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2008年1月 8日 (火)

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇  前編

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李香蘭は終戦の一ヶ月前、上海で張愛玲(チャンアイリーン)と対談し、映画談義に華を咲かせた。その張愛玲の短編小説「色 戒」が2007年秋、映画「色 戒 (ラスト、コーション)」 (Lust Caution)として公開され、ベネチア映画祭で金獅子賞をとった。この原作のヒロインのモチーフとなったのが鄭蘋如(テンピンルー)である。

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鄭蘋如(テンピンルー 上海語ではツェンピンジョ)は日本で生まれた日中混血の美しい女性だ。姉、二人の弟、妹の5人兄弟である。彼女の父は鄭鉞(テンエツ ツェンユエ)といい、清の時代末期の1906年、28才の時に来日した。蒋介石の日本留学と同じ年である。2年後の1908年に法政大学の清国留学生法政速成科に入学した。卒業生には汪精衛(汪兆銘)らの名前も見ることができる。彼ら中国からの留学生は、明治維新を成功させた日本に学び、新しい中国の国作りに燃えていた。

テンエツはやがて、茨城県真壁出身で東京都牛込区(現新宿区)東五軒町20番地の下宿屋林館で働く木村はなという女性と知り合い結婚した。彼が住むその林館は孫文の主宰する「中国革命同盟会」という中国人組織の本部でもあった。彼は勉学のかたわら、中国の革命運動に従事していた。後に互いに争うことになる蒋介石と汪精衛もこの同盟会のメンバーであった。テンエツは1912年7月に一旦法政大学を卒業。ちょうど妻のはなが長女真如を出産する前後のころだ。彼は卒業後も留学を延長しているようである。

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ピンルーの生まれは諸説あり、最も早い生まれは、1914年5月15日という説である。これは中国の歴史家、許洪新氏によるものだ。読売テレビ「鄭蘋如の真実」はこれにもとづいている。読売テレビでは、生まれたのは東京牛込区(現新宿区)早稲田鶴巻370番地である、というところまで特定している。これは法政大学の1914年5月17日印刷の名簿に記載されたテンエツの住所からの推測である。長女真如が2才、そして次女ピンルーを身ごもったことで、育児のためだろうか、人の出入りの激しかった下宿屋林館から一家は引っ越したようである。

中国語サイトでは、そのほとんどでピンルーは1918年浙江省蘭渓生まれと記載されている。戸籍上はそうなっているのであろうか。浙江省蘭渓は父テンエツの本籍地である。テンエツ一家は、1917年に日本から中国へ渡ったようなので、ピンルーがもし1914年生まれであれば日本生まれ、1918年生まれであれば中国での生まれとなる。

後述する丁黙邨(ていもくそん))による戦後の漢奸裁判での本人答弁では、「缘郑母系日人,郑在日生长,日语极佳,日友极多,日籍密友亦不少」

(母親は日本人であり、鄭(注:テンピンルー)は日本で生まれ育ち、日本語が上手で、日本人の友人が多く親友もまた少なくない)

と語られている。彼の答弁は、ピンルーが日本で生まれであることを裏付けている。

妹の天如さんが2007年9月に行ったインタビューでは、ピンルーは亡くなった時(1940年2月)23才、その時天如さんは12才か13才だったと語られている。一方、1940年1月にピンルーは日本憲兵隊に捕らえられ、憲兵隊特高課長の林秀澄に歳をたずねられているが、彼女は26才と答えたようである(林秀澄談話速記録Ⅲより)。当時の中国では日常会話では「数え歳」を使っていたが、満年令でいえば25才ということであろう。

ピンルーの下の弟、鄭海澄は1916年10月28日生まれという記録が中国空軍の史料に残っている。海澄も日本生まれになるが、籍は浙江省蘭渓となっている。おそらく漢奸のいらぬ疑いを持たれないように、日本生まれということを隠していたのだろう。年齢はごまかす動機がないからこれは正しいのだろう。ピンルーの生まれが弟より前ということはありえないので、多くの中国語サイトに記載されている「1918年浙江省蘭渓生まれ」、という定説は間違いだということがわかる。また、妹天如さんの言う、1940年2月の時点でピンルーが23才、というのも記憶違いということがわかる。ピンルーと海澄の二人が同時に写っている2枚の写真からすると2才程度は海澄の方が幼く見える。

