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2008年11月16日 (日)

漢奸裁判史 丁黙邨 2

判決書の要約を抜粋する。

Photo_2 南京、上海陥落後も江蘇高等法院第二分院は、上海租界にあり職務を遂行していた。国民党に対する忠誠心は山の如く動かず、和平運動を拒否し続けてきたので、特工総部(ジェスフィールド76号)は法院の活動を妨害することになった。

1939年11月13日朝、同法院の裁判長、郁華伸がフランス租界の善鐘路の自宅から出勤するのを待ち伏せして暗殺した。被害者の妻が逐一これを見届け、各新聞その他報道もこれを確認している。

また、上海江蘇高等法院第二分院主席検察官、鄭伯曾の娘、鄭蘋如は1937年国民党調査統計局の工作に参加、1939年春、命令により特工総部に潜入させられた。彼女が丁黙邨と師弟関係にあるのを利用して丁に接近させ、同年12月25日午後5時、洋服を買うため丁を静安寺路、才登路、シベリア雑貨店に誘い出し、そこで工作員が待ち伏せして射殺することになった。しかし、丁の警戒厳重のためついに成功せず、鄭蘋如はその正体が暴露して同26日、特工総部に捕らえられ、程なく処刑された。実弟と証人の証言および国民党調査統計局の調査によりこれも事実に間違いない。

テンピンルーが嵇希宗ら仲間4人の提案によって、丁黙邨狙撃のために彼をおびき出すという役割を遂行したのは、判決書では1939年12月25日午後5時、となっている。しかし、12月22日の中国語新聞には、前日の12月21日午後6時過ぎの日時に狙撃事件が発生したと記事になっている。また判決書では事件の翌日26日に捕らえられたとなっているが、テンピンルーが捕まったのは、年が明けてからである。これは彼女を捕まえた時に指示を出した上海憲兵隊長の林秀澄が語っている。2008年7月に放送された日本テレビ「女たちの中国第二弾」で、ピンルーの逮捕が12月26日となっていたのは、この判決書の情報からなのだろう。丁黙邨を告訴した弟、鄭南陽と母親木村はなの記憶違いだと思われる。

(中略)

以上8人は特工総部に逮捕されて殺害されたもので、全て被告が特工総部主任在任中のことであり、当然全責任を負うべきである。

(中略)

被告の弁解を聞くと次の通りである。

1.中央工作員殺害について

1939年上海における日本の特工機関は、陸軍、海軍、維新政府、汪精衛すなわち李士群の握る76号の4つであった。この年、私は逃亡をくわだてて、李士群に発見されて76号に軟禁され、特工総部主任の名義を強制されて蒋介石国民党に逃亡できないようにされた。

76号は李士群が全責任をもった私党で、その下に呉世宝と楊傑が76号を操縦していた。鄭蘋如は日本の情報員と中央(注:蒋介石国民党)および、共産党とも関係を持っていたようである。1939年冬、日本軍に捕らえられ虹口(ホンキュー)に監禁された。明らかにこれは日本の手にかかったものである。数々の証人の言では、鄭女史殺害は、76号のしわざではないということを証明している。

前述の、上海で殺された軍統局地下工作員も、大部分は特工総部の成立以前だから、明らかに日本の手によるものである。76号が危害を加えたのでない。一歩譲って76号だとしても、完全に李士群が権力を握っていて、私は行動の自由が無く、李士群に代わって責任を負う訳にゆかない。

(後略)

このあたりの内容は、当ブログの以前の記事「テンピンルーの親友 花野吉平 1」 で、葵登山の著書「張愛玲 色戒」から、丁黙邨漢奸裁判部分を引用した内容とほぼ一致している。

胡均鶴の証言によると、

「丁黙邨が特工総部主任になったのは自発的であり、当然その全責任は丁黙邨にある。その成立前、特工総部は憶定盤路にあったが、責任者は李士群であり、完全に日本軍の指揮下にあった。租界では暗殺方針を採用したが、必ず事前に主任の同意を得る必要があり、捕縛についても主任の同意が必要だった」

と述べている。裁判長は、これらの証言を鵜呑みにし、実際の責任者が丁黙邨であって李士群でないことを証明するに足るものであり、殺された中央工作員は明らかに丁黙邨の指揮によるものである、と判断している。

ここで、当ブログ管理人は、鄭蘋如の処刑の決断について注目してみた。丁黙邨狙撃事件の後、丁黙邨は呉世宝を中心とした李士群派から突き上げを食らい、76号から追放されている。呉世宝は、丁黙邨が愛人から恨みを持たれて撃たれた、という筋書き作り新聞社にリークしたのである。76号の監督の立場にあった日本軍影佐機関の晴氣慶胤(はるけよしたね)によれば、丁黙邨追放後、陸軍参謀本部の影佐禎昭と周仏海が、李士群と丁黙邨の内部抗争の手打ちを行い、李士群を唯一の権力者に置いた。したがって、テンピンルーの処刑の決断について、丁黙邨は関与できなかったと思われる。

