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2007年6月の4件の記事

2007年6月13日 (水)

乾杯の歌の歌詞

乾杯の歌は1941年(昭和16年)2月11日に日劇のコンサートで歌われた中の一曲のようだ。全曲目は当時の新聞広告(「李香蘭」を生きて 日本経済新聞社出版 掲載)を見ると、「満州国国歌」、「いとしあの星」、「蘇州夜曲」、「支那の祭」、「支那の夜」、「東洋風組曲」、「紅い睡蓮」、「甘い言葉」、「乾杯の歌」となっており、宣伝文句が、「満映スター李香蘭 紀元節を記念して日満歌の親善」となっている。

さて、この日劇の「歌う李香蘭」と銘打ったコンサート、李香蘭の護衛に児玉英水(コダマヒデミ)という男性がついていた。彼は宮崎県出身で、演劇芸術の分野ではなかなかの才能のある人だったようだ。児玉英水


ドラマの中では児玉英水がプロデュースした演劇が李香蘭コンサートのためにキャンセルになったと演出されていたが、実際は出身の宮崎の民俗芸能をモチーフとした演劇で1ヶ月のロングランが行われ17万人もの観客を集めたようだ。彼は音楽・演劇の才能に加えて、明るく快活でかつ男性的な正義感の持ち主だったようだ。李香蘭にとってみれば、慣れない日本という国で心細かった時に、頼れる男として児玉英水に対して恋心を抱いたのもわかるような気がする。ドラマでは残念ながら、単なる護衛の男性に李香蘭が気を引かれたようになっていて、彼の優秀なプロデューサーとしての才能の描かれ方が少なかったので、唐突に李香蘭が恋心を告白するような感じになってしまっていた。限られた時間枠の中でギリギリの演出だから仕方ないか。

彼は報道班として出征し、昭和20年2月、アメリカ軍のフィリピン上陸に抵抗する日本陸戦隊に同行、3月初旬に部隊が全滅しており、そのときに戦死したものと思われる。そのころ李香蘭はといえば6月に上海で開かれた「夜来香幻想曲」なるコンサートの準備を始めるころだろう。

Photo_9 さて、乾杯の歌の歌詞です。イタリアの椿姫なるオペラの中の歌の日本語版ですが、私はこの歌詞が一部ずっとわかりませんでした。上戸彩さんは、濁音をあまり濁らせずに発音しますので、「友よ、いざ」という部分が「トモーヨイサ」とか「この夜にさ」とか聴こえてずっと引っかかっていました。私が詩心があれば類推して簡単にわかるのでしょうけど、頭固いのでわからず。いろいろ検索したところ、複数の全く違う日本語歌詞がありましたが、「上戸彩李香蘭」的には、下記の歌詞になります。微妙にオリジナル歌詞のようです。 私はこのドラマ中の乾杯の歌のシーン、ジーンと来たシーンのひとつです。昭和16年頃の日本人て、コンサートで一緒に歌手に合わせて歌を歌うとかのイメージが全くありませんでした。でもこのシーンを見て今の若者と一緒なんだってわかりました。いつの世も楽しいことが人間は好きなんだと。戦争なんかは忘れてしまいたいと。そんな気持ちがよく伝わるシーンでした。
上戸彩の乾杯の歌はここをクリック

Libiamo 「乾杯の歌」
作曲:Verdi

友よ
いざ飲み明かそうよ
心行くまでに

誇りある青春の日の
楽しい一夜を

若い心には
燃える恋心
やさしい瞳が
愛をささやく

またと帰らぬ日のために
杯(さかずき)を上げよ

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2007年6月 7日 (木)

上戸彩李香蘭の番組影響倍率

誰もが気軽に作成し日常の感じたことを日記のように書き込めるブログ。今では日本語ベースで一日15万から20万件の書き込みがあるらしい。そのブログのエントリー(書き込み)内容をマーケティング分析に利用できないか?という視点で独自のエンジンを使って統計をとっている検索サイトkizasi。19年6月現在で411万人が書いた9,400万件もの書き込みを調査対象としている。


今回はここの統計を使ってドラマ李香蘭の「番組影響倍率」とも呼べる数値を出してみた。比較の対象は、ドラマ李香蘭を「かいま見た」だけでいい加減な批判をし上戸彩ファンの「天敵」となった有田芳生氏、が原作の「テレサテン物語」である。「テレサテン物語」の視聴率は関東に限ると15%を上回ったらしく、おなじく関東での「李香蘭」の9%前後と比べるとずいぶんと大きな数字になったものだ。しかしブロガーである私にとって、放送後のブログ検索の感覚からは、テレサテン物語の勢いの無さが印象的なので、どうにも腑に落ちない数字である。そしてまた書き込まれる感想もどちらかと言うと「がっかりした」というのが多い。

私の言う「番組影響倍率」の出し方は、すごく単純である。放送のあった週より前の6ヶ月間に「李香蘭」および、「テレサテン」と言う文字を使用したブログの書き込み数の平均値と、放送のあった週の書き込みの数を比べて何倍になったか、というもの。つまり、番組が放送されたことを原因として、どれだけ「テレサテン」と「李香蘭」が世間の話題となったか?という影響度をブログの書き込み数から割り出すものだ。以下がその結果である。


週あたりのエントリー(書き込み)数

放送前平均値(6ヶ月間) 

「テレサテン」 20.04

「李香蘭」   20.63


放送のあった週

「テレサテン」  92

「李香蘭」    310


番組影響倍率

「テレサテン」 4.59倍

「李香蘭」  15.04倍


Photo_8 という結果である。つまり、ドラマ李香蘭のあった週にそれまでよりも15倍もの「李香蘭」という文字を使ったブログの書き込みがあったのに対し「テレサテン」はその3分の1も話題になっていない。私が自分で検索した感覚からも納得のいく数値となった。ドラマ「李香蘭」はドラマ「テレサテン物語」の3倍強の世間への影響力があったと推測される。

ちなみに、kizasiのサイトのラボというタグの「きざし的フォークソノミー」というところで「李香蘭_+感動」という組み合わせキーワードで調べるとピーク時で2月15日に10件を記録、「テレサテン_+感動」だと6月7日にピークでたったの2件である。ドラマ「李香蘭」の方が感動を伴って視聴者に影響を与えたことを物語っている。


マスコミでよく発表されるビデオリサーチ社の視聴率は通常は関東全体で600世帯を対象にした世帯視聴率が発表される。その世帯の中で何人が見たかはわからない。さらにビデオリサーチ社の視聴率の出し方では、画面を見て無くてもテレビのスイッチが入っていさえすればカウントされてしまう。逆に外出中などで録画をした件数はカウントされない。録画するような人のほうが熱心に見る気もするのだが・・・。つまり、番組のインパクト、影響度、どれだけ深く見たか、感動を呼んだか、という要素がすっぽりと抜けてしまう。これらの「視聴の質」をスポンサーに訴えることで新たなマーケティングのアイデアも浮かぶのではないだろうか。そしてなによりも、力と気の入ったドラマ作り、番組作りが行われるようになるのではないだろうか。李香蘭とテレサテン物語を両方見た人にはよくわかることだと思う。

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2007年6月 6日 (水)

「彩の夢」さん

子供のころは完璧なテレビっ子の私ですが、最近はテレビって全然見ません。全然ってどれくらいかというと、ひと月に3回くらいスイッチを入れる、それくらいです。そんな私がドラマ李香蘭を見ようと思ったのは、たまたま新聞の番組欄に上海という文字を目にしたから。1月末に上海に旅行した私は軽いカルチャーショックとともに帰国しました。俄然上海や中国に興味を持っていたタイミングにこの「李香蘭 満州編、上海編」が二夜連続で放送されると。この番組を知ったのは当日の夕方です。

Photo_9 上戸彩さんも実は名前しか知りませんでした。正確に言うと、損保ジャパンダのかわいらしいぬいぐるみ姿だけ知っていました。ましてや李香蘭、山口淑子は全く知らず。聞いたことも、見たこともない人。事前情報全く無しです。ただ上海の街並みとかがテレビで映ったらいいなと、それくらいの気持ちで見始めました。

最初の方の場面で、李香蘭の子役が出てきました。この女の子のなんともいえない目力に引き込まれました。姪っ子にも似てて、ん?という感じでした。日本人なのか中国人の子役なんだかよくわからなかったけど、中国語も上手。演技はもちろん子役そのものって感じなんだけど、不思議な魅力があって、もう少しこの子を見たいなと思っていたら、上戸彩さんが李香蘭の名前をもらうシーンになり、この子は二度と出てきませんでした。

そう、私をまずこのドラマに引き込んだのは、李香蘭の子供時代を演じた子役だったのです。ずっと誰だかわかりませんでした。でもネットは便利ですね。わかりました。小池彩夢(コイケアヤメ)さんという12歳の方でした。名前がすごい。上戸彩さんの「彩」に「夢」です。そして彩夢さんの誕生日は2月13日。李香蘭が2月12日ですから一日違い。上戸彩さんもおばあちゃんが本物の李香蘭のファンでよく歌を歌っていたとか。この3人、なにかの縁があったのかも?

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2007年6月 1日 (金)

もう一人の李香蘭

李香蘭が時代に翻弄された美しい女優であるならば、もう一人、李香蘭とは1歳違いのこの日本人女性の人生も知っておかねばならないかもしれない。大女優ではない、普通の満州開拓団の日本人女性は満州でどう生きたのか!下記リンクのホームページを見つけましたのでぜひ読んで頂きたい。時間の無い人は、目次にでている「10.満州開拓団」~「15.帰国」という項目までだけでもいいので。私はこの「15.帰国」まで夜中一気に読んで、大粒の涙をこらえ切れなかった。

生かされて生き 万緑の中に老ゆ

李香蘭が理想郷満州の夢を、歌に、映画に振りまいていた時、その満州に新たな人生を築くべく旅立った大勢の日本人、満蒙開拓団の人達がいた。

満州、中国で歴史に翻弄された人生、それはなにも李香蘭だけではなく、これら満州に渡った開拓団民32万人全ての人に言えるのだろう。そして32万人ひとりひとりが李香蘭であった、とも言えるのかもしれない。いや、彼ら彼女らが移住する前にそこに住んでいた現地の人の人生も大きく変わったことだろう。突き詰めるといったいどういうことなのか、よく分からなくなる。

当時日本のものである満州鉄道の施設、燃料となる炭鉱、社屋、社宅、これらを守らないといけない。日本国内の不況、不作、食料不足を解消しないといけない。ロシアがいつ襲ってくるかもしれず防衛しないといけない。現地の反日盗賊が日本人を襲ってくるのをはねのけないといけない・・・・
理由はいろいろあったのだろう。日本人を満州に500万人も送り込む計画を日本政府は真剣に実行中だった。終戦時に開拓民だけで32万人が移住していた。生きて帰国した人は10万人程度らしい。

日露戦争に勝たなければ満州鉄道は日本のものにはならなかった。満鉄社員などおらず山口淑子(李香蘭)も生まれなかった。しかし日露戦争は起こり、満鉄が日本のものになった。ではぜ日露戦争が起きたのか?

学校で歴史を学ぶときは普通、原始時代から学んでいく。だいたい3学期ころに昭和をギリギリ学べるかどうかだろう。昭和からスタートして逆に、なぜ?なぜ?と学んでいくのもいいのかもしれませんね。

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