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2008年8月 9日 (土)

上海人文記 4

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より、抜粋引用を続ける。

戴小姐は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名でありここでは本名で表記する。また丁黙邨は原作では馮という姓になっている。

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中華映画(注:中華電影)の事務所は、バンドから南京路を左に折れたビジネスの中心地、江西路の四つ角、ハミルトンハウス(下の写真)の3階に設けられた。その窓の向かいは、メトロポールホテル。筋向かいは工部局。かつて誰かが、上海を制する者は支那を制す、と言ったが、このビジネスの中心地に事務所を選んだ松崎たちは、重慶から華僑にいたる、全支那の映画の王者になる意気込みだった。

Photo_3 その事務所の一室に、松崎と劉吶鴎(りゅうとつおう)はいつも向かい合って仕事をしていた。今は、日本からもエキスパートが集まったし、支那人の従業員達も仕事に慣れたし、松崎達の仕事は比較的暇で、時には退屈を感じる時間さえもあるくらいになった。

そんな日のある朝、松崎は劉吶鴎に言った。

「僕は、昨夜君の夢を見たんだよ。君の家へ鄭小姐が逃げ込んで来たのだ。彼女は非常に優雅な様子で、落ち着いてはいるが、不思議だね。僕には彼女が逃げ込んで来たのが分かるのだ。が、君は知らない。彼女はしかるべき理由を述べて、この二三日、君の家に泊めてくれと言うのだ。君は彼女を家の中に招じ入れるが、僕は彼女を入れたら君に危険が迫ることを知っている。が、それを口に出せない。君は彼女と余念なく世間話をしている。僕は君に声をかけたいのだ。注意してやりたいのだ。心配でたまらないのだ。が、どうにもならない。それで僕は目が覚めたんだ。変な夢だろう」

劉君はポカンとしている。彼は松崎がどうして突然鄭小姐の話など持ち出したのかわからないのであろう。

松崎がこんな夢をみたのは原因がある。その前日、彼は虹口(ホンキュウ)にある同仁病院へ、撃たれた丁君を見舞いに行ったのだ。丁君は撃たれたけれど、奇跡的に生きていた。近頃の狙撃犯人は、大抵マシンガンを使用するので、狙撃されるということは、すなわち、死を意味することであるのに、どうしたことか丁君は助かった。彼は青ざめてはいたが、もう三週間もすれば起き上がれる。起き上がったら俺は撃ったやつをきっと逮捕してみせる、と言っていた」

松崎は、丁黙邨にその犯人は誰か、などと尋ねはしなかった。しかし彼の犯人の事を語る時の目の鋭さが、凄みを帯びて憎悪にゆがんでいるのを見て、松崎は犯人はやはり鄭小姐を意味しているのに違いないと思った。

松崎は帰りの道で警察部の全機構を動かして懸命に追いかける丁君と、租界の裏町から裏町へ身を隠して行く鄭小姐の劇的な追っかけを空想していた。松崎はガーデンブリッジを渡って、南京路の人混みの中を、うなだれながら、鄭小姐の明日の運命について考え続けた。頭を上げると、永安公司の高い塔のそばに三日月がかかって、どこからともなく、芝居のドラが激しく鳴っていた。

かたくなに 泣くときもなく すぎきぬれ ギャンブルハウス賑わう街に(富岡ふゆの 注:松崎の妻)

1939年の秋になっていた。その暑い夏に、越界路の片隅に、松崎は新聞で見つけたアパートを、法外ともいえる権利金を払って、ドイツ人から買い取った。そして妻と移り住んだ。

楡の木も 空なる雲も かささぎも われを見知らぬ街にきて住む(富岡ふゆの)

その二ヶ月のうちに、妻も上海の生活に慣れていた。その夜も妻は、いつの間にか友達になったのか、奥さん達と一緒に食事をするために、虹口へ出かけて留守であった。

松崎はぼんやりと窓から外を眺めていた。

向かいは支那特有の里になっていて、四階建ての洋館がずらりと並んでおり、どの窓からも明るく灯りがともり、ラジオが流れていた。松崎は、あわい旅愁を感じた。

ベルが鳴った。訪問客だ。劉君であった。ドアを開けて入ってきた劉君の顔が、いつになくソワソワしている。

「一人?」

と松崎は聞いた。

「うん」

「奥さんは?」

「留守」

「そお」

と言いながら、彼は無意識に、ボーイの持ってきた紅茶を飲んだ。

黙っている。

が、彼の目がキョロキョロしている様子で、何か彼が苦しい事を考えているのを松崎は感じる。が、松崎も黙って紅茶を飲んだ。


ラジオが支那語で、近衛声明の意義を説明している。多分、大上海放送局の放送であろうか。上海には三十からの放送局があって、どれもが勝手なプログラムで、勝手な放送をする。が、近頃では、どの放送も日本、リーベン、ジャパン、ヤポーネ、ヤパーン、などなどの言葉が、良きにつけ悪しきにつけ、聞こえるようになった。もう支那では、日本を問題にせずには何もできなくなったのだ。


松崎は紅茶を飲み干した。劉君も飲み干した。松崎は彼を見る。彼も松崎を見る。



「どうしたの?」

松崎は尋ねた。

彼は立ち上がりながら、



「散歩しないか」

と言った。

「うん、いいよ」

そして二人は街に出た。ジェスフィールド公園の近くにたくさんの小さなキャバレーができていた。そのキャバレーの隣に大きな賭博場が、ネオンサインを点じて開かれた。ハリウッドという名前で。劉吶鴎は黙々とこの街を歩いていく。松崎も黙ってついていく。彼は一軒のキャバレーに入る。そしてハイボールを注文する。が、飲むというのではないのだ。ただ音楽を聴きながらぼんやりと突っ立ている。

松崎も所在なさに、スタンドの横のガチャンコへ行って、五圓札を十銭銀貨に換えて、放り込み、放り込み、ガチャンコをやる。

と、劉君は肩を叩く。

「出よう」

そして、また次のキャバレーに行く。ハイボールの注文だ。何軒こうしてキャバレーを回ったろうか。最後に松崎達は、ハリウッドの中にいた。劉君はルーレットの前に突っ立っていた。ルーレットが廻るたびに、彼は五拾圓、百圓、二百圓と賭けていく。が、一度も勝たない。見かねた松崎が、

「おい、行こうよ」

と言うと、

「うん、うん」

と生返事して、また札束を取り出す。人間は苦しいときには、時々別の苦しいことでその苦しさを紛らわそうとする。今劉君はこんな気持ちなのだろう。ルーレットに負けて、お金を失うことで、彼は別の悲しみをも失おうとしているのであろうか。


Photo_4 夜更けであった。松崎と劉吶鴎は真っ暗なジェスフィールド公園のベンチに腰掛けていた。ここの公園の門番に、コミッションを一ドルやって、無理矢理公園に入ってきたのだ。静かなところで、松崎は劉吶鴎の苦しい原因を聞いてやらねばならない。

「今日、僕はピンルーに会ったんだ」

「どこで?」

「大澤さんの家。彼女と彼女の恋人。ほら、いつか君とアルカディアで見た、あの若い人ね」

「あの人?」

やっぱりピンルーの恋人は重慶側(注:蒋介石国民党側)にあったのだ。それにしても、ピンルーがどうして大澤君のところへなど行ったのだろう。大澤君は企画院から支那を研究するために送られてきた学究肌の人(注:報道部所属)。日本の軍当局や、政府の要人達の中にもたくさんの知己を持っている松崎の親友であるが、ピンルーと知り合いだったとは知らなかった。

「ピンルーは何しに行ったの?大澤君の家へ」

「逃げ込んだんだ。大澤さんから電話で、すぐ僕に来てくれと言うので飛んでいった。彼女のおぼつかない日本語と、大澤さんのおぼつかない支那語ではとうてい意志が通じないので、僕に通訳してくれと言うんだ。僕はまず彼女に事情を聞いた。彼女と一緒にいる青年は重慶側の組織に属している。彼と彼女の恋愛関係は相当昔からだ。彼の組織の中でも知られていたらしい。彼女が日支の混血であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求を提出したんだ。

彼女に維新政府側のめぼしい人達を暗殺する手引きを・・・強いたのだ。

もちろん彼女はその要求を拒絶した。

男は組織のためには、女と別れても仕方がないと決心したらしい。彼女もまた母の国のために恋人と別れることを決心したのであろう。そこへ現れたのが丁黙邨だ。丁黙邨は日本の留学生だったし、もちろん維新政府のほうで働いている人だったから、もし彼女が彼を愛し、彼も彼女を愛していたなら、それで問題は解決したはずだ。

が、一方、丁黙邨は重慶側への工作のために彼女を利用しようとした。彼女はかわいそうに、昔の恋人や昔の仲間たちに会いに行かされたのだ。そして逆に彼らの側では、彼女が丁黙邨と親しいのを知って、彼女をおとりにして丁黙邨をおびき出そうとする。彼女は新しい恋人と、古い恋人と、父の国と、母の国と、敵と敵との間でもみくちゃにされ、精神が分裂してしまったのだ」

上海人文記 5に続く

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