許洪新氏のいう1914年生まれという説は、1936年2月21日作成の上海法政学院の名簿に、ピンルーが21才と記載され、誕生日が1916年5月15日と記載されていることからの類推である。満年齢で記載されているなら1914年生まれ、数え歳だったら1915年生まれである。誕生日の欄にはなぜか1916年生まれとなっているが、これを信じると、弟海澄と双子になってしまうのでこれは記載ミスだろう。民光中学の名簿では、1935年9月時点でピンルーが21才と記載されている。これらを合わせ、このブログでは許洪新氏の説を採って、ピンルーは1914年5月15日、東京牛込区(現新宿区)の生まれ、亡くなったのは1940年2月、満25才、数えで26才の時、とする。

さて、父テンエツは、妻はなと長女真如、次女ピンルー、長男海澄を連れて1917年に中国へ戻った。テンエツは、1919年に陝西靖國軍一等秘書 兼軍法所長への就任を皮切りに、各地の検察官を歴任、中央特殊刑事法廷審判員となり、上海の復旦大学(旧震旦大学)の教授に就任。1935年、江蘇高等裁判所第二分院主席検察官に任命された。1938年になると最高裁判所上海特区法廷検察官まで上りつめた。

このように、長い日本滞在経験と、上海における刑事、司法分野で強い力を持つテンエツには、上海の統治に手を尽くす日本憲兵隊が接触を始め、親日政権の法務部長職に就くよう、あの手この手の工作が行われることになる。一方テンエツは日本側の誘いを一切断り、無線局を設置して、漢口、そして重慶まで逃げた蒋介石国民党政府と連絡を維持していた。

彼ら家族は、1931年初頭に上海の菜市路(現、順昌路)太平橋の家から、テンエツの職場である裁判所から歩いて10分ほどの呂班路(現、重慶南路)沿いの万宜坊(まんぎぼう)67号に引っ越した。フランス租界内の100世帯ほどからなるテラスハウスで、独立した洗面所や応接間を持つ当時としては先進的な住宅だった。妻、木村はなは、鄭華君(テン・ホワヂュン)という中国名をつけ、中国に骨を埋めるつもりだった。

1934年春に家族は、車を停めることのできる万宜坊内の88号室に引っ越した。16 3階(上の写真)に自分の部屋をもらったピンルーは、学校へは自転車で通学した。姉の真如とは、近くにあるフランス公園(現在の復興公園)の小動物園によく行き、羽を広げた孔雀を見るのが大好きだった。明るく活発な性格の彼女は万宜坊の中でも誰もが知る存在だった。学校の話劇(日本の新劇にあたる)の主役として、図画時報(EASTERN TIMES PHOTO SUPPLEMENT 1931年3月号)の一面で紹介されてもいる(左の写真)。

1931年9月の満州事変につづき、1932年、日本軍と中国軍が上海北部で戦火を交えた。上海での利権拡大と満州事変に批判的な国際世論の目を中国南部にそらそうと意図して日本が起こした上海事変である。勝利を収めた日本軍は上海での存在感を増していった。それにつれ、日本軍、日本人に対する中国人の反感は増しており、いたる所で抗日集会が開かれるようになっていた。日本人通学児童に対する投石が相次いだ。満州事変1ヶ月後に出された対日経済断交の内容は下記の通りである(「ドキュメント昭和」角川書店 より)。

1.日本商品を買わず、売らず、用いず

2.原料、いっさいの物品を日本人に供給せず

3.日本船に乗らず、荷揚げせず、積荷せず

4.日本紙幣を受け取らず、取引せず

5.日本人と共同せず、日本人に雇われず

6.日本新聞に広告せず、中国紙に日本商品の広告を載せず

7.日本人と対応せず

これらに違反した中国人は、

1.反日救国会の懲戒委員会で審査

2.罪重き者は漢奸(売国奴)として死刑

3.懲戒は、貨物没収、財産没収、町を引き回し、売国奴衣装着用、三角帽子着用、罪名を記した布を胸につける

といった罰を受けた。

ピンルーが弟二人を連れて、街角で満州事変に抗議する反日ビラを配ったのは、この頃のことである。ピンルーは日本人を母に持つ自分ら家族が抗日中国人であることを証明するのに必死だった。

