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2009年3月の6件の記事

2009年3月21日 (土)

ピンルーのためのアンセム (音楽ミックス)

Shanghai_restration_pro

ピンルーのためのアンセム(聖歌)をミックスで作ってみた。

Shanghai Restoration Project(上海・リストレイション・プロジェクト)という、なぞのプロダクションがあって、当ブログでも「上海人文記 5」 でイメージ写真を使わせてもらっていたが、よくよく聴いてみたら素晴らしい音楽だった。彼らの曲のうち何曲かをピックアップしてピンルーをイメージしながらつなげてみた。

 「ピンルーのためのアンセム」音楽ファイルの置き場はこちら



このプロダクションの説明文はこんな感じ。

’30年代の上海のジャズ・バンドにインスピ レーションを受け、文化の壁を超えた新しい音楽を作り出しているシャンハイ・レストレイション・プロジェクト(SRP)。それは“東の国”の楽器とリズム に“西の国”のヒップホップ・ジャズ・エレクトロニカに取り入れたエキゾチックな融合であり、新たな“東西の出会い”といえる。



これまで小説などでピンルーに付けられてきた形容詞は、女間諜やら、東洋のマタハリやら、毒蛇のようなやらで、せいぜい、美貌の女スパイ、がいいところである。その人生は悲劇的でつらいものだったし、差別に苦しみ不登校にもなった。たしかにそうかもしれない。しかし、彼女のことが少しずつ分かってくると別の一面が見えてくる。

上海というアジア一の大都会で、華やかな世界に憧れ、すこし背伸びをしながらも、平和な世界を求めて、自分にできることを精一杯実行する、明るく活発な少女、という一面である。

今回のミックスはそんなイメージを持って選曲し、つなげてみた。

このブログにアップするつもりだったけど、ココログでは1ファイル1Mbまでの制限がかかってしまった。事実上音楽ファイルはアップできなくなったので、シーサーブログにアップしてみた。お時間のあるときに聴いてみてください。

 


 

 

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演劇の主演をしていたテンピンルー

Photo

2008年8月の読売テレビによる「鄭蘋如の真実」という番組で、ピンルーが学校の新劇の主役を行ったときの写真が放送されていた。「新劇」というのは、日本のそれまでの歌舞伎や能に代表される、伝統的な、古い演劇ではない、という意味でつけられた演劇のジャンル名である。


中国もやはり、それまでの音楽と舞が中心の京劇に飽き足らない演劇人が、西洋の演劇を学んだり、より近い日本に渡ってきて、新劇を学んだ。東京の築地小劇場が拠点であった。それは中国に持ち帰られ、「話劇」となった。音楽や踊りでなく、「せりふ」で観客に訴えるから「話劇」、ということであろう。ということで、ピンルーがやっていたのは、日本風に言えば「新劇」、中国では「話劇」である。

瀬戸宏著「中国演劇の二十世紀(中国話劇史概況)」によると上海では、1931年の満州事変頃から、すこしずつ学生演劇が盛んになったようである。それまでは左翼系の演劇が多かったようだが、国民党の圧迫もあって勢いを失っていく代わりに、国防演劇というのが盛んになった。

演劇の主題をそれまでの「階級闘争」から、「反帝国主義」「抗日」「反売国奴」などの置いたものである。国防演劇を演じた劇団の多くは学生劇団だった。これらは1935年ごろから本格化したようである。

001_2   (写真は「図画時報(Eastan Times Photo Supplement)」一面に掲載された、演劇の主役のときのピンルー)

ピンルーが話劇の主役をやったのが、読売の放送では16才の時、とキャプションが付けられていた。ピンルーの生まれた年は1914年なので1930年頃のことだ。ピンルーがプロレタリアの労働者運動に荷担する演劇の主役を張るとは思えないので、西洋の翻訳劇か、創作の国防演劇を行ったのだろう。(2009年7月10日追記:中国の歴史研究家、許洪新氏の著書「一人の女スパイ」によると、菊池寛の「父帰る」の翻訳劇の女主人公を演じたようである。1931年当時は、ピンルーは上海の大同大学附属中学(6年制)の話劇団のメンバーだった。)

