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2008年1月18日 (金)

ピンルーが最後に頼った日本軍人、藤野鸞丈

鄭蘋如(テンピンルー)は、ついに1940年の1月、ジェスフィールド76号に捕まってしまった。その直前に彼女は、上海憲兵隊滬西(こせい)分隊の隊長、藤野鸞丈(ふじのらんじょう)のもとを訪れていた。結局その彼に身柄を拘束される。

藤野は上海憲兵隊特高課長である林秀澄から、テンピンルーの動静を把握しておく役目を言い渡されており、彼の部下が尾行を行っていたようだ。林によれば藤野は有能でフランス語ができ、ピンルーと映画に行ったりしていたとある。ピンルーはフランス租界に住むためフランス語が多少できたであろうか。藤野の当時の写真を見ると恰幅のいい父親のような感じで、ピンルーにとって日本側のよき理解者という一面もあったのだろうか。藤野の上司、林秀澄にしてみたら、そう思わせる作戦だったかもしれない。


丁黙邨暗殺未遂事件で、追われる立場になったピンルーが最後に頼った男が藤野だった。しかし藤野は忠実な日本軍憲兵であった。ピンルーを電話で何度も安心をさせておいて、おびき寄せ、捕まえた。


そんな藤野についての史料は皆無に近かったが、文芸春秋の昭和34年9月特別号に寄稿している。タイトルは「東京反乱軍始末」というもので、終戦時の東京の治安をいかに保ったか、ということが、帝都憲兵隊隊長の立場から書かれている。どうやら彼は上海から東京の憲兵隊に異動になったようだ。


さて、その藤野鸞丈の寄稿文に中国での出来事が少し書いてあった。上海の南に位置する杭州でのこと。


藤野が杭州攻略に向かう日本軍の第一師団にたまたま同行していた時のこと。特務機関の工作によって、青パン(チンパン)と呼ばれる、チャイナマフィヤのようなものだが、それに金を渡して杭州の中国兵を引き上げさせる手はずが整っていた。街に進軍して行くと本当に、人っ子一人いない状態だったようだ。中国兵だけでなく住民も日本軍に恐れをなして皆逃げてしまっていたらしい。藤野は杭州の美しい街並に感動する。


彼の経験では、日本軍の通って行った街という街は火災にあってきた。兵は街に入るや否や、憲兵の目を盗んで略奪強姦を犯すものも少なくなかった。日本兵はその証拠を隠すために火を放つことがあったそうだ。また、中国側も、漢口のように、日本に占領される前に街の機能を破壊するために火を放つことがあった。


藤野はなんとしてもこの街は守らねばならない、と思ったようだ。彼は火災予防のために四個中隊からなる兵を補助憲兵として出してほしいと作戦参謀に要望した。参謀は、「冗談を言うな、九個大隊しかないものを一個大隊も出せるか。火災予防に来たのではない。戦争なんだ」と一喝した。藤野は「こんな美しい街が二度と出来るものではない」と粘った。

根負けした作戦参謀は、最後には「わかった。君に命令を出す権限はないが、君の命令を正当なものと誤認して兵を出すことにしよう」と兵を出したという。杭州の美しい街並と治安は終戦時まで守られたらしい。

ちなみに、こちらの記事を見てもらいたい。松崎啓次の書いた「上海人文記」についての記事である→ピンルーを最初に描いた史料 「上海人文記」1


 この記事の中に、ピンルーが日本のラジオ局、大上海放送局で日本軍の戦況をニュース報道する場面が出ている。少し引用する。

ピンルーの放送が始まった。

「日本軍は、南京入城後、・・・杭州を、・・・云々」

ニュースである。玉を転がすような声、少し巻き舌の北方系の北京語。松崎はピンルーの放送を音楽のように聴いた。美しい声である。

引用終わり

 

