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2008年1月の4件の記事

2008年1月28日 (月)

こんなところにも鄭蘋茹(テンピンルー)その2

もう一つ見つけました。マンガでのピンルーです。ビッグコミックオリジナルの龍(RON) 村上もとか 23巻〜26巻にピンルーが出てきます。マンガなので、史実に基づくところと、創作がちりばめられていますが、小説とはまた違った独特の世界がありますね。Yahoo! コミックでネット購読することもできて、数ページ分は立ち読みといって、無料で見ることが出来ます(Windowsのみ)。でも無料部分はいいところで終わります。私はつい購入のクリックしてしまいました(苦笑)

なお、検索でこのページに来た方、テンピンルーについては「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」を読んでください。yahoo検索でテンピンルーを引くとなぜかここが一番上にくるみたいで(汗)

マンガの方をちょっとだけ紹介。 Edited_4 Edited2_2 Edited_5

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2008年1月18日 (金)

ピンルーが最後に頼った日本軍人、藤野鸞丈

鄭蘋如(テンピンルー)は、ついに1940年の1月、ジェスフィールド76号に捕まってしまった。その直前に彼女は、上海憲兵隊滬西(こせい)分隊の隊長、藤野鸞丈(ふじのらんじょう)のもとを訪れていた。結局その彼に身柄を拘束される。

藤野は上海憲兵隊特高課長である林秀澄から、テンピンルーの動静を把握しておく役目を言い渡されており、彼の部下が尾行を行っていたようだ。林によれば藤野は有能でフランス語ができ、ピンルーと映画に行ったりしていたとある。ピンルーはフランス租界に住むためフランス語が多少できたであろうか。藤野の当時の写真を見ると恰幅のいい父親のような感じで、ピンルーにとって日本側のよき理解者という一面もあったのだろうか。藤野の上司、林秀澄にしてみたら、そう思わせる作戦だったかもしれない。


丁黙邨暗殺未遂事件で、追われる立場になったピンルーが最後に頼った男が藤野だった。しかし藤野は忠実な日本軍憲兵であった。ピンルーを電話で何度も安心をさせておいて、おびき寄せ、捕まえた。


そんな藤野についての史料は皆無に近かったが、文芸春秋の昭和34年9月特別号に寄稿している。タイトルは「東京反乱軍始末」というもので、終戦時の東京の治安をいかに保ったか、ということが、帝都憲兵隊隊長の立場から書かれている。どうやら彼は上海から東京の憲兵隊に異動になったようだ。


さて、その藤野鸞丈の寄稿文に中国での出来事が少し書いてあった。上海の南に位置する杭州でのこと。


藤野が杭州攻略に向かう日本軍の第一師団にたまたま同行していた時のこと。特務機関の工作によって、青パン(チンパン)と呼ばれる、チャイナマフィヤのようなものだが、それに金を渡して杭州の中国兵を引き上げさせる手はずが整っていた。街に進軍して行くと本当に、人っ子一人いない状態だったようだ。中国兵だけでなく住民も日本軍に恐れをなして皆逃げてしまっていたらしい。藤野は杭州の美しい街並に感動する。


彼の経験では、日本軍の通って行った街という街は火災にあってきた。兵は街に入るや否や、憲兵の目を盗んで略奪強姦を犯すものも少なくなかった。日本兵はその証拠を隠すために火を放つことがあったそうだ。また、中国側も、漢口のように、日本に占領される前に街の機能を破壊するために火を放つことがあった。


藤野はなんとしてもこの街は守らねばならない、と思ったようだ。彼は火災予防のために四個中隊からなる兵を補助憲兵として出してほしいと作戦参謀に要望した。参謀は、「冗談を言うな、九個大隊しかないものを一個大隊も出せるか。火災予防に来たのではない。戦争なんだ」と一喝した。藤野は「こんな美しい街が二度と出来るものではない」と粘った。

根負けした作戦参謀は、最後には「わかった。君に命令を出す権限はないが、君の命令を正当なものと誤認して兵を出すことにしよう」と兵を出したという。杭州の美しい街並と治安は終戦時まで守られたらしい。

ちなみに、こちらの記事を見てもらいたい。松崎啓次の書いた「上海人文記」についての記事である→ピンルーを最初に描いた史料 「上海人文記」1


 この記事の中に、ピンルーが日本のラジオ局、大上海放送局で日本軍の戦況をニュース報道する場面が出ている。少し引用する。

ピンルーの放送が始まった。

「日本軍は、南京入城後、・・・杭州を、・・・云々」

ニュースである。玉を転がすような声、少し巻き舌の北方系の北京語。松崎はピンルーの放送を音楽のように聴いた。美しい声である。

引用終わり

 

ピンルーは、藤野が憲兵として活躍した杭州戦の模様を、1938年1月、就職したばかりの日本のラジオ局で、中国語アナウンサーとして報道したようである。なんという巡り合わせであろうか。

話を藤野の話に戻す。

杭州占領は藤野の言うとおり、無血占領がうまくいったようである。人っ子一人残らず逃げた、という地元中国人はその後どうしたのだろう?という疑問はこの際置いておこう。また、ピンルーが捕まる最後の瞬間を知っているのも藤野だったのだが、それを書き残す勇気は彼にはなかったようだ。自叙伝では誰しも自分のいい面だけを書き残す。私は藤野に対して、当初、ピンルーが頼るほどの好人物だと勝手にいいほうに想像していた。しかし次の文章で少し幻滅した。

彼はこの同じ寄稿文の中でこう述べている。

「一言だけ述べておきたい。それは政治家の識見についてである。阿南陸軍大臣が最後の一兵まで本土決戦を行うと説いて国民の戦意高揚をはかり、軍もまた竹槍をもって協力することを国民に求めたことをいまなお笑う人がいるが、しかし一体軍人たる者が戦局が不利だからと言って「もうかなわないから戦はやめる」等と言えることであろうか。政治家が政治家としての識見を活かして、なぜもっとはやく日本を救うべく努力しなかったのか、私には惜しまれてならない」 

軍人としてはある意味もっともな意見かもしれない。自分らは銃を持つ、国民には竹槍を与える、それで戦えと。原爆がもう少し遅かったら日本国民は本当に竹槍で本土決戦をやらされていたのだろうか。藤野はやる気があったようだ。

私は軍人になったことがないので、想像が及ばない。しかし、原爆を持つ国に対して竹槍である。軍人というものはそれでも黙って従うのがすぐれた軍人なのだろうか。わからない。

当時アメリカは開発途中の原爆を実際に落とすことで日本の降伏を引き出し、戦後の対ソ連政策を有利に進めようとしていた。そのための時間延ばしに使ったのが、天皇の扱いである。天皇を残すことが担保されれば日本はポツダム宣言をもっと早く受諾していた。アメリカは原爆を落とす前に日本に降伏されては困る。しかもソ連が参戦したタイミングで降伏されたら最悪である。アメリカの時間延ばしの間に何も知らない日本国民は竹槍訓練をさせられていたのである。これは笑うというのを通りこしてあきれるということだろう。

ほとんどの政治家が愚か者だったのはわかる。しかし、文民統制(=政治家統制)のもとにおいて、軍人は、特に藤野のような将校の立場にあったものは、専門家の立場で軍事素人の政治家に助言をする義務がある。「竹槍では無理です!」と。

ピンルーが最後に頼った男、それが藤野鸞丈である。

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2008年1月14日 (月)

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編

(注:長文記事です)

張愛怜の「色 戒」を原作とする映画Lust Cautionのヒロインのモチーフとなった実在の日系中国人女性、鄭蘋如(テンピンルー 郑苹如)の悲劇についての続編です。

Photo_10 1939年5月8日、蒋介石の追手に迫られた汪精衛は、ハノイを脱出、上海にやってきた。影佐機関と上海憲兵隊は、抗日テロ対策だけでなく、汪精衛の護衛にも気をもむ毎日となった。

その少し前のこと、丁黙邨と李士群が、「半年で抗日テロを根絶やしにしてみせましょう」と、外務省の清水書記官の紹介で、影佐の前任者である土肥原中将に秘密組織の提案をしてきた。1939年の2月上旬のことである。土肥原の後を継いだ影佐は渡りに船のその提案に乗った。

翌月、上海ジェスフィールド通りの76番地にてこの秘密組織は産声を上げた。その住所から、この秘密組織は以後「ジェスフィールド76号」と呼ばれるようになった。影佐機関は、この76号にかき集めた拳銃300丁ほどを与え、また阿片取引などで得た軍資金(当時のお金で30万円)を毎月支給するようになった。日本軍としては、CC団や藍衣社によって次々と親日中国人らが暗殺されていくのを放っておく訳ににはいかなかった。76号を実働部隊として、テロに対しはテロで対抗することとしたのだ。頭目は丁黙邨、副が李士群である。

1939年3月7日、日本の憲兵隊は、CC団の大物で抗日遊撃隊の司令官、熊剣東の身柄を拘束した。憲兵隊は彼を76号へ引き渡し、寝返らせる目的をもって拘留を続けることとなった。ある日、彼の妻、唐逸君が万宜坊の鄭蘋如(テンピンルー)の家を探し出し、大勢の武装した護衛を連れてやって来た。

事のいきさつはこうだ(注:多くは2009年9月に女流作家、楊瑩(ヤン・ユィン)が行った、ピンルーの妹天如さんへのインタビューを参考にした)。

唐逸君は、いつ釈放されるか全くめどのつかない夫を救い出すために、つてを頼って敵側である76号の李士群に話しをつけた。李士群は組織の長である丁黙邨に伝えた。拘留中の熊剣東が親日側に転向すれば釈放することは一向にかまわない。実際、憲兵隊や76号が捕らえたCC団や蘭衣社系の反日分子も、転向が確実になれば大勢が釈放されており、76号に忠誠を誓って活動していた。丁黙邨は、熊剣東の釈放に、特別な条件を付けた。その一つがこうだった。

「いつも日本人と一緒にいて、綺麗で、ある人は日本人だと言い、ある人は中国人だと言う、いささか76号には都合の悪い状況を作る、その女性に私は会いたい」

この女性こそがテンピンルーである。「76号に都合の悪い状況を作る」の意味であるが、ピンルーの父、主席検察官の鄭越(ていえつ テンユエ)が、76号によるテロ行為に対し、起訴をもって対抗している状況、そしてピンルー自身も日本側からの情報収集により76号の活動に不利な状況を作っている、このあたりを指すものと思われる。

唐逸君はピンルーの履歴を既に調べていた。彼女は丁黙邨に言った。

「彼女は一時期あなたの学校の学生でした。私たちはよく知っています。この関係を使えば、私はこの女性をあなたに会わせることができます」

こうして唐逸君はピンルーに面会に来たのだ。妹天如が耳をそば立てている中、唐逸君はピンルーに向かって口を開いた。

「あなたの身分は”暴露”されていますよ」

天如は、「この”暴露”という聞き慣れない言葉が耳から離れない」とインタビューで答えている。

唐逸君は続ける。

「私はやむを得ずここに来ました。夫を救出したいのです。遊撃隊も夫を必要としています。私は、敵側のボスを見つけました。名前を丁黙邨といいます。丁はあなたに会いたいと言っています。あなたの学校の校長(注:実際は理事長)だった人です。この人にすぐにでも会ってもらえませんか」

ピンルーは突然の話にあっけにとられた。確かに民光中学校に通ったことはある。しかし丁黙邨が理事長をやっていたの時にはピンルーはいなかった。顔見知りでも恩師でもない。

「丁黙邨は実にあなたの家族のことをよく調べ上げています。当然お父さんのお仕事のことも。会った方がいいですよ。さもなくば、お父さんの毎日の出退勤は危険なことになりますよ。そしてあなたの家族も」