ピンルーは1933年9月民光中学(6年制)に19才の時に編入した。民光中学は、蒋介石の地下工作組織CC団が作った学校である。ピンルーの年齢からすると一旦別の6年制中学を卒業後、編入したと思われる。父親の転勤などもあってか、翌1934年に一旦休学したようだが、1935年9月に復学。その時の名簿の一部が読売テレビの「鄭蘋如の真実」で見ることができたが、年齢がピンルーの21才から32才の男性まで広がっていた。民光中学は6年制中学校であるが、社会人も多く学んでいたようである。

1936年2月、ピンルーは民光中学の商科3年を卒業、姉と同じ上海法政学院の2年生として入学、法律を学び始めた。そのころピンルーの弟二人は日本に留学していた。上の弟、海澄は、名古屋飛行学校でパイロットになるべく飛行機の操縦を学んでいた(下の写真。1937年3月撮影)。下の弟、南陽は日本で西洋医学を学んでいた。反日ビラを配りながらも日本へ留学する、このあたり、鄭家の複雑な思いがかいま見える。 2

1937年7月、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中の正規軍が交戦、上海にも戦火が飛び火し、ついに日中戦争が始まった。同時に、国民党政府から、日本人を妻に持つ中国人は、妻を日本に帰国させるよう命令が゙出た。テンエツの妻、木村はなは日本に帰国しなかった。それどころか、はなは、日本留学中に軟禁状態になってしまった息子二人、海澄と南陽を連れ戻すために、いったん日本へ入国、息子達を密航同然の状態で船で上海に連れ戻した。海澄は帰国するとその足で中国空軍に入隊した。

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上海一の発行部数だったグラビア雑誌「良友」1937年7月号の表紙を飾ったピンルー

Photo_4 次の目次を見るとピンルーの紹介(鄭女士と記載されている)の次に盧溝橋事件(1937年7月7日。日中戦争のきっかけとなった事件)が記事になっている。ピンルーのその後の運命を暗示しているかのようだ

上海での激しい戦闘は日本が勝利をおさめ、そのままの勢いで、首都南京を陥落させた。日本軍の進撃に伴い、中国側におびただしい数の死者、けが人が出、家屋は崩れ落ちた。猛烈な反発がおきた。反日宣伝が抗日新聞や抗日ラジオで連日激しく報道され、街頭のいたる所で反日集会が盛り上がり、スピーカーからは怒鳴り声が聞こえた。

日系ハーフであるピンルーにはクラスメイトからの注目がいやがおうにも集まった。それは徐々に深刻ないじめ、差別へとエスカレートした。不登校がちにもなったようである。ピンルーの甥、鄭国基氏は読売テレビの取材に対し、

「テンピンルーは、父親の国を愛し、母親の国を愛していました。しかし、ハーフであることは隠しても隠しきれないことでした。学生時代、まわりの人に、日本人の血が入っていることがわかると、石で殴られたり、ひどいいじめにあったといいます。私たち家族は、いろいろな人から誤解され、悲しい思いをしました」と答えている。

また、許洪新氏の取材に対して、祖母木村はなに対する差別の実態もこう話した。「向かいの建物から空気銃で撃たれたり、日本人の祖母は物を投げつけられたり、小日本(日本人野郎)となじられたりしました」

Photo 冒険心に富む性格ゆえか、そういう年頃なのか、あるいは何か他の理由からだろうか、ピンルーはフランス租界にあるダンスホールに出入りするようになっていった。ここでは日本人の血が流れていることは気にする必要はなかった。百楽門(パラマウント)や仙楽斯(シロス)という一流のダンスホールでは、ピンルーはいつの間にか人気者になっていた。

社交界に入りこんだピンルーは、蒋介石国民党系の親衛隊である「CC団」(Central Clubの略)の常務委員、陳宝驊(ちんほうか)と知り合った。陳宝驊は、CC団のリーダーである陳立夫、陳果夫兄弟の遠縁にあたる人物である。彼女の日本語能力と、母親を通した日本人人脈に、対日地下工作の期待がかけられた。