映画「ラスト コーション」でも、学生演劇団にワンチアチが入団し、国防演劇を演じるシーンがあった(冒頭の写真)。この「ラスト コーション」は張愛玲の小説「色 戒」を原作としている。「色 戒」の中国語原文では、「在学校里演的也都是慷慨激昂的愛国歴史劇(学校で演じたのは憂い嘆き激昂する愛国歴史劇ばかりだ)」となっている。

「色 戒」のワンチアチと実際のピンルーでは、学校で演劇を行っていたこと、また、CC団や蘭衣社の本格的な地下工作員になっていたわけではなく、末端のメンバーであったなど、最初に感じたよりは状況が似ている。

Photo_3 (雑誌「良友」は当時の上海で最も部数の出ていたグラビア雑誌)

彼女は、美貌の女スパイ、などと言い表されるのが通常である。しかし、中日英の三カ国語が堪能だっただけでなく、演劇の主役をつとめたり、雑誌の表紙に出たり、ラジオ放送でのアナウンスや歌の披露など、マルチタレントな一面も持っていたといえる。

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2009年3月18日 (水)

女たちの中国に李香蘭がゲスト出演

Photo さきほどたまたまテレビを見ていたら、番組宣伝コマーシャルをやっていて、「女たちの中国」最終回を明日やるらしい。

「女たちの中国」へのリンクはこちら

日本テレビ系
3月19日(木) 19時から放送


そして、なんとゲストに李香蘭と書いてある。何が語られるか、興味の沸くところだ。戦前、戦中の生の話は今のうちに聞いておくしかない。

今回は残念ながら、テンピンルーは対象外だった。個人的には李香蘭からテンピンルーの話を聞いてみたい。知っていたのだろうか、知らなかったのだろうか。

→平成21年3月20日、録画した番組を見ましたが、基本的に8月に放映したものの再放送でした。李香蘭(山口淑子氏)の出番は、夏の放送のときに自宅で収録されたインタビューと全く同じものでした。新しい情報としては、甘粕の秘書をやっていた女性へのインタビュー、伊藤博文の妻の逸話などがありました。

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2009年3月17日 (火)

続 ピンルーの勤務したラジオ局

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Photo

1937年の12月に鄭蘋如(テンピンルー)がアナウンサーとして採用された「大上海放送局」のコンセプトは、蒋介石国民党の不法行為、破壊行為を非難し、日本軍が中国軍を懲らしめ撃退していくのは当然で、日本軍が破竹の勢いで進撃していくのを高らかに歌い上げる、というものである。


ピンルーはどんな気持ちでアナウンスをしていたのだろうか。


彼女はこのラジオ局に採用された1937年当時、すでに蒋介石親衛隊の地下工作組織、CC団の傘下のグループに属していた、というのが、現在の中国側歴史家の間では定説である。


日本軍特務部が監督するラジオ局への就職は、日本側との人脈づくり、情報ルートの構築という意図が隠されていたと見るのが自然だろう。彼女は、のちに日本側の別の組織(小野寺機関など)でも、中国語新聞の検閲、翻訳の仕事もしていたようである。

そのような裏の役割を遂行していたピンルーであるが、彼女が放送する中国語ニュースの原稿内容は、日本軍の栄光を称えるものであり、中国人にとっては屈辱の内容なわけである。南京の陥落、入城に始まり、杭州を占領、漢口へ進撃していく日本軍。蒋介石の国民党軍のみじめな敗走、それらを連日放送するのだ。

逆に、上海の街のいたるところで、日本軍の南京における蛮行が宣伝され、新聞雑誌には残虐な写真が連日掲載された。。 

ピンルーの一家が最も恐れていたことは、漢奸の疑いを持たれることである。ピンルーはそれまでも、学校などで深刻ないじめにあってきた。それは母親が日本人である宿命だった。盧溝橋での開戦を契機に、「日本人の妻を持つ中国人は、その妻を日本に帰国させよ」、という命令が既に蒋介石国民党政府から出ていた。それに逆らって母親木村はなは上海にとどまった。家族への愛情が厚い木村はなにとってみたら、それは当然の選択であった。同時に、家族全員が漢奸として見られるリスクも背負っていたのである。

そんな状況で、毎日ピンルーは、親日・反蒋介石の放送原稿を中国語で読み続けるのだ。歌を歌っている場合ではなくなってきた。彼女は本名は名乗っていなかったかもしれない。たとえば、李小姐(リーシャオチェ)などの仮名を使っていたかもしれない。しかし、中国服を着てガーデンブリッジを渡り、日本人倶楽部の建物へ入って親日放送を毎日行う、という目立つ行動は、次第に負担になってきていた。

