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2008年9月22日 (月)

ピンルーの親友、花野吉平(1)

日本の敗戦によって戦争が終わり、日本軍に協力していた親日政権側の中国人多数が漢奸裁判にかけられた。

1947年2月3日、丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)が裁かれた。

その補充答弁の中で、丁黙邨の弁護人は、「花野はテンピンルーの親友だった」と述べている。(※中国語原文では「密友」と書かれています。この中国語「密友」を翻訳サイトに入れて日本語を出したら「親友」となりました。逆に日本語「親友」を中国語にすると、「親密的朋友」と出ました。ニュアンスが違っていたらご指摘ください)

中国の作家、葵登山が、その著書「張愛玲 色戒」に詳しく記している(原文は中国語)。日本語に訳して引用してみたい。

「鄭蘋如(テンピンルー)の殺害について、被告人、丁黙邨が知っている範囲では、それは日本軍のしわざだということです。鄭女史は、母親が日本人で、日本で生まれ育ち、日本語が上手ですので、当然日本人の友人も多いです。

鄭女史は1935年から1936年にかけて、日本軍のために情報収集の仕事を始め、常に上海の日本人地区、虹口(ホンキュウ)に出入りしていました。彼女が半分日本人だということは皆が知っていることでした。 

1939年の冬、彼女の友人達の何人かは共産党系だと見られ、日本軍に逮捕されました。日本軍は鄭女史を情報員として使っていましたが、驚いたことに彼女が我が中央政府(注:蒋介石国民党)側と同時に、共産党とも密かに関係があることが分かりました。

鄭女史の親友、日本人の花水(注:花野の誤りだと思われる)らは皆、日本軍に拘禁されて厳重に処分されました。被告人丁黙邨はこれらのことを、事件後に日本軍から聞きました。

当時、日本軍の力は強く、鄭女史の母親は日本人ですし、鄭女史は日本側と関係が深かったので、被告人は鄭女史に対抗する勇気はありませんでした。つまり、日本軍以外に、鄭女史を逮捕できる可能性はなかったのです。

もし、被告人が殺害したのなら、母親はすぐに彼を日本側に告発しているはずです。それがなぜ今ごろになってなのでしょうか。

また、当時、李士群が被告人から権限を奪っていたので、そもそも被告人が誰かを殺害する権限はありませんでした。

以上のことから、鄭女史殺害事件は日本軍がやったことに間違いありません。被告人とは全く関係がありません」

以上は、葵登山が漢奸裁判記録から引用したものと思われるが、ピンルーの母親が弟の鄭南陽と一緒に、ピンルーの殺害事件について告訴していたので、それに対する被告人弁論だと思われる。

読んで分かるとおり、被告人丁黙邨側の方針は、

1.ピンルーは日本側、さらには国民党の政敵である共産党と通じていた  

2.日本と通じているピンルーを逮捕するなどできない。さらには、ジェスフィールド76号内で李士群に権限を奪われていた丁黙邨には殺害は不可能

という、二段構えである。ピンルーは蒋介石国民党にとって敵側の人間だと印象付けを行った後、百歩譲ってそうでないとしても自分には殺すことはできなかった、というもの。この弁論は通らず、丁黙邨は漢奸として死刑になっている。

さて文中「鄭女史の親友、日本人の花水ら」と出てくる。原文だと「郑之密友、日人花水等」となっている。密友は中国語で親友のことである。当時逮捕拘禁されたのは尾崎秀実の発案でできた陸軍内の特務組織に属する花野吉平らと、蒋介石との直接和平交渉派であった小野寺機関に属する早水親重らがいる。原文の「花水」という名前は、花野と早水の混同だと思われるが、共産党との関係で逮捕されたという供述からは、革命思想家であった花野のことを指していると推測できる。(注:花野吉平は共産党員ではなく、むしろ否定的である)

この花野吉平は当時どんな活動をしていたのか、また、ピンルーとどう関わったのか、彼の自叙伝「歴史の証言-満州に生きて」から少し見てみたい。

花野吉平は1935年4月、満州国大同大学に入学している。ここは満州国の国家公務員を要請する大学で、同年10月には満州国民生部地方司社会科に勤務した。1937年7月には退官し帰国。1937年10月にゾルゲ事件に関わったことで有名な尾崎秀実(ほつみ)の進言で、上海派遣軍特務部(1938年2月中支派遣軍特務部と改称)内に、新しい組織として、総務部分室「第一班(思想班)」ができた。花野吉平は、ここに再就職することになった。

第一班の役割は、スパイでも謀略でもなく、蒋介石国民党側などの抗日中国人に対して、どうしたら戦争を停止できるかのコミュニケーションを取ることだった。担当将校は菅野中佐、班長は三木亮孝で、早水親重と花野吉平の2名が嘱託として彼を補佐、班員は全部で十数名いた。班員はそれぞれの立場と思想を持っていたが、皆、シビリアン(文官)として戦争終結を追求することでは一致していた。そのためか、この班は、総務部内の職業軍人からは嫌われていたようである。

満鉄からは、後の共産党議員、ゾルゲ諜報団の一員であった東亜同文書院中退の中西功も参加した。中西は尾崎秀実が送り込んだ情報員であった。

第一回の報告会議が東京で開かれた。第一班からは菅野中佐、花野、中西が参加、参謀本部からは影佐も参加していた。報告場所は陸軍省軍務局である。花野はその席でこう報告したと記述している。

「中国からの撤兵(てっぺい)が基本であることを軍部内に徹底的に統一すること、現地の謀略軍人と戦争拡大派に対する断固たる粛正を提示した」

「中国側からの情報として、内閣、陸軍省、海軍省、参謀本部それも各系統から、外務省、民間団体その他が、重慶工作(注:蒋介石国民党和平工作)と称してうごめいているこのていたらく、近衛の関係といっても雑多で具体的対策がなく、日本軍閥の謀略と侵略を停止する諸策もなく、今まで通りの日本帝国主義と変わりないこと、そして日本を信じない彼らの決意がただものでないこと、を伝え政策変更の方策をどうするかと問題を叩きつけたのである」

2009年12月6日追記

花野の発言の中に、重慶和平工作における「近衛の関係」とあるが、これは近衛文麿が上海に密かに派遣した早水親重と近衛忠麿(水谷川忠麿)らによる和平工作だと思われる。

なかなか勇ましい発言である。自分の所属する陸軍省内で本当にこれを言ったのならすごい人物だと思う。

すると、軍務課長の柴山なる人物が、「職業軍人特有の虚勢のドスのきいた声」をあげた。

柴山が詰問する。

「影佐からの汪兆銘工作を君らも知っているだろうが、その対策はどうする!」

花野が答える。

「日本軍の撤兵が原則であり、和平工作のくさびとしての政治行動の自由を保証すべきである。

私が中国人なら、現在の日本を信じない。必ずがんじがらめに拘束し、偽の政権を作らせて民族の漢奸にしてしまうであろう。

だから私なら対中政策を変更する日本の新政治体制を要求する。その実現があるならば、汪兆銘だけでなく、抗戦中国も理解するであろう」

当然これは物議を呼んだようである。

新政治体制について聞かれた花野は、「具体的には研究したい」と述べるに留まっているので、「はったり」も含んだ発言だったようだ。

同行した中西功は三民主義について説明した。影佐大佐は終始沈黙した。会議後、上司である菅野中佐が、「影佐禎昭とは同期で、秀才の陸軍官僚エリートだが、名誉欲が強い男なので注意しろ」とアドバイスされている。

報告会は月に2度あり、二回目以降は、三木班長や早水親重も参加しているようである。上海では新聞記者の松本重治や、日銀派遣の岡崎嘉平太などの協力を受けている。

「ピンルーの親友、花野吉平(2)」へ続く

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