日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編
映画「色戒 (ラスト、コーション)」Lust Cautionのヒロインのモチーフとなった実在の日系中国人女性、鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇について続編です。前編はこちらをご覧ください。
(※2008年7月現在のピンルーについての最新情報 はこちら)
(※テンピンルーについての最初の日本語史料「上海人文記」 はこちら)
鄭蘋如(テンピンルー)は、反戦和平の同志であった近衛文隆が日本へ帰国させられ、花野吉平が憲兵隊の手で逮捕監禁された1939年5月以降、失意の日々を送っていた。そんな中、次に工作の対象としたのが、日本軍が藍衣社つぶしのために設けた最強の暗殺集団「ジェスフィールド76号」の頭目、丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)である。影佐機関はこのジェスフィールド76号に拳銃300丁近くと、阿片売買などで得た多額の軍資金(当時のお金で30万円)を毎月支給していた。日本軍としては、藍衣社によって次々と親日的な中国人や、日本人そのものが暗殺されていくのを放っておく訳ににはいかなかったのだ。丁黙存は汪精衛政権樹立のあかつきには閣僚としての地位が約束されており、日本軍のために働くことに躊躇はなかった。
ピンルーは丁黙邨と再会した。丁黙邨はピンルーが通ったCC団系の民光中学(高校)の校長をしていたというよしみがあったのだ。まだ丁黙邨が蒋介石国民党から寝返る前のころである。工作員として慎重な彼もそういう経緯と美しい彼女に気を許したのだった(注:「汪偽特工総部口述秘史」蔡徳金著、によると、日本憲兵隊藤野少佐の紹介でピンルーと丁黙邨が会ったとなっている)。
丁黙邨はピンルーに対して警戒が緩んだ。ジェスフィールド76号内で、丁黙邨と反目している李士群派の強い反発にもかかわらず、丁黙邨はピンルーを秘書とした。そのピンルーは、丁黙邨の暗殺のために、彼をおびき出す役割を与えられていた。暗殺とは無縁であった彼女は最初は断った。しかし彼女は、日中のハーフゆえに抗日愛国中国人であることを証明せねばならない立場だったのだ。
1939年の年の瀬のことだった。日本で大蔵大臣を勤めていた石渡荘太郎が、準備段階にある汪精衛政権の財政顧問に就任した。12月21日、石渡氏は汪精衛やその側近を上海「六三花園」という老舗の日本料理屋(左の写真)に招き、忘年会を行った。汪精衛の動く時は常に警護にあたっていた憲兵隊特高課長林秀澄は、汪精衛の側近である丁黙邨がいつまでたっても来ないことが気になった。彼の部下から電話が入った。その日午後6時20分ごろ、丁黙邨が六三花園に向かう途中の静安寺路にて襲撃されたというのだ。しばらくすると丁黙邨が真っ青な顔をして宴席に駆けつけてきた。彼は各所に緊急の電話をかけ終わるとようやく落ち着いたようだった。ことの顛末は次のようなものだった
憲兵隊特高課の調査によると、近衛文隆ら小野寺機関が日本へ帰国した1939年5月頃から、ピンルーは頻繁に丁黙邨と接触していた。12月末までに50数回、丁黙邨はピンルーの家を訪ねて行っていた。学校の教師をしていたときの教え子なんだ、というのが丁黙邨の言い分だった。12月21日、丁黙邨が「これから石渡さんの宴会に行ってくる」とピンルーに告げた。彼女はついに実行の時が来たと感じた。彼女の仲間が静安寺路のシベリア毛皮店(写真)近くに待機していた。丁黙邨をこの毛皮店に連れて行き、嵇希宗ら拳銃を持って待ちかまえる仲間の目の前に丁黙邨をさらすことがピンルーの役割である。
丁黙邨は一旦はピンルーの同行を断るのだが、ピンルーは「クリスマスなんだからプレゼントがほしい」と言って丁黙邨に承知させた。そして彼女は毛皮のオーバーかマフラーがほしいとねだるのだった。丁黙邨はピンルーとクルマに乗り、静安寺路の毛皮店に向かった。店の反対側にクルマを止めた。二人は道路を渡って店の中に入った。丁黙邨はこの店を前から知っていたのでピンルーに好きなものを選ぶように言ってお金を置き、彼女を店に残してクルマに戻った。丁黙邨に向かって手を振るピンルー。と、その瞬間、このクルマに向かって銃弾が次々と撃ち込まれたのだった。防弾装備の車に飛び乗った丁黙邨はからくも現場から脱出した。そしてだいぶ遅れて石渡氏の忘年会に出席したというわけだ。
