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2008年8月の12件の記事

2008年8月25日 (月)

上海のトップダンサー マヌエラ

さて、前々回の記事で映画「上海の月」の広告を掲載したが、出演者の一覧に目をやると、特別出演として「ジョウ・ファーレンス・ショウ」と記載されているのにお気づきだろうか。また、1941年7月発行の「日本劇場ニュース」(第259号)にも、下のような紹介記事があり、同じように、特別出演「ジョウ・ファーレンス・ショウ」と記載されている。

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ジョウ・ファーレンス・ショウと聞くと、以前に読んだ本に出てきた一人の女性ダンサーを思い浮かべざるを得ない。当時の上海のトップダンサー、マヌエラだ。マヌエラをプロデュースしていたのは、新聞記者であり、実態は上海ショービジネス界の影のボス、アメリカ人のハロルド ミルズだった。マヌエラがまだオキ マヤという芸名で、日本人街虹口(ホンキュウ)の「ブルーバード」、そして、上海最大のナイトクラブ「シロス」で踊っていた頃、彼女を見いだした。彼女の本名は山田妙子である。

ミルズは、日本人ダンサー、オキ マヤとマネージャー契約をし、一枚の紙を渡した。そこには次のように書かれていた。

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芸名 ミス マヌエラ
履歴 1915年1月20日、ハワイホノルルで生まれる。10才の時、現地で初舞台を踏む。その後、両親とともにタイのバンコクへ移住。ここでオリエンタルダンサーとして世界的名声を博しているボンベイのランボヤ教授に見いだされ、彼に師事してインド、タイ、ジャワなどのエキゾチックダンスを徹底的に仕込まれた。その後さらに名手ジャスタス パスコラの指導でスパニッシュダンスも修得し、現代のキャラクターダンスに必要とされる技能を完全に身につけた。

最後の文章以外、全てミルズの宣伝用コピーライティングである。山田妙子はこのように日本人でありながら、国籍不明のエキゾチックなダンサーとして売り出されることになった。

1939年12月、上海のジェスフィールド公園近くの歓楽街、愚園路に軒を並べるナイトクラブの一つ、「アリゾナ」で踊っていたマヌエラは、1月いっぱいまでそこで踊る契約をしていた。クリスマスイブの夜(ちょうどピンルーの丁黙邨暗殺未遂事件の3日後)のこと、マヌエラが最後のショーを終えて休んでいると、ある客がテーブルに呼んでいると、一人のボーイが言う。疲れていたマヌエラは断った。しかしいつもなら上手に断ってくれるボーイが、「行った方がいいと思いますよ」と言う。

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彼女はボーイに客の名前を聞いて驚いた。上海でもっとも一流の客を集めるナイトクラブ、「ファーレンス」の社長、ジョウ・ファーレンだったのだ。彼はドイツ系のユダヤ人で、日本の憲兵隊とも友好関係にあった。テーブルに着き、ひとしきり会話をした後、ファーレンが、「一曲だけ踊ってくれないか」と言う。これは一種のオーディションだった。彼女はあれほど疲れていたのに、十八番の「ペルシャン・マーケット」と「タブー」を踊った。ファーレンは、翌月からの契約をその場で申し入れた。こうしてマヌエラは上海のトップダンサーとしての階段を上がっていったのだった。

ここまでの参考:「ルーズベルトの刺客」 西木正明

さて、話は脱線するが、一番上の写真の、「特別出演 ジョウ・ファーレンス・ショウ」のところの最後に、「指揮並びに歌 マイケル・コーガン」と書いてある。ファーレン自身がユダヤ人であることから、このジョウ・ファーレンス・ショウのメンバーもユダヤ系の可能性が高い。当時の中国、日本ででユダヤ系のマイケル・コーガンというとこの人の名前がでてくる。ドイツ語読みでミハエル・コーガンと呼ばれる人物だ。

1920年1月、ユダヤ系ロシア人として生まれたミハエル・コーガンは、ユダヤ人迫害を逃れて満州のハルピンにやってきた。そこで極東のユダヤ人保護に奮戦する特務機関長、安江大佐と出会う。安江大佐に感銘を受けたミハエル・コーガンは親日家となり、1939年、日本に渡る。早稲田経済学院でで貿易実学を学び、ロシア文学者、米川正夫の家に下宿、5年間滞在した。1944年に中国天津に渡り貿易業を始めた。1950年に日本に戻り、1953年に株式会社太東貿易を設立。これがゲームで有名な会社、現タイトーである。ゲームセンターでUFOキャッチャーをやったことがある人も多いのでは。それはたぶんタイトー製です。

ミハエル・コーガン=マイケル・コーガンなのだろうか。アルファベットで書くと両方ともMichael Kogan。映画「上海の月」が撮られたのは1941年のことである。ミハエル・コーガンが日本滞在2年目のことだ。特別出演の可能性は大いにあるのではないだろうか。私の想像は、「ユダヤ人経営の上海トップのナイトクラブ「ファーレンス」でロケを行うに当たり、日本在住の親日家ユダヤ人、ミハエル・コーガンに根回しを頼んだ。そして特別出演という形で、ファーレンスでの一場面で指揮者の演技と歌を披露してもらった。」 さてどうだろうか。



2010年12月10日追記

中丸薫 ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「日本とユダヤ 魂の隠された絆」によると、ミハエル・コーガンはマイケル・コーガンとカタカナで表記されていました。ミハエル・コーガンとマイケル・コーガンは同一人物であり、Michael Koganのドイツ語読みと英語読みであることがわかりました。ただし、ジョウファーレンスショウに歌と指揮で特別出演したマイケル・コーガンが、そのマイケル・コーガンであることを証明する史料はいまだございません。 

マヌエラ一口メモ:松竹楽劇団時代に水の江たき子という芸名が気に入らず同僚と名前を交換している。その同僚はその後ターキー、こと水の江滝子として活躍した。またマヌエラの姪で女優内藤洋子の娘が喜多嶋舞とのこと。

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2008年8月24日 (日)

第二の李香蘭狙い? 汪洋

「上海の月」に、日本側ラジオ局のアナウンサーとして出演していた中国人若手女優、汪洋(おうよう ワンヤン)。鄭蘋如(テンピンルー)をモデルとし山田五十鈴が演じた袁露糸(エン ローシ)の同僚の役だ。

どうやら、東宝、中華電影にはこの汪洋をあわよくば第二の李香蘭にしようという意図があったような気がする。「映画旬報」(1941年)には前回の記事 に掲載した広告以外に、1ページ使って汪洋の記事タイプの広告が掲載されていた(下の写真)。

その記事広告の文章はこうだ。

Photo_9 朝の汪洋  

汪洋は日本語が分かるようになったのは最近のことである。山田五十鈴が仕事(上海の月の撮影)のことでちょっとした打ち合わせをするにも、今は通訳がいらない。相手の言葉を聞き取ることが出来るけど、汪洋自身はそれに応える日本語が言葉となって出て来ない、そういうもどかしさと、早く相手に反応を伝えようとすることで、戸惑いした表情が頬に動く。その頬が実によく動くのである。フィルムの上にも顔面の下半部が魅力的に揺れ動く、日本人にない魅力的な動き方である。朝はオレンジジュースかグレープジュースが欠かせない。6月からはプールに飛び込む時間が必ず30分は用意される。

東宝か中華電影による記事広告だと思うが、親日的で清楚な可愛らしさとや誠実さ、そして上流階級にあるかのようなエキゾチックでミステリアスな外国人。というイメージを短い文章の中に込めているような気がする。それはまさに李香蘭が打ち立てたイメージである。



また、「映画旬報」(1941年 第21号)に水町青磁の映画批評が載っていて次のような記述がある。

演技者では汪洋の登場は異彩であり、今後もしばしば起用されたいが、第二の李香蘭的に扱うことは戒心すべきである。

この批評家にとって汪洋に李香蘭的な扱いが予想されたようである。




ちなみに山田五十鈴の彼女についての手記が「映画之友」(1941年6月号)に下記のように載っている。


汪洋さんのこと


 「熱砂の誓ひ」「孫悟空」の撮影で東京へ来られたときの汪洋さんに感じられなかったものが、今度上海でお会いして、仲良く撮影している中に、発見されました。汪洋さんには小さなコケット、そんなものが、あの人の身体から感じられます。それが明るい表情、動作から印象づけられますので、まことに好ましゅうございます。

 

やはり東京でなく、郷土にいる安易さが汪洋さんを自然にしているからなのでしょう。汪洋さんは支那服の着こなしを親切に教えて下さいましたし、支那語の会話のよい先生にもなって下さいました。私の支那服姿、支那語が不自然な感じを持たせなかったら、それは汪洋さんのおかげだということをお知らせしておきましょう。

引用終わり

あるサイトによれば、汪洋が部屋でピアノを弾くシーンもあるらしい。現存するフィルムにそのシーンがあるらしいのだ。「支那の夜」での好評もあってか、「上海の月」には音楽映画的な趣もあっただろう。とても見てみたい映画の一つだ。


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映画「上海の月」・・・ピンルーがモデルの映画

松崎啓次の「上海人文記」を原作とする映画「上海の月」。松崎啓次と劉吶鴎らを中心として設立にこぎつけた日中合作の中華電影と、東宝が共同で制作した映画だ。封切りは1941年7月。監督は成瀬巳喜男。(注:2010年1月2日追記  映画「上海の月」の原作は、「上海人文記」の中でも、「徐小姐のロケット」という章からそのほとんどを取っていることがわかりました)

「徐小姐のロケット」へのリンクはこちら ←クリック

当時の「映画旬報」や「映画之友」に広告(下の二つの写真)や批評、紹介記事などがあった。下記にあらすじを引用した。袁露糸(エン ローシ)が鄭蘋如(テンピンルー)をモデルとした役である。

以下引用

昭和12年(1937年)8月、北支の戦火はついに国際都市上海に飛んだ。灯火管制で真っ暗な日本人街、虹口(ホンキュウ )の一角に、江木大介の宿舎がある。精巧な聴取機の前に、今も吉野と小島は抗日放送に唇を噛んで聞き入っている。これを攪乱するにはその種の機械を入手しなければならない。

江木が帰ってきた。機械も近く届き、北京語アナウンサーとして、蔡という人まで決定したことを告げた。吉野は陽美英と面談することができた。江木の新放送局設立のために、陽もまたこの計画に参加することを誓った。(注:この映画を見た方のブログによると、幼稚園跡に放送機を設置したとなっているが、実際も、日本側管理地区の楊樹甫の幼稚園跡を使っている)

江木はホテルで親ドイツの要人、シュミット博士と面談した。そしてここで初めて陸氏と出会い、この三人の間に堅い締結ができあがったのである。

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ホテルの1階にエレベーターが止まった。誰も乗っていないはずのエレベーターの中から、陸氏が胸を真っ赤に染め遺体となって転がり出た。江木はある支那人青年のために陸氏殺害の犯人だとさえされていた。このとき、この支那人青年を鋭く制する可憐な女の声・・・。まだ日本を知らぬ女性ではあるが、袁露糸(エン ローシ)は、故陸氏の姪、上海特区法院判事の娘。

外国租界では抗日ラジオが相も変わらず絶叫している。陽は妨害電波を送り、この抗日放送の邪魔をする。

避難する人達の中に、うら若き失業婦人、許梨娜(シュ リナ)が混ざっていた。やがて間借りの部屋に戻ると、ある商会の女事務員募集の広告を見つけた。その商会には多数の受験者が集まっていた。受験者に質問しているのは陽である。やがて梨娜の順番が回ってきた。そしてこの商会に梨娜は雇われることになった。彼女は新放送所のアナウンサーとして・・・。梨娜の加入で、これまで以上に抗日放送を妨害することができるようになった。

ある日、陽の乗っていたタクシーの後方から、無茶なスピードで一台のタクシーが機関銃を浴びせかけて来た。陽は無惨にも、第二の犠牲者となった。そして蔡も・・・。

袁露糸はレストランで、学友である許梨娜の仕事に自分も加入できないかと話しかけた。梨娜の紹介で、江木と露糸は再会した。露糸もまた、ここの放送局で働く婦人となった。その後、江木と露糸は日ごと伴って外出することが多くなった。

江木と露糸は公園で語らっていた。露糸は、梨娜が蘭衣社と縁の深い公安局にいたことを江木に語ってしまった。(注:別の映画雑誌に露糸と梨那は江木をめぐる三角関係、と書いてあったので、恋がたきの不利になる秘密を暴露したものと思われる。また、この映画を見た方のブログによると江木は密かに二人の素行調査をしていたようである)

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露糸がアナウンスをし、梨娜があとで歌う放送がしばらく続いた。梨娜も抗日テロ団に襲われ、危ういところを江木に救われる。梨娜は男らしき江木の姿が、しっかり自分の胸の奥深く食い込んでいるのを知った。

クリスマスイブには、江木、露糸、梨娜の3人がキャバレーに姿を見せた。梨娜が首から下げているロケットの中に秘密のあることを露糸は見破った。そのとき、シャンデリアが一斉に消えた。あやうく抗日テロから難を逃れる江木。この事件は裏で露糸の手引きがあった。

乱闘の場から姿が見えなくなり、行方不明になっていたはずの露糸が、放送局になにげなく現れた。この放送局にも抗日テロ団によって時限爆破装置が工作されていた。午前10時半爆発の瞬前である。梨娜は露糸の計画を知っていた。露糸こそ、一皮むけば恐るべき抗日テロ団の手先だということも・・・。

露糸の部屋に不思議な電話がかかってきた。どうしても本当のところを吐かせようとする梨娜は、露糸からピストルの筒先を向けられた。身を翻す梨娜に、露糸のピストルが火を噴いた。

意識の戻った梨娜は、鍵の無い扉に全てを悟り、よろめく身体で出て行く。9時過ぎに放送局に駆け込んできた梨娜の報告に騒然となる。事務所に急ぎやってきた吉野達の目についた物は・・・・。ただ封書が一通だった。露糸の手紙と、梨娜のロケットを見て江木は愕然とする(注:露糸は気絶した梨娜から、前から気になっていたロケットを奪い、中を見たのだろう。そこには江木達に対する思いがこめられた何かがあったのだろう。それを見て露糸は感動し手紙をしたためたようだ)。露糸は、江木達に対する梨娜の真心を知り、はじめて自分の非を悟った。そして露糸は抗日テロ団を裏切り、命をかけて放送局の安泰を計るのだった。

今は全てを知った江木からロケットを返された梨娜は、彼の足許にひざまづき、「わたしを日本に連れて行ってください」と激情を打ち明ける。

江木は低く優しい声で、「まだ日支間の不幸な溝は大きい。溝を除くためにお互いは働くのだ。どこに離れようともどこまでも結んで・・・・」と励ます。新しい力を与えられた梨娜はどんなに疲れていても今夜もマイクに立った。

大上海の月は美しい。その月の下の路地で、流れくる梨娜の歌声を聞きつつ、露糸は抗日テロ団による制裁の手に倒れた。強い愛情と新しい望みに輝く梨娜を残して、江木が前線へ発つ。(注:この映画を見た方の評を見ると、エンディング近くでは「日支の繁栄を妨害するのはテロであり、テロは万国共通の敵だ!」という意味のテロップ文字が何度も入るらしい)

以上が、「日本劇場ニュース」(259号)に記載された映画紹介の引用である。抗日テロは敗れ、抗日の女性もやがては親日に変わる。李香蘭の「支那の夜」もそうであったがこの当時の映画のある種典型的なエンディングである。そしてこれは多分に検閲を通すことを意識していると思われる。検閲と映画についてはこちらのサイト「李香蘭と支那の夜」に詳しい←クリック

江木と二人の中国人女性の単なるメロドラマとなりそうなところへ、抗日スパイが親日に変わることで対中政策の正当性を訴えるとともに、防諜意識を高める映画とする。そして検閲を通すわけである。

 

この映画のあらすじを読んだ当初は、ピンルーをモデルにした袁露糸がラジオ局のアナウンサーであることに違和感があったのだが、「上海人文記」の「戴小姐の銃殺」を読んで、ピンルーが日本軍特務の作ったラジオ局のアナウンサーをしていたことがわかったので、その違和感は解消した。

2010年1月6日追記:また、袁露糸以外にも、抗日スパイと疑われる中国人女性アナウンサー、許梨那がいるのが当初は映画としての演出と思っていたが、「上海人文記」の「徐小姐のロケット」を読み、実際に二名の中国人女性アナウンサーがいたことがわかった。

さてプロデューサーの瀧村和男が映画旬報(1941年 第18号)に主題を書いている。

総力戦下における文化戦。特にその重要な一翼たるラジオ放送による宣伝啓蒙戦の重要性を広く紹介しようとするもの。事変直後の上海に舞台を取り、抗日デマ放送を粉砕すべく抗日テロの魔手と戦いながら新東亜における日華両民族の共存共栄を目指して、放送局建設の苦闘を続けた文化戦士達の活躍を主題に、日本人、中華人の協力と友情の姿、南京陥落後の上海における抗日運動の敗北、租界内の敵情等を描こうとするものである。

軍部の方針に従わざるを得ない作品であることがよくわかる文章である。また、原作である松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華(タイシホワ)の銃殺」の章にはあった、ヒロインが持つ日中ハーフの血による精神の分断状況というものは、この映画では描かれなかった。

ハーフではないものの「李香蘭」の人生そのものに、日中間で引き裂かれたアイデンティティの相克をうまく表現しているのかもしれないと感じる。

2013年7月7日追記:李香蘭の研究家であるCosmopolitanさんのブログに1940年2月9日付けの「都新聞」の記事の紹介がある。そこに、なんと、「上海の月」のヒロインに李香蘭が予定されていたように取れる記事があった。

Cosmopolitanさんのブログへのリンク

以下、記事の引用


本格的に歌の勉強

  李香蘭・三浦環入門 -初対面は師の病床で

 

○・・・「満映 の」といふより今はもう「日本の」スターになった李香蘭、これ迄のやうな単に珍しさや美しさだけでは、永い生命は保てない事を痛感し、本格的に歌ふ修行をする事になった。

 

○・・・幸ひ今は東京 住ゐ、これ迄いろいろと紛擾のもとになったマネージャーとも絶縁、今後は満映東京支社で万事アレンヂして貰ふ事になった。先月の台湾巡演も満映宣伝部の手で行ひ、忙しい中で台湾の民謡を勉強してきた。

 

○・・・帰京後、先生に迷ってゐたが、茂木支社長の斡旋で、三浦環に師事する事となり一昨日初対面した。環女子は目下盲腸炎に引き続き腹膜炎で九段 の某病院に入院中である。 そこで、その初対面は病院にお見舞いという形式で行われた譯である。

 

○・・・李香蘭はこれを機会に舞台、映画の生活にも一新を画する覚悟で、今日、陸海軍省を訪問一千円宛二千円の献金 を行ひ、又来月の東宝 劇場のエノケン 、白井鐵造初コンビのレヴィュウ「浦島太郎」にも乙姫の役で出演の交渉を断り、東宝の「上海の月」にも、脚本にダメを出している。

 

○・・・満映でも亦、この意気を買って声楽 家李香蘭の為にレサイタルを開くプランもあり、かくて今年は新しい李香蘭が生まれ出るであろう。(写真は病床の三浦環を見舞う李香蘭)

引用終わり

やはり、李香蘭はテンピンルーを知っていた。そう確信する記事だ。

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2008年8月21日 (木)

梅機関「丁黙邨側工作報告」

影佐機関、通称梅機関を中心として、国民党ナンバー2の汪精衛(汪兆銘)をトップに据えた政権づくりの工作が1939年から翌1940年に渡って上海で進行していた。親日和平派の政権である。それに対して国民党ナンバー1の蒋介石は、蘭衣社とCC団を中心に、親日派の暗殺をもって対抗していた。

その暗殺部隊に対抗するのが梅機関から資金援助を得たジェスフィールド76号である。1939年2月10日付けで参謀総長から梅機関にジェスフィールド76号設立の命令書が出ている。その頭目はあえて競争させるかのように二人おかれた。怜悧な頭脳派の丁黙邨(ていもくそん ティンモートン)と人情派で社交家の李士群(りしぐん)である。李士群は、丁黙邨を上手にたてて、丁黙邨が実質のナンバー1となり組織は安定してスタートしていた。

梅機関は参謀本部、陸軍省、中支那派遣日本陸軍にこのジェスフィールド76号の活動報告書を毎月1回送付していた。それが、「丁黙邨側工作報告」である。

鄭蘋如(テンピンルー)が関与したと言われる丁黙邨暗殺未遂事件は1939年12月に起こった。その月の25日、第12次報告書が提出されている。またピンルーが処刑された2月、やはり25日に第14次報告書が提出されている。これらは「日中戦争 対中国情報戦資料」第6巻で複写を見ることができる。

その報告書には、ジェスフィールド76号が、蒋介石国民党側謀略組織の構成員の逮捕、処刑、釈放、そして寝返りに成功させた者などが、氏名と性別、容疑内容とともに簡潔にリスト化されている。かなり毒々しい報告書である。特に女性の名前を見つけると悲しい気持ちになる。私は、鄭蘋如の文字がもしかして載っているのでは、とおそるおそる1939年12月から1940年2月までの複写を見てみた。結局全く触れられていなかった。ピンルーが載っていないどころか、事件そのものが報告されていない。

「丁黙邨側工作報告」で、そのタイトルの本人である丁黙邨が狙撃された事件について全く触れられていない。これはどう考えても隠蔽ではないか。公式的には事件はなかったことになっているようだ。林秀澄がピンルーを拘束したとき、処置をジェスフィールドに投げた。しかも、ジェスフィールドには「死刑が適当」だと示唆しながら。これも後の責任を問われないようにする一手だったのだろう。ピンルーとピンルーを取り巻く一連の事件、情報漏洩に日本側は関与してません、というポーズをとり続けたのだろう。

そして、戦後、ジェスフィールド76号設立の立役者であり監督者でもあった晴氣慶胤(はるけよしたね)による「謀略の上海」(1951年)を皮切りとする様々な小説、文献でのピンルーへの誹謗を含む表現。これらは、将来、事件が明るみに出たときに、日本側が死刑を示唆したことを正当化させる思いがこもっているようにも見える。

ここで、松崎啓次の「上海人文記」の中で、丁黙邨暗殺未遂事件を想記させる事件が、なぜ1939年6月に起こったというように半年時期をずらしているのか という疑問が、私なりに解消した。

松崎は、梅機関つまり、日本軍に遠慮した、あるいはもっと言うと、検閲に近い圧力を受けていた、ということではないか。梅機関にしてみたら、ピンルーはいなかった、事件もなかった、ということにしたかったのではないか。ピンルーを通じた情報漏れの責任を問われかねない憲兵隊にしても、やはり、ピンルーはいなかった、ということにしたかったのかもしれない。となると、「上海人文記」ではこの事件を題材にしつつも、日本側にはこの事件は無関係だと装うことが松崎にとって必要となったと思われる。「丁黙邨側工作報告」という公式報告書に載らない事件をそのまま事実を記述して出版することは難しかったのではないか。

事件の時期のズレだけではない。ピンルーは「上海人文記」の「戴志華の銃殺」という章の中では最初から最後まで戴小姐(タイ シャオチェ)という仮名になっている。丁黙邨にも馮(ヒョウ)という仮名を当てている。他の登場人物は日本軍人を除いて全て本名である。そして、暗殺未遂の場所は毛皮店ではなく、時計店である。おもしろいことに、やはり事件直後に、李香蘭をヒロインとして描かれた中華電影の映画「支那の夜」(1940年)でも、場所は毛皮店ではなく、宝石店になっている。

松崎は、「上海人文記」の前書きの中で、「映画「上海の月」のヒロイン袁露糸(エン ローシ)と許梨那(シュ リナ)は、この本の中のであり、徐である」、と書いている。徐はこの本の後半の「徐小姐のロケット」という章に出てくるヒロインである。しかしという名前は本文中には出て来ない。この前書きはおかしなことになっている。戴と書くべきところを鄭と書いた。当初は本文の中でも鄭蘋如の本名を使っていたのかもしれない。検閲逃れのため、やはり仮名とすることが必要となったのではないか。

ならば全ての「鄭」という名前を「戴」に変えるべきだったろう。しかし、前書きに一カ所だけ「鄭」という文字を、まるで誤字であるかのごとく残した。彼はこの一文字によって「袁露糸、そして戴小姐は鄭蘋如のことなのですよ」と、将来の読者に伝えようとしたのではないだろうか。そう私は想像している。

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2008年8月17日 (日)

二つの祖国を持つ女諜報員 鄭蘋如の真実 を見て

新発見がたくさんある番組だった。と同時に疑問の残る結末だった。これについては最後に話す。ドラマというよりは情報番組で、日中の狭間で苦悩する鄭蘋如(テンピンルー)という脚本ではなかった。ピンルーの描き方は、中国側が描いているピンルーの姿、つまりストレートに抗日愛国の中国人だった。その代わり母親の「木村はな」にスポットを当て、日中間で揺れ動く思いを彼女から感じ取る構成になっていた。夫婦間、家族間の思いのズレをエンディングに持ってくるなど、ある意味思い切った脚本だった。

さて、これまで、母親と父親の出会いから、結婚、ピンルーらの誕生、上海へ渡るまで、この辺は、すっぽり抜けた穴だった。ピンルーの生まれた年に関して、日本側文献にはいっさい記載が無く、唯一ヒントとなっていたのが、林秀澄氏談話速記録の中、ピンルーをジェスフィールドに引き渡す前の聴取で林秀澄憲兵隊課長が歳を聴いたとき。「たしか26才だった」と発言している部分。引き算をすれば1914年生まれだったが、林氏の記憶はあいまいであった。中国側の定説としては、「1918年中国浙江省の蘭渓生まれ」というものである。浙江省の蘭渓は父親テンエツの出身地だ。

番組によると、ピンルーは1914年5月、東京の牛込区(現在の新宿区)生まれ、となっていた。牛込区には中国同盟会の本部を置く下宿があり、父親テンエツはそこに住んでいた。母親となる木村はなはそこの住み込みの手伝いだった。長女真如さんがそこで生まれ、1914年5月よりすこし前に同じ牛込区内の早稲田弦巻に引っ越しているようだ(番組で、法政大学の学生名簿、「法学志林」の画像が映し出されていたが、この住所の入った巻の印刷日が大正3年(1914年)5月17日となっていた)。

現在アメリカ在住のピンルーの妹、末っ子である鄭天如さんへのインタビュー場面では、母親はピンルーのことを日本語読みで「ひんじょ」と呼んでいたようだ。これは、上海語で蘋如を「ピンジュ」や「ピンズ」と発音するのが難しかったのか、おかしかったのか、あるいは日本人母としてのこだわりだったのか、日本語読みで呼んでいたようだ。

