジ北側の虹口地区を除き、主要地区に対しては相変わらずなんら支配権も有していない。これら上海主要部およびフランス租界地区をも含めて日本が支配力を持ったのは、英米に宣戦布告し、即日武力接収した1941年12月8日以降のことである。

(参考:「ドキュメント昭和 上海共同租界」 角川書店)

次に、蒋介石の私的地下組織、親衛隊であるCC団と蘭衣社に付いての誤りである。

P220

「通称CC団と呼ばれており、組織的には蘭衣社の支配下にあるものの、事実上は国民党の推進エンジンだった。 蘭衣社のボスは戴笠(タイリュウ)といい、上海にはめったに顔を出さない。 CCとは、戴笠のすぐ下で地下組織の実験を握っている陳果夫と陳立夫兄弟の両陳の頭文字からとったものといわれている」

P226

「一つが蒋介石、すなわち重慶政府が裏にいる政治団体蘭衣社と、その武装組織であるCC団や三民主義青年団です」

ここでの誤りであるが、CC団は蘭衣社の支配下にはなかった。蒋介石はこのふたつの組織をあえて並立させていた。蘭衣社は、軍事委員会調査統計局、略して軍統系の情報組織で戴笠(タイリュー)をボスとし、日本の軍事情報収集と対日協力者の摘発を担当していた。


一方、CC団は国民党の組織であり、正式名称は国民党中央執行委員会調査統計局である。ボスは陳立夫と陳果夫兄弟で正しい。主として共産党情報の収集と対日協力者の摘発を担当していた。蘭衣社が軍出身の武闘派であるのに対し、CC団はどちらかというとインテリ派である。

また、CCというのは、陳兄弟の頭文字ではない。中央執行委員会調査統計局の前身である中央倶楽部の英語名であり、Central Clubの略称である。

(参考:岩谷将著「蘭衣社・CC団・情報戦」)

P227

「丁は小男で異様な顔をしています」

丁黙邨の見た目のことである。工藤氏の誤りというよりは、調査不足としておく。他人の容姿を云々言うには慎重がもとめられる。工藤氏がこう書いたのは、犬養健著の「揚子江は今も流れている」に書かれている次の一節を信じたからだろう。

「私は随分多くの人を知ったが、この丁のような異様な容姿の持ち主にはかつて出会ったことがない」

犬養だけなく、影佐機関側の人間は一様に、丁黙邨の容姿、性格を異常に悪く書いている。これにはある意図が隠されていると私は見ているが、それは後の記事とするつもりである。丁黙邨の性格は私にはわからない。しかし丁黙邨の写真を見ると、こと容姿に関しては、別段異様とは思えない。漢奸裁判史 丁黙邨2の記事 に載せた写真を見て皆さんには判断頂きたい。

P229

「ですが、上海には「梅機関」と「七十六号」を正面切って支える陸軍憲兵隊がつねに目を光らせ、われわれの仲間はしばしば反国家的だとして逮捕、拘束、追放されているのが現状です」

時間の前後の誤りである。ここは小野寺機関長、小野寺信が初対面の近衛文隆に語る言葉として書かれている。したがって1939年2月か3月初頭のころである。「われわれ仲間・・・」というのは、文脈からすると小野寺機関員だった早水親重、武田信近のことを言っているはずだが、彼らが逮捕、拘束されるのは1939年6月から7月のことであり、時間の前後が逆になってしまっている。文隆が小野寺機関と行動を共にし始めた頃は小野寺機関は大手を振って活動することができたのである。

(参考:「林秀澄談話速記録Ⅲ」)

P234

「ええ、父は鄭鉞(ていえつ)といい、日本の大学で法律を学んで帰国し、上海高等法院の主席検察官でした。いまは重慶にいますが。母の本名は木村花、でも中国では鄭華君と名乗っています。二人は下宿で知り合ったようですわ。私が東京で生まれたのは1918年、大正七年になりますか?」

ピンルーが文隆に会って自己紹介している場面である。ここでの誤りであるが、ピンルーの父親、鄭鉞はピンルーと文隆が会った1939年に重慶に住んではおらず、上海在住である。また、ピンルーが生まれたのは中国側の従来の定説1918年ではない。1914年である。1916年後半から1917年1月の間に家族は東京から上海に渡ってきている。また、母親の日本語名の下の名前は「花」ではない。茨城県真壁の木村家の戸籍簿では、ひらがなの「はな」となっている。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

P236

「テンピンルーは小野寺機関とかなり関係をつけているように思われた。彼女の口から小野寺機関で動いている早水、吉田、武田、花野というような名前が頻繁に飛び出してくる」

花野は花野吉平のことだろうが、彼は小野寺機関で動いていない。中支派遣軍特務部思想班の特務部員である。工藤氏は花野が小野寺の指示のもとで活動しているように書いているが、花野は全く独自に活動していた。特務部を出て花野とは別行動となり小野寺機関で動くようになったのは、早水親重である。テンピンルーを知る上で、花野の活動を小野寺機関と切り離して見ることは、実はかなり大切なことである。

(参考:花野吉平著「歴史の証言」)

P254

「後年の史料によれば、テンピンルーと「76号」の丁黙邨は、かつて中学校時代の恩師と生徒という関係であったことが分かっている」

 民光中学校(6年制)時代のことであるが、確かに丁黙邨は校長をしていたことがある。ピンルーはある時期ここの学生であったが、丁黙邨の漢奸裁判での供述では丁黙邨は、大勢いる中の一学生であったピンルーを知らなかったと答弁している。恩師と生徒というのには無理がある。校長と一学生であり、決して知り合いではなかったのである。そこを工藤氏は「恩師と生徒という関係であったことが分かっている」と断定している。それは少し言い過ぎである。蔡徳金著「汪偽特工総部口述秘史」によると、憲兵隊の藤野少佐がピンルーに丁黙邨を紹介したとある。この記述も実は見逃せないものの一つである。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

