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2008年10月 3日 (金)

ピンルーの親友、花野吉平(4)

花野吉平は自叙伝「歴史の証言」 の中で、鄭蘋如(テンピンルー)らとのある会合の様子を書いているので少し引用する。

その頃、新四軍(注:中国共産党軍)工作員が中国通信社の知人とアジトに来て、埠頭憲兵隊に逮捕されている二名の工作員の救助を依頼された。三木(注:花野の上司)は埠頭特務機関長の桜庭中佐と懇談し、(日本側)機関工作員だと偽り上海まで同行してくる。

(中略)


一夕、フランス租界の中華菜館でお礼の宴に招待される。当時は新四軍工作員も、中央情報局(注:蒋介石国民党側)工作員も、中国共産党軍と国民党軍が一番協力体制にあった期間なので、上海では連絡が密のようであった。中央情報局から、軍用犬訓練のエキスパートと言われる将校と鄭蘋如が出席した。三木、早水、私と、中国側8名で賑やかな酒盛りである。


我々3人が強くここで主張したことは次のような要旨であった。

一、軍機関に属して日本軍閥の堕落と日本帝国主義を肌で感じている。軍機関に属しているのは、中国民族の最前線で活躍する工作員の皆さんを民族の戦士として尊敬するもので、漢奸にしようとか、現状維持のスパイ謀略のためではない。我々にも同志が軍部にも民間にもおり、日本革命の戦士として、死をいとわず秘策を実践する覚悟である。

二、両国民の政治革命は両国の実践者の力量によるもので、日本はわれら同志によって行動するが、中国は諸君らによって実践すべきであり、中国民族統一の思想として孫文の三民主義を支持する。そこには両民族の同志的結合が必要である。

三、現実の惨憺たる戦争を早急に停止する方策を発見して、われらは日本軍閥討伐と日本革命に挺身するが、その方略に協力してほしい。


中国側ははじめ意外な顔をしていたが、我々は、行為をもって皆さんに信じてもらいたいと話した。具体的には工作員の救助が多かった。わが班に好意ある憲兵下士官が随分協力してくれて、死刑の中国人を救ったこともあるが、失敗もした。無益な戦闘を避けるため、ある地域では特務機関の工作で民衆の治安の復活ができたこともある。占領地区、非占領地区の物資交流の不合理を調整してくれた機関員の協力もあって、我々の実績を評価したのか、新四軍の工作員は好意的に対談するようになった。


中国側から資料、文献をもらう。こちらが調べたい資料なども集めてくれるし、なお実証を必要とするなら、人間を紹介すると言う。私は土肥原、板垣等の支那班軍閥による中国での謀略を、中国側がどうリストアップしているかを知りたくて、要求したことがある。この資料は誠に興味深いもので、軍務局の会議で同席した影佐禎昭も出てくる。日本軍は、これら札付きの軍人をたらい回しに使っている。

さて、この会合については、中国側の新聞記事(茂名晩報 2008年6月3日)にも歴史家の調査結果として短く掲載された。日本語に訳して引用する。

この会議について二組の史料があります。その要点は次の通りです。1938年のある日、偉達飯店(いだつはんてん)にて、早水、花野ともう一人の日本人が、そして中国側からは、上海新聞学校の陳則高、鄭蘋如、鄭南陽などの人が参加。会議のテーマは「どうすれば戦争を避け、平和を得ることができるか」でした。この会議に参加した8名の中国人の中に新四軍の代表がいました。陳則高は中国共産党との関係が比較的密接で、また鄭蘋如も中国共産党と連絡、協力関係があった可能性があると言えます。

※一口メモ:上記の会合が行われた偉達飯店は1930年代上海のシャンゼリゼと称されたフランス租界ジョッフル通り(現在の准海中路(ワイハイチュウロ))沿いにあった高級ホテル。エレベーターホールには各国語を話すボーイがおり、後に銭塘(せんとう)マンションと名を変え高級集合住宅となった。ピンルーの故事を元にした小説「色戒」(映画Lust, Caution「ラスト コーション」の原作)の作者、張愛玲はここを一時期住居としていた。

花野著「歴史の証言」には、花野が鄭蘋如の家族とも交流をもっていた記述が散見される。最初に、花野がピンルーの父テンエツと交流があったと思われる部分を引用する。

(前略)私はこの事実を鄭蘋如の父鄭鉞(テンエツ)から直接聞くことができた。影佐は資金を出して暴漢に不穏な行動を策させたり、鄭鉞の妻が日本人なので、日本官権の通訳の日本人から脅迫させたり、中国将校に日本女性を情婦として紹介して情報を取っていた低級な男だと非難した。リストに影佐は東京帝国大学の聴講生ということが記されているので驚いたが、こんな悪党が汪兆銘工作の責任者になるのだから、中国の民衆、特に知識層は知っているので相手にはしないのである。こういう悪党軍人が功績を掠奪して将官になるのである。この連中が日本軍閥のエリート官僚であるから、その人間的品性を計ることができる。

次に、ピンルーの下の弟、南陽との交流である。最初の話はピンルーの死後、つまり、花野が逮捕監禁され日本に強制送還された後の、彼にとって二度目の上海での話である。年代的には1942年から1943年ごろと思われる。

(前略)鈴江言一は上海の満鉄公館(所長伊藤武雄)に居候しており、電話で呼ばれたので行ってみる。鄭南陽と共に、鈴江の居住する屋根裏の部屋で、碁を打ち中国の植物図鑑などを眺めて、夕食を下の食堂で一緒にしながら放談するのが楽しかった。

ピンルーの上の弟、海澄は中国空軍の戦闘機乗りで日本軍と戦っていたが、下の弟、南陽は普通に日本人と接していたようである。上記の記述によると花野と南陽は囲碁仲間だったようだ。

次に1945年1月、花野が横浜を出て香港を皮切りに台北、上海、北京、満州の奉天、新京を一ヶ月ほど旅行したときのことを引用する。

上海から鄭南陽が奉天まで同行する。彼は医学研修のため、奉天医大病院(注:満鉄経営の奉天南満医大病院だと思われる)を希望したのである。北京では橘僕に会い、二日間私の行動計画について激論をした。満州放棄については、橘も腹を決めていたらしく、満州の仲間に連絡するよう伝言され、近く奉天、ハルピンを訪ねる予定を組むと言っていた。奉天ではヤマトホテルに宿泊している福田徳三郎を訪ねて、彼の意見を聞き、鄭南陽を託す。

(中略)

奉天興亜塾には一週間ほど滞在した。鄭南陽は私に抗戦中国(注:蒋介石国民政府軍)の中央情報工作員、中国共産党工作員が奉天に潜伏していることを告げる。長く研修の続かないことを教えられた。

※一口メモ:鄭南陽は、奉天で医学研修を終え、戦後上海で医者として活躍、1980年代に米国に移住、2003年に他界している。満州の奉天というと、1933年、山口淑子氏が義理の父、李際春氏から「李香蘭」の名前をもらった場所だ。13才の李香蘭が、奉天ラジオ局の満州新歌曲という番組で、映画の主題歌「漁光曲」 などを披露した場所である。花野は1939年頃、彼の反戦和平活動がうまく行かない時、

「そのころ私は租界内のアジトで寝起きしていた。中国人工作員諸君が当時流行の「開路的先鋒」「漁光曲」「碼頭工人の歌」などのレコードを持ってきて慰めてくれた」

と書いている。

「音楽好きでラジオで歌も披露していたというピンルーが、花野に漁光曲のレコードを持って行って一緒に聴いた、そしてもしかしたら歌って聴かせたのではないか?」

と、私は少し想像を膨らましては、

「いやそんな出来すぎたことはあるまい」

と思い返したりしている。

しかし、米国在住のピンルーの妹、鄭天如さんが、

「今だから言えますが、花野さんは姉のことが好きだったと思います・・・」

とテレビインタビューに答えている。

まったく無い話でもなかったのかもしれない。

以上で花野吉平の話を終わりにします。

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コメント

松井様
コメント頂きありがとうございます。このブログも小休止しておりましたので、気付くのが遅れてすみませんでした。花野吉平氏、お勤め先の専務様でしたか。花野氏を調べながら、情熱の持つエネルギーのすごさを感じていました。よくぞあのような活動、言動をされて、生きて終戦を迎えられたな、とさえ思いました。現代の同じ20代の世代には思いもよらないエネルギーですね。

かくいう私も、60年代70年代の学生運動の次の世代ですので、学生運動そのものが理解ができずに成人しました。ずいぶんと歳月を経た今の歳になって、ようやく歴史や政治に興味を持つようになりました。自分の芯に関しては、今でも模索中ですが。

投稿: bikoran | 2014年10月 9日 (木) 23時03分

最初に勤めた会社の専務でした。あれは1971年ですからまさしく新左翼による学生運動の最中で、その周辺にいた自分としては、どう生きて行くのか迷い、結婚も控え矛盾した人生をおくっていました。入社試験の最終面接をされていたと思います。きっと、このような経歴をもっていたので、左翼思想の塊だったのにも拘らず、採用になったのでしょう。おかしな人が多いのに納得です。

投稿: 松井昭博 | 2014年9月30日 (火) 20時51分

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