« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月の7件の記事

2009年2月21日 (土)

「蘇州の夜」を見て 植民地医療の光と影

Photo この「蘇州の夜」、記事にするモチベーションがあまり沸かなかったのでほったらかしになっていた。「私の鶯」、「支那の夜」が私にとってそれなりのインパクトがあったのに比べ、この「蘇州の夜」はかなり淡泊な映画という印象を残した。

主題は、日本が、中国に対し医療分野に置いて大きな貢献をしている。日本人の真心を知った中国人は日本に感謝し共存共栄を求めていく。

という、典型的な国策映画だ。李香蘭演じる梅蘭(メイラン)と佐野周二演じる主人公の日本人医師、加納とのかなわぬ恋愛が絡んでくるのだが、当初日本人に反発していた梅蘭が、やがて目が覚めたように加納に恋をするという「支那の夜」と似た流れである。

Photo_8 国策映画も3つめとなるとさすがに食傷気味となる。こんな会話が交わされる。

加納:「なぜそんなに日本人が憎いんだい?よろしかったら聞かせてくれないか?」

梅蘭:「私たちの生活をめちゃめちゃにしたからです。戦争が始まると、乱暴な支那兵が乗り込んできて、掠奪、追放、一家はバラバラに。おじさん達や妹がどこへ逃げたか。いまだに・・・」

加納:「日本は中国を救うために、君たちを救うために力を貸したんだ。東洋の幸福は東洋人だけで守らねばいけないんだ」


実際、中国兵も日本兵と同じく、食料などの調達のために戦場近くの農民から掠奪まがいのことをしていたようであるが、この会話からは、それをやっているのは中国兵だけであるかのような印象を与える。

さて、加納ら日本人医師の行っていた活動の一端が少し映像でわかる。ワクチン注射による予防接種である。これは大陸に進出した日本人(日本軍、民間人)に現地の伝染病が移らないようにするためが第一義であったと思われる。

Photo_2 映画の中で面白い格好をしたクルマが映った。車体にはVACCINATION VAN(ヴァクシネイション ヴァン) と書いてある。VACCINはワクチンであるからして、これは「ワクチン接種車」ということだ。日本人進出地周辺各地を巡回していたのだろう。Photo_6

Photo_7

参考までに、この「ワクチン接種車」はVACCINATION VANで検索すると下の写真が出てきた。イギリスの国内での予防接種の風景のようである。西洋医学の先進国ではこういった巡回予防接種が、1930年代ごろからすでに一般的になっていたようだ。

Vaccination_in_uk_2

1924年、上海では民間日本人医師の有志によって福民病院(現在も上海市人民第四病院として存続)が設立され、日本人、中国人、その他外国人分け隔て無く医療行為を施した。鄭蘋如(テンピンルー)の姉、鄭真如は、残念ながら亡くなったがこの福民病院で心臓病の治療を受けている。魯迅も臨終の間際まで、通訳をつけながら日本人医師からの治療を受けていた。

テンピンルーの下の弟、鄭南陽は上海にある満鉄公館に花野吉平らとよく遊びに行っていたようだが、そのつてもあったのだろうか、奉天にある満鉄経営の満州医科大学病院で研修を受け、戦後は上海で内科医院を開業している。この満州医科大学病院には中国各地から優秀な中国人医師の卵が集まり、日本人医師から指導を受けていた。戦後は、中国医科大学病院となり、最新の設備を備えた総合病院として各国からの留学生を集めるまでになっている。 Photo_9

Photo_11

中国における日本人医師団による輝かしい功績と光。素晴らしいものがあるではないか!




ところが、この満州医科大学、当時中国人学生と日本人学生の間には厳然とした区別があった。中国人の教室は薄暗い半地下の部屋、食事は米は出さずコーリャン。日本人学生は明るい教室があてがわれ食事に米が出た。この区別、いやはっきり言うと差別、を知るにつけ、少し暗い影がさしてくる。

そして、この映画「蘇州の夜」では、加納医師とその部下の間でこんな会話が交わされる。

加納の部下:「こちらの人は注射となると、今にも死んでしまうと思っているのですね」

加納:「困ったものですね」

五味川純平の「戦争と人間」にもそんな文章があった。満州で勤務する日本人医師が、現地の中国人を集めて予防接種をしようとすると「殺される!」と騒いで皆逃げていってしまう、というのだ。なぜだろう。注射が嫌いなだけだろうか。

当時の日本人医師団の一部はさまざまな病原菌、毒物の注射などによって3000人とも言われる中国人とロシア人、捕虜となったアメリカ人を生体実験の末、殺していた。

私が「蘇州の夜」を見て思いが至ったのは、日本が大陸で行ってきた医療行為の光と影の両面である。

ドラマ「李香蘭」で、野際陽子演じる山口淑子が、ロシア人の親友リュバから、兄が731部隊(=関東軍防疫給水部隊、いわゆる石井部隊。当初は秘密を守るために石井の偽名である東郷を取って「東郷部隊」という暗号で呼ばれていた)に殺された話を聞く場面が出てきた。私は731部隊の生体実験の対象となったは中国人だけかと思っていたので、ロシア人と731部隊はなかなか結びつかず、この山口淑子氏の書いた731部隊のエピソードには唐突感があった。本心を言うと、信じたくない気持ちもあり、大変失礼ながら山口氏が作り話として挿入したのではないかとさえ思ったこともあった。 Photo_12

こちらのリンクを見ると 731部隊には中国人以外に、ハルピンなどに住んでいたロシア人、日本を空襲して撃墜された米軍捕虜も連れてこられていたことがわかる。

少し引用する。

問:はじめて解剖室に入ったときの死体、どんな人でしたか?

答:男性です。白系ロシア人です。ハルピンは白系ロシア人が多いんですわね。一見して色が白いんですね。28か30歳くらいでしたね。体格がええですわ。手なんかこんなに太くて毛が生えとるんですわね。胸毛もね。そりゃ男前でした。身長は1m80は楽にあったでしょうねえ。

(中略)

問:それで接種は誰がしたんですか?