「文隆が去った後のテンピンルーはいっそう激しい活動を開始し、その丁の愛人となってクリスマスの晩、暗殺を仕掛けるが失敗する。巻き添えになった通行人の多くが死亡するなか、かろうじて脱出した丁の背広のポケットに一枚の名刺が入っていた。名刺にはテンピンルーの文字で、「成仏」と走り書きがしてあった。(「漢奸裁判史」)」

これに関しては、工藤氏の誤りというより、引用が適切ではなかったということだ。引用図書名が書いてある。この「漢奸裁判史」は私も購入して読んだが、この引用部分のそのまた引用元はかの有名な晴氣慶胤(はるけよしたね)の「謀略の上海」である。この影佐機関員である晴氣の恣意的文章がどれだけ後年の著者を惑わしていることか。ピンルーの絡んだ丁黙邨暗殺未遂事件の翌日の上海新聞各紙は、「幸い死傷者はゼロ」と大きく報道している。通行人の多くが死亡というのは晴氣の誤解、あるいは嘘である。「ピンルーの起こしたテロによって、罪のない中国人市民が多数亡くなった。テンピンルーとはとんでもないテロリストである」、という印象操作を図った可能性がある。

そしてなによりも、事件に関係したと真っ先に疑われるであろうピンルーが、いったいぜんたい、自分の名刺に「成仏」などと自筆で書いて暗殺相手の背広のポケットに入れるだろうか。暗殺が暗殺で無くなるではないか!この晴氣慶胤に限らず、テンピンルーについての元影佐機関員や元憲兵による戦後の恣意的、誘導的文章は、逆にテンピンルーの処刑について、彼らに後ろめたい気持ちがあったことの表れだと私は思っている。

P254

「二十一才の短い生涯だった」

これはピンルーの亡くなった歳を言っているが、彼女は満25才、数えで26才で亡くなっている。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

以上、細かな点ばかりを指摘させてもらった。冒頭に書いたように、このブログ記事の趣旨は工藤氏の著書の資料としての価値を補完するのが目的である。近衛文隆がテンピンルーの地下工作に一方的にひっかった、という従来からの定説に疑問を呈する、という趣旨においてならば、私は工藤氏と同じ意見である。ただし、将来私がブログ記事にする予定でいる「ある仮説」においては、重要な指摘をさせてもらったことも確かである。

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2009年7月31日 (金)

テンピンルーと近衛忠麿、そして「南瓜(かぼちゃ)の花」

Photo

鄭蘋如(テンピンルー)が1940年1月に日本憲兵隊に捕らえられるまでに、彼女と協力関係にあったとされる日本人の名前が、中国の歴史研究家、許洪新氏による「一个女間諜」、日本語で言うと「一人の女スパイ」 (上海辞書出版社)に列挙されている。

以下、この本から、引用してみる。原文は中国語である。

以下引用

彼女が交流を持ったのは、当時の日本の首相近衛文麿の弟近衛忠麿
近衛文麿が派遣した交渉代表早水親重(はやみちかしげ)、
当時重慶(注:蒋介石)との交渉機会を得ることを指令されていて、宗子良なる人物と香港で交渉した今井武夫
陸軍特務部花野吉平ならびに三木亮孝岡崎嘉平太
駐上海日本軍報道部の花野慊倉(注:けんそうと読むのか、あるいは謙介などの誤りか)、
海軍諜報機関長小野寺信(注:実際は参謀本部ロシア課所属、小野寺機関長)、
日本軍上海特務機関長片山(注:花野吉平の上司だった時期がある)

(中略)

花野を通じて知った南満州鉄道株式会社上海事務所の著名な日本共産党員中西功である。

引用終わり

以上各氏のうち、近衛忠麿、早水親重、今井武夫、花野慊倉の4人は、台湾国民政府「中調局」(中央調査統計局)所蔵の史料にも名前が出てくる。

なお、近衛文隆については許洪新氏は一つの章を設け、主に西木正明氏の「夢顔さんによろしく」を引用しながら長文を割いている。

以上の11名のうち、近衛文隆、早水親重、花野吉平、三木亮孝、岡崎嘉平太、小野寺信、片山、中西功の8名は、当ブログの過去の記事で多かれ少なかれ言及してきた。

残りの3氏、近衛忠麿、今井武夫、花野慊倉のうち、今井武夫氏は興味深い自叙伝を書かれている(「支那事変の回想」)ので、後日当ブログで記事にする予定である。日本軍報道部の花野慊倉という方はまったく手かがりがつかめない。近衛忠麿氏は、確かに検索すれば近衛文麿の弟と出てくるが、上海で和平工作に絡んだような情報はまるでつかめず、許洪新氏の何かの勘違いだろうと思っていた。

ところが先日、今井武夫の「支那事変の回想」を読んでいて、水谷川忠麿(みやがわただまろ)氏による日中和平工作の件が書かれているのに出くわした。

ここで私の中で、近衛忠麿と水谷川忠麿が即座に繋がった。こういうのは歴史を学ぶ醍醐味である。この二人は同一人物であった。4人兄弟である近衛文麿首相の一番下の弟、近衛忠麿氏は奈良春日大社の宮司である水谷川(みやがわ)家を継いで、水谷川姓となっていたのだ。以下、このブログでは水谷川忠麿として進めていく。

