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2008年11月の8件の記事

2008年11月24日 (月)

李香蘭の収容場所

今月発行されたばかりの「堀田善衛上海日記」(紅野謙介編)を読了した。以前コメントをいただいたcosmopolitanさんご紹介の日記本だ。私は知らなかったのだが、堀田善衛(ほったよしえ)という作家がいて、敗戦の少し前から敗戦後1年半くらい上海にいた人の日記だ。

Photo_5 李香蘭に言及した部分が3行ばかりあった。これまでの定説では、というか、山口淑子氏本人が語っているのだが、日本の敗戦時、彼女は映画会社「中華電影」の代表である川喜多長政と、その仲間の野口久光、小出孝の3名と一緒に、日本人地区虹口(ホンキュウ)のスコットロード(現山陰路)を東に入った興業坊なる通りに収容された。この興業坊という通りは現在も残っているし、そこの長屋もそのまま残っている。(上の写真)

李香蘭に言及した部分だけ引用する。話しの前段としては、1945年10月24日、この日記の筆者堀田善衛が、会田という知人が収容されている住宅を尋ね、夕食を一緒に食べ少し飲んだ時の話しである。

以下引用

その時の話しに、緑苑荘の川喜多さんのところにいる李香蘭について、「李香蘭」は捕まった、山口淑子は捕まらぬのだ、という話あり。なるほどという訳で大いに笑った。又水久保澄子が大陸新邨(たいりくしんそん)にいることや、高見順の先の女房の石川アイ子という人も上海にいるという話だった。一昔ならしたのが、いろいろとひっそりと上海にいるらしいと会田氏は何度も云った。引用終わり Photo_2

李香蘭が収容されたのが興業坊という通りまではわかっていたが、「緑苑荘」なる長屋だったようだ。これはこれまでどこにも記載されていないはずなので、一応、新情報となろう。山口淑子氏本人も記憶にないことかもしれない。どうでもいいことかもしれないが、日記ならではのマニアックな情報である。

文中に出てくる水久保澄子なる名前を検索してみると、松竹映画女優だったらしい(上の写真)。戦前にフィリピンの富豪と結婚し1年で離婚している。その後上海に流れてきてひっそりと暮らしていたということだろうか。彼女が収容されていた大陸新邨は、スコットロード(現山陰路)を西に入った1931年に建てられた赤レンガの洋風テラスハウス。調度品や建材はヨーロッパの物が輸入されて使われていた。李香蘭の長屋然とした興業坊緑苑荘よりも数段高級な住宅だったようだ。魯迅の最後の住居もここであり、現存している。(下の写真)

Photo

2 山口淑子氏の自伝「李香蘭を生きて」では、1946年に入ったころ、川喜多氏が国民党の役人から、李香蘭が日本人だと証明できる書類があれば漢奸裁判は無罪になるだろうと聞いた、ということになっている。堀田の日記からも裁判の初期の段階で「李香蘭」と「山口淑子」を分離する法廷作戦に出ていたことが裏付けられる。ちなみに1946年1月には山口淑子氏は蒋介石国民党の工作員から、対共産党のスパイになれば漢奸裁判を無罪にするとも持ちかけられている。漢奸裁判には金の延べ棒の話や、こういった裏取引の話が少なくなかったようである。もちろん山口淑子氏はこの話を断っている。

ちなみに、このころの上海の夕刊紙で、李香蘭が上海国際競馬場で、12月8日午後3時に銃殺される」と報道されたり、壁新聞では李香蘭がスパイだと断定されていたらしい。

ちょっと気になるのが、「大いに笑った」というところ。真剣に漢奸裁判で無実を得ようとしていた山口淑子氏自身や川喜多氏にとってみたら怒り心頭という表現だが、私的な日記なのだからと了解いただくよりほかないだろう。日記とは普通は自分で書いて自分だけが読むものだ。それを他人がこうして読んでしまっている。私はのぞき見をしているようなものである。文化工作も担当していた堀田にしてみたら、「李香蘭、うまくやってるな。したたかだな」というくらいの感覚か、あるいは、「たぶん助かるんだろう」という、同じ日本人としての安心感がそうさせたのかもしれない。

また、「一昔ならしたのが、いろいろひっそりと上海にいる・・・」という文面からは、かつての有名人が自分らと同じ境遇で苦労しているところに、一種の溜飲を下げる気持ちがあったのだろう。今も昔も変わらぬ有名税である。

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ドラマ 「男装の麗人 川島芳子の生涯」

12月6日夜9時からテレビ朝日系でドラマ「男装の麗人 川島芳子の生涯」 を放送するとのことだ。

Photo 読売テレビの「鄭蘋如の真実」や日本テレビ「女たちの中国 第二弾」での李香蘭、川島芳子、鄭蘋如、愛新覚羅ヒロ、そして今回と、今年は1930年代上海の日本絡みの女性がテレビによく登場する。一種のはやりなのだろうか。

これらの番組を見ると、最後のクレジットロールで、リサーチャー○○と出てくる。番組の脚本を書く前に、こうしたリサーチャーを雇って、時代考証をし、事実関係を調査しておく担当を置くのだろう。脚本家やディレクターが汗を流して調べる訳じゃないのだ。ひょっとしてバイトだろうか。国会図書館に行くと、熱心に調べ物をしている学生さんが多い。もちろん自分の専門の研究のためだろうが、たまに雑談を耳にしているとこういったテレビの情報収集のバイトかなと思うときがある。日テレの「女たちの中国 第二弾」では日本人女性がリサーチャーを担当していた。鄭蘋如の部分に限ればはわたしには情報のソースがだいたい検討がつく。ここの台詞はこの本の何ページの何行目の台詞をそのまま使ったなとか(我ながらこれはオタクの領域かもしれないと思う)。

読売テレビの「鄭蘋如の真実」では中国人女性がリサーチャーだった。やはりと思う。内容が中国側に立った内容だったからだ。私は脚本家やディレクターは自分で史料を当たるべきだと思う。鄭蘋如に関しては、見方が日本側と中国側で分かれる。それぞれ政治的立場があるのだ。

今回のドラマ、「男装の麗人 川島芳子の生涯」。どんなドラマになるだろうか。予告編の動画を見たら、養父川島浪速が芳子を強姦するシーンや、明るい昼間、桜の花が舞う中で処刑されるシーンがあった。益井康一の「漢奸裁判史」によれば、川島芳子は処刑当日、処刑執行人から最後の言葉を求められ、お世話になった川島浪速に手紙を書きたいと言い、その場で日本文で短い手紙を書いている。いったい誰が強姦相手に「お世話になりました」と手紙を出すだろうか。また、処刑が実行されたのは人目につかない午前5時過ぎの3月の早朝、暗がりの中である。桜が舞う明るい日差しのもとではない。

芳子の兄は、裁判所の判事から金の延べ棒を交換条件として提示され、死刑を逃れる取引をしている。別の説では、暗がりの中で処刑されたのは身代わりとなった末期がんの女性で、家族には金の延べ棒の一部が渡ったという。またタイミングがいいのか悪いのか、芳子が戦後も生き続けたと証言し遺品を提示する人が中国でつい最近現れた。本当のところは分からない。益井も、当時からあった替え玉説を「彼女を惜しむ心理が後日、巷に「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂を振りまいた」と書いている。

「男装の麗人」と番組タイトルに入れているのが実はミソだろう。これは小説のタイトルだ。つまり原作がある。映画「色戒 ラスト コーション」と同じである。川島芳子の「真実」がどうだ、という番組ではない。テレビにそれを求めるのは少し酷な気がする。それぞれに合った媒体があるということだろう。深く濃い情報交換は書面上の言葉と写真など静止媒体で行われる。テレビは基本は情報が記録されない電波媒体であり、流れさっていく。しかし流れ去っていくことで、とても楽な気持ちで情報に接することができ、出演者の演技、脚本家、ディレクターの演出によっては深い感動を得られる。私は今は、ただでさえ「積んどく」の本がいっぱい自室にあるので「男装の麗人」を買って読む気はしない。でもテレビなら見れる。楽しみな番組の一つである。

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2008年11月23日 (日)

漢奸裁判史 梁鴻志

漢奸裁判史の3人目は梁鴻志(りょうこうし)とする。彼は南京の親日政権、維新政府の主席を経て、汪精衛の国民政府の立法院長を務めた長老である。

以下、益井康一の「漢奸裁判史」より、抜粋要約、引用する。

3

梁鴻志は幼いときから秀才の誉れ高く、大柄な身体で、酒を飲むほどに天下国家を論じる風格は、「梁大人」(りょうたいじん)と呼ばれ親しまれていた。父が長崎領事代理をしていた関係で日本に留学(注:原文では留学となっているが、実際は6才から2年間長崎で過ごした)して以来日本との縁が深くなった。


1945年10月、彼は蒋介石の秘密警察「軍統」に自首した。翌年の5月、江蘇高等法院検察所で初審を迎えた。被告席に現れた梁鴻志は藍色の長衫(チョウサン)に高い気品を示し、黒い布靴を履いていた。起訴の要点に付き次のように弁明した。


問  維新政府の軍隊をなぜ作ったのか

答  綏靖軍(すいせいぐん。のちに汪精衛国民政府軍に編入)成立当初の兵力は一万名余りでこれは地方の治安維持のためだ。のちに兵力を拡充したが、目的はあくまで匪賊の掃討だった。

問  主要交通を日本軍にゆだねたが

答  交通幹線はことごとく破壊されており、日本軍はこれを修復して軍用にした。このため占領地の市民は交通難におちいり商業は衰え、生活不能になったので、鉄路協定を結び、民間人の利益になるようにした。


問  食料統制は

答  日本軍の軍需により各地に配分することができなくなったので、日本軍と協同して調整した。


問  華興銀行はなぜ設立したか

(注:岡崎嘉平太が日銀より派遣されて設立した日本軍の国策銀行。正式には華興商業銀行という。岡崎嘉平太は花野吉平と同じく上海陸軍特務にもともと属しており、鄭蘋如(テンピンルー)の家族とも親密な交流があった。ピンルーの甥、鄭国基氏は、ピンルーの処刑後、彼女の母木村はなが上海錦江飯店北楼に住んでいた岡崎を何度か尋ねたとことを鮮明に覚えている、と語っている)


答  中国人商人に便宜を図り、日本軍の金融操作を免れるため設立した。華興銀行券は2000万元の予定で600万元を印刷したが、発行は307万元である。儲備(ちょび)銀行創設後は全部回収した。

(中略)

問  戒煙局設立はなぜか


答 日本軍は中国人にアヘンを吸わせる毒化政策を取った。戒煙局はそれを抑止し、アヘン吸引者を登記させた。


問 汪政権について

答 最初から非常に疑っていたが、ついに従った。

(中略)

問 なぜ五色旗(注:五族共和を目指す満州国旗に似た国旗)を採用したのか


答 私は青天白日満地紅国旗にするつもりだったが、日本軍が反対したので、やむを得ず五色旗にした。


問 綏靖軍(すいせいぐん)はいつ成立し、どんな編成だったか

答 1939年春で、兵士の大部分は投降者からなり、応募はごく少なかった。4個師団で、1師団わずか2、3千人である。

(中略)

問 いつ被告は投降したか

答 戦勝前に自首書を提出、蒋介石主席の命令通り8月15日南京におり、交替を待って10月20日自首した。

(中略)

1946年6月21日、判決が下された。午後2時45分傍聴席がびっしり埋まった法廷へ裁判長が入廷してきた。梁大人は藍色の長衫を着て、きわめて物静かな態度である。裁判長が判決主文を読み上げた。


「梁鴻志は、日本軍に通謀し本国に反抗した罪で死刑に処す。終身公権を剥奪し、全財産は家族の生活必需品を除き、没収する。」



64才の老人は、言葉すら出なかった。が、しばらくして、

「今すぐ、家族に会わせてほしい」

と言った。

裁判長は、

「今日は面会させることが出来ない。日を改めて許そう」

と申し渡した。そして梁鴻志は両手を二人の看守に取られて倒れそうな力の無い姿で引かれていった。


傍聴席の一隅で判決を聞いていた梁の夫人と娘は、死刑と聞いてワッと泣き伏し、抱き合って泣きわめいた。さながら気でも狂ったかのようであった。そして看守に引かれて法廷を去ってゆく夫と父の後を追って外に飛び出した。


恥も外聞もなく必死になって梁鴻志に追いすがる、狂乱の二人の女性を、看守達はもてあました。いくたびか払いのけ、いくたびか振りちぎってやっとこの嘆きの主人公を囚人車に押し込んだ。1946年6月の新聞大公報には、看守に両腕を取られて連行される父と、泣きわめきながらそれを追う娘の写真が掲載されている(冒頭の写真)。


取り残された夫人と娘は、法廷外の広場に突っ立ったまま泣きわめいた。傍聴人が黒山のように母娘を押し包んだ。新聞記者が駆けつけてきた。

夫人が絶叫した。

「夫が在任していた時は、米が一石120、130元だった。それが今は5万元にも上がっている。夫は善政を施していたのだ。それを死刑にするとは・・・。私も一緒に死刑にしておくれ」



多くの見物人は放心したかのようにいつまでもこの母娘を取り囲んでじっと見つめていた。その年の11月9日午後1時半、上海の堤藍橋(ていらんきょう)監獄内の刑場に響いた一発の銃声。梁大人は草の中に声もなく倒れ伏した。病弱の身をイスに腰を下ろしたまま、わずか60センチの距離から発射された弾丸は、後頭部から口腔を貫いて、無惨に顔を砕いた

以上が、日本占領下の上海につかの間の平和をもたらした汪精衛国民党政権の、立法院長の最後である。

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2008年11月21日 (金)

川島芳子は生きていた? 李香蘭が語る

実にタイミング良く11月18日18時、時事通信社が下記、情報配信したのでそのまま引用する。写真は、上戸彩演じる若き日の李香蘭と、菊川怜演じる川島芳子(DVD「李香蘭」角川映画より)。

以下引用

旧日本軍のスパイで、1948年に北京で処刑されたはずの「東洋のマタ・ハリ」川島芳子が処刑を逃れ、中国東北地方の吉林省長春市で78年まで生きていたという証言について、旧満州で歌手兼女優の李香蘭として活躍し、芳子と親交があった元参院議員山口淑子さん(88)は18日、

「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」

と当惑しながらも、

1_4「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」

と語った。

 「妹のようにかわいがってくれた」。

山口さんが芳子と初めて会ったのは16歳の時、天津の中華料理店「東興楼」でだった。芳子は

「君も 『よしこ』か。ぼくも小さいときに『よこちゃん』と呼ばれたから、君のことを『よこちゃん』と呼ぶよ」

Photo_7 と最初から打ち解けた。山口さんは13歳年上で、り りしい男装姿の芳子を「お兄ちゃん」と呼んだ。

 「方おばさん」として処刑から30年生き延びたとされる芳子が形見として残したものの中に、李香蘭が映画「蘇州の夜」の主題歌を歌っ たレコードがあった話を知ると、

Photo_5 「そう言えば、お兄ちゃんと最後に博多で会ったときに、李香蘭のレコードを擦り切れるまで聞いているよ、と言ってくれたの を思い出した」。

「生存情報とともにレコードが残されていたということも縁を感じる」

と感慨深げだった。

 Photo_6

清朝の王女ながら日本人の養女となり、日本籍を取得していなかったため、中国人として死刑判決を受けた芳子。中国で生まれ育ち、中国名で活躍した山口さんも終戦後、中国で「売国奴」として裁判にかけられたが、国籍が日本だったため帰国を果たした。

 「国籍という紙切れで、私とお兄ちゃんは運命が変わった」

と山口さん。

「78年まで生きていたのなら会いたかった。でも、隠れて暮らしていたんでしょうから、会えなかったでしょうね。切ない思いもする」

と声を詰まらせた。 

以上、引用終わり

(上戸彩主演、DVD「李香蘭」(発売元:角川映画)はamazon.comなどで購入できます)

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2008年11月20日 (木)

漢奸裁判史 川島芳子 2

引き続き、川島芳子の漢奸裁判についてである。益井康一は当時の漢奸裁判に関する現地新聞記事や外電を収集保存した毎日新聞の記者であり、その記録を「漢奸裁判史」として本にまとめている。その著書より、引用、抜粋要約し、以下太字で示す。


3 彼女は獄中で数奇を極めた一生の手記を日本文で書きつつあった。その手記を東京にいる83才の養父、川島浪速に送るつもりでいると言ったが、しかし、

「紙を買うお金も無いので、書けるかどうか分かりません」

と悲しそうに言った。金がないので食べ物も差し入れてもらえず、獄中の粗末な食事で飢えをしのいでいると言った。彼女はAP記者に、「なぜみんな私を殺したいのかしら・・・」となじったが、哀れみを請うような態度は少しも見られなかった。

1948年3月25日午前5時、夜明け前の暗闇の中、彼女は二人の刑吏に連れられて最高法院北平(北京)分院の刑場にやって来た。壁際向かって立つと執行官は、

「なにか言い残すことはないか」

と尋ねた。彼女は、

長年お世話になった養父の川島浪速に手紙を出したい」

と言って、立ったまま日本文で養父あての手紙を認めた(書いた)。


さて、「川島芳子が17才で自殺未遂を起こし、断髪し、男装を始めたのは、養父川島浪速による性的虐待、あるいは強姦があったから」、とする説がある。しかし、この益井による記録からは、芳子が川島浪速に対して恨みを持っていたとは思えない。生涯の最後の瞬間にお世話になった養父に手紙を送りたい、という考えが浮かぶというのは、この記録が本当だとすればやはり純粋に感謝の気持ちがあったとしか思えない。(注:山口淑子著「李香蘭を生きて」を読み直したところ、「獄中からの手紙」という章で、「十歳若い生年月日を書きこんだ戸籍謄本を送って欲しい」という手紙を何度も出している、という記載がある。もともと養父には多くの手紙を出していたようである)

彼女は3才から20才の日本在住時代に、中国語はもちろん、英語、フランス語と文学を学び、乗馬や水泳などのスポーツ、車や飛行機の操縦、また養父の人脈関係から武士道や政治、軍事に関して幅広く学んだ。これらは川島浪速の教育的理解があってこそだろう。



益井の著書に戻る。

執行官はひざまづくように命じ、やがて一発の銃弾が彼女の後頭部を貫いた。波乱に富んだ34年間の生涯を閉じた。係官の話によると、「彼女は貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と伝えられた。

北京の市民は、「3才の時、日本人の養女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」と言って、彼女に心から同情した。

彼女を惜しむ心理が後日、ちまたに、「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂をふりまいた。

彼女の兄、愛新覚羅憲立(あいしんかくらけんりゅう)の手記によると、漢奸裁判でいくら調べても彼女に不利な証拠は出なかった。逆に彼女に助けられた蒋介石国民党の地下工作員から、有利な証言がたくさん出た。にもかかわらず死刑を宣告したのは、国民政府立法院長、孫科の命令であったという。孫科は昔、上海で川島芳子を秘書としていたときに機密情報を取られたことがあり、それが暴露されると自分が危ないと思ったからだという。

また係の判事は、兄の憲立に対して、

「彼女の命を助けたいなら、金の延べ棒50本を出せ」

と強要したので、それに近い額の賄賂を出した。にもかかわらず死刑の宣告が下った。判決理由書を見ると、唯一の証拠らしいものは、村松梢風の「男装の麗人」という一冊の本だけである。死刑の判決があってからも、「処刑した形にして生かしておいてあげるから、金の延べ棒100本出せ」と言ってきたという。

夜明け前の処刑に立ち会ったのは、米人記者たった一人である。兄は金の延べ棒を出したが故に、

「処刑された芳子は替え玉かも知れない。芳子は脱出して、蒙古かロシアに生きのびたかも知れない。私には判断がつきかねる。とにかく骨肉の兄として、その生存を信じるよりほかにない」

とその手記を結んでいる。

引用終わり

私が不思議に思うのは、なぜ午前5時という夜明け前の暗闇のなかで処刑したのかということ。他の漢奸の処刑は、昼間の公開処刑である。

漢奸裁判後に益井が情報収集していたこの「川島芳子の処刑替え玉説」。60年後の今になって中国で新たな生存説が出てきて、再び話題となっている。2008年11月18日、時事通信社の配信した川島芳子生存説について語る李香蘭の記事を次に記載する。

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漢奸裁判史 川島芳子 1

丁黙邨の次に、李香蘭とも交流のあった川島芳子(中国名、金璧輝)を取りあげる。なんの因果か、益井康一氏の著書「漢奸裁判史」(1977年、絶版)でも、丁黙邨の次の章が川島芳子である。彼女の漢奸裁判について、引き続き本書より一部抜粋する。なお、判決理由書は、山口淑子氏による「李香蘭を生きて 私の履歴書」(日本経済新聞社)の方がむしろ詳しく掲載されている。(引用文は太字で示し、抜粋要約)


1945年8月15日の終戦日から約二ヶ月後の10月10日、北京紫禁城で、北支地区の日本軍が降伏文書に調印した。その日、川島芳子が北京で逮捕された。彼女を捕らえたのは、2年間も彼女の隠れ家にボーイとして雇われていた男であった。その男の正体は蘭衣社の地下工作員であった。彼女の消息はそこからぷっつりと切れる。

約1年後の1946年7月3日、北京の新聞が「金璧輝は、7月2日河北高等法院に移送され、近く公判に付される」と報道した。

(中略)

そこからさらに1年以上後の秋、彼女の消息がようやく明るみにされた。彼女の第一回公判は1947年10月8日、河北高等法院でやっと開廷の運びとなったが、この有名な女性の姿を一目見ようと殺到した群衆は3千人を突破したという。それが我先を争い、狭い法廷に押し寄せ、喧嘩が起こる、殴り合いが始まる、そして法廷の扉や窓ガラスをたたき割るやら、イスを踏みつぶすやら、大混乱に陥ってしまった。このため裁判は一時延期され、公園の広場を臨時法廷として、公開裁判が行われた。

だが大詰めは意外に早くきた。10月22日の公判で彼女は死刑判決を受けた。彼女はこれを不服として、南京の最高法院に上訴し、再審請求した。1948年3月3日の報道によると、最高法院は原判決支持の判決を下した。これで死刑が確定した。

判決理由は次の通りである。

請求人、金璧輝は、清国の粛親王の娘で、日本人川島浪速の養女となり、川島芳子と名乗った。幼時より養父の訓育を受け武士道を注入され、中国語、日本語、英語、フランス語と、文学に通じ、男装を喜び、講演をよくし、ダンス、水泳、射撃、乗馬に長じ、自動車、飛行機操縦の技能を収めた。

