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2008年8月17日 (日)

二つの祖国を持つ女諜報員 鄭蘋如の真実 を見て

新発見がたくさんある番組だった。ドラマというよりは情報番組で、日中の狭間で苦悩する鄭蘋如(テンピンルー)という脚本ではなかった。ピンルーの描き方は、中国側が描いているピンルーの姿、つまりストレートに抗日愛国の中国人だった。その代わり母親の「木村はな」にスポットを当て、日中間で揺れ動く思いを彼女から感じ取る構成になっていた。夫婦間、家族間の思いのズレをエンディングに持ってくるなど、ある意味思い切った脚本だった。

さて、これまで、母親と父親の出会いから、結婚、ピンルーらの誕生、上海へ渡るまで、この辺は、すっぽり抜けた穴だった。ピンルーの生まれた年に関して、日本側文献にはいっさい記載が無く、唯一ヒントとなっていたのが、林秀澄氏談話速記録の中、ピンルーをジェスフィールドに引き渡す前の聴取で林秀澄憲兵隊課長が歳を聴いたとき。「たしか26才だった」と発言している部分。引き算をすれば1914年生まれだったが、林氏の記憶はあいまいであった。中国側の定説としては、「1918年中国浙江省の蘭渓生まれ」というものである。浙江省の蘭渓は父親テンエツの出身地だ。

番組によると、ピンルーは1914年5月、東京の牛込区(現在の新宿区)生まれ、となっていた。牛込区には中国同盟会の本部を置く下宿があり、父親テンエツはそこに住んでいた。母親となる木村はなはそこの住み込みの手伝いだった。長女真如さんがそこで生まれ、1915年5月よりすこし前に同じ牛込区内の早稲田弦巻に引っ越しているようだ(読売テレビ「鄭蘋如の真実」での、1915年5月印刷の法政大学「法学志林」の画像による)。

現在アメリカ在住のピンルーの妹、鄭天如さんによると、母親はピンルーのことを日本語読みで「ひんじょ」あるいは、「ひんにょ」と呼んでいたようだ。これは、上海語で蘋如を「ピンジュ」とか「ピンジョ」と発音するのが難しかったのか、おかしかったのか、あるいは日本人母としてのこだわりだったのか、日本語読みで呼んでいたようだ。

母親の出自に関して、日本側文献で唯一記載があるのは永松浅造の「ゾルゲ事件」(1956年)である。そこでは、ピンルーの母親は、文京区本郷の下宿屋の娘、と記述されている。場所こそ違え、下宿屋というのは当たっている。永松浅造は母親についてなんらかの情報を得ていたのかもしれない。しかしこの本に名前の記載はない。母親「木村はな」の名前に関しては、「木村花子」、というのが中国語サイトでは定説となっている。そしてその多くが、日本の名門の出の令嬢と記載している。そうあってほしい、という思いだろうか。実際は、茨城県真壁町の農家の9人兄弟の末っ子で、小学校を卒業すると東京に出て、牛込区(現新宿区)の下宿屋で働いていた人だった。上海に渡った後、本人の資金で真壁に建てた両親の墓碑には「鄭 花」というように彫られている。

テンエツの留学先、法政大学の卒業は1911年7月。はなが長女を身ごもったため、官費を得る目的で1年あえて留年し、結局、法政大学を出たのが1912年7月。番組では1917年上海へ夫婦と子供3人で渡っているとなっていたので日本でさらに5年間の空白がある。中国CCTVテレビの動画では、日本大学から1916年5月15日にもらった卒業証書が映っていた。もしこれが本物の証書であれば、日本大学に再入学し法学の勉強を継続したのか、あるいは留学生の身分で日本国内の情報収集の役割を与えられていたのかもしれない。その卒業証書がCCTVによる偽物だったらその限りではない。

上海に渡った後のピンルーの動きは1931年まで飛ぶ。図画時報(EASTERN TIMES PHOTO SUPPLEMENT)1931年3月号の一面に、大きな写真で、新劇の主役を務めるピンルーが写っていた。彼女は女優を目指していた可能性がある。

