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2008年4月の3件の記事

2008年4月19日 (土)

史料の行間を読む2

第二次上海事変で勝利した日本陸軍が中国の首都南京で数万人の捕虜と、市民の服を着た逃亡兵と、逃亡兵と疑わしき市民をなぎ倒して占領し、しばらくした1938年夏頃、小野寺信(マコト)中佐が参謀本部ロシア課(ソ連班)より上海に派遣されてきた。小野寺の妻、百合子によると、小野寺は上海時代を振り返って、「自分の人生のうちあれほど心血を注いで張り切って働いた時期はなかった」といいうことらしい。それほどの強い信念を持って日中の和平に動いていた、という実感が彼にはあったのだろう。小野寺は参謀本部のすすめもあって、まず吉田東祐(トウスケ)に連絡を取った。

吉田東祐が小野寺に会った第一印象は、「この人は頭がいいというだけでない、何か本能的に、ものの本質を直感できる人」、というものだ。吉田にしてみれば、日本で共産主義者のレッテルを貼られ、からくも中国に逃げてき、中国で生きていこうと苦闘していたときだったので、小野寺が自分だけが頼りなんだと言ってくれるのに感激しきりだった。自分が日中の和平に役立てる時がついにやってきたのだと。

しかし、彼はとても冷静に人と情勢を見ていた。彼は自問自答している。当時の日中間に早期和平の実現の可能性が本当にあったのだろうか?と。彼の答えは「絶望的」である。日本軍は日本国民に対し、首都南京を落とせば明日にも蒋介石政権は崩壊する、と宣伝していた。今さら譲歩してまでこれと和平を結びたい、などという弱音は吐けなかった。一つの嘘を隠すためにもう一つの嘘がいる。それを隠すためにさらに新しい嘘がいる。日本軍はこうして嘘を重ねるうちにどうにも引き下がれなくなっていたのだ。

そして彼は「その嘘をわかっている小野寺のような人でも、もしそれをあばけば、軍部という組織全体を崩壊させるほどの結果をともなうという考えは浮かばなかったらしい。私はここに権力の座にいるものの、突っ切れない限界を見るような気がした」と言っている。彼は小野寺が自分を雇ってくれたことに感激の涙を流しながらも、エリート職業軍人の限界を見て取っていた。

吉田は計算をしていた。事態が日本に深刻になればなるほど、実は日本にとってはいいことなのだと。それは日本が深刻な状態で降参することによって、現在の軍事政権が倒れることを意味するからだ。このような考えは敗戦主義というらしい。尾崎秀実もそういわれることがあるようだ。しかし、当時の人の本心を把握するのは難しい。

わたくしごとで恐縮だが、子供の頃、かろうじて戦争時代を経験していたわたしの母に聞いたことがある。「戦争に負けて悲しかったでしょ?」と。たしかNHKテレビで皇居に向かって頭を垂れる人々の映像が映ったときに聞いたと思う。母の答えはわたしの予想と違っていた。「日本が戦争に勝っていたらまだ軍国主義が続いているかもしれないでしょ。だから負けて良かったんだよ」

「自分の国が負けた方が良い」。なんと絶望的な考えだろうか。そのように日本国民に思わせる国の運営。最悪だろう。この言葉を母から聞いたわたしは、戦争ごっこでは必ずアメリカ軍機を打ち落としていたし、日本が勝つストーリーばかり作って友達と遊んでいた。でも母親の言葉を聞いて以来、戦争ごっこにまるで熱が入らなくなり、やめてしまった。



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2008年4月12日 (土)

史料の行間を読む

日中戦のさなか上海で何が起こっていたか、林秀澄氏談話速記録(昭和48年〜昭和49年)は最もすぐれた一次資料だと思っている。戦前戦中のできごとをインタビューに答える形で一字一句方式(言ったことをそのまま編集せずに書き記す)の議事録に残したというのは、特に中国戦線においては他に無いだろう。戦争中の出来事には口をつぐむ人が多い。貴重な資料だと思う。

彼なりの日中和平への思いが吐露される部分もある。彼の語り口は一生懸命事実を思い出しながら非常にけれんみの無い語り口で、ごく自然に語られる。悪意が感じられない。しかし、林秀澄には憲兵隊特高課長という立場があった。1930年代末期の上海で言えば日本陸軍参謀本部主流派、シナ課の系譜に属する影佐機関が推進する汪精衛政権樹立への環境づくりが彼の主要な役割であった。全て真実が語られているのかというとそれは別に読み解く必要はあるなと感じた。いわゆる、「史料の行間を読む」という作業だ。

「インテリジェンス」誌第9号に加藤哲郎(一橋大)、佐藤優(外務省 起訴休職中)、山本武利(早稲田大学)の3名による討論があった。そこで、歴史資料を読む上での心構えで「なるほど」、という話があったので引用させて頂く。

加藤氏曰く、「文書史料でももちろん、拷問によって強制された場合もあるし、逆に人をだますために敢えて入れている情報だって当然ありうるわけです。そういうものをどう見ていくべきかという問題は、ある種の慣れかもしれませんけれども、とにかく複数以上の情報をつき合わせて問題を一つ一つ確かめていくという手法そのものは、学問でも諜報でも、僕は基本的には変わらないと思うんですね」 佐藤氏曰く、「(前略)これはテキストを平たく読んでいるだけでは出て来ないわけですよ。想像力を働かせているわけなんですよ。そうすると文書を読んでも、最終的な、あえて乱暴な言葉を使うと、物語に仕上げるときに、どれだけ研究者に、その辺の想像力があるか、推察力があるか、もっと言うと人間力があるか、そういうことだと思うんですよね。(中略)だからまさに「インテリジェンス」で、まさに「インテル・レゴ」(注:情報を組み立てる)ですから。「間を読む」ということですから、書かれていない部分の」

史料の行間を読みなさい、ということが語られていました。

(ま、読み過ぎて妄想になってもまずいけど)

さて、影佐機関トップの影佐禎昭にも目的遂行への情熱があった。彼なりに日中和平という大目標のためには汪精衛政権の樹立はなくてはならない手段だというのは信念だったのだろう。その手段を阻むものに対する拒否反応は、自分の属する組織の存続、そしておそらくは自分の名誉、査定アップという小さな目標とも一体になって、非常に強かった。

影佐は同じく陸軍参謀本部の、ロシア課が上海に送り込んだ小野寺信を職能的に抹殺する必要性を感じていた。ロシア課は仮想敵国ソ連に対する軍備を整えるために中国戦線での早期の和平を望んでいた。影佐とは早期和平という目的は同じだったのだが、手段が違った。小野寺の考えは当時の国民党トップである蒋介石と日本の政界トップ近衛文麿との直接交渉、終局的には天皇の決断、による和平実現であった。中国人の人心を掌握していない汪精衛といくら和平の取り決めをしてもそれは砂上の楼閣に過ぎないと見ていた。

林はあくまで影佐を補佐せねばならない。影佐のとる手段は陸軍主流が決めた手段なのだ。林はポツリと語っている。個人的には蒋介石との直接交渉の方に興味があった、と。しかし個人の思いと、憲兵隊特高課長の立場は切り離すべきものである。彼は与えられた職務をまっとうした。小野寺を職能的に上海から抹殺したのだ。

そのきっかけは皮肉なことに、蒋介石の親衛隊、藍衣社に所属する女性スパイ、鄭蘋茹(テンピンルー)であった。その流れは過去の記事 「日中戦のはざまで 鄭蘋茹の悲劇」  を参照してほしい。

林秀澄氏談話速記録では、林本人の行ったことの正当性が語られることになる。自分史を語るものにとってはよくあることだ。そこでは小野寺は悪となる。小野寺機関の関係者も悪になる。首相の息子、近衛文隆もだ。小野寺機関の一人、吉田東祐(トウスケ)は別だった。彼のことは悪く書いていない。吉田はもともと影佐機関のもとにいた。日本国内で共産党員として官憲に追われる立場だったが、転向した。単身上海に渡った吉田に金を渡し、密偵に仕立てていたのは影佐機関であり、林の部下、塚本誠だった。吉田は上海では現地中国人にとけ込む動きのできた人で、情報通の民間人だった。一方、小野寺も上海赴任後すぐに吉田を頼り、小野寺機関員の一人とした。つまり、もともと影佐機関によって密偵となった吉田は、内部抗争の相手、小野寺機関のためにも動くようになったのだ。

恐ろしいことに、小野寺が林にしっぽをつかまれる瞬間、つまり、ピンルーの紹介した人物が国民党大物のタイリー本人ではないと、林の行った写真検分に立ち会って証言に加担したのが吉田である。吉田の鋭い嗅覚からして、小野寺がピンルーに、つまり藍衣社にだまされていると証言することは、小野寺を危うい立場に立たせることは分かっていただろう。吉田は小野寺機関と影佐機関の内部抗争の勝者は影佐だと見抜いていたのではないか。影佐側について行くことを選んだのだろう。

(続く)

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2008年4月10日 (木)

要不要、小孩子(ヤオブヤオシャオハイツ) 子供は要りませんか?

要不要、中国語で「ヤオ ブヤオ」と発音するというのは8月7日の記事で書かせて頂きました。上戸彩「李香蘭」の上海ステージ上で、「夜来香はいりませんか?」というところで出てくるフレーズです。「要不要、夜来香」と。とても綺麗なシーンでした。

小野寺機関の吉田東祐が書いた本「二つの国に架ける橋」という本を読んでいて、この言葉が、まったく違うシーンで使われているのに遭遇しました。

「要不要、小孩子」(ヤオブヤオ、シャオハイツ) 

がそれです。

吉田東祐が実際聞いた言葉です。意味ですけど、小孩子は、子供っていう意味ですので、子供は要りませんか?という意味です。恐ろしい言葉ですね。

19378_2 いったいどんなシチュエーションでこんな言葉が出てくるのでしょう。1937年夏、日本は上海での権益を拡大したくてうずうずしていました。中国側も迎え撃つ気満々。国民党軍はドイツからの軍備や戦術指導によって、トーチカ構築や塹壕などの防衛陣地を築き上げ、また、空軍ではアメリカの教えを受け爆撃機が今か今かと虹口日本人地区と日本海軍の旗艦出雲に照準を合わしていました。日中双方が挑発の末、ついに8月7日に戦争が始まりました。吉田によれば、最初の24時間で上海の中国人の2万人が死んで50万人が家を失ったらしいのです。もちろん虹口地区の日本人も多数の死者が出ました。中国人で家を失った人たちは日本が攻めてこられないイギリス租界やフランス租界に逃げ込みました。

193789_2 逃げ込んだ租界で、ある母親が3歳くらいの男の子を前に座らせて、通行人にこの子を買ってくれと叫んでいる言葉が吉田の聞いた「要不要、小孩子」だったのです。租界に逃げ込めば大丈夫だと聞かされて来たものの、来てみれば知り合いもなく、食べ物を買うお金もない。やがてせっぱつまって子供を売ろうとしていたと。吉田がよく見てみると、かわいい男の子は何も分からず母親の前にちょこんと座っている。母親は涙を流しながらなおもヤオ ブヤオと言い続けている。そんなシチュエーションだったようです。

これはたまりませんね。

で、しばらく後に吉田が目撃したのは、今度は中国人の群衆に取り囲まれて殴り殺される日本の民間人、というもの。日本人、そして当時は日本人だった台湾人、朝鮮人などは、虹口(ホンキュウ)と呼ばれる日本人地区以外の場所ではいつ殺されるか分からない状態だったようです。その虹口でさえも日本兵は次々と狙撃されていたらしい。こんな話を聞くと少しはピンルーが学校で置かれていた状況も分かって来るし、李香蘭が日本人ということを必死に隠していたのも分かる気がする。

1937年、日本の侵略に反発する中国人という図は、時宜を得た言い方をするならば、漢民族支配に反発するチベット人、ユダヤ人の占領に反発するパレスチナ人、米軍の侵攻にゲリラ活動をするイラク人、という感じなのだろうか。


日本人は占領軍に蹂躙される、という経験が無い。占領米軍は周到な準備の末に戦略的にソフトランディングな占領政策を実施したから、ギブミーチョコレートの乗りでオッケーだった。反米日本人ゲリラ、なんて戦後発生しなかったのではないか。被占領者側の身になった自分という想像力が働かなければ、ひょっとして永遠に大陸のアジア人とは腹を割った友人にはなれないのかもしれない。

日本軍が中国でやったことを、強くなった中国が将来弱くなった日本で同じことをやると仮定してみれば、その恐ろしさも少しは感じられると思う。先日の報道によれば近いうちに中国のGDPが日本を抜くのは確実らしい。抜くどころか今のペースで行ったら日本の2倍3倍、アメリカも抜いて世界一の大国になるだろう。豊かで強くなった中国人。反日教育を受け続けている中国人。彼らはいったいどう行動するのだろうか。

100年後、「アジアは一つ」の掛け声のもと、中国の傀儡政権ができた日本では中国の言いなりになる首相を置き、国旗も変更させられる。東京湾から上陸してきた中国軍は、行政権と司法権を握っているだろう。少し前まで日本と同盟を結んでいたアメリカは経済的にも政治的にも日本を保護下に置くコストが見合わなくなっており同盟は解消されていたのだ。かつての米軍基地は中国軍駐留基地となっている。アメリカの資本家は強大な資本主義国中国の政商と結託するほうが遙かに儲けがでるのだ。人口が爆発する中国で食いあぶれた中国民間人は日本へ続々と入国し、傀儡政権の保護を得ながら商権を握っているだろう。中国系企業への就職が花形となりエリート日本人は皆中国語をペラペラ話す。反発する日本人は中国憲兵隊に言われ無き罪で牢獄へつながれる。10年後は見えても100年後は誰にも見えない。あり得ない話ではない。ご先祖様のバチが当たった。そんな風には将来の日本人に感じてほしくない。

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