答:そりゃもう解剖する先生です。

問:どういう風に接種されましたか?

答:えーとその時は静脈に。一番最初のはちょっと何の菌かわからんのですが。もちろん菌そのものはねばっこいから、薄めて。

問:そのときマルタのロシア人は抵抗しましたか?

答:抵抗しないような方法があるわけなんです。というのが「君はおとなしいから早く出してあげよう、それにあたっては予防接種しないといかんから」、と通訳がいうんですね。そすと喜んで手を出す。

問:しかし、おかしいと思いますよね?

答:そうですね、我々が出た後、きょろきょろしてますわね。

問:それで接種したあと外から観察するわけですね?

答:ええ。観察記録するノートがあるわけです。記録する科目がずーとあるわけです。それに何分になったらどういうようになって、何分になったらマルタが座り込んだと。で、何分で横になったと。

問:どういうふうに変化していったか覚えていますか?

答:うーん。打った菌を覚えてないからね。まず打ってから3、4時間後に顔の色がわるくなったね。それから座りこんだね、それでひざまづいて頭をかかえて、それが約30分くらい続きましたですね。それから横になって、背伸びして、またうつ伏になって、仰向けになったりして。早かったですね。731

この続きのこちらのリンクで上海から連れてこられた23才の中国人女性が生体実験される直前の様子が証言されているので、また少し引用する。

問:女性の方もいましたか?

答:おります。中国人。そで私が聞いたのに、「ニーナーチュラマー、あんたどっからきたんか」。わたしゃ案外中国語できたから。少年隊のときに中国語も教えますからね。外出なんかしたときいりますから。

問:で、聞かれたと。何と答えましたか?

答:上海。そで、「ニーショウハイユーマー、あんたに子供さんがおられますか」。「メイユラ」、ということはいないということ。「フーチンムーチンユーラーマー、お父さんお母さんいますか」。「いる」、と。その程度の会話はできます。

問:どんなことを聞かれました?

答:「まだ結婚はしてない」と、「どうしてきたんか」。「何かわからんけど逮捕された」。

問:いくつくらいの人?

答:それは若かったね。23くらい。というのは「ニーデチイネントーザイス」、ちゅうのが「あんた今年でいくつになりますか」、「アルスウサン」、ちゅうことは「23」ですからね。私の記憶では23。仕事の事は聞かなかった。

問:隔離室で会ったわけですね。その女性の方も裸だったんですか?

答:う? 女性は服着てた。

問:男性は裸で、女性は服着ていた?

答:そうです。

問:どんな服着てました? 囚人服ですか?

答:いや、囚人服じゃない。中国服。自分の着てきた服や思います。それで手に鎖。手錠じゃなくて時代劇に出て来るような幅の広い鉄の。その間に30センチか40センチの鎖があって。

問:それで普通の服を着ていて?

答:マルタ小屋では裸なんですよ。それを隔離室につれてくるときに、他の人の手前もあるから釈放するからいうて服着せるんでしょうね。私物に着替えさせるんですね。

問:おびえてましたか?

答:いや、あんまりおびえてなかった。釈放されると思っていた。自分は本当に出してもらえるんだろうかいうて私に聞いた。というのは先生が来るまでに時間があったから。

問:それで何と答えたんですか?

答:それですぐ予防接種をして釈放するから。ほで、お金なんかはどうなるんじゃろうかいうて。汽車にのらないかんから。

問:それで釈放されると思って?

答:信じきっとった。

問:名前覚えてますか? 名前聞きましたか?

答:チン・・・ショウレイ。レイという字は美しいというあの字ですな。チンはこざとへんのあれですわね。ショウは、それが思い出さんのですわね。

問:マルタだから名前が書いてあるわけではないですよね。それはお聞きになったんですね?

答:そうです。「ニーショマミンズ」「あんたの名前は」て聞いてそういうたんです。

問:それでその方も観察室にいれて、やはり注射ですか。静脈注射?

答:先生によって違いますわね、その人の時は注射するまではいなかった。私は。

問:その後観察にいったりもしなかった?

答:それは私はしなかった。その女性の場合は。・・・とても綺麗な方でした。色の白いねえ。髪の毛は黒で長い、それを三つに編んでた。一本じゃなくて、二つに分けて。

問:今でも顔を思い出しますか?

答:思い出します。なぜ私がそれを覚えているかちゅうと、私の兄弟は女ばっかし。そで特に意識にのこるんです。

問:脊の高さは?

答:そう高くはなかったね、私よりは高かったけど。やせて。中国人のあれというのはたいがいが先生もお会いになったと思うけど、やせてスーとしてますわね。ああいう感じです。クーニャンて感じですわね。映画なんかで柳のしたで扇子なんかしてるようなね。

問:話しぶりからね、教養があるという感じでしたか?

答:ありました。満州では家のことをファンズというんです。ニイというのは貴方ということ。それでニイファンズナーベンちゅうと、あなたの家はどこですかとい うことです。ところが中国大陸のほうになるとファンズじゃ通じないんです。ジャーなんです。ニイジャーナーリーとなるんです。

問:つまり最初の満州の言葉じゃ通じなかった、それで大陸の言葉では通じた?

答:ショマ、ショマいうて聞直すわね、向うがわからんと。何、何と。

問:それで上海ということとか判ったわけですね。しかし、本当はそういうこと聞いたらいかんのではないのですか?

答:いや、そりゃかまわんのです。そりゃもう許可なってますからね。落着かせるわけだからね。お前は殺されるいうわけじゃないんだから。イースーラなんていったらあんた殺されますよなんていったらそりゃ大変やろうけど。

問:まあ、そういうことも任務のうちだと?