中国側のその後の史料では、76号の要人の妻達がテンピンルーの美貌に嫉妬し、また、夫が籠絡される危険を感じて処刑を主張し、男達がそれに従った、という説もある。やはりこれは俗説なんだろう。

そもそも彼女がこの丁黙邨狙撃事件の共犯者であるという証拠は出たのであろうか。彼女は丁黙邨にシベリア毛皮店に寄るように催促した。約束通りそこに行ったら狙撃があった。確かに状況としては非常に疑わしい。しかし彼女は拘束された後の尋問で共犯であったという自供はしなかったし、仲間のことも一切口にしなかったため、嵇希宗ら狙撃を実際に行った首謀者達は捕まらなかった。本来ならば首謀者をまず探すべきではないだろうか。

晴氣慶胤著の「謀略の上海」には、この日着ていた丁黙邨の上着のポケットに、知らない間に「成仏」とピンルーの筆跡で書かれた名刺が入っていたと記述されている。この一文はその後のピンルーが出てくる様々な小説で引用されている。あたかも晴氣の文章の全てが真実であるかの如く。しかし、ピンルーはこの時、暗殺が成功しようと失敗しようと、被害者の最も近くにいた人物として必ずや参考人として捜査される身である。その彼女が共犯としての明確な証拠となるような物を暗殺相手のポケットにわざわざ入れるだろうか。ありえない。これは晴氣らの日本側が、ピンルーの逮捕、処刑に正当性を与える、「作り上げた証拠」、なのだろう。まさに「謀略の上海」である。

影佐機関としては、ピンルーの父親であり主席検察官であったテンエツを、親日政権の法務部長職に就けたかったようである。その取引材料が逮捕後のピンルーの命であり、処刑後の彼女のなきがらであった。なきがらを返す返さないの交換条件も提示されたようである。テンエツはこれら交換条件を拒絶した。そうなると、影佐機関にとってもうピンルーの利用価値がなくなった。見せしめの意味があったのかもしれない。憲兵隊長、林秀澄は、林秀澄談話速記録Ⅲに、

「二月に汪政権が政権の門出の血祭りに(ピンルーの)死刑の執行をやるわけでございます」

と証言している。3月の汪精衛政権誕生の前祝という意味である。ここには汪政権誕生の立役者、影佐禎昭の意向が強く反映していたのではないだろうか。この2月には「歓迎 汪精衛の歌」という歌を映画女優で、李香蘭が姉のように慕っていた陳雲裳(ちんうんしょう)に歌わせているが、これも影佐機関による文化工作の一環だと思われる。1940年2月というのはそういう雰囲気の時期だったのだろう。

ピンルー処刑の約7年後に行われた漢奸裁判ではそこまで突っ込んだ審議はなされなかった。なぜなら要人の漢奸は死刑、という結論が蒋介石によって裁判の前から決定していたからである。蒋介石は、当初汪精衛側の要人にうまく寝返りを打たせ、味方として使う方針であった。最も信頼していた部下である戴笠(たいりゅう)も、そのようなつもりで、汪精衛側要人の漢奸を扱っていた。

しかし、蒋介石は中国国民の間に少しずつ共産党へのシンパシーが増長していることへの不安が高まった。彼は、誰もが知る汪精衛側要人が死刑になっていくことによって溜飲を下げたい一般市民の世論に迎合せざるを得なくなった。漢奸に対して厳罰方針に変わっていったのである。

(中略)

丁黙邨は1938年上海到着後、2,3週間で李士群と関係を作った。その関係は1939年秋に生まれたと被告は主張するが信を置きがたい。

鄭蘋如の実弟の供述によると、1939年3月、丁黙邨は鄭蘋如に「あなたのお父さんは以前高等法院第二分院検察官であったが、なぜ和平運動に参加しないのか。どうしても参加しないなら、76号はお父さんの命が欲しい」と言っており、同年11月、郁華伸が76号に殺害された直後、丁黙邨は姉に、「鶏を殺して犬にくれてやるようになるよ」と言ったと述べている。これらを総合してみても郁華伸の暗殺はあきらかに丁黙邨の指図によるものである。鄭蘋如殺害事件も調査統計局の調査によると、丁黙邨の暗殺失敗と明らかに因果関係がある。被告は日本軍の手で殺されたと弁解しているが、取るに足らない言葉である。地下工作員の殺害場所もすべて上海で、被告の特工総部主任の時期に合っている。

(後略)

丁黙邨は死刑判決を不服としてて、最高法院に上訴したが、却下された。その年1947年7月5日午後2時銃殺刑を執行された。

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