ピンルーは言葉を失ったままだ。

「考えておきます・・・」

そう答えるのが精一杯だった。

「連絡を待ってますよ」

熊剣東の妻はそう言い残して再び護衛を従え帰っていった。

ピンルーはCC団の上司である嵇希宗(けいきしゅう)にこのことを伝えた。嵇希宗はCC団の上海方面の責任者の一人、陳宝驊(ちんほうか)に相談した。CC団も蘭衣社も、ジェスフィールド76号からの圧迫に危機感を募らせていた。6月頃から76号の襲撃は激烈を極め、CC団、蘭衣社とも「丁黙邨と李士群に対する制裁令」を度々出した。陳宝驊は早く成果を出すようプレッシャーを受けた。

「丁黙邨は危険すぎる。しかも防御は鉄壁だ」

そこに今回のピンルーの話である。

「ピンルーにこの話に乗らせよう。丁黙邨と親密になり、その立場を利用して油断した丁黙邨を消すのだ・・・。」

彼は嵇希宗に指令を出し、嵇希宗はピンルーにこの話しに乗るように伝えた。

「会うだけだ。丁に会うだけで熊剣東司令官は救出され、家族も安全になるのだ」

ピンルーはそう自分に言い聞かせた。彼女は用心のために、知り合いとなっていた上海憲兵隊特高課の藤野に丁黙邨の紹介を頼んだ。藤野はピンルーの監視役を勤めていたが、日常からピンルーに安心感を与えるような付き合い方をしていた。一緒に映画を見に行くこともあったという。彼女はジェスフィールド76号が、日本憲兵隊の管理下にあることを知っており、あえて藤野を通すことで安全を確保しようとしたのだ。

そして陳宝驊の指示に沿って、第二段階として嵇希宗からピンルーに対し、丁黙邨暗殺計画がもたらされた。親しくなった丁黙邨を、怪しまれずに暗殺場所までおびき出せというのである。それまで情報収集が仕事だったピンルーは、暗殺とは無縁であった。彼女は断った。すると嵇希宗は言った。

「あなたに日本人の血が流れていることはみんなよく知っている。しかし、あなたは愛国者ですよね?抗日の愛国者ですよね」

ピンルーは再び自分に言い聞かせることとなった。

「おびき出すだけ・・・」

怪しまれずにおびき出すにも順序がある。ピンルーは丁黙邨と、心の通わない交際を重ねていくこととなった。

ピンルーの弟南陽が戦後に丁黙邨漢奸裁判で提出した告訴状によると、丁黙邨はピンルーにこのようなことを言ったようだ。

「あなたのお父さんは、なぜ和平運動に参加しないのですか?」

和平運動とは汪精衛が提唱したもので、抗戦停止を求める国民党内での運動である。抗日戦争をやめ共産党に対抗する事を最優先するというものだ。これは日本側にとって都合がよかった。しかし、汪清衛の国民党内のライバルである蒋介石は、さらなる抗日テロで答えた。この抗日テロに対抗するため、ジェスフィールド76号が誕生することとなったのは前述したとおりだ。

「もし言うことを聞かないなら、76号の人がお父さんの命を奪いに来てしまうかもしれませんよ」

丁黙邨はたたみかけた。

彼のこの言葉には真実味があった。1939年7月22日、次のような事件があったのだ。ジェスフィールド76号は、日本憲兵隊の了解を得て、抗日新聞の「中美日報」社を襲撃、新聞社職員に死傷者が出た。この事件に対して上海第二特区高等法院の裁判長、郁華は11月22日、76号の実行犯に死刑判決を言い渡した。それを逆恨みしたジェスフィールド76号が、翌日の11月23日、我が子と一緒に人力車に乗っている郁華裁判長を射殺したのだ。

日本側は上海の司法分野の要職に就く人材をすべて親日に転向させる意志を持ち続けていた。その意向を受けて、76号は次のターゲットをピンルーの父親、主席検察官である鄭鉞(ていえつ)に向けてきたのだ。76号は自分らが思い通りに行動するためにも、上海の租界を担当する裁判長や検察官を武力をもって親日に転向させる、あるいは暗殺によって消していこう、と考えたのだ。 

この事件について、影佐機関長影佐禎昭が陸軍阿南次官へ提出した「丁黙邨側工作報告 第十二次」には次のように報告されている。

高等第二法院裁判長郁華を処罰せる件

被殺人    郁華

日時     本月(注:1939年11月)23日午前

地点     フランス租界善鐘路202号弄内

罪状     該人の事件処理は極めて不公平にして、

        我が方より共産党に利用せらるること

        なかれと警告せるに、敢えて訂正せざる

        ため厳重なる制裁を加えたり

処置状況  人員を派遣して射殺せり

この報告では、射殺制裁の理由を、郁華裁判長が共産党に利用されていること、としているが、これはカモフラージュということになろう。

妹天如さんによると、この郁華事件のあと、ピンルーは父親に今自分がやっていることを洗いざらい話したようだ。父親鄭鉞は、かねてより娘がなにか事情を隠していると感じ、厳しく接していたが、この後父と娘の関係は良くなったと語っている。

丁黙邨が出した熊剣東釈放のもう一つの条件である、CC団遊撃隊の副司令官、張瑞京を76号に身代わりに差し出すことが、やや強引に実行に移された。ある日、熊剣東の妻、唐逸君の罠によって張瑞京は錦江飯店におびき出され、76号が調合した睡眠薬を飲まされ76号に拘束されたのだ。

(2010年6月16日追記:1939年12月25日付の現地新聞「新申報」に「工部局警務報告」というタイトルの記事があるのを京都にある国会図書館関西館にて見つけた。上海共同租界内における前月の犯罪発生状況が記載されていた。その中に「麻酔薬剤服會先後出動十八次」(睡眠薬を利用した事件に関し18回の捜査)、とあった。1939年11月に確かに睡眠薬を使った犯罪があったことがわかった)

こうして監禁された張瑞京だが、彼はもともと李士群と旧友だった。監禁3日目には転向を表明、76号のために隠密に活動を開始した。そしてCC団がテンピンルーを利用して丁黙邨を暗殺する計画を知る立場にあった彼は、その計画を包み隠さず李士群に暴露したのだ。

ジェスフィールド76号が出来たとき、李士群は部下の数も少なく、年長者でもある丁黙邨にトップの地位を譲らざるを得なかった。彼はそれから半年以上も我慢した。しかし今や彼の勢力は増大した。そしてなによりも、影佐機関に対して忠実で素直な性格の彼は、日本側の受けが丁黙邨より格段にいいことを知っていた。張瑞京が李士群に漏らした計画は、丁黙邨を76号から追い出し、自分がトップの座につくためには、思いがけないチャンスに映った。

Photo_3 1939年の12月21日のことだった、影佐らは汪精衛やその側近を上海「六三花園」という老舗の日本料理屋(左の写真)に招き、忘年会を行うこととなった。汪精衛の動く時は常に警護にあたっていた憲兵隊特高課長林秀澄は、汪精衛の側近である丁黙邨がいつまでたっても来ないことが気になった。彼の部下から電話が入った。その日午後6時20分ごろ、丁黙邨が六三花園に向かう途中の静安寺路にて襲撃されたというのだ。しばらくすると丁黙邨が真っ青な顔をして宴席に駆けつけてきた。彼は何本か電話をかけ終わるとようやく落ち着いたようだった。

その日、ピンルーは丁黙邨から連絡を受け、上海の西にある知人の家での昼の食事に誘われていた。ピンルーはそれを嵇希宗に伝えた。彼らはチャンスとみた。彼らの計画は、ピンルーが妹へのクリスマスのプレゼントとしてシベリア毛皮店のコートがほしいと丁黙邨にねだり、一緒にこの毛皮店まで行く。すると待ち伏せしている嵇希宗の仲間の陳彬(ちんひん)、そして彼の雇った殺し屋の二人が銃撃するというものだ。

夕方になった。

「虹口で日本の人たちとの忘年会がある。そろそろ行かないといけない」

と丁黙邨はピンルーに告げた。彼女はついに実行の時が来たと感じた。丁黙邨をなんとかシベリア毛皮店に連れて行くのだ。Siberianfurstore_2

Photo_3

ピンルーは丁黙邨にクルマで家まで送ってもらう途中、プレゼントのことを言ってみた。丁黙邨は少しだけ逡巡したが承知した。丁黙邨はピンルーとクルマで、静安寺路のシベリア毛皮店に向かった。店の反対側にクルマを止めた。イギリスが統治する共同租界はクルマは左側通行なので、上の地図で言うと左側から来て店の向こう側に止めたことになる。二人は道路を渡って店の中に入った。彼は長居は危険と判断した。ピンルーに好きなものを選ぶように言ってお金を置き、彼女を店に残してすぐにクルマに駆け戻った。外で待ち伏せする陳彬らは思ったよりも早く店を出てきた丁黙邨に不意を突かれた。二人のヒットマンのうち、一人の銃は不発だった。もう一人があわてて撃ち始めるが、防弾装備のクルマに当たるだけだった。クルマに飛び乗った丁黙邨は無事現場から脱出した。そしてだいぶ遅れてこの忘年会に出席したというわけだ。



なお、この事件について、当時の新聞記事を元に筆者独自の推理を記事にしたのでご参照ください→「暗殺未遂事件の新聞記事より」


一方、76号のボスの座を争う丁黙邨のライバル、李士群は部下をシベリア毛皮店の周辺に配置させて、成り行きを監視させていた。すべては予定通りだった。彼は六三花園の忘年会の席で、遅刻する丁黙邨を見てほくそ笑んだ。

「これで丁黙邨を追い落とせる・・・」

ピンルー自身は、暗殺の失敗を受け止めるのにしばらく時間がかかった。震える手で妹天如らに渡すプレゼントにリボンを付けると、なんとか自宅に戻った。すでに家には丁黙邨から電話が入っていた。

「お姉さんを自首させなさい。例え私が許したとしても部下が許しません」

今や事態を把握した丁黙邨はそう言うと電話を切った。

宴会が終わり、林秀澄が帰宅すると、部下の藤野分隊長が電話をかけてきた。藤野が言うにはピンルーが事件のすぐ後、藤野に電話をかけてきたらしい。

林秀澄談話速記録Ⅲによると、次のような会話が交わされたことになっている。藤野が言う。

「林さん、聞いてみますと今日はとんでもないことが起きたようですね」

「うん、おきた。鄭蘋如の野郎がね」

「いや、その鄭蘋如が私に先ほど電話をかけてきて「藤野さん、私のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか、藤野さんどう思いますか?」

と言うんです」

藤野はピンルーに言う。

「自分がいいと思っていればいいんだし、悪いと思っていれば悪いし」

ピンルーは、

「私は今どうしたらいいか困っている。日本側に対しても悪いし、支那側に対しても悪くて。今支那側から追っかけられている。家にも帰れない」

と藤野に切羽詰まった気持ちを伝えた。

藤野から連絡を受けた林は、

「鄭蘋如の居場所はわからんか」

と聞く。

「いやそれはピンルーが居場所をおしえてくれない」

林は指示した。

「そうか、それならしょうがない。しかし結局日本側にこれから頼るところがあるとすると、藤野君、君の所以外に鄭蘋如が頼ってくるところは無いと思うから、鄭蘋如を捕まえるなんておくびにもだすなよ。鄭蘋如から電話がかかってきたら大いに同情して、「おれの方で役に立つことがあったら何でも世話をしてやるから言ってこい」、というようにして、つかず離れず、彼女との接触だけは絶たないようにしてくれよ」

林秀澄によると、藤野にとって寝耳に水の事だったと言いたいようであり、ピンルーは自分でも悪いことをしてしまったと反省しているように書かれている。しかし、計画を知っていた李士群が自分を密偵として雇っている藤野にこの計画を伝えていた可能性は高い。藤野が知っていたらそれは林も知っているということである。

また、周到に準備してきたピンルーがいまさら、「自分のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか」などと憲兵に尋ねるはずがない。この部分は「ピンルーには罪を犯した後ろめたさがあった」としておきたい林秀澄の意図があるのだろう。

ちなみに、狙撃時、陳彬の拳銃は故障して不発だったようであるが、妹の天如さんは、この故障は故意だったのではないかと疑っている。その疑いの行きつく先を私が想像するとこうだ。

・・・・・・76号の長である丁黙邨を本当に殺してしまうと、その捜査は徹底的になされ、芋づる式に計画がばれる可能性がある。すると李士群の真の目的が公にならないとも限らない。また、日本側も76号に二人の船頭は不要だと判断しつつあり、丁黙邨を別組織で使いたがっている。そこで丁黙邨はあえて殺さない。それには敵側実行部隊である嵇希宗と仲間の陳彬(ちんひん)と取引する必要があった。李士群は嵇希宗と陳彬ら実行部隊を今後とも76号側が逮捕しないことと引き換えに、丁黙邨の暗殺は未遂とする取引をした。

丁黙邨を生かしながら追い落とすにはどうするか。テンピンルーと丁黙邨の男女関係を暴露するだけで十分だ。敵側女スパイに籠絡され、しかも愛情関係のもつれにより殺されかけた、という作り話をマスコミにリークするのだ。それだけでも部下の信任は失われ誇り高い丁黙邨は76号にいられなくなるだろう。

さらに、影佐機関が、のどから手が出るほどほしかったテンピンルー拘束の罪状も、暗殺未遂の共犯者として得ることができる。そして人質同然となったピンルーの釈放を餌に、いよいよ本丸であるピンルーの父、主席検察官鄭鉞(ていえつ)の親日への転向を引き出すのだ・・・・・

どうだろうか。この流れだと、嵇希宗と陳彬の二人、あるいはCC団そのものがテンピンルーをかくまったり、掴まった後の釈放のための行動を起こさなかったことの納得がいき、同時に二人が事件後も76号サイドから報復を受けることなく逃げおおせたことも理解できる。(注:2010年5月9日追記:柳沢隆行氏の「鄭蘋如」によると、嵇希宗は1942年6月に76号に拘束され、なんと丁黙邨の口利きで釈放されている。嵇希宗は1940年春頃に 76号を追い出されて失意の丁黙邨のCC団への取り込みに成功していたようである。また陳彬は1940年7月に汪政権が作成した逮捕令に入っておりその後逮捕銃殺されたようである。ただし両者とも丁黙邨暗殺未遂事件が理由ではなく和平運動の障害となる人物とみなされてのようである)

また、この事件は日本側の了解済みとも疑われる。なぜなら、毎月書かれる影佐機関の「丁黙邨側工作報告書」に、この事件の記載が全くないのだ。報告書のタイトルとなる組織の長が暗殺されかけた事件にもかかわらずだ。日本側にとっては、この事件は内密に処理され、歴史的には無かったものとしたかったようだ。純粋なテロ行為だったら当然、全組織をあげての対抗措置が執られるはずだが、その後CC団や蘭衣社への報復的反撃が行われた形跡が記録されていない。あったのは、丁黙邨を76号の外に出し社会福利部を新設しそこの長とする、76号は李士群を唯一の長とする、という人事異動だけであった。

さて、帰宅したピンルーは両親、弟の南陽らと相談した。妹の天如によれば、嵇希宗は逃げた方がいいと言う。しかし家族共々76号から安全に逃げおおせるのは不可能だ。陳彬のアドバイスは自首すれば刑は軽くなる、というものだった。ピンルーは最後は自分で決断した。家族の安全を最優先とし、自首することにしたのだ。

12月25日、家を出る前にピンルーは、3年前に亡くなった姉、真如の娘倍倍(ベイベイ)を膝の上に抱いた。ベイベイは泣きやまない。泣きやんだら彼女は家をようと決めた。やがてベイベイが泣きやんだ。ピンルーの膝の上でベイベイがにこにこ笑う。午後3時、ピンルーは家を出て行った。

晴氣慶胤(はるけよしたね)の「謀略の上海」によれば、彼女は日本人地区の虹口に逃げ、籠絡(ろうらく)した複数の日本軍人にかくまってもらったとなっている。一方、松崎啓次の「上海人文記」によれば、日本軍報道部時代の日本人の知人である大沢にかくまってもらったとなっている。後者が近いだろう。晴氣慶胤をはじめ、犬養健など影佐機関員の書いた著書はすべて、ピンルーはかたっぱしから日本人をハニートラップに引っかける毒蛇のような女、というスタンスで書かれている。これはピンルーのキャラクターに対する印象操作、戦後の戦犯逃れの一種だと思われる。

家を出た後、ピンルーは信頼していた憲兵隊の藤野に何度か相談の電話をかけた。

台湾国民政府所蔵、「中調局当案資料」によると、事件後、鄭家にはいくつかの電話がかかっている。一つは妹天如さんも言っている丁黙邨からのもので、「自首しなければ家族全員の命を奪う」という脅迫。

もう一つは藤野から母親木村はなへの電話だ。

「ずっと前から娘さんがスパイだとわかっていました。多くの報告がありましたから。大和民族の血統があるので捕まえていなかったのです。ただ、今回の行動だけは予想外でした」

などと語ったらしい。

なぜこのタイミングでこういう電話をあえて家族にかけるのだろうか。「予想外」と言っているが、逆に「筋書きを知っていた」、あるいは「積極的に関与した」ということをカモフラージュするためにも思える。

年も明けようとするころ、李士群は予定通りの行動に出た。

「浮気が原因で愛人の女スパイに殺され掛かった丁黙邨」

としてマスコミにリークしたのだ。夕刊紙は「桃色テロ」としてかき立てた。丁黙邨からは忠実な部下が一人、二人と離れていった。丁黙邨、李士群両方ににらみのきく周仏海の取りなしを得て、丁黙邨は汪精衛政府内の社会福祉部長ポストを約束され、76号を出て行くことになった。

年も明けるころ、藤野が使っている連絡所をピンルーは突然訪ねた。日本人にかくまわれていた家を出来てきたのだ。自首だった。林秀澄は「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」の中で、

「こういうところはやはり支那人との接触で大事なところだと思うのですが、藤野君にあらかじめ連絡をしないでいきなり鄭蘋如が藤野君の使っておる連絡所に突然やってきたわけです」

と語っている。

ここの意味はずっとよくわからなかった。「ピンルーに対して「藤野は信頼できる憲兵だ」と思わせる日々の付き合いが成功した、これによって、ピンルーを呼び出すことに成功した」ということを言いたいのかと思うが、実際は脅迫による自首である。ピンルーは76号の監督者の立場にある藤野に最後の望みを託して、自首する先を藤野にしたのである。

自首がいつだったのかであるが、林秀澄によれば年が明けてしばらくたった日のこととある。しかし妹天如さんによると、12月25日に自首のために家を出たとなっている。この時間差は、ピンルーが隠れていた期間、あるいは本当に自首をするか彼女が逡巡していた期間だった可能性がある。

0030_2 母親が戦後の丁黙邨の漢奸裁判で提出した告訴状によると、事件後、家を出ていくピンルーにダイヤ、毛皮コート、金器、小切手などの財産を持たせていたようだ。長期の逃亡資金か捕まった際の保釈などに役立てば、ということだったのだろうか。1946年の張振華の著書には、処刑に立ち会った林子江がダイヤを持ち去ったという記述がある。

さてピンルーを突然迎えることになった藤野である。藤野は上司である林秀澄に、ピンルーの処置をどうするか電話をかけた。

「林さん、これはどうしますか」

林秀澄はすぐに身柄確保を指示し、ジェスフィールド76号のリーダー格である李士群と丁黙邨に連絡、日本側で処置するか、中国側で処置するかを投げかけた。そのときに、「日本軍の軍律会議にかければおそらく死刑ですよ」と付け加えることを忘れなかった。林はおびき出す役割を担っただけのピンルーを日本の軍律会議にかけても、死刑までもっていくのは難しいと知っていたのだろう。ジェスフィールド76号の扱いにした方が処刑するのにも有利で、日本憲兵隊の責任は免れると判断したと思われる。

李士群は事件の当事者である丁黙邨に判断をゆだねた。丁黙邨は土壇場で未練が出たのか即答できなかったが、最終的には「汪精衛衛側で厳しく処分します」という答えだった。76号はその日のうちに藤野少佐の連絡所にピンルーを引き取りにやってきた。

中国側のある説によると、暗殺失敗後、ピンルーは丁黙邨をあくまで殺そうと、一人でピストルを持って12月26日に家を出てゆき、 藤野と一緒に76号に向かい、76号内部で李士群の手配によって逮捕された、とも書かれている。しかし、これでは暗殺にならない。その場で76号の反撃を食らうのはあきらかであり、また家族への報復も容易に想像できる。この説はありえないだろう。

ピンルーは結局、藤野の連絡所で76号に引き取られ、76号幹部の管理する屋敷(現上海交響楽団のある建物)に監禁された。当初76号でも扱いは柔らかく、汪精衛側に役立つ情報を取れないか、転向させて利用できないか可能性を探っていた。しかし彼女は転向しなかった。

主席検察官である父親テンエツのもとには、さっそく親日政権側につけば娘を釈放する、という取引の話が日本側から持ちかけられた。ピンルーからは獄中から、「私は大丈夫。心配しないで」という短い手紙がテンエツのもとに届いていた。妹天如さんによると、一時テンエツは、この取引を受け入れ、上海を離れようと妄想していたと語っている。しかし、残酷な決断だったが、彼はこの取引を拒絶した。母親木村はなも泣く泣く同意した。汪精衛側にとって、その時点でピンルーの監禁を続ける意味がなくなった。処刑が決定された。

林秀澄は「林秀澄談話速記録Ⅲ」で、テンピンルーの処刑について、「汪政権が汪政権樹立の門出の血祭りに死刑に執行を行った」と書いている。汪精衛に責任を負わしている。組織上、処刑の最終決済は汪精衛が行うが、その意志決定過程において、汪精衛政権を護衛する義務のある影佐機関、そして上海憲兵隊の意向が働いていたのは間違いないだろう。

監禁中の責任者は林子江という蘭衣社から転向した幹部があたっていた。1940年2月中旬のある寒い日、処刑が決まると林子江はピンルーを抵抗なく連れ出す口実として映画を見に行く話を持ち出した。ピンルーは久々の外出ということで精一杯のおしゃれをし、化粧をして林子江とクルマに乗り込んだ。クルマにはなぜか日本人憲兵が同乗していた。クルマは映画館のある繁華街にさしかかった。しかしそこでは止まらなかった。次第に荒涼とした景色の郊外へと向かった。そして徐家匯(Zikawei)の刑場が近づいてきた。彼女は気づいた。自分は処刑されるのだ。それはとりもなおさず、父親が信念を曲げなかったということだ。ピンルーは父を誇りに思った。

クルマから出ることに若干の抵抗を示すピンルー。指示を出す林子江は元蘭衣社だ。彼女は叫んだ。

「林先生(リンシェンシャン)!」

林子江だけでなく、先に現地にいた林秀澄もビクッと驚いた。林秀澄は、中国人から上海語で「リンシーサン」と呼ばれていた。彼は自分の名前をピンルーが言ったと思ったのだ。

二人の男がピンルーの両脇をかかえ、彼女は車外に出された。

やがて覚悟を決め、刑場で静かにひざまずくピンルー。宣告文が読まれ後頭部に銃が突きつけられた。眼前には自分が落ち込むであろう四角い壕が大きく口を開けている。

「中国人として・・・、私は悪いことをしたのでしょうか・・・」

林秀澄が通訳を通して聞いた言葉である。処刑が確実に行なわれるかどうか、林秀澄は76号側の行動に一抹の不安を持っていた。彼はそれを見届けるために、先に刑場に到着していたのだ。