養父川島浪速は、頭山満、近衛文麿、多田駿、松岡洋右、小磯国昭、東条英機、土肥原賢二、岡村寧次、和知鷹二らと連絡があり、請求人もこれらと接触して武士道精神を養成し、軍事、政治についての関心を深めた。父、粛親王は清国再興を図ったが成らず、請求人は外力を借りて父の遺志を遂げようとした。日本政府はそれを利用し、満州事変後、中国に対する秘密工作に従事させた。

請求人は1931年上海に至り、ダンサーとなり我が国の政治、軍事情報を探り、日本を助けて翌年、第一次上海事変を発生させた。また兄、金璧東と溥儀の妻を護送して、長春(新京)に赴き、満州国政府を組織し、皇宮の女官長となった。

支那事変発生後、日本の駐天津軍司令部の多田駿、特務機関長の和知鷹二らと共謀し、汪兆銘を利用し、偽国民政府の樹立に努力し、我が政府を転覆させようとした。その後、偽河北人民自衛軍総司令、北京満州同郷会総裁、中華採金公司董事長、留日学生総裁等に任じ、終始一貫して日本に通じ、国に反逆した。

我が国勝利後、1945年11月、軍事委員会北京行営督察所が逮捕したが、請求人の罪状は軍事委員会調査統計局での自白書を見ても明白である。また日本人、村松梢風著「男装の麗人」および、李香蘭主演映画「黎明の暁」(このタイトルは誤りと思われるが、原文通りにしておく)、また「満州建国の黎明」(注:このタイトルは「満蒙建国の黎明」と思われる)、その他請求人方の家宅捜索で押収した日記、手紙等によっても立証される。

Photo_2 さて、山口淑子氏の自伝「李香蘭を生きて」の注釈によると、「黎明の暁」なる映画への出演は山口氏は記憶になく、似たタイトルの映画「黎明曙光」(1940年9月公開)にも出演しておらず真相は不明とある。ただ、ひょんなことから、李香蘭が歌舞伎座の「黎明曙光」という公演に出演していることが判明した。これは李香蘭情報としては新たな発掘かもしれない。(上の公演チラシの写真参照)。

李香蘭が特別出演している。日にちが書いておらず、毎夕5時開演とだけ書いてあるので、歌舞伎座周辺での手配りチラシのようなものだろうか。推薦者として拓務省とあるが拓務省は1941年11月1日に大東亜省に発展解消しているので、この舞台が演じられたのは1940年9月から1941年の10月までの間である。1941年の2月には李香蘭は日満親善歌う大使として来日しており、有名な「日劇7回り半事件」がおきている。彼女はその合間を縫ってこの舞台に出たのだろう。

Photo_2 また、1932年に当時人気絶頂であった女優、入江たか子主演で溝口健二が監督、川島芳子をモデルとした「満蒙建国の黎明」という映画が満州をロケ地として制作されている。このことから、漢奸裁判判決文にある「黎明の暁」というタイトルは、李香蘭特別出演の舞台「黎明曙光」と、入江たか子主演映画「満蒙建国の黎明」(上の写真)を混同したものと思われる。

さて、益井康一の「漢奸裁判史」に戻る。

川島芳子はこの死刑を宣告する判決書を受け取ってからも北京の地方法院に再審請求を提出した。却下されると河北高等法院に抗議書を提出した。その抗議書の中で、「私は日本の高級将校と親密な関係にあった田島芳子という女性と間違えられている」と述べ、再審の懇願を続けた。

そのころAP通信の記者が獄中の彼女を訪ねた。その会見記によると、二年間の長い獄中生活で彼女は健康を損ない、上の歯は抜け落ちて、まるで人が変わったようになっていた。大きな黒い瞳がわずかに在りし日の美しさの名残りであった。相変わらず髪は男刈りで短くし、ねずみ色のジャケットにズボンをはいていた。

続く

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2008年11月16日 (日)

漢奸裁判史 丁黙邨 2

判決書の要約を抜粋する。

Photo_2 南京、上海陥落後も江蘇高等法院第二分院は、上海租界にあり職務を遂行していた。国民党に対する忠誠心は山の如く動かず、和平運動を拒否し続けてきたので、特工総部(ジェスフィールド76号)は法院の活動を妨害することになった。

1939年11月13日朝、同法院の裁判長、郁華伸がフランス租界の善鐘路の自宅から出勤するのを待ち伏せして暗殺した。被害者の妻が逐一これを見届け、各新聞その他報道もこれを確認している。

また、上海江蘇高等法院第二分院主席検察官、鄭伯曾の娘、鄭蘋如は1937年国民党調査統計局の工作に参加、1939年春、命令により特工総部に潜入させられた。彼女が丁黙邨と師弟関係にあるのを利用して丁に接近させ、同年12月25日午後5時、洋服を買うため丁を静安寺路、才登路、シベリア雑貨店に誘い出し、そこで工作員が待ち伏せして射殺することになった。しかし、丁の警戒厳重のためついに成功せず、鄭蘋如はその正体が暴露して同26日、特工総部に捕らえられ、程なく処刑された。実弟と証人の証言および国民党調査統計局の調査によりこれも事実に間違いない。

テンピンルーが嵇希宗ら仲間4人の提案によって、丁黙邨狙撃のために彼をおびき出すという役割を遂行したのは、判決書では1939年12月25日午後5時、となっている。しかし、12月22日の中国語新聞には、前日の12月21日午後6時過ぎの日時に狙撃事件が発生したと記事になっている。また判決書では事件の翌日26日に捕らえられたとなっているが、テンピンルーが捕まったのは、年が明けてからである。これは彼女を捕まえた時に指示を出した上海憲兵隊長の林秀澄が語っている。2008年7月に放送された日本テレビ「女たちの中国第二弾」で、ピンルーの逮捕が12月26日となっていたのは、この判決書の情報からなのだろう。丁黙邨を告訴した弟、鄭南陽と母親木村はなの記憶違いだと思われる。

(中略)

以上8人は特工総部に逮捕されて殺害されたもので、全て被告が特工総部主任在任中のことであり、当然全責任を負うべきである。

(中略)