答:いや誉めやせんけど禁じもしないという。

問:それで変なこと聞くようだけど、その若い女性見て、その時かわいそうだなとか思いましたか?

答:もちろんあります。これ何もわからんで、何時間後には解剖されるんやなあと、知らないということは恐ろしいことだなあ、と。

(引用終わり)

たどってみたら上のリンクの元記事はこちらのホームページからだった。 大分協和病院の内科医、山本氏のホームページである。彼の診ていた一人の患者さんが、731部隊の元少年隊員で、7時間ものインタビューをしていたのだ。このインタビューは1991年9月に行われている。

生体実験の対象となった人々は、「あなたはおとなしいから、釈放してあげる。その前に予防接種をする」と嘘を言われ、皆喜んで研究目的の致死量の病原菌の接種を受けたようだ。このような生体実験の対象は秘密保持のため、憲兵隊か特務機関が住民から集めるようなシステムになっていた。地下工作員の容疑などをかけて捕まえるのである。上に出てくる女性は「なんか分からんけど逮捕された」と言っている。工作員の容疑だったということだろう。23才、はるばる上海から連れてこられている。

日本陸軍と731部隊は、上に書いたような生体実験の結果をペスト菌散布という実戦に応用した。

このブログで以前「漁光曲」の記事 を書いた時、中国語歌詞の発音のフリガナを教えてくれた中国人留学生がいた。彼女の出身が上海の南に位置する寧波(ニンポー、ねいは)であった。ここではかつてペストが流行ったことはなかったが、1940年のある日、日本軍機が飛び去った後、急にペストが流行った。以下は、細菌戦裁判の寧波の部の引用である。



第7 細菌戦による寧波のペスト被害

1 衢州、義烏(市街地)、同農村部及び東陽市と広がるペスト流行の原因 となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起 こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
 1940年10月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一 帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。

10月29日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者が相次いだ。

2 患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って224番地から268番地、西は開明街に 沿って64番地から98番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路224号へ続く一帯である。汚染区内商店43戸、住宅69 戸、僧庵1戸の計113戸、人口591人であった。  (後略 引用終わり)


下に掲げた3連の書類写真は寧波でペストが蔓延したときに杭州日本領事館が中支警務部長事務代理をしていた上海総領事経由で松岡外務大臣に宛てた報告文書である。日本軍の非占領地にペストが発生したことを強調している。つまり自然発生のペストに見せかけた文書である。しかも支那側と協力して防疫活動をしているということだ。自分でペストを流行らせ自分で防疫する。なかなか興味深いマッチポンプの一例である。(クリックすると拡大します)

1

二枚目の最後のほうには、満州の大連からペストワクチン500人分を持ってくるようなことが書いてある。おそらくハルビン近郊にあった731部隊でペストワクチンが大量生産され、満鉄経由で大連に送られてきていたのだろう。

2

3

私に「漁光曲」の歌詞の発音を教えてくれたこの若き中国人女性。日本が大好きな人である。彼女は自分の故郷に日本軍がペスト菌をばらまいたことを知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか・・・。私には聞く勇気がまだない。ただ、私が「日中の戦争中の歴史を学んでブログに書いている」と言ったときに、彼女はすこし表情が固まり、無言になった。

暗い影の歴史を知る行為は常に未来のためにあるべきである。


これは私が歴史を調べ書くときの信念です。


731部隊で活動していた日本人医師の多くが戦後、731部隊の研究成果を引き渡すことを取引条件としたアメリカ当局によって罰から逃れることができた。こうして731部隊を生み出した我々日本人に無反省が許された。その延長線上に、1980年代の薬害エイズ患者の発生があるのではないか。

731部隊長石井四郎の側近であった内藤良一の設立したミドリ十字社による、HIV汚染血液を使った、悪影響があると分かっていながらの輸血。それはまさに731部隊で病原菌を注射され、どうやって死んでいくか、その様を裸でガラス張りの部屋の中で観察された生体実験者「マルタ」を想起させはしないだろうか。

731部隊のことを語るのは「自虐史観」というのだそうである。過去の失敗を学び未来に活かす、それのどこが自虐なのだろうか。自虐上等、私にとってそれは自愛以外の何ものでもない。


2010年2月7日追記

1937年9月23日、上海北部の揚子江を上陸してきた日本陸軍の田上部隊に対して、中国軍はホスゲンガス弾(窒息性毒ガス弾)を実戦使用しています。以下、下記のような従軍記者の記事を見つけましたので引用します。

----------------------

上海九月二十三日発 読売特派員 牧 信

中略

田上部隊本部付近でボスンという聞き慣れぬ砲弾の炸裂する音が鼓膜をふるわせた。「変な音だなあ」と並み居る兵達が顔を見合わせて怪訝な胸を波打たせた時、プーンとガスの匂いが鼻をついて来た。「毒瓦斯だっ」。一時にわが戦線はどよめき立ったがこの匂いは間もなく消えた。するとまたボスーンと中空に炸裂の音がしてプーンと不気味なガスの匂いが戦線を這った。いよいよ敵が毒瓦斯弾を使いはじめたのだ。ホスゲン瓦斯弾である。我が軍を窒息せしめようという人道上許すべからざる手段に訴えて態勢の挽回を図ろうとしたものらしい。だが、敵はこの毒瓦斯もその使い方を知らず遂に効力を発揮せずに我が軍はマスクを用いるまでもなかったが、化学戦の幕はここに切って落とされた。

後略

----------------------

「支那事変戦史」皇徳奉徳会編 昭和12年12月15日印刷 674ページより

この記事を読むと、中国軍は毒ガスを使う意志があった。そして実際に日本軍より早い時期に使った、ということです。私は、中国軍も日本軍も、戦況と準備の具合によっては、同じような行動を取るのかもしれない・・・、中国軍が日本人に対して細菌戦を行っていた可能性もある・・・、それが戦争というものなのか・・・、と感じました。また中国空軍が1937年の段階で日本本土空襲を企図していたことも知ると、単にその時の戦力のバランスによって加害者と被害者が変わるだけなのか、とも感じました。

| | コメント (0)