注目すべきは、早水親重と水谷川忠麿は、おそらく近衛文麿が個人的に上海に派遣した和平交渉人だったということだ。近衛文麿は首相在任期間、盧溝橋事件の処置を誤りその後の日中戦争にはまりこんだ、時の首相として、とても重い責任を負っていることは歴史の定説である。

しかし、私は当時の状況が,、時の首相をして停戦や撤兵が不可能と判断せざるを得なくなるようなものだったのでは?とも考える。それはシビリアンコントロールの効かなくなった、つまり操縦不能となった飛行機のような、糸の切れたタコのような日本軍、もっと言うならば、リーサルウエポンたる殺傷武器を所持した右翼系左翼系問わず各種団体のバックアップを受けた軍という「力」の存在。そしてまた、軍と大衆に迎合する報道をおこない、暴支膺懲(ぼうしようちょう:暴れる支那を懲らしめろ)というスローガンを広めた朝日新聞をはじめとするマスコミの世論操縦によって、やはり無条件での停戦、撤兵を拒否する雰囲気を持つに至った日本の庶民の存在である。

Photo 五一五事件、二二六事件という、シビリアン(非軍人)にとって恐るべき、軍人による政治家殺傷事件が連続して起きた当時の日本。そしてまた、南京陥落に、提灯行列と打ち上げ花火をもって応えた日本の庶民。

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(写真はクリックすると大きくなります)

1938216 そのあげくが、「今後国民党政府を相手とせず」という近衛文麿首相の信念無き豪語となったのである。

そんな近衛文麿首相であるが、個人的和平工作員としての早水親重と水谷川忠麿の中国派遣に、文麿の本心が見える気がする。早水親重が近衛文麿の日中和平交渉人であったことは、当ブログの前記事「テンピンルーと早水親重」で書いた通りである。また、水谷川忠麿も、今井武夫著の後述の引用史料から類推されるとおり近衛の放った和平に向けての地下活動員であった。

明治憲法によると、軍を管理、コントロール、統帥するのは「天皇」である。その天皇に助言し、補佐、補弼(ほひつ)するのが内閣である。その内閣には海軍大臣と陸軍大臣がメンバーに連ねる。時の首相が軍の動きを管理しようとすると、「天皇の統帥権を犯しているぞ!」とくる。そしていつの間にか軍首脳の暗躍によって、戦線不拡大、和平の意志は雲散霧消していった、というのが当時よくあるパターンである。当時の軍の管理には憲法上の、つまり国のシステム上の限界、欠陥があった。

正攻法では和平の道は見いだせない。彼の苦肉の策が自分の腹心である早水親重と、弟忠麿の派遣であったのだろう。そう考えると、実の長男、近衛文隆を上海東亜同文書院に就職させたのも同様に、最初から和平の糸口を掴むための地下工作を目的とした、戦略的派遣であった可能性が出てくる。確かに上海での文隆の最大の目標は、東亜同文書院での学生主事の仕事をまっとうすることではなく、赴任早々から徐々に、重慶の蒋介石と日本の首相の直接和平交渉へ向けての地ならしへの動きとなっていた。

では当の本人、近衛文麿には、蒋介石と直接会って和平交渉をする意志があったのだろうか?これについての史料はまだ私は目にしていない。しかし、1941年7月、対米強硬派だった松岡外相を更迭して第三次近衛内閣が成立した一ヶ月後、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの8月18日の日記にこう記されている(「近衛家の太平洋戦争」近衛忠大著より)。

以下、グルー大使の交渉相手、豊田外相が語った部分を引用する。

日米間の危機を克服するもっとも望ましい方策は、共通の願いを持つ日米のリーダーが広い視野を持って率直に話し合うことだと考える。ルーズベルト大統領が同意するなら、近衛公爵がホノルルへ行き、大統領と個人的に話し合うことが極めて望ましい。首相が外国へ行くという前例が日本の歴史に無いことは言うまでもない。しかし、国内の一部に反対があることを承知の上で、首相たる近衛公爵は大統領に会う決意を固めている。

引用終わり

この提案はルーズベルトに伝わり、ルーズベルトは「ホノルルへ行くのは困難だが、アラスカのジュノー辺りでどうか。三、四日ばかり会談することが望ましい」と述べているようである。残念ながらこれは米国務省の慎重論で、幻の日米首脳会談となってしまったが、文麿に日米首脳会談の腹づもりがあったということは、日中間でもそのような覚悟があったことは推測できる。

ここまでの文脈でテンピンルーと文隆の出会いについて再考すると、これはむしろ近衛文麿側が求めての結果にも感じる。文麿は文隆の上海派遣前からテンピンルーの存在を知っていたのではないだろうか。文麿の腹心早水親重とピンルーは同じ小野寺機関に属していた。早水親重は文麿に適時報告を入れていたはずである。テンピンルーは日中の和平仲介に役に立つはずだという報告が入っていてもおかしくない。

中国側の定説では、近衛文隆の持つ機密情報を取ろうとして、テンピンルーが早水親重の紹介を得て文隆に接触した、というものだ。しかし逆に近衛文麿の秘密裏の和平工作の中で、文麿系の地下活動員である早水親重や水谷川忠麿らの計らいで、ピンルーと文隆が出会った、という見方もあり得ない話ではないだろう。日中の和平に燃えるこの若い二人を会わせることで、何らかのポジティブな化学反応が起こらないとも限らない、そんな思いがあったのだとしたら面白いなと、大胆に想像させてもらった。

