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2008年8月 9日 (土)

上海人文記 3

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より、抜粋引用を続ける。

戴小姐は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名でありここでは本名で表記する。また、ここで丁黙邨とした人物は、原作では馮という姓になっている。

引用開始

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松崎達の映画の会社は、興亜院や、軍や、維新政府(注:親日政権)と緊密な連絡が必要であった。目的を同じくする新聞の工作はどうなっているか。放送の方面はどうであろうか。文芸の方面はどうであろうか。松崎達は各方面の情報を交換し、激励の言葉を交わすと共に、早く立派な再組織を作り上げようと競争した。したがって、いままで租界の片隅に沈んでいた松崎達の生活も、仕事の発展都共に、波紋のように広がっていった。

Photo_6 ある夜、松崎は維新政府の人たちに、四川菜館の錦江酒家(注:錦江飯店)に招かれた。今では錦江は、日本人の間に上海名物の一つとさえなっている。四川料理の最初に出る四皿の冷菜に初めて箸をつけた人は、一様に嘆声を漏らさずにはいられない程美味しいのだ。だから、今では上海を視察に来る人たちの最初の歓迎会は、ここで開くのが通例とさえなって来た。だからこの有名な国境道路であるエドワード路に近い、フランス租界のこの菜館は、本来ならば、日本人達があまり行きたがらない所ではあるが、時には、とんでもない部屋から安来節がもれる程、ポピュラーになってきた。が、当時はまだ、それほど人には知られていなかった。

維新政府の人がここを選んだのは、多分あまり大勢の人たちから日本人と知己である事を知られたくなかったからであろうか。


松崎は、招かれた時間に少し遅れて着いた。虹口から乗ったタクシーが、いやにガソリン臭く、ガタガタだと思ったら、南京路で故障して動かなくなったのだ。当時の虹口には、人があふれているので、ガタガタでもタキシー(注:原文のまま)の鼻息は荒く、なかなか乗せてはもらえなかった。

松崎は、錦江の指定された部屋へ、飛ぶようにして行った。支那式の宴会では、料理の献立が、招かれた者が全部揃わなければ、食事を始め難いように出来ている。いつだったか、松崎は別のレストランで、なにかの手違いでから集まりの悪い宴会に出くわしたことがある。招かれた人が集まらないので、八時になっても八時半になっても、食事は始まらないのだ。おなかが減っても、主人に気を兼ねて、誰も口に出さない。松崎はその時ほど、支那料理の不便さを見せられた事は未だかつてない。それ以後、支那料理の宴会に、松崎は決して遅れない事にした。

が、この日は、やむを得ず遅れてしまった。仕方がない。松崎は不得手の支那語で、弁解する言葉を、幾度か、口の中で暗唱しながら、部屋に飛び込んだ。

とたん、松崎は驚いて「あっ」と声に出そうとした。松崎を招いた丁黙邨(ていもくそん。原作では馮と仮名表記)の隣の席に飄然(ひょうぜん)と座っているのは、テンピンルーではないか。松崎は弁解の言葉も、なにもかも、忘れてしまって、呆然と立っていた。

丁黙邨は、ただ簡単に、見知らぬ人がいたので、松崎が上がってしまったのだと考えたのであろうか。彼女を紹介するために立ち上がった。

「李小姐(リーシャオチェ)です」

「李小姐!?」

松崎はオウム返しに繰り返して彼女の顔を見た。その白い肌、そのきれの長い細い目、それはまぎれもない、テンピンルーである。彼女は微笑さえ浮かべて、初対面のように立ち上がって、

「我是李小姐(ウォ シー リーシャオチェ)」(私はリーです)

と平然と名乗るではないか。


松崎は、やっと自分を取り戻した。彼は自分も彼女に対し初対面であらねばならない。

「卑姓松崎(ピーシー スンチー)」

松崎は名乗って、彼女と握手した。そこには、ほかにもう二人の男と、二人の女がいた。丁黙邨の友人達であったが、どの人も松崎には本当に初めての人たちであった。

ピンルーはなぜ変名しなければならないのだろう。本当の鄭小姐は敵であろうか。味方であろうか。丁黙邨は彼女の人となりを知っているのだろうか。食事の間、松崎は何を考えていた思い出せない。皆が立ち上がるので、松崎は、ハッと我に返った。もうテーブルが終わった。

「どこへ行きましょう?」・・・丁黙邨君は、若いとき早稲田にいただけに、日本語で得意である。多分彼が維新政府の重要なポストに就いたのも、彼の語学が、大きく物を言ったからであろう。