2009年2月14日 (土)

「支那の夜」 と桃の花にまつわる話

Photo

最初の写真は、上海市北部、閘北(こうほく ジャベイ)と呼ばれる上海事変で徹底的に破壊された中国人街で撮影された桂蘭の実家のシーンである。庭にあった梅の木が一本だけ無傷で残っており、そこを訪れた桂蘭が香りをかいでいる。平和で幸せだった昔を思い出し、回想シーンへと続く。 細かいことを言うと、桜や桃と違い梅は、花が枝から一つ一つ出てくるらしいので、映像を見る限りはこれは梅であろう。

Photo_6

次の写真は回想シーンの中で、桂蘭が実家の桃の花を愛でるシーンである。りっぱな造りの住宅と庭が映し出され、まだ生きていた母親も登場する。桂蘭が中国語で母親に「桃花」(タオホワ)と言っていたのでこれは桃だろう。桃の花は梅と違い枝から二つペアで出てくる。当記事後半に、「支那の夜」では造花が使われたという証言を記載したが、このシーンも撮影スタッフ手作りの造花を枝につけて撮影された可能性がある。

前回記事にコメント頂いたyanagiさんから教えて頂いた「人面桃花」(じんめんとうか レンミェンタオホワ)という漢詩の意味を調べてみた。こちらのブログを参照した。

去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何処去
桃花依旧笑春風
      

(訳詞)

去年の今日 この門のなかで見た
美しい娘の顔は満開の桃花に映じて紅に染まっていた
いま あの娘は何処に行ってしまったのだろう
桃花は旧に変わらず美しく咲いて春風にそよいでいる

人面桃花とは、美しい女性の例えで、悲恋の後、自ら命を絶った女性が、相手の男性の願いにより復活する話である。中国では有名な8世紀からの漢詩のようだ。

この桂蘭の実家における桃の花のシーンはストーリーの流れからは少し唐突な感じがした。なぜに必要なのかと。これは観ている人に「人面桃花」の漢詩を連想させることを狙っているのかもしれない。匪賊の襲撃により一度死んだ長谷がラストで復活、また長谷が死んだと思いこみ入水自殺しようと川に入った桂蘭が岸に戻る、というストーリーを暗示させているのではないか。この漢詩は日本ではほとんど知られていないので、中国の観客を意識したものと思われる。

Photo_5

さて、主題とは別のエピソードだが、この蘇州での新婚旅行シーンにおける桃の花には、四方田犬彦氏著「李香蘭と東アジア」にややショッキングな後日談が載っている。

以下引用

 山口淑子はわたしを前に語った。

「その人はわたしに会うと、『李香蘭さん、あなたが『支那の夜』で持っていた梅の花は、あれは造花でしたですよね』と、わたしにいきなり言ったのです。わたしが何のことだかわからなくて、何も言えないでいると、その人は、実は自分は蘇州で撮影が行われているとき、それをずっと観ていたのです、と言ったのです」

 山口淑子はそこまで言うと、少し休んで、それから一気に自分が最近会ったという老女のことを話し出した。彼女は韓国人で、どうしても東京に行ったら李香蘭に会いたいという強い希望を抱いており、ある組織を通じて面会を求めてきたのだった。

 その人はなんでも教会の牧師さんの娘だったそうです。住んでいたのは京城から南にいった海の近くの町でした。その日は友達と一緒に新しい洋服を買ってもらったというので、うれしそうに街角を歩いていたのですが、いきなり巡査に連行され、大勢の女たちがいるところに収容されたというのです。16か17の頃ですね。そのまま家に帰らせてもらえず、大連まで汽車に乗せられ、そこから船で上海に行かされると、しばらくは陸軍病院で日本兵の血に汚れた包帯を洗う作業ばかりさせられた。その後、蘇州の慰安所に送られ、将校専属の慰安婦にさせられた。抵抗すると、日本刀で斬りつけられて血だらけになりました。

 

Photo_3(「蘇州夜曲」の3番、”君が手折りし 桃の花”とを歌うところでちょうど長谷が造花?の桃の枝を折る)

 それでも監視の兵隊とはいつしか親しく口を聞くようになるのですね。あるとき親しくなった慰安所付きの兵隊が、おい、今日は休みだ、近くで映画の撮影をしているから連れて行ってやろうというので、出かけてみた。すると、李香蘭さん、あなたが桃の花を持って、長谷川一夫と話をしている場面をちょうど撮影しているところだったのです。わたしは撮影を、大勢の群衆の後ろのほうからじっと見ていました。それはあなたが長谷川一夫のために梅の枝を折って手渡すという場面でした(注:実際の映画では上の写真のように、造花?の花のついた枝を長谷川一夫が折って李香蘭に渡すシーンだと思われる。花は「蘇州夜曲」の歌詞を意識して梅でなく桃を想定したと思われる)。

Photo

 けれども時期が時期で、梅の花はすでに散ってしまい、どこにも咲いていない。しかたがないので誰かがその場で梅の花を造花でこしらえて、準備をしているのです。黒山の人だかりのなかで、たまたまわたしがいるすぐ近くで、その人がせっせと造花を作っているのを、わたしはずっと眺めていました。それは本当に偶然に与えられた休みの日の出来事だったのです。

山口淑子はここまで語ると少し間をおいて、いくぶん強い調子で言った。「年だってほとんど違わないのに、同じ場所に居合わせている一人がスターで、もう一人が慰安婦だなんて、どうしてこんなことがありえたのでしょう。わたしはその人のことをついこないだまで、何も知らなかった。けれどもその人はわたしのことを、ずっと考えていたのです。あの時の梅の花が造花だったということを。わたしが戦争を憎むのは、このためです」

