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2008年9月の3件の記事

2008年9月28日 (日)

ピンルーの親友、花野吉平(3)

中支派遣軍特務部内の総務部分室は、菅野中佐のもと、4班あった。第一班が花野吉平や早水親重(はやみちかしげ)の属する思想班、第二班は宗教・結社対策、第三班は中国人から接収した財産管理、第四班は学校と維新学院の運営にあたっていた。

余談であるが、中支派遣軍特務部の初代部長は金子俊治少佐である。日本側の手によって中国語ラジオ放送局「大上海放送局」が1937年12月、新設されることになり女性アナウンサーを募集した。テンピンルーの母親木村はなが金子少佐のもとを訪れ、ピンルーの採用を金子に依頼している。金子の推薦もあり、特務部放送班の責任者、浅野一男少佐がピンルーを中国語アナウンサーとして採用している。

話を元に戻す。花野吉平のいた特務部総務部分室第一班は、上海フランス租界と共同租界にアジトを一カ所ずつ置き、蒋介石の国民政府軍、中国共産党の新四軍(しんしぐん)の印刷物を収集し、翻訳、諜報兼通訳などの活動をしていた。早水親重は渉外を担当し、日本の海軍、領事、民間会社、報道機関、金融機関との連絡をしていた。花野は、租界内アジトを拠点に現地中国人に対する情報収集・宣撫活動を行った。

花野は四川路橋の横にある新雅飯店というホテルに長期宿泊し毎日アジト通いした。租界内のアジトで抗日中国人と語り、租界で働く日本人を尋ねて夕方、バンド公園を通り、ガーデンブリッジを渡って日本租界のアスターハウスに行くのが日課だった。

アスターハウスは日本では帝国ホテルのような英国系の由緒あるホテルであったが、上海事変後日本軍が接収してからは、軍靴の泥が絨毯にこびりつき、日本刀を下げた日本人将校が闊歩するようになった。思想班は三木班長と花野、そして早水の三人で夕方ここで落ち合い、連絡や打ち合わせを行った。

日本人地区、虹口(ホンキュウ)にある「月の家」や「東語」などの日本料亭は、日本人高級将校、御用商人の巣となり、芸妓は○○少将夫人、××大佐夫人と呼ばれて乱痴気騒ぎとなり、酒乱の将校が芸妓の顔を軍刀で切ることもあるような隠微な世界と変わる。

花野の上司、菅野中佐も例に漏れず、陸軍大学を出たので将校となり、家には妾を置き、御用商人を軍属にして下働きさせ、阿片を密売した金を機密費とし、中国人接収財産を運用、工作費と称して私財を蓄えていた。

花野は満州国の国家公務員をしていた頃には全く知らなかった世界が、軍に所属することで間近で見ることができたのである。

「ピンルーの親友、花野吉平(4)に続く

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2008年9月23日 (火)

ピンルーの親友、花野吉平(2)

花野吉平の人となりを判断するには、すこし彼の独白を聞いてみるしかないだろう。彼の著書「歴史の証言ー満州に生きて」を前回に引き続きひもとき、数回に分けて見てみたい。

花野が陸軍の文官として仕事を始めてまず驚いたこととして、職業軍人の腐敗と堕落を上げている。「地位を獲得した将官の相克と、名誉欲のための暗躍と陰謀、その政治力学、どこから戦争指導力が出るのか不思議になった」と述べている。「天皇を擁する宮廷、政治家、それに便乗する各界分子の指導力の無さ、天皇の統帥権に疑問を持った」ようである。



この辺は、彼の著書の至るところににじみ出てくる。花野はその理由をこう書いている。


「なぜ、以上のようなことを強く述べなければならないかというと、日本の動向や情報は抗戦中国人からも質問され、教えられることが多いのである。

日本軍閥の派閥葛藤の研究、二二六事件、政治の舞台に踏み出した武力集団、天皇および天皇制と宮廷政治、近衛の信頼度、日本の官僚政治、社会構造、軍服の元帥たる天皇ヒロヒトの写真まで持ってきて、戦争を命令した天皇の中国観やその力量なども質問してくる。日本人の私が思索できなかった角度からの問題までも知る。

日本が真に停戦を希望するなら、戦争の張本人たる天皇が、なぜ自ら書簡を作成しないのか、それは戦争責任者として当然のことではないか、それができないというのは、日本の政治社会では天皇はロボットなのか、我々中国人には理解できないという。

私は知る限りのことを腹を割って答えたが、答えられない問題も多かった。中国の仲間も日本のこと、中国国内における現状の情報を提供してくれた。これを信じるかどうかの判定は難しい心理的みさおの問題である。一歩誤れば、日本の反動派は私を敵に利するスパイの刻印を押すだろう」

ピンルーも花野に質問したのだろうか。




花野は、特務部総務部分室第一班(思想班)の同僚、早水親重(はやみちかしげ)の小野寺機関への異動の経緯をごく短く書いている。

「ある日、近衛首相の秘書細川護貞が、近衛文隆、海軍の小野寺中佐らと蒋介石との直接交渉の話を香港に持ち込んでくる。早水はそれと行動を共にする。以後、早水は思想第一班を離れ、別行動となった」


そして、自分が逮捕監禁された時のことを続けている。

「ある日、憲兵将校が三木班長と私を訪ねてきて、汪兆銘対策の意見を聞きたいという。影佐の目標とその人間性を信頼しない私としては、それが謀略に終わる危険性を説明し、第一回軍務会議で報告して以来、この班が作業準備してきた事実を語った。汪兆銘を新設南京政府主席にすることは、中国の漢奸に仕立て上げるもので、日中戦争停止を念願とする我々の意志とは反する。影佐機関には参加できないことを伝えた」

「その翌日、所属変更の通知が来た。駐支派遣軍司令部、片山中佐の指揮下となる。それから一ヶ月ほどたった夕方、共同租界のアジトにいた私は上海憲兵隊に逮捕される」

「片山中佐は、私が逮捕される前に帰国する飛行機の手配もしてくれたが、自分だけ脱出することはできなかった。後で参謀本部支那課長の今井武夫に会ったときに、片山に命じた通り、日本に脱出していたら逮捕されなかったのだと言われる。三木班長も一緒に逮捕された。憲兵隊の塚本誠少佐は影佐の子分であり、西義顕(にしよしあき)、伊藤吉男、矢野征記、犬養健は影佐機関に関係し、志を魂を売ることになる」

「塚本誠からは、軍の秘密を敵に売った売国奴であり、スパイであり、民間人に流言した非国民として銃殺に処す!とドヤされる」


さて、犬養健はピンルーを男から男を渡り歩く女として描いた「揚子江は今も流れている」という本を書いた、中国通を自認していた議員である。そんな彼も花野にかかると「影佐に志と魂を売った男」となるようである。

また、影佐に抜擢されていた塚本誠は「ある情報将校の記録」(1998年 中公文庫)という、理知的な文章を書く人として認識していたのだが、花野のことを逮捕令状無しに逮捕して、銃殺だ!と怒鳴り散らしていたようである。人間、自叙伝には綺麗な話しか書かないものだと再認識する。もちろん、今私が参考にしている史料も花野吉平の自叙伝であるので、割り引いて読まないといけないのだが、花野の文章にはほとんど自慢話が出て来ない。がんばったけど失敗した、捕まった、そういう話と、当時の天皇を頂点とする日本全体に対する批判、自分の反省の話ばかりである。この辺が、自慢話と責任逃れの言葉を羅列させるだけの軍人とは違うところだ。


また、中国側サイトでは、ピンルーが片山中佐の秘書をしていたという記述や、日本側協力者としての今井武夫の名前を散見することができる。この片山中佐という人物はなかなか日本側史料には出て来なかったのだが、ここで初めて見ることとなった。花野の逮捕時の上司だった。そして今井武夫が片山を通じて花野の逮捕を防ぐために日本への帰国便の便宜を図ろうとしていた、ということらしい。「花野が無事に日本に脱出してほしい」、というピンルーの思いがあったのでは?というのはうがちすぎだろうか。


彼は逮捕後の話を続ける。


「軍法会議もなく抗戦ゲリラの熊剣東その他6名ほど、獄舎内で知り合った中国人が銃殺された。日本人だからといって安心するなと言われた。多くの先輩知人の助命嘆願もあったが、約一年間獄舎に監禁される。一度の取り調べもないのである。1940年3月の汪兆銘南京国民政府の創立翌日、釈放され上海から追放される」

「獄中生活の間に同僚の日本人が自殺し、蘭衣社工作員が漢奸政権と日本憲兵隊に3名銃殺される。鄭蘋如もその一人である。犬養健は「文芸春秋」に中国のマタハリとして憲兵隊情報資料で彼女のことを書いているが、私は別原稿で記述したいと思う」

「私の獄中に発生した戦慄すべき事件を聞き、敵は抗戦中国にあらずして限りない悪徳を積み重ねる日本の指導階級、権力を握る日奸どもにあり、それとの闘争の決意を固める。軍の組織と権力を私物化し、自己の論功と私欲のために地獄の谷間に平気で国策の名において我々をおとしめたのである」



花野はピンルーが、漢奸政権(注:汪精衛配下のジェスフィールド76号を指すだろう)と日本憲兵隊に銃殺されたと書いている。これは微妙な言い回しである。定説ではジェスフィールド76号に銃殺されたことになっている。どっちなのか。両方なのか。私の見立てでは、銃殺を実行したのはジェスフィールド76号だが、裏で指示したのは日本憲兵隊、ということを花野は言いたかったのだと思う。