それは、京劇や、話劇、漫才などの演芸を生放送する中国人タレント達の気持ちも同じだった。大上海放送局は、中国人の出演者に事欠くようになっきた。そこで取られた対策が、放送局を、日本人倶楽部からガーデンブリッジの脇に立つ名門ホテルのアスターハウスへ移転することである。

アスターハウスは、ガーデンブリッジからは日本人地区寄りにあったのだが、米国領事館やドイツ領事館、ロシア領事館などが建ち並ぶ中にあった。日本人街のどまんなかにあった日本人倶楽部よりは国際的な雰囲気の中にあったため、中国人出演者の気持ちを和らげることが期待された。多少の効果はあったものの、それでも出演拒否が続き、結局、共同租界内の南京路に小さなスタジオを借りて、中国人の演芸や講演などはそこから中継することになった。

ピンルーであるが、1938年の4月か5月にはラジオ局アナウンサーをやめてしまったようである。12月中旬のスタートだから、半年にも満たない勤務となった。理由は明らかではないが、やはり放送原稿の内容があまりに親日・反蒋介石なため、漢奸容疑を恐れたのが一番の理由ではないだろうか。彼女が地下工作員であることは、皆知らない。世間からは日本軍に協力している漢奸と見られても不思議ではない。彼女が日本軍のラジオ局に勤務し続けることは限界に達した。

ピンルーの短いアナウンサー生活はそうして終わりを告げた。

さて、松崎啓次の「テンピンルーを最初に書いた「上海人文記」1 を再び紐解いてみると、松崎がアスターハウスで、この放送局の知り合いとばったり会って、ピンルーの消息を訊ねる場面があった。1938年夏のある日のことである。なお原文ではテンピンルーは戴小姐(タイ シャオチェ)という仮名で登場する。

 

「テンピンルー?ああ、あのアナウンサーをしていた綺麗な人でしょう。あの人、もうやめました。2、3ヶ月前かな。なにか、維新政府(注:日本軍が南京に作った親日政権)の機関で働いているんでしょう今。ご存じなんですか、あの人を」

「ううん、別に。で、新井さんは?」

「新井さん、あの人、今南京です。南京の放送局はこれからというところで、人手が足りず大変なんです。新井さんは応援に行ったまんま、忙しくて帰れないのですよ」

という会話が交わされる。ピンルーの同僚であった元看護婦で大上海放送局の新井さんは、南京に新たに設置される日本軍のラジオ局「南京中央放送局」に派遣されていたようだ。こちらの開局は1938年9月15日。番組構成は大上海放送局とそっくりで、中国語による占領地民衆に対する宣伝工作が基本だった。

中国軍兵士の戦線離脱気分をあおるための、郷愁を誘うような民俗芸能番組も多かったようだ。年配の中国人が南京の街角で、ラジオから聴こえてくる京劇に合わせて一緒に口ずさんでいる風景を「姿なきが尖兵 日中ラジオ史」の著者福田敏之が目にしている。

この南京のラジオ局では第二放送で日本語局も開局し、在留邦人向けの娯楽番組も増えたようである。「ラジオ太郎のディスクジョッキー」という独自の企画があって、週一回の15分番組でテーマを考え、それに合わせてレコードを選曲し放送した。気の利いたおしゃべりと軽快な音楽という斬新さが受けたようだ。後には女性ディスクジョッキーのラジオ花子も現れ、こちらは宝塚出身の女性が爽やかな彩りを添えた。

さて、1937年、上海から進撃を開始した日本軍は、首都南京の占領を経て、1938年10月、漢口をも占領した。ここは蒋介石が南京を脱出した後に首都を置いた大都市で、国民党の「漢口広播(こうばん)電台」というラジオ局があった。

このラジオ局については、ある日本人女性に注目せざるを得ない。漢口を日本軍が占領する前の数ヶ月間、1938年7月2日19時を皮切りに、漢口からは日本人女性による抗日ラジオ放送が流れていたのだ。声の主は、長谷川テルという、日本に留学中の中国人男性と結婚した女性だ。彼女は、夫について中国に渡り、戦火の上海をのがれ、漢口に来ていた。そこで国民党国際宣伝部というところに職を得ていたのだ。(参考 「長谷川テル 日中戦争下で反戦放送をした日本女性」長谷川テル編集委員会編)