「中国のため役に立てるかもしれない」・・・

「自分が中国人であると認められたい」・・・

「日本軍がいなくなれば、平和が戻るはず」・・・

いろいろな思いがよぎったことであろう。ピンルーはCC団系の抗日グループに参加することになった。グループには上海法政学院の一つ上級生である嵇希宗(けいきしゅう)や、陳彬(ちんひん)らがおり、嵇希宗が直接の上司になった。ところが当時のCC団の名簿には、嵇希宗らの名前は載っていても、ピンルーの名前はどこにも載っていない。彼女はCC団の正式なスパイではなく、運用人員扱いだったようである。そのため彼女はスパイとしての専門的な訓練は受けていなかった。逆にそれが、誰に対しても自然な振る舞いとなり、相手に警戒感を持たれない結果となった。

Photo_7 ピンルーは、彼女にしかできない情報ルートの開拓をはじめた。1937年12月、日本の中支派遣軍特務部が上海の日本人地区、虹口(ホンキュウ)の日本人倶楽部に設けた「大上海放送局」というラジオ局のアナウンサーになった。母親木村はなのつてで採用されたのである。報道内容は、日本軍の正当性と、蒋介石国民党の不正行為を、中国人をリスナーとして訴えるものであった。これは、ただでさえ親日=漢奸と疑われがちなピンルーにとってつらい仕事だったと想像できる。

甥、鄭国基氏によれば、ピンルーは小さい頃から歌と演劇が好きで、ラジオでは報道だけでなく、歌も披露していたようである。ラジオの仕事は半年程度しか続かなかったようであるが、日本人特務部員との人脈を広げることとなった。また、小野寺機関(後述)で翻訳や新聞検閲の仕事も得た。

ピンルーは、日本の謀略組織、影佐機関が、汪精衛(別名、汪兆銘)を利用して傀儡(かいらい)政権樹立工作を始めたことを初期段階から掴んでいた。ある日、最高機密を引き出した。蒋介石に次ぐ国民党ナンバー2の汪精衛が国民党の本拠地重慶を脱出してベトナムのハノイへ移住し、日本政府の要求を飲んだ和平声明を発表をする、というのだ。結果的にはこの情報を受け取った蒋介石国民党がピンルー情報の信憑性を疑って、汪精衛が重慶から脱出すのを阻止できなかった。しかしピンルーの情報の確かさの最初の証明となった。

蒋介石は、刺客として、蘭衣社の陳恭樹ら7人をハノイに急ぎ派遣した。闇夜の晩、彼らは汪精衛の居宅に侵入、暗殺を図った。銃弾は汪精衛には当たらず、彼の秘書が身代わりのように銃弾に倒れた。この一報を聞いた影佐機関は驚愕し、汪精衛を急ぎ上海に連れてくることになった。上海に滞在することになった汪精衛には、強力な護衛が必要だった。それが、後述する「ジェスフィールド76号」である。

ピンルーは、日本軍がドイツ大使館を通じて和平交渉をはじめた情報もいち早く入手した。ドイツ人のトラウトマン大使が日中の間に入って和平を仲介するトラウトマン工作である。ピンルーはこれらの機密情報を、日本の反戦和平派、陸軍特務の総務部第一班(思想班)の花野吉平に伝えた。当時日本軍内部も、汪精衛の傀儡(かいらい)政権樹立派以外に、わずかながら蒋介石国民党との直接和平交渉、ならびに撤兵を主張する反戦和平派が存在した。

花野吉平はピンルーの口から、汪精衛工作にうごめく最初期の活動家、伊藤武雄、西義顕、松本重治の名前を聞いて驚いた。花野は、日本軍部の動向は中国人工作員から教えられることが多かったとその回想録「歴史の証言」に記述している。

花野はピンルーの家族とも個人的な親しい付き合いをするようになっていた。歴史家の許洪新氏によると、花野が1970年代に編集したという「書簡集」の中で、「私は鄭先生夫妻に家族同様に見なされて、夫妻から中国社会の中でとても役立つ教戒を得ました」と書いている。テンエツからは、汪精衛政権樹立に暗躍する影佐禎昭が、上海で偽の暴動を起こし、鎮圧の名目で日本軍の勢力を拡大する謀略を聞いた。