この記事の最後に、影佐が打ち立てた汪兆銘政権に対する、花野の意見を見てみたい。


「期待したほど民心がついてこず、抗戦中国には影響力が無いことを知ると、日本軍閥得意の、(とても飲めないような)条件を次々に出して、負け犬扱いにしてしまう。この無責任な態度には人間的な恥ずかしさを受ける」

「汪兆銘は、名古屋大学病院の一室で日本の背信を憤りつつ、「没有信」(信が無い)の一言を残して寂しく死んでいったが、この汚名を払うすべもない。日本の悪行は中国ばかりでなく、アジアの各民族に、これに似たような事件を暴露し、日本民族の面目を失墜していることを銘記しなければならない。

今日では、戦争反対とか平和という言葉が人間としての建前のように語られているが、あの頃は政府や国家が民族を狂わす注射薬や投薬を与えたために、悪疫患者というより殺人鬼と化し、平和を考え、戦争停止を語る者は国賊として生命の危険にさらされることを覚悟しなければ行動はできなかった。それは相手も同様である」

さて、戦後、蔡徳金が、元ジェスフィールド76号メンバーから口述を引き出し「汪偽特工総部口述史」という著書を書いたが、その中で、テンピンルーがCC団の命令によって、花野吉平や早水親重ら反戦和平派を動かして、汪精衛政権樹立の妨害をした、といううような事が書いてある。しかし、花野の上記のような意志堅固な言動、行動をみるにつけ、やはり花野の内発的行動とみるべきで、それにテンピンルーが情報提供などで協力をした、ということだろう。


「ピンルーの親友、花野吉平(3)に続く


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2008年9月22日 (月)

ピンルーの親友、花野吉平(1)

日本の敗戦によって戦争が終わり、日本軍に協力していた親日政権側の中国人多数が漢奸裁判にかけられた。

1947年2月3日、丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)が裁かれた。

その補充答弁の中で、丁黙邨の弁護人は、「花野はテンピンルーの親友だった」と述べている。(※中国語原文では「密友」と書かれています。この中国語「密友」を翻訳サイトに入れて日本語を出したら「親友」となりました。逆に日本語「親友」を中国語にすると、「親密的朋友」と出ました。ニュアンスが違っていたらご指摘ください)

中国の作家、葵登山が、その著書「張愛玲 色戒」に詳しく記している(原文は中国語)。日本語に訳して引用してみたい。

「鄭蘋如(テンピンルー)の殺害について、被告人、丁黙邨が知っている範囲では、それは日本軍のしわざだということです。鄭女史は、母親が日本人で、日本で生まれ育ち、日本語が上手ですので、当然日本人の友人も多いです。

鄭女史は1935年から1936年にかけて、日本軍のために情報収集の仕事を始め、常に上海の日本人地区、虹口(ホンキュウ)に出入りしていました。彼女が半分日本人だということは皆が知っていることでした。 

1939年の冬、彼女の友人達の何人かは共産党系だと見られ、日本軍に逮捕されました。日本軍は鄭女史を情報員として使っていましたが、驚いたことに彼女が我が中央政府(注:蒋介石国民党)側と同時に、共産党とも密かに関係があることが分かりました。

鄭女史の親友、日本人の花水(注:花野の誤りだと思われる)らは皆、日本軍に拘禁されて厳重に処分されました。被告人丁黙邨はこれらのことを、事件後に日本軍から聞きました。

当時、日本軍の力は強く、鄭女史の母親は日本人ですし、鄭女史は日本側と関係が深かったので、被告人は鄭女史に対抗する勇気はありませんでした。つまり、日本軍以外に、鄭女史を逮捕できる可能性はなかったのです。

もし、被告人が殺害したのなら、母親はすぐに彼を日本側に告発しているはずです。それがなぜ今ごろになってなのでしょうか。

また、当時、李士群が被告人から権限を奪っていたので、そもそも被告人が誰かを殺害する権限はありませんでした。

以上のことから、鄭女史殺害事件は日本軍がやったことに間違いありません。被告人とは全く関係がありません」

以上は、葵登山が漢奸裁判記録から引用したものと思われるが、ピンルーの母親が弟の鄭南陽と一緒に、ピンルーの殺害事件について告訴していたので、それに対する被告人弁論だと思われる。

読んで分かるとおり、被告人丁黙邨側の方針は、

1.ピンルーは日本側、さらには国民党の政敵である共産党と通じていた  

2.日本と通じているピンルーを逮捕するなどできない。さらには、ジェスフィールド76号内で李士群に権限を奪われていた丁黙邨には殺害は不可能

という、二段構えである。ピンルーは蒋介石国民党にとって敵側の人間だと印象付けを行った後、百歩譲ってそうでないとしても自分には殺すことはできなかった、というもの。この弁論は通らず、丁黙邨は漢奸として死刑になっている。