被告の弁解を聞くと次の通りである。

1.中央工作員殺害について

1939年上海における日本の特工機関は、陸軍、海軍、維新政府、汪精衛すなわち李士群の握る76号の4つであった。この年、私は逃亡をくわだてて、李士群に発見されて76号に軟禁され、特工総部主任の名義を強制されて蒋介石国民党に逃亡できないようにされた。

76号は李士群が全責任をもった私党で、その下に呉世宝と楊傑が76号を操縦していた。鄭蘋如は日本の情報員と中央(注:蒋介石国民党)および、共産党とも関係を持っていたようである。1939年冬、日本軍に捕らえられ虹口(ホンキュー)に監禁された。明らかにこれは日本の手にかかったものである。数々の証人の言では、鄭女史殺害は、76号のしわざではないということを証明している。

前述の、上海で殺された軍統局地下工作員も、大部分は特工総部の成立以前だから、明らかに日本の手によるものである。76号が危害を加えたのでない。一歩譲って76号だとしても、完全に李士群が権力を握っていて、私は行動の自由が無く、李士群に代わって責任を負う訳にゆかない。

(後略)

このあたりの内容は、当ブログの以前の記事「テンピンルーの親友 花野吉平 1」 で、葵登山の著書「張愛玲 色戒」から、丁黙邨漢奸裁判部分を引用した内容とほぼ一致している。

胡均鶴の証言によると、

「丁黙邨が特工総部主任になったのは自発的であり、当然その全責任は丁黙邨にある。その成立前、特工総部は憶定盤路にあったが、責任者は李士群であり、完全に日本軍の指揮下にあった。租界では暗殺方針を採用したが、必ず事前に主任の同意を得る必要があり、捕縛についても主任の同意が必要だった」

と述べている。裁判長は、これらの証言を鵜呑みにし、実際の責任者が丁黙邨であって李士群でないことを証明するに足るものであり、殺された中央工作員は明らかに丁黙邨の指揮によるものである、と判断している。

ここで、当ブログ管理人は、鄭蘋如の処刑の決断について注目してみた。丁黙邨狙撃事件の後、丁黙邨は呉世宝を中心とした李士群派から突き上げを食らい、76号から追放されている。呉世宝は、丁黙邨が愛人から恨みを持たれて撃たれた、という筋書き作り新聞社にリークしたのである。76号の監督の立場にあった日本軍影佐機関の晴氣慶胤(はるけよしたね)によれば、丁黙邨追放後、陸軍参謀本部の影佐禎昭と周仏海が、李士群と丁黙邨の内部抗争の手打ちを行い、李士群を唯一の権力者に置いた。したがって、テンピンルーの処刑の決断について、丁黙邨は関与できなかったと思われる。

中国側のその後の史料では、76号の要人の妻達がテンピンルーの美貌に嫉妬し、また、夫が籠絡される危険を感じて処刑を主張し、男達がそれに従った、という説もある。やはりこれは俗説なんだろう。

そもそも彼女がこの丁黙邨狙撃事件の共犯者であるという証拠は出たのであろうか。彼女は丁黙邨にシベリア毛皮店に寄るように催促した。約束通りそこに行ったら狙撃があった。確かに状況としては非常に疑わしい。しかし彼女は拘束された後の尋問で共犯であったという自供はしなかったし、仲間のことも一切口にしなかったため、嵇希宗ら狙撃を実際に行った首謀者達は捕まらなかった。本来ならば首謀者をまず探すべきではないだろうか。

晴氣慶胤著の「謀略の上海」には、この日着ていた丁黙邨の上着のポケットに、知らない間に「成仏」とピンルーの筆跡で書かれた名刺が入っていたと記述されている。この一文はその後のピンルーが出てくる様々な小説で引用されている。あたかも晴氣の文章の全てが真実であるかの如く。しかし、ピンルーはこの時、暗殺が成功しようと失敗しようと、被害者の最も近くにいた人物として必ずや参考人として捜査される身である。その彼女が共犯としての明確な証拠となるような物を暗殺相手のポケットにわざわざ入れるだろうか。ありえない。これは晴氣らの日本側が、ピンルーの逮捕、処刑に正当性を与える、「作り上げた証拠」、なのだろう。まさに「謀略の上海」である。

影佐機関としては、ピンルーの父親であり主席検察官であったテンエツを、親日政権の法務部長職に就けたかったようである。その取引材料が逮捕後のピンルーの命であり、処刑後の彼女のなきがらであった。なきがらを返す返さないの交換条件も提示されたようである。テンエツはこれら交換条件を拒絶した。そうなると、影佐機関にとってもうピンルーの利用価値がなくなった。見せしめの意味があったのかもしれない。憲兵隊長、林秀澄は、林秀澄談話速記録Ⅲに、

「二月に汪政権が政権の門出の血祭りに(ピンルーの)死刑の執行をやるわけでございます」

と証言している。3月の汪精衛政権誕生の前祝という意味である。ここには汪政権誕生の立役者、影佐禎昭の意向が強く反映していたのではないだろうか。この2月には「歓迎 汪精衛の歌」という歌を映画女優で、李香蘭が姉のように慕っていた陳雲裳(ちんうんしょう)に歌わせているが、これも影佐機関による文化工作の一環だと思われる。1940年2月というのはそういう雰囲気の時期だったのだろう。

ピンルー処刑の約7年後に行われた漢奸裁判ではそこまで突っ込んだ審議はなされなかった。なぜなら要人の漢奸は死刑、という結論が蒋介石によって裁判の前から決定していたからである。蒋介石は、当初汪精衛側の要人にうまく寝返りを打たせ、味方として使う方針であった。最も信頼していた部下である戴笠(たいりゅう)も、そのようなつもりで、汪精衛側要人の漢奸を扱っていた。

