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2008年8月 9日 (土)

 「上海人文記」1 テンピンルーを最初に描いた史料

日本語による鄭蘋如(テンピンルー)の最初の史料は、1941年6月に出版された松崎啓次の「上海人文記」の中の「戴志華(タイ シーホワ)の銃殺」である。戴志華は鄭蘋如(テンピンルー)の仮名である。

著者、松崎は日本の映画人、東宝映画のプロデューサーであり、1938年から1940年の上海滞在中の印象的なできごとをメモで残した。それを手記としてまとめあげたのが「上海人文記」である。

今回、5回に渡ってこの「戴支華の銃殺」の章を引用していく。原作では一人称は「私」で進行していくが、ここでは三人称「松崎」で進行させていく。また、以下の通り、実名がわかった人物は実名表記とした。

戴志華→鄭蘋如(テンピンルー)と表記

戴小姐→鄭小姐(テン シャオチェ)と表記(注:小姐は女性の姓につけられ、意味は英語のMissと同じである)

馮(ひょう)→丁黙邨(ていもくそん)と表記

K少佐→金子少佐と表記

A少佐は→浅野少佐と表記

また、話の筋に影響がない部分は中略とした部分がある。

引用開始

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中国の首都、南京で、日本軍が壮大な入城式(注:1937年12月17日)を挙行した翌月であった。松崎は、初めてテンピンルーを見た。それは虹口(ホンキュウ)文路にある日本人倶楽部の三階に急造された、放送局の放送室においてであった。

上海には30いくつかの放送局がある。そのいずれもが、多かれ少なかれ敵性を持っており、日本軍のデマのために一役を買っていた当時のことである。この虹口の日本人倶楽部に急造された放送局が、日本軍のためにいかに重要な役目を負わされているかは言を待たないだろう。

その放送局を訪問した最初の日に、松崎はテンピンルーを見たのである。彼女はマイクの前に座っていた。つい一分後に迫った放送を待つために。面長で、背は高く、肌は抜けるように白く、切れ長の目、松崎は、彼女をとても美しいと思った。

彼女は、マイクの位置を決めたり、ピアノを動かしたりして、忙しくしている日本の事務員と雑談を交わしていた。

Photo「あたし、恋人ある」

「誰?」

「あの人!」

彼女は指さした。そこに立っているのは、新井さんという日本のお嬢さん。松崎を今ここへ案内してきた人だ。新井さんは、爆弾が屋根で炸裂する危険のまっただ中を、女手が足りないのを知って、この街にとどまり、看護婦となり、あるいは事務員となって働いてきた人。彼女の本職はピアニスト。

ピンルーは話し続ける。

「あの人、あたしの恋人、あたし、あの人の恋人、ね」

「うん、そうよ。你、我的愛人(ニィ、ウォ ダ アイレン)。我你的愛人(ウォ ニィ ダ アイレン)。そおね」

新井さんも、笑いながら答える。こうして男たちだけの中で働く女たちは、国籍を越えてこのように同盟し、男たちから身を守ろうとしているのだろうか。

ピンルーの放送が始まった。

「日本軍は、南京入城後、・・・杭州を、・・・云々」

ニュースである。玉を転がすような声、少し巻き舌の北方系の北京語。松崎はピンルーの放送を音楽のように聴いた。美しい声である。

放送局を出ると、松崎は新井さんに聞いた。

「あの人誰?」

「テンピンルーさんのこと?」

「テンピンルー? あの人が・・・」

「綺麗でしょう。あの人!お母さんは日本人よ。でも日本のこと何も知らないのよ。おかしいわね」

これが始まりで松崎は不思議な彼女の生い立ちを聞いた。彼女の父は、上海高等法院判事、その昔、日本に留学して、日本の娘と恋に落ち、そして結婚したのが彼女の母親であった。が、彼女の母親は、母国と、夫の国とが、敵と敵とに対峙しており、夫が租界の法院に仕事を持つ今、彼女もまた、国籍を秘し、支那服をまとい、支那の言葉を語っていた。が、服と言葉を支那に変えても、彼女のこころは日本を想っていたのだ。

母は、夫にも召使いにもドアを閉じ、娘に、「ア、イ、ウ、エ、オ」を教えた。「コ、ン、二、チ、ワ」を教えた。

ある日、特務部の金子少佐(注:原文ではK少佐となっている。上海総領事館管轄の特務部初代部長)の秘密工作室に電話が掛かってきた。ピンルーの母親からである。少佐はただちにチョコレートショップを指定して、オーバーを着ると出かけていった。チョコレートショップ、そこは虹口からガーデンブリッヂを渡ってバンドを少し南京路へ歩いたところで、当時公然とは逢えなかった日本人と支那人の連絡には最高の場所だった。