さて文中「鄭女史の親友、日本人の花水ら」と出てくる。原文だと「郑之密友、日人花水等」となっている。密友は中国語で親友のことである。当時逮捕拘禁されたのは尾崎秀実の発案でできた陸軍内の特務組織に属する花野吉平らと、蒋介石との直接和平交渉派であった小野寺機関に属する早水親重らがいる。原文の「花水」という名前は、花野と早水の混同だと思われるが、共産党との関係で逮捕されたという供述からは、革命思想家であった花野のことを指していると推測できる。(注:花野吉平は共産党員ではなく、むしろ否定的である)

この花野吉平は当時どんな活動をしていたのか、また、ピンルーとどう関わったのか、彼の自叙伝「歴史の証言-満州に生きて」から少し見てみたい。

花野吉平は1935年4月、満州国大同大学に入学している。ここは満州国の国家公務員を要請する大学で、同年10月には満州国民生部地方司社会科に勤務した。1937年7月には退官し帰国。1937年10月にゾルゲ事件に関わったことで有名な尾崎秀実(ほつみ)の進言で、上海派遣軍特務部(1938年2月中支派遣軍特務部と改称)内に、新しい組織として、総務部分室「第一班(思想班)」ができた。花野吉平は、ここに再就職することになった。

第一班の役割は、スパイでも謀略でもなく、蒋介石国民党側などの抗日中国人に対して、どうしたら戦争を停止できるかのコミュニケーションを取ることだった。担当将校は菅野中佐、班長は三木亮孝で、早水親重と花野吉平の2名が嘱託として彼を補佐、班員は全部で十数名いた。班員はそれぞれの立場と思想を持っていたが、皆、シビリアン(文官)として戦争終結を追求することでは一致していた。そのためか、この班は、総務部内の職業軍人からは嫌われていたようである。

満鉄からは、後の共産党議員、ゾルゲ諜報団の一員であった東亜同文書院中退の中西功も参加した。中西は尾崎秀実が送り込んだ情報員であった。

第一回の報告会議が東京で開かれた。第一班からは菅野中佐、花野、中西が参加、参謀本部からは影佐も参加していた。報告場所は陸軍省軍務局である。花野はその席でこう報告したと記述している。

「中国からの撤兵(てっぺい)が基本であることを軍部内に徹底的に統一すること、現地の謀略軍人と戦争拡大派に対する断固たる粛正を提示した」

「中国側からの情報として、内閣、陸軍省、海軍省、参謀本部それも各系統から、外務省、民間団体その他が、重慶工作(注:蒋介石国民党和平工作)と称してうごめいているこのていたらく、近衛の関係といっても雑多で具体的対策がなく、日本軍閥の謀略と侵略を停止する諸策もなく、今まで通りの日本帝国主義と変わりないこと、そして日本を信じない彼らの決意がただものでないこと、を伝え政策変更の方策をどうするかと問題を叩きつけたのである」

2009年12月6日追記

花野の発言の中に、重慶和平工作における「近衛の関係」とあるが、これは近衛文麿が上海に密かに派遣した早水親重と近衛忠麿(水谷川忠麿)らによる和平工作だと思われる。

なかなか勇ましい発言である。自分の所属する陸軍省内で本当にこれを言ったのならすごい人物だと思う。

すると、軍務課長の柴山なる人物が、「職業軍人特有の虚勢のドスのきいた声」をあげた。

柴山が詰問する。

「影佐からの汪兆銘工作を君らも知っているだろうが、その対策はどうする!」

花野が答える。

「日本軍の撤兵が原則であり、和平工作のくさびとしての政治行動の自由を保証すべきである。

私が中国人なら、現在の日本を信じない。必ずがんじがらめに拘束し、偽の政権を作らせて民族の漢奸にしてしまうであろう。

だから私なら対中政策を変更する日本の新政治体制を要求する。その実現があるならば、汪兆銘だけでなく、抗戦中国も理解するであろう」

当然これは物議を呼んだようである。

新政治体制について聞かれた花野は、「具体的には研究したい」と述べるに留まっているので、「はったり」も含んだ発言だったようだ。

同行した中西功は三民主義について説明した。影佐大佐は終始沈黙した。会議後、上司である菅野中佐が、「影佐禎昭とは同期で、秀才の陸軍官僚エリートだが、名誉欲が強い男なので注意しろ」とアドバイスされている。

報告会は月に2度あり、二回目以降は、三木班長や早水親重も参加しているようである。上海では新聞記者の松本重治や、日銀派遣の岡崎嘉平太などの協力を受けている。

「ピンルーの親友、花野吉平(2)」へ続く

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