しかし、蒋介石は中国国民の間に少しずつ共産党へのシンパシーが増長していることへの不安が高まった。彼は、誰もが知る汪精衛側要人が死刑になっていくことによって溜飲を下げたい一般市民の世論に迎合せざるを得なくなった。漢奸に対して厳罰方針に変わっていったのである。

(中略)

丁黙邨は1938年上海到着後、2,3週間で李士群と関係を作った。その関係は1939年秋に生まれたと被告は主張するが信を置きがたい。

鄭蘋如の実弟の供述によると、1939年3月、丁黙邨は鄭蘋如に「あなたのお父さんは以前高等法院第二分院検察官であったが、なぜ和平運動に参加しないのか。どうしても参加しないなら、76号はお父さんの命が欲しい」と言っており、同年11月、郁華伸が76号に殺害された直後、丁黙邨は姉に、「鶏を殺して犬にくれてやるようになるよ」と言ったと述べている。これらを総合してみても郁華伸の暗殺はあきらかに丁黙邨の指図によるものである。鄭蘋如殺害事件も調査統計局の調査によると、丁黙邨の暗殺失敗と明らかに因果関係がある。被告は日本軍の手で殺されたと弁解しているが、取るに足らない言葉である。地下工作員の殺害場所もすべて上海で、被告の特工総部主任の時期に合っている。

(後略)

丁黙邨は死刑判決を不服としてて、最高法院に上訴したが、却下された。その年1947年7月5日午後2時銃殺刑を執行された。

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漢奸裁判史 丁黙邨 1 

益井康一の「漢奸裁判史」(1977年発行。絶版)から抜粋してみたい。益井康一は終戦直前まで中国駐在の毎日新聞特派員であり、終戦後、東京本社東亜部に配属されてからも、漢奸裁判に関する中国現地の新聞記事や外電を収集保存していた。それらを個人的想像修飾なしに記述したのが「漢奸裁判史」である。

ここでは、鄭蘋如(テンピンルー)と大きく関わった丁黙邨(ていもくそん、ティンモートン)から記載していく。(以下、太字は引用、およびその要約文)

丁黙邨の裁判は、終戦後1年以上経た1946年11月19日から、南京の首都高等裁判所で開かれた。午前10時開廷であるが、8時にはすでに傍聴席はギッシリ満員。午前8時半、到着した丁黙邨は、押し寄せた群衆を警官がかき分ける中、プラチナの眼鏡をかけ、藍色の長衫(チョウサン、中国服)の姿で第一法廷に消えた。

Photo 10時に開廷した。裁判長の尋問を受けて、「年齢は44才、湖南省常徳県出身、現住所上海愚園路1010号」と答えた。

金裁判長の尋問が始まる。

問 1938年、軍統(注:蒋介石国民党地下組織)解職後、どこへ行ったか。

答 香港へ行ったが、その時は第三期肺病、胃病、心臓病で病が重く、4ヶ月病床にあった。

問 それからどこへ行ったか。

答 上海で仕事をしようと思った。生活が苦しくなったからである。

蒋介石国民党の軍統のリーダーの一人であった丁黙邨は、組織内で衝突したため解職された。香港へ逃げ、身体を養生してから上海に仕事を見つけに来たようである。簡単に言えば、金に困って職探しに上海に来た、ということになる。

(中略)

問 上海では?

答 上海到着後ある人が、日本軍が自分に非常に注意して逮捕しようとしている、と通知してくれたが、その理由がわからなかった。1939年になって和平運動(注:影佐禎昭の進める汪精衛を首班とする親日政権樹立運動)への参加を李士群が持ちかけてきたが、自分は動かなかった。汪精衛が指導するようになって正式に参加した。

問 汪精衛の上海到着後、参加を求められたのか。

答 私は1938年以前は汪精衛反対派とされ、全て汪と対立していた。当時汪は私を逮捕したことがある。汪精衛が上海で和平運動参加を言ってきたとき、奥地で彼と死をもって角突き合わせていたことを思い、彼への協力は何ともうなづけないと考えた。自分の態度決定は時間がかかった。

問 その後どうして汪に協力したか。

答 逃走しようと思ったが、李士群に知られた。彼は私の保証人であり、彼がしきりに勧めてきたので嫌々ながら汪精衛と会うことになった。

問 ジェスフィールド76号はどんな機関だったのか。

答 昔の幕僚機関(注:指揮官の参謀役)と同じようなものだ。

問 特務機関ではなかったのか。

答 幕僚機関だ。

問 76号ではどんな仕事をしたのか。

答 実際は何もしなかった。大きな仕事は李士群から汪精衛へ持っていった。小さな事は汪精衛が李士群にやらせていた。

問 それではどんなつもりだったか。

答 何のつもりもなかった。私はいつも日本人と対立していたので、彼らは私に対していい感情をもっていなかった。

この答弁は、日本軍側の丁黙邨に対する評価に合致する。当時ジェスフィールド76号にかかわった日本人の誰もが、李士群の人柄の良さ、イコール扱いやすさと、丁黙邨の気難しさ、つまり扱いにくさを書いている。そしてそれは丁黙邨の見た目に対するひどい表現にまで及んでいる。常に陰気で、やせこけ、咳き込んでおり、眼光だけは鋭く、しかし女にはだらしない、というような表現である。

たとえば影佐機関員だった議員、犬養健は著書「揚子江は今も流れている」の中でこう書いている。

「私はここで丁黙邨という男の世にも稀な風采を伝えなくてはならない。私は随分多くの人を知ったが、この丁のような異様な容姿の持ち主にはかつて出会ったことがない。丁は五尺そこそこの背丈で、発育不全とでのいうのであろうか、背丈ばかりではない、顔も手足も何もかも小さく縮こまっている」

まったくひどい書きようである。異様な容姿と書いているが、写真を見るとそんなことはないと思う。身長も李士群と並んで写っている写真を見るとそう大きく違うわけではない。

ジェスフィールド76号を直接指導することになった晴氣慶胤(はるけよしたね)は、「謀略の上海」の中で、外務省の清水書記官が連れてきた丁黙邨と李士群の二人に初めて会ったときのことをこう書いている。

「一人はねずみ色の背広に派手なネクタイを締め、年の頃34,5才、額は広く理知的だったが、目は蛇のように冷たく光り、見るからに陰惨な、かみそりのような感じであった。その男は丁黙邨と名乗った。李士群と呼ぶ、もう一人の中国の礼服姿の男は、それより少し若かったが、色白のふっくらした美男子で、瞳は明るく澄み、一見おおらかそうで、およそ丁黙邨とは対照的であった」

ジェスフィールド76号内での扱いにくさ、親しみにくさが、このような表現になった気がする。戦後、丁黙邨について書いた部分のある小説は、みな晴氣と犬養の著書を参考にして、それを信じているのである。丁黙邨に対するこの二人の先入観が延々と続いていくことになる。

尋問は続く。

問 ではどうしてもっと早く中央(注:蒋介石国民党政権)と連絡しなかったのか。

答 最初は監視が厳重であった。徐々にゆるくなったのでようやく中央に連絡した。

(中略)

問 76号の特工主任になってから何をやったか。

答 重ねて言うが、実際の仕事は何もやっていなかった。

問 肩書きは。

答 肩書きも他から押しつけられたもので、自分としては受けていなかった。

問 特工総部の秘密について話せ。

答 これはでっち上げた機関に過ぎず、李士群一人だけではいろいろと工合が悪いので、彼はあえて副主任になり、私に主任の名義を与えた。その頃私は本当に逃走するつもりであったが、それを果たせなかった。自殺しようかと思ったが、私は将来、国家(注:蒋介石国民党政府)に移って仕事をしようと考えた。自殺しなかったのはまさに誤りであった。しかし76号では本当に仕事はやらなかった。そこでは李士群が中心になってやった。

問 76号の組織変更はいつだったのか。

答 1942年の離職後であり、調査統計部に改め、1945年3月に政治保衛部に改められた。

問 被告は政治保衛部の副監であったが、正監は誰だったか。

答 陳公博であった。

問 女学生、鄭蘋如の生き埋め事件(注:定説では生き埋めでなく銃殺刑である)ついてはどうだ。

答 法廷のお許しを得ればお話するが、新聞記者の方はどうか書かないようにして頂きたい。それは私人の内情についてだからである。実は鄭蘋如小姐(小姐はシャオチェと読み、女性の敬称としてつける)は母親が日本人であった。日本側から共産党か、蒋介石国民党のスパイとして疑われ、日本側に逮捕された。もし私が手を下したとしたら理屈に合わない。私についていろいろ誤って伝えられていることが多く、私は殺人魔、暗殺魔と言われているほどで、そういう私なら当然銃殺してしまうだろう。鄭女史を殺した罪が私に着せられていることは憤慨にたえない。

問 鄭蘋如は、静安寺路才登路に洋服を買いに行ったとき、彼女は機を見て被告人を暗殺しようとしたのか。

答 そんなことはない。自分に罪があれば否認しないが、自分がしてないことは断じて承認できない。

(中略)

裁判長は、丁黙邨が76号主任であったころに、蒋介石国民党側の抗戦志士の殺害を証明する書類を読み上げた。

丁黙邨は一言も発しなかったが、ややあって、

「それらはみんな李士群のやったことである。全てはねつ造されたものであるが、世間には確かにそう伝えられた」

と、あくまで否認を続ける。裁判長は、抗戦志士として殺害された12名の名前を読み上げる。

丁黙邨は、

「若干の者は必ずしも上海で殺された者ではない。上海で殺された者は調べればわかる。当時上海には特務機関がはなはだ多く、76号の手で行ったものとは決まっていない」

と訴えて、その証拠の提出を要求した。さらに転じて、機を見て中央に対する功績を表そうとし、郵便、為替の維持、地方自治の維持のため、清郷(李士群と日本軍の進めた地方封鎖活動)事務局や自由区の封鎖の撤廃などをあげ、

「これらはすべて中央および人民の利益を図ったことである。私のお陰で救われた中央工作員の数は約200人にのぼる。捕らえられた者をはなはだ多いが、陳公博に言って大赦令を出させ、陳立夫先生(注:蒋介石国民党CC団幹部)から命令を受けた時は、日本軍と汪精衛、李士群の離間工作に努力した」

と、休みなく中央への忠誠の弁は続いたが、いずれも取り上げられずに終わった。11月に始まった裁判だが、未決のまま年を越し、翌年1947年2月8日、首都高等裁判所は丁黙邨に次の判決を下した。他の要人漢奸と同じで判を押したように、

「死刑。公権を剥奪し、家族の必要生活費を除く全財産を没収する」

というものであった。判決理由は、

「中央要職にあって敵に深入りし、国家危急に際してみだりに職責を離れ、抗戦陣営を離脱して敵国に密通し、逆臣どもの甘心を買った。中央の司法人員を狙撃し、地下工作員に惨害を加え、日本に媚びを売る言論を散布して人心を惑わし、人民の財産を奪って敵に供した。かかることは罪状すでに明白で、少しも情状酌量の余地は無い」

というものである。

ピンルーの甥、鄭国基氏によると、1945年、鄭国基氏6才のとき、丁黙邨の妹が金の延べ棒数十本をピンルーの母のもとに持ってきて、テンピンルー殺害に対する告訴を取りやめるように頼んだそうである。検察官であった父テンエツは病死しており、またピンルー拘束後、テンエツの親日政権への寝返りを促すため、銀行口座を閉鎖されていた鄭家は極度の貧困に陥っていたが、金の延べ棒の受け取りを拒否したようである。


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