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2008年11月24日 (月)

李香蘭の収容場所

今月発行されたばかりの「堀田善衛上海日記」(紅野謙介編)を読了した。以前コメントをいただいたcosmopolitanさんご紹介の日記本だ。私は知らなかったのだが、堀田善衛(ほったよしえ)という作家がいて、敗戦の少し前から敗戦後1年半くらい上海にいた人の日記だ。

Photo_5 李香蘭に言及した部分が3行ばかりあった。これまでの定説では、というか、山口淑子氏本人が語っているのだが、日本の敗戦時、彼女は映画会社「中華電影」の代表である川喜多長政と、その仲間の野口久光、小出孝の3名と一緒に、日本人地区虹口(ホンキュウ)のスコットロード(現山陰路)を東に入った興業坊なる通りに収容された。この興業坊という通りは現在も残っているし、そこの長屋もそのまま残っている。(上の写真)

李香蘭に言及した部分だけ引用する。話しの前段としては、1945年10月24日、この日記の筆者堀田善衛が、会田という知人が収容されている住宅を尋ね、夕食を一緒に食べ少し飲んだ時の話しである。

以下引用

その時の話しに、緑苑荘の川喜多さんのところにいる李香蘭について、「李香蘭」は捕まった、山口淑子は捕まらぬのだ、という話あり。なるほどという訳で大いに笑った。又水久保澄子が大陸新邨(たいりくしんそん)にいることや、高見順の先の女房の石川アイ子という人も上海にいるという話だった。一昔ならしたのが、いろいろとひっそりと上海にいるらしいと会田氏は何度も云った。引用終わり Photo_2

李香蘭が収容されたのが興業坊という通りまではわかっていたが、「緑苑荘」なる長屋だったようだ。これはこれまでどこにも記載されていないはずなので、一応、新情報となろう。山口淑子氏本人も記憶にないことかもしれない。どうでもいいことかもしれないが、日記ならではのマニアックな情報である。

文中に出てくる水久保澄子なる名前を検索してみると、松竹映画女優だったらしい(上の写真)。戦前にフィリピンの富豪と結婚し1年で離婚している。その後上海に流れてきてひっそりと暮らしていたということだろうか。彼女が収容されていた大陸新邨は、スコットロード(現山陰路)を西に入った1931年に建てられた赤レンガの洋風テラスハウス。調度品や建材はヨーロッパの物が輸入されて使われていた。李香蘭の長屋然とした興業坊緑苑荘よりも数段高級な住宅だったようだ。魯迅の最後の住居もここであり、現存している。(下の写真)

Photo

2 山口淑子氏の自伝「李香蘭を生きて」では、1946年に入ったころ、川喜多氏が国民党の役人から、李香蘭が日本人だと証明できる書類があれば漢奸裁判は無罪になるだろうと聞いた、ということになっている。堀田の日記からも裁判の初期の段階で「李香蘭」と「山口淑子」を分離する法廷作戦に出ていたことが裏付けられる。ちなみに1946年1月には山口淑子氏は蒋介石国民党の工作員から、対共産党のスパイになれば漢奸裁判を無罪にするとも持ちかけられている。漢奸裁判には金の延べ棒の話や、こういった裏取引の話が少なくなかったようである。もちろん山口淑子氏はこの話を断っている。

ちなみに、このころの上海の夕刊紙で、李香蘭が上海国際競馬場で、12月8日午後3時に銃殺される」と報道されたり、壁新聞では李香蘭がスパイだと断定されていたらしい。

ちょっと気になるのが、「大いに笑った」というところ。真剣に漢奸裁判で無実を得ようとしていた山口淑子氏自身や川喜多氏にとってみたら怒り心頭という表現だが、私的な日記なのだからと了解いただくよりほかないだろう。日記とは普通は自分で書いて自分だけが読むものだ。それを他人がこうして読んでしまっている。私はのぞき見をしているようなものである。文化工作も担当していた堀田にしてみたら、「李香蘭、うまくやってるな。したたかだな」というくらいの感覚か、あるいは、「たぶん助かるんだろう」という、同じ日本人としての安心感がそうさせたのかもしれない。

また、「一昔ならしたのが、いろいろひっそりと上海にいる・・・」という文面からは、かつての有名人が自分らと同じ境遇で苦労しているところに、一種の溜飲を下げる気持ちがあったのだろう。今も昔も変わらぬ有名税である。

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