また、医者を目指していた次男南陽が満州にある日系の奉天医大病院での医学研修を希望すると、花野は奉天のヤマトホテルまで一緒に行き、日本人の友人に南陽の世話を託したりしている。南陽は囲碁が得意で、花野や特務部経済担当の岡崎嘉平太は彼の囲碁仲間であった。花野はピンルーの死後、テンエツまでもが病に伏したとき、鄭家が受け入れた日本人二人のうちの一人だった(もう一人は花野の仲人も務めた肥後大佐と言われている)。花野はピンルー、そして父テンエツの死後、残された鄭家の保護に最善を尽くした。

花野は、中国側工作員との情報交換を進めるなかで、憲兵隊に逮捕されている中国人の救助を依頼されるようになり、多数助けていた。憲兵隊の一部には花野の動きに賛同する者がいたのだ。ある日、花野はそのお礼にと、フランス租界ジョッフル通りにある偉達飯店(いだつはんてん)での会食に誘われた。出席してみると、蒋介石国民党工作員、中国共産党工作員の他に、通訳としてピンルーと弟南陽も同席していた。彼はそこで和平に向けての活動方針を堂々と述べるのだった。ちなみに、戦後の漢奸裁判で裁かれていた丁黙邨(後述)は、「ピンルーと花野は親友(注:原文では密友)のつきあいだった」と被告人弁論で述べている。

2 1939年2月、ピンルーが嵇希宗(けいきしゅう)のグループで地下工作員の活動を始めてから2年ほどたった時である。日本の前の首相、近衛文麿の息子で、父の秘書官を勤めた近衛文隆(1915〜1956)が、東亜同文書院という上海にある日本人向け大学に学生主事として赴任してきた。2月10日、ピンルーは、日本人の知人の紹介状を携えて、東亜同文書院を訪ねた(この紹介者は近衛文麿が和平交渉役として送り込み、小野寺機関に属した早水親重という説もある)。文隆の相談相手を兼ねる小竹文夫教授から、「見知らぬ中国人とは面会しないよう」アドバイスされれていた文隆は、訪れてきたピンルーに婉曲に交際の断りを入れた。

しかしピンルーはあきらめず、二度目に訪れた帰り際、小竹教授に手を合わすようにして訴えた。

「私は母が日本人なので日本が大好きであり、もっと日本語を習い、日本のりっぱな人と交際してみたいのです。近衛さんと交際するのを許してほしい」

今となってみれば、これは、地下工作員として、文隆から情報を取ろうという意図からの発言だと疑うことは容易である。しかし全てが嘘とも思えない。なぜなら文隆は機密情報はほとんど持っていなかったからである。小竹教授の回想(「近衛文隆追悼集」)によれば、

「その令嬢は見たところ実に可憐な女性で、家内なども性の悪い人とはとても思えぬと言う」

そういう印象であった。小竹氏の妻もピンルーとの面会に同席していたようである。小竹氏は続けて、

「彼女がスパイであり、何か目的を持って文隆さんに近づこうとしたのだとしても、何の効果も得られるはずがなく、また実際に何の関係もなかったのであるが」

と述べている。

建国大学教授中山優氏や、学習院時代の同級生で同時期に上海に赴任していた海軍士官立花忠輝によると、プリンストン時代に人気者であった文隆には、中国人同窓からの交流の誘いも多く入ったようである。文隆が上海の名門子弟やジャーナリストグループらと交流を始める中で、小竹氏は文隆とピンルーの交際を見守ることになった。ピンルーと文隆の短い交際はこうして始まった。

3 文隆が米国プリンストン大学留学中に覚えた社交術は、上海でもいかんなく発揮された。上司を敬い純粋な素直さを持つ文隆(小竹教授による)には、あけっぴろげで遊びなれたところがあった。文隆はなんの疑いも持たずピンルーと付き合い始めた。ピンルーも、今まで会った日本人男性にはない高貴さがあり、歳も一つ違いで、気の置けない快活さを持つ文隆に興味を持ったのであろう。二人はサッスーンのホテル、パラマウント、シロスなどのダンスホール、大光明大戯院などの映画館、永安公司などのデパートなどで一緒の時を過ごした。文隆は、5月9日付けで幼なじみ細川護貞宛の手紙にこう書いている。