ピンルーは、藤野が憲兵として活躍した杭州戦の模様を、1938年1月、就職したばかりの日本のラジオ局で、中国語アナウンサーとして報道したようである。なんという巡り合わせであろうか。

話を藤野の話に戻す。

杭州占領は藤野の言うとおり、無血占領がうまくいったようである。人っ子一人残らず逃げた、という地元中国人はその後どうしたのだろう?という疑問はこの際置いておこう。また、ピンルーが捕まる最後の瞬間を知っているのも藤野だったのだが、それを書き残す勇気は彼にはなかったようだ。自叙伝では誰しも自分のいい面だけを書き残す。私は藤野に対して、当初、ピンルーが頼るほどの好人物だと勝手にいいほうに想像していた。しかし次の文章で少し幻滅した。

彼はこの同じ寄稿文の中でこう述べている。

「一言だけ述べておきたい。それは政治家の識見についてである。阿南陸軍大臣が最後の一兵まで本土決戦を行うと説いて国民の戦意高揚をはかり、軍もまた竹槍をもって協力することを国民に求めたことをいまなお笑う人がいるが、しかし一体軍人たる者が戦局が不利だからと言って「もうかなわないから戦はやめる」等と言えることであろうか。政治家が政治家としての識見を活かして、なぜもっとはやく日本を救うべく努力しなかったのか、私には惜しまれてならない」 

軍人としてはある意味もっともな意見かもしれない。自分らは銃を持つ、国民には竹槍を与える、それで戦えと。原爆がもう少し遅かったら日本国民は本当に竹槍で本土決戦をやらされていたのだろうか。藤野はやる気があったようだ。

私は軍人になったことがないので、想像が及ばない。しかし、原爆を持つ国に対して竹槍である。軍人というものはそれでも黙って従うのがすぐれた軍人なのだろうか。わからない。

当時アメリカは開発途中の原爆を実際に落とすことで日本の降伏を引き出し、戦後の対ソ連政策を有利に進めようとしていた。そのための時間延ばしに使ったのが、天皇の扱いである。天皇を残すことが担保されれば日本はポツダム宣言をもっと早く受諾していた。アメリカは原爆を落とす前に日本に降伏されては困る。しかもソ連が参戦したタイミングで降伏されたら最悪である。アメリカの時間延ばしの間に何も知らない日本国民は竹槍訓練をさせられていたのである。これは笑うというのを通りこしてあきれるということだろう。

ほとんどの政治家が愚か者だったのはわかる。しかし、文民統制(=政治家統制)のもとにおいて、軍人は、特に藤野のような将校の立場にあったものは、専門家の立場で軍事素人の政治家に助言をする義務がある。「竹槍では無理です!」と。

ピンルーが最後に頼った男、それが藤野鸞丈である。

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コメント

小西様

私が「情」に重きを置いているということは、なるほど、そうかもしれないと思いました。自分を客観的に見るのは不可能ですので、そうは思ってなかったですが、「感じて人は動く」というのを信じていますので、情は大切だと思っています。

小西様は、藤野氏が「美」に重点を置いていたように感じられた、ということですね。「美」も感じとるものだと取れば「情」に左右されますが、別の「美」に様式美、形式美があると思います。合理性や、数学に美を見いだす方です。文脈からは藤野氏はこちらの美を重視されていたのかと思います。小西様の言葉を借りれば、エリート(頭でっかち)の思い抱く「美」でしょうか。私にはなかなか思い抱けないものですが、時に「机上の空論」とか、「理想論」とも言われるものでしょうか。


このような「美」も必要ですね。特に理想論は必要、必須のものです。我々大衆の抱きやすい「情」と、エリート(頭でっかち)が抱きやすい「形式美」をまぜこぜにして世の中動いているわけですね。形式美だけを実行されたら、たまったものではありませんし、情で世の中動かしたらめちゃくちゃです。


ただ、エリート(頭でっかち)が情に流されるように、大衆にも理想があり、私にも理想があります。私はこのブログで評論している気はありませんが、「書いて終わり」だったら、評論なのかもしれませんね。

