« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月の4件の記事

2008年10月26日 (日)

上海の日本語新聞「大陸新報」より

ピンルーが処刑されたと思われる1940年2月前後の大陸新報を見てみた。

この年の上海は記録的な寒さだったようだ。上海事変で家を破壊されたり日本人に奪われた中国人難民の凍死者が、1月28日29日の二日間だけで190名を数え、河向こうには道ばたに凍死体がごろごろしている、という記事があった。「河向こう」とは、日本人地区から蘇州河をガーデンブリッジで渡った向こう側、イギリス、フランス租界のことで、当時の上海の日本人は租界地区をそう表現していたのだろう。日本人地区は豊かで凍死者は一人も出ないのに、河向こうはひどい状態だということが言いたいようである。

一方、日本人地区は内地と同じような木造住宅が増えてきて、租界地区のような重厚な石造り、レンが造りの建物にしないと火事の危険が大きい、我々日本人は木造住宅を建てることを控えないといけない、というような記事もあった。

ピンルーが処刑された日ははっきりとはわかっていないが、一説によると2月1日とも言われている。ピンルーの妹、鄭天如さんは、インタビューで、家族がピンルーの処刑を聞いた日は「2月の冷たい雨の降る日だった」と語っている。上海の2月は東京以上に雨の少ない季節であるが、大陸新報によれば2月1日は冷たい雨だった。夜半からは3年振りの雪となり、翌2月2日いっぱい降り続いた。ピンルーの遺体は降り積もる雪の下に眠ったのだろうか。2月3日は一転快晴となったが、最低気温がマイナス9℃を記録した。記事の脇には雪だるまをつくって遊ぶ日本人地区の子供達の写真が載っている。

また、定説としてこのころになるとジェスフィールド76号の成果によって、抗日テロが収まっていたはずなのだが、毎日のようにテロ、あるいは拳銃強盗の記事が載っている。治安は相当ひどい状態だったようだ。テロは抗日に限らない。1940年1月7日には、上海租界の行政トップの工部局フィリップ総監が車で通勤途上、狙撃されている。租界を拡大する計画を進めていた工部局に対する中国人愛国者のしわざとされていた。

また、2月3日には悲しい記事があった。20代前半の中国人女性が、フランス租界で銃に撃たれた遺体となって横たわっていたという記事だ。最初の記事では身元不明となっていたが、翌日の記事には、工部局警察の調査によって、彼女は蒋介石国民党が上海に送り込んだ抗日工作員だと判明した。彼女にはやはり蒋介石側工作員だった夫がいたが、ジェスフィールド76号に殺されていた。その後彼女は親日政権側に寝返ったために、蒋介石国民党側の手で裏切り者ということで暗殺された、という事件だった。

私はこの記事を読んで、一瞬ピンルーを思い浮かべたが、既婚者ということで人違いだった。しかし翌年1941年に作られた中華電影の映画「上海の月」 を思い出さざるを得ない。この映画のヒロイン袁露糸(エン ローシ)はピンルーがモデルである。その袁露糸は、親日側に寝返ったがために抗日テロで暗殺されるのである。脚本家はこういった事件を参考にしていたのだろう。

2月25日の記事。女優、陳雲裳(1919年生まれ)が、1940年3月30日の汪精衛政権樹立に先立ち、「歓迎 汪精衛の歌」というのを披露したという記事があった。これまでの定説では、李香蘭と共演した「万世流芳」(1944年)が撮影されている頃に、上海に入港した日本の軍艦での式典で花束を贈る役目を果たしたために、親日のレッテルを貼られた、ということであった。「歓迎 汪精衛の歌」は、タイトルからしてそのものずばりの反蒋介石国民党のプロパガンダである。彼女は戦後、これらの理由で告訴され漢奸裁判にかけられたが、無事釈放された。おそらく強制された、ということだろう。彼女はその後香港に渡り、服飾デザイナーとなったようである。

| | コメント (2)

2008年10月20日 (月)

丁黙邨狙撃事件の新聞の扱い

丁黙邨狙撃事件の翌日の日本語新聞をマイクロフィルムで見てみた。当時の上海では、陸軍影佐機関の要請で、朝日新聞が協力し、日本軍の”御用新聞”として「大陸新報」なる日本語朝刊紙が発行されていた。事件は1939年12月21日午後6時20分頃起こっているので、記事は早ければ翌日朝刊、遅くとも翌々日朝刊には載るはずである。

丁黙邨は1939年8月の国民党第六回全国代表大会で中央執行委員に選ばれており、汪精衛国民党の閣僚といってもいい重鎮である。その彼が狙撃されたとなれば、ニュースバリューは大きいはず。ところが、12月22日、23日前後の社会面の記事を見ると、別の場所での無名の中国人の暗殺事件や、2階建てバスが運転を誤って道路脇の店舗に突っ込んだというような交通事故の記事、クリスマス商戦の記事などが並んでいるだけで、丁黙邨の狙撃事件に関しては全く触れられていない。

日本側御用新聞「大陸新報」では、検閲により事件を報道することは禁じられたのだろう。影佐機関(通称、梅機関)は事件を秘密裏に処理しようとしたようだ。以前、「梅機関 丁黙邨側工作報告」なる日本軍部内向けレポートの1939年末から1940年初にかけてを見てみたが、やはり丁黙邨狙撃事件の報告は無かった。日本語情報としては事件を封印しようとしていたようである。

Photo

23一方、「申報」「中央日報」などの中国側新聞では、事件翌日の12月22日、続報として23日に記事になっている(写真はsina新浪サイトより)。この時点では誰が狙撃されたか分かっていなかったようである。汽車という見出しがあるが、中国語で自動車の意味である。静安寺路のシベリア毛皮店前で、自動車に向かって銃が撃たれた、暴徒は4人、幸いにけが人無し、という内容である。暴徒4人の中にはピンルーは入っていないだろう。嵇希宗ら待ち伏せの組が4名いて、捕まらずに逃走したようである。

そして12月31日、中央日報でスクープのような形で初めて丁黙邨の名前が出た。丁逆黙村と書いてある。「逆」という字が入っているのでの、抗日側新聞であることがわかる。黙邨の「邨」は当時「村」を使っていたようだ。また、文中に「其女友」という文字がある(赤く色を付けた部分)。つまり、丁黙邨の女友達、おそらく愛人に近い意味があると思うが、によって銃撃された、という記事内容であろう。見出しには重傷を負って生死不明とある。定説では30危険を事前に察知した丁黙邨が、脱兎のごとく店を飛び出して防弾装備の車に乗り込み、無傷で現場を立ち去っているのだがどうなのだろうか。前に松崎啓次の「上海人文記」の記事を載せたが、そこにはやはり怪我を負った丁黙邨が入院していたという内容が書かれていた。一方林秀澄氏談話速記録では、銃撃を無傷で抜け出した丁黙邨がその足で宴会の席に駆けつけている。

影佐機関員の晴氣慶胤(はるけよしたね)の著書「謀略の上海」によると、ジェスフィールド76号内の反丁黙邨派である呉志宝が新聞社に情報リークしたようである。新聞社は「桃色テロ」として特に夕刊紙が連日おもしろおかしく書き立てたようだ。愛人スパイに浮気がばれてあやうく暗殺されかけたのだと。呉志宝はこれにあきたらず、76号内で糾弾大会を開いて丁黙邨の引退決議をしてしまった。76号内でナンバー2の立場にあり、部下から突き上げを受けていた李士群は、これに乗じて丁黙邨一派を一掃してしまった。事件を利用した李士群派の勝利である。李士群は、事前にこの狙撃プランを察知していた可能性がある。

予想以上の早い展開に、ジェスフィールド76号を影で操る影佐禎昭は、急遽、汪精衛側の重鎮、周仏海と相談し、正式に李士群をジェスフィールド76号の唯一の長とすること、汪精衛政権樹立の後、社会福利部を新設し、丁黙邨に部長職を与えることを約束することに決め、円満解決となった。

この事件は、結果的に、李士群派だけでなく、日本軍の利益ともなった。ピンルーを逮捕し厳罰を与える口実ができ、今後の日本側の情報漏洩を防ぐことができる。同時にジェスフィールド76号内で内部抗争に頭を悩ます必要がなくなる。そして何よりも、ピンルーの逮捕は「解放条件付きの拉致」、あるいは、「交換条件付き誘拐」の意味がある。ピンルーの妹、鄭天如さんのインタビューによると、何度も何度も執拗に、彼女の父親、主席検察官のテンエツを親日政権側に寝返らせようと、日本側が苦労していたことがわかる。こちらの記事後半の、ピンルーの妹の証言を参照してください。 少なくとも、事件処理における日本側の最大の目的は、検察トップのテンエツを親日側に引きづりこみ日本側に都合のいい治安維持に利用しようというものだったのだろう。

結果的にこれはテンエツが、娘の命を犠牲にしてまでも信念を曲げなかったことによってかなうことはなかった。しかし、ピンルーの処刑から2ヶ月も経たないうちに、影佐禎昭念願の汪精衛政権が誕生した。また、李士群は上海の裏社会のボスとなって上海の外にまで権勢を誇るようになっていった。力をつけた李士群は、日本軍の謀略によって3年後に毒殺されるのを知るよしもなかった。

| | コメント (0)

2008年10月 9日 (木)

ピンルーの妹、鄭天如さんの記者会見記事

ピンルーの妹、鄭天如(鄭静知 テン ジンチー)さんのロスアンジェルスでの記者会見の英文記事を見つけので転載しました。2007年9月、映画ラストコーション(Lust, Caution)の公開される直前の記者会見の記事です。

彼女は5人兄弟の末っ子のピンルーの妹。生まれたとき親にもらった名前は「天如」でしたが、今は通名として「静知」という名前を使っているようです。

「静けさを知る」、この名前にこめられた思いはそのまま彼女の一家が経験した荒れ狂う歴史を物語っているように感じます。

Zheng Pingruが鄭蘋如(テンピンルー)、
Zheng Jingzhiが妹、鄭静知(テンジンチー)さん、
Zheng Yueが父親、鄭鉞(テンユエ ていえつ)です。

英文の後に日本語訳を載せました。

引用開始

Some journalists have described Zheng Pingru as a coquettish lady and a hetaera. They alleged that many young men were attracted to her beauty and wanted to elope with her when she was caught and imprisoned by the enemy.

These reports irritated Zheng Jingzhi. She said that she could understand how art exaggerates and distorts real life according to the artist's imagination, but she couldn't accept the fact that film viewers would relate to her sister as a heroine who indulged in lustful acts. She stated that such a portrayal was disrespectful to a person who had sacrificed her life for her country.

She also said that Zheng Pingru was secretly murdered by a spy organization run by the Japanese Puppet Regime in 1940 because of a failed assassination plot. At that time Zheng Pingru was only 23 years old and had only enjoyed one short-term boyfriend before she died.

Zheng Jingzhi mentioned that their mother, Hanako Kimura, was Japanese. During the Anti-Japanese War she remained in Shanghai with her husband, Zheng Yue, rather than return to her mother country.

After the assassination plot failed, the Japanese Puppet Regime agreed that if Zheng Yue would work for them, they would set Zheng Pingru free. Although he clearly loved his daughter, Zheng Yue refused their request. Moreover, Hanako Kimura supported her husband. Eventually, Zheng Pingru was secretly murdered in prison.

Zheng Jingzhi added that their eldest brother, a Chinese pilot, also sacrificed his life for his country.

Zheng Jingzhi said that although she was only twelve or thirteen years old at that time, she still can clearly remember everything.

Ang Lee wins the Golden Lion at the Venice Film Festival on September 8

(China.org.cn by Chen Lin, September 14, 2007)

魅惑的でさらには高級売春婦としてテンピンルーを記述したジャーナリストもいました。 彼らは、当時多くの男性が彼女の美しさに引き付けられ、彼女が敵によって捕らえられて投獄されたときは、彼女と駆け落ちしたがっていたほどだ、と書き立てました。

これらの報道は鄭静知(テンジンチー)をいらだたせました。 彼女は芸術家の想像によって、現実が誇張され歪めるのは理解できると言いましたが、映画を見た人が貪欲な行為に満足したヒロインとして彼女の姉を見なすのではないか、ということを認めることができませんでした。 人生を国に捧げた人に対し、そのような描写は失礼であると述べました。

また、彼女は、ピンルーは1940年に暗殺工作に失敗したため、日本の傀儡(かいらい)政府が運営するスパイ組織によって秘かに殺害されたと言いました。当時 ピンルーはわずか23歳※で、亡くなる前に短い期間おつきあいしたボーイフレンドが一人いただけでした。
(※妹の鄭静知さんは姉ピンルーが23歳の時亡くなったとかたくなに主張している。史料からすると、おそらくピンルーが満25歳の時である)

鄭静知は、母親木村はなが日本人であると言及しました。 抗日戦争の間、木村はなは母国に戻るのではなく、彼女の夫、テンエツと共に上海に留まりました。

暗殺工作が失敗した後、日本の傀儡政府は、自分らのために(主席検察官である)テンエツが働いてくれるなら、ピンルーを釈放すると伝えてきました。 テンエツは娘を強く愛していましたが、この提案を拒否しました。 さらには母親木村はなも夫を支持しました。 ついにピンルーは獄中で秘かに殺害されてしまいました。

鄭静知は、また、彼らの一番年上の兄(中国軍パイロット)も彼の人生を国に捧げたと付け足しました。

鄭静知は、この事件の時、ほんの12歳か13歳※でしたが、彼女はまだ全てをはっきり覚えていると語りました。(※史料からは13歳か14歳と思われる)

アン・リー監督は9月8日にベネチア映画祭で金獅子賞を獲得しました。

(2007年9月14日 チェン・リン)

以上引用部分終わり

さて、ピンルーの故事について多少なりとも知った私としては、妹、天如さんがこのような主張をするのは当然であり、またすべきだったと思います。同時に、映画ラストコーションの制作者側も、このような反応が出ることは当然と受け止めるべきであり、それに過剰反応する必要は無いでしょう。実際に制作者側はなんら反論していません。

天如さんは、「事実は事実で、映画は芸術作品であり、それぞれは別物」、と言いたいだけでしょう。そして今まで明らかになっていなかった新たな事実を、2007年になって少し披露してくれたのです。ピンルーの直接の記憶を持つ人はもはや彼女だけです。素直に耳を傾けたいと思います。こちらにテンピンルーの記事を最新の情報を参考に加筆訂正してありますので、ご覧下さい。

私の感想は、「親日」=「漢奸」の恐怖は想像以上に強いものがあったのでは?というものです。天如さんも、鄭一家が抗日中国人の一家だったということを、兄の空軍入隊のこと、日本人の母が戦争勃発後も日本に帰らなかったこと、父が娘の命を犠牲にしてまで親日にすりよらなかったことを挙げて、強調しています。

さて、当時日本側に同調し、正規軍同士の軍事衝突を避けたという意味に限って言えば、つかのまの平和を上海にもたらした中国人漢奸たち。彼ら彼女らについての考察は、いずれ当ブログで必要になるかなと思っています。

| | コメント (0)

2008年10月 3日 (金)

ピンルーの親友、花野吉平(4)

花野吉平は自叙伝「歴史の証言」 の中で、鄭蘋如(テンピンルー)らとのある会合の様子を書いているので少し引用する。

その頃、新四軍(注:中国共産党軍)工作員が中国通信社の知人とアジトに来て、埠頭憲兵隊に逮捕されている二名の工作員の救助を依頼された。三木(注:花野の上司)は埠頭特務機関長の桜庭中佐と懇談し、(日本側)機関工作員だと偽り上海まで同行してくる。

(中略)


一夕、フランス租界の中華菜館でお礼の宴に招待される。当時は新四軍工作員も、中央情報局(注:蒋介石国民党側)工作員も、中国共産党軍と国民党軍が一番協力体制にあった期間なので、上海では連絡が密のようであった。中央情報局から、軍用犬訓練のエキスパートと言われる将校と鄭蘋如が出席した。三木、早水、私と、中国側8名で賑やかな酒盛りである。


我々3人が強くここで主張したことは次のような要旨であった。

一、軍機関に属して日本軍閥の堕落と日本帝国主義を肌で感じている。軍機関に属しているのは、中国民族の最前線で活躍する工作員の皆さんを民族の戦士として尊敬するもので、漢奸にしようとか、現状維持のスパイ謀略のためではない。我々にも同志が軍部にも民間にもおり、日本革命の戦士として、死をいとわず秘策を実践する覚悟である。

二、両国民の政治革命は両国の実践者の力量によるもので、日本はわれら同志によって行動するが、中国は諸君らによって実践すべきであり、中国民族統一の思想として孫文の三民主義を支持する。そこには両民族の同志的結合が必要である。

三、現実の惨憺たる戦争を早急に停止する方策を発見して、われらは日本軍閥討伐と日本革命に挺身するが、その方略に協力してほしい。


中国側ははじめ意外な顔をしていたが、我々は、行為をもって皆さんに信じてもらいたいと話した。具体的には工作員の救助が多かった。わが班に好意ある憲兵下士官が随分協力してくれて、死刑の中国人を救ったこともあるが、失敗もした。無益な戦闘を避けるため、ある地域では特務機関の工作で民衆の治安の復活ができたこともある。占領地区、非占領地区の物資交流の不合理を調整してくれた機関員の協力もあって、我々の実績を評価したのか、新四軍の工作員は好意的に対談するようになった。


中国側から資料、文献をもらう。こちらが調べたい資料なども集めてくれるし、なお実証を必要とするなら、人間を紹介すると言う。私は土肥原、板垣等の支那班軍閥による中国での謀略を、中国側がどうリストアップしているかを知りたくて、要求したことがある。この資料は誠に興味深いもので、軍務局の会議で同席した影佐禎昭も出てくる。日本軍は、これら札付きの軍人をたらい回しに使っている。

さて、この会合については、中国側の新聞記事(茂名晩報 2008年6月3日)にも歴史家の調査結果として短く掲載された。日本語に訳して引用する。

この会議について二組の史料があります。その要点は次の通りです。1938年のある日、偉達飯店(いだつはんてん)にて、早水、花野ともう一人の日本人が、そして中国側からは、上海新聞学校の陳則高、鄭蘋如、鄭南陽などの人が参加。会議のテーマは「どうすれば戦争を避け、平和を得ることができるか」でした。この会議に参加した8名の中国人の中に新四軍の代表がいました。陳則高は中国共産党との関係が比較的密接で、また鄭蘋如も中国共産党と連絡、協力関係があった可能性があると言えます。

※一口メモ:上記の会合が行われた偉達飯店は1930年代上海のシャンゼリゼと称されたフランス租界ジョッフル通り(現在の准海中路(ワイハイチュウロ))沿いにあった高級ホテル。エレベーターホールには各国語を話すボーイがおり、後に銭塘(せんとう)マンションと名を変え高級集合住宅となった。ピンルーの故事を元にした小説「色戒」(映画Lust, Caution「ラスト コーション」の原作)の作者、張愛玲はここを一時期住居としていた。