母親は金子少佐に言った。

「娘を日本のために役立ててください。娘は上海語と、北京語と、英語を自国語のように話します。それから日本語も、少しは。 きっとあの子は、私の代わりに、日本のために働いてくれるはずです」

金子少佐は、母親の目に浮かぶ涙を見た。戦っている日本人達を眼前に見ながら、一緒に戦うことも、声を出して激励することも出来ないこの人の、胸一杯の悲しさを感じて、金子少佐は、

「よろしい。では娘さんを明日私のところへよこしなさい」

と言って立ち上がった。そしてテンピンルーは金子少佐から浅野少佐(注:原文ではA少佐となっている。上海放送局初代責任者。NHK新潟放送局長出身)に紹介され、放送局で働くことになったのだ。

(中略)

Photo_3 漢口作戦(注:1938年8月22日〜11月15日)がたけなわの頃、上海は夏であった。強い光線の直射は、日よけメガネ無しでは外を歩けぬほど激しく、アスファルトの道路は暑さに溶けて、時々靴の下でぬめった。その頃、松崎とリヒャルト・アングストと、そのスタッフは「黄浦江 戦友の歌」という記録映画を撮影するために、アスターハウスに滞在していた(上の写真)。

一同は撮影に出て行った。が、松崎一人、ぼんやりと部屋に残っていた。松崎には今朝、東宝映画から航空便が届いていた。「従軍作家達の一行に加わって、丹羽文雄が行った。氏は、君に会って映画「黄浦江」の事をいろいろ質問するはず、お待ち願う」

午後まで待ったが、丹羽文雄は来なかった。松崎は退屈した。仕方なく松崎はバーへ下りて行った。松崎は、そこで女を相手にビールを飲んでいる男を見た。向こうも松崎を見た。二人は同時に叫んだ。

「マツザキ!」

「ヤマダ!」

二人は握手した。数年前、山田はアイモカメラ一台を手にして、飄然と満州へ渡った。この愛すべき男は、累々、話題に上った。そして時として松崎の夢の中で、支那馬にまたがって、青竜刀を振り回したりして、松崎を驚かせた。が、もう長いこと彼を忘れていた。その山田に会ったのだ。と、その時、二三人の男達が入ってきた。

「山田、探したぞ。貴様、一番忙しい時に逃げて、怪しからんぞ」

「すまん、少し疲れたんだ、で・・・」

この時、松崎は、初めて山田も、後から来た人たちも、放送班のバッヂをつけているのに気がついた。山田は放送班で働いているのだ。彼は松崎をみんなに紹介した。そこで松崎は、長い間忘れていた、放送班にいるはずの新井さんや、テンピンルーのことを思い出し、彼女たちのことを尋ねてみた。

「テンピンルー?ああ、あのアナウンサーをしていた綺麗な人でしょう。あの人、もうやめました。2、3ヶ月も前かな。なにか、維新政府(注:日本軍が南京に作った親日政権)の機関で働いているんでしょう、今。 ご存じですか?あの人を」

「ううん、別に。 で、新井さんは?」

「新井さん・・・、あの人、今南京なんです。南京の放送局はこれからというところで(注:1938年9月15日開局)、人手が足りず大変なんです。新井さんは応援に行ったまんま、忙しくて帰れないのですよ」

弱々しそうな新井さんが、秩序のまだ回復しない南京へ出張したまま働き続けている、というからには、放送班の仕事は、まだ創生期の、激しい忙しさの中にあるのだろう。だのに母親が自分の愛国心の権化として送ったテンピンルーが、すでに放送班を去ってしまったとは。

松崎は、あの美しい人と、その声を、この放送班から失ったことを惜しむと共に、日中の混血児は、母の国と父の国の、どちらを、より多く愛するだろうか、とさみしく考え込まざるを得なくなった。

1938年の秋である。バンドの空に、我が軍 広東バイアス湾に上陸、の文字が、大きく、風に揺れていた(注:当時日本軍は、NHKから大上海放送局へ出向していた島山鶴雄技師のアイデアによりアドバルーンによる広報活動をしていた)。土曜日、松崎は金子少佐のパーティに招待された。金子少佐は、長い駐在武官生活の名残であろうか。このあわただしい作戦中にも、時々こうしてパーティーを開いて楽しんだ。招かれる人は、その時々で異なるが、十人のうち、七人までは中国人であり、その半数は婦人服であるのが不文律になっていた。

その日、松崎は定刻に行ったのだが、まだ人数はそろっていなかった。頭のはげた慇懃な中国人男性が、そそくさと入ってきて、言い伝えのように、

「今日は、土曜日だということを失念していたのです。うちの娘達に、一緒に行こうと言いましたら、すみません、今夜は約束があると言うのです。土曜日は娘達はみんなボーイフレンドと約束があるのです。すみません」