「同文書院とは実にうるさい所だ。職員の奥様連中、有閑マダムばっかりなもんで、話題がないので俺がいつも槍玉にあげられる。しゃくにさわって、今度は一つグーとやっつけてやろうと思って、一昨日学校の運動会の折りに一支那美人を招待して、いともねんごろなところを見せつけてやった。今果たして大問題になって彼女の身許調査をやっとるらしい。愉快愉快」

当然こういった行動は、林秀澄率いる上海憲兵隊特高課を刺激した。ある日ピンルーは、ダンスホールで自分のハンドバックを盗まれたのに気づいた。ところが、後日、中身を何一つ取られずに同じところに置いてあるのを発見する。ピンルーは自分が尾行されているかもしれないと感じていた。

ピンルーは、日本陸軍参謀本部のロシア課が送り出し、小野寺機関の長となって日中和平を実現させようと動き始めていた小野寺信(マコト)中佐にも近づいていた。ピンルーは小野寺には主に共産党情報を提供していたが、蘭衣社とも特別なルートがあるといって、とある蘭衣社工作員を小野寺に紹介した。この人物は、蘭衣社のリーダーであった戴笠(タイリー)を小野寺に会わせると持ちかけた。この時の蘭衣社工作員に与えられた役割は、汪精衛ではなく蒋介石との直接交渉によってのみ和平の可能性があることを日本側に知らしめ、汪精衛政権樹立を破綻させること、そして米英の対日参戦までの時間を稼ぐことである。

蒋介石はその後も、日本側主流である汪精衛政権樹立派の今井武夫(支那派遣軍参謀)に、和平仲介人として蒋介石の親族と自称する偽者の宗子良なる人物を面会させている。日本側主流にも軍の力による局面打開が難しいことがもはや分かっており、また汪精衛が思ったほどの力を持たないことを知り、蒋介石との直接交渉にも望みを繋ごうと、二股をかけていたのである。その動きを薄々知る汪精衛の思いは、いかばかりであったろう。

小野寺は、それまでの北欧での武官勤務時代の情報と経験から、蒋介石と日本の首相との直接交渉、そして結局のところ天皇の決断を得ずして泥沼化した日中戦争の終結は無理だろうと考えていた。小野寺はピンルーの紹介したこの蘭衣社工作員の話に乗り、蒋介石の懐刀である戴笠(タイリー)と称する人物と会食した。この戴笠は蒋介石の紹介状を示しながら、「日華和平の具体策について」、という長文の意見書を小野寺に渡し、日本の中央と直接和平交渉を始めたい、と持ちかけた。小野寺はこの意見書を添付して「重慶政府(蒋介石国民党政府)と直接交渉の橋渡しをしたい」と東京に報告書を提出した。小野寺中佐の部下は、「蒋介石との和平がまとまったら小野寺さんの銅像が九段(注:靖国神社)に立つだろう」と意気上がった。

この小野寺機関の動きは、汪精衛政権樹立にのみ和平の望みをかける影佐機関の神経をいらだたせた。ジェスフィールド76号は、これが蘭衣社の工作であると見破った。憲兵隊特高課長林秀澄は、小野寺の動きを封じることにした。林はジェスフィールド76号の頭目、李士群に依頼して、戴笠の顔写真を入手し、小野寺に見せた。そして小野寺に戴笠を指さすように言った。小野寺は、「この写真の中に自分が会った戴笠はいない」、と答えた。

そこに偶然居合わせた吉田東祐が小野寺にだめ押しをした。吉田は戴笠の顔を知っていたのだろうか、小野寺は偽者と会ったのだと断言した。彼は上海憲兵隊から資金をもらいながら上海の裏情報の収集の仕事をしていた民間人であり、後に小野寺機関に属してもいた人物である。小野寺対影佐の戦略無き内部抗争はあっけなく影佐の勝利に終わった。

林秀澄憲兵隊特高課長は、1939年7月中旬、小野寺機関の宿舎に手入れを行った。小野寺は陸軍大学の教官職へ左遷された。5月下旬に一旦、近衛文隆と一緒に日本に戻り、直接和平交渉を政府上層部に訴えた早水重親も、上海にに戻ったところを逮捕され、汪精衛政権が誕生する翌年4月1日まで、1年間近く地下室につながれた。