「さぁ・・・」と松崎は困って、ピンルーの方を見た。彼女は松崎の視線を避けるようにして、早口に広東語で丁君につぶやいた。

「大東へ行きましょうよ。あそこが一番気楽で、日本の人なんかと行くには丁度よ」

北京語や、上海語の、理解出来る人の前で、支那人が広東語で話をするときは、大抵、我々に知らせたくない話である。幸か不幸か、松崎は、その程度には広東語も聞けば分かるのであった。

Photo_5 大東舞跳・・・それは上海第一のデパート、永安公司の三階にあるダンスホール。永安公司は、一階、二階、三階は、もちろん立派なデパートである。が、その他の何階かは寄席、映画、剣劇、ホテル、飯屋などなど、雑然として、大阪の千日前にでも例えられようか、したがって、そこにある大東舞跳は、三流ダンスホールである。

なぜ、彼女はこんな所を選んだのだろう。そして、その選定を、わざわざ広東語で話さねばならないのだろう。松崎は漠然とした不安を感じて、この菜館を出るに際して、知られないように小さな紙片に行き先を書きこんで、劉君へ電話を依頼した。確かに、松崎は彼女に対しては特別神経質になっていた。



大東舞跳を振り出しに、何軒キャバレーを渡り歩いたろうか。もう相当、酔って疲れているはずだ。午前3時である。

だのに、彼らはまだ、リトルクラブにいた。そこは、各国の水兵さん達が、酔っぱらって踊る小さなホール。時には恋のトラブルが、通じぬ国の言葉と、言葉で、喧嘩をおっ始めさせたり、そしてそれが、水兵さん達であると、即刻、国際問題となって取り上げられたり・・・、上海の権化のようなキャバレーである。こうしたところへは、メンツを重んじる支那の淑女はあまり近づかないはずであるが、ここも又、鄭小姐の指定で我々は行ったのだ。

酔って回る数々のキャバレーや、タキシーの中の様子で、丁黙邨君は、鄭小姐に夢中であることがわかる。鄭小姐も、もちろん、彼を愛しているのだろう。支那の女が恋人といるとき、よくみかけるあの大胆な、男に身をもたせかける・・・それを、松崎は大抵の場合、好ましく見るのであるが、彼女と丁君の場合は、なにか不気味なものを感じさせられた。

しかし、丁君は、警務局で働いている人だ。もちろん彼は、彼自身の方法で、身の安全を保証しているであろうし、また彼は、いつもだらしなく座っているように見えるが、眼光は鋭く、頭も機敏で頼もしい男だ。松崎は、彼を信頼していればいいのだと思った。が、しかし、松崎にも、すでに劉君が心配して、ボデーガードを二人、それとなく送って置いてくれた。彼らは松崎とつかず離れず、別のテーブルで、お茶を飲んだり、踊ったりしている。変わったことは何も起こらないであろう。

松崎は、鄭小姐と踊った。この数時間、彼女はあくまで李小姐であり、松崎とは初対面であった。音楽はタンゴであった。松崎は彼女に言った。

「你、同不同日本語?(二ィ、トンプートンリーベングァ?)あなたは日本語を話すのですか」

「ワタシ?スコシ。松崎先生、アタシ、丁ヲアイシテル。アノヒト、アタシ、ニホン、トモダチアル、シラナイ。ゴメンナサイ」

松崎は、うなずいた。うなずかざるを得ない。

この複雑に見える手管も、ただ恋がさせる術であろうか。

音楽が終わった。彼らは席に戻った。と、松崎は、彼のイスを引こうとして、彼女のハンドバッグを、イスから落としてしまった。

「ゴトン」

重く、にぶい音を立てて、そのハンドバッグは松崎の靴の上に落ちた。松崎はその重さを足に感じた。ピストルだ。ピストルがハンドバッグの中にあるに違いない。松崎はハンドバッグを取り上げようとした。が、彼女の手の方が素早かった。彼女は、ハンドバッグを拾い上げて、何気なく、コンパクトと口紅を取り出した。

鄭小姐とピストル!想像できるだろうか。しかし、あの重さと感じは、ピストルのそれ以外ではあり得ない。彼女がかつて、劉君に言ったという

「あたし、明日殺されるかもしれない」

という言葉を、ふと思い出した。上海では、恋の駆け引きのために、女の子までがピストルを用意しなければならないのだろうか。

1939年の6月になった。上海に、また夏が来た。プラタナスの並木道に、太陽がかっと暑く輝き始めた。もう苦しい上海特有の夏が来た。その頃、中華映画社は、やっと設立の運びに到達した。その創立総会は、南京で、日支の要人達の出席のもとに華々しく行われるはずであった。××日の朝、上海から会社関係の一同が急行列車に乗った。

興亜院の文化部で、この会社の設立の産婆約を続けられた、T中佐、M調査官、軍報道部長のM大佐(注:馬渕大佐と思われる)、そして満州からわざわざ出席された、根岸寛一氏、その他、中華映画の専務に就任する川喜多長政氏、等々。それぞれの顔は、新しきものの誕生という期待に輝いていた。が、それにも増した感慨と喜びに震えて、松崎達は列車の一隅に固まっていた。

その四名・・・、即、劉燦波(劉吶鴎)、黄天始、黄謙、そして松崎である。

汽車は、南京に向かって発車した。車中の半数は日本人、半数は支那人。そして車掌さんは日本人。食堂の女の子の支那人達は片言の日本語を話す。事変前と代わって、日本人の進出の激しさが、彼ら、松崎と一緒に工作を続けた支那人達には、全く奇異に思われるのであった。なぜならば事変後、今度の旅行が初めて彼らにとって租界を出て、このコースを南京へ乗車する最初であった。上海事変勃発とともに、租界へ逃げ込んだ黄天始、留める兄を残して、再び相見ることはないだろうと、香港から重慶へ飛んだ、黄謙、かつて彼らは、蒋介石のもとで抗日のために働いたそうそうたる国民党員であった。

彼らは、当時、幾度かこのコースを上海、南京と往復したことであろう。そして彼らの鞄の中には多くの映画のプラン。そのプランは蒋介石政権の限りなき発展をことほぎ、同時に抗日のための機関銃を意味したかも知れない。彼らは南京で司令を仰ぎ、上海で実行する幾百の闘士と共に、胸一杯の闘志をもって、この汽車に乗っていたであろう。

しかし、黄天始も、黄謙も、劉吶鴎の呼び出しに応じて、松崎達の仕事に加わった人たちだ。黄謙は、「農人の春」という文化映画で、ベルギー映画コンクールで第一席を得、またソビエトの映画会議に、支那を代表して派遣された人。黄天始は、映画配給のエキスパート。彼らのいずれも中華映画の中堅として立つ人たちであることもちろんである。

列車は、南京に向かって走っていた。ところどころに激戦の跡、歴然たる廃墟が見られた。重慶の国民政府に、辞表を叩きつけて、やっと二ヶ月前に飛行機で脱出してきた、黄謙の頭の中には、なにか未だに、清算しきれないものが残っているのだろう。彼はつぶやくように言った。

「上海事変が勃発して、いよいよ南京上海の交通が途絶するという最後の列車ね。それはものすごいものでした。みんなトランク一つ、身体一つで列車に飛び込んだのです。窓という窓から、列車の屋根まで、上海の租界に逃げ込む人たちであふれていました。私も女房と子供を、窓から列車に押し込んだのです。私はたった一人で、南京から、漢口へ、それから香港へ、そして重慶へ。重慶では私の兄貴が、と天始を見ながら、日本人と握手して仕事を始めたと言うので、大変いじめられたんです。でも私は・・・」

その時、劉君が、彼の感傷を奪おうと意図したのだろうか。

「だが、老黄!!君の今話した、同じコースを、すばらしく偉い人が後を追って走ってくるよ」

「誰?」

「汪精衛!周仏海!」

このギャグは、黄謙の感傷を、一度に吹き飛ばした。大声で皆笑った。

松崎は、劉君と、黄兄弟と、苦しかったが、今では楽しい思い出となった過ぎ去った日の工作を想起した。会社の誕生もうれしいが、さらに感じる大きな喜びは、苦しかった数々の日を通じて、敵と敵との中から選んだ信頼しうる友を得たことであった。言葉では言えなかったけど、目と目で、心と心で、血と血で、今日の喜びを、いついかなる時も忘れまい。その喜びを覚えている限り、我々は、この世の中で一番信頼しうる友達でいようではないか・・・。国境を越えて、私たちは相許す友を得たのだ。所謂「老朋友」を・・・。

汽車は、鎮江に着いた。黄天始が何気なく買った新聞に、

「租界にまたテロ。維新政府、警察部丁黙邨氏狙撃さる」

の文字があるではないか。

「丁君が撃たれた!」

「丁君が」

「なに、丁君が」

松崎は、思わず立ち上がった。犯人はテンピンルーに違いない。彼は直感した。彼女はついに重慶側のテロ団に加わったのだろうか。が、松崎はずっと黙っていた。

「彼女には日本人の血が交じっているのだ。私の直感は間違いかもしれない。いや、間違いに違いない」と思ったからだ。

引用終わり

さて、ブログ管理人にとって、松崎がなぜに、丁黙邨狙撃事件が1939年の6月にあったことにしているのだろう、という疑問が沸く。定説では1939年12月21日、クリスマスでにぎわう頃のできごとだ。また、丁黙邨は、警務部所属ではなく、実際は日本の憲兵隊の監督下にあった特工総部、有名なジェスフィールド76号のボスである。

上海人文記 4へ続く

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