宴会が終わり、林秀澄が帰宅すると、彼の部下で憲兵隊特高課の滬西(こせい:上海の西地区という意味)分隊の分隊長の藤野鸞丈(らんじょう)少佐が電話をかけてきた。藤野はピンルーの監視役を勤めており、ピンルーは彼の部下に常に動静を把握されていたのだった。藤野は有能でフランス語もでき、ピンルーとは一緒に映画を見に行ったりもしていた。彼女は日本人憲兵の中では藤野を信頼していたようだ。藤野が言うにはピンルーが事件のすぐ後、藤野に電話をかけてきたらしい。藤野が林に言う(林秀澄談話速記録Ⅲより)。
「林さん、聞いてみますと今日はとんでもないことが起きたようですね」
「うん、おきた。鄭蘋如の野郎がね」
「いや、その鄭蘋如が私に先ほど電話をかけてきて、「藤野さん、私のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか、藤野さんどう思いますか?」
と言うんです」
藤野はピンルーに、
「自分がいいと思っていればいいんだし、悪いと思っていれば悪いし」
と、いいとも悪いとも言わなかった。ピンルーは、
「私は今どうしたらいいか困っている。日本側に対しても悪いし、支那側に対しても悪くて。今支那側から追っかけられている。家にも帰れない」
と藤野に切羽詰まった気持ちを伝えた。
藤野から連絡を受けた林は、
「鄭蘋如の居場所はわからんか」
と聞く。
「いやそれはピンルーが居場所をおしえてくれない」
林は指示した。
「そうか、それならしょうがない。しかし結局日本側にこれから頼るところがあるとすると、藤野君、君の所以外に鄭蘋如が頼ってくるところは無いと思うから、鄭蘋如を捕まえるなんておくびにもだすなよ。鄭蘋如から電話がかかってきたら大いに同情して、「おれの方で役に立つことがあったら何でも世話をしてやるから言ってこい」、というようにして、つかず離れず、彼女との接触だけは絶たないようにしてくれよ」
年が明けてからも何度か藤野のもとへピンルーは電話をしていた。そんなある日、なんと藤野が使っている連絡所をピンルーは突然訪ねたのだった。それまでの電話のやりとりによって安心したのだろうか、ピンルーは藤野に相談、あるいは保護を求めたのかもしれない。林秀澄は「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」の中で、
「こういうところはやはり支那人との接触で大事なところだと思うのですが(後略)」
と自画自賛している。
この意味は、「ピンルーにとって「藤野は信頼できる憲兵だ」と思わせる日々の付き合いが成功した、これによって、ピンルーをおびき寄せることに成功した」、ということだろう。ちなみに、妹の鄭天如さんは、2007年9月12日の記者会見で、「姉が丁黙邨の暗殺に失敗した後、ジェスフィールド76号側から、自首しなければ全家族の生命は保証しないという脅迫を受けていた」と語っている。脅迫を受けたため、ジェスフィールド76号を監督する立場の日本側に多少なりとも救われる可能性を求めて、藤野宛に自首をしたのかもしれない。
いずれにせよ、ピンルーは日本陸軍憲兵隊のもとにやってきた。藤野は上司である林秀澄に、ピンルーの処置をどうするか電話をかけた。
「林さん、これはどうしますか」
ピンルーに対する警戒心が人一倍強かった林秀澄はすぐに身柄確保を指示し、ジェスフィールド76号のリーダー格である李士群と丁黙邨に連絡、日本側で処置するか、中国側で処置するかを投げかけた。そのときに、「日本軍の軍律会議にかければおそらく死刑ですよ」と付け加えることを忘れなかった。李士群は事件の当事者である丁黙邨に判断をゆだねた。丁黙邨は未練があるのか即答できなかった。最終的には「汪精衛衛側で厳しく処分します」という答えだった。彼らはその日のうちに藤野少佐の連絡所にやってきた。
ピンルーはその場で引き取られ、ジェスフィールド76号幹部の管理する屋敷(現上海交響楽団のある建物)に監禁されてしまった。当初ジェスフィールド76号でも扱いは柔らかく、汪精衛側に役立つ情報を取れないか、寝返らせて利用できないか可能性を探っていた。しかし彼女は地下工作員としては下部組織にいたため、重要な情報は持っていなかった。また今回の事件の首謀者である仲間の情報には彼女は固く口をつぐんだ。暗殺失敗後、潜伏していた嵇希宗をはじめとするピンルーの仲間達は、誰一人逮捕されなかった。しかし、彼らによるピンルーを助け出す動きも大きくはなかったようである。
主席検察官である父親テンエツのもとには、親日政権側につけば娘を釈放する、という取引の話が日本側から持ちかけられた。検察トップを味方に引きずり込み、日本側による占領統治を楽にしようということである。ピンルーからは獄中から、「私は大丈夫。心配しないで」という短い手紙がテンエツのもとに届いていた。ピンルーを強く愛したテンエツにとっては残酷な決断だった。彼はついに魂を売るこの取引を拒絶した。母親はなも泣く泣く同意した。影佐機関にとって、その時点でピンルーの監禁を続ける意味がなくなった。処刑が決定された。
監禁中の責任者は林子江という幹部があたっていた。1940年2月のある寒い日、処刑が決まると林子江はピンルーを抵抗なく連れ出す口実として映画を見に行く話を持ち出した。ピンルーは久々の外出ということで精一杯のおしゃれをし、化粧をして林子江とクルマに乗り込んだ。クルマにはなぜか日本人憲兵が同乗していた。クルマは映画館のある繁華街にさしかかった。しかしそこでは止まらなかった。次第に荒涼とした景色の郊外へと向かった。だまされたと知ったピンルーは車内で泣きながら抗議をするが受け入れられるはずもなかった。次第に刑場が近づいてきた。ピンルーはまだ死の覚悟はできていなかった。彼女はクルマから出ることに最後の抵抗を示したものの、二人の男に両脇をかかえられ車外に出された。
やがて観念したのか刑場で静かにひざまずくピンルー。宣告文が読まれ後頭部に銃が突きつけられた。眼前には自分が落ち込むであろう四角い壕が大きく口を開けている。
「私は中国人として 悪いことをしたのでしょうか」
最後の抗議をするピンルー。林秀澄が通訳を通して聞いた言葉である。処刑が確実に行なわれるかどうか、林秀澄は76号側の行動に一抹の不安を持っていた。彼はそれを見届けるために、先に刑場に到着していたのだ。
「顔は傷つけないでください」
母の国と、父の国、両方を愛したピンルーの、これが最後の言葉となった。家族に変わり果てた顔を見せて悲しませたくない、ピンルーの家族に対する最後の思いやりだったのだろう。
「林秀澄談話速記録Ⅲ」には、人づてに母親はなからの捜索願が何度も憲兵隊に届いたとある。しかし、鄭家にはピンルーの命と引き替えに主席検察官テンエツを汪精衛政権の法務部長に据えるという取引の提案は日本人が行っていた。母親を含む家族はピンルーがジェスフィールド76号に捕らえられたと知っていたはずなので、これは捜索願ではなく、釈放願い、あるいは助命嘆願であろう。
処刑後、林秀澄は同じ日本人として、ピンルーの母親にどう報告するか悩んだ。死の報告はなるべく遅い方がいいだろうということで、林はジェスフィールド76号に頼み、偽の手紙を書かせたとある。「汪精衛の機関に入って広東に派遣されが、病気になったので当分広東から動けない」という内容の手紙だというのだ。実際には、鄭家には処刑後すぐに、遺体の引き渡しとテンエツの親日政権への寝返りを条件とする取引が再度持ち込まれているので、この手紙は無意味である(香港ATVによる妹、鄭天如さんへのインタビューによる)。
林がそんな時間かせぎの隠蔽工作をしているうちに「誰が知らせるのか、娘の遺体はいつのまにか家族のもとに帰っていった」と「林秀澄談話速記録Ⅲ」に記述されている。しかし彼女の墓碑は残っていない。ピンルーの甥、鄭国基氏は南京ラジオテレビグループのインタビューに答え、「鄭家の銀行口座はピンルー逮捕後に封鎖され財産は没収されてしまいました。それからの鄭家は極度の貧困に陥ってゆきました。叔母(ピンルー)の遺体の引き取りにお金を要求されましたが、それも不可能でした。木村はなは孫(国基氏ら)を育てるために街頭の野菜くずを拾っていました」ということである。
結局ピンルーの遺体は家族のもとに帰らなかった。
最後に2007年9月にピンルーの妹、鄭天如さんが、香港のテレビ局ATVに答えたインタビューの一部を紹介したい。
「ある日、お姉さん(ピンルー)が母にこんなことを言っているのを聞きました。
”媽媽(マーマ)!媽媽(マーマ)! わたし昨日の夜、こんな夢を見たの。
とっても怖い夢だった。
ある人について歩いていくと、大きな壁があったの。
その壁には亡くなった人の名前がいっぱい書いてあった。
その中に私の名前があったのよ”」
妹の天如さんは、姉ピンルーが夢で見た恐ろしい内容を母親に話しているのを聞いてしまったようである。
そして、父テンエツが親日政権側に寝返ればピンルーの命は助けてやる、という取引条件が持ち出された時のことを、インタビューの最後に語っている。
「彼らは日本語を話していました。
なにかとんでもない状況だとわかりました。
彼らは父に言いました。
私のお姉さんの命と交換条件だと。
父はその時、とても悩んでつらそうでした。
その様子は表現のしようがありません。
それはもう、母もまったく同様です。
その時が過ぎ去りました。
みな沈みきっていました。
お姉さんと同じ学校の仲間達、いわゆる愛国者達は、
まるで知らぬ振りでした。
私たちの家に来る人など一人もいませんでした。
2月の、冷たい雨の降る日でした。
ある夫婦が二人でやってきました。
名前を言っていましたが、私は忘れてしまいました。
その時受けたショックが原因です。
彼らは私の父に言いました。
私のお姉さんは、
彼らによって処刑されたのだと。
私たちの家族には、いつのまにか矛盾が生じました。
私をかわいがってくれた、私のお姉さんが、
私よりも・・・・
年下になってしまったのです・・・・・
父はだいぶ歳をとっていました。
私の小さな時からすでに歳をとっていました。
だけど父は申し出を受け入れようとしませんでした。
お姉さんが亡くなった後、一人の弁護士が家に来ました。
彼は別の交換条件を言いました。
2度、言いました。
父はまた悩んでいました。
そして、それも断りました」
終わり
追記
ピンルーには姉、妹、二人の弟がいました。もともと病弱だった姉真如(1912生)は娘の王蓓蓓(ワンベイベイ。上の写真でピンルーに抱かれている子供。台湾在住)を生んだ後の1934年、体調が回復せず福民病院で22才で亡くなりました。上の弟海澄(1916年10月28日生)は国民党軍の航空隊に入り、1944年1月19日、重慶での訓練飛行中に墜落死してしまいました。27才でした。彼の子供がしばしばインタビューを受けている鄭国基さんです。
下の弟南陽(1919年1月3日生)は1945年、満鉄経営の奉天南満医大で研修後、万宜坊の自宅で小児科医を開き、評判のいい医者となりました。中華人民共和国成立後は崋山病院(復旦大学付属病院)に勤務、1980年代初頭にアメリカへ移住、2003年、84才で没しました。
妹の天如(1923年生。のち改名し静芝)さんは、舒鶴年(じょかくねん。1918年生。国民党空軍所属。1956年7月21日の馬祖上空での中共空軍機とのジェット戦闘機同士の空中戦で功績あり勲章を得ている)氏と結婚。終戦後も日本人である母親への差別が続くため、母親はなを連れて1948年12月台湾に渡りました。台湾国府監察院で父の友人の秘書となり、その後渡米、現在もロスアンジェルスに在住しています。
母親はな(1986年生)は、天如さんに終身守られ、台湾で1966年1月5日、80才で亡くなりました。亡くなったときに蒋介石より「教忠有方」(教えが忠実で正しい)という書の入った額をもらったようです。父テンエツは、最愛の娘ピンルーを失い、失意のうちに1941年に亡くなりました。テンエツとはなのお墓は天如さんがロスアンジェルスで守っています。
追記2 鄭蘋如の読み方ですが、中国人の発音ですと「トゥン ピンルー」「チェン ピンルー」「ツェンピンルー」などと聞こえます。当時の上海の日本人の間では、日本語読みの「てい ひんにょ」「てい ひんじょ」ではなく、「テン ピンルー」と中国人風に彼女のことを呼んでいたようなので、ここではそれにならいました。また、父親の鄭鉞は日本語読みで「てい えつ」となりますが、テンピンルーと姓を同じ読みにするため、「テンエツ」と記載しました。中国語発音では「ツェンユエ」が近いようです。
※テンピンルーについての番組が、平成20年7月20日、日本のテレビで始めて放送されました。その番組の感想などを「女たちの中国を見て」という記事にまとめましたので、ご覧下さい。
あとがき ピンルーの故事を、李香蘭の記事にからめ記事にしようと思ったのは、李香蘭とピンルーにある種の共通点を見いだしたからです。李香蘭は日本人の両親を持ちますが、生まれも育ちも中国であり、中国の学校に通い、中国に愛情を持っていました。しかし抗日運動のさなか、それまで理解し合っていたと信じていたクラスメイトとの間に深い溝を発見して愕然とするのです。彼女のはじめてのアイデンティティクライシスでした。彼女はその後も必死に中国人を演じましたが、出演映画の脚本が中国を侮るものであったりその矛盾に苦しむことになりました。
ピンルーは中国人の父と、日本人の母を持ち日本で生まれましたが、中国で育ちました。平和な時代には日系であることは意識の表面には上がってこなかったものと思われますが、日中戦争が始まり、親しくしていた中国人の間に抗日の機運が高まると日系人としての偏見に苦しんだと想像できます。上海で影佐機関員として動いていた国会議員犬養健の著書「揚子江は今も流れている」にも、「ピンルーが学校を欠席しがちになるすべての要因が整って行った」という記述があります。彼女は少なくともまわりからある種の注目の目で見られたのではないでしょうか。どういう行動に出るのか、どう考えているのかと。ピンルーにとって日本軍の中国侵略はとんだ迷惑、自分の日本人の血とは切り離しておくべきもの、一刻も早く引き上げてほしいもの、と捕らえていたはずです。
私はピンルーが抗日組織に入り、命を落とすリスクをおかしてまで働いたことに、「まわりから完全なる中国人として認められたい」、という同化の思いが強く働いたのではないかと推測しています。また、日本人である母親木村はなの思いはピンルーと同じかそれ以上のものがあったでしょう。ピンルーの抗日組織加入は母親の意思も反映したはずです。祖国にアイデンティティの一端を持ち、単身で現地に溶け込んで生きていこうとする海外居住者は、祖国の行為に敏感になります。それは自分が有無を言わせず祖国を代表してしまうからです。これは私自身が海外の学校で、外国人の中でただ一人の日本人として学んでいた時の経験から、そう確信しています。私が母親はなの思いを代弁すると、「お願いだから日本軍よ、早く日本に帰って下さい」となります。これが集団移住者の場合は逆です。満州をはじめとした中国各地での日本人移住地区では、強力な日本軍に駐留してもらい守ってほしかったはずです。これが泥沼化した日中戦争のひとつの要因だと思います。
ピンルーに関する中国人のサイトを見ると、すべて彼女を抗日の英雄として書いてあります。上海市青浦区の公共墓地福寿園には抗日烈士としてデザインされたピンルーの彫像が近々できるようです。そして中国の愛国教育の題材になるようです。彼女は死して完全なる中国人として認められた、ということでしょうか。しかし私はピンルーは一般的な中国人の「抗日」とはどこか違う、もっと複雑なものを抱いていた気がしてなりません。
李香蘭やピンルーにとってとてつもなく厚く重いものであった国境そして国籍。第二次大戦当時のヨーロッパもそうでした。今ヨーロッパでは国境の意味はとても薄くなっています。東アジアでそれができないはずはないと思います。
李香蘭は今でも多くの人々に夢や希望を与え、多くの人に愛されています。テンピンルーは残念ながら人々から愛される機会は与えられませんでした。しかし彼女が、日中双方を愛し、日中間の平和を誰よりも望んでいたと私は信じています。
左から、10才ごろのピンルー、母木村はな、長女真如、三女天如(のち静知)、次男南陽、父鉞(えつ、ユエ)、長男海澄。
参考文献
