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2008年10月20日 (月)

丁黙邨狙撃事件の新聞の扱い

丁黙邨狙撃事件の翌日の日本語新聞をマイクロフィルムで見てみた。当時の上海では、陸軍影佐機関の要請で、朝日新聞が協力し、日本軍の”御用新聞”として「大陸新報」なる日本語朝刊紙が発行されていた。事件は1939年12月21日午後6時20分頃起こっているので、記事は早ければ翌日朝刊、遅くとも翌々日朝刊には載るはずである。

丁黙邨は1939年8月の国民党第六回全国代表大会で中央執行委員に選ばれており、汪精衛国民党の閣僚といってもいい重鎮である。その彼が狙撃されたとなれば、ニュースバリューは大きいはず。ところが、12月22日、23日前後の社会面の記事を見ると、別の場所での無名の中国人の暗殺事件や、2階建てバスが運転を誤って道路脇の店舗に突っ込んだというような交通事故の記事、クリスマス商戦の記事などが並んでいるだけで、丁黙邨の狙撃事件に関しては全く触れられていない。

日本側御用新聞「大陸新報」では、検閲により事件を報道することは禁じられたのだろう。影佐機関(通称、梅機関)は事件を秘密裏に処理しようとしたようだ。以前、「梅機関 丁黙邨側工作報告」なる日本軍部内向けレポートの1939年末から1940年初にかけてを見てみたが、やはり丁黙邨狙撃事件の報告は無かった。日本語情報としては事件を封印しようとしていたようである。

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23一方、「申報」「中央日報」などの中国側新聞では、事件翌日の12月22日、続報として23日に記事になっている(写真はsina新浪サイトより)。この時点では誰が狙撃されたか分かっていなかったようである。汽車という見出しがあるが、中国語で自動車の意味である。静安寺路のシベリア毛皮店前で、自動車に向かって銃が撃たれた、暴徒は4人、幸いにけが人無し、という内容である。暴徒4人の中にはピンルーは入っていないだろう。嵇希宗ら待ち伏せの組が4名いて、捕まらずに逃走したようである。

そして12月31日、中央日報でスクープのような形で初めて丁黙邨の名前が出た。丁逆黙村と書いてある。「逆」という字が入っているのでの、抗日側新聞であることがわかる。黙邨の「邨」は当時「村」を使っていたようだ。また、文中に「其女友」という文字がある(赤く色を付けた部分)。つまり、丁黙邨の女友達、おそらく愛人に近い意味があると思うが、によって銃撃された、という記事内容であろう。見出しには重傷を負って生死不明とある。定説では30危険を事前に察知した丁黙邨が、脱兎のごとく店を飛び出して防弾装備の車に乗り込み、無傷で現場を立ち去っているのだがどうなのだろうか。前に松崎啓次の「上海人文記」の記事を載せたが、そこにはやはり怪我を負った丁黙邨が入院していたという内容が書かれていた。一方林秀澄氏談話速記録では、銃撃を無傷で抜け出した丁黙邨がその足で宴会の席に駆けつけている。

影佐機関員の晴氣慶胤(はるけよしたね)の著書「謀略の上海」によると、ジェスフィールド76号内の反丁黙邨派である呉志宝が新聞社に情報リークしたようである。新聞社は「桃色テロ」として特に夕刊紙が連日おもしろおかしく書き立てたようだ。愛人スパイに浮気がばれてあやうく暗殺されかけたのだと。呉志宝はこれにあきたらず、76号内で糾弾大会を開いて丁黙邨の引退決議をしてしまった。76号内でナンバー2の立場にあり、部下から突き上げを受けていた李士群は、これに乗じて丁黙邨一派を一掃してしまった。事件を利用した李士群派の勝利である。李士群は、事前にこの狙撃プランを察知していた可能性がある。

予想以上の早い展開に、ジェスフィールド76号を影で操る影佐禎昭は、急遽、汪精衛側の重鎮、周仏海と相談し、正式に李士群をジェスフィールド76号の唯一の長とすること、汪精衛政権樹立の後、社会福利部を新設し、丁黙邨に部長職を与えることを約束することに決め、円満解決となった。

この事件は、結果的に、李士群派だけでなく、日本軍の利益ともなった。ピンルーを逮捕し厳罰を与える口実ができ、今後の日本側の情報漏洩を防ぐことができる。同時にジェスフィールド76号内で内部抗争に頭を悩ます必要がなくなる。そして何よりも、ピンルーの逮捕は「解放条件付きの拉致」、あるいは、「交換条件付き誘拐」の意味がある。ピンルーの妹、鄭天如さんのインタビューによると、何度も何度も執拗に、彼女の父親、主席検察官のテンエツを親日政権側に寝返らせようと、日本側が苦労していたことがわかる。こちらの記事後半の、ピンルーの妹の証言を参照してください。 少なくとも、事件処理における日本側の最大の目的は、検察トップのテンエツを親日側に引きづりこみ日本側に都合のいい治安維持に利用しようというものだったのだろう。

結果的にこれはテンエツが、娘の命を犠牲にしてまでも信念を曲げなかったことによってかなうことはなかった。しかし、ピンルーの処刑から2ヶ月も経たないうちに、影佐禎昭念願の汪精衛政権が誕生した。また、李士群は上海の裏社会のボスとなって上海の外にまで権勢を誇るようになっていった。力をつけた李士群は、日本軍の謀略によって3年後に毒殺されるのを知るよしもなかった。

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