「顔は傷つけないでください」

「林秀澄談話速記録Ⅲ」によれば、「顔は傷つけないでくださいとかそのようなことを言っておったと通訳から聞いた」と、ピンルーの最後の言葉として林秀澄が供述している。最後の言葉としてはやや不自然な言葉にも感じる。

また「林秀澄談話速記録Ⅲ」には、人づてに母親はなからの捜索願が何度も憲兵隊に届いたとある。しかし、鄭家に対して、ピンルーの命と引き替えに主席検察官テンエツを汪精衛政権の法務部長に据えるという取引がすでに鄭家に対して提案されていたので、母親を含む家族はピンルーがジェスフィールド76号に捕らえられたと知っていたはずだ。したがって、母親が捜索願を出すことはないだろう。釈放願い、あるいは助命嘆願であろう。

また、処刑後、林秀澄は同じ日本人として、ピンルーの母親にどう報告するか悩み、死の報告はなるべく遅い方がいいだろうということで、林がジェスフィールド76号に頼み、偽の手紙を書かせたとある。「汪精衛の機関に入って広東に派遣されが、病気になったので当分広東から動けない」という内容の手紙だというのだ。しかし、鄭家には処刑後すぐに、遺体の引き渡しとテンエツの親日政権への寝返りを条件とする取引が再度持ち込まれているので、この手紙は無意味である(香港ATVによる妹、鄭天如さんへのインタビューより)。こちらの林の発言も取引提案のカモフラージュだろう。

3

林がそんな時間かせぎの隠蔽工作をしているうちに「誰が知らせるのか、娘の遺体はいつのまにか家族のもとに帰っていった」と「林秀澄談話速記録Ⅲ」に記述されている。しかし彼女の墓碑は残っていない。もし遺体が戻っていたのなら、遺族である母木村はなと妹天如さんは黙っていないだろう。

ピンルーの甥、鄭国基氏は南京ラジオテレビ集団のインタビューにこう答えている。

「鄭家の銀行口座はピンルー逮捕後に封鎖されてしまいました。ある日本人が遺体引き取りのためのお金を出してくれたのに、それを引き出すこともできませんでした。鄭家は極度の貧困に陥ってゆきました。祖母(注:木村はな)は遺体の引き取りにお金を要求されましたが不可能でした。木村はなは孫(注:国基氏ら)を育てるために街頭の野菜くずを拾うほどでした」

ということである。

結局ピンルーの遺体は家族のもとに帰らなかった。

ピンルーが丁黙邨と知り合うきっかけとなった熊剣東の釈放の件はどうなったのだろうか。いつ釈放されたのかは定かではない。親日側に転向し釈放された後の熊剣東は、汪精衛政権側の軍事委員会委員を皮切りに、黄衛軍総司令官、上海市保安司令部参謀長、税警総団長など、終戦まで汪精衛政権側を支える重要ポストに就いた。終戦後はすぐに蒋介石側に戻り、上海行動総指揮部副司令官となり日本軍が引いた後の治安維持にあたった。1946年8月、共産軍との銃撃戦で死亡とある。

「われらの生涯のなかの中国」(みすず書房)によると、元全日空社長岡崎嘉平太の語りの中で、このような一節がある。

「汪政権のとき、熊という姓の人でね、それが彼の家にいっぺん来なさいというんで、行ったんですよ。そうしたら「日本は何を考えてんですか」とこう言うんだ。「私は毎日重慶と無線連絡しているんですよ。私の屋根の上には、隠れているけどもアンテナがあるんだ。汪政権が重慶と関係ないように思われてると、とんでもないことです」

この「熊」という姓の人、が熊剣東だろう。蒋介石側から汪精衛側に寝返っていたとしても、それはポーズにすぎず、逆に重慶側に情報を流していたということのようだ。そのおかげでか、終戦後は漢奸にもならず蒋介石に迎えられたのだろう。

最後に2007年9月にピンルーの妹、鄭天如さんが、香港のテレビ局ATVに答えたインタビューの一部を紹介したい。

「ある日、お姉さんが夜中うなされた後に、母にこんなことを言っていました。

”媽媽(マーマ)!媽媽(マーマ)! わたし昨日の夜、とっても怖い夢を見たの。

ある人について歩いていくと、大きな壁があったの。

その壁には亡くなった人の名前がいっぱい書いてあった。

その中に私の名前があったのよ”」

ピンルーが悪夢におびえていた様子を聞いたようである。

そして、父テンエツが親日政権側に寝返ればピンルーの命は助けてやる、という取引条件が持ち出された時のことを、涙ながらに最後に語っている。

「彼らは日本語を話していました。

なにかとんでもない状況だとわかりました。

彼らは父に言いました。

私のお姉さんの命と交換条件だと。

父はその時、とても悩んでつらそうでした。

その様子は表現のしようがありません。

それはもう、母もまったく同様です。

その時が過ぎ去りました。

みな沈みきっていました。

お姉さんと同じ学校の仲間達、いわゆる愛国者達は、

まるで知らぬ振りでした。

私たちの家に来る人など一人もいませんでした。

2月の、冷たい雨の降る日でした。

ある夫婦が二人でやってきました。

彼らは姉と同じ建物に監禁されていて釈放されたのです。

名前を言っていましたが、私は忘れてしまいました。

その時受けたショックが原因です。

彼らは私の父に言いました。

私のお姉さんは、

処刑されたと・・・

私たちの家族には、いつのまにか矛盾が生じました。

お姉さんが、

私よりも、

年下になってしまったのです・・・・・

父はだいぶ歳をとっていました。

私の小さな時からすでに歳をとっていました。

だけど父は申し出を受け入れようとしませんでした。

お姉さんが亡くなった後、一人の弁護士が家に来ました。

彼は別の交換条件を言いました(注:遺体の引き取りと、日本側政権への転向の取引交渉だと思われる)。

2度、言いました。

父はまた悩んでいました。

そして、それも断りました」

終わり

追記  

3_2 ピンルーには姉、妹、二人の弟がいました。もともと病弱だった姉真如(1912生)は娘の王蓓蓓(ワンベイベイ。上の写真でピンルーに抱かれている子供。台湾在住)を生んだ後の1934年、体調が回復せず福民病院で22才で亡くなりました。

上の弟海澄(1916年10月28日生)は1936年~1937年に名古屋飛行学校で操縦を学び、帰国後中国空軍に入りました。1944年1月19日、重慶での訓練飛行中に墜落死してしまいました。27才でした。彼の子供がしばしばインタビューを受けている鄭国基(1939年9月生まれ)さんです。

下の弟南陽(1919年1月3日生)は1936年~1937年に日本の成城学校で語学を学び医学研修に備えました。帰国後、上海東南医学院(現安微医学院)を卒業、1945年満鉄経営の奉天南満医大で研修、戦後万宜坊の自宅で小児科医を開き、評判のいい医者となりました。中華人民共和国成立後は崋山病院(復旦大学付属病院)に勤務、1980年代初頭にアメリカへ移住、2003年、84才で没しました。 Photo_3Photo_2

妹の天如(1923年生。のち改名し静芝)さんは、ピンルーが亡くなった後も続く誘拐の危険からのがれるために中国空軍基地のある成都へ避難。そこで操縦士の舒鶴年(じょかくねん)氏と知り合い結婚。(舒鶴年氏は1918年生。国民党空軍所属。1956年7月21日の馬祖上空での中共空軍機とのジェット戦闘機同士の空中戦で功績あり勲章を得ている)。天如さんは終戦後も日本人である母親への差別が続くのと、共産党が中国を支配し、国民党の庇護が受けられなくなるため、母親はなを連れて1948年12月台湾に渡りました。台湾国府監察院で父の友人の秘書となり、その後渡米、現在もロスアンジェルスに在住しています。

母親はな(1986年生)は、天如さんに終身守られ、台湾で1966年1月5日、80才で亡くなりました。亡くなったときに蒋介石より「教忠有方」(教えが忠実で正しい)という書の入った額をもらいました。この額は2009年に上海郊外の墓園、福寿園(ピンルーの碑がある)に寄付されました。

父鄭鉞(テンユエ ていえつ)は、真如に続き最愛の娘ピンルーを失い、失意の中、癌が悪化1943年4月8日に亡くなりました。テンエツとはなのお墓は天如さんがロスアンジェルスで守っています。

追記2 鄭蘋如の読み方ですが、様々な動画で発音を聞くと、中国人の発音では、「チュンピンルー」「チェンピンルー」「チョンピンルー」、台湾人の発音だと「ツェンピンルー」「テンピンルー」などと聞こえます。ピンインでは、Zheng Ping Ruのようになりますが、当の中国人が、日本人にとってはいろいろに聞こえる読み方をしているのが現実です。このブログでは日本で鄭蘋如が知られるきっかけとなった小説「夢顔さんによろしく」の読み方を実質的なスタンダードとして「テンピンルー」としました。それは「北京」をピンインではBei Jingのように書き、中国人は「ベイジン」に近い発音をするのに、日本ではスタンダードな表記として使われている「ペキン」で、表記するのと同じことです。また、日本語読みで統一すべきとして、「ていひんじょ」、あるいは「ていひんにょ」としているものをたまに見ますが、「北京」を「ほっきょう」とは読まないのと一緒です。

あとがき  ピンルーの故事を、李香蘭の記事にからめ記事にしようと思ったのは、李香蘭とピンルーにある種の共通点を見いだしたからです。李香蘭は日本人の両親を持ちますが、生まれも育ちも中国であり、中国の学校に通い、中国に愛情を持っていました。しかし抗日運動のさなか、それまで理解し合っていたと信じていたクラスメイトとの間に深い溝を発見して愕然とするのです。彼女のはじめてのアイデンティティクライシスでした。彼女はその後も必死に中国人を演じましたが、出演映画の脚本が中国を侮るものであったりその矛盾に苦しむことになりました。

ピンルーは中国人の父と、日本人の母を持ち日本で生まれましたが、中国で育ちました。平和な時代には日系であることは意識の表面には上がってこなかったものと思われますが、日中戦争が始まり、親しくしていた中国人の間に抗日の機運が高まると日系人としての偏見に苦しんだと想像できます。上海で影佐機関員として動いていた国会議員犬養健の著書「揚子江は今も流れている」にも、「ピンルーが学校を欠席しがちになるすべての要因が整って行った」という記述があります。彼女は少なくともまわりからある種の注目の目で見られたのではないでしょうか。どういう行動に出るのか、どう考えているのかと。ピンルーにとって日本軍の中国侵略はとんだ迷惑、自分の日本人の血とは切り離しておくべきもの、一刻も早く引き上げてほしいもの、と捕らえていたはずです。

私はピンルーが抗日組織に入り、命を落とすリスクをおかしてまで働いたことに、「まわりから完全なる中国人として認められたい」、という同化の思いが強く働いたのではないかと推測しています。また、日本人である母親木村はなの思いはピンルーと同じかそれ以上のものがあったでしょう。ピンルーの抗日組織加入は母親の意思も反映したはずです。祖国にアイデンティティの一端を持ち、単身で現地に溶け込んで生きていこうとする海外居住者は、祖国の行為に敏感になります。それは自分が有無を言わせず祖国を代表してしまうからです。これは私自身が海外の学校で、外国人の中でただ一人の日本人として学んでいた時の経験から、そう確信しています。私が母親はなの思いを代弁すると、「お願いだから日本軍よ、早く日本に帰って下さい」となります。これが集団移住者の場合は逆です。満州をはじめとした中国各地での日本人移住地区では、強力な日本軍に駐留してもらい守ってほしかったはずです。これが泥沼化した日中戦争のひとつの要因だと思います。

ピンルーに関する中国人のサイトを見ると、すべて彼女を抗日の英雄として書いてあります。上海市青浦区の公共墓地福寿園には抗日烈士としてデザインされたピンルーの彫像が近々できるようです。そして中国の愛国教育の題材になるようです。彼女は死して完全なる中国人として認められた、ということでしょうか。しかし私はピンルーは一般的な中国人の「抗日」とはどこか違う、もっと複雑なものを抱いていた気がしてなりません。

李香蘭やピンルーにとってとてつもなく厚く重いものであった国境そして国籍。第二次大戦当時のヨーロッパもそうでした。今ヨーロッパでは国境の意味はとても薄くなっています。東アジアでそれができないはずはないと思います。

李香蘭は今でも多くの人々に夢や希望を与え、多くの人に愛されています。テンピンルーは残念ながら人々から愛される機会は与えられませんでした。しかし彼女が、日中双方を愛し、日中間の平和を誰よりも望んでいたと私は信じています。

8_2 左から、10才ごろのピンルー、母木村はな、長女真如、三女天如(のち静知)、次男南陽、父鉞(えつ、ユエ)、長男海澄。

参考文献  

下記の文献にピンルーに関する記述がありました。しかし内容は細部がバラバラです。中国語で書かれた文章ではピンルーは抗日の英雄として書かれ、日本人の書いたものでは「とんだ食わせ物」というタッチで書かれているものが多いです。今回の記事はこれらの文章から最大公約数的な情報を抽出し、また個別に書かれている情報の中でも信憑性の高そうなものを入れ、それらを私の類推によって繋ぎ合わせて書きました。一次資料はピンルーに会ったことがあるか、あるいは会った人から直接情報を得ていた人が書いたものとしました。二次資料は参考文献を調べて書いたと思われるものとしました。

○一次資料

・「上海人文記」松崎啓次(1941年出版で、著者は民間映画人。ピンルーについて最も古い文献です。戴志華という仮名で登場します。映画の原作をも目的としていたようで、ストーリーに脚色はあると思いますが、ピンルーに実際会っているし会話もしており、彼女の内面を「偏見と予断なく」描いています。国会図書館で閲覧できます)

・「近衛文隆追悼集」近衛正子(1959年出版。文隆の妻正子が編纂。文隆の多くの友人知人からの追悼の文集です。彼が内外の多くの人から好かれていたことがわかります。小野寺機関の早水重親の追悼文もあります。国会図書館で閲覧できます)

・「歴史の証言」-満州に生きて 花野吉平(当時の上海で日本軍に属しながらも反軍、和平派です。ピンルーから機密情報をもらっていた記述があります。鄭家とは父親テンエツ、ピンルー、弟南陽と交流があった記述があり、家族ぐるみのつきあいがあったようです。国会図書館で閲覧できます)

・「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」 木戸日記研究会/東京大学教養学部(上海憲兵隊特高課長 林秀澄氏へのインタビュー記録です。ピンルーによる暗殺未遂事件から処刑されるまでの大部分はこちらを参考にしました。事件直後の丁黙存から事情聴取していること、ピンルーの処置に対しての指示を出していること、処刑に立ち会っていることから、少なくとも暗殺未遂事件の大きな流れについてはおおむね信憑性があると判断しています。但し、自叙伝でもあり、憲兵隊特高課長としての立場で話されていますので、全体的には自慢話、ピンルーは悪者になります。誤りも堂々と述べると信憑性が増すという例です。国会図書館で閲覧できます)

・「上海テロ工作76号」晴気慶胤(初版は「謀略の上海」というタイトルです。著者は影佐禎昭の腹心の部下で、ジェスフィールド76号設立の実務担当者。林秀澄とは幼年学校時代からの親友。国会図書館で閲覧できます。その後の数多くの小説の参考書となりました。しかし、彼は丁黙存狙撃事件当時は日本にいたのでその部分の記述は第三者からの情報です。また、林秀澄氏と同様、日本軍人としての立場に立ってピンルーを描写していますので、あくまでピンルーが悪者になります。処刑の場面の描写はある中国人歴史家は、林秀澄の口述と比較し、「晴氣の描写はどんな阿呆でもわかる嘘」、と書いています。)

・「 揚子江は今も流れている」犬養健(著者は影佐機関構成員であり当時の国会議員。古書です。丁黙存狙撃事件の部分はは晴気の著作と似た内容になっています。ピンルーの描写はまるで援助交際を求める少女のような書き方になっています。林秀澄がこの本を「林秀澄談話速記録Ⅲ」で次のように評しています。「例の「揚子江は流れる」か、「揚子江は今も流れている」とかいうのを犬養健氏が書いたのがございます。あれを嘘八百だとお読みいただければなんでもないんですが、あれを本気にしてお読みになりますと事実は嘘なんでございますから(後略)。)

・「二つの国にかける橋」吉田東祐(著者は影佐機関と小野寺機関構成員両方に属した民間人で、CC団とも交流があった情報員でした)

・「鄭蘋如妹妹的述説」楊瑩(書籍ではありませんが、ピンルーの妹、鄭天如(鄭静知)さんの回想インタビューをまとめたもので、ネット上にあります。ピンルーに最も近い一次史料です。日付等に若干の記憶違いはあるようです。これ以外に多くの中国語サイトがありますが、ピンルーの誕生年を1918年としたサイトはその時点で調査不足でコピー&ペーストに過ぎず信用できません)

○二次資料

・「一个女間諜」(一人の女スパイ)許洪新(2009年出版の中国語図書です。これまでの研究成果を集大成した史料になります。私はこれを機に中日辞典を買いました。著者はこれまで出た全ての中国語史料と、妹天如さんや甥鄭国基さんへのインタビューを中心にまとめ、日本語の晴氣、犬養、林、西木の著書を参考図書として掲載しています。)

・「夢顔さんによろしく」西木正明 (ピンルーと近衛文隆との関係がノンフィクション小説として書かれています。部数としては最も出ています) 

・「阿片王」佐野眞一(上海を舞台に日本が軍資金確保のため大量の阿片を売り膨大な利益を上げていたことが書かれています。ピンルーの処刑場面を「林秀澄氏談話速記録」を引用、要約して記載しています)

・「近衛家の太平洋戦争」近衛忠大(近衛文隆の親族の方が上海での文隆について書いています)

・「オールドシャンハイ」パン・リン(中国人の書いた翻訳本です。杜げっしょうというオールド上海の裏社会を牛耳った男がテーマです。ピンルーに関しては晴氣の作品を参考にした中国側文献のいくつかを、史料としているようです。古書)

・「漢奸裁判史」益井康一(戦後の中国における漢奸裁判に関する新聞記事を多数保存していた元毎日新聞記者である著者が、丁黙邨の項目を設けピンルーの事件について記述しています。裁判での丁黙邨の逃げ口上をかいま見ることができます。補記で晴氣に話を聞いたとして、晴氣の著作を引用しています。国会図書館で閲覧できます。)

・「憲兵日記」山田定(著者は上海憲兵隊滬西分隊の隊員。ピンルーの記述はありませんが、上海の憲兵がどんな仕事をしているかかいま見ることができます。賭博を日本側の資金源にしていた記述もあります。古書)

・「ある情報将校の記録」塚本誠 (影佐機関構成員。ピンルーの直接の記述はありませんが、林秀澄氏の部下として周辺情報を記述しています)

・「バルト海のほとりで」小野寺百合子(小野寺機関の小野寺信の妻。ピンルーの記述はありませんがピンルーと一緒に活動した小野寺の人柄がわかる本です)

・「成瀬巳喜男」スザンネ・シェアマン(ピンルーの記述はありませんが、ピンルーが関与した丁黙邨暗殺未遂事件を題材にした1941年の日本映画「上海の月」についての記述があります。古書)

・「回想の上海」岩井英一(ピンルーの記述はありませんが、「近衛文隆の上海から追放に手をかす」という章で文隆の帰国の経緯がかいま見れます。本の趣旨は自慢話です)

○ネット上の二次資料として下記があります。

・論文「引き裂かれた身体 張愛玲「色 戒」論」/東京大学非常勤講師 邵迎建

・論文「張愛玲における時代と文学」/共栄女子短大教授 池上貞子

・論文「陳立夫氏へのインタビュー 三民主義青年団、CC団の呼称、及び日本人への提言」/大阪教育大学 菊池一隆  ピンルーの属した三民主義青年団とCC団のことが、CC団の頭目陳立夫氏へのインタビューとして書かれています。

○また、以下の中国語サイトを参考にしました。検索にかければこれ以外に数多く出てくるはずです。中国語はexcite翻訳にかければおおよその意味がつかめます。

・「76号ー汪偽特工口述秘史」(北京師範大学歴史学教授 故、蔡徳金氏が上海刑務所に服役していた汪精衛側スパイ、馬嘯天、汪曼雲から聞き取った内容を編集した物がネットに掲載されている。http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_54932_38917.html)

・記者鄭振鐸が「週間新聞」に寄稿した鄭蘋茹についての1945年10月6日号の記事(彼ははピンルーの住んでいた万宜坊に住んでいたことがあり、自宅前をよくピンルーが自転車で通っていたそうです)

・鄭振鐸によって書かれた「蟄居散記」の「一人の女スパイ」に対する評論家、葵登山による書評

・葵登山による著作「張愛玲 「色戒」」の紹介記事

・中国側がジェスフィールド76号について書いた「魔窟76号」の要約記事

・ CCTV(中央電視台)が鄭蘋茹についてルポルタージュの形でテレビ放送し、ネットに一部掲載しています

・その他、映画「ラスト コーション」を機に書かれた中国語新聞記事多数。

○ピンルーについて書かれている小説

・「ゾルゲ事件」永松浅造(当時の毎日新聞記者。ピンルーが国際共産組織のスパイだったとの独特の説があります。国会図書館で閲覧できます)

・「七十六号の男」 陳舜臣 (「紅蓮亭の狂女」という本の中の一章として入っています。中国語がわかるだけあって、鄭振鐸などの中国語史料や、犬養などの日本語史料を中心に両国語史料を調べて1964年11月に書かれています。丁黙邨暗殺未遂事件は李士群の陰謀があったという説を採り、ノンフィクション小説風になっています)

・「戦争と人間」 第12巻 五味川純平(晴氣の著作を参考にしたと思われる記述が6行だけでてきます。古書)

・「ジャスミン」辻原登(文中で著者が言っているように、晴氣の著作「上海テロ工作76号」と、益井康一の「漢奸裁判史」が参考図書として紹介されています。途中が非常に冗長ですがラストだけは、そう来たか、という展開です)

・「上海リリー」胡桃沢耕史(小説の中でピンルーの事件が出てきます。晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしているようです)

・「上海バビロン」平野純(犬養健の「揚子江は今も流れている」と晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしたと思われ、大胆に想像して書いています。古書)

・「シャンハイ伝説」 伴野朗 (巻末に参考図書を載せていますが、明らかに晴気と犬養の著作を参考にして一部全くそのまま文章を使いながら、参考図書の中に「上海テロ工作76号」と「揚子江は今も流れている」を載せていません。意図的に外したものと思われます)

○また、2008年7月21日放送の、日本テレビ制作「女たちの中国 第二弾」と、2008年8月16日放送の、読売テレビ制作ドキュメント「日中戦争秘話 鄭蘋如の真実」から、出典のあきらかな部分を参考に、一部記事を加筆修正しました。

2009年9月に、女流作家楊瑩(ヤンユィン)が行った、ピンルーの妹天如さんへのインタビュー記事が中国語サイトににあります。最も身近にいた妹の発言を尊重し、2010年3月に後編記事を大幅に加筆修正しました。

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2008年1月 8日 (火)

日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇  前編

(注:長文記事です)

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李香蘭は終戦の一ヶ月前、上海で張愛玲(チャンアイリーン)と対談し、映画談義に華を咲かせた。その張愛玲の短編小説「色 戒」が2007年秋、映画「色 戒 (ラスト、コーション)」 (Lust Caution)として公開され、ベネチア映画祭で金獅子賞をとった。この原作のヒロインのモチーフとなったのが鄭蘋如(テンピンルー)である。

「日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編」はこちら←クリック

Photo

鄭蘋如(テンピンルー ていひんじょ Zheng Pingru 郑苹如)は日本で生まれた日中混血の美しい女性だ。姉、二人の弟、妹の5人兄弟である。彼女の父は鄭鉞(ていえつ テンユエ Zheng Yue)といい、清の時代末期の1906年、浙江省の官費留学生として28才の時に来日した。蒋介石の日本留学と同じ年である。まず岩倉鉄道学校に入学、2年後の1908年に法政大学の清国留学生法政速成科に入学した。卒業生には汪精衛(汪兆銘)らの名前も見ることができる。彼ら中国からの留学生は、明治維新を成功させた日本に学び、新しい中国の国作りに燃えていた。

鄭鉞(ていえつ)はやがて、茨城県真壁出身で東京都牛込区(現新宿区)東五軒町20番地の下宿屋林館で働く木村はなという女性と知り合い結婚した。彼が住むその林館は孫文の主宰する「中国革命同盟会」という中国人組織の本部でもあった。彼は勉学のかたわら、中国の革命運動に従事していた。後に互いに争うことになる蒋介石と汪精衛もこの同盟会のメンバーであった。鄭鉞(ていえつ)は1912年7月に一旦法政大学の清国留学生速成科を卒業。ちょうど妻のはなが長女真如を出産する前後のころだ。その後彼は本科に再入学し、4年後の1916年7月に第32期生として法政大学を卒業している。

法政大学の1914年5月17日印刷の名簿には、鄭鉞の住所が東京牛込区早稲田鶴巻370番地と記載されている。長女真如(しんにょ チェンルー)が2才、そして次女ピンルーを身ごもったことで、育児のためだろうか、人の出入りの激しかった下宿屋林館から一家は引っ越したようである。

Photo_2(写真は10才頃のピンルーと母親木村はな)

ピンルーの生まれは諸説あり、最も早い生まれは、1914年5月15日という説である。これは中国の歴史家、許洪新氏によるものだ。1936年2月21日作成の上海法政学院の名簿に、ピンルーは、1916年5月15日生まれ21歳と記載されていることからの類推である。満年齢で記載されているなら、引き算をすると1914年生まれとなる。誕生年が1916年と記載されているが、これでは弟海澄と同い歳になってしまうので記載ミスだろう。民光中学の名簿では、1935年9月時点でピンルーが21才と記載されており、こちらも引き算をすると1914年生まれとなる。

ピンルーの下の弟、鄭海澄(ていかいちょう テンハイチュン)は1916年10月28日生まれという記録が中国空軍の史料に残っている。ピンルーの生まれが弟より前ということはありえないので、ほとんどの中国語サイトに記載されている「ピンルーは1918年浙江省蘭渓生まれ」、という定説は間違いだということがわかる。家族と写っている2枚の写真を見ても海澄はピンルーよりは2才程度幼く見える。

後述する丁黙邨(ていもくそん))による戦後の漢奸裁判での本人答弁では、

「缘郑母系日人,郑在日生长,日语极佳,日友极多,日籍密友亦不少」

(母親は日本人であり、鄭(注:テンピンルー)は日本で生まれ育ち、日本語が上手で、日本人の友人が多く親友もまた少なくない)

と語られている。彼の答弁も、ピンルーが日本で生まれであることを示唆している。

また、ピンルーは1940年1月に日本憲兵隊特高課長の林秀澄に歳をたずねられているが、彼女は26才と答えたようである(林秀澄談話速記録Ⅲより)。当時の中国では日常会話では「数え歳」を使っていたから、満年令でいえば25才ということであろう。

以上のことから、当ブログでは、鄭蘋如は1914年5月15日、東京市牛込区早稲田鶴巻町(現、東京都新宿区早稲田鶴巻町)で生まれ、1940年2月に満25歳で上海で亡くなった、とする。

ピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)は、帰国後の1917年1月26日に中国で弁護士資格申請をしている。このことから彼が中国へ帰国した時期は、早くとも大学を卒業した1916年7月から、遅くとも1917年1月の間だということがわかる。妻はな、長女真如、次女ピンルー、長男海澄を連れての帰国だった。父親以外は初めての中国だ。鄭鉞は1919年に陝西靖國軍一等秘書 兼軍法所長への就任を皮切りに、山西省高等法院第一分院院長や福建省高等法院第一分院主席検察官に任官されている。

1928年3月には南京で中央特殊刑事法廷審判員となり、一家は南京に在住、ピンルーら子供たちは転校を繰り返していたと思われる。鄭鉞はその後上海の復旦大学(旧震旦大学)の教授に就任、1935年1月12日、江蘇高等法院第二特区分院主席検察官に任命され、1938年2月には最高法院上海特区分院検察官を兼任した。

10年あまりにおよぶ日本滞在経験と、上海租界での民事、刑事分野で起訴権限を持つ鄭鉞には、上海の治安管理を日本の思い通りにしたい日本憲兵隊が接触を始めた。その動きは台湾憲兵隊から上海へ異動になった林秀澄特高課長が主導した。林は私設秘書の山崎晴一翻訳官を使って鄭家に何度も通わせ、日本側への司法面での協力、さらには親日政権である維新政府の司法部長職に就くよう、執拗な説得工作が行われることになった。母親木村はなは、鄭鉞が病気だと言って、説得に来る来訪者を追い返した。鄭鉞は日本側の誘いを一切断り、無線を使って、漢口、そして重慶まで逃げた蒋介石国民党政府と連絡を維持していた。

Photo 鄭一家は、1931年初頭に上海の菜市路(現、順昌路)太平橋の家から、呂班路(現、重慶南路)沿いの万宜坊(まんぎぼう)67号に引っ越した。フランス租界内の100世帯ほどからなるテラスハウスで、独立した洗面所や応接間を持つ当時としては先進的な住宅だった。妻、木村はなは、鄭華君(テンホワヂュン)という中国名をつけ、中国に骨を埋めるつもりだった。木村はなが子供達と会話するときは、半分中国語、半分日本語だった。はなは、子供達に「もしもし亀よ」「鳩ぽっぽ」などの日本語の童謡を教え一緒に歌った(読売テレビによる妹天如へのインタビューによる)。

1934年春に家族は、車を停めることのできる万宜坊内の88号室に引っ越した。001 3階(上の写真)に自分の部屋をもらったピンルーは、学校へは自転車で通学した。姉の真如とは、近くにあるフランス公園(現在の復興公園)の小動物園によく行き、羽を広げた孔雀を見るのが大好きだった。明るく活発な性格の彼女は万宜坊の中でも誰もが知る存在だった。学校の話劇(日本の新劇にあたる)の主役として、図画時報(EASTERN TIMES PHOTO SUPPLEMENT 1931年3月号)の一面で紹介されてもいる(左の写真)。

1931年9月の満州事変につづき、1932年、日本軍と中国軍が上海北部で戦火を交えた。上海での利権の維持、拡大を狙う日本と、ドイツ軍からの援助、指導により準備万端整った中国国民党軍の間での挑発合戦の結果である。この上海事変に勝利を収めた日本軍は少しずつ上海での存在感を増していった。それにつれ、日本軍、日本人に対する中国人の反感は増しており、ひんぱんに抗日集会が開かれるようになっていた。日本人通学児童に対する投石が相次いだ。満州事変1ヶ月後に出された対日経済断交の内容は下記の通りである(「ドキュメント昭和」角川書店 より)。

1.日本商品を買わず、売らず、用いず

2.原料、いっさいの物品を日本人に供給せず

3.日本船に乗らず、荷揚げせず、積荷せず

4.日本紙幣を受け取らず、取引せず

5.日本人と共同せず、日本人に雇われず

6.日本新聞に広告せず、中国紙に日本商品の広告を載せず

7.日本人と対応せず

これらに違反した中国人は、

1.反日救国会の懲戒委員会で審査

2.罪重き者は漢奸(売国奴)として死刑

3.懲戒は、貨物没収、財産没収、町を引き回し、売国奴衣装着用、三角帽子着用、罪名を記した布を胸につける

といった罰を受けた。

ピンルーが弟二人を連れて、街角で満州事変に抗議する反日ビラを配ったのは、この頃のことである。ある日、鄭家にミシンがいくつも届いた。ピンルーはクラスメートと一緒に服を縫い始めた。負傷兵に提供するのだという。ピンルーは日本人を母に持つ自分ら家族が抗日中国人であることを証明するのに必死だった。

ピンルーはキリスト教系の大同大学付属中学(6年制)を卒業すると1933年9月民光中学(6年制)に19才の時に編入した。民光中学は、蒋介石の地下工作組織CC団が作った学校とも言われている。父親の転勤などもあってか、翌1934年に一旦休学したようだが、1935年9月に復学。その時の名簿の一部を読売テレビの「鄭蘋如の真実」で見ることができたが、学生の年齢層がピンルーの21才から32才の男性まで広がっていた。民光中学は6年制中学校であるが、社会人も多く在籍していたようである。

Photo_6 1936年2月、ピンルーは民光中学の商科3年を卒業、姉と同じ上海法政学院の2年生として入学、法律を学び始めた。そのころピンルーの弟二人は日本に留学していた。上の弟、海澄は、名古屋飛行学校でパイロットになるべく飛行機の操縦を学んだ。

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下の弟、南陽は成城学校で日本語を学び医学学校受験の準備をしていた。明治18年創立の成城学校は、1934年までに1,377名の中国人留学生を受け入れていた。ちなみに成城学校のある牛込柳町を1kmほど北に行けば、父母が住み、姉ピンルーと兄海澄が生まれた早稲田鶴巻町である。南陽も家族が平和に暮らしていたこの町に住んだ可能性がある。

0(名古屋飛行学校での鄭海澄。民国26年、西暦1937年3月撮影)

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1937年7月、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中の正規軍が交戦した。8月にはドイツの協力を得て戦争準備を整えていた蒋介石国民党軍の先制攻撃により、上海でも戦端が開かれ、ついに日中戦争が始まった。国民党政府から、日本人を妻に持つ中国人は、妻を日本に帰国させるよう命令が゙出た。テンエツの妻、木村はなは日本に帰国しなかった。それどころか、はなは、日本留学中に軟禁状態になってしまった息子二人、海澄と南陽を連れ戻すために、いったん日本へ入国、1937年10月、息子達を密航同然の状態で船で上海に連れ戻した。海澄は帰国するとすぐ中国空軍に入隊した。入隊直前、彼は結婚し、生まれた子供が現在もしばしばインタビューに答えている鄭国基氏である。

しかし、海澄は入隊後、姉ピンルー宛てにこんな手紙を書いている。

「また給料がもらえそうにありません。こうなったら陸軍にでも入って、日本軍と本格的に戦わないといけないみたいです」

彼は、日本人の血統を持ち日本に留学していたため、いわれなき差別に苦しんでいたのだ。日本に銃を向けられるのか疑われ、入隊審査が長引いたのである。

(上の写真は海澄と南陽を船で日本から中国へ連れ戻す時の母親木村はな。後ろに立っているのが海澄)

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(上海一の発行部数だったグラビア雑誌「良友」1937年7月号の表紙を飾ったピンルー)

Photo_4 (ピンルーは名前が載るのを希望しなかったため目次には鄭女士とだけ紹介されている)

1937年8月13日に始まった上海での激しい戦闘はギリギリのところで日本が勝利をおさめ、そのままの勢いで、首都南京を陥落させた。日本軍の進撃に伴い、中国側におびただしい数の死者、けが人が出、家屋は崩れ落ちた。猛烈な反発がおきた。反日宣伝が抗日新聞や抗日ラジオで連日激しく報道され、街頭のいたる所で反日集会が盛り上がり、スピーカーからは怒鳴り声が聞こえた。

日系ハーフであるピンルーにはクラスメイトからの注目がいやがおうにも集まった。それは徐々に深刻ないじめ、差別へとエスカレートした。不登校がちにもなったようである。ピンルーの甥、鄭国基氏(1939年9月生まれ。鄭海澄の子)は、生まれてから9年間母親代わりになって育ててくれた木村はなから聞かされていたのだろうか、日本テレビの取材に対しこう答えている。

「テンピンルーは、父親の国を愛し、母親の国を愛していました。しかし、ハーフであることは隠しても隠しきれないことでした。学生時代、まわりの人に、日本人の血が入っていることがわかると、石で殴られたり、ひどいいじめにあったといいます。私たち家族は、いろいろな人から誤解され、悲しい思いをしました」

また、許洪新氏の取材に対して、祖母木村はなに対する差別の実態もこう話した。「向かいの建物から空気銃で撃たれたり、日本人の祖母は物を投げつけられたり、小日本(日本人野郎)となじられたりしました」

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1937年末、上海法政学院に在学中のピンルーに、同じ学校の卒業生である嵇希宗(けいきしゅう)が近づいてきた。彼は蒋介石国民党の反共地下工作組織である「CC団」(Central Clubの略。中統とも言う)のメンバーで、上海区情報組外勤という肩書きを持ち、CC団のリーダー陳立夫、陳果夫兄弟のいとこの友人にあたる人物である。CC団の上海方面の責任者である陳宝驊(ちんほうか)は、テンピンルーが日本の情報を取得するのにまたとない人材だと判断しており、嵇希宗に彼女をCC団の情報提供協力者として採用するよう指示したのだ。

厳格な家庭教育をほどこしていた父テンエツは、子供がつき合う友人に厳しい目を光らせていたが、父テンエツは、陳立夫と同じ革命党の仲間だった縁があったので、嵇希宗は鄭家に出入りする事が許された。

「中国のため役に立てるかもしれない」・・・

「自分が中国人であると認められたい」・・・

「日本軍がいなくなれば、反日運動も終わる」・・・

いろいろな思いがよぎったことであろう。ピンルーは嵇希宗への日本側情報の提供を約束した。そして徐々にCC団や、蒋介石国民党軍系で抗日地下工作組織「蘭衣社」(軍統とも言う)とのつながりを深めていった。ただし当時のCC団、蘭衣社の名簿には、ピンルーの名前はどこにも載っていない。彼女は正式な地下工作員、スパイではなく、嵇希宗に情報提供をする運用メンバーだったようである。彼女は工作員としての専門的な訓練は受けておらず、逆にそれが、誰に対しても自然な振る舞いとなり、相手に警戒感を持たれない結果となった。

0017(ピンルーと上の弟海澄、下の弟南陽)

ピンルーは、鄭家とほぼ同じ時期に日本から中国へ渡ってきた母方の親族(注:妹天如によれば彼の姓は「阪」といったらしい)と一緒に、秘密裏に開かれる反戦日本人の会議に参加するなど、日本側の情報人脈を少しずつ広げていった。

1937年12月には、日本の中支派遣軍特務部が上海の日本人地区、虹口(ホンキュウ)の日本人倶楽部に設けた「大上海放送局」というラジオ局のアナウンサーになった。北京語、上海語、広東語、英語などを話せる募集条件を満たし、日本語もわかるため、母親木村はなが特務部放送班責任者の金子少佐にかけあった末に採用されたのである。ただしニュース報道の内容は、日本軍の正当性と、蒋介石国民党の不正行為を、中国人向けにアピールするものであった。これは、ただでさえに日中混血、すなわち親日、漢奸と疑われがちなピンルーにとって一面、つらい仕事だったと想像できる。

甥、鄭国基氏によれば、ピンルーは小さい頃から歌と演劇が好きで、ラジオでは報道だけでなく、歌も披露していたようである。日本のラジオ局の仕事は、漢奸とみなされる危険を避けるために自ら辞めたのか、あるいは逆にCC団とのつながりを日本側から疑われたのか、1938年の5月か6月には辞めているようである。しかし、日本人特務部員との人脈を広げる目的は果たせたようである。また、蔡徳金の「汪偽特工総部口述史」には、駐支派遣軍報道部新聞検閲室でも働いていたとの記述がある。ここは地元新聞の記事から反日的なものを見つけ出し、圧力をかけるための部署である。

ピンルーはラジオ局に就職する少し前、日本軍がドイツ大使館トラウトマン大使を通じて行った極秘の和平交渉、いわゆるトラウトマン工作(1937年11月〜1938年1月)の情報を、日本の反戦和平派、陸軍特務の総務部第一班(思想班)の花野吉平に伝えた。日本側ではごく一部の者しか知らなかった工作である。花野吉平は、1937年10月の思想班発足と同時に配属された日本側の工作員である。赴任からそれほど日を置かずにテンピンルーと知り合っていたようだ。おそらく前述の母方の叔父の反戦会議で知り合ったのだろう。花野はピンルーのことを、その著書「歴史の証言」で、蒋政府中央情報局工作員鄭蘋如、と表現しているが、ピンルーが嵇希宗の配下に入ったのは1937年末なので、花野と最初に会った時はまだ個人的な身分だったと思われる。

花野のように日本軍内部も、汪精衛の傀儡(かいらい)政権樹立派以外に、わずかながら蒋介石国民党との直接和平交渉、ならびに撤兵を主張する反戦和平派が存在した。尾崎秀実(おざきほつみ ゾルゲ事件で死刑)が、近衛文麿首相に提案してできたこの特務部思想班は、近衛の腹心であり停戦交渉の密命を帯びていた早水親重も配属になっていることからも、秘密裏の反戦組織であったと思われる。

ピンルーは、日本の謀略組織、影佐機関が、汪精衛(別名、汪兆銘)を利用して傀儡(かいらい)政権樹立工作を始めたことを初期段階から掴んだ。ある日、最高機密を引き出した。1938年12月、蒋介石に次ぐ国民党ナンバー2の汪精衛が国民党の本拠地重慶を脱出してベトナムのハノイへ移住し、日本政府の要求を飲んだ和平声明を発表をする、というのだ。結果的にはこの情報を受け取った蒋介石国民党がピンルー情報の信憑性を疑って、汪精衛が重慶から脱出するのを阻止できなかった。しかしピンルーの情報の確かさの最初の証明となった。

蒋介石は、刺客として、蘭衣社の陳恭樹ら7人をハノイに急ぎ派遣した。1939年3月の闇夜の晩、彼らは汪精衛の居宅に侵入、暗殺を図った。銃弾は汪精衛には当たらず、彼の秘書が身代わりのように銃弾に倒れた。この一報を聞いた影佐機関は驚愕し、汪精衛を急ぎ上海に連れてくることになった。反日テロの横行する上海では、強力な護衛が必要だった。それが、後述する「ジェスフィールド76号」である。

0021_2 花野吉平(左の写真)はピンルーの口から、汪精衛工作にうごめく最初期の活動家、伊藤武雄、西義顕、松本重治の名前を聞いて驚いた。花野は、日本軍部の動向は中国人工作員から教えられることが多かったと「歴史の証言」に記述している。

花野はピンルーの家族とも個人的な親しい付き合いをするようになっていた。歴史家の許洪新氏によると、花野が1970年代にピンルーの妹天如や甥国基氏らとやり取りした手紙の中に、「私は鄭先生夫妻に家族同様に見なされて、夫妻から中国社会の中でとても役立つ教戒を得ました」と書いてあったようである。また花野は、1935年武官時代の影佐禎昭が、上海で暴動を誘発し、鎮圧の名目で日本軍の勢力を拡大しようとした謀略なども、テンエツから聞いた。

医者を目指していた次男南陽が1945年、満州にある日系の奉天医大病院での医学研修を希望すると、花野は奉天のヤマトホテルまで一緒に行き、日本人の友人に南陽の世話を託したりもしている。南陽は囲碁が得意で、花野や特務部経済担当の岡崎嘉平太(後の全日空社長)は彼の囲碁仲間であった。花野はピンルーの死後、テンエツまでもが病に伏したとき、鄭家が受け入れた日本人二人のうちの一人だった(もう一人は花野の仲人も務めた肥後大佐と言われている。彼の名は1938年3月29日作成の中支那放送委員会章程の委員会メンバー表に、「海軍側 肥後中佐」として出てくるので、ピンルーとは大上海放送局つながりと思われる)。花野はピンルー、そして父テンエツの死後、残された鄭家の保護に最善を尽くした。

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Weidahotel_2 (上:花野とピンルーが会合に出席した偉達飯店がアヴェニュー・ジョッフルの左側に見える。1930年代後半、「ラストコーション」の原作者、張愛玲も住んでいた。下はそのエントランス。英語でWEIDA HOTELと呼んだようだ。1999年解体)

花野は、中国側工作員との情報交換を進めるなかで、憲兵隊に逮捕されている中国人の救助を依頼されるようになり、多数助けていた。憲兵隊の一部には花野の動きに賛同する者がいたのだ。ある日、花野は救出のお礼にと、フランス租界ジョッフル通りにある偉達飯店(いだつはんてん)での会食に誘われた。

出席者は日本側が花野のほかに特務部思想班から班長の三木と、早水親重、中国側がCC団軍用犬訓練士官、上海新聞学校の陳則高、新四軍(中国共産党軍)代表者など全部で8名。陳則高は比較的共産党とも親しく(注:1937年9月より国民党と共産党は抗日合作をしていた)ピンルーは、共産党側とも連絡を取っていたようである。ピンルーと、弟の南陽が通訳を務めた。花野はそこで和平に向けての活動方針を堂々と述べるのだった。ちなみに、戦後の漢奸裁判で裁かれていた丁黙邨(後述)は、「ピンルーと花野は親友(注:原文では密友)のつきあいだった」と被告人弁論で述べている。

2 1939年2月、ピンルーが嵇希宗(けいきしゅう)への情報提供を始めてから1年半ほどたった時である。日本の前の首相、近衛文麿の息子で、父の秘書官を勤めた近衛文隆(1915〜1956)が、東亜同文書院という上海にある日本人向け大学に学生主事として赴任してきた。2月10日、ピンルーは、日本人の知人の紹介状を携えて、東亜同文書院を訪ねた(この紹介者は近衛文麿が和平交渉役として送り込み、小野寺機関に属した早水親重という説もある)。文隆の相談相手を兼ねる小竹文夫教授から、「見知らぬ中国人とは面会しないよう」アドバイスされれていた文隆は、訪れてきたピンルーに婉曲に交際の断りを入れた。

しかしピンルーはあきらめず、二度目に訪れた帰り際、小竹教授に手を合わすようにして訴えた。

「私は母が日本人なので日本が大好きであり、もっと日本語を習い、日本のりっぱな人と交際してみたいのです。近衛さんと交際するのを許してほしい」

0_3これは、文隆から情報を取ろうという意図からの発言だと疑うことは容易である。しかし全てが嘘とも思えない。なぜなら文隆は機密情報はほとんど持っていなかったからである。小竹教授の回想(「近衛文隆追悼集」)によれば、

「その令嬢は見たところ実に可憐な女性で、家内なども性の悪い人とはとても思えぬと言う」

そういう印象であった。小竹氏の妻もピンルーとの面会に同席していたようである。小竹氏は続けて、

「彼女がスパイであり、何か目的を持って文隆さんに近づこうとしたのだとしても、何の効果も得られるはずがなく、また実際に何の関係もなかったのであるが」

と述べている。

建国大学教授中山優氏や、学習院時代の同級生で同時期に上海に赴任していた海軍士官立花忠輝によると、プリンストン時代に人気者であった文隆には、中国人同窓からの交流の誘いも多く入ったようである。文隆が上海の名門子弟やジャーナリストグループらと交流を始める中で、小竹氏は文隆とピンルーの交際を見守ることになった。ピンルーと文隆の短い交際はこうして始まった。

3 文隆が米国プリンストン大学留学中に覚えた社交術は、上海でもいかんなく発揮された。上司を敬い純粋な素直さを持つ文隆(小竹教授による)には、あけっぴろげで遊びなれたところがあった。文隆は清楚で明るい性格のピンルーと気が合った。ピンルーも、他の日本人に無い高貴さと気の置けない快活さを持つ文隆に興味を持ったのであろう。二人は親しく交際するようになり、一緒の時を過ごした。文隆は、5月9日付けで幼なじみ細川護貞宛の手紙にこう書いている。

「同文書院とは実にうるさい所だ。職員の奥様連中、有閑マダムばっかりなもんで、話題がないので俺がいつも槍玉にあげられる。しゃくにさわって、今度は一つグーとやっつけてやろうと思って、一昨日学校の運動会の折りに一支那美人を招待して、いともねんごろなところを見せつけてやった。今果たして大問題になって彼女の身許調査をやっとるらしい。愉快愉快」

この手紙の「一支那美人」がピンルーを指すと推測される。またこの短い文面からは彼はピンルーの身分を知っていたふしがある。

ちなみに、ピンルーは中学高校時代を過ごした大同大学付属中学の同窓会パーティーで王漢勲という空軍パイロットと1937年に知り合い交際を始めている。しかし、その後すぐに第二次上海事変がはじまり王漢勲は上海から離れた空軍基地に勤務となった。仲睦まじい手紙のやり取りを経て、1939年春に王漢勲はピンルーに香港で結婚をしようと申し込んだ。ところがピンルーは、「戦争が終わるまでは・・・」、と返事を濁したようである。ちょうど文隆に出会った頃のことである。(王漢勲については、「上海防空戦 1~8」を参照←クリック)

ピンルーは、日本陸軍参謀本部のロシア課が送り出し、小野寺機関の長となって日中和平を実現させようと動き始めていた小野寺信(マコト)中佐にも近づいていた。ピンルーは小野寺には主に共産党情報を提供していたが、蘭衣社とも特別なルートがあるといって、とある蘭衣社工作員を小野寺に紹介した。この人物は、さらに蘭衣社のリーダーであった戴笠(タイリー)を小野寺に会わせると持ちかけた。この時の蘭衣社工作員に与えられた役割は、汪精衛ではなく蒋介石との直接交渉によってのみ和平の可能性があることを日本側に知らしめ、汪精衛政権樹立を破綻させること、そして米英の対日参戦までの時間を稼ぐことである。

蒋介石はその後も、日本側主流である汪精衛政権樹立派の今井武夫(支那派遣軍参謀)に、和平仲介人として蒋介石の親族と自称する偽者の宗子良なる人物を面会させている。日本側主流にも武力による局面打開が難しいことがもはや分かっており、また汪精衛が思ったほどの力を持たないことを知り、蒋介石との直接交渉にも望みを繋ごうと、二股をかけていたのである。

小野寺は、それまでの北欧での武官勤務時代の情報と経験から、蒋介石と日本の首相との直接交渉、そして結局のところ天皇の決断を得ずして泥沼化した日中戦争の終結は無理だろうと考えていた。小野寺はピンルーの紹介したこの蘭衣社工作員の話に乗り、蒋介石の懐刀である戴笠(タイリー)と称する人物と会食した。この戴笠は蒋介石の紹介状を示しながら、「日華和平の具体策について」、という長文の意見書を小野寺に渡し、日本の中央と直接和平交渉を始めたい、と持ちかけた。小野寺はこの意見書を添付して「重慶政府(蒋介石国民党政府)と直接交渉の橋渡しをしたい」と東京に報告書を提出した。


この小野寺機関の動きは、汪精衛政権樹立にのみ和平の望みをかける影佐機関の神経をいらだたせた。憲兵隊特高課長林秀澄は、小野寺の動きを封じることにした。林はジェスフィールド76号の頭目、李士群に依頼して、戴笠の顔写真を入手し、小野寺に会いに行き写真を見せた。そして小野寺に戴笠を指さすように言った。小野寺は、「この写真の中に自分が会った戴笠はいない」、と答えた。

そこに偶然居合わせたという吉田東祐が小野寺にだめ押しをした。吉田は戴笠の顔を知っていたとは思えないが、小野寺が会ったのは偽者だと断言した。吉田は上海憲兵隊から資金をもらって中国側の裏情報を収集していた民間人であり、後に小野寺機関にも属することになった。このとき吉田は林秀澄とは口裏を合わせていたのだろう。小野寺機関と影佐機関の内部抗争はあっけなく影佐の勝利に終わった。ちなみに、小野寺と同様に「偽」の宋子良と和平話を進めていた今井武夫は、主流派に属したためになんのとがめもなく終戦まで南京に留まった。小野寺と今井は、同じように偽の蒋介石交渉人を相手していたわけだが、憲兵隊による扱いは分かれることになった。

林秀澄憲兵隊特高課長は、1939年7月中旬、小野寺機関の宿舎に手入れを行った。小野寺は陸軍大学の教官職へ左遷された。5月下旬に一旦、近衛文隆と一緒に日本に戻り、直接和平交渉を政府上層部に訴えた早水重親も、上海にに戻ったところを逮捕され、汪精衛政権が誕生する翌年4月1日まで、1年間近く地下室につながれた。

この逮捕劇を主導した林秀澄は、早水の釈放に際し、「今まで取り調べもせずに約10ヶ月以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい」と、違法な逮捕を認め開き直っている。そしてピンルーの消息を尋ねる早水に対し、「「今、まだテンピンルーのことをかれこれ言われますとぶち込みますよ」と脅しましたと答えている(林秀澄談話速記録Ⅲより)。



さらに林秀澄は、汪精衛政権樹立の障害除去という理由で、反戦和平活動をしていた陸軍特務部の花野吉平ら思想班のメンバーも1939年5月に逮捕、彼らも取り調べは一切されないまま地下室に1年近く監禁された。

Photo_8 日中和平を切に願う部分においてピンルーと同志のつきあいでもあった近衛文隆は小野寺機関と同調し、彼なりの信念のもと、蒋介石との直接交渉で和平を実現しようと試みていた。彼はアメリカ留学中、蒋介石国民党にによるマスメディア戦略を目の当たりにしていた。日本軍の残虐性を訴える写真や映像を使い、アメリカ人の世論を反日そして対日開戦へと持っていく戦略である。蒋介石の妻、宗美麗の演説や論文も効果的に宣伝された。

文隆はそれまで親しかったアメリカ人達の変化を感じていた。中国との戦争が長引くと、やがてアメリカとも戦わなくてはならなくなるのではないか?上海でも文隆は危機感をつのらせた。日本へ一時帰国する小野寺に、父近衛文磨首相が早期に蒋介石と交渉を持つよう進言する親書を託したりもした。

また、孫文の革命資金の出し手の一人であり、蒋介石とも個人的交流のあった山田純三郎や、英国駐華大使クラーク・カー大使の仲介で、重慶の蒋介石に文隆が直接交渉に行く算段もなされていた。これには近衛文麿ら和平派にとっては正式な直接交渉の糸口を掴むための準備の意味があったろうし、イギリスにとっては日中のこれ以上の戦闘によって自国資産が毀損することを恐れてのことだろう。文隆は前出の細川護貞氏への手紙にこう書いている。

「俺は今実に面白いことをやっとる。政治運動に関係した事で、極秘になって居るから今の所では書けないが、こんなに俺の性に合った仕事は又とあるまい。夏帰ったら話する。上海は実に色々な奴等が色々の運動をやって居るので面白い」

文隆の独自の和平への動きは日本憲兵隊に監視されるようになった。日本政府の主流は、影佐機関が主導し汪精衛を首班とする親日政権、つまり傀儡(かいらい)政権の樹立による現状維持型の和平である。近衛文隆も影佐にとって邪魔者でしかなかった。影佐は外務省上海領事、岩井英一に文隆を日本に呼び戻すような謀略電報を打つよう依頼した。

岩井英一の自叙伝「回想の上海」の中に「近衛文隆の上海からの追放に手をかす」という章がある。岩井の告白によると、文隆の上海での行動について文章を勝手に書き上げ、電報の最後は「近衛文隆の上海滞在は百害あって一利無し」で結び、大使名での電報として日本の外務大臣宛(注:有田外相)に打った。この勝手に書き上げた部分には、その後多くの本に引用されることになった作り話「ピンルーによる文隆誘拐事件」が入っているのだろうが、いまその外交文書を見ることはできない。文隆は5月26日、一旦日本に帰国した。国内でも反戦和平を訴えた文隆は、6月8日、荻窪の自宅に軟禁状態におかれた。有田外相は岩井からの謀略電報を真に受けたようで、6月9日の「木戸幸一日記」によれば、有田外相は電報の内容をそのまま閣議報告したようである。

2_5この閣議にて正式に文隆に帰国命令が出た。父親である近衛文麿は、文隆が徴兵により二等兵として満州戦線へ送られることに同意せざるを得なくなった。満州で兵役を終えた文隆はそのままソ連軍によってシベリアに送られた。過酷な状況の中でも前向きな姿勢を失わなかった文隆は、ロシア語を勉強したり、極寒の中弱ってゆく仲間を励ましながら11年の歳月を収容所ですごした。仲間が続々帰国する中、最後まで残された文隆は帰国目前に病死してしまう(文隆は、ソ連共産党のスパイとなって帰国することを再三にわたり要求されたが、それを最後まで拒んだことによる薬殺という説もある)。戦後、文隆のシベリアでの死を知った岩井英一は回想録の中で、「別に私の電報にかかわりがあるわけでもないが、考えると余り寝覚めのよいものではない」とうそぶいている。

木戸日記研究会による林秀澄談話速記録Ⅲには、早水親重らが逮捕監禁された頃に近衛文隆も捕らえようとしていたことが語られている。少し引用する。

木戸:「その時近衛文隆はどういう?」

林:「これはあまり言いたくありませんけれども、今の鄭蘋如と熱くなってしまいまして、それでその手入れ(注:1939年7月中旬上海での早水親重らの逮捕劇)をする時にはまだひょっとしたらどっかへ隠れているんじゃないかと思っていたんです。ひっつかまえなければいかんと思っておったんですが、どうも調べてみますとこっちがだまされているのかどうか知りませんが、もう上海にはいらっしゃらなかったように思います」    引用終わり

この林の証言からは、憲兵隊が文隆とピンルーの交際をほぼ把握していたことが伺える。

文隆は5月26日に早水親重らと帰国していた。6月には青年同志会という、新たな中国認識を持って政治活動をする会を起ち上げ再起を図ろうとしていた。早水にも入会を誘っている(近衛文隆追悼集より)が、逆に早水によって事態の深刻さをさとされ思いとどまった。文隆はついには全ての政治活動を閉ざされた。

ピンルーは、こうして花野吉平、近衛文隆、早水親重などの日本側反戦和平派の同志でもあり、同時に情報源でもあった日本側人脈を一気に失うことになった。そんな彼女が次に交際していく人物は、意外なきっかけで決まることになる。

「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」に続きます。

主な参考文献は、上記リンクに記載しています

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