以上引用終わり



山口淑子氏はこの出来事がきっかけだったのだろうか、その後「アジア女性基金」の設立発起人の一人となり、従軍慰安婦問題に取り組んだ時期があった。しかし、この基金からの募金を韓国の元慰安婦達は韓国側支援団体の指示により、一部を除きほとんどの女性が受け取らなかった。残念ながら山口淑子達の心は通じることもなく、基金は解散した。


この韓国人老女の話が仮に事実だとすると、当初は従軍看護婦として中国へ連れていかれたようである。その後、将校付きの慰安婦に変わったようだ。「抵抗すると日本刀で斬りつけられて」とは、せっかく来た女性に対する行為として信じがたいが、看護婦として募集がかけられ、後に慰安婦となるよう要求された、あるいは給料の多寡によって自らそうなった、という可能性があろう。


また、この話が示す通り、休日には気心の知れた日本兵と小旅行くらいはできたようである。この辺の話は、米軍が終戦直後に元慰安婦から聴取し記録したミャンマーでの慰安婦の記録とも合致する部分だ。



2013年1月19日追記

戦後29年経ってルバング島から無事帰還した日本兵士、小野田寛夫さんの書いた証言を引用されているブログを見つけたのでリンクさせておく→今こそ知るべし「小野田寛夫 私が見た従軍慰安婦の正体」

安倍首相など自民党は、従軍慰安婦についての軍の強制性は無かった、と主張している。その件に関して調べる時に参考となる証言だった。小野田さんは、強制性は無かったと主張されている。中国韓国の一方的な主張は眉に唾をせねばならない。

また、本日の産経新聞ネット版の報道によると、李香蘭(山口淑子さん)らの「アジア女性基金」の対象となった元従軍慰安婦は236人いて、これまで非公表だったがそのうちの61名は償い金を受け取っていたことがわかった。3割程度の方が賛同していたことになる。この人道支援を受け取った方は、韓国内の支援団体から村八分にされて排除されたらしい。当の本人が和解してしまっては、支援団体(実質的な反日団体)の存続に意味がなくなるということだろう。

 


| | コメント (4)

2009年2月 8日 (日)

驚くべき言葉の隠されていた「支那の夜」(「蘇州夜曲」)

Photo

もともと「支那の夜」というタイトルの128分もの大作映画であったが、それが戦後、支那という言葉が出てくる部分や、中国側が不快に思いそうな部分を大幅にカットして、92分に短縮し「蘇州夜曲」というタイトルとした。その「蘇州夜曲」が、チャンネルNECOにて放送されたというわけだ。絶版になってしまったビデオ「蘇州夜曲」と同じものである。

短縮せざるを得なかった事実も一つ歴史であり、それには理由があったわけだ。今回見た映画は、「支那の夜」ではなく、「蘇州夜曲」である。しかし大筋のシナリオ、主題は変わっていないと捕らえ、また「歴史に目をつぶらず未来に活かす」という思いをこめて、以下原題のまま「支那の夜」と書かせていただく。

さて本題に入る。この映画に対する私の注目点は三つあり、まず最初に、テンピンルーの丁黙邨暗殺未遂事件との絡みの件の確認、二つ目が戦争宣伝国策映画の代表的作品として知られるこの映画がどれくらい国策的ストーリーなのか?三つ目が、山口淑子氏自身も再三にわたって悔悟の念を述べる有名シーンである長谷による桂蘭殴打の場面である。

テンピンルーとの絡みについては前回の記事「「支那の夜」と「ラスト コーション」の類似性 宝石店にて」を参照いただくとして、二つ目の注目点の戦争宣伝国策映画としての「支那の夜」である。「私の鶯」が、表向きは満州事変正当化映画だったが、この「支那の夜」は、表向き、上海における平和的現状維持正当化映画だった。

Photo_3 第二次上海事変が終わって2年たった繁栄する上海で、

「日本人、中国人、平和に、決して争わず仲良く暮らしましょう、その指導には日本が当たります。安心して、信頼して、日本についてきて下さい」

という映画であった。少なくとも表向きは。戦争の拡大、遂行ではなく、日本が主導権を握る平和の維持が当時の上海における日本の国策だったということが逆引きでわかる。これは、影佐機関が裏で画策する汪精衛の非戦主義政権樹立と連動した映画だったということも見えてくる。

さて、長谷による桂蘭殴打シーンである。このシーンは唐突にはやってこない。十分すぎるほどの伏線を敷いていた。

一つ目の伏線。それはまず桂蘭の前で支那人をあざける言葉を吐いた日本人少年を日本語で反撃し叩いてしまう桂蘭のシーンから始まる。幼い子供を殴る桂蘭に対し、それを見ていた長谷は桂蘭を叱らない。

二つ目の伏線。長谷にほのかな恋心を持つ三浦とし子は、長谷と街中に出てショッピングをしている。彼女は長谷が連れてきて、かたくなに心を開かない桂蘭に長谷が買ったおみやげを渡そうとする。すると、桂蘭はをそれを振り払って床に落としてしまう。Photo

それでも、日本軍により家を破壊され両親を失い、孤児となってしまった桂蘭が可哀相だと世話を焼く長谷。桂蘭が熱を出すと必死に看病する。すると桂蘭が中国語で寝言を言い始める。それはやがて、日本語となり、「長谷さんは私を殴らない。私が悪いことをしても殴らない。私はそれがつらい、苦しい」という言葉となる。(一つ目の伏線、子供を叩く部分はコメント頂いたCosmopolitanさんに教えてもらいました。「短縮版「蘇州夜曲」ではカットされてしまっています)

三つ目の伏線。桂蘭は両親と住んでいたを家を訪れ(上海市北部の実際の戦災跡地を撮影している)、無惨にも崩れ落ち瓦だけが残る実家の跡を見て、「こんなにしたのは誰なの?!私は恨みます!」と言い、日本軍の行為を非難する。桂蘭が日本人に対してかたくなな態度をとり続けるのが当然という流れを作っている。実家を見に行った後、なかなか長谷達のもとに戻らない桂蘭。方々探した長谷の仲間達も心配している。長谷は皆に迷惑をかけていることに責任を感じ、もう桂蘭の世話はあきらめようと言う。