この逮捕劇を主導した林秀澄は、早水の釈放に際し、「今まで取り調べもせずに約10ヶ月以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい」と、国策捜査による逮捕監禁を認め開き直っている。そしてピンルーの消息を尋ねる早水に対し、「「今、まだテンピンルーのことをかれこれ言われますとぶち込みますよ」と脅しましたと答えている(林秀澄談話速記録Ⅲより)。また、林秀澄は汪精衛政権樹立の障害除去という理由で、反戦和平活動をしていた陸軍特務部の花野吉平ら思想班のメンバーも1939年5月に逮捕、彼らも取り調べは一切されないまま地下室に1年近く監禁された。

Photo_8 日中和平を切に願う部分においてピンルーと同志のつきあいでもあった近衛文隆は小野寺機関と同調し、彼なりの信念のもと、蒋介石との直接交渉で和平を実現しようと試みていた。彼はアメリカ留学中、蒋介石国民党にによるマスメディア戦略を目の当たりにしていた。日本軍の残虐性を訴える写真や映像を使い、アメリカ人の世論を反日そして対日開戦へと持っていく戦略である。蒋介石の妻、宗美麗の演説や論文も効果的に宣伝された。

文隆はそれまで親しかったアメリカ人達の変化を感じていた。中国との戦争が長引くと、やがてアメリカとも戦わなくてはならなくなるのではないか?上海でも文隆は危機感をつのらせた。日本へ一時帰国する小野寺に、父近衛文磨首相が早期に蒋介石と交渉を持つよう進言する親書を託したりもした。

また、孫文の革命資金の出し手の一人であり、蒋介石とも個人的交流のあった山田純三郎や、英国駐華大使パトリック・カー氏の仲介で、重慶の蒋介石に文隆が直接交渉に行く算段もなされていた。これには正式な直接交渉の糸口を掴むための準備の意味があった。文隆は前出の細川護貞氏への手紙にこう書いている。

「俺は今実に面白いことをやっとる。政治運動に関係した事で、極秘になって居るから今の所では書けないが、こんなに俺の性に合った仕事は又とあるまい。夏帰ったら話する。上海は実に色々な奴等が色々の運動をやって居るので面白い」

文隆の独自の和平への動きは日本憲兵隊に監視されるようになった。日本政府の主流は、影佐機関が主導し汪精衛を首班とする親日政権、つまり傀儡(かいらい)政権の樹立による和平である(現状維持型の和平)。文隆は影佐にとって邪魔者でしかなかった。影佐は外務省上海領事、岩井英一に文隆を日本に呼び戻すような電報を打つよう依頼した。

岩井英一の自叙伝「回想の上海」の中の「近衛文隆の上海からの追放に手をかす」という章では、岩井が文隆の上海での行動について文章を勝手に書き上げ、電報の最後は「近衛文隆の上海滞在は百害あって一利無し」で結び、大使名での電報として日本の外務大臣宛(注:有田外相)に打ったと告白している。文隆は5月26日、一旦日本に帰国した。国内でも反戦和平を訴えた文隆は、6月8日、荻窪の自宅に軟禁状態におかれた。有田外相は岩井からの謀略電報を真に受けたようで、6月9日の「木戸幸一日記」によれば、有田外相は電報の内容をそのまま閣議報告したようである。

2_5この閣議にて正式に文隆に帰国命令が出た。父親である近衛文麿は、文隆が徴兵により二等兵として満州戦線へ送られることに同意せざるを得なくなった。満州で兵役を終えた文隆はそのままソ連軍によってシベリアに送られた。過酷な状況の中でも前向きな姿勢を失わなかった文隆は、ロシア語を勉強したり、極寒の中弱ってゆく仲間を励ましながら11年の歳月を収容所ですごした。仲間が続々帰国する中、最後まで残された文隆は帰国目前に病死してしまう(文隆は、ソ連共産党のスパイとなって帰国することを再三にわたり要求されたが、それを最後まで拒んだことによる薬殺という説もある)。戦後、文隆のシベリアでの死を知った岩井英一は回想録の中で、「別に私の電報にかかわりがあるわけでもないが、考えると余り寝覚めのよいものではない」とうそぶいている。

木戸日記研究会による林秀澄談話速記録Ⅲには、早水親重らが逮捕監禁された頃に近衛文隆も捕らえようとしていたことが語られている。少し引用する。

木戸:「その時近衛文隆はどういう?」

林:「これはあまり言いたくありませんけれども、今の鄭蘋如と熱くなってしまいまして、それでその手入れ(1939年7月中旬上海での早水親重らの逮捕劇)をする時にはまだひょっとしたらどっかへ隠れているんじゃないかと思っていたんです。ひっつかまえなければいかんと思っておったんですが、どうも調べてみますとこっちがだまされているのかどうか知りませんが、もう上海にはいらっしゃらなかったように思います」    引用終わり

文隆は5月26日に早水親重らと一旦帰国。6月には青年同志会という、新たな中国認識を持って政治活動をする会を起ち上げ再起を図ろうとしていた。早水にも入会を誘っている(近衛文隆追悼集より)が、逆に早水によって事態の深刻さをさとされ思いとどまった。文隆はついには全ての政治活動を閉ざされた。荷物をまとめるため上海に短期滞在し、すぐに日本に戻っている。林秀澄は、そのころのことを言っているのだろう。

ピンルーは、こうして花野吉平、近衛文隆、早水親重などの日本側反戦和平派の同志を一気に失うことになった。失意の日々を過ごしていた彼女に、過酷な役割が与えられることになった。大物中の大物、藍衣社つぶしのために日本軍が作った地下組織「ジェスフィールド76号」の親玉である丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)を暗殺するために、彼女が丁黙邨をおびき出すという役割を担うことになったのだ。

「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」に続きます。

主な参考文献は、上記リンクに記載しています

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コメント

スカパーは私も加入しているのでしばらく注目しておきますね。

来年には中国のテレビ局がピンルーを主人公にしたドラマを制作して放映するようです。ピンルーの日記を参考にすると言っているので少し期待。しかし脚本家のインタビューを読むとどうも抗日というのがお好きなようで中国人向けになりそう。テレビドラマとなると視聴率という要素が入ってきてしまいますからね。http://www.wowa.cn/T_view_inf.asp?view_id=40238

投稿: bikoran | 2008年2月24日 (日) 21時53分

 確かに、事実を見究めるのは難しいですね。部外者にはわかりえない世界ですし、関係者は深く関わっていればいるほど口外したくないことも多いでしょうし。この件に限らず、語り手の立場によって歴史は大きく変わってしまうように思います。受け手としては、せめてイデオロギーなどによって都合よく解釈しないよう気をつけねばと思います。
 『上海の女』の視聴方法はわかりません。私はスカパーの「衛星劇場」で放送されたものを見ました(モデルといえるほどは鄭蘋茹に近くないかもしれません、念のため)。

投稿: 本、映画、音楽 | 2008年2月24日 (日) 20時24分

コメント頂きありがとうございます。鄭蘋茹はいろんな書き方をされていたので、とにかく数多く資料をあたってみました。日本では晴氣氏の著書を参考にしている文献、小説が多い気がします。先日「上海リリー」という小説を読みましたがまさに、でした。晴氣氏は事件当日は日本にいたようなのでどうなんでしょうね。かと言って林秀澄氏の速記録を読んでも、当時の身内の関係者や組織を守ろうとしているニュアンスがあったりと、歴史とは本当に「作られる」怖さを感じます。私の記事も私のフィルターを通っているという意味では一つの見方に過ぎません。

本、映画、音楽さんの記事も読まさせて頂きました。「上海の女」、とても興味があります。なにか視聴する方法はご存じでしょうか。

投稿: bikoran | 2008年2月19日 (火) 10時02分

 鄭蘋茹について興味があったので、こんなに詳しく解説していただきとてもうれしいです。
 山口淑子さんが戦後に主演した映画『上海の女』も、鄭蘋茹の事件がモチーフとなっているように思います。李香蘭自身を思わせる歌手を演じていて、とても興味深いです。

投稿: 本、映画、音楽 | 2008年2月18日 (月) 22時22分

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