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2008年7月の2件の記事

2008年7月22日 (火)

「女たちの中国」を見て

昨夜放送の「女たちの中国」、見て良かった。録画に失敗したのが情けないかぎりだけど。

まず、李香蘭(山口淑子氏)の登場場面。自宅を訪れている。アンというモデルの女性の方がインタビュアー。彼女が玄関を開け、簡単なあいさつの後、中国語でなにやら覚えたての自己紹介をした。すると李香蘭が瞬間的に反応し、彼女の頭の中が中国語チャンネルに切り替わるのが見て取れた。驚きと疑心暗鬼の表情で中国語でアンに話しかける李香蘭。日本人のアンはそこからはもうちんぷんかんぷん。この一連の流れの中での李香蘭の目を見て、ああこの人の体の中にはいまだに中国人と日本人が、いつでも出動可能な状態で存在するのだと感じた。

李香蘭の次に川島芳子を持ってきて、ここまでの主題が日中のアイデンティティの相克だとわかったとき、次に鄭蘋如(テンピンルー)が来ることが想像できた。

テンピンルーが抗日組織に入っていく理由については、中国側の見方では、抗日一家の教育によって、自然と抗日烈士となっていったというものであるが、日本側には独自の見方がある。

2_6 「学生時代、周りの人に日本人の血が入っていることがわかると、石で殴られたり、ひどいいじめにあったといいます」・・・

彼女は日本人の血が流れているがために中国人の級友から学校でいじめ、差別にあってきたのだ。日本人のハーフであることは隠そうとしても隠しきれなかった。しかも家族ぐるみで被害にあっていたようだ。これはまさに新証言である。この証言を彼女の中国人の親族の方がしてくれた。

ピンルーが、自分が中国人であることを証明するために抗日組織に入った・・・。そこまでの証言は得られなかったが、ここまで聞ければ私としては十分である。録画ができなかったので名前を控えるのができなかったのが残念だが、証言してくれたのは以前ネット上で目にした中国CCTVの特集でインタビューされていた男性と同じだった。中国向け放送ではそういう証言はしていなかった。あるいはカットされていたのか。中国向けに放送されたのは、ピンルーは愛国者一家の家庭環境に育った抗日烈士、という見方の部分だけだった。

さて、この場を借りて、「番組でテンピンルーの親族として証言された男性の名前を控えられた方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです」という依頼文を数時間ほど記載したところ、さっそく2名の方より「鄭蘋如(テンピンルー)の甥にあたる上海郊外在住の鄭国基という方」というコメントを頂いた。お礼致すとともに、お蔭様で入手できた新情報を下記に挿入させていただいた。

また、わたしが録画に失敗したのに見かねてビデオをお送りしましょうか、というお申し出も別の方から頂いた。ありがとうございました。

 

Photo_12 鄭国基氏の名前をもとに、本日調べた中国語サイト(中国民航報電子版 第12版 2007年11月12日 李俊兰著)によれば、鄭国基氏はピンルーの弟、鄭海澄氏の息子でした。ピンルーの下の弟は鄭南陽という方です。1937年当時、海澄氏は日本の民間の飛行学校、名古屋飛行学校で訓練生をしており、南陽氏は日本で医学を学んでいたようですが、海澄氏、南陽氏とも日中戦争勃発の報を聞いて、中国に帰国しようとし、日本軍に軟禁されたようです。母親木村はなが急ぎ日本に帰国し、密航の手助けをして上海の自宅に戻ることができたようです。そして海澄氏はすぐに漢口の中国空軍に入り米国の中国支援航空隊、フライングタイガーとともに日本軍と戦った、とありました。中国空軍について書かれた別のサイトによれば、1944年、海澄氏は重慶上空での訓練飛行で墜落ししてしまったようです。

鄭国基氏はさらにこの中国語サイトで回想し、祖母、つまり木村はなが自分と話すときはとてもゆっくりした中国語で話してくれた。息子や娘と話すときは、中国語と日本語が半々だった。まわりの中国人の日本に対する、そして日本人と一緒に住む国基氏に対する反感はとても強く、自分ら家族は建物の向かい側から空気銃で撃たれたり、祖母は物を投げつけられたり、日本人野郎日本人野郎(小日本小日本)となじられた、とも語っています(注:中国側サイトに、鄭国基氏の年齢が2007年9月時点で68才と出ておりましたので、1939年ごろの生まれかと思います。ピンルーの話は彼女の親兄弟から聞いた情報と思われます)。

以上、新しい情報として挿入した。これはこれまでわたしの検索から洩れていた情報だ。中国側のサイトには一切このような情報は載せないにおかと思っていたが、それは間違っていた。ただ、こういったピンルー一家に対する差別の実態はほとんどの中国語サイトは引用していない。