長谷川テルは、彼女が元々持っていた反戦平和の思いと、日本国民が軍閥、財閥にだまされていること、中国では全民族が抗戦の覚悟を決めていることを、在留日本人と日本軍兵士に向けて訴えた。「この放送をすれば二度と日本へは戻れない」という厳しい選択であった。

この漢口での日本語謀略放送に驚いた日本憲兵隊は、声の主を捜し出すのにやっきとなったが、分からなかった。漢口占領後に破壊された放送局を捜索して、残された原稿を発見し、やっと長谷川テルだとわかった。その情報は、スクープとして、売国奴長谷川照子として写真付きで日本国内で新聞報道された。家族は迫害され、父親は自決せよと脅された。

上海では中国人のテンピンルーが、中国語で、日本軍の正当性を語りかける。漢口では、日本人の長谷川テルが、日本語で、反戦と中国軍の抗日力を宣伝する。そしてお互い、漢奸としての、売国奴としての疑いと非難に苦しむ。歴史の皮肉とはまさにこのことである。

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2009年3月 8日 (日)

テンピンルーの勤務した日本のラジオ局

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Srp_cover 1930年代の上海における電波戦の一端を、福田敏之著の「姿なき尖兵」、そして「戦争 ラジオ 記憶」に掲載されている貴志俊彦の論文「東アジアにおける電波戦争の諸相」、おなじく孫安石の論文「日中戦争と上海の日本語放送」の3つを参考にして見てみた。これによって、鄭蘋如(テンピンルー)がラジオ局のアナウンサーとして活動した状況が、少しばかり見えればと思う。

1935年、上海には100局くらいのラジオ局があった。1931年の満州事変や1932年の第一次上海事変の後、中国系のみならず、英米系のラジオも執拗に上海語と英語で反日ニュースを流していた。デマ放送ばかり聞かされていた在留邦人の中から、日本語ラジオ放送を望む声が上がり、上海日本総領事館も具体的な検討に入った。


そのころ、静安寺路に近い斜橋路(現在の地下鉄2号線石門一路駅付近)で、小さなラジオ局が売りに出された。アメリカ人のハワードという個人が経営していた放送局である。出力はわずか50w。電球一個分くらいである。日本総領事館が交渉にあたり、1936年8月18日に譲渡を受けた。



ラジオ放送を取り締まる国民党政府の中国交通部は、放送局のライセンスは譲渡、転売が不可ということで営業許可は出さなかったが、日本側は治外法権ということにして押し切ってしまった。

これが1936年8月スタートの上海初の日本語放送局、大東放送局である。アナウンサーには上海高等女学校を出たばかりの井上夏子、中国語アナとして李小姐(リー シャオチェ)、英語は上海育ちのメリー内山、ロシア語アナのナターシャと、計4名がいた。ニュースがこの4ヶ国語で放送されていたわけだ。いずれも10代後半から20代の若き女性アナウンサーである。

運営経費は当初は日系企業のコマーシャルでまかない、月に800円くらい予算があったようである。予算は、1937年には大幅に増額され、陸海軍、外務省、満鉄上海事務所、現地商社などからの収入月額2400ドルが計上されている。

当初スタートした放送局の場所は、共同租界という敵陣のまっただ中と言うことで、移動その他で不便があった。そこで3ヶ月後の11月には日本人地区の虹口(ホンキュウ)に隣接する楊樹浦(ヤンジュッポ)に移転している。そのとき出力を50wから100wに上げ、送信機はNHK製作の新しい機械にした。

1938年9月の1ヶ月間の大東放送局の放送明細は次の通りである。

皇軍(日本軍)慰問放送  6回 3時間34分
日本語レコード           35時間3分
中国語レコード            3時間47分
洋楽レコード             37時間6分

子供時間           32回 15時間40分
子供新聞           24回  2時間5分
演芸              55回 24時間43分
録音               1回     40分 
実況               1回     10分

日本語ニュース       60回 8時間12分
上海語ニュース       30回 5時間5分
英語ニュース         60回 11時間5分
ロシア語ニュース      60回 8時間56分 
講演               2回    43分
上海語講座          26回 8時間35分