下記の文献にピンルーに関する記述がありました。しかし内容は細部がバラバラです。中国語で書かれた文章ではピンルーは抗日の英雄として書かれ、日本人の書いたものでは「とんだ食わせ物」というタッチで書かれているものが多いです。今回の記事はこれらの文章から最大公約数的な情報を抽出し、また個別に書かれている情報の中でも信憑性の高そうなものを入れ、それらを私の類推によって繋ぎ合わせて書きました。一次資料はピンルーに会ったことがあるか、あるいは会った人から直接情報を得ていた人が書いたものとしました。二次資料は参考文献を調べて書いたと思われるものとしました。
○一次資料
・「上海人文記」松崎啓次(1941年出版で、著者は民間映画人。ピンルーについて最も古い文献です。戴小姐という仮名で登場します。映画の原作をも目的としていたようで、ストーリーに脚色はあると思いますが、ピンルーの内面を最も偏見なく描いています。国会図書館で閲覧できます)
・「近衛文隆追悼集」近衛正子(1959年出版。文隆の妻正子が編纂。文隆の多くの友人知人からの追悼の文集です。彼が内外の多くの人から好かれていたことがわかります。小野寺機関の早水重親の追悼文もあります。国会図書館で閲覧できます)
・「歴史の証言」-満州に生きて 花野吉平(当時の上海で日本軍に属しながらも反軍、和平派です。ピンルーから機密情報をもらっていた記述があります。鄭家とは父親テンエツ、ピンルー、弟南陽と交流があった記述があり、家族ぐるみのつきあいがあったようです。国会図書館で閲覧できます)
・「林秀澄氏談話速記録3」 木戸日記研究会/東京大学教養学部(上海憲兵隊特高課長 林秀澄氏へのインタビュー記録です。ピンルーによる暗殺未遂事件から処刑されるまでの大部分はこちらを参考にしました。事件直後の丁黙存から事情聴取していること、ピンルーの処置に対しての指示を出していること、処刑に立ち会っていることから、少なくとも暗殺未遂事件の流れについてはおおむね信憑性があると判断しています。但し、自叙伝でもあり、憲兵隊特高課長としての立場で話されていますので、全体的には自慢話、ピンルーは悪者になります。国会図書館で閲覧できます)
・「上海テロ工作76号」晴気慶胤(初版は「謀略の上海」というタイトルです。著者はジェスフィールド76号設立の実務担当者。国会図書館で閲覧できます。その後の数多くの小説の参考書となりました。しかし、彼は丁黙存狙撃事件当時は日本にいたのでその部分の記述は第三者からの情報です。また、林秀澄氏と同様、日本軍人としての立場に立ってピンルーを描写していますので、あくまでピンルーが悪者になります。)
・「 揚子江は今も流れている」犬養健(著者は影佐機関構成員であり当時の国会議員。古書です。丁黙存狙撃事件の部分はは晴気の著作と似た内容になっています。ピンルーの描写はまるで援助交際を求める少女のような書き方になっています)
・「二つの国にかける橋」吉田東祐(著者は影佐機関と小野寺機関構成員両方に属した民間人で、CC団とも交流があった情報員でした)
○二次資料
・「夢顔さんによろしく」西木正明 (ピンルーと近衛文隆との関係がノンフィクション小説として書かれています。部数としては最も出ています)
・「阿片王」佐野眞一(上海を舞台に日本が軍資金確保のため大量の阿片を売り膨大な利益を上げていたことが書かれています。ピンルーの処刑場面を「林秀澄氏談話速記録」を引用、要約して記載しています)
・「近衛家の太平洋戦争」近衛忠大(近衛文隆の親族の方が上海での文隆について書いています)
・「オールドシャンハイ」パン・リン(中国人の書いた翻訳本です。杜げっしょうというオールド上海の裏社会を牛耳った男がテーマです。ピンルーに関しては晴氣の作品を参考にした中国側文献のいくつかを、史料としているようです。古書)
・「漢奸裁判史」益井康一(戦後の中国における漢奸裁判に関する新聞記事を多数保存していた元毎日新聞記者である著者が、丁黙邨の項目を設けピンルーの事件について記述しています。裁判での丁黙邨の逃げ口上をかいま見ることができます。補記で晴氣に話を聞いたとして、晴氣の著作を引用しています。国会図書館で閲覧できます。)
・「憲兵日記」山田定(著者は上海憲兵隊滬西分隊の隊員。ピンルーの記述はありませんが、上海の憲兵がどんな仕事をしているかかいま見ることができます。賭博を日本側の資金源にしていた記述もあります。古書)
・「ある情報将校の記録」塚本誠 (影佐機関構成員。ピンルーの直接の記述はありませんが、林秀澄氏の部下として周辺情報を記述しています)
・「バルト海のほとりで」小野寺百合子(小野寺機関の小野寺信の妻。ピンルーの記述はありませんがピンルーと一緒に活動した小野寺の人柄がわかる本です)
・「成瀬巳喜男」スザンネ・シェアマン(ピンルーの記述はありませんが、ピンルーが関与した丁黙邨暗殺未遂事件を題材にした1941年の日本映画「上海の月」についての記述があります。古書)
・「回想の上海」岩井英一(ピンルーの記述はありませんが、「近衛文隆の上海から追放に手をかす」という章で文隆の帰国の経緯がかいま見れます。本の趣旨は自慢話です)
○ネット上の二次資料として下記があります。
・論文「引き裂かれた身体 張愛玲「色 戒」論」/東京大学非常勤講師 邵迎建
・論文「張愛玲における時代と文学」/共栄女子短大教授 池上貞子
・論文「陳立夫氏へのインタビュー 三民主義青年団、CC団の呼称、及び日本人への提言」/大阪教育大学 菊池一隆 ピンルーの属した三民主義青年団とCC団のことが、CC団の頭目陳立夫氏へのインタビューとして書かれています。
○また、以下の中国語サイトを参考にしました。検索にかければこれ以外に数多く出てくるはずです。中国語はexcite翻訳にかければおおよその意味がつかめます。
・「76号ー汪偽特工口述秘史」(北京師範大学歴史学教授 故、蔡徳金氏が上海刑務所に服役していた汪精衛側スパイ、馬嘯天、汪曼雲から聞き取った内容を編集した物がネットに掲載されている。http://vip.book.sina.com.cn/book/chapter_54932_38917.html)
・記者鄭振鐸が「週間新聞」に寄稿した鄭蘋茹についての1945年10月6日号の記事(彼ははピンルーの住んでいた万宜坊に住んでいたことがあり、自宅前をよくピンルーが自転車で通っていたそうです)
・鄭振鐸によって書かれた「蟄居散記」の「一人の女スパイ」に対する評論家、葵登山による書評
・葵登山による著作「張愛玲 「色戒」」の紹介記事
・中国側がジェスフィールド76号について書いた「魔窟76号」の要約記事
・ CCTV(中央電視台)が鄭蘋茹についてルポルタージュの形でテレビ放送し、ネットに一部掲載しています
・その他、映画「ラスト コーション」を機に書かれた中国語新聞記事多数。
○ピンルーについて書かれている小説
・「ジャスミン」辻原登(文中で著者が言っているように、晴氣の著作「上海テロ工作76号」と、益井康一の「漢奸裁判史」が参考図書として紹介されています。途中が非常に冗長ですがラストだけは、そう来たか、という展開です)
・「上海リリー」胡桃沢耕史(小説の中でピンルーの事件が出てきます。晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしているようです)
・「ゾルゲ事件」永松浅造(当時の毎日新聞記者。ピンルーが国際共産組織のスパイだったとの独特の説があります。国会図書館で閲覧できます)
・「上海バビロン」平野純(犬養健の「揚子江は今も流れている」と晴氣の「上海テロ工作76号」を参考にしたと思われ、大胆に想像して書いています。古書)
・「戦争と人間」 第12巻 五味川純平(晴氣の著作を参考にしたと思われる記述が6行だけでてきます。古書)
・「シャンハイ伝説」 伴野朗 (巻末に参考図書を載せていますが、明らかに晴気と犬養の著作を参考にして一部全くそのまま文章を使いながら、参考図書の中に「上海テロ工作76号」と「揚子江は今も流れている」を載せていません。意図的に外したものと思われます)
○また、2008年7月21日放送の、日本テレビ制作「女たちの中国 第二弾」と、2008年8月16日放送の、読売テレビ制作ドキュメント「日中戦争秘話 鄭蘋如の真実」から、出典のあきらかな部分を参考に、一部記事を修正しました。
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