また、日本の童謡、「鳩ぽっぽ」や「もしもし亀よ」などを5人の子供達に教えていたようだ。天如さんが必死の思い出して、少しだけ口ずさんでいたが、「忘れました」と日本語で言っていた。この辺はテレビならではのシーンだ。

母親の出自に関して、日本側文献で唯一記載があるのは永松浅造の「ゾルゲ事件」(1956年)である。そこでは、ピンルーの母親は、文京区本郷の下宿屋の娘、と記述されている。場所こそ違え、下宿屋というのは当たっている。永松浅造は母親についてなんらかの情報を得ていたのかもしれない。しかしこの本に名前の記載はない。母親「木村はな」の名前に関しては、ほぼ全ての中国語サイトが「木村花子」というように、「子」がくっつけている。そしてその多くが、日本の名門の出の令嬢と記載している。そうあってほしい、という思いだろうか。戸籍簿が映っていたが、本名は「はな」で茨城県真壁町の農家の9人兄弟の末っ子、小学校を卒業すると東京に出て、牛込区(現新宿区)の下宿屋で働いていた人だった。上海に渡った後、本人の資金で真壁に建てた両親の墓碑には「鄭 花」というように彫られている。

テンエツの留学先、法政大学の卒業は1911年7月。はなが長女を身ごもったため、官費を得る目的で1年あえて留年し、結局、法政大学を出たのが1912年7月。番組では1917年上海へ夫婦と子供3人で渡っているとなっていたので日本でさらに5年間の空白がある。中国CCTVテレビの動画では、日本大学から1916年5月15日にもらったと読める卒業証書が映っていた。もしこれが本物の証書であれば、日本大学に再入学し法学の勉強を継続したのか、あるいは留学生の身分で日本国内の情報収集の役割を与えられていたのかもしれない。ただ、その卒業証書が新しいものに見えたので、CCTVによる作り物(テレビ的演出というのだろうか)だったらその限りではない。

2009年8月15日追記:その後の調べでこのCCTVの番組に出てきた日本大学卒業証書はやはり作り物とわかった。中国の許洪新氏によると、法政大学の本科に1912年再入学し4年コースを履修、1916年7月に卒業したようだ。

上海に渡った後のピンルーの動きは1931年まで飛ぶ(2009年8月追記:1917年から1931年に上海に居を定めるまでは、検察官としての父親の転勤に付き添って転校を繰り返していたようだ)。図画時報(EASTERN TIMES PHOTO SUPPLEMENT)1931年3月号の一面に、大きな写真で、新劇の主役を務めるピンルーが写っていた。彼女は女優を目指していた可能性がある。

番組では1933年9月、民光中学の中学6年(高校3年)に19才になって編入したとしている。この民光中学は、蒋介石国民党の地下組織、CC団の経営する学校らしい。1934年、父親の転勤などもあってピンルーは一旦学校を休学したようだが、入れ違いのように、当時CC団の重要メンバーだった丁黙邨(ていもくそん ティンモートン)が理事長として赴任してきたようだ。

番組では、CC団の名前は陳立夫、陳果夫の頭文字を取って付けたと語っていたが、これはよくある間違いで、実際は、国民党中央執行委員会調査統計局の前身である中央倶楽部、を英語で書いたCentral Clubの略である(岩谷将著「蘭衣社・CC団・情報戦」より)

翌1935年1月、テンエツが上海第二法院主席検察官に任命され上海に戻ってきた。家族でフランス租界の万宜坊にあるアパートメントに住むこととなった。ピンルーは民光中学に復学したが、その前に丁黙邨は民光中学を退職していたようだ。つまりピンルーと丁黙邨は民光中学ではすれ違い、顔見知りではなかった、ということが言いたいようだ。

このことは1939年の丁黙邨暗殺未遂事件に微妙にからんでいる。これまでの定説では、学校で顔見知りだったことを利用して、ピンルーが丁黙邨に偶然街角で再会、それをきっかけに丁黙邨の秘書に収まり、暗殺の機会をうかがう、と言うストーリーである。

晴氣の「謀略の上海」では、ピンルーはCC団加入後、丁黙邨の下でスパイとして教育を受けたとある。どうなのだろうか。そもそも学校で重なっていなければ無理であろう。

2009年8月15日追記:丁黙邨は自分が被告となった漢奸裁判で、民光中学校の校長の時に、テンピンルーを知っていたかと問われ、「学生は非常に大勢いたので知らなかった」と答弁している。一方李士群が言うには、ピンルーは丁黙邨のことを知っていたとある「審判丁黙邨筆録」より

1936年2月、上海法政学院に入学。もし番組の言うように1914年5月生まれだとするとピンルーが21才のときだ。在学中に学校の先輩、嵇希宗(けいきしゅう)にCC団入りを勧められ、その傘下に入ったようだ。しかし、ピンルーや家族が日系人としていじめや差別にあってきた実態については今回の番組では一切語られることは無かった。この辺は中国側のスタンスと一緒で、中国側では一切語られない部分だ。中国側にとって、抗日の英雄であるピンルーが同じ抗日中国人からいじめや差別にあっていたことは矛盾となるため、メディアには出て来ないのだ。

さらには、戦後になってまで、母親木村はなには執拗な反日的攻撃があったようである。この辺の国籍に基づく差別に関して、中国人は強く反省をすべきである。

2008年7月に日本テレビで放送された「女たちの中国 第二弾」では、ピンルーに対するいじめの実態をピンルーの甥にあたる鄭国基氏がインタビューで証言していた。証言といっても、鄭国基氏とピンルーの年齢差から、おそらく叔母つまりピンルーの母親からの伝聞なのだろう。その鄭国基氏に今回再びインタビューしているのだが、今回はそれは取り上げなかった、あるいはインタビューのポイントとはしなかったようだ。このように、日中ハーフとしての立場と、そこから生み出されるパーソナリティをピンルーから消し去ると、中国側の一般的な見方、つまりは単純な抗日烈士となる。

そうじゃないと思う。彼女には日中ハーフだからゆえの、彼女だけの特別な動機があったと私は思っている。この辺は私の歴史への見立てと大きく食い違う部分である。ここが抜け去るとピンルーのパーソナリティの半分はごっそりと抜け落ちるはずだ。

番組では近衛文隆の愛人になっていたという説?を否定するために、ピンルーの婚約者とみられる男性の写真と手紙が出された。この婚約者とされる王漢勲という男性もCCTVでは紹介されていた。しかし、そもそも文隆がピンルーを愛人にしていたという説はどこから出てくるのだろうか。私はまったく見たことがない。ちなみに、文隆とのつきあいが本気だった、というストーリーがあり、これは西木氏のノンフィクションノベル「夢顔さんによろしく」で出てくる説である。この部分は小説家の思い入れであり、西木氏の洞察力、人間力から絞り出されてきた歴史への見立てである。派手に遊んだ、というのは文隆の米国留学時の生活を見るとたしかに類推されるものの、文隆にしてみたら、小野寺機関と歩調を合わせながら真剣に日中和平に役立ちたいという思いの中での交流でもあったろう。文隆がピンルーを単なる愛人にしようという意図があったとは思えない。

ピンルーが文隆に近づいていった目的は不明である。単純に類推するなら、前首相を父に持つ文隆からの情報入手、となる。しかし、東亜同文書院で文隆の相談相手だった小竹教授によれば、文隆とピンルーの交際は、ピンルーが工作員であったということは無関係だった、ということだ。小竹氏が「近衛文隆追悼集」で回想するピンルーの言葉は、

「私は母が日本人なので日本が大好きであり、もっと日本語を習い、日本のりっぱな人と交際してみたいのです。近衛さんと交際するのを許してほしい」

である。また小竹氏は、

「彼女がスパイであり、何か目的を持って文隆さんに近づこうとしたのだとしても、何の効果も得られるはずがなく、また実際に何の関係もなかったのであるが」

とも記述している。意味の取り方がむずかしいが、「ピンルーが地下工作行為を文隆に行なってもなんの成果も得られないはずだ。実際に、ピンルーと文隆の交際と、ピンルーの地下工作員としての立場は無関係であった」という意味かと思う。「ピンルーと文隆の交際関係は無かった」という意味にとると、文隆が手紙に、「東亜同文書院の運動会に美人の一支那女性を誘っていともねんごろなことろを見せ付けた」と書いているその相手は誰だったのか?となる。小竹教授から、「見知らぬ中国人との交際をしないよう」言われていた文隆が、ねんごろな仲になった女性は、小竹教授に交際を許され、また、憲兵隊が身元調査まで開始したピンルー以外にはいないと類推するのが自然ではないだろうか。「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」を参照

この番組で私が一番収穫だったのは、花野吉平の発見である。ピンルーの妹、鄭天如さんの証言によると、反戦和平派だった日本特務部思想第一班の花野吉平と近衛文隆はピンルーをめぐって恋がたきだった可能性も出てきた。天如さんは、「花野さんは、けっこう姉のことが好きだったと思います」と、微妙な発言をしている。戦後の漢奸裁判で丁黙邨は、「花野とピンルーは親友の仲だった」、と弁論しているようだ。この反戦和平派、花野の発見によって、私の中でピンルーの活動内容の地平が大きく開けた。これはおいおい別の記事とする。

番組では、ピンルーの婚約者と言われる空軍の王漢勲との手紙のやりとりが少し映った。つまり堅いちぎりを結んだ婚約者がいたのだから、他の男性との関係はありえない、と思わせるシナリオになっていた。王漢勲は、1944年8月7日、湖南省衡山(こうざん)で墜落事故により戦死しまったのだが、1937年8月の上海事変を皮切りに空軍中隊長として活躍、各地を転戦している。そして、番組ではなぜか取り上げなかったが、中国の歴史家、許洪新氏によれば1939年春の手紙で王漢勲がピンルーに香港で結婚をしようと申し込んだが、ピンルーは「抗日戦争が成功裏に終わるまでは・・・」と婚約を延期していた。ちなみに松崎啓次の「上海人文記」 によると、1939年春頃、ピンルーは蒋介石国民党側の恋人からの手紙に答えず、別れたあと、日本人と交際していたことが示唆されている。

第二法院の、主席検察官である父テンエツに対し、命を脅かすような脅迫が丁黙邨からピンルーに対してあったようだ。この辺も多くの中国語サイトで書かれている。日本側の特務はテンエツを親日側に取り込もうと必死だった。特務が誘いに来るたび、母親木村はなが、夫は病気なので、と追い返していたようだ。テンエツは1943年にがんで死亡している。ピンルーを無くしたショックで元々悪かった体調を崩していったのかもしれない。

番組によると、脅迫を受けている父親を守るため、ピンルーは丁黙邨を抹殺する気持ちが芽生え、丁黙邨の秘書の立場を受け入れ、そこで暗殺のチャンスを狙ったというストーリーにしていた。蘭衣社あるいはCC団による組織立った指示では無かったということだろうか。依然として謎が残る。この一連の流れにおける番組の意図は、張愛玲の「色 戒」およびそれを原作とする映画「ラスト コーション」での主人公ワンチアチが色情に流されてしまった描き方、そしてまた、日本語の文献に多い、ピンルーをあばずれ女と描く部分を明確に否定するためと思われる。

さて、ここからは辛口になるがご容赦願いたい。ラストでの母親木村はなと、父親テンエツ、そしてピンルーとの間のすれ違い、ここの描き方には悲しいものがあった。父親とピンルー二人ペアになって緊密に連携して抗日活動をし、日本人の母親だけがそれを知らなかったとあった。これではまさに「日中戦のはざまで 木村はなの悲劇」である。冗談でも皮肉でもない。母親だけが家族で浮いた存在だったのだろうか。母親は日本人だからという理由で、周囲の浅ましき中国人から反日攻撃されるだけでなく、家族からさえも信用されていなかったのだろうか。

「まさか」 と思う。何を根拠にこんな描き方をしたのか。私は木村はなとピンルーは一体だったと見ている。むしろ母親のすすめがあって抗日組織に入ったと思っている。私が類推する母、木村はなの気持ちは、「日本軍よ、早く日本に帰ってください!」ということだと思う。この点については、ピンルーをはじめ家族が皆同じ思いだったはずだ。それでなければ、「国籍・国境は家族愛、家族の信頼より重い」ということ。ピンルー一家はそういう一家だったのだろうか。そこには非常に悲しいものがある。木村はなは、日中戦争勃発時に長男次男が日本での留学先で軟禁状態になったときに、単身日本に戻り、密航の形で中国に連れ戻し、長男をすぐに中国空軍に入隊させている。行動的な母親だったのだ。母親はピンルーの工作活動に対しても積極的な関与をしていたと私は類推する。

2010年3月10日追記:妹天如さんが、2009年9月21日と23日、女流作家杨莹(ヤンユイン)さんからのロングインタビューに答えて次のように言っている。

以下引用

郁華事件(注:郁華は裁判長で鄭鉞の仲間。76号に不利な判決を出して1939年11月23日暗殺された)が起きた後、お姉さんはお父さんに持ち札を出しました(注:自分の立場を明らかにしたということ)。もともと私のお父さんは以前は、私のお姉さんに対してとても良く思ってなかった。私はなぜかわからなかった。お父さんは娘がなにか事情を隠していると感じて、彼女に対してとても厳しかった。この後の2人の感情はとても良くなりました。お父さんがお姉さんに関係する事情を知ったためです。

引用終わり

このインタビューからは、決して父親とだけ緊密に連携してわけではなかったことがわかる。父親は1939年11月の郁華事件まではピンルーの地下活動をあまり知らなかったようだ。私はむしろ、母親の方がピンルーの地下活動を理解し、知っていたと推測している。それは夜学に通っていたピンルーと母親が昼間接っする時間の長さもあるし、女性同士の相談しやすさ、そして母親自身が持っていただろう反戦の思い、そして母親の親族、ピンルーから見たら日本人の叔父が上海で反戦活動をしており、その会議にピンルーが参加していたこと、などからの推測である。

また、天如さんは、読売テレビの番組のことにこう言及している。

以下引用

ある人が、日本で1つのドキュメンタリーを製作しました。彼らは私の家に来て、私とほんのちょっと話しました。私は、服が間違っている、時間が間違っている、話している態度が間違っていると話して反対しました。あなた達はテレビを製作する上できっと私の同意を得るたいのでしょうと言いました。撮影結果は私は見ていません。私の友達が見て、私が言った多くの情報がありました、と教えてくれました。

引用終わり

番組が参考図書にあげていた「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」にはこういう記述がある。ピンルーの処刑に立ち会った林秀澄の言葉だ。「日本人と中国人の合いの子で、それでものすごく学生時代からミス上海などと言われておった美人でして、母親が日本人であるばかりにやはり抗日運動に走らざるを得なかったものと思います。そういうようなことから抗日運動にも足を踏み込んでおったのを、小野寺機関で使っていらっしゃったんです。」 

そしてまた、番組のせりふにも一部そのまま使われていた松崎啓次の「上海人文記」には、ピンルーや李香蘭の友人でもあった映画人、劉吶鴎(りゅうとつおう)の言葉で、このようなことが書いてある。「彼女が日中の混血児であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求をしたんだ。彼女に維新政府側(注:親日政府)のめぼしい人たちを暗殺する手引きを強いたのだ」

このあたりに、ピンルーが抗日運動に傾斜していく、そして丁黙邨暗殺に向かわざるをえなかったヒントがあったのではないか。

番組は全体的に女優の耿忠(こう ちゅう)さんの誠実な演技と進行が光った。万宜坊88番のピンルーの部屋の窓に向かう耿忠さんは、日中の平和を願うピンルーそのものだった。そしてエンディングの歌はピンルーに対しての鎮魂歌に聞こえた。しかし、ピンルーの描き方が中国側の従来からの見方から一歩も出ていないこと、そしてなによりも母親木村はなに関しては、あまりに家族と距離が開きすぎていた点は、全く納得できない。情報提供という意味で素晴らしい番組だっただけに、とても残念なエンディングであった。

テンピンルーについての記事はこちらをご覧下さい。←こちらをクリック。現時点で最も真実に近いテンピンルーを記述しているつもりです。

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2008年8月 9日 (土)

上海人文記 5

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より、抜粋引用を続ける。

戴小姐は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名でありここでは本名で表記する。また丁黙邨は原作では馮という姓になっている。

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劉吶鴎(りゅうとつおう)は、真っ暗なジェスフィールド公園のベンチに座って、静かにしゃべり続ける。

「丁黙邨が撃たれたその日、ピンルーは丁黙邨と二人で、静安寺路の時計屋へ行ったそうだ。丁黙邨は彼女の誕生日に時計を贈り物にしようと言うのだ。時計はあったが、少し鎖を修繕してほしいので、ピンルーだけ残って、丁黙邨が外へ出た。その時テロの人たちが丁黙邨を目がけて撃ったのだ。丁黙邨はとっさの間に傷つきながら逃れ去った。工部局や維新政府側では、ピンルーを参考人として連行しようとする。彼女はうるささに、無我夢中で逃げ出したのだ。家へは帰らずに、あっちの友人、こっちの知人と、廻ったらしい。そのうちにもう政府側でも、工部局でも、彼女が重慶側の手先として、丁黙邨を撃ったことに決めてしまったらしい。彼女はやぶれかぶれになった。

そして昔の恋人の所へ飛び込んだのだ。が、政府側の追求の手は激しく、今やその恋人と二人で、隠れ家に窮して大澤さんのところへ救いを求めに来た、というのだ。僕は彼女の言葉を必ずしも全部信用することは出来ない。が、全部嘘だとも思わない。なぜならば、国旗を胸の底に持っていない悲しい人の気持ちを、僕は知っているからだ。僕は台湾人だ。しかし、台湾や日本で育った幼少の頃をのぞいて、ずっとこの上海に住んでいる。僕は日本人に会って、話の中で、台湾で生まれたと言うと、必ずある種の軽蔑を感じる。

もちろん、中国人たちも僕のような日本人くさい中国人を特殊な目で見ていることを知っている。こうした者が、はっきりと国旗を背負った人たちの間に立った場合、どんな風に混乱し、どんな風に二つの反対の側から猜疑心を持って見られるかがはっきり僕はわかる。ピンルーの場合も、最初はきっといい意図と、正しい考えを持っていたのだろう。しかもかわいそうに、維新政府側から、テロ犯人として狙われる運命になった。

Srp_cover_2 大澤さんは、彼女と彼女の恋人を、維新政府の人に手渡さざるを得ないことを説明してやってくれと言う。もちろん、大澤さんは、あの人の出来る限りの力を尽くして、彼女のために助命運動をして下さるだろうが、一旦政府の手に渡れば、彼女の運命はもう決定的だ。なぜ僕がその宣告をしなければならないのだ。僕は大澤さんの家を逃げ出してきた。が、考えてみると彼女に説明してやって決心させるのが、あるいは一番よかったのかもしれない」

松崎は、黙って聞いていた。背筋を冷たいものが通りすぎる思いであった。とうとう彼の見た夢が正夢になる日が来たのだ。劉吶鴎がピンルーに逢う。それは何かの不吉の前兆ではないか。劉君をできるだけ早く彼女から切り離さなければならない。松崎は立ち上がると同時に、夜更けの街を、大澤君の住むフランスタウンへと急いだ。

Srp_instrumentals_3 1940年の初夏、松崎は日本にいた。上海で妻を失って、松崎は放心したようになって、日本へ帰ってきた。その夜の出来事を、松崎は忘れることはできなかった。妻は次第にかすかになっていく呼吸の中で、低く松崎の名を呼んだ。松崎は彼女のベッドの脇に座った。彼女は眠り続けている。酸素吸入と、数本のカンフルを続ける間にだが、彼女の息は絶えた。その夜中を、松崎はまんじりともせず彼女を見守っていた。奇跡を信じて。彼女の呼吸がもう一度戻ってくる奇跡を信じて。

夜が明けた。彼女は死んでいる。霊柩車に載せた彼女の身体の上に、白い花を置いた。車は動き出した。松崎はなんと言うことなく空を見上げた。青い空に、大きな、大きな日本の国旗と、青天白日旗が揺れている。そうだ、今日は4月26日。南京では汪精衛氏を首班とする、新中央政府が樹立される日だ。そして中華映画のスタッフが、その新しい中国の誕生を記録すべく、活躍する日だ。フユノは、その前日に死んだのだ。

松崎は日本に帰った。幾年振りで新緑の故郷、京都を眺めたことだろう。緑の淀川堤、加茂の河原、葵の咲く祭りの日などを、うつつの様に松崎は過ごした。

6月のはじめであったろうか、松崎は都ホテルから電話で呼び出された。

「ハロー ミスター マツザキ?」

「イエス スピーキング」

「ミスター マツザキ ハウドゥユードゥ?」

忘れていた支那の声だ。誰だろう。思い出した。穆時英(ぼくじえい)だ。どうして京都に来たのだろうか。松崎は都ホテルに駆けつけた。彼は、陳公博(ちんこうはく)、褚民誼(ちょみんぎ)、林柏生(りんはくせい)らの答礼使節団の一行に加わって、東京に来た帰途を松崎に会うため、一旦京都に残ったのだという。

穆時英は、松崎達と仕事を共にするため、四ヶ月ばかり前に香港からやって来た。穆時英、妻フユノらは、一つの文学グループを作るはずであった。フユノは、穆時英の絢爛たる文章を特別好んでいたし、穆時英もまた、松崎達の所へやってきては、日本文学の最近の傾向等を、フユノに尋ねるなどしていた。

松崎は穆時英を連れて、ケーブルカーに乗り叡山を越えた。彼は言った。

「ここは支那の農村に似た村だね」

二人は坂本の田舎道を歩き、蒸気船に乗って琵琶湖を渡った。船の上からの湖は、彼らに杭州の西湖を思わせた。夕暮れ、二人は琵琶湖ホテルのロビーにいた。ホテルのガラス越しに琵琶湖が見えた。湖の向こうに大津の灯りがまぶしく、空には星が一面に。風が時々音をたてて窓を打った。


穆時英も松崎も支那を考えていた。二人は期せずして、お互いに知人であるあの人、この人の噂を次々と繰り返した。穆時英はふと思いついたように話題を転じて語り出した。

Srp_instrumentals_4 「僕は最近、南京のある友達から素晴らしい話を聞いたんだ。いつか暇ができたらこれをテーマに小説を書こうかと思う」 

「ある晴れた日の朝、中山路から続いたポプラの並木道を、一台の自動車が走っていく。自動車の中に、女を真ん中にして男が二人、女は素晴らしい美人である。二人の男は彼女を銃殺するために連れて行くのだ。もう南京の街はずっと後ろに消えてしまった。刑場も近いだろう。その時、女は初めて男たちに口を開いた。「ね、ご覧なさい、私の顔を。綺麗でしょう。私はこの顔のためにとても苦労したのです。でも私は私の顔を、私の心と同じ程に誇っています。私が撃たれる時、どうか兵卒たちに、この顔を狙わないように命令してください」その女が、それは重慶側のスパイだったようだが、そう言って殺されたんだよ。ね、いい話だろう」

Shanghai_reinterpretations 「その人の名前を知っているかい?」

松崎は何気なく尋ねた。

「ううん、知らない」

「そう・・・」

その女はピンルーだったのだろうか? 


「まさか」


松崎は迷いつつ星空を仰いだ。松崎は、又大きな青天白日旗が風に揺られているのを見た。

「テンピンルー、この美しい少女ももうこの世にはいないのではあるまいか・・・」


終わり

注:原文を元に一部省略、わかりやすい表現に変更した部分があります。引用する場合は必ず原文を参照ください。国会図書館で閲覧、複写できます。

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上海人文記 4

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より、抜粋引用を続ける。

戴小姐は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名でありここでは本名で表記する。また丁黙邨は原作では馮という姓になっている。

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中華映画(注:中華電影)の事務所は、バンドから南京路を左に折れたビジネスの中心地、江西路の四つ角、ハミルトンハウス(下の写真)の3階に設けられた。その窓の向かいは、メトロポールホテル。筋向かいは工部局。かつて誰かが、上海を制する者は支那を制す、と言ったが、このビジネスの中心地に事務所を選んだ松崎たちは、重慶から華僑にいたる、全支那の映画の王者になる意気込みだった。

Photo_3 その事務所の一室に、松崎と劉吶鴎(りゅうとつおう)はいつも向かい合って仕事をしていた。今は、日本からもエキスパートが集まったし、支那人の従業員達も仕事に慣れたし、松崎達の仕事は比較的暇で、時には退屈を感じる時間さえもあるくらいになった。

そんな日のある朝、松崎は劉吶鴎に言った。

「僕は、昨夜君の夢を見たんだよ。君の家へ鄭小姐が逃げ込んで来たのだ。彼女は非常に優雅な様子で、落ち着いてはいるが、不思議だね。僕には彼女が逃げ込んで来たのが分かるのだ。が、君は知らない。彼女はしかるべき理由を述べて、この二三日、君の家に泊めてくれと言うのだ。君は彼女を家の中に招じ入れるが、僕は彼女を入れたら君に危険が迫ることを知っている。が、それを口に出せない。君は彼女と余念なく世間話をしている。僕は君に声をかけたいのだ。注意してやりたいのだ。心配でたまらないのだ。が、どうにもならない。それで僕は目が覚めたんだ。変な夢だろう」

劉君はポカンとしている。彼は松崎がどうして突然鄭小姐の話など持ち出したのかわからないのであろう。

松崎がこんな夢をみたのは原因がある。その前日、彼は虹口(ホンキュウ)にある同仁病院へ、撃たれた丁君を見舞いに行ったのだ。丁君は撃たれたけれど、奇跡的に生きていた。近頃の狙撃犯人は、大抵マシンガンを使用するので、狙撃されるということは、すなわち、死を意味することであるのに、どうしたことか丁君は助かった。彼は青ざめてはいたが、もう三週間もすれば起き上がれる。起き上がったら俺は撃ったやつをきっと逮捕してみせる、と言っていた」

松崎は、丁黙邨にその犯人は誰か、などと尋ねはしなかった。しかし彼の犯人の事を語る時の目の鋭さが、凄みを帯びて憎悪にゆがんでいるのを見て、松崎は犯人はやはり鄭小姐を意味しているのに違いないと思った。

松崎は帰りの道で警察部の全機構を動かして懸命に追いかける丁君と、租界の裏町から裏町へ身を隠して行く鄭小姐の劇的な追っかけを空想していた。松崎はガーデンブリッジを渡って、南京路の人混みの中を、うなだれながら、鄭小姐の明日の運命について考え続けた。頭を上げると、永安公司の高い塔のそばに三日月がかかって、どこからともなく、芝居のドラが激しく鳴っていた。