以上のとおり、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、宣撫工作の目的も持っていたようである。福田敏之著の「姿なき尖兵」には、

スタジオを出ての中継番組もなかなか盛んで、上海の日本劇場(虹口地区にあった)で上演中の李香蘭の舞台中継は居留民や駐屯軍将兵の絶賛を受けていた

とも書いてある。李香蘭のリサイタルを生中継していたようである。これなどは上の明細の「皇軍慰問放送」に当たるのだろうか。 

大東放送局が直面した大きな問題は中国側の妨害電波であった。中国交通部は、1937年1月29日、大東放送局のラジオ放送は違法であり、コールサインと周波数の没収、無線設備の撤去を通知してきた。すでに中国側は、東京からの中継とニュース放送時には、大東放送局と同じ周波数の電波を発信しており、放送は雑音まみれとなった。


1937年の7月、北京郊外の盧溝橋で日中間の戦争が始まった。上海にも翌月8月に戦火が飛び火した。日本軍は武力戦とともに、強力な思想戦を展開し、中国人の懐柔、欧米人の理解を求めることとした。上海日本総領事館は、従来の陸軍武官室を強化し、特務部を作り、今で言う「ソフトパワー」による占領地工作を担当させることになった。これが上海派遣軍(1938年2月に中支派遣軍と改称)特務部の始まりである。初代部長は中支派遣軍参謀部の金子俊治少佐である。

日本側の宣伝の基本理念は、日中戦争が中国民衆を敵とするものでなく、あくまで蒋介石国民党政府の軍事挑発、不法行為、を正すためのやむを得ないものであることを強調したものだ。欧米に対しては、共産化のおそれのある南京政府を叩いて、既得権益を守るものであることを訴え理解を求めた。

この目的遂行のために、宣伝班の中に、絵画班、映画班、写真班、少し遅れて1937年10月にはラジオ放送を担当する放送班が置かれた。作家の石川達三、詩人の三好達治、草野心平、音楽家の堀内敬三、評論家の大宅宗一、といった各界のベテランが軍の嘱託として入ってきた。この武器を持たない専門家集団が、新聞雑誌、写真、放送などのマスメディアを駆使して広報宣伝活動をするのである。おそらく、「上海人文記」をベースとして映画「上海の月」の原作を書いたプロデューサーの松崎啓次も、嘱託としてこの映画班の中にいたものと思われる。(こちらの記事を参照→「ピンルーの事件がモデルの映画『上海の月』

日本政府は、本格的な宣撫工作の一つとして、ラジオ放送のさらなる拡大を目論んだ。当初は大東放送局を増強することも検討されたが、居留民の慰安が主目的の大東放送局を増強するよりは、軍主導の新しいラジオ局設置が選択された。


1937年10月29日に日本電信電話株式会社(NTT)によってスタジオと調整室の設備工事が、虹口文路にある日本人倶楽部4階で始まった。日本人倶楽部は、現地の経済、文化団体の事務所が入り、ホールや会議室は日本人居留民の会合やパーティの場として活用されていた。12月初旬、日本放送協会(NHK)は、陸軍の要請を受け、放送局職員の派遣を決定した。責任者は浅野一男(新潟放送局長、予備役陸軍少佐)、技術職15名の他、報道、業務などである。

松崎啓次の「テンピンルーを最初に書いた史料 『上海人文記 1』」の原文では特務部長金子少佐は、K少佐として、浅野少佐はA少佐として出てくる。ピンルーの母親木村はなが、ピンルーをアナウンサーとして採用してくれないか、という願いを特務部長K少佐に伝える。K少佐がそれをA少佐に取り次ぐ約束をする、という場面である。彼女は無事採用され、中国語アナウンサーとしてニュース報道を担当した。ピンルーの甥、鄭国基氏のインタビューによ れば、音楽が大好きなピンルーはアナウンスだけでなく、特技を活かして歌も披露していたようである。おそらく生放送だったのだろう。