さて、以下は、史料として、水谷川忠麿(みやがわただまろ)の昭和19年の和平工作についての文章で、今井武夫の「支那事変の回想」より引用する。

以下引用

 昭和19年12月になって、佐藤賢了少将が、支那派遣軍総参謀長として、東京から赴任してきた。(中略)

 彼は東京出発に先立ち、前総理大臣近衛文麿の実弟水谷川忠麿の訪問を受け、何世楨(かせいてい)を通じて行う対重慶和平路線について協議を受けたが、総司令部へ着任後、南京の現地で詳細打ち合わせすることを約した。

 何世楨は国民政府の司法部次長の経歴もある人で、当時上海に在住し、浙江、福建両省を防備していた、重慶国民政府軍の中国第三戦区司令長官、顧祝同(こしゅくどう)上将と密接に連絡した国際事情研究所の関係者と伝えるものもあった。

 何世楨はこの年の秋、重慶国民政府から派遣されたと称する徐明誠(じょめいせい)を、水谷川らに紹介したが、徐は日華和平に関する重慶政府の条件なるものを、政府の正式意向なりとして提案した。

 その内容は、

1,日本は天皇の親政とする
2.満州事変以来の戦争責任者を罰する
3.日本軍は中国から全面的に撤退する
4.日本が前記3条件の実行を同意する場合に限り、重慶国民政府は日本との和平交渉に応じる

というものである。

 水谷川は、満鉄経済調査局の土井章とともに、この会見談を近衛文麿に報告し、近衛の指示で、時の外務大臣重光葵に2回にわたって報告した。重光はしばらく情勢を静観する必要を力説し、当面の処置として、中国側との連絡のため、土田豊参事官を上海に常駐させると称した。

 この頃の日本政府は最高戦争指導会議において、対重慶和平工作は挙げて南京国民政府(注:汪精衛側政府)に一任し、同政府をして実行させることに決定した直後である。重光が動かず、静観を主張したのも、恐らくこの政府決定があったためではないかと思われる。

 佐藤の南京着任後、土井は水谷川、佐藤の前約に従い佐藤を訪ねたが、佐藤の依頼で、当時一緒に総参謀副長をしていた私が、土井と面会することとなったので、私もまた、当時の政府決定にもとづき、総軍の対重慶和平工作を一切厳禁されていたため、やむを得ず、この工作を当分静観するほかなきことを述べた。

  これがため、水谷川や土井は大いに失望し、総軍司令部の無理解を憤ったかもしれないが、私としてはこの種の工作の必要を認識しながら、本工作の緻密な内容を詳細に知るを得ず、真価を判断出来かねた以上、特に政府決定のらち外に行動することを許されず、他に仕方のない回答であった。

 その後水谷川は、軍からそれとなく上海退去を求められたそうであるが、もちろんこれは全く私のあずかり知らぬことであった。何しろ当時は一般に重慶との連絡といえば、反戦行為で、国家に対する裏切りのように単純に思われがちな時代であったから、重慶工作の事実が血気の軍人に知れわたれば、誰がそういう越権行動をとったかも知れぬことは、この種の工作に従事した私自身がかつて体験した種々の現状から考え、あり得ぬ事態では無かったと反省される。

 そればかりでなく、水谷川等が東京から、改めて上海に到着した時には、既に徐明誠も重慶に帰還し、上海で連絡出来かねたから、結局この工作も中断のやむなきに至り、水谷川も内地に引き上げてしまった。

 (後略)引用終わり

 

以上の引用により、水谷川忠麿が、重慶側(蒋介石側)交渉人との会談内容を近衛文麿に報告し、文麿の指示で時の外務大臣に伝え、和平に向けて国を動かそうと行動していたことが伺える。上の引用の中に、土井章と出てくるが、彼の名前に少し記憶があって当ブログ前記事「テンピンルーと早水親重」を読み返したところ、早水が「近衛文隆追悼集」に寄せた一文の中にも出てきていた。そしてそこになんと水谷川という名字も書かれていたのである。忠麿という下の名前が書いてなかったので、許洪新氏の言う近衛忠麿、つまり水谷川忠麿と繋がらなかっただけだった。これで早水親重と水谷川忠麿(近衛忠麿)はペアで日中和平に向けての地下活動を行っていたことが明らかになった。

水谷川忠麿はいったいどんな職業についていたのだろうか。春日大社の宮司を継いだ、というのはわかった。さらに少し調べてみると、1937年に、第一次近衛文麿内閣の賀屋(かや)大蔵大臣の秘書をしていた。また1945年9月の敗戦直後の第88回臨時国会で貴族院議員として名を連ねてもいた。政治家秘書から議員へというコースは恐らく兄であり首相であった近衛文麿の導きがあったのだろう。文麿は1938年、長男文隆を自分の首相秘書官として用い、帝王学を伝えた。しかし文隆は1939年テンピンルーとの一件がきっかけになり政治家の道を閉ざされた。文麿は、この異母弟、水谷川忠麿を文隆の代わりに政治家として育てたかったのかもしれない。

さて、水谷川忠麿はいくつかの著書を書いている。1942年1月出版のエッセイ集「南瓜の花(カボチャの花)」を紐解くと、彼が中国に滞在していた時のことに少しだけ触れていた。下記引用する。

Photo_3

引用開始

「南瓜(かぼちゃ)の花」 水谷川忠麿

 いつも訪ねる天津(てんしん)のS翁は四川の生活が長かった人で、その家の食卓で出される四川料理は、他のどこでも味わえない風味がある。一体に野菜が多く使われているのが一つの特徴のようである。

 一度だいだい色の軟らかいものの揚げたのを出されたことがある。

 淡黄の衣の中に、だいだい色の中身が光っているのが美しく、口にするとそのだいだい色が極めて軟らかく、噛みしめると新鮮な野菜特有の甘みがある。

 食えどもその味を知らずで、度々箸を運んでみたが、ついにその正体がわからぬので、主翁に尋ねてみると、それは南瓜の花で、四川料理では常に用いる。そして裏の畑に咲いたのを採ったのだと言う。

 道理で新鮮な甘みがあった。がしかし南瓜の花を食べるのは初めてである。

 それにしても揚げてあるのでよくわからないが、南瓜の花にしては少し小さい様である。支那の南瓜は花が小さいのであるか、あるいは大きい花の一、二片の花弁をちぎってあるのかわからないが、もしか言葉の不自由からきゅうりか何か他の瓜の花の間違いではあるまいかとも思って、聞き直して見たが、結局要領を得なかった。

 帰って一度試してみようと思いながらつい怠っている間に、もう南瓜の花もなくなりそうな季節になっている。 

引用終わり

かぼちゃの花の唐揚げ、一度食べてみたくなるようなエッセイではある。このエッセイ集は1941年末より以前の忠麿の日常体験をもとに書かれている。彼は少なくとも一時期、中国に住んでいたことがわかる。テンピンルーの生きていた時代、1939年当時に忠麿が上海にいてもおかしくないことの裏付けとなろう。

以上で、「テンピンルーと近衛忠麿」を終わります。

 

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2009年6月27日 (土)

テンピンルーと早水親重

Photo_3 今回は、早水親重(はやみちかしげ)にスポットを当てる。彼は1939年の上海で小野寺機関に属し、近衛文隆や花野吉平ら同様、日中の和平に向けて活動していた。

上海の歴史研究家、許洪新氏は2005年11月と、2006年4月に、ロスアンジェルスに住む鄭蘋如(テンピンルー)の妹、鄭天如さんに国際電話で取材している。早見親重の名前も出てきたようである。

「1930年代後半のある日、お姉さんと兄(おそらく鄭南陽)は、貝当路(フランス租界内、現在の衝山路)にあるホテルに出かけて行きました。その日は、早水さんと陳宝華(CC団幹部)との会談の日でした。

お姉さんは、「早水さんは学問ができてとても頭のいい方。ものごとの本質は何なのか、私に教えてくれる」と言っていました」

別の許洪新氏の記述によると、汪精衛政権樹立のきっかけとなった事件である汪精衛の重慶離脱について、早水親重からピンルーへ情報が伝わっているとなっている。ただし、情報元は不明である。

近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早見親重から、1938年8月にテンピンルーが聞いたことは、汪精衛の重慶離脱の情報だった。ピンルーはすぐに上司嵇希宗(けいきしゅう)を通じて重慶(蒋介石国民党の根拠地)に第一報を連絡した。続く1938年12月、再度報告したが、重慶ではその情報は無視された。12月29日、汪精衛は本当にハノイに向け重慶の蒋介石のもとから離脱した。この時以来、重慶ではテンピンルーの価値を認識するようになった」

次に、「張愛玲 色戒」という著作のある中国の歴史家、蔡登山の情報を見てみる。

「テンピンルーは早水親重の紹介によって、近衛文麿首相の息子、近衛文隆と知り合った」

とある。こちらも情報元は不明であるが、1939年2月に東亜同文書院の学生主事として上海へ派遣されきた近衛文隆とピンルーの出会いは、早水親重が取り持ったということなのだろうか。東亜同文書院で文隆の相談役であった小竹教授は、「近衛文隆追悼集」の中で、

「ある時、中国の高官の令嬢で、日本婦人を母とする女性が、これもしかるべき筋からの紹介で文隆さんに交際を求め、大学を訪ねてきたことがあった」

と書いている。この「しかるべき筋」というが早水親重であった可能性はある。

同じ「近衛文隆追悼集」には、早水親重も追悼文を寄せている。その書き出しはこうだ。

「近衛文隆君との初対面は、などというと、いかにも形式的で堅苦しい感じがする。近衛君を知るものにとっては、むしろ出会いと言った方がぴったりするんだが、その出会いは、多分昭和14年(1939年)の早春の頃、上海の同文書院の学生主事室に訪ねた時だったと思う。日支事変もいよいよ長期戦の様相を帯び、いわゆる近衛三原則の呼びかけも、汪精衛氏ら一統の呼応もあったがこれで問題解決にはならず、事態は益々底なしの泥沼に落ち込んで行くとしか見えない時で、直接交渉(注:蒋介石との)の観点に立って、なんらかの打開の道無きかと種々画策しつつあった私としては、近衛公は、かかる事態をどう処理して行こうとして居られるのか、令息の文隆君に聞くしかなかろうと、同じ思いの武田信近君を伴い訊ねたのであった」

(中略)

「従って話は、打開の方途を共に考えようじゃないか、という事になって別れた。それを機会にたびたび会合することになり、蒋介石氏と直接交渉を開く意外に方途無く、その方法等につき情報を持ち寄って協議したものであった。一方にはいわゆる影佐氏の梅機関等の汪精衛氏の活動も始まり、片や我らの動きもいつとはなく注意を向けられるところとなり、機関関係者の彼に対する悪戯的謀略等もあった。又、当時英国の駐華大使たりし、パトリック・カー氏との会見で、自分が斡旋するから直接交渉に重慶に行かれては、との彼への示唆もあり、速やかに上京し日本朝野の認識を改めさせねば、事が間に合わなくなると痛感、三人協議の上、上京することにした」

引用終わり

早水親重は、当時小野寺信ひきいる小野寺機関に属していた。小野寺信は参謀本部ロシア課が上海に送り込んだ、蒋介石との直接和平交渉派である。そしてテンピンルーは小野寺機関で翻訳の仕事を得ていた。ピンルーが早水の紹介状を持って文隆を訪ねた、というのはありえる話だろう。

ところで話はすこし脇道にそれるが、上の早水の文章中にある「機関関係者の悪戯(いたずら)的謀略」とは一体何を指すのだろうか。ひとつ考えられるのは、西木正明氏の「夢顔さんによろしく」というノンフィクション小説にも書かれている、ピンルーによる「近衛文隆誘拐事件」のたぐいを指しているのではないかと思う。もとになる史料は犬養健の「揚子江は今も流れている」である。犬養は影佐機関の重要メンバーである。

独自の和平運動を展開する文隆を、影佐機関はピンルーから切り離し、上海から追放したくてしょうがなかった。1939年5月、影佐禎昭の命令を受けて、上海領事の岩井英一が外務省あてに打電した、文隆の上海生活を勝手に作り上げた謀略電報の存在は岩井本人が明かしている(岩井英一「回想の上海」)。

岩井がどんな電報を打ったのか詳細にはわからない。”近衛文隆は、今晩も東亜同文書院の宿舎を抜け出し、ピンルーとダンスホールで踊り、飲み明かし、朝帰りになりそうだ・・・”、という情報をもとに(当時、ピンルーや文隆には憲兵隊の尾行がついていた)、大捜査網を敷き、「敵方の地下工作員による近衛文隆誘拐事件発生」としてでっちあげ、おおげさに言い立てた・・・。おそらくこんな顛末だったのではないだろうか。岩井の電報は岩井自身が言うには「近衛文隆の存在は百害あって一利なし」で終わっている。事実がどうだったか私には分からない。しかし「いたずら的謀略」とあえて言うからには、このようなことを指しているのかな、と思う。

実際のところ、岩井栄一の謀略電報は功を奏して、閣議決定により1939年6月、文隆は上海から去らざるを得なくなり、ほどなくして徴兵され兵士として満州に向かった

悪戯的謀略としてもう一つ考えられることは、東亜同文書院の小竹教授が「近衛文隆追悼集」で、文隆の帰国の理由として挙げていた「近衛文隆暗殺未遂事件」である。南京路で文隆と間違えて銃撃事件が発生していた。小竹教授は文隆の身の危険を案じ、泣く泣く帰国を促したとある。この人違い銃撃事件なども謀略的な臭いがする。影佐機関による文隆への無言の圧力、脅迫のたぐいだったかもしれない。

さて、話を元に戻し、もうすこしだけ早水親重が「近衛文隆追悼集」に寄せた文章を見てみる。

「昭和17年の夏頃だと思う。あくまで素志を貫徹すべく、もはや直接交渉の段階ではなく、できれば中国を介して連合軍との和平交渉にあたるべきだとし、再び上海におもむく事にした。満州を経由して行く方法がついたので、明日もわからぬ小生にとっての別離を兼ねハルビンに回ることにした。かねて友人を通じて阿城(注:文隆の赴任地)に連絡してあったので、一日間の外出許可があり、久しぶりで彼(文隆)の温容に接した。

前記の次第を述べたところ、非常な賛成で、彼の知る米国のことどもを語り、種々なる示唆もあって全く語り明かしてしまった。君の代理で最後までがんばると幾度も語り合ったものであった。ハルビン駅頭、互いに健康を祝し、南北に別れたのが最後になってしまった。いまもなお、昼下がりの満州の太陽のもと、手を振りつつ行く彼の軍服姿が目に焼き付くようだ。

昭和19年、東条内閣総辞職後、土井章、栗本両君らと、中国を介して連合軍との和平交渉の道をあけ、近衛公に取り次ぎ、公の代理として、水谷川氏らと共にこれ努めたが、ついに軍の反対で成らず、その間文隆君がいてくれたならば、と思わぬ日はなかった」

引用終わり

昭和19年の和平工作では、近衛文麿の代理としてと明確に書いてある。早水親重は近衛文麿の和平交渉代理を務めることができるほどの信頼を得ていた人物であったようだ。このことから、許洪新氏の書いている「近衛文麿首相が和平交渉役として上海に送り込んだ早水親重・・・」という文章にも信憑性が出てくる。

これは、日中の戦争開始に大きな責任を負うべき近衛文麿は、裏では和平の糸口をつかもうと、主流の流れとは違った線から早水親重のような人物を上海に送り込んでいた、ということだ。近衛文麿首相の複雑な思いがかいま見える。

最後に、戦後の早水親重に触れた文章を発見したので紹介したい。1945年12月、敗戦の日本に取材に来ていたアメリカの新聞社「シカゴ・サン」紙の記者、マーク・ゲイン氏による「ニッポン日記」(日本語版 1963年 筑摩叢書)である。この日記の1946年9月26日の冒頭を引用する。

「(昭和21年)9月26日  茨城県磯原村

10日前、私たちは東京を離れてこの県下への旅行に出た。しかし今では、なんだかそれが永遠のかなたのような気がする。二台のジープに食料、ガソリン、毛布、それから5人の乗客を満載して出発した。5人の乗客とはサリー、ジョー、ロイ、私、それに私たちの案内をつとめてくれる早水親重である。彼は詩人であり、舞踊家であり、素人力士であり、中国で特殊な任務をしていたことがあり、内閣の相談役でもあるという多彩な男だ。

私たちの第一の関心は農地問題であり、国家主義の地下組織であった。そして最初の五日間は早水の有能な裁量に一切を任せた。彼は私たちの旅行日程をつくり、地主、国会議員、町村長、村の役員たちとの会見の順序を手際よくきめてくれた。

この五日間、私たちの本部は丘の上にある、ある地主の邸宅の庭に面した豪奢な一続きの座敷だった。庭には池の精のような樹木の間に花が咲き乱れ、くちばしから水を吹き上げる青銅の鶴の噴水がある。久邇宮朝融王(くにのみやあさあきらおう)もかつてこの座敷に滞在したことがあり、「宮様のお座敷」と呼ばれていた」

(ブログ管理人注:このある地主の邸宅とは、水戸徳川家の休憩所「観海亭」として使われ、磯原御殿とも呼ばれた野口雨情の生家かな?と推測しておりますが、ご存じの方がいらしたらご連絡頂けたら幸いです)

引用終わり

マーク・ゲインの日記からは、早水親重が多方面に才能があり、内閣、農村の重鎮や旧家に人脈があったということが伺える。中国で特殊な任務をしていたとあるが、近衛文麿の密命を帯びた上海での和平工作のことであろう。

このマーク・ゲインという男、満州とモンゴル国境の町で生まれたロシア系ユダヤ人であるが、FBIの捜査によって、ソ連の共産スパイだったことが判明し、後にアメリカとの二重スパイとなることで釈放される、という経歴を持っているようだ。

さて、早水親重であるが、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」 でも書いたように、1939年7月、日本から上海に戻ったところを逮捕され、汪精衛政権が誕生する翌年4月1日まで地下室につながれた。

この逮捕劇を主導した上海憲兵隊特高課長、林秀澄は、早水の釈放に際し、「今まで取り調べもせずに約10ヶ月以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい」と開き直っている。そしてピンルーの消息を尋ねる早水に対し、「「今まだテンピンルーのことをかれこれ言われますとぶち込みますよ」と脅しましたと述べている(林秀澄談話速記録Ⅲより)。

林秀澄は、もう時効だと判断したのか、昭和52年、木戸日記研究会の取材に対し上に書いたように正直に告白している。早水親重ら小野寺機関員や花野吉平らを逮捕監禁したのは、作り上げられた罪、冤罪(えんざい)、あるいは国策捜査と言われるようなものだったのだ。国を主導する者が憲兵隊や検察を使って、ある人物を目的をもって逮捕、その政治生命を奪う・・・。ひょっとしたら今でも似たようなことが行われているのかもしれない。

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2009年6月22日 (月)

鄭蘋如(テンピンルー)像、中国で除幕式

Photo 上海市郊外の墓園、福寿園というところに、鄭蘋如(テンピンルー)の銅像が完成。2009年6月7日に除幕式が行われた。構想から2年ほどたっての完成である。除幕式にはピンルーの甥で、しばしばインタビューに答えている上海在住の鄭国基氏と、おそらくピンルーの兄弟の孫世代、そして古い友人、死の直前まで住んでいた万宜坊の人々、歴史研究家など100名ほどが集まったようだ。また、アメリカ在住のピンルーの妹、鄭天如(現在の名前は鄭静知)さんや、弟の妻、鄭陸肇氏も除幕式に感謝状を贈っている。

ちなみに、福寿園は53ヘクタールもの広大な公園墓地で明るいタッチの墓石やデザインに凝った墓石で世界の最先端を行っているらしい。

(下の写真は福寿園内のテレサテンのお墓)

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ピンルーの像は見ての通り、身体は斜めになり、両手が交差している。この銅像を作った著名な彫刻家唐世蓄氏によると、死の15秒前のテンピンルーということだ。手を縄で縛られ処刑場所に連れて行かれようとしているピンルーらしい。貞節と永遠の美しさを表した、ということだ。事前に私が予想したのと違って、少し悲しいデザインの像である。像のうしろを見ると、丁黙邨暗殺未遂事件の現場であるシベリア毛皮店と思われる写真をもってきている。これはちょっとどうかと思うが、ここ福寿園では日本人の感覚では考えられないような趣向をこらしたデザインのお墓ばかりなので、これもありなのだろう。

この除幕式は、このブログでも何度も情報を引用している歴史研究家、許洪新氏の新刊の発表も兼ねていた。本のタイトルは「一个女間諜」=「一人の女スパイ」。もしかしたら出版社が銅像の資金協力でもしてるのだろうか。

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ピンルーの母親木村はなは、戦後台湾に渡り、1966年に亡くなったが、死に際して蒋介石直筆の額に入った書をもらっている。これは日中混血でありながら、ピンルーの自己犠牲的な行動、上の弟が空軍に入隊して戦死していることなどから、母親として子供に対する愛国教育が模範的であった、という意味の感謝の書らしい。これを鄭国基さんと妹鄭天如さんが話し合った結果、福寿園内にある人文記念館に寄贈することになったようだ(上の写真)。

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銅像の足許には、ピンルーの生まれた年と亡くなった年月が刻み込まれた。これまで中国側の定説ではピンルーは1918年浙江省生まれとなっていた。この銅像の建立をもって、彼女は1914年生まれと公式に刻み込まれた。それはとりもなおさず彼女は、「日本生まれ」の女性ということである。彼女ら一家は1914年時点では今の東京都新宿区に住んでいた。それは父親鄭鉞(テンエツ、ツェンユエ)の法政大学留学時代の住所録によって明らかなことである。一家は1917年に中国に渡っている。父からしたら帰国であるが、はな、ピンルー、そして上の弟海澄からしたら生まれ故郷の日本から中国に渡る、ということである。

