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2008年3月10日 (月)

上戸彩「李香蘭」から1年

Photo_4 上戸彩の「李香蘭」がテレビ東京で放送されてから早いものでもう一年が経った。このドラマを見る二週間前に私はたまたま上海に旅行に行っていた。初めての上海は私にとって結構衝撃的だったので、このドラマもその上海を再度見てみたい、という軽い気持ちで見始めたのを覚えている。李香蘭は初めて聞く名前で、別に興味は無かった。上戸彩のドラマも歌も初めてだった。そんな私がこんなブログを作っているなんて不思議な気もする。なにかがはまったのだろう。

9月くらいからは上海つながりの映画、ラストコーションのヒロインのモチーフとなった女性、テンピンルーを調べ始めた。彼女にもはまった。資料は非常に少なかった。しかも偏った書かれ方をしていた。日本語文献だけを読めばピンルーは、ダンスホールに通う遊ぶ金ほしさと、好奇心や冒険心を満たすスパイ活動をする、ずる賢く貞操観念もない危険な女、となる。

中国側の書き方は一貫して、「抗日烈士」である。自分の身を犠牲にして中国を救おうとした英雄だと。中国の方々の書き手には申し訳ないが、私には「そんな単純ではないだろう」という思いが強い。確信犯的な抗日烈士だったら、暗殺未遂事件の後、日本側の相談相手に「私のやったことはいいことでしょうか、悪いことでしょうか?・・・」などと聞くわけはないだろう。

私は、ピンルーが抗日活動に入った理由は、中国人としてのアイデンティティを得ようとした結果だと思う。私は当時影佐機関に所属していた犬養健が「揚子江は今も流れている」の中で書いた、「ピンルーが学校を欠席がちになる条件が整っていった」という文章に引っかかっていた。その理由を類推していくうちに、上戸彩「李香蘭」の中でのクラスメイトとの抗日集会のシーンを思い出した。本当は日本人である李香蘭が始めて疎外感を味わう場面である。自分は周りの中国人とは違うんだと。日本人の母を持つピンルーも同じような疎外感を味わっていたのだと思う。

李香蘭の場合、映画会社や軍の宣撫担当が「李香蘭は中国人」という線で固めてしまっていた。李香蘭はそれに流されるしかなかった。ある意味流されていればよかった。一方、ピンルーは自分の手で自分が中国人であることを証明せねばならなかった。

もうずいぶん前の話だが、とある外国で知り合った日本人女学生が、両親は日本人、生まれと育ちが南アフリカ、現在ベルギー在住でオランダ語系大学に学び、日本での生活体験はほとんど無し、という人だった。彼女があるときぽつりと言った。

「私はアイデンティティクライシスに陥っているんです」

この初めて聞く言葉は私の脳裏に焼き付いた。私のように、こと国への帰属意識からみたら100%のアイデンティティが日本に属する人間には感じ取ることが難しい心理状態。自我の危機、と訳してもピンとこない。自分が何人だかわからない状態のこと、といえば少しわかりやすくなるかもしれない。

先日、上戸彩「李香蘭」のDVDを久しぶりに通して見てみた。東京に来ていた李香蘭が護衛役の男性に恋心を告白するシーンがある。そこで李香蘭が叫んだ。

「中国人でもなければ、日本人でもない、李香蘭なんて変な名前の、人形みたいな、生きた血の通っていない馬鹿な女・・・」

まさに、ぐらぐらとアイデンティティが揺れている。彼女はしかし、日本帰国直前の裁判では堂々と「私は日本人」と宣言できただけ幸せだろう。

今でも日本人と中国人の混血は珍しい。学校に一人いたら何かにつけ注目されるだろう。場合によってはいじめにあったりもするだろう。それが今から70年前の、日本が侵略中の中国でのことだ。ピンルーが学校でどんな状況にあったか、それなりに想像がつく。日中混血であることを隠しおおせていたかもしれない。それでも同じことだろう。母の国と父の国が戦いを始めている。どちらにも荷担したくない。しかし生きていくためにはあくまで中国人であることが必要だったのだ。




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