話は脇にそれるが、ピンルーの音楽好きのエピソードを鄭国基氏がもう一つあげている。彼はおそらくこれらを叔母、つまり木村はなから聞かされていたのだろう。ある日、ピンルーのアパートメントがある住宅街区、万宜坊(まんぎぼう)の友人が、エレキギター(電気ギターと言うべきか、それまでのフォークギターに、マイクのピックアップを付けた、今のエレキギターの原型のような楽器)を持って来て、それを弾いてくれたらしい。ピンルーは姉、真如と一緒に聴いた。ピンルーはそれが気に入って、いてもたってもいられなくなり、すぐ父親にレッスンを受ける許可を求めた。ところが父テンエツは、その友人の親が偽物の宝石を売る商人だったため、どうしても許可を出さなかった。ピンルーは自室に籠もって大泣きに泣いた、というのだ。ピンルーのエレキギター演奏のラジオデビューは幻に終わったようである。


話を元に戻す。こうして1937年12月15日、「大上海放送局」(中国名は大上海広播(こうばん)電台)と名付けられた日本の新しいラジオ放送局が開局した。出力は10キロワットで、大東放送局の100倍の強さを誇る。周波数は900キロサイクル、コールサインはXOJBであるが、これは電波割り当ての国際機関の承認を得たものではなく、無断で使ったものだ。日本の放送局はJで始まり、中国はXで始まる。


大上海放送局の番組内容は、中国人向けの宣撫として中国語、おそらくは上海語も交えて放送するものが主体であった。ピンルーの役割は大きかったと言わざるを得ない。一部の時間は、英語番組も流した。ニュースの素材は、日本軍報道部が発表する戦況報道や、同盟通信社の配信、NHKの海外向け放送を受信し、中国語に翻訳して流す、などである。日本の主張に同意する親日派の中国側要人の講演も次第に多くなった。


娯楽番組では、中国語流行歌のレコード、外国曲、京劇や話劇(日本の新劇にあたる)を流した。また、スタジオにタレントを呼んで、大衆演芸の相声(日本でいう漫才)、評話(日本でいう講談)などを生で放送した。

2010年1月16日追記:ラヂオ年鑑 昭和15年1月5日印刷版に大上海放送局のプログラム、「放送事項別時刻表」が掲載されていたので以下、追記しておく。

平日午前

11:00〜11:30 家庭の時間

11:30〜11:59 宗教の時間

11:59〜0:00 時報(北京語)

平日午後

0:00〜1:00 レコード(洋楽)

1:00〜1:30 ニュース(英語)

1:30〜2:00 レコード(北京劇)

2:00〜2:30 ニュース(北京語)

2:30〜3:00 経済市況(上海語)

3:00〜5:00 休憩

5:00〜5:30 子供の時間

5:30〜6:00 ニュース(広東語)

6:00〜6:30 日本語講座

6:30〜7:00 ニュース(上海語)

7:00〜7:30 講演

7:30〜7:45 休憩

7:45〜8:00 ニュース(英語)

8:00〜9:00 演芸

9:00〜9:25 ニュース(北京語)

9:25〜9:50 演芸

9:50〜10:05 時事解説(北京語)

10:05〜10:10 番組予報(北京語)

休日プログラムは、午後6時からの日本語講座が北京語の週間ニュースになる。

以上は地元向け中波放送。

漢口、長沙、重慶などの蒋介石国民党中心地に向けに1938年4月15日からは、短波放送も行っており、午後9時のニュース(北京語)から、午後9:50の時事解説(北京語)の中波と同じ内容を短波で同時送出した。

このプログラムを見ると、日本語ニュースがないので、中国人向け宣撫ということが一目でわかる。中国人アナウンサーは、北京語、上海語、広東語が要求されていたことがわかり、また局員とのコミュニケーションには日本語能力が重宝されたであろうから、ピンルーはまさに適任だったのだろう。

続きは、後日 「続 テンピンルーの勤務した日本のラジオ局」としてアップします。

また、一次史料として「中支那派遣軍報道部放送班概要」をこちらに収録しました。←クリック

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2009年3月 1日 (日)

続 植民地医療の光と影

前回の記事、「『蘇州の夜』を見て 植民地医療の光と影」 では、李香蘭の映画「蘇州の夜」の感想から進めて、日本による植民地医療の光と影、特に731部隊による「影」の部分にスポットを当ててみた。今回は、逆に、同仁会の活躍を通した「光」の部分を紹介する。

(下の写真は上海市郊外にある上海人民第五病院。1904年に上海市共同租界の工部局が西人隔離医院として設立、1939年に日本同仁会が接収し、戦後中国国有となって現在に至る)

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一次資料として、1938年秋に同仁会によって行われた、日本国内医療関係者向けの講演会の原稿資料を下記に掲載する。ここで取り上げたのは、1938年の上海旧市街地における中国人難民に対する医療、特にコレラの防疫に関しての講演原稿である。(クリックすると拡大します)最後のページでは日本人医師団の治療を受けた中国人難民が、気持ちばかりの謝意として、金魚、植木や小鳥などを持ってくる様が書かれている。

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Photo_2

同仁会は北京や天津、上海など中国各地12カ所で診療所を開いていたようである。上の記事によれば、従事者が約250名、経費が当時のお金で200万円、今のお金で10億円近くだと思われる。これだけの規模を難民相手に報酬無しで行ったということは、明らかに軍あるいは日本政府の補助を受けての占領政策の一環であったということだろう。

フランス租界や共同租界では1938年に発生したコレラ患者が2万人を数えたようだが、日本人地区である虹口(ホンキュウ)では数百名に収まったということが書いてある。日本人地区はフランス租界などに比べ、水洗便所が少なかったようだが、衛生面では進んでいたようだ。

また、この記事によると、九江や石家荘周辺の数十カ所の村では、中国軍が退却していった後に、隠蔽工作とともにコレラ菌散布の形跡を日本軍が発見した、とある。ちなみに支那派遣軍の調査によると、九江では中国民間人が500名ほどコレラに罹患しているようである。中国軍による細菌戦の実態が中国側から発表されることは皆無であり、中国側政府、民間とも将来にわたってその実体を追求することは無いのかもしれない。

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上の記事からは、同仁会医療団が、上海市の南市(ナンシー)、つまり昔の城内、現在だと観光地となっている豫園(よえん)のある旧市街地に診療所を構えかつ居住していたことがわかる。

この南市は、中国人だけが住むことの許された、まさに敵のまっただ中という場所であり、しかもほとんどが苦力(クーリー)などの雑役の仕事についていた貧民街でもある。上海事変では徹底的に日本軍に破壊されたところだ。

中国人12万人以上にコレラの予防注射をしたとある。5月に開設し、7月くらいになるとフランス租界や共同租界からわざわざ南市の同仁会診療所に来る中国人も出てきたようだ。

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20ページの上の段の真ん中あたりに、「我々が予防接種をすると、『日本人は毒を射す。之を射すと5,6年後、あるいは10年後には死んでしまう』、というデマを流す」云々ということが書いてある。このデマは中国中で共通のデマのようだ。

そのすぐ後には、面白いことが書いてある。このコレラ予防接種は強制にしたようで、一度予防接種をすると証明書を発行した。ところが、一人が何度も接種を受けて、余った証明書を注射が嫌いな中国人に売りさばく、という商売が発生した。今も昔も変わらない中国人のたくましい商魂である。

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22ページの下の段には、瓦斯壊疽(ガスえそ)の患者が多発していることが書いてある。私はこの症状の名前をテレビで聞いて覚えていた。2007年の中国四川省大地震の時である。倒壊した建物の重量のあるコンクリなどの下敷きになって外傷を負った脚や腕は、ガス壊疽を起こしやすく、救出後になって毒素が回って死に至る、という症状である。

南市も、四川省大地震の時と同じように、建物が戦争で破壊され、その下敷きになった人が多数出たのだろう。四川省大地震では阪神大震災の経験を生かし、ガス壊疽の症状の患者を日本人医師団が治療するニュースがあった。70年後の歴史の巡り合わせである。

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24ページの下の段には、毎朝患者が集まると、衛生や医療に関して、簡単な講義を開いていたことが書いてある。なかにはこれだけを聴きにきていた者もいた。そして治療の感謝として冒頭にも書いたように、お金のない難民達は、金魚や植木、小鳥などをお礼として持ってきたということだ。

医療は結果が全てであり、嘘が許されないがゆえ、最も感謝される宣撫分野であろう。しかし、南市にガス壊疽を起こす難民が発生するような建物の破壊は、そもそも日本軍が行ったことである。

そしてまた、寧波など数都市でペスト菌の散布を日本陸軍が実戦使用し、その防疫に同仁会の日本人医師が活躍するという壮大なマッチポンプにも、思い至らねばならないだろう。

 

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