中国側のサイトに書かれない事実が二つある。

一つは、ピンルーが日本生まれということ。

二つ目はピンルーが日中の混血だったために中国人のクラスメイトからいじめにあってきたこと。

逆に、中国側サイトが常に強調することがある。

それはピンルーはあくまで抗日烈士だった、ということである。

抗日の英雄、ピンルーは中国生まれであるべきだろう。そして、中国人愛国者たちが抗日の英雄を差別したりいじめることなどありえないだろう・・・。そう思いたいのは分かる気がする。

共産党独裁の中国が、蒋介石国民党の地下組織で働いたテンピンルーを抗日の英雄としてたたえる。一昔前は考えられなかったことだ。中国の歴史教科書では、身を挺して日本と戦ったのは国民党軍でなく共産党軍なのである。

おそらく最近の中国共産党と、台湾の国民党政権の友好的な関係が影響しているのだろう。中国共産党は、対台湾政策に余裕を持ち始めている。

それでもやはりピンルーは蒋介石国民党の、今の状況で言い直すと台湾側の人間である。そこで、中国共産党、蒋介石国民党共通の敵、大日本帝国が必要になるのだ。今回の銅像のバックにある看板にもお決まりのように、「抗日英雄」という文字が見える。「抗日」を持ち出すことで、中国共産党と、台湾国民党は一つの場で安心してピンルーを語ることができるのである。

ピンルーが抗日活動をしていたことを私は否定しない。おそらく抗日の人だったろう。残酷なほどに中国を荒らし回る日本軍を追い返したかったろう。しかし、彼女に半分流れる日本人の血はないがしろにするべきではない。彼女は生粋の中国人のような単純な抗日ではありえない。ピンルーを半分は日本人として捉えることで、彼女がかかえていた闇に光が当たる。それは日本人研究者の役目だと考える。

いずれにせよ、家族の元に遺体を返してもらえず、お墓のなかったピンルーに、魂の安住の地ができた。うれしいニュースである。

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2009年6月10日 (水)

夜来香3年目

210523 上戸彩「李香蘭」とは切っても切れない縁のある花、夜来香(イエライシャン)。正確に言うと、月下香とも言うチューベローズがドラマで使われました。2007年1月のプレス発表の席でも、李香蘭こと山口淑子氏が上戸彩さんにチューベローズの花束を渡しています。歌の「夜来香」では歌詞の中に、「白い花」と出てきます。学術名の夜来香をたどると黄色い花になってしまうので、以下、夜来香=白い花のチューベローズ、ということにします。(上の写真は今年5月5日に植えた夜来香の芽です。5月23日撮影)



初めて夜来香を植えたのは2年前。植えるのが遅かったのですが、なんとか花が咲くまでいって、素晴らしい香りをかぐことができました。夜来香の過去の記事はこちら

で、その後は、ずぼらな私はかわいそうなことに、咲き終えた夜来香を放置してしまいました。本当は、堀上げ、といって球根を掘り出して保管しておくらしいのですが、10月に咲いた後、そのまま枯れるにまかせて、ベランダに置きっぱなし。土も乾ききってしまいました。

ところが、生物ってすごい生命力ですね。翌年の梅雨時のある日、集中豪雨があって、横殴りの雨でベランダの奥の方まで雨水が届き、鉢にも水が来たのです。その一週間後くらいに、緑色をした小さな芽がいくつか乾いた土から出てきたのです。

驚いて、そらからは水やりをしっかりして、太陽にもよく当てるようにしました。すると数多くの芽がどんどん出てきました。鉢の大きさと、土の栄養からいって、5本くらいの芽を残してあとは芽かきをしないといけないので、大きいのだけ残して、次から次に出てくる芽を毎日毎日取り除きはじめました。栄養を集中させないと花を咲かせるエネルギーが足りなくなるからです。

ところが、生物の生命力に負けました。止めどなく出てくる芽に、芽かきがとても追いつかず、もう自然に任せることにしました。というか、一つ一つの芽が、「私を刈り取らずに育ててください!」と言っているようで、だんだんと芽かきができなくなったのです。もういいや、全部育ってしまえ、と思って水と肥料を与え続け、太陽にいっぱいあてて、秋になりました。夜来香の花の咲く季節です。

結果は、予想通りでした。芽かきしなかった芽はそれぞれ勝手に育ち、乱雑に葉を出しまくりました。栄養を与えたつもりでしたが、足りませんでした。葉を出しただけで、9月になり10月になり、11月になっても茎が出て来なかったのです。一本も。

12月になりました。寒風が葉っぱだけの夜来香を冷たくさせていきました。2年目の夜来香は花を咲かせることもなく、茎すらも出さず、枯れてゆきました。


でも、私には希望が残っていました。この年に得た栄養は絶対来年に活かされるはずだと。Photo 今年の5月になって、おそるおそる、鉢の土を出して、球根を取り出してみました。驚きました。すごい数の球根です。元々の一つの球根に10個くらいの子供の球根がくっついていました。すごいプレゼントです。(上の写真)

その中から大きい順に5個を自分用に確保。もう5個を実家の両親にプレゼントしました。そして去年よりも一回り大きい鉢を買って土も新しく買っていっぱい入れ、5月5日こどもの日に植え付けました。

210531 2年前に通販で買ったときの最初の球根より一回りから二回り大きな球根です。きっと今年はりっぱな花が咲くと期待しています。写真は芽が出て1週間目くらいの夜来香。かなり元気です。


































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