かたくなに 泣くときもなく すぎきぬれ ギャンブルハウス賑わう街に(富岡ふゆの 注:松崎の妻)

1939年の秋になっていた。その暑い夏に、越界路の片隅に、松崎は新聞で見つけたアパートを、法外ともいえる権利金を払って、ドイツ人から買い取った。そして妻と移り住んだ。

楡の木も 空なる雲も かささぎも われを見知らぬ街にきて住む(富岡ふゆの)

その二ヶ月のうちに、妻も上海の生活に慣れていた。その夜も妻は、いつの間にか友達になったのか、奥さん達と一緒に食事をするために、虹口へ出かけて留守であった。

松崎はぼんやりと窓から外を眺めていた。

向かいは支那特有の里になっていて、四階建ての洋館がずらりと並んでおり、どの窓からも明るく灯りがともり、ラジオが流れていた。松崎は、あわい旅愁を感じた。

ベルが鳴った。訪問客だ。劉君であった。ドアを開けて入ってきた劉君の顔が、いつになくソワソワしている。

「一人?」

と松崎は聞いた。

「うん」

「奥さんは?」

「留守」

「そお」

と言いながら、彼は無意識に、ボーイの持ってきた紅茶を飲んだ。

黙っている。

が、彼の目がキョロキョロしている様子で、何か彼が苦しい事を考えているのを松崎は感じる。が、松崎も黙って紅茶を飲んだ。


ラジオが支那語で、近衛声明の意義を説明している。多分、大上海放送局の放送であろうか。上海には三十からの放送局があって、どれもが勝手なプログラムで、勝手な放送をする。が、近頃では、どの放送も日本、リーベン、ジャパン、ヤポーネ、ヤパーン、などなどの言葉が、良きにつけ悪しきにつけ、聞こえるようになった。もう支那では、日本を問題にせずには何もできなくなったのだ。


松崎は紅茶を飲み干した。劉君も飲み干した。松崎は彼を見る。彼も松崎を見る。



「どうしたの?」

松崎は尋ねた。

彼は立ち上がりながら、



「散歩しないか」

と言った。

「うん、いいよ」

そして二人は街に出た。ジェスフィールド公園の近くにたくさんの小さなキャバレーができていた。そのキャバレーの隣に大きな賭博場が、ネオンサインを点じて開かれた。ハリウッドという名前で。劉吶鴎は黙々とこの街を歩いていく。松崎も黙ってついていく。彼は一軒のキャバレーに入る。そしてハイボールを注文する。が、飲むというのではないのだ。ただ音楽を聴きながらぼんやりと突っ立ている。

松崎も所在なさに、スタンドの横のガチャンコへ行って、五圓札を十銭銀貨に換えて、放り込み、放り込み、ガチャンコをやる。

と、劉君は肩を叩く。

「出よう」

そして、また次のキャバレーに行く。ハイボールの注文だ。何軒こうしてキャバレーを回ったろうか。最後に松崎達は、ハリウッドの中にいた。劉君はルーレットの前に突っ立っていた。ルーレットが廻るたびに、彼は五拾圓、百圓、二百圓と賭けていく。が、一度も勝たない。見かねた松崎が、

「おい、行こうよ」

と言うと、

「うん、うん」

と生返事して、また札束を取り出す。人間は苦しいときには、時々別の苦しいことでその苦しさを紛らわそうとする。今劉君はこんな気持ちなのだろう。ルーレットに負けて、お金を失うことで、彼は別の悲しみをも失おうとしているのであろうか。


Photo_4 夜更けであった。松崎と劉吶鴎は真っ暗なジェスフィールド公園のベンチに腰掛けていた。ここの公園の門番に、コミッションを一ドルやって、無理矢理公園に入ってきたのだ。静かなところで、松崎は劉吶鴎の苦しい原因を聞いてやらねばならない。

「今日、僕はピンルーに会ったんだ」

「どこで?」

「大澤さんの家。彼女と彼女の恋人。ほら、いつか君とアルカディアで見た、あの若い人ね」

「あの人?」

やっぱりピンルーの恋人は重慶側(注:蒋介石国民党側)にあったのだ。それにしても、ピンルーがどうして大澤君のところへなど行ったのだろう。大澤君は企画院から支那を研究するために送られてきた学究肌の人(注:報道部所属)。日本の軍当局や、政府の要人達の中にもたくさんの知己を持っている松崎の親友であるが、ピンルーと知り合いだったとは知らなかった。

「ピンルーは何しに行ったの?大澤君の家へ」

「逃げ込んだんだ。大澤さんから電話で、すぐ僕に来てくれと言うので飛んでいった。彼女のおぼつかない日本語と、大澤さんのおぼつかない支那語ではとうてい意志が通じないので、僕に通訳してくれと言うんだ。僕はまず彼女に事情を聞いた。彼女と一緒にいる青年は重慶側の組織に属している。彼と彼女の恋愛関係は相当昔からだ。彼の組織の中でも知られていたらしい。彼女が日支の混血であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求を提出したんだ。

彼女に維新政府側のめぼしい人達を暗殺する手引きを・・・強いたのだ。

もちろん彼女はその要求を拒絶した。

男は組織のためには、女と別れても仕方がないと決心したらしい。彼女もまた母の国のために恋人と別れることを決心したのであろう。そこへ現れたのが丁黙邨だ。丁黙邨は日本の留学生だったし、もちろん維新政府のほうで働いている人だったから、もし彼女が彼を愛し、彼も彼女を愛していたなら、それで問題は解決したはずだ。

が、一方、丁黙邨は重慶側への工作のために彼女を利用しようとした。彼女はかわいそうに、昔の恋人や昔の仲間たちに会いに行かされたのだ。そして逆に彼らの側では、彼女が丁黙邨と親しいのを知って、彼女をおとりにして丁黙邨をおびき出そうとする。彼女は新しい恋人と、古い恋人と、父の国と、母の国と、敵と敵との間でもみくちゃにされ、精神が分裂してしまったのだ」

上海人文記 5に続く

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上海人文記 3

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より、抜粋引用を続ける。

戴小姐は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名でありここでは本名で表記する。また、ここで丁黙邨とした人物は、原作では馮という姓になっている。

引用開始

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松崎達の映画の会社は、興亜院や、軍や、維新政府(注:親日政権)と緊密な連絡が必要であった。目的を同じくする新聞の工作はどうなっているか。放送の方面はどうであろうか。文芸の方面はどうであろうか。松崎達は各方面の情報を交換し、激励の言葉を交わすと共に、早く立派な再組織を作り上げようと競争した。したがって、いままで租界の片隅に沈んでいた松崎達の生活も、仕事の発展都共に、波紋のように広がっていった。

Photo_6 ある夜、松崎は維新政府の人たちに、四川菜館の錦江酒家(注:錦江飯店)に招かれた。今では錦江は、日本人の間に上海名物の一つとさえなっている。四川料理の最初に出る四皿の冷菜に初めて箸をつけた人は、一様に嘆声を漏らさずにはいられない程美味しいのだ。だから、今では上海を視察に来る人たちの最初の歓迎会は、ここで開くのが通例とさえなって来た。だからこの有名な国境道路であるエドワード路に近い、フランス租界のこの菜館は、本来ならば、日本人達があまり行きたがらない所ではあるが、時には、とんでもない部屋から安来節がもれる程、ポピュラーになってきた。が、当時はまだ、それほど人には知られていなかった。

維新政府の人がここを選んだのは、多分あまり大勢の人たちから日本人と知己である事を知られたくなかったからであろうか。


松崎は、招かれた時間に少し遅れて着いた。虹口から乗ったタクシーが、いやにガソリン臭く、ガタガタだと思ったら、南京路で故障して動かなくなったのだ。当時の虹口には、人があふれているので、ガタガタでもタキシー(注:原文のまま)の鼻息は荒く、なかなか乗せてはもらえなかった。

松崎は、錦江の指定された部屋へ、飛ぶようにして行った。支那式の宴会では、料理の献立が、招かれた者が全部揃わなければ、食事を始め難いように出来ている。いつだったか、松崎は別のレストランで、なにかの手違いでから集まりの悪い宴会に出くわしたことがある。招かれた人が集まらないので、八時になっても八時半になっても、食事は始まらないのだ。おなかが減っても、主人に気を兼ねて、誰も口に出さない。松崎はその時ほど、支那料理の不便さを見せられた事は未だかつてない。それ以後、支那料理の宴会に、松崎は決して遅れない事にした。

が、この日は、やむを得ず遅れてしまった。仕方がない。松崎は不得手の支那語で、弁解する言葉を、幾度か、口の中で暗唱しながら、部屋に飛び込んだ。

とたん、松崎は驚いて「あっ」と声に出そうとした。松崎を招いた丁黙邨(ていもくそん。原作では馮と仮名表記)の隣の席に飄然(ひょうぜん)と座っているのは、テンピンルーではないか。松崎は弁解の言葉も、なにもかも、忘れてしまって、呆然と立っていた。

丁黙邨は、ただ簡単に、見知らぬ人がいたので、松崎が上がってしまったのだと考えたのであろうか。彼女を紹介するために立ち上がった。

「李小姐(リーシャオチェ)です」

「李小姐!?」

松崎はオウム返しに繰り返して彼女の顔を見た。その白い肌、そのきれの長い細い目、それはまぎれもない、テンピンルーである。彼女は微笑さえ浮かべて、初対面のように立ち上がって、

「我是李小姐(ウォ シー リーシャオチェ)」(私はリーです)

と平然と名乗るではないか。


松崎は、やっと自分を取り戻した。彼は自分も彼女に対し初対面であらねばならない。

「卑姓松崎(ピーシー スンチー)」

松崎は名乗って、彼女と握手した。そこには、ほかにもう二人の男と、二人の女がいた。丁黙邨の友人達であったが、どの人も松崎には本当に初めての人たちであった。

ピンルーはなぜ変名しなければならないのだろう。本当の鄭小姐は敵であろうか。味方であろうか。丁黙邨は彼女の人となりを知っているのだろうか。食事の間、松崎は何を考えていた思い出せない。皆が立ち上がるので、松崎は、ハッと我に返った。もうテーブルが終わった。

「どこへ行きましょう?」・・・丁黙邨君は、若いとき早稲田にいただけに、日本語で得意である。多分彼が維新政府の重要なポストに就いたのも、彼の語学が、大きく物を言ったからであろう。

「さぁ・・・」と松崎は困って、ピンルーの方を見た。彼女は松崎の視線を避けるようにして、早口に広東語で丁君につぶやいた。

「大東へ行きましょうよ。あそこが一番気楽で、日本の人なんかと行くには丁度よ」

北京語や、上海語の、理解出来る人の前で、支那人が広東語で話をするときは、大抵、我々に知らせたくない話である。幸か不幸か、松崎は、その程度には広東語も聞けば分かるのであった。

Photo_5 大東舞跳・・・それは上海第一のデパート、永安公司の三階にあるダンスホール。永安公司は、一階、二階、三階は、もちろん立派なデパートである。が、その他の何階かは寄席、映画、剣劇、ホテル、飯屋などなど、雑然として、大阪の千日前にでも例えられようか、したがって、そこにある大東舞跳は、三流ダンスホールである。

なぜ、彼女はこんな所を選んだのだろう。そして、その選定を、わざわざ広東語で話さねばならないのだろう。松崎は漠然とした不安を感じて、この菜館を出るに際して、知られないように小さな紙片に行き先を書きこんで、劉君へ電話を依頼した。確かに、松崎は彼女に対しては特別神経質になっていた。



大東舞跳を振り出しに、何軒キャバレーを渡り歩いたろうか。もう相当、酔って疲れているはずだ。午前3時である。

だのに、彼らはまだ、リトルクラブにいた。そこは、各国の水兵さん達が、酔っぱらって踊る小さなホール。時には恋のトラブルが、通じぬ国の言葉と、言葉で、喧嘩をおっ始めさせたり、そしてそれが、水兵さん達であると、即刻、国際問題となって取り上げられたり・・・、上海の権化のようなキャバレーである。こうしたところへは、メンツを重んじる支那の淑女はあまり近づかないはずであるが、ここも又、鄭小姐の指定で我々は行ったのだ。

酔って回る数々のキャバレーや、タキシーの中の様子で、丁黙邨君は、鄭小姐に夢中であることがわかる。鄭小姐も、もちろん、彼を愛しているのだろう。支那の女が恋人といるとき、よくみかけるあの大胆な、男に身をもたせかける・・・それを、松崎は大抵の場合、好ましく見るのであるが、彼女と丁君の場合は、なにか不気味なものを感じさせられた。

しかし、丁君は、警務局で働いている人だ。もちろん彼は、彼自身の方法で、身の安全を保証しているであろうし、また彼は、いつもだらしなく座っているように見えるが、眼光は鋭く、頭も機敏で頼もしい男だ。松崎は、彼を信頼していればいいのだと思った。が、しかし、松崎にも、すでに劉君が心配して、ボデーガードを二人、それとなく送って置いてくれた。彼らは松崎とつかず離れず、別のテーブルで、お茶を飲んだり、踊ったりしている。変わったことは何も起こらないであろう。

松崎は、鄭小姐と踊った。この数時間、彼女はあくまで李小姐であり、松崎とは初対面であった。音楽はタンゴであった。松崎は彼女に言った。

「你、同不同日本語?(二ィ、トンプートンリーベングァ?)あなたは日本語を話すのですか」

「ワタシ?スコシ。松崎先生、アタシ、丁ヲアイシテル。アノヒト、アタシ、ニホン、トモダチアル、シラナイ。ゴメンナサイ」

松崎は、うなずいた。うなずかざるを得ない。

この複雑に見える手管も、ただ恋がさせる術であろうか。

音楽が終わった。彼らは席に戻った。と、松崎は、彼のイスを引こうとして、彼女のハンドバッグを、イスから落としてしまった。

「ゴトン」

重く、にぶい音を立てて、そのハンドバッグは松崎の靴の上に落ちた。松崎はその重さを足に感じた。ピストルだ。ピストルがハンドバッグの中にあるに違いない。松崎はハンドバッグを取り上げようとした。が、彼女の手の方が素早かった。彼女は、ハンドバッグを拾い上げて、何気なく、コンパクトと口紅を取り出した。

鄭小姐とピストル!想像できるだろうか。しかし、あの重さと感じは、ピストルのそれ以外ではあり得ない。彼女がかつて、劉君に言ったという

「あたし、明日殺されるかもしれない」

という言葉を、ふと思い出した。上海では、恋の駆け引きのために、女の子までがピストルを用意しなければならないのだろうか。

1939年の6月になった。上海に、また夏が来た。プラタナスの並木道に、太陽がかっと暑く輝き始めた。もう苦しい上海特有の夏が来た。その頃、中華映画社は、やっと設立の運びに到達した。その創立総会は、南京で、日支の要人達の出席のもとに華々しく行われるはずであった。××日の朝、上海から会社関係の一同が急行列車に乗った。

興亜院の文化部で、この会社の設立の産婆約を続けられた、T中佐、M調査官、軍報道部長のM大佐(注:馬渕大佐と思われる)、そして満州からわざわざ出席された、根岸寛一氏、その他、中華映画の専務に就任する川喜多長政氏、等々。それぞれの顔は、新しきものの誕生という期待に輝いていた。が、それにも増した感慨と喜びに震えて、松崎達は列車の一隅に固まっていた。

その四名・・・、即、劉燦波(劉吶鴎)、黄天始、黄謙、そして松崎である。

汽車は、南京に向かって発車した。車中の半数は日本人、半数は支那人。そして車掌さんは日本人。食堂の女の子の支那人達は片言の日本語を話す。事変前と代わって、日本人の進出の激しさが、彼ら、松崎と一緒に工作を続けた支那人達には、全く奇異に思われるのであった。なぜならば事変後、今度の旅行が初めて彼らにとって租界を出て、このコースを南京へ乗車する最初であった。上海事変勃発とともに、租界へ逃げ込んだ黄天始、留める兄を残して、再び相見ることはないだろうと、香港から重慶へ飛んだ、黄謙、かつて彼らは、蒋介石のもとで抗日のために働いたそうそうたる国民党員であった。

彼らは、当時、幾度かこのコースを上海、南京と往復したことであろう。そして彼らの鞄の中には多くの映画のプラン。そのプランは蒋介石政権の限りなき発展をことほぎ、同時に抗日のための機関銃を意味したかも知れない。彼らは南京で司令を仰ぎ、上海で実行する幾百の闘士と共に、胸一杯の闘志をもって、この汽車に乗っていたであろう。

しかし、黄天始も、黄謙も、劉吶鴎の呼び出しに応じて、松崎達の仕事に加わった人たちだ。黄謙は、「農人の春」という文化映画で、ベルギー映画コンクールで第一席を得、またソビエトの映画会議に、支那を代表して派遣された人。黄天始は、映画配給のエキスパート。彼らのいずれも中華映画の中堅として立つ人たちであることもちろんである。

列車は、南京に向かって走っていた。ところどころに激戦の跡、歴然たる廃墟が見られた。重慶の国民政府に、辞表を叩きつけて、やっと二ヶ月前に飛行機で脱出してきた、黄謙の頭の中には、なにか未だに、清算しきれないものが残っているのだろう。彼はつぶやくように言った。

「上海事変が勃発して、いよいよ南京上海の交通が途絶するという最後の列車ね。それはものすごいものでした。みんなトランク一つ、身体一つで列車に飛び込んだのです。窓という窓から、列車の屋根まで、上海の租界に逃げ込む人たちであふれていました。私も女房と子供を、窓から列車に押し込んだのです。私はたった一人で、南京から、漢口へ、それから香港へ、そして重慶へ。重慶では私の兄貴が、と天始を見ながら、日本人と握手して仕事を始めたと言うので、大変いじめられたんです。でも私は・・・」

その時、劉君が、彼の感傷を奪おうと意図したのだろうか。

「だが、老黄!!君の今話した、同じコースを、すばらしく偉い人が後を追って走ってくるよ」

「誰?」

「汪精衛!周仏海!」

このギャグは、黄謙の感傷を、一度に吹き飛ばした。大声で皆笑った。

松崎は、劉君と、黄兄弟と、苦しかったが、今では楽しい思い出となった過ぎ去った日の工作を想起した。会社の誕生もうれしいが、さらに感じる大きな喜びは、苦しかった数々の日を通じて、敵と敵との中から選んだ信頼しうる友を得たことであった。言葉では言えなかったけど、目と目で、心と心で、血と血で、今日の喜びを、いついかなる時も忘れまい。その喜びを覚えている限り、我々は、この世の中で一番信頼しうる友達でいようではないか・・・。国境を越えて、私たちは相許す友を得たのだ。所謂「老朋友」を・・・。

汽車は、鎮江に着いた。黄天始が何気なく買った新聞に、

「租界にまたテロ。維新政府、警察部丁黙邨氏狙撃さる」

の文字があるではないか。

「丁君が撃たれた!」

「丁君が」

「なに、丁君が」

松崎は、思わず立ち上がった。犯人はテンピンルーに違いない。彼は直感した。彼女はついに重慶側のテロ団に加わったのだろうか。が、松崎はずっと黙っていた。

「彼女には日本人の血が交じっているのだ。私の直感は間違いかもしれない。いや、間違いに違いない」と思ったからだ。

引用終わり

さて、ブログ管理人にとって、松崎がなぜに、丁黙邨狙撃事件が1939年の6月にあったことにしているのだろう、という疑問が沸く。定説では1939年12月21日、クリスマスでにぎわう頃のできごとだ。また、丁黙邨は、警務部所属ではなく、実際は日本の憲兵隊の監督下にあった特工総部、有名なジェスフィールド76号のボスである。

上海人文記 4へ続く

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上海人文記 2

松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章より抜粋引用を続ける。

なお、戴志華は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名であり、ここでは本名で表記する。

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1938年の暮れも押しせまるころ、松崎は再び上海へ行き支那に日支合弁の映画会社設立の準備をせよ、と命令された。

正月、松崎はまた飛行機で上海に来た。わずか二ヶ月の不在に過ぎなかったけれど、虹口(ホンキュウ 日本人地区)方面の復興はものすごかった。

暗かった街には灯りがともり、閉じていた大戸は全て開かれ、商品があふれていた。松崎は思った。我々は今やハッキリと確信を持つ事ができた。・・・東亜新秩序は、虹口から細胞分裂のように発展していくことを。

恐らく支那という支那の重要都市、今や名人の囲碁のように、敵の死命をを制して、占領された重要都市は、虹口と等しく発展していく事であろう。

これらの都会に、映画を与えなければならない。これらの都会から、農村へ映画を浸透させてゆかなければならない。映画を通して、東亜の新秩序を教えなければならない。映画は東亜新秩序の進軍ラッパとならなければならない。

そして松崎達の忙しさは加速度的に加わっていった。東亜の新秩序に協力しうる支那映画が、毎月五本は必要である。いかにしてそれを獲得するか。製作するとすれば資金は?スタッフは?そして製作機構は?配給の組織は?常設館の復興は?映写機は?・・・問題はそれからそれへと発展していく。が、人手は足りなく、忙しさはさらに新しい忙しさを呼んだ。

が、ある日、松崎達は重大な結論に達した。虹口から渡った向こうには、新華、芸華、聯華(連華)等々の撮影所がある。そこでは抗日映画が作られている。・・・だが指導分子はすでに支那軍とともに奥地に遁走している。彼らを我々の影響下に引き入れ得るかいなか。いや、引き入れなければならない。

この結論は、松崎の親友、劉吶鴎を奮起せしめた。彼は遮二無二租界へ突撃していった。工作に工作の日が続いた。彼は租界のキャバレーにいた。彼はレストランにいた。ホテルにいた。撮影所にいた。劇場にいた。アヘン窟にいた。賭博場にいた。彼はどこにでもいた。そして、彼のいるところ、必ずめぼしい映画人がいたのだ。彼は彼らしいやり方で、次から次へ成功していった。だから松崎達は、ただじっと忍耐して、彼を待っていればよかった。

こうした日が続いて、彼ら疲れ果てていた。今夜は、素晴らしいご馳走でも食おうよ。・・・誰からともなく、声が挙がった。反対のあろうはずがない。

「好!(ハオ)」

「好!」

と彼らは立ち上がった。

ご馳走を食べるからには、と劉君はポケットから手帳を取り出した。電話をかけて、美しいお嬢さん達に同席してもらおうというのである。場所はアルカディア。時間は八時。フルドレスで現れようではないか、ということになった。

この帝政ロシアを思わせるキャバレーは、またロシア風の料理でも有名だ。キャビアもボルシチもウォッカも、すべて美味かった。劉君の呼び出した女たちは、上海語しか話せないので、どうにも松崎には間が持たなかったけれど、愛嬌のいい元気なお嬢さん達であった。

Paramount_shanghai 松崎たちは飲み、食べ、そして踊った。松崎はふと隣のテーブルを見た。そこに、女が二人、男が二人、お茶を飲みながら、ひそひそと話をしている。


「おやっ」


と、松崎は思わず声に出してしまった。ピンルーだ。テンピンルーではないか。彼女は、私たちの隣にいて、この我々の華やかなパーティに気づかないのだろうか?気づいたらどうして声をかけないのだろうか?不思議に思って、松崎は劉君を見た。


劉君は、もう松崎の気持ちを察していた。そして、彼の顔は、「今、何も言うな。後で説明する。ピンルーをあまり見てはいけない」と語っている。

松崎は、「分かった。分かった」という印にウォッカのコップを挙げて、「乾杯」と言った。みんなが乾杯した。そして松崎は彼女のことは忘れてしまった。

ここの音楽にしては珍しく、「You'll Surprise 」をホットなジャズで演奏し始めた。それを機に、みんなが立ち上がって踊った。で、松崎達のテーブルも、松崎と劉君だけが残された。劉君はするすると松崎のそばにやって来てつぶやいた。


Paramount_view 「ピンルー、すこし変だろう。こないだ、僕たちは大勢でパラマウント(写真左))へ踊りに行ったんだ。ピンルーも一緒にだよ。階段を昇ろうとすると、ある男がピンルーを呼び止めるんだ。振り返ったピンルーの顔といったら、その前の瞬間まで陽気だったあの人とはまるっきり違うんだ。蒼白だ。そして僕の腕を取って「ここにいてちょうだい。どこにも行かないで」と言うんだ。仕方なく僕だけ残った。そして二人の会話を聞くはめになったのさ」

「その様子では・・・、ピンルーには特別親しいボーイフレンドがいたらしい。恋人かもしれない(注:許洪新氏によるとピンルーの恋人は中国空軍の王漢勲と思われる。彼が1939年春、香港で結婚しようと手紙を書いたところ、ピンルーは「戦争が終ったら・・・」と決断を遅らせたようだ)。

彼は蒋介石の国民党と一緒に重慶に逃げたんだろう。それが一ヶ月くらい前に帰ってきて、ピンルーにとても会いたがっているというのだ。「電話をかけたり、手紙を出したり、使いをやったりするのに、なぜあなたはあの人に会ってやらないのです!」とその男が言ってるんだ。様子では、ピンルーを呼び止めたその男は、彼と、彼女と特別親密な事をよく知っているらしい。

Photo_7 その男は声を低くして言うんだ。「あなたは最近、日本人とつき合っているって噂ですが、本当ですか?私のうちへ明日の午後来て下さい。明日ですよ」

と、男は待っている僕が新しい恋人だとでも思ったのか、私を振り返ると、突然話をやめて行ってしまったんだ。

ピンルーは、それからホールに入っても一言もしゃべらない。お酒も飲まない。ぼんやりしているんだ。僕は強いて彼女と踊った。二三度踊ったかな。と、彼女はやっと口を開いた。

「あたし、明日、殺されるかもしれないわ」

「ば、馬鹿な・・・」

と、口では言ったけど、僕も何か不吉なものを感じて、

「明日、あの男の所へは行かない方がいいみたいだね。僕、事情は知らないけど」

と言ったんだ。と、彼女は、

「ありがとう。私もそれを考えていたの。私、もうあの人(たぶんそれは恋人のことだったのだろう)にも一生逢わないわ」

そう言うと、彼女の頬は、突然上気したように紅くなった。そして沈んでいた彼女が今度は元気になり、飲んだり、踊ったり、大変な勢いなのだ。今彼女は、そのパラマウントで呼び止めた男と一緒だ。たぶんその隣にいる男が彼女の恋人だろう」

音楽が終わって人々は席へ戻ってきた。

これからショーが始まるのだ。ここのホールは、三回続けて踊ると、一回休憩、その休憩の間に軽いショーがある。踊り子がいないので男女同伴でなければ、照れくさくてとてもいられないところだ。

ショーは、ロシア人特有のコーカサスの踊り。もう松崎達は、何十編見たことだろう。松崎は退屈であった。松崎は見るともなくテンピンルーの方を見た。だが、そのテーブルは既に空っぽであった。

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引用終わり

さて、ここで興味を引くのが、パラマウントでピンルーを呼び止めた男の次のことば。

「あなたは最近、日本人とつき合っているって噂ですが、本当ですか?」

この日本人は、ひょっとしたら近衛文隆を指しているのではないだろうか。パラマウントでの上記の出来事があったのは、上の文章からすると、松崎が1939年正月に上海に再びやってきて、来る日も来る日も忙しく映画工作をし続けて一息ついたころなので、1939年春頃だ。近衛文隆が上海に渡ったのが1939年2月、小野寺機関の摘発の絡みで日本に戻されたのが1939年5月だ。ちょうど期間が重なる。上海憲兵隊特高課長の林秀澄は、「林秀澄談話速記録Ⅲ」で、1939年春頃の二人の様子につき、「そのころ文隆君はピンルーと熱くなってしまいまして・・・」と口述している。近衛文隆はだいぶ派手にピンルーとつき合っていたらしく、日本軍の憲兵隊は情報漏れを警戒して監視していたのだ。

あるいは、後の漢奸裁判で丁黙邨をして、「テンピンルーと密友(親友の意味)の仲」、と答弁せしめた、特務部思想班所属の反戦派、花野吉平の事を指しているのだろうか。あるいは、もっと広く、大勢の日本人全般と親しくつきあっている様子を言っただけとも考えられる。

残念ながら、パラマウントでの出来事について松崎の記述はここまでで終わっている。

上海人文記 3へ続く






























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 「上海人文記」1 テンピンルーを最初に描いた史料

日本語による鄭蘋如(テンピンルー)の最初の史料は、1941年6月に出版された松崎啓次の「上海人文記」の中の「戴志華(タイ シーホワ)の銃殺」である。戴志華は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名である。

著者、松崎は日本の映画人、東宝映画のプロデューサーであり、1938年から1940年の上海滞在中の印象的なできごとをメモで残した。それを手記としてまとめあげたのが「上海人文記」である。

今回、5回に渡ってこの「戴支華の銃殺」の章を引用していく。原作では一人称は「私」で進行していくが、ここでは三人称「松崎」で進行させていく。また、以下の通り、実名がわかった人物は実名表記とした。

戴志華→鄭蘋如(テンピンルー)と表記

戴小姐→鄭小姐(テン シャオチェ)と表記(注:小姐は女性の姓につけられ、意味は英語のMissと同じである)

馮(ひょう)→丁黙邨(ていもくそん)と表記

K少佐→金子少佐と表記

A少佐は→浅野少佐と表記

また、話の筋に影響がない部分は中略とした部分がある。

引用開始

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中国の首都、南京で、日本軍が壮大な入城式(注:1937年12月17日)を挙行した翌月であった。松崎は、初めてテンピンルーを見た。それは虹口(ホンキュウ)文路にある日本人倶楽部の三階に急造された、放送局の放送室においてであった。

上海には30いくつかの放送局がある。そのいずれもが、多かれ少なかれ敵性を持っており、日本軍のデマのために一役を買っていた当時のことである。この虹口の日本人倶楽部に急造された放送局が、日本軍のためにいかに重要な役目を負わされているかは言を待たないだろう。

その放送局を訪問した最初の日に、松崎はテンピンルーを見たのである。彼女はマイクの前に座っていた。つい一分後に迫った放送を待つために。面長で、背は高く、肌は抜けるように白く、切れ長の目、松崎は、彼女をとても美しいと思った。

彼女は、マイクの位置を決めたり、ピアノを動かしたりして、忙しくしている日本の事務員と雑談を交わしていた。

Photo「あたし、恋人ある」

「誰?」

「あの人!」

彼女は指さした。そこに立っているのは、新井さんという日本のお嬢さん。松崎を今ここへ案内してきた人だ。新井さんは、爆弾が屋根で炸裂する危険のまっただ中を、女手が足りないのを知って、この街にとどまり、看護婦となり、あるいは事務員となって働いてきた人。彼女の本職はピアニスト。

ピンルーは話し続ける。

「あの人、あたしの恋人、あたし、あの人の恋人、ね」

「うん、そうよ。你、我的愛人(ニィ、ウォ ダ アイレン)。我你的愛人(ウォ ニィ ダ アイレン)。そおね」

新井さんも、笑いながら答える。こうして男たちだけの中で働く女たちは、国籍を越えてこのように同盟し、男たちから身を守ろうとしているのだろうか。

ピンルーの放送が始まった。

「日本軍は、南京入城後、・・・杭州を、・・・云々」

ニュースである。玉を転がすような声、少し巻き舌の北方系の北京語。松崎はピンルーの放送を音楽のように聴いた。美しい声である。

放送局を出ると、松崎は新井さんに聞いた。

「あの人誰?」

「テンピンルーさんのこと?」

「テンピンルー? あの人が・・・」

「綺麗でしょう。あの人!お母さんは日本人よ。でも日本のこと何も知らないのよ。おかしいわね」

これが始まりで松崎は不思議な彼女の生い立ちを聞いた。彼女の父は、上海高等法院判事、その昔、日本に留学して、日本の娘と恋に落ち、そして結婚したのが彼女の母親であった。が、彼女の母親は、母国と、夫の国とが、敵と敵とに対峙しており、夫が租界の法院に仕事を持つ今、彼女もまた、国籍を秘し、支那服をまとい、支那の言葉を語っていた。が、服と言葉を支那に変えても、彼女のこころは日本を想っていたのだ。

母は、夫にも召使いにもドアを閉じ、娘に、「ア、イ、ウ、エ、オ」を教えた。「コ、ン、二、チ、ワ」を教えた。

ある日、特務部の金子少佐(注:原文ではK少佐となっている。上海総領事館管轄の特務部初代部長)の秘密工作室に電話が掛かってきた。ピンルーの母親からである。少佐はただちにチョコレートショップを指定して、オーバーを着ると出かけていった。チョコレートショップ、そこは虹口からガーデンブリッヂを渡ってバンドを少し南京路へ歩いたところで、当時公然とは逢えなかった日本人と支那人の連絡には最高の場所だった。

母親は金子少佐に言った。

「娘を日本のために役立ててください。娘は上海語と、北京語と、英語を自国語のように話します。それから日本語も、少しは。 きっとあの子は、私の代わりに、日本のために働いてくれるはずです」

金子少佐は、母親の目に浮かぶ涙を見た。戦っている日本人達を眼前に見ながら、一緒に戦うことも、声を出して激励することも出来ないこの人の、胸一杯の悲しさを感じて、金子少佐は、

「よろしい。では娘さんを明日私のところへよこしなさい」

と言って立ち上がった。そしてテンピンルーは金子少佐から浅野少佐(注:原文ではA少佐となっている。上海放送局初代責任者。NHK新潟放送局長出身)に紹介され、放送局で働くことになったのだ。

(中略)

Photo_3 漢口作戦(注:1938年8月22日〜11月15日)がたけなわの頃、上海は夏であった。強い光線の直射は、日よけメガネ無しでは外を歩けぬほど激しく、アスファルトの道路は暑さに溶けて、時々靴の下でぬめった。その頃、松崎とリヒャルト・アングストと、そのスタッフは「黄浦江 戦友の歌」という記録映画を撮影するために、アスターハウスに滞在していた(上の写真)。

一同は撮影に出て行った。が、松崎一人、ぼんやりと部屋に残っていた。松崎には今朝、東宝映画から航空便が届いていた。「従軍作家達の一行に加わって、丹羽文雄が行った。氏は、君に会って映画「黄浦江」の事をいろいろ質問するはず、お待ち願う」

午後まで待ったが、丹羽文雄は来なかった。松崎は退屈した。仕方なく松崎はバーへ下りて行った。松崎は、そこで女を相手にビールを飲んでいる男を見た。向こうも松崎を見た。二人は同時に叫んだ。

「マツザキ!」

「ヤマダ!」

二人は握手した。数年前、山田はアイモカメラ一台を手にして、飄然と満州へ渡った。この愛すべき男は、累々、話題に上った。そして時として松崎の夢の中で、支那馬にまたがって、青竜刀を振り回したりして、松崎を驚かせた。が、もう長いこと彼を忘れていた。その山田に会ったのだ。と、その時、二三人の男達が入ってきた。

「山田、探したぞ。貴様、一番忙しい時に逃げて、怪しからんぞ」

「すまん、少し疲れたんだ、で・・・」

この時、松崎は、初めて山田も、後から来た人たちも、放送班のバッヂをつけているのに気がついた。山田は放送班で働いているのだ。彼は松崎をみんなに紹介した。そこで松崎は、長い間忘れていた、放送班にいるはずの新井さんや、テンピンルーのことを思い出し、彼女たちのことを尋ねてみた。

「テンピンルー?ああ、あのアナウンサーをしていた綺麗な人でしょう。あの人、もうやめました。2、3ヶ月も前かな。なにか、維新政府(注:日本軍が南京に作った親日政権)の機関で働いているんでしょう、今。 ご存じですか?あの人を」

「ううん、別に。 で、新井さんは?」

「新井さん・・・、あの人、今南京なんです。南京の放送局はこれからというところで(注:1938年9月15日開局)、人手が足りず大変なんです。新井さんは応援に行ったまんま、忙しくて帰れないのですよ」

弱々しそうな新井さんが、秩序のまだ回復しない南京へ出張したまま働き続けている、というからには、放送班の仕事は、まだ創生期の、激しい忙しさの中にあるのだろう。だのに母親が自分の愛国心の権化として送ったテンピンルーが、すでに放送班を去ってしまったとは。

松崎は、あの美しい人と、その声を、この放送班から失ったことを惜しむと共に、日中の混血児は、母の国と父の国の、どちらを、より多く愛するだろうか、とさみしく考え込まざるを得なくなった。

1938年の秋である。バンドの空に、我が軍 広東バイアス湾に上陸、の文字が、大きく、風に揺れていた(注:当時日本軍は、NHKから大上海放送局へ出向していた島山鶴雄技師のアイデアによりアドバルーンによる広報活動をしていた)。土曜日、松崎は金子少佐のパーティに招待された。金子少佐は、長い駐在武官生活の名残であろうか。このあわただしい作戦中にも、時々こうしてパーティーを開いて楽しんだ。招かれる人は、その時々で異なるが、十人のうち、七人までは中国人であり、その半数は婦人服であるのが不文律になっていた。

その日、松崎は定刻に行ったのだが、まだ人数はそろっていなかった。頭のはげた慇懃な中国人男性が、そそくさと入ってきて、言い伝えのように、

「今日は、土曜日だということを失念していたのです。うちの娘達に、一緒に行こうと言いましたら、すみません、今夜は約束があると言うのです。土曜日は娘達はみんなボーイフレンドと約束があるのです。すみません」

と支那後で、金子少佐に語った。

松崎は、そばにいる劉吶鴎に尋ねた。

「あの男性の今の言葉ね。あの人、日本人のパーティーに娘達を連れて来たくないので、あんな風に言っているのでは?」と。劉君は松崎の仕事になくてはならぬ、台湾出身の映画人である。

劉君は答える。

「いや、こうしたパーティーを、土曜日の晩に開くのは間違いです。金子少佐は、こうして二人、三人と、新顔を紹介して、日本化していくのが目的なのでしょう。それなら約束の多い土曜日ははずすべきでしょう。ご覧なさい。今夜は美しい支那服のお嬢さんはほとんどいないでしょう」

松崎は見回した。なるほど、女の人は、南京から二、三日前に着いたという新井さん、たった今紹介された小田さんご夫婦、それだけが日本人で、ほかは劉君と一緒に来た梁小姐(リョウ シャオチェ)だけだ。でもパーティーは始まった。

成都飯店から運ばれた四川料理はうまかった。特別美味な大きなお皿が運ばれるときは、「乾杯」「乾杯」と杯を干した。

その時、玄関のベルが鳴った。誰かの来訪だ。金子少佐は挙げた杯をそのまま置いて、玄関に行く。我々も、杯を干さずに待った。

玄関では、美しい女の声、・・・松崎にもどこかで聞き覚えのある美しい声と、金子少佐の会話がしばらく続いて、顔を出したのが、テンピンルーであった。新井さんが、飛び上がるようにしてピンルーの手を握った。

「鄭小姐(テンシャオチェ)、久遠、久遠(チュァン、ひさしぶり)、ニーハオア?」

「謝謝、ニーハオア?」

そうして、ピンルーの席は松崎の隣に設けられ、松崎は新井さんから、彼女に初めて紹介された。彼女は、さされた杯を受けながら、

「アタシ、スミマセン。今夜のパーティ、イマワカリマシタ。ワタシスグキマシタ。遅い、ゴメンナサイ」

乾杯に乾杯が続いた。彼女の参加が、さらに活気と輝きを加えたことは否めなかった。

が、松崎は、ふと、さっき劉君の言った言葉を思い出した。「美しい人は、土曜日には、約束がある」・・・だのに、テンピンルーはどうしたことだ。この人が美しくないと言うのか。どういたしまして。では、若い男達が集まってする美しい食事と、それから、踊りの会に、どうして彼女だけが招かれないのだろうか。松崎は質問したくなって劉君の顔を見た。が、彼は、今夢中でテンピンルーとの会話を応酬している。松崎は会話の途切れるのを待たねばならない。で、ちょうど運ばれた桂漁に箸をつけた。

広東も、漢口(注:1938年11月15日陥落)も、日本軍の攻略が終わりを告げて、ようやく上海の街に歳の暮れが近づいてきた。松崎に課せられた映画の調査と、工作の仕事の目鼻がついてきた。松崎は日本に帰らなければならない。一応の報告と、今後の指示を得るために。

松崎は荷物を整理した。明日の夜明けの飛行機で、日本へ帰れるのだ。と、松崎が一年近く住み続けたホテルの部屋の電話が鳴った。劉君である。彼は、帰って行く松崎のために、宴席を設けたいと言うのだ。が、松崎は断った。松崎は最後の夜を一人で、静かにアヴェニュー・ジョッフルを歩いてみたかった。

「今夜はだめ。虹口(ホンキュウ)で宴会があるんだ」

が、彼は許さない。

「宴会?では九時には終わるだろう。では、九時半、静安寺路のデーデーで待ってる。きっと来てくれよ。いいか」

そして彼は、電話を切った。松崎は行かなければならなくなった。

夜の九時。松崎は、アヴェニュー・ジョッフルのフィアカにいた。このウィンナ風の小料理屋は、マッシュルームのフライと、ビフテキが特別に美味しかった。この十五六人も座るともう満席の小料理屋へ、ヨーロッパの人たちはなぜかよくフルドレスでやって来た。また、着飾った小姐(注:シャオチェ 中国むすめ)を連れた支那の買弁(外国商との仲介人)が、ヨーロッパ人をたびたびここに招待した。松崎の知らない国々の言葉で交わされる、異国の人たちの甘い会話を聞きながら、たった一人で厚いビフテキを切るのは、淋しいが又楽しいものであった。

九時二十分。松崎はボーイにタキシーを呼ばせた。余談ではあるが、、松崎はまた、上海のタキシー屋の制度が好きである。試みに、雲飛(フォード)の車を呼ぶとする。受話器をはずして30189、セーソンイツパチウ、即、「三拳一杯吸」「じゃん拳をして三度負けたら一杯飲め」と呼び、そして自分の待っている所を言えば、もうすぐに最短距離のガレージから車が来るのだ。

九時三十分、松崎は静安寺路のデーデーに着いた。劉君が四人の仲間と待っていた。黄君と、三人の小姐が。その三人の小姐の中にテンピンルーがいたのには驚いた。他の二人は初めて逢う人であった。「卑姓呉」、「我足李」と、彼女たちは立って自ら名乗った。みんな美しい、良家の子女らしく、つつましやかだった。

松崎達は座り、お茶を飲んだ。このロシアの喫茶店は、恋人らしい人たちが、幾組か寄り添って、静かに語るにふさわしい所だ。劉君が、

「今日は君のために特別の料理を注文したんだ。それで、人が足りないから、鄭さんにお願いして、このお嬢さん達を、わざわざ誘って頂いたんだ」

が、主賓の松崎がいなかったので、やむなく我々だけで済ませて来たと、劉君が説明する。松崎は、自分のわがままのために、とんでもない失礼をしたのに気づいた。どうしてわびたらいいのだろうか。

が、お嬢さん達はいたって快活で、この失礼な日本人を別に気にもとめずに、彼女たちの話を続けている。松崎はコーヒーのクリームを、訳もなくかき混ぜてみた。

と、劉君が松崎を突っついた。そして日本語で、

「呉小姐がね、アノネエ、イイワヨ、オバサン・・・とそれだけ日本語の発音を知ってるんだって。それも発音だけ。意味は知らないんだって」

松崎は面食らって、その少女の顔を見た。彼女は、生々した顔を少し傾けて、まん丸い目で松崎を見る。

「不同意義(プトンイースー)、因為甚麽?(ウーイーシェンマ?)」意味がわかりません。どういう意味ですか?

松崎は尋ねた。

「所謂(インウェ)」と、彼女は松崎に支那語で語りかけて、照れたのであろうか、あるいは松崎に通じない事を怖れたのであろうか、劉君の方へ向き直って、早口に続けた。

「事変の前に、私は楊樹甫(ヤンジュッポ)に住んでいました。私の隣の家に、日本人の家族が住んでいて、子供達がいつも遊びながら、その言葉を繰り返していたの。で、私は発音だけ聞き覚えたの・・・日本の子供達、可愛かったわ」

「でも、その子供たちも大人になると軍人になるのでしょう?」

と、テンピンルーが笑いながら口をはさんだ。

「あなたも軍人ですか?」

と、李小姐が松崎に尋ねた。松崎はただ笑っていた。劉君があわてて松崎のために弁解している。支那の少女達にとって、日本の軍人はきっと鬼の次に怖いものに違いない。

呉小姐が、また話をついだ。

「日本人も怖い人ばかりじゃない。二三年前に、私のお父さんがとてもひどい病気をしたの。たくさんお医者さんが来たけれど、どうしても治らないの。没法子(メイファーツー どうしょもない)と言うの。すると、親戚の人が日本のお医者さんを連れてきたの。そのお医者さん、それは上手。お父さんの病気治ったのよ。今でも元気だわ」

松崎は、一度、日本へ帰ったけれど、その後また上海に戻って、三年住んだ。しかし呉小姐に逢ったのはこの夜ただ一回である。だが、この女学生が、利害関係もお世辞の必要もない、一面識の日本人に逢って、素直に日本人の良さを語るのを聞いて、松崎は心に暖かいものを感じた。日本人と支那人は、きっと握手ができる。個人と個人の生活の中で、また我々の学んだ科学の中で、そして我々の学んだ教養の中で、

「松崎先生(スンチーセンション)!」と、テンピンルーが呼んだ。

「アナタ、アス、ニホンへ帰るのですか」

「ええ」

「いいですね」

「・・・・・」

「アタシ、ニホンの人、みんなニホンへ帰るといいと思うの」

「・・・・・」

「ね、みなさん、そうでしょう。日本の人が、みんな日本へ帰ったら、戦争が終わるのですもの」

と、彼女は突然大きな身振りで右肩を怒らせて、チラと松崎の方を見るのであった。

松崎は戸惑いした。この女は、今夜はなぜ日本人の私にこんなにカラムのだろう。招かれたのに、出席しなかった晩餐の失礼に対する復讐であろうか。松崎は答えるべき返事に迷って劉君を見た。劉君はすぐに空気を察したのであろう。つと立ち上がった。

「ね、みんなでキャバレー へ行きましょう!一時間踊りましょう。いいでしょ?」

彼女達は立ち上がった。で、松崎も一緒に立ち上がらざるを得なくなった。

上海人文記 2へ続く


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2008年8月 5日 (火)

読売テレビ開局50年記念番組 てんぴんるうの真実

読売テレビ開局50年記念番組の放送日時とタイトルが決定したようだ。

秋口の放送かとおもっていたが、もう目の前だ。終戦記念日に合わせてきたのだろうか。

日中戦争秘話

ふたつの祖国を持つ女諜報員
~てんぴんるうの真実~

2008年8月16日(土) 15:00~16:25 日テレ

2008年8月24日(日) 15:00~16:25 読売テレビ

放送時間は思ったよりは短かった。


こちらは番組を見た後の私の感想です。

話は変わるけど、上戸彩の「李香蘭」を再放送するチャンスでもあるのだが・・・・

このタイミングでないなら「李香蘭」の再放送はおそらくないのだろう。

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2008年8月 3日 (日)

テンピンルーを最初に演じた女優、それは

鄭蘋如(テンピンルー)を最初に演じた女優、それはなんと李香蘭だったのかもしれない。彼女はピンルーと同時代に生きたものの、当時上海で大きなニュースになったテンピンルーについて全く言及していない。その著書でもインタビューでも。しかし意外な事実が判明した。

2008年8月2日、名古屋市の愛知大学にて国際共同シンポジウム『帝国主義と文学 植民地台湾・中国占領区・「満州国」』が開かれた。3日間に渡って行われる日本、台湾、中国、アメリカの研究者たちによる発表の一つが、関西学院大学の西村正男氏による「日本語・中国語双方の文脈における戦争の語りとスパイ像」-鄭蘋如を例として-というタイトルだった。わたしはネット検索中、たまたまこの情報を入手し即決、新幹線に飛び乗り聴講してきた。

後で知ったことであるが、この愛知大学、近衛文隆が1939年、学生主任として赴任し、またピンルーと初めて出会った場である上海の「東亜同文書院」出身の教授や卒業生らによって創立した学校らしい。テンピンルーに関しておそらく初の学会発表となる場が、こういった縁のある場所で行われるというものまさに奇遇である。

発表がいくつか続いた後、西村氏が登壇した。西村氏は当時の大衆向けメディアでスパイがどのように扱われてきたかを語る中で、テンピンルーを取り上げ、時間を割いて具体的に発表してくれた。「上海の月」という1941年の日本映画がテンピンルーを題材にしていたのはスザンネシェアマンの著書で知っていたが、それが松崎啓次氏の「上海人文記」(1940年)を原作としていたのは初めて知った。

そして西村氏はやおら、ある映画の一部分を会場のスクリーンに上映し始めた。上戸彩のドラマ「李香蘭」でも劇中劇として演じられ、また、先日の日本テレビの「女たちの中国」でもPhoto_3 李香蘭(山口淑子氏)自身の口から後悔の念が語られた映画「支那の夜」の中のワンシーンだ。李香蘭演じる抗日中国人のヒロイン桂蘭がかたくなに日本人の好意に反発し続けると、長谷川一夫演じる日本人、長谷が頬を叩く。桂蘭は自分を叱ってくれた長谷のひたむきな思いに気づき、やがて逆に好意を持つようになっていく。この長谷によるあからさまな指導者振りと、桂蘭の唐突な変化に、当時の中国人は反感をつのらせた。

しかし西村氏にとってそのシーンは、注目点ではなかった。少しだけビデオを早回しした。すると桂蘭と長谷が仲良く人力車に乗って、上海の南京路、あるいは静安寺路を思わせる大通りを行くシーンへと続く。二人が行き着いた先は宝石店である。

桂蘭と長谷は仲良く店に入り、うれしそうに耳飾りを選んでいる。ふと桂蘭は、店の外にいる怪しい男の姿が目に入る。動揺する桂蘭。このあたりの映像を見て、わたしは映画「ラスト コーション」 とあまりにそっくりなことに自分の目を疑ってしまった。なおも映像は続く。店の外の男は桂蘭に対して目配せをして、おまえだけ外に出ろ、というようなサインを送る。この怪しい男が抗日工作員で、桂蘭を外に出し店に取り残された長谷を銃撃するのでは?と想像が働き始める。

桂蘭は決心がつかなかったのか、あるいはあえて長谷を救おうとしたのか男の与えるサインを無視して長谷と一緒に並んで店を出る。抗日工作員は二人を追いかけ、歩道を歩く桂蘭を追い越しざま、わざと肩をぶつけて再びサインを送る。ここで桂蘭はやっと、「近くの知人を訪ねるので」という用事を告げて長谷と別れる。アパートに戻った長谷は桂蘭が呼んでいるという口実で誘い出され、抗日側アジトに連れ込まれる。彼は生命の危機に陥るのだがぎりぎりのところで桂蘭が助ける、という流れ。

この部分に限れば、丁黙邨(ていもくそん ティンモートン)暗殺未遂事件をモチーフにしていることは明らかだ。田村志津枝氏の著書「李香蘭の恋人」によれば、この映画「支那の夜」の監督伏水氏と脚本の小国氏のシナリオハンティング、ロケハンは1939年の12月から2ヶ月間、つまり、ピンルーによる丁黙邨暗殺未遂事件のあったちょうどその頃から、ピンルーが捕まって銃殺されるあたりまでの間行われたらしい。2_3 また西村氏によれば、この映画制作に携わったであろう松崎啓次氏が「上海人文記」で描いたテンピンルー像と同じ、つまり日中のはざまで揺れ動く人物像を投影して、桂蘭が描かれているようなのだ。

ただし、西村氏は当日の報告書の中で、桂蘭が最後には日本側に立つことは、松崎氏の思い入れが反映したのではないかと言っている。松崎啓次の「上海人文記」ではテンピンルーを狙撃事件の加害者としては断定しておらず、彼はピンルーが抗日分子であってほしくないと思っていたようなのだ。

松崎啓次によれば、丁黙邨がテンピンルーにプレゼントするために毛皮店ではなく時計店にいたことになっている。時計の鎖の修理のためピンルーだけが店の中に残っていたところ、外に出た丁黙存が抗日工作員から狙撃された。ピンルーは参考人として連行されそうになり、逃げているうちに犯人と決めつけられた、とある。この説は、李香蘭の友人で台湾出身の映画人でもあり、松崎とともに中華電影を設立した劉吶鴎(りゅうとつおう)から、松崎が聞いたことらしい。劉吶鴎によれば「これは彼女自身の自供であり、全部信用できないが、全部嘘だとも思わない」、ということだ。

丁黙存暗殺未遂事件とテンピンルーの関わりについて、わたしも実はいまだに腑に落ちないところがある。これはまた別の記事としたい。

わたし自身、この「支那の夜」を見たことが無いので多くを語ることはできない。またこの映画そのものの主題はもちろん国策映画そのもので、抗日から親日へ、という誘導のための映画だ。しかし、たとえ一部のシーンとはいえ、最初にテンピンルーを演じたのが李香蘭だということは確かなようである。

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