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2009年2月 5日 (木)

「私の鶯」を見て

チャンネルNECOでさっそく李香蘭「私の鶯(うぐいす)」を見てみた。

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当時のハルピンの街の映像がふんだんに出てきただけでなく、上海、北京、天津の街中の映像も出てきた。またハルピンの周辺の平原の映像もあり、当時の中国、特に満州が実際はどんなであったか、記録映像としても貴重な映画であった。


そして満映の李香蘭を初めて見た。


かわいらしい。


李香蘭の印象ががらりと変わった。背は思ったより小柄で、そして思ったよりふっくらしていて(失礼)、役柄もあったとは思うが、守ってあげたくなるタイプに描かれていた。これこそが、満映の李香蘭なのか?日本人が守るべき、愛すべき可憐な支那人女優!李香蘭。

この映画の中でもまさに地元日本民間人が李香蘭の演ずるマリコを守り、そして救世主のように危機に陥るハルピンを救いに日本軍の大部隊が楽団と共にやってくる。「日本軍の入城」と表現されている。ハルピンに住むロシア人も日本人も等しく大歓迎する。これでやっと中国人の「匪賊(ひぞく)」、つまり暴漢のゲリラの襲撃を防げると。しかしこの匪賊は、もともとそこに住んでいた中国人であったのだ。ある一面、武装盗賊団、別の一面、他国からやって来た侵入者から自分らの土地を取り戻そうとする愛国者、ということである。

匪賊は鉄道を爆破し、罪のない旅行者が足止めされる。様々に被害を与える暴漢という印象を与える。そしてなんと、「満州事変」と文字で大書きされ、この中国人匪賊、暴漢から罪のない日本人やロシア人を守る争いがしかたなく満州事変に繋がっていった、そういう印象を与えている。満州事変正当化映画でもある。

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満州事変とは、日本軍の一部の策略により、柳条湖(りゅうじょうこ)という場所で、中国人匪賊が爆破したということにして、日本軍が自分らの鉄道、満鉄の線路を爆破、中国人匪賊を撃退する口実を作り上げ日本軍の勢力範囲を広げたのが真相である。


山口淑子氏の「李香蘭を生きて」によれば、この映画の監督は戦争宣伝映画は作らなかった島津保次郎監督によるものだと書かれている。音楽映画、芸術映画なのだと。確かに、李香蘭の素晴らしソプラノが聴け、多くのオペラの場面が出てくる。ハルピンに素晴らしい劇団や楽団があったことがわかる映画でもある。

しかし、私はそのような先入観を持って無防備に見たからか、逆に明確な戦争宣伝国策映画というイメージを強く感じてしまった。これは検閲を通すための苦肉の策でもあったのだろう。


ところが、東宝はやはり検閲は通らないだろうとあきらめたのか、なにか他の理由で自主的に降ろしたのか、この「私の鶯」は劇場公開されずお蔵入りとなった。私は不思議でならない。これは謎である。私の印象は、「私の鶯」は日本の戦争宣伝国策映画そのものである。これが芸術映画というのなら、明日放送の「蘇州夜曲=支那の夜」がいったいどんな戦争宣伝国策映画なのか、すこし怖くもある。


私が想像するに、これは戦争宣伝が足りずに検閲が通らないとか、敵性音楽であるオペラばかり出てくるから検閲が通らないとかではない、と思う。

あるオペラシーンで、観客の中にボルシェビキ、つまりロシアの王制を倒し、のちのソ連共産党となる工作員が大勢まぎれ込んでいて、帝政ロシアおかかえだった歌劇団の演技にヤジを飛ばし、劇場全体を混乱させ、ついにはオペラの途中で閉幕に追い込むシーンがあった。

私は、このシーンが非常に引っかかっている。全体ストーリーにどんな役割があったのか。このシーンは、素晴らしいロシア歌劇団によるオペラを台無しにするシーンである。単に、現実にあった出来事をエピソードとして挿入したのだろうか。可哀相な旧帝政ロシア人たち。そのかわいそうな養父に養われるさらにかわいそうなマリコ(李香蘭)。そういうことを強調するためだったか?旧帝政ロシア人の悲劇を描きたかったのか?わからない。


私は、この映画のシナリオに、すこし政治的要素を感じた。この映画の作り手の政治的信条は私は知らない。ただ、ボルシェビキつまり、帝政ロシアの貴族階級に対抗する人々の中から生まれた活動員をこの映画で目立つように出した。このシナリオには、なんらかの意図があると感じた。

貴族社会、帝政による支配、これを打ち破る人々が遠く満州の地でこれだけ活動しているぞ!天皇制に抑圧された日本人達よ、君たちも頑張れ!天皇の軍隊のために命を無駄にするな。これはロシア人、いやソビエト人同志からのメッセージだ。というように、隠されたメッセージとして描き込んだ、とも取れる。

逆も考えられる。芸術にまったく理解を示さない心の貧しいボルシェビキ。帝政ロシアはとっくの昔に倒れている。それをいまさらなんだ。音楽は音楽。芸術は芸術。素晴らしいものは素晴らしい。政治や制度、体制と分けて受け入れることがなぜ出来ないのだ。悪しきもの、それはボルシェビキ、芸術を台無しにする共産党!ということを言いたかったかもしれない。



表のストーリー展開は、割とよくある養父母ものである。養父が手塩にかけて育て上げてきた娘の前に、本物の父親が現れる。さて、というものである。


この映画は表のストーリーよりも、裏のシナリオに興味のわく映画だった。明日はこれまた楽しみな「支那の夜」である。


















































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