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2008年4月12日 (土)

史料の行間を読む

日中戦のさなか上海で何が起こっていたか、林秀澄氏談話速記録(昭和48年〜昭和49年)は最もすぐれた一次資料だと思っている。戦前戦中のできごとをインタビューに答える形で一字一句方式(言ったことをそのまま編集せずに書き記す)の議事録に残したというのは、特に中国戦線においては他に無いだろう。戦争中の出来事には口をつぐむ人が多い。貴重な資料だと思う。

彼なりの日中和平への思いが吐露される部分もある。彼の語り口は一生懸命事実を思い出しながら非常にけれんみの無い語り口で、ごく自然に語られる。悪意が感じられない。しかし、林秀澄には憲兵隊特高課長という立場があった。1930年代末期の上海で言えば日本陸軍参謀本部主流派、シナ課の系譜に属する影佐機関が推進する汪精衛政権樹立への環境づくりが彼の主要な役割であった。全て真実が語られているのかというとそれは別に読み解く必要はあるなと感じた。いわゆる、「史料の行間を読む」という作業だ。

「インテリジェンス」誌第9号に加藤哲郎(一橋大)、佐藤優(外務省 起訴休職中)、山本武利(早稲田大学)の3名による討論があった。そこで、歴史資料を読む上での心構えで「なるほど」、という話があったので引用させて頂く。

加藤氏曰く、「文書史料でももちろん、拷問によって強制された場合もあるし、逆に人をだますために敢えて入れている情報だって当然ありうるわけです。そういうものをどう見ていくべきかという問題は、ある種の慣れかもしれませんけれども、とにかく複数以上の情報をつき合わせて問題を一つ一つ確かめていくという手法そのものは、学問でも諜報でも、僕は基本的には変わらないと思うんですね」 佐藤氏曰く、「(前略)これはテキストを平たく読んでいるだけでは出て来ないわけですよ。想像力を働かせているわけなんですよ。そうすると文書を読んでも、最終的な、あえて乱暴な言葉を使うと、物語に仕上げるときに、どれだけ研究者に、その辺の想像力があるか、推察力があるか、もっと言うと人間力があるか、そういうことだと思うんですよね。(中略)だからまさに「インテリジェンス」で、まさに「インテル・レゴ」(注:情報を組み立てる)ですから。「間を読む」ということですから、書かれていない部分の」

史料の行間を読みなさい、ということが語られていました。

(ま、読み過ぎて妄想になってもまずいけど)

さて、影佐機関トップの影佐禎昭にも目的遂行への情熱があった。彼なりに日中和平という大目標のためには汪精衛政権の樹立はなくてはならない手段だというのは信念だったのだろう。その手段を阻むものに対する拒否反応は、自分の属する組織の存続、そしておそらくは自分の名誉、査定アップという小さな目標とも一体になって、非常に強かった。

影佐は同じく陸軍参謀本部の、ロシア課が上海に送り込んだ小野寺信を職能的に抹殺する必要性を感じていた。ロシア課は仮想敵国ソ連に対する軍備を整えるために中国戦線での早期の和平を望んでいた。影佐とは早期和平という目的は同じだったのだが、手段が違った。小野寺の考えは当時の国民党トップである蒋介石と日本の政界トップ近衛文麿との直接交渉、終局的には天皇の決断、による和平実現であった。中国人の人心を掌握していない汪精衛といくら和平の取り決めをしてもそれは砂上の楼閣に過ぎないと見ていた。

林はあくまで影佐を補佐せねばならない。影佐のとる手段は陸軍主流が決めた手段なのだ。林はポツリと語っている。個人的には蒋介石との直接交渉の方に興味があった、と。しかし個人の思いと、憲兵隊特高課長の立場は切り離すべきものである。彼は与えられた職務をまっとうした。小野寺を職能的に上海から抹殺したのだ。

そのきっかけは皮肉なことに、蒋介石の親衛隊、藍衣社に所属する女性スパイ、鄭蘋茹(テンピンルー)であった。その流れは過去の記事 「日中戦のはざまで 鄭蘋茹の悲劇」  を参照してほしい。

林秀澄氏談話速記録では、林本人の行ったことの正当性が語られることになる。自分史を語るものにとってはよくあることだ。そこでは小野寺は悪となる。小野寺機関の関係者も悪になる。首相の息子、近衛文隆もだ。小野寺機関の一人、吉田東祐(トウスケ)は別だった。彼のことは悪く書いていない。吉田はもともと影佐機関のもとにいた。日本国内で共産党員として官憲に追われる立場だったが、転向した。単身上海に渡った吉田に金を渡し、密偵に仕立てていたのは影佐機関であり、林の部下、塚本誠だった。吉田は上海では現地中国人にとけ込む動きのできた人で、情報通の民間人だった。一方、小野寺も上海赴任後すぐに吉田を頼り、小野寺機関員の一人とした。つまり、もともと影佐機関によって密偵となった吉田は、内部抗争の相手、小野寺機関のためにも動くようになったのだ。

恐ろしいことに、小野寺が林にしっぽをつかまれる瞬間、つまり、ピンルーの紹介した人物が国民党大物のタイリー本人ではないと、林の行った写真検分に立ち会って証言に加担したのが吉田である。吉田の鋭い嗅覚からして、小野寺がピンルーに、つまり藍衣社にだまされていると証言することは、小野寺を危うい立場に立たせることは分かっていただろう。吉田は小野寺機関と影佐機関の内部抗争の勝者は影佐だと見抜いていたのではないか。影佐側について行くことを選んだのだろう。

(続く)

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