花野著「歴史の証言」には、花野が鄭蘋如の家族とも交流をもっていた記述が散見される。最初に、花野がピンルーの父テンエツと交流があったと思われる部分を引用する。

(前略)私はこの事実を鄭蘋如の父鄭鉞(テンエツ)から直接聞くことができた。影佐は資金を出して暴漢に不穏な行動を策させたり、鄭鉞の妻が日本人なので、日本官権の通訳の日本人から脅迫させたり、中国将校に日本女性を情婦として紹介して情報を取っていた低級な男だと非難した。リストに影佐は東京帝国大学の聴講生ということが記されているので驚いたが、こんな悪党が汪兆銘工作の責任者になるのだから、中国の民衆、特に知識層は知っているので相手にはしないのである。こういう悪党軍人が功績を掠奪して将官になるのである。この連中が日本軍閥のエリート官僚であるから、その人間的品性を計ることができる。

次に、ピンルーの下の弟、南陽との交流である。最初の話はピンルーの死後、つまり、花野が逮捕監禁され日本に強制送還された後の、彼にとって二度目の上海での話である。年代的には1942年から1943年ごろと思われる。

(前略)鈴江言一は上海の満鉄公館(所長伊藤武雄)に居候しており、電話で呼ばれたので行ってみる。鄭南陽と共に、鈴江の居住する屋根裏の部屋で、碁を打ち中国の植物図鑑などを眺めて、夕食を下の食堂で一緒にしながら放談するのが楽しかった。

ピンルーの上の弟、海澄は中国空軍の戦闘機乗りで日本軍と戦っていたが、下の弟、南陽は普通に日本人と接していたようである。上記の記述によると花野と南陽は囲碁仲間だったようだ。

次に1945年1月、花野が横浜を出て香港を皮切りに台北、上海、北京、満州の奉天、新京を一ヶ月ほど旅行したときのことを引用する。

上海から鄭南陽が奉天まで同行する。彼は医学研修のため、奉天医大病院(注:満鉄経営の奉天南満医大病院だと思われる)を希望したのである。北京では橘僕に会い、二日間私の行動計画について激論をした。満州放棄については、橘も腹を決めていたらしく、満州の仲間に連絡するよう伝言され、近く奉天、ハルピンを訪ねる予定を組むと言っていた。奉天ではヤマトホテルに宿泊している福田徳三郎を訪ねて、彼の意見を聞き、鄭南陽を託す。

(中略)

奉天興亜塾には一週間ほど滞在した。鄭南陽は私に抗戦中国(注:蒋介石国民政府軍)の中央情報工作員、中国共産党工作員が奉天に潜伏していることを告げる。長く研修の続かないことを教えられた。

※一口メモ:鄭南陽は、奉天で医学研修を終え、戦後上海で医者として活躍、1980年代に米国に移住、2003年に他界している。満州の奉天というと、1933年、山口淑子氏が義理の父、李際春氏から「李香蘭」の名前をもらった場所だ。13才の李香蘭が、奉天ラジオ局の満州新歌曲という番組で、映画の主題歌「漁光曲」 などを披露した場所である。花野は1939年頃、彼の反戦和平活動がうまく行かない時、

「そのころ私は租界内のアジトで寝起きしていた。中国人工作員諸君が当時流行の「開路的先鋒」「漁光曲」「碼頭工人の歌」などのレコードを持ってきて慰めてくれた」

と書いている。

「音楽好きでラジオで歌も披露していたというピンルーが、花野に漁光曲のレコードを持って行って一緒に聴いた、そしてもしかしたら歌って聴かせたのではないか?」

と、私は少し想像を膨らましては、

「いやそんな出来すぎたことはあるまい」

と思い返したりしている。

しかし、米国在住のピンルーの妹、鄭天如さんが、

「今だから言えますが、花野さんは姉のことが好きだったと思います・・・」

とテレビインタビューに答えている。

まったく無い話でもなかったのかもしれない。

以上で花野吉平の話を終わりにします。

| | コメント (2)

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »