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2008年11月16日 (日)

漢奸裁判史 丁黙邨 1 

益井康一の「漢奸裁判史」(1977年発行。絶版)から抜粋してみたい。益井康一は終戦直前まで中国駐在の毎日新聞特派員であり、終戦後、東京本社東亜部に配属されてからも、漢奸裁判に関する中国現地の新聞記事や外電を収集保存していた。それらを個人的想像修飾なしに記述したのが「漢奸裁判史」である。

ここでは、鄭蘋如(テンピンルー)と大きく関わった丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)から記載していく。(以下、太字は引用、およびその要約文)

丁黙邨の裁判は、終戦後1年以上経た1946年11月19日から、南京の首都高等裁判所で開かれた。午前10時開廷であるが、8時にはすでに傍聴席はギッシリ満員。午前8時半、到着した丁黙邨は、押し寄せた群衆を警官がかき分ける中、プラチナの眼鏡をかけ、藍色の長衫(チョウサン、中国服)の姿で第一法廷に消えた。

Photo 10時に開廷した。裁判長の尋問を受けて、「年齢は44才、湖南省常徳県出身、現住所上海愚園路1010号」と答えた。

金裁判長の尋問が始まる。

問 1938年、軍統(注:蒋介石国民党地下組織)解職後、どこへ行ったか。

答 香港へ行ったが、その時は第三期肺病、胃病、心臓病で病が重く、4ヶ月病床にあった。

問 それからどこへ行ったか。

答 上海で仕事をしようと思った。生活が苦しくなったからである。

蒋介石国民党の軍統のリーダーの一人であった丁黙邨は、組織内で衝突したため解職された。香港へ逃げ、身体を養生してから上海に仕事を見つけに来たようである。簡単に言えば、金に困って職探しに上海に来た、ということになる。

(中略)

問 上海では?

答 上海到着後ある人が、日本軍が自分に非常に注意して逮捕しようとしている、と通知してくれたが、その理由がわからなかった。1939年になって和平運動(注:影佐禎昭の進める汪精衛を首班とする親日政権樹立運動)への参加を李士群が持ちかけてきたが、自分は動かなかった。汪精衛が指導するようになって正式に参加した。

問 汪精衛の上海到着後、参加を求められたのか。

答 私は1938年以前は汪精衛反対派とされ、全て汪と対立していた。当時汪は私を逮捕したことがある。汪精衛が上海で和平運動参加を言ってきたとき、奥地で彼と死をもって角突き合わせていたことを思い、彼への協力は何ともうなづけないと考えた。自分の態度決定は時間がかかった。

問 その後どうして汪に協力したか。

答 逃走しようと思ったが、李士群に知られた。彼は私の保証人であり、彼がしきりに勧めてきたので嫌々ながら汪精衛と会うことになった。

問 ジェスフィールド76号はどんな機関だったのか。

答 昔の幕僚機関(注:指揮官の参謀役)と同じようなものだ。

問 特務機関ではなかったのか。

答 幕僚機関だ。

問 76号ではどんな仕事をしたのか。

答 実際は何もしなかった。大きな仕事は李士群から汪精衛へ持っていった。小さな事は汪精衛が李士群にやらせていた。

問 それではどんなつもりだったか。

答 何のつもりもなかった。私はいつも日本人と対立していたので、彼らは私に対していい感情をもっていなかった。

この答弁は、日本軍側の丁黙邨に対する評価に合致する。当時ジェスフィールド76号にかかわった日本人の誰もが、李士群の人柄の良さ、イコール扱いやすさと、丁黙邨の気難しさ、つまり扱いにくさを書いている。そしてそれは丁黙邨の見た目に対するひどい表現にまで及んでいる。常に陰気で、やせこけ、咳き込んでおり、眼光だけは鋭く、しかし女にはだらしない、というような表現である。

たとえば影佐機関員だった議員、犬養健は著書「揚子江は今も流れている」の中でこう書いている。

「私はここで丁黙邨という男の世にも稀な風采を伝えなくてはならない。私は随分多くの人を知ったが、この丁のような異様な容姿の持ち主にはかつて出会ったことがない。丁は五尺そこそこの背丈で、発育不全とでのいうのであろうか、背丈ばかりではない、顔も手足も何もかも小さく縮こまっている」

まったくひどい書きようである。異様な容姿と書いているが、写真を見るとそんなことはないと思う。身長も李士群と並んで写っている写真を見るとそう大きく違うわけではない。

ジェスフィールド76号を直接指導することになった晴氣慶胤(はるけよしたね)は、「謀略の上海」の中で、外務省の清水書記官が連れてきた丁黙邨と李士群の二人に初めて会ったときのことをこう書いている。

「一人はねずみ色の背広に派手なネクタイを締め、年の頃34,5才、額は広く理知的だったが、目は蛇のように冷たく光り、見るからに陰惨な、かみそりのような感じであった。その男は丁黙邨と名乗った。李士群と呼ぶ、もう一人の中国の礼服姿の男は、それより少し若かったが、色白のふっくらした美男子で、瞳は明るく澄み、一見おおらかそうで、およそ丁黙邨とは対照的であった」

ジェスフィールド76号内での扱いにくさ、親しみにくさが、このような表現になった気がする。戦後、丁黙邨について書いた部分のある小説は、みな晴氣と犬養の著書を参考にして、それを信じているのである。丁黙邨に対するこの二人の先入観が延々と続いていくことになる。

尋問は続く。

問 ではどうしてもっと早く中央(注:蒋介石国民党政権)と連絡しなかったのか。

答 最初は監視が厳重であった。徐々にゆるくなったのでようやく中央に連絡した。

(中略)

問 76号の特工主任になってから何をやったか。

答 重ねて言うが、実際の仕事は何もやっていなかった。

問 肩書きは。

答 肩書きも他から押しつけられたもので、自分としては受けていなかった。

問 特工総部の秘密について話せ。

答 これはでっち上げた機関に過ぎず、李士群一人だけではいろいろと工合が悪いので、彼はあえて副主任になり、私に主任の名義を与えた。その頃私は本当に逃走するつもりであったが、それを果たせなかった。自殺しようかと思ったが、私は将来、国家(注:蒋介石国民党政府)に移って仕事をしようと考えた。自殺しなかったのはまさに誤りであった。しかし76号では本当に仕事はやらなかった。そこでは李士群が中心になってやった。

問 76号の組織変更はいつだったのか。

答 1942年の離職後であり、調査統計部に改め、1945年3月に政治保衛部に改められた。

問 被告は政治保衛部の副監であったが、正監は誰だったか。

答 陳公博であった。

問 女学生、鄭蘋如の生き埋め事件(注:定説では生き埋めでなく銃殺刑である)ついてはどうだ。

答 法廷のお許しを得ればお話するが、新聞記者の方はどうか書かないようにして頂きたい。それは私人の内情についてだからである。実は鄭蘋如小姐(小姐はシャオチェと読み、女性の敬称としてつける)は母親が日本人であった。日本側から共産党か、蒋介石国民党のスパイとして疑われ、日本側に逮捕された。もし私が手を下したとしたら理屈に合わない。私についていろいろ誤って伝えられていることが多く、私は殺人魔、暗殺魔と言われているほどで、そういう私なら当然銃殺してしまうだろう。鄭女史を殺した罪が私に着せられていることは憤慨にたえない。

問 鄭蘋如は、静安寺路才登路に洋服を買いに行ったとき、彼女は機を見て被告人を暗殺しようとしたのか。

答 そんなことはない。自分に罪があれば否認しないが、自分がしてないことは断じて承認できない。

(中略)

裁判長は、丁黙邨が76号主任であったころに、蒋介石国民党側の抗戦志士の殺害を証明する書類を読み上げた。

丁黙邨は一言も発しなかったが、ややあって、

「それらはみんな李士群のやったことである。全てはねつ造されたものであるが、世間には確かにそう伝えられた」

と、あくまで否認を続ける。裁判長は、抗戦志士として殺害された12名の名前を読み上げる。

丁黙邨は、

「若干の者は必ずしも上海で殺された者ではない。上海で殺された者は調べればわかる。当時上海には特務機関がはなはだ多く、76号の手で行ったものとは決まっていない」

と訴えて、その証拠の提出を要求した。さらに転じて、機を見て中央に対する功績を表そうとし、郵便、為替の維持、地方自治の維持のため、清郷(李士群と日本軍の進めた地方封鎖活動)事務局や自由区の封鎖の撤廃などをあげ、

「これらはすべて中央および人民の利益を図ったことである。私のお陰で救われた中央工作員の数は約200人にのぼる。捕らえられた者をはなはだ多いが、陳公博に言って大赦令を出させ、陳立夫先生(注:蒋介石国民党CC団幹部)から命令を受けた時は、日本軍と汪精衛、李士群の離間工作に努力した」

と、休みなく中央への忠誠の弁は続いたが、いずれも取り上げられずに終わった。11月に始まった裁判だが、未決のまま年を越し、翌年1947年2月8日、首都高等裁判所は丁黙邨に次の判決を下した。他の要人漢奸と同じで判を押したように、

「死刑。公権を剥奪し、家族の必要生活費を除く全財産を没収する」

というものであった。判決理由は、

「中央要職にあって敵に深入りし、国家危急に際してみだりに職責を離れ、抗戦陣営を離脱して敵国に密通し、逆臣どもの甘心を買った。中央の司法人員を狙撃し、地下工作員に惨害を加え、日本に媚びを売る言論を散布して人心を惑わし、人民の財産を奪って敵に供した。かかることは罪状すでに明白で、少しも情状酌量の余地は無い」

というものである。

ピンルーの甥、鄭国基氏によると、1945年、鄭国基氏6才のとき、丁黙邨の妹が金の延べ棒数十本をピンルーの母のもとに持ってきて、テンピンルー殺害に対する告訴を取りやめるように頼んだそうである。検察官であった父テンエツは病死しており、またピンルー拘束後、テンエツの親日政権への寝返りを促すため、銀行口座を閉鎖されていた鄭家は極度の貧困に陥っていたが、金の延べ棒の受け取りを拒否したようである。


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