と支那後で、金子少佐に語った。

松崎は、そばにいる劉吶鴎に尋ねた。

「あの男性の今の言葉ね。あの人、日本人のパーティーに娘達を連れて来たくないので、あんな風に言っているのでは?」と。劉君は松崎の仕事になくてはならぬ、台湾出身の映画人である。

劉君は答える。

「いや、こうしたパーティーを、土曜日の晩に開くのは間違いです。金子少佐は、こうして二人、三人と、新顔を紹介して、日本化していくのが目的なのでしょう。それなら約束の多い土曜日ははずすべきでしょう。ご覧なさい。今夜は美しい支那服のお嬢さんはほとんどいないでしょう」

松崎は見回した。なるほど、女の人は、南京から二、三日前に着いたという新井さん、たった今紹介された小田さんご夫婦、それだけが日本人で、ほかは劉君と一緒に来た梁小姐(リョウ シャオチェ)だけだ。でもパーティーは始まった。

成都飯店から運ばれた四川料理はうまかった。特別美味な大きなお皿が運ばれるときは、「乾杯」「乾杯」と杯を干した。

その時、玄関のベルが鳴った。誰かの来訪だ。金子少佐は挙げた杯をそのまま置いて、玄関に行く。我々も、杯を干さずに待った。

玄関では、美しい女の声、・・・松崎にもどこかで聞き覚えのある美しい声と、金子少佐の会話がしばらく続いて、顔を出したのが、テンピンルーであった。新井さんが、飛び上がるようにしてピンルーの手を握った。

「鄭小姐(テンシャオチェ)、久遠、久遠(チュァン、ひさしぶり)、ニーハオア?」

「謝謝、ニーハオア?」

そうして、ピンルーの席は松崎の隣に設けられ、松崎は新井さんから、彼女に初めて紹介された。彼女は、さされた杯を受けながら、

「アタシ、スミマセン。今夜のパーティ、イマワカリマシタ。ワタシスグキマシタ。遅い、ゴメンナサイ」

乾杯に乾杯が続いた。彼女の参加が、さらに活気と輝きを加えたことは否めなかった。

が、松崎は、ふと、さっき劉君の言った言葉を思い出した。「美しい人は、土曜日には、約束がある」・・・だのに、テンピンルーはどうしたことだ。この人が美しくないと言うのか。どういたしまして。では、若い男達が集まってする美しい食事と、それから、踊りの会に、どうして彼女だけが招かれないのだろうか。松崎は質問したくなって劉君の顔を見た。が、彼は、今夢中でテンピンルーとの会話を応酬している。松崎は会話の途切れるのを待たねばならない。で、ちょうど運ばれた桂漁に箸をつけた。

広東も、漢口(注:1938年11月15日陥落)も、日本軍の攻略が終わりを告げて、ようやく上海の街に歳の暮れが近づいてきた。松崎に課せられた映画の調査と、工作の仕事の目鼻がついてきた。松崎は日本に帰らなければならない。一応の報告と、今後の指示を得るために。

松崎は荷物を整理した。明日の夜明けの飛行機で、日本へ帰れるのだ。と、松崎が一年近く住み続けたホテルの部屋の電話が鳴った。劉君である。彼は、帰って行く松崎のために、宴席を設けたいと言うのだ。が、松崎は断った。松崎は最後の夜を一人で、静かにアヴェニュー・ジョッフルを歩いてみたかった。

「今夜はだめ。虹口(ホンキュウ)で宴会があるんだ」

が、彼は許さない。

「宴会?では九時には終わるだろう。では、九時半、静安寺路のデーデーで待ってる。きっと来てくれよ。いいか」

そして彼は、電話を切った。松崎は行かなければならなくなった。

夜の九時。松崎は、アヴェニュー・ジョッフルのフィアカにいた。このウィンナ風の小料理屋は、マッシュルームのフライと、ビフテキが特別に美味しかった。この十五六人も座るともう満席の小料理屋へ、ヨーロッパの人たちはなぜかよくフルドレスでやって来た。また、着飾った小姐(注:シャオチェ 中国むすめ)を連れた支那の買弁(外国商との仲介人)が、ヨーロッパ人をたびたびここに招待した。松崎の知らない国々の言葉で交わされる、異国の人たちの甘い会話を聞きながら、たった一人で厚いビフテキを切るのは、淋しいが又楽しいものであった。

九時二十分。松崎はボーイにタキシーを呼ばせた。余談ではあるが、、松崎はまた、上海のタキシー屋の制度が好きである。試みに、雲飛(フォード)の車を呼ぶとする。受話器をはずして30189、セーソンイツパチウ、即、「三拳一杯吸」「じゃん拳をして三度負けたら一杯飲め」と呼び、そして自分の待っている所を言えば、もうすぐに最短距離のガレージから車が来るのだ。

九時三十分、松崎は静安寺路のデーデーに着いた。劉君が四人の仲間と待っていた。黄君と、三人の小姐が。その三人の小姐の中にテンピンルーがいたのには驚いた。他の二人は初めて逢う人であった。「卑姓呉」、「我足李」と、彼女たちは立って自ら名乗った。みんな美しい、良家の子女らしく、つつましやかだった。

松崎達は座り、お茶を飲んだ。このロシアの喫茶店は、恋人らしい人たちが、幾組か寄り添って、静かに語るにふさわしい所だ。劉君が、

「今日は君のために特別の料理を注文したんだ。それで、人が足りないから、鄭さんにお願いして、このお嬢さん達を、わざわざ誘って頂いたんだ」

が、主賓の松崎がいなかったので、やむなく我々だけで済ませて来たと、劉君が説明する。松崎は、自分のわがままのために、とんでもない失礼をしたのに気づいた。どうしてわびたらいいのだろうか。

が、お嬢さん達はいたって快活で、この失礼な日本人を別に気にもとめずに、彼女たちの話を続けている。松崎はコーヒーのクリームを、訳もなくかき混ぜてみた。

と、劉君が松崎を突っついた。そして日本語で、

「呉小姐がね、アノネエ、イイワヨ、オバサン・・・とそれだけ日本語の発音を知ってるんだって。それも発音だけ。意味は知らないんだって」

松崎は面食らって、その少女の顔を見た。彼女は、生々した顔を少し傾けて、まん丸い目で松崎を見る。

「不同意義(プトンイースー)、因為甚麽?(ウーイーシェンマ?)」意味がわかりません。どういう意味ですか?

松崎は尋ねた。

「所謂(インウェ)」と、彼女は松崎に支那語で語りかけて、照れたのであろうか、あるいは松崎に通じない事を怖れたのであろうか、劉君の方へ向き直って、早口に続けた。

「事変の前に、私は楊樹甫(ヤンジュッポ)に住んでいました。私の隣の家に、日本人の家族が住んでいて、子供達がいつも遊びながら、その言葉を繰り返していたの。で、私は発音だけ聞き覚えたの・・・日本の子供達、可愛かったわ」

「でも、その子供たちも大人になると軍人になるのでしょう?」

と、テンピンルーが笑いながら口をはさんだ。

「あなたも軍人ですか?」

と、李小姐が松崎に尋ねた。松崎はただ笑っていた。劉君があわてて松崎のために弁解している。支那の少女達にとって、日本の軍人はきっと鬼の次に怖いものに違いない。

呉小姐が、また話をついだ。

「日本人も怖い人ばかりじゃない。二三年前に、私のお父さんがとてもひどい病気をしたの。たくさんお医者さんが来たけれど、どうしても治らないの。没法子(メイファーツー どうしょもない)と言うの。すると、親戚の人が日本のお医者さんを連れてきたの。そのお医者さん、それは上手。お父さんの病気治ったのよ。今でも元気だわ」

松崎は、一度、日本へ帰ったけれど、その後また上海に戻って、三年住んだ。しかし呉小姐に逢ったのはこの夜ただ一回である。だが、この女学生が、利害関係もお世辞の必要もない、一面識の日本人に逢って、素直に日本人の良さを語るのを聞いて、松崎は心に暖かいものを感じた。日本人と支那人は、きっと握手ができる。個人と個人の生活の中で、また我々の学んだ科学の中で、そして我々の学んだ教養の中で、

「松崎先生(スンチーセンション)!」と、テンピンルーが呼んだ。

「アナタ、アス、ニホンへ帰るのですか」

「ええ」

「いいですね」

「・・・・・」

「アタシ、ニホンの人、みんなニホンへ帰るといいと思うの」

「・・・・・」

「ね、みなさん、そうでしょう。日本の人が、みんな日本へ帰ったら、戦争が終わるのですもの」

と、彼女は突然大きな身振りで右肩を怒らせて、チラと松崎の方を見るのであった。

松崎は戸惑いした。この女は、今夜はなぜ日本人の私にこんなにカラムのだろう。招かれたのに、出席しなかった晩餐の失礼に対する復讐であろうか。松崎は答えるべき返事に迷って劉君を見た。劉君はすぐに空気を察したのであろう。つと立ち上がった。

「ね、みんなでキャバレー へ行きましょう!一時間踊りましょう。いいでしょ?」

彼女達は立ち上がった。で、松崎も一緒に立ち上がらざるを得なくなった。

上海人文記 2へ続く


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