番組では1933年9月、民光中学の中学6年(高校3年)に19才になって編入したとしている。この民光中学は、蒋介石国民党の地下組織、CC団の経営する学校らしい。1934年、父親の転勤などもあってピンルーは一旦学校を休学したようだが、入れ違いのように、当時CC団の重要メンバーだった丁黙邨(ていもくそん ティンモートン)が理事長として赴任してきたようだ。

翌1935年1月、テンエツが上海第二法院主席検察官に任命され上海に戻ってきた。家族でフランス租界の万宜坊にあるアパートメントに住むこととなった。その前に丁黙邨は民光中学を退職していたようだ。つまり番組ではピンルーと丁黙邨はすれ違い、顔見知りではなかった、ということが言いたいようだ。

このことは1939年の丁黙邨暗殺未遂事件に微妙にからんでいる。これまでの定説では、顔見知りだったことを利用して、ピンルーが丁黙邨に偶然街角で再会、それをきっかけに丁黙邨の秘書に収まり、暗殺の機会をうかがう、と言うストーリーである。さて、どうなのだろうか。ピンルーについての日本語文献としては、松崎啓次の「上海人文記」(1941年)の次に古い、晴氣慶胤の「謀略の上海」(1951年)には、CC団加入後に丁黙邨の下で工作員になったと書いてある。丁黙邨とはCC団で師弟関係にあった可能性は否定できない。

1936年2月、上海法政学院に入学。もし番組の言うように1914年5月生まれだとするとピンルーが21才のときだ。在学中に学校の先輩、嵇希宗(けいきしゅう)にCC団入りを勧められ加入した、ということもCCTVで放送されている通りだ。しかし、ピンルーや家族が日系人としていじめや差別にあってきた実態については今回の番組では一切語られることは無かった。この辺は中国側のスタンスと一緒だ。中国側にとって、抗日の英雄であるピンルーが中国人にいじめや差別にあっていたことは矛盾となるため、メディアには出て来ないのだ。

2008年7月に日本テレビで放送された「女たちの中国 第二弾」では、ピンルーに対するいじめの実態をピンルーの甥にあたる鄭国基氏が証言していた。その鄭国基氏に今回再びインタビューしているのだが、今回はそれは取り上げなかった、あるいはインタビューのポイントとはしなかったようだ。このように、日中ハーフとしての立場と、そこから生み出されるパーソナリティをピンルーから消し去ると、中国側の一般的な見方、つまりは単純な抗日烈士となる。

そうじゃないと思う。彼女には日中ハーフだからゆえの、彼女だけの特別な動機があったと私は思っている。この辺は私の歴史への見立てと大きく食い違う部分である。ここが抜け去るとピンルーのパーソナリティの半分はごっそりと抜け落ちるはずだ。

番組では近衛文隆の愛人になっていたという説?を否定するために、ピンルーの婚約者とみられる男性の写真と手紙が出された。この婚約者とされる王漢勲という男性もCCTVでは紹介されていた。しかし、そもそも文隆がピンルーを愛人にしていたという説はどこから出てくるのだろうか。私はまったく見たことがない。ちなみに、文隆とのつきあいが本気だった、というストーリーがあり、これは西木氏のノンフィクションノベル「夢顔さんによろしく」で出てくる説である。この部分は小説家の思い入れであり、西木氏の洞察力、人間力から絞り出されてきた歴史への見立てである。派手に遊んだ、というのは文隆の米国留学時の生活を見るとたしかに類推されるものの、文隆にしてみたら、小野寺機関と歩調を合わせながら真剣に日中和平に役立ちたいという思いの中での交流でもあったろう。文隆がピンルーを単なる愛人にしようという意図があったとは思えない。

ピンルーが文隆に近づいていった目的は不明である。単純に類推するなら、前首相を父に持つ文隆からの情報入手、となる。しかし、東亜同文書院で文隆の相談相手だった小竹教授によれば、文隆とピンルーの交際は、ピンルーが工作員であったということは無関係だった、ということだ。小竹氏が「近衛文隆追悼集」で回想するピンルーの言葉は、

「私は母が日本人なので日本が大好きであり、もっと日本語を習い、日本のりっぱな人と交際してみたいのです。近衛さんと交際するのを許してほしい」

である。また小竹氏は、

「彼女がスパイであり、何か目的を持って文隆さんに近づこうとしたのだとしても、何の効果も得られるはずがなく、また実際に何の関係もなかったのであるが」

とも記述している。意味の取り方がむずかしいが、「ピンルーが地下工作行為を文隆に行なってもなんの成果も得られないはずだ。実際に、ピンルーと文隆の交際と、ピンルーの地下工作員としての立場は無関係であった」という意味かと思う。「ピンルーと文隆の交際関係は無かった」という意味にとると、文隆が手紙に、「東亜同文書院の運動会に美人の一支那女性を誘っていともねんごろなことろを見せ付けた」と書いているその相手は誰だったのか?となる。小竹教授から、「見知らぬ中国人との交際をしないよう」言われていた文隆が、ねんごろな仲になった女性は、小竹教授に交際を許され、また、憲兵隊が身元調査まで開始したピンルー以外にはいないと類推するのが自然ではないだろうか。「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇」を参照

この番組で私が一番収穫だったのは、花野吉平の発見である。ピンルーの妹、鄭天如さんの証言によると、反戦和平派だった日本特務部思想第一班の花野吉平と近衛文隆はピンルーをめぐって恋がたきだった可能性も出てきた。天如さんは、「花野さんは、けっこう姉のことが好きだったと思います」と、微妙な発言をしている。戦後の漢奸裁判で丁黙邨は、「花野とピンルーは親友の仲だった」、と弁論しているようだ。この反戦和平派、花野の発見によって、私の中でピンルーの活動内容の地平が大きく開けた。これはおいおい別の記事とする。

ちなみに、中国側の調査によると、ピンルーの婚約者と言われる王漢勲は空軍に入っており、1944年8月7日、桂林の空中戦で日本軍戦闘機に撃墜されている。彼は日中戦争開戦後、香港でピンルーに結婚を申し込んだようだが、「この戦争が終わったら・・・」とその時は断られたようである。また松崎啓次の「上海人文記」 によると、ピンルーは蒋介石国民党側の恋人と別れたあと、日本人と交際していたことが示唆されている。

第二法院の、主席検察官である父テンエツに対し、命を脅かすような脅迫が丁黙邨からピンルーに対してあったようだ。この辺も多くの中国語サイトで書かれている。日本側の特務はテンエツを親日側に取り込もうと必死だった。特務が誘いに来るたび、母親木村はなが、夫は病気なので、と追い返していたようだ。テンエツは1941年にがんで死亡している。ピンルーを無くしたショックで元々悪かった体調を崩していったのかもしれない。

番組によると、脅迫を受けている父親を守るため、ピンルーは丁黙邨を抹殺する気持ちが芽生え、丁黙邨の秘書の立場を受け入れ、そこで暗殺のチャンスを狙ったというストーリーにしていた。蘭衣社による組織立った指示では無かったということだろうか。依然として謎が残る。この一連の流れにおける番組の意図は、張愛玲の「色 戒」およびそれを原作とする映画「ラスト コーション」での主人公ワンチアチが色情に流されてしまった描き方、そしてまた、日本語の文献に多い、ピンルーをあばずれ女と描く部分を明確に否定するためと思われる。

ラストでの母親木村はなと、父親テンエツ、そしてピンルーとの間のすれ違い、ここの描き方には悲しいものがあった。これはまさに「日中戦のはざまで 木村はなの悲劇」である。冗談でも皮肉でもない。母親だけが家族で浮いた存在だったのだろうか。母親だけが日本人だからという理由で、家族からさえも信用されていなかったのだろうか。「まさか」 と思う。何を根拠にこんな描き方をしたのか。私は木村はなとピンルーは一体だったと見ている。むしろ母親のすすめがあって抗日組織に入ったと思っている。私が類推する母、木村はなの気持ちは、「日本軍よ、早く日本に帰ってください!」ということだと思う。この点については、ピンルーをはじめ家族が皆同じ思いだったはずだ。それでなければ、「国籍・国境は家族の信頼より重い」ということ。ピンルー一家はそういう一家だったのだろうか。そこには非常に悲しいものがある。木村はなは、日中戦争勃発時に長男次男が日本での留学先で軟禁状態になったときに、単身日本に戻り、密航の形で中国に連れ戻してきている。行動的な母親だったのだ。母親はピンルーの工作活動に対しても積極的な関与をしていたと私は類推する。

番組が参考図書にあげていた「林秀澄氏談話速記録Ⅲ」にはこういう記述がある。ピンルーの処刑に立ち会った林秀澄の言葉だ。「日本人と中国人の合いの子で、それでものすごく学生時代からミス上海などと言われておった美人でして、母親が日本人であるばかりにやはり抗日運動に走らざるを得なかったものと思います。そういうようなことから抗日運動にも足を踏み込んでおったのを、小野寺機関で使っていらっしゃったんです。」 

そしてまた、番組のせりふにも一部そのまま使われていた松崎啓次の「上海人文記」には、ピンルーや李香蘭の友人でもあった映画人、劉吶鴎(りゅうとつおう)の言葉で、このようなことが書いてある。「彼女が日中の混血児であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求をしたんだ。彼女に維新政府側(注:親日政府)のめぼしい人たちを暗殺する手引きを強いたのだ

このあたりに、ピンルーが抗日運動に傾斜していく、そして丁黙邨暗殺に向かわざるをえなかったヒントがあったのではないか。

番組は全体的に女優の耿忠(こう ちゅう)さんの誠実な演技と進行が光った。万宜坊88番のピンルーの部屋の窓に向かう耿忠さんは、日中の平和を願うピンルーそのものだった。そしてエンディングの歌はピンルーに対しての鎮魂歌に聞こえた。しかし、ピンルーの描き方が中国側の従来からの見方から一歩も出ていないこと、そしてなによりも母親木村はなに関しては、あまりに家族と距離が開きすぎていた点は納得できない。

日本テレビ「女たちの中国」と、今回の読売テレビ「鄭蘋如の真実」、この二つを合わせて自分で判断していくしかないのだろう。

テンピンルーについての記事はこちらをご覧下さい。

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コメント

cosmopolitanさん。
自分の意見をまとめるのに少し時間がかかってしまいました。史料として素晴らしい提供をしてくれた番組でしたが、ピンルーへの突っ込み方が不完全燃焼だった気がします。あの描き方だと、丁黙邨暗殺未遂は、父親を守るための正当防衛だった、になりかねませんね。そして過剰防衛の罪で死刑になったと・・・。もっと複雑なものをもっていたはずです。僕は耿忠さんが、石で殴られるのではないか、と危惧していたくらいだったのですが、杞憂に終わりました。今回、それがすべて母親に被せられていました。木村はなの悲劇でした。

投稿: bikoran | 2008年8月17日 (日) 14時05分

暗殺した→暗殺しようとした
です。失礼しました。

投稿: Cosmopolitan | 2008年8月17日 (日) 13時35分

この記事を読む前に、古い記事にコメントしてしまいました。さすがに詳しいですね。有り難うございました。僕も、母親の「はな」さんが、あれでは浮かばれないと思いました。父親を守るために丁黙邨を暗殺したのなら、事件後にわざわざ日本人のもとに相談に行かないでしょう。抗日の大義に殉じた女性という面を強調すると、二律背反の中で生きた女性像が消えてしまいますね。

投稿: Cosmopolitan | 2008年8月17日 (日) 13時34分

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