評論が役になったためしがない、という小西様の言葉は、人生の先輩からの応援歌、叱咤激励なのかなと、とらえさせていただきます。

穂積五一氏の名前が記憶に奥にあったので、当ブログの過去記事を検索したところ、「小野寺機関員、武田信近」http://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-332a.html

という記事を書いており、そこの穂積氏の名前がありました。ネット上で調べたところ、穂積氏は特高に捕まって本富士警察に拘束されていたのですね。小西様の言われる、「段取り」。この意味が少しわかりました。

投稿: bikoran | 2011年1月 8日 (土) 12時52分

上海での藤野さんの行動は詳しく分かりません。
彼の価値観は、ざっくり言えば、真善美のうちで美を最高位に置いていたと思います。
bikoranさんは、どちらかといえば「情」に重点を置いている感じがします。
小西が1969~1981年まで付き合った穂積五一さん(1902~1981)も結局美意識優先の価値観でした。おそらくぎりぎりの限界状況の中で生きていくと固体死を美学の中で迎えるのではないのか?
とくに、エリートの中にいると、自然にそうなるのでは?
私は日本社会の末端に生息しているから「情」が価値の重要部分を占め、おまけに結果解釈として
無駄な戦争(竹やり作戦)を早くやめさすことを考えるのが当然ですが。しかし、そのような方針をとるためには逆流に抗してそれなりの段取りを取らねばなりません。戦前、五一の場合は、もとふじ署にいつも閉じ込められ何も行動出来ていません。
私たちが歴史のリアルな現実を学ばなければならない。しかし大切なのは私たちの足元の段取りができ、これからの方針へ結実させれるかどうかうかでしょう。過去の歴史を掘り起こし共通認識を探るのは大切です。しかし評論はいくらでも出来るでしょうが、残念ながら評論が役に立ったためしがありません。現在も同じ状況にあります。

投稿: 小西しゅんよう | 2011年1月 8日 (土) 11時38分

小西様

藤野鸞丈氏の情報をありがとうございます。大変うれしいです。願わくば彼の上海でのことがわかるならと思います。

彼のことを調べたくてようやく見つけた資料は文藝春秋の手記だけでした。杭州の町並を守った一件には、一憲兵でありながらあっぱれ、と思わずには居られませんでした。

私は戦争を実体験しておらず、皮膚感覚では当時の戦争は全くわかりません。文章、つまり結果から読み解くしかありません。実在の方々には申し訳なくは思いますが、私の現在もちうる人間力を総動員して、その文章=結果を読み解き、歴史解釈しています。


当時の政治家が、日本国民に竹槍訓練をさせ、本土上陸してきた米兵に竹槍をもって対抗させる、ということを本気で考えていたのなら、軍人は政治家に助言をすべきだったと思います。命がけで、「竹槍では無理です」と言ってほしかった。原爆を落とされ、さらに天皇制の国体護持を保証されるまでは降伏しない、というのは悲しすぎますね。

当時、そのようなことを口にしただけで、死を覚悟しなければいけなかったのではないでしょうか。武士道とは死ぬこととみつけたり、というのであれば、命をかけて助言をしてほしかった。自分にできなことを他人に、しかもすでに亡くなられた方に言うのはとても失礼を承知していますが、素直な気持ちです。

投稿: bikoran | 2011年1月 7日 (金) 18時51分

藤野鸞丈さんとは1971~1974の間付き合いました。彼の感覚ではその場に行ってみなければ決められない。そんな場合には方針の幅をかなり持たせる感覚がありました。
丁度、西郷隆盛のように。
彼の口癖は「武士道とは死ぬことと見つけたり」で、いつもここが死に場所という腹の括り方をしていたような感触だった。
結果解釈ばかりしていると肝心なことを見失う。

投稿: 小西しゅんよう | 2011年1月 7日 (金) 15時17分

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