兄を中国軍との戦闘で失っている三浦とし子は、自分の長谷への恋心を隠しながら、「桂蘭は愛情に飢えて、ひねくれてしまった可哀相な人なのだから、世話をし続けてあげましょう。桂蘭を幸せにできるのは長谷さんだけです」と言葉をかける。(この三浦とし子のせりふは上戸彩「李香蘭」での児玉英水の隠された恋心 を彷彿とさせる切なさがある)

そんな中、ふくれっ面をして帰ってきた桂蘭。「長谷さんに借りがあるから戻ってきただけです」捨て台詞を言う。ホテルに同宿している長谷の仲間の女性が滋養にいいということで葛湯(くずゆ)を持ってくるが、桂蘭は「もう騙されないわ」と言って葛湯を払いのけ、湯飲みが落ちて割れる。その瞬間、長谷の堪忍袋の緒が切れて、桂蘭を叱るべく平手打ちするわけだ。

ここまでの伏線があれば、父親代わりを自認する長谷が、仲間に迷惑をかけている我が子代わりの桂蘭を叱るのは不自然ではない。頬の殴り方が、すこしビンタにしては強すぎたかなとは思うが、叱るシチュエーションとしては違和感がなかった。そして、桂蘭は自分のわがままに気づくのと、父親のように真剣に叱ってくれたこと、またむしろ叩いたことを反省する長谷に誠実さと愛情を感じる、という流れも、変わり身が早すぎるとはいえ理解の範疇にある。しかしそれは、私が日本人であり、桂蘭を日本人の養父に養われる娘として見ているからだ。Photo_4

なぜこれが問題になったかというと、中国人側に受け止める方として受け止めきれないものがあるからだ。桂蘭が象徴する「中国」を殴って叱り、長谷が象徴する「日本」が指導する。殴られた方はその指導者を慕い、ずっと一緒に生きていくことを誓う。つまり武器で中国を懲らしめ、指導者の立場に君臨する日本軍を当然と思わせるシナリオだからだ。しかもそれを平気で「中国人」女優、李香蘭が演じていると。

さらに、男性の立場で言わせてもらうと、自国の女性が自国の男性に目もくれず、支配的立場の外国の男性を慕いなびき、心を奪われる様は、本能的に「見ちゃいられない!」ような情けなさを感じるものである。日本の敗戦後に進駐してきたアメリカ軍人に、日本の女性が群がっているのを、見ちゃいられなかったのではないか?ということである。

そんなこんなで問題シーンとなった。

ここで終わりならそれで終わりである。

ところが、この殴打シーンの続きを見ていて、私は予想外のせりふに遭遇した。

桂蘭を殴打したあと、長谷はうなだれていすに座り、こう言うのだ。

「桂蘭、僕はとうとう君を殴った。僕の負けだ。

自分の力を信じすぎた罰だ。

僕は滑稽(こっけい)なうぬぼれ屋だ。

許してくれ。

そしてどこへでも君の好きなところへ行ってくれ」

さて「支那の夜」では、表面的には桂蘭は中国を代表し、長谷は日本を代表している。

そこで、「桂蘭」を「中国」と、「僕」を「日本」と入れ替えてみる。

Photo_2

「中国よ、日本はとうとう中国を殴った。日本の負けだ。

自国の力を信じすぎた罰だ。

日本は滑稽なうぬぼれ屋だ。

許してくれ。

そしてどこへでも中国の好きなところへ行ってくれ」

「殴った」、を「攻撃した」と入れ替えるともっとしっくりくるだろう。この言葉を日本の敗戦後ではなく、上海を武力制圧した1938年から2年経ち、上海統治も軌道にのりつつあった1940年の段階で言っているのだから、驚異的な予言である。これほど簡潔に中国での日本軍の実情を表した言葉はない。すぐれた反戦メッセージである。

さらに付け加えると、上にも書いたが、長谷による殴打の前、桂蘭が破壊された実家を訪れるシーンで「こんなにしたのは誰ですか!」というせりふ。この時点までに桂蘭に感情移入してしまっている観客は、日本軍による攻撃に嫌悪感を持つのが自然だ。

「支那の夜」は、確かに国策映画である。上記の長谷による反省のせりふの後、すぐに桂蘭が「悪いのは私・・・」というように長谷にしなだれかかる。やはり長谷が正しいのだ、つまり日本が正しいということに中国が気づく、というストーリーに瞬時に戻ってしまう。しかし、裏のシナリオでは、反戦への思いを想起させ日本軍を否定するようなシーン、せりふを隠していたのだ。

国策映画の一言で切って捨てるなどとんでもない。

「支那の夜」恐るべし、制作者、さすがである。

(Windowsパソコンをお使いで、ブラウザーをIE8にバージョンアップ出来る方はIE8をお薦めします。写真が綺麗になり中のキャプションも読めるようになります。Macの方はそのままで綺麗に見ることができます)

| | コメント (18)

2009年2月 6日 (金)

「支那の夜」と「ラスト コーション」の類似性。宝石店にて

Photo

Photo_2

Photo_3

Photo_4

Photo_5

Photo_6

以前「テンピンルーを最初に演じた女優、それは」という記事を書かせてもらった。2008年8月2日、愛知大学での研究発表を聴講してきたときのことである。その時に、関西学院大学の西村准教授が鄭蘋如(テンピンルー)の研究発表を行い、その発表の中で「支那の夜」の一部を上映した。私はその映像を見て、瞬間的に既視感に襲われた。これは映画「ラスト コーション」のシーンそのものではないかと。