中国という国家にとって、後付だったにせよ「抗日烈士」の評価を与えたテンピンルーに対し、中国人自身がいじめ、その家族を差別していた、という矛盾は、ずっと隠しておくべきものだったのではないだろうか。差別の実態が今回の証言でマスメディアに出たことは番組の大きな成果の一つだと思うし、このような証言をしても許される中国という国になってきたのかもしれない。

2点ばかり定説となっている情報と食い違う部分があった。ひとつは、ピンルーの生まれたのが1914年で亡くなったのが26才の時、という部分。中国側の定説としては1918年の中国生まれで23才のときに処刑されたとなっているのがほとんどである(注 2009年4月記:これは、中国側の定説が間違いだとわかった)。

もうひとつ、丁黙邨暗殺未遂の後、その日のうちにジェスフィールド76号に捕らわれたという点。事件から処刑までの経緯に詳しい、憲兵隊特高課長林秀澄によれば、年を越えて1月に彼女自ら日本側憲兵隊を訪れ拘束されている(出頭せねば家族の命が危うくなっていたようである)。そしてその日のうちに日本側からジェスフィールドに引き渡されている。

さらにもう一つだけ付け加えさせてもらう。ピンルーが映画「ラスト コーション(Lust, Caution)」のヒロインの「モデル」になった、と番組で紹介されていたが、それはすこし違う。モチーフ(ヒントを得た)であって、モデルでは決してない。「ラスト コーション」に出てくるヒロイン、ワンチアチは中国人であり日中の狭間での葛藤とは無縁だった。

これら細かな点はあるものの、この番組の主題は揺るぎない。国境、民族を争う戦争によって、自分という者の存在がぐらぐらと揺さぶられる。多くの者は不幸になる。「歴史に翻弄された・・・」、とは、後の平和な世代から見た余裕の美辞にも響くが、国家がそもそも国民をそこまで翻弄する権利があるのか?歴史に学んだわれわれは、もはや決して国家に翻弄されてはならない、と強く思う。

中国側だけでなく、日本側の調査と歴史への見立て、制作によってマスメディアに載り始めたテンピンルー。彼女について日中両論併記の歴史がやっと始まった。

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2008年7月16日 (水)

日本テレビ「女たちの中国」

  今日の夜、遅い夕食を食べながらなにげなくテレビを見ていたら、一瞬、見覚えのある顔写真が画面に映った。鄭蘋如(テンピンルー)の顔写真。どうやら番組宣伝CMのようなのでネットで調べてみた。7月21日月曜夜9時10分から日本テレビ系で放送される「女たちの中国」第二弾である。李香蘭とテンピンルーが、この日スポットを浴びる4人の女性のうちの二人として取り上げられるようだ。

ついに、テンピンルーが日本の茶の間に紹介されるのか。ピンルーがらみのテレビ放送は中国や台湾で映画Lust, Cautionのときにいくつか放送されていたようで、Youtube上にもいくつかある。昨年の9月頃からピンルーに興味を持って調べてきた。 中国語サイトをかたっぱしからあさって、「郑苹如」という中国文字で検索してエキサイト翻訳にかけた。日本語の文献はたぶんほぼ全て読破したと思う。今年1月に「日中戦のはざまで 鄭蘋茹(テンピンルー)の悲劇」 ←クリック としてアップした。

ディレクターは果たしてどんなとらえ方をしているのだろうか。確か10月頃には大阪読売テレビ系で彼女のドキュメンタリーが放送されることは前の記事に書いたが、その前振りのような番組になるのかもしれない。彼女に対する評価は日本と中国で真っ二つに分かれてきた。色仕掛けの女スパイに情報漏れなどの痛い目にあってきた日本軍側からは、男から男を渡り歩くとんでもないあばずれ女と評する書物が多い。

中国人が彼女を書くときは抗日愛国の英雄である。

わたしの見立ては、そのどちらでもない。彼女はいたって個人的な動機で精一杯あの時代の上海を生きた。根底にあるのは日本人の血が半分流れる中国人、という立場である。ただでさえエリート検察官を父に持ち、フランス租界の高級住宅に住む彼女は、いじめのターゲットに成りやすかった。そんな折、日本軍が上海に侵入、南京では虐殺があったという報道もなされた。日本人の血が流れているということは避けがたい差別に結びつき、彼女はついに登校拒否に陥る。抗日のアンダーグラウンド、国民党スパイ組織に参加したピンルーはそこで活躍することで、かつて自分を差別した級友たちに向かって声なき声でこう叫んだ。「私は中国人なんです!」

終戦後の国民党による裁判で「私は日本人です」と叫んだ李香蘭。国は違えど、そのアイデンティティに共通の苦しみを持った二人。

あとは見てのお楽しみということで。

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