1940年封切りの映画「支那の夜」(現在のタイトルは「蘇州夜曲」)。そして2007年ベネチア映画祭で金獅子賞を取った「ラスト コーション」。その両映画の宝石店でのシーンが私の中でぴったりと重なったのだ。

それをもう一度確かめたかったのだが「支那の夜」はビデオが絶版になっている。確認のしようが無かった。ところが、今こうして自分の部屋のテレビで「支那の夜」が見れようとは。チャンネルNecoに感謝したい。

上の写真の通り、やはり私の既視感は間違いではなかった。

Photo_2

Photo_3 「ラスト コーション」はご存じの通り、テンピンルーのかかわった丁黙邨暗殺未遂事件をモチーフに、張愛玲が書いた短編小説「色 戒」を原作とする。冒頭三連の写真は、そのストーリーの中でもクライマックスにあたる部分である。しかし日中のハーフであったテンピンルーが持っていたであろうアイデンティティの相克はこの小説「色 戒」、そして「ラスト コーション」には描かれてはいない。小説は張愛玲の個人的な背景がベースになっている。

一方「支那の夜」に原作があるわけではないが、丁黙邨暗殺未遂事件は1939年12月21日。まさに「支那の夜」のシナリオ作成が行われていた頃である。またテンピンルーを題材とした松崎啓次の「上海人文記」が出版されたのも1940年のことである。松崎啓次がシナリオ作成に協力したことは十分に考えられる。

3

2007年秋、「ラスト コーション」が世に出たことで、テンピンルーの存在が一躍クローズアップされた。しかし、抗日と親日の間を揺れ動く、どちらに取ってよいのか最後までわからない桂欄を見るにつけ、むしろ「支那の夜」の方が、テンピンルーを象徴的に描いたと言ってよいのではないだろうか。そしてそれはとりもなおさず、テンピンルーを最初に演じた女優は李香蘭、こと山口淑子だった、ということである。 日中の狭間で揺さぶられたピンルー。李香蘭は自分がピンルーを演じたと認識していないかもしれない。しかし、ピンルーを演じるに最もふさわしかった女優、それは李香蘭を置いて他になかった、ということは確かであろう。

| | コメント (16)

2009年2月 5日 (木)

「私の鶯」を見て

チャンネルNECOでさっそく李香蘭「私の鶯(うぐいす)」を見てみた。

00006

当時のハルピンの街の映像がふんだんに出てきただけでなく、上海、北京、天津の街中の映像も出てきた。またハルピンの周辺の平原の映像もあり、当時の中国、特に満州が実際はどんなであったか、記録映像としても貴重な映画であった。


そして満映の李香蘭を初めて見た。


かわいらしい。


李香蘭の印象ががらりと変わった。背は思ったより小柄で、そして思ったよりふっくらしていて(失礼)、役柄もあったとは思うが、守ってあげたくなるタイプに描かれていた。これこそが、満映の李香蘭なのか?日本人が守るべき、愛すべき可憐な支那人女優!李香蘭。

この映画の中でもまさに地元日本民間人が李香蘭の演ずるマリコを守り、そして救世主のように危機に陥るハルピンを救いに日本軍の大部隊が楽団と共にやってくる。「日本軍の入城」と表現されている。ハルピンに住むロシア人も日本人も等しく大歓迎する。これでやっと中国人の「匪賊(ひぞく)」、つまり暴漢のゲリラの襲撃を防げると。しかしこの匪賊は、もともとそこに住んでいた中国人であったのだ。ある一面、武装盗賊団、別の一面、他国からやって来た侵入者から自分らの土地を取り戻そうとする愛国者、ということである。

匪賊は鉄道を爆破し、罪のない旅行者が足止めされる。様々に被害を与える暴漢という印象を与える。そしてなんと、「満州事変」と文字で大書きされ、この中国人匪賊、暴漢から罪のない日本人やロシア人を守る争いがしかたなく満州事変に繋がっていった、そういう印象を与えている。満州事変正当化映画でもある。

00007

満州事変とは、日本軍の一部の策略により、柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で、中国人匪賊が爆破したということにして、日本軍が自分らの鉄道、満鉄の線路を爆破、中国人匪賊を撃退する口実を作り上げ日本軍の勢力範囲を広げたのが真相である。


山口淑子氏の「李香蘭を生きて」によれば、この映画の監督は戦争宣伝映画は作らなかった島津保次郎監督によるものだと書かれている。音楽映画、芸術映画なのだと。確かに、李香蘭の素晴らしソプラノが聴け、多くのオペラの場面が出てくる。ハルピンに素晴らしい劇団や楽団があったことがわかる映画でもある。

しかし、私はそのような先入観を持って無防備に見たからか、逆に明確な戦争宣伝国策映画というイメージを強く感じてしまった。これは検閲を通すための苦肉の策でもあったのだろう。


ところが、東宝はやはり検閲は通らないだろうとあきらめたのか、なにか他の理由で自主的に降ろしたのか、この「私の鶯」は劇場公開されずお蔵入りとなった。私は不思議でならない。これは謎である。私の印象は、「私の鶯」は日本の戦争宣伝国策映画そのものである。これが芸術映画というのなら、明日放送の「蘇州夜曲=支那の夜」がいったいどんな戦争宣伝国策映画なのか、すこし怖くもある。


私が想像するに、これは戦争宣伝が足りずに検閲が通らないとか、敵性音楽であるオペラばかり出てくるから検閲が通らないとかではない、と思う。

あるオペラシーンで、観客の中にボルシェビキ、つまりロシアの王制を倒し、のちのソ連共産党となる工作員が大勢まぎれ込んでいて、帝政ロシアおかかえだった歌劇団の演技にヤジを飛ばし、劇場全体を混乱させ、ついにはオペラの途中で閉幕に追い込むシーンがあった。

私は、このシーンが非常に引っかかっている。全体ストーリーにどんな役割があったのか。このシーンは、素晴らしいロシア歌劇団によるオペラを台無しにするシーンである。単に、現実にあった出来事をエピソードとして挿入したのだろうか。可哀相な旧帝政ロシア人たち。そのかわいそうな養父に養われるさらにかわいそうなマリコ(李香蘭)。そういうことを強調するためだったか?旧帝政ロシア人の悲劇を描きたかったのか?わからない。


私は、この映画のシナリオに、すこし政治的要素を感じた。この映画の作り手の政治的信条は私は知らない。ただ、ボルシェビキつまり、帝政ロシアの貴族階級に対抗する人々の中から生まれた活動員をこの映画で目立つように出した。このシナリオには、なんらかの意図があると感じた。

貴族社会、帝政による支配、これを打ち破る人々が遠く満州の地でこれだけ活動しているぞ!天皇制に抑圧された日本人達よ、君たちも頑張れ!天皇の軍隊のために命を無駄にするな。これはロシア人、いやソビエト人同志からのメッセージだ。というように、隠されたメッセージとして描き込んだ、とも取れる。

逆も考えられる。芸術にまったく理解を示さない心の貧しいボルシェビキ。帝政ロシアはとっくの昔に倒れている。それをいまさらなんだ。音楽は音楽。芸術は芸術。素晴らしいものは素晴らしい。政治や制度、体制と分けて受け入れることがなぜ出来ないのだ。悪しきもの、それはボルシェビキ、芸術を台無しにする共産党!ということを言いたかったかもしれない。



表のストーリー展開は、割とよくある養父母ものである。養父が手塩にかけて育て上げてきた娘の前に、本物の父親が現れる。さて、というものである。


この映画は表のストーリーよりも、裏のシナリオに興味のわく映画だった。明日はこれまた楽しみな「支那の夜」である。


















































| | コメント (0)

2009年2月 3日 (火)

テレビで蘇州夜曲

__________________________

遅い夕食を食べながら、何の気無しにテレビを付けたら「蘇州夜曲」が流れてきた。教育テレビの「中国語で話そう」という語学番組。

歌っていたのは、このブログでも前に記事にもしたけど、李広宏という蘇州出身の中国人男性歌手。

この方は、中国に居たときにラジオから日本語の「夏の思い出」が流れてきて、その美しさに惹かれたそうだ。テレビや映画ではいわゆる「抗日もの」ばかりのころで、日本=恐ろしい、という印象の頃。この歌を聴いて、本当の日本を知ってみたいと日本に渡ってきたそうだ。

それ以来、美しい日本の心を表す歌を中国語に翻訳して中国人に紹介しているということだ。上戸彩がドラマ「李香蘭」の上海ステージで歌っていた「蘇州夜曲」中国語版も、李広宏氏の翻訳バージョンだ。

「夏の思い出」と「ふるさと」が彼の心の支えだと言っていた。

「夏の思い出」
江間章子作詞 中田喜直作曲

夏が来れば 思い出す
遙かな尾瀬 遠い空
霧の中に 浮かび来る
優しい影 野の小道
水芭蕉の花が 咲いている
夢見て咲いている 水のほとり
石楠花(シャクナゲ)色に 黄昏(たそがれ)る
遙かな尾瀬 遠い空




彼は尾瀬に自分の故郷、水の都、蘇州を重ねたのだろう。
 

「ふるさと」
高野辰之作詞 岡野貞一作曲

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何に在(い)ます 父母
つつがなしや 友がき
雨に風につけても
思い出ずる 故郷(ふるさと)

志を果たして 
いつの日にか帰らん 
山は青き故郷
水は清き故郷


母親がたまに口ずさんでいたのを思い出す。


これらの詩を、意味を変えずに翻訳して中国人に紹介しているとのことだ。どんな訳になるのだろうか。蘇州夜曲の日本語版から中国語版への翻訳には素晴らしいものあった。まるで中国語版がオリジナルであるかの錯覚に陥ったほどだ。以前に書いた「蘇州夜曲」の記事を参照。彼はコンサートも行っているようである。李広宏氏のサイトはこちら

先日の韓国映画で出てきた「夜来香」といい、今日の「蘇州夜曲」といい、当時の作詞作曲家、歌った李香蘭、ともにこんな時代にまで歌い継がれることになるとは思っても見なかったのではないだろうか。

天職だと思うことを愚直に続ける、それができると何かを残せるのかもしれない。




 

| | コメント (0)

2009年2月 1日 (日)

韓国映画の夜来香

_______________________________________________________________________________

前回の記事でCSチャンネルnecoが李香蘭特集をやると書いたが、さっそくスカパー!を通じてチャンネル登録を行った。で、録画テストをしようと思ってたまたま選んだのが、おととい放送された「ダンサーの純情」なる韓国映画。

私はこれまで韓国映画を見たことがなかったので最初はなんとなく抵抗があったのだが、すぐに映画の国籍は全く関係なくなった。


日本映画「Shall We Dance?」に大きくヒントを得た映画だなと感じた。すこしコメディタッチのある直球の純情映画だった。ここだけは変化球だろう、と予想した場面でも、やはり直球のようだと思い直したり頭の中が逆に混乱した。ラストが近づくにつれて、韓国映画はひょっとしてとんでもない悲劇で終わるのか?とも危惧したが、そんなことはなくほっとした。

韓国トップクラスの男性ダンサー(社交ダンス界の)が次回大会のパートナーとして中国から呼び寄せた相手女性ダンサーが事情で来れなくなり、依頼主に内緒でダンス素人の妹がやってきたところから始まる。

そしてしばらくこの映画を見ているとなんと突然、「夜来香」が流れてきた。クリスマスパーティのカラオケで主人公の女性が夜来香を歌い始めたのだ。これには驚いた。上のyoutubeを参照。

70年ほども前の李香蘭の歌が、現代の韓国映画から聞こえてくる。音楽は時代も国境も超越する。まさに永遠の共通語である。

| | コメント (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »