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2009年3月 8日 (日)

テンピンルーの勤務した日本のラジオ局

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Srp_cover 1930年代の上海における電波戦の一端を、福田敏之著の「姿なき尖兵」、そして「戦争 ラジオ 記憶」に掲載されている貴志俊彦の論文「東アジアにおける電波戦争の諸相」、おなじく孫安石の論文「日中戦争と上海の日本語放送」の3つを参考にして見てみた。これによって、鄭蘋如(テンピンルー)がラジオ局のアナウンサーとして活動した状況が、少しばかり見えればと思う。

1935年、上海には100局くらいのラジオ局があった。1931年の満州事変や1932年の第一次上海事変の後、中国系のみならず、英米系のラジオも執拗に上海語と英語で反日ニュースを流していた。デマ放送ばかり聞かされていた在留邦人の中から、日本語ラジオ放送を望む声が上がり、上海日本総領事館も具体的な検討に入った。


そのころ、静安寺路に近い斜橋路(現在の地下鉄2号線石門一路駅付近)で、小さなラジオ局が売りに出された。アメリカ人のハワードという個人が経営していた放送局である。出力はわずか50w。電球一個分くらいである。日本総領事館が交渉にあたり、1936年8月18日に譲渡を受けた。



ラジオ放送を取り締まる国民党政府の中国交通部は、放送局のライセンスは譲渡、転売が不可ということで営業許可は出さなかったが、日本側は治外法権ということにして押し切ってしまった。

これが1936年8月スタートの上海初の日本語放送局、大東放送局である。アナウンサーには上海高等女学校を出たばかりの井上夏子、中国語アナとして李小姐(リー シャオチェ)、英語は上海育ちのメリー内山、ロシア語アナのナターシャと、計4名がいた。ニュースがこの4ヶ国語で放送されていたわけだ。いずれも10代後半から20代の若き女性アナウンサーである。

運営経費は当初は日系企業のコマーシャルでまかない、月に800円くらい予算があったようである。予算は、1937年には大幅に増額され、陸海軍、外務省、満鉄上海事務所、現地商社などからの収入月額2400ドルが計上されている。

当初スタートした放送局の場所は、共同租界という敵陣のまっただ中と言うことで、移動その他で不便があった。そこで3ヶ月後の11月には日本人地区の虹口(ホンキュウ)に隣接する楊樹浦(ヤンジュッポ)に移転している。そのとき出力を50wから100wに上げ、送信機はNHK製作の新しい機械にした。

1938年9月の1ヶ月間の大東放送局の放送明細は次の通りである。

皇軍(日本軍)慰問放送  6回 3時間34分
日本語レコード           35時間3分
中国語レコード            3時間47分
洋楽レコード             37時間6分

子供時間           32回 15時間40分
子供新聞           24回  2時間5分
演芸              55回 24時間43分
録音               1回     40分 
実況               1回     10分

日本語ニュース       60回 8時間12分
上海語ニュース       30回 5時間5分
英語ニュース         60回 11時間5分
ロシア語ニュース      60回 8時間56分 
講演               2回    43分
上海語講座          26回 8時間35分

以上のとおり、日本人居留民向けのラジオ局ではあったが、上海語や英語、ロシア語のニュース放送もあり、宣撫工作の目的も持っていたようである。福田敏之著の「姿なき尖兵」には、

スタジオを出ての中継番組もなかなか盛んで、上海の日本劇場(虹口地区にあった)で上演中の李香蘭の舞台中継は居留民や駐屯軍将兵の絶賛を受けていた

とも書いてある。李香蘭のリサイタルを生中継していたようである。これなどは上の明細の「皇軍慰問放送」に当たるのだろうか。 

大東放送局が直面した大きな問題は中国側の妨害電波であった。中国交通部は、1937年1月29日、大東放送局のラジオ放送は違法であり、コールサインと周波数の没収、無線設備の撤去を通知してきた。すでに中国側は、東京からの中継とニュース放送時には、大東放送局と同じ周波数の電波を発信しており、放送は雑音まみれとなった。


1937年の7月、北京郊外の盧溝橋で日中間の戦争が始まった。上海にも翌月8月に戦火が飛び火した。日本軍は武力戦とともに、強力な思想戦を展開し、中国人の懐柔、欧米人の理解を求めることとした。上海日本総領事館は、従来の陸軍武官室を強化し、特務部を作り、今で言う「ソフトパワー」による占領地工作を担当させることになった。これが上海派遣軍(1938年2月に中支派遣軍と改称)特務部の始まりである。初代部長は中支派遣軍参謀部の金子俊治少佐である。

日本側の宣伝の基本理念は、日中戦争が中国民衆を敵とするものでなく、あくまで蒋介石国民党政府の軍事挑発、不法行為、を正すためのやむを得ないものであることを強調したものだ。欧米に対しては、共産化のおそれのある南京政府を叩いて、既得権益を守るものであることを訴え理解を求めた。

この目的遂行のために、宣伝班の中に、絵画班、映画班、写真班、少し遅れて1937年10月にはラジオ放送を担当する放送班が置かれた。作家の石川達三、詩人の三好達治、草野心平、音楽家の堀内敬三、評論家の大宅宗一、といった各界のベテランが軍の嘱託として入ってきた。この武器を持たない専門家集団が、新聞雑誌、写真、放送などのマスメディアを駆使して広報宣伝活動をするのである。おそらく、「上海人文記」をベースとして映画「上海の月」の原作を書いたプロデューサーの松崎啓次も、嘱託としてこの映画班の中にいたものと思われる。(こちらの記事を参照→「ピンルーの事件がモデルの映画『上海の月』

日本政府は、本格的な宣撫工作の一つとして、ラジオ放送のさらなる拡大を目論んだ。当初は大東放送局を増強することも検討されたが、居留民の慰安が主目的の大東放送局を増強するよりは、軍主導の新しいラジオ局設置が選択された。


1937年10月29日に日本電信電話株式会社(NTT)によってスタジオと調整室の設備工事が、虹口文路にある日本人倶楽部4階で始まった。日本人倶楽部は、現地の経済、文化団体の事務所が入り、ホールや会議室は日本人居留民の会合やパーティの場として活用されていた。12月初旬、日本放送協会(NHK)は、陸軍の要請を受け、放送局職員の派遣を決定した。責任者は浅野一男(新潟放送局長、予備役陸軍少佐)、技術職15名の他、報道、業務などである。

松崎啓次の「テンピンルーを最初に書いた史料 『上海人文記 1』」の原文では特務部長金子少佐は、K少佐として、浅野少佐はA少佐として出てくる。ピンルーの母親木村はなが、ピンルーをアナウンサーとして採用してくれないか、という願いを特務部長K少佐に伝える。K少佐がそれをA少佐に取り次ぐ約束をする、という場面である。彼女は無事採用され、中国語アナウンサーとしてニュース報道を担当した。ピンルーの甥、鄭国基氏のインタビューによ れば、音楽が大好きなピンルーはアナウンスだけでなく、特技を活かして歌も披露していたようである。おそらく生放送だったのだろう。

話は脇にそれるが、ピンルーの音楽好きのエピソードを鄭国基氏がもう一つあげている。彼はおそらくこれらを叔母、つまり木村はなから聞かされていたのだろう。ある日、ピンルーのアパートメントがある住宅街区、万宜坊(まんぎぼう)の友人が、エレキギター(電気ギターと言うべきか、それまでのフォークギターに、マイクのピックアップを付けた、今のエレキギターの原型のような楽器)を持って来て、それを弾いてくれたらしい。ピンルーは姉、真如と一緒に聴いた。ピンルーはそれが気に入って、いてもたってもいられなくなり、すぐ父親にレッスンを受ける許可を求めた。ところが父テンエツは、その友人の親が偽物の宝石を売る商人だったため、どうしても許可を出さなかった。ピンルーは自室に籠もって大泣きに泣いた、というのだ。ピンルーのエレキギター演奏のラジオデビューは幻に終わったようである。


話を元に戻す。こうして1937年12月15日、「大上海放送局」(中国名は大上海広播(こうばん)電台)と名付けられた日本の新しいラジオ放送局が開局した。出力は10キロワットで、大東放送局の100倍の強さを誇る。周波数は900キロサイクル、コールサインはXOJBであるが、これは電波割り当ての国際機関の承認を得たものではなく、無断で使ったものだ。日本の放送局はJで始まり、中国はXで始まる。


大上海放送局の番組内容は、中国人向けの宣撫として中国語、おそらくは上海語も交えて放送するものが主体であった。ピンルーの役割は大きかったと言わざるを得ない。一部の時間は、英語番組も流した。ニュースの素材は、日本軍報道部が発表する戦況報道や、同盟通信社の配信、NHKの海外向け放送を受信し、中国語に翻訳して流す、などである。日本の主張に同意する親日派の中国側要人の講演も次第に多くなった。


娯楽番組では、中国語流行歌のレコード、外国曲、京劇や話劇(日本の新劇にあたる)を流した。また、スタジオにタレントを呼んで、大衆演芸の相声(日本でいう漫才)、評話(日本でいう講談)などを生で放送した。

2010年1月16日追記:ラヂオ年鑑 昭和15年1月5日印刷版に大上海放送局のプログラム、「放送事項別時刻表」が掲載されていたので以下、追記しておく。

平日午前

11:00〜11:30 家庭の時間

11:30〜11:59 宗教の時間

11:59〜0:00 時報(北京語)

平日午後

0:00〜1:00 レコード(洋楽)

1:00〜1:30 ニュース(英語)

1:30〜2:00 レコード(北京劇)

2:00〜2:30 ニュース(北京語)

2:30〜3:00 経済市況(上海語)

3:00〜5:00 休憩

5:00〜5:30 子供の時間

5:30〜6:00 ニュース(広東語)

6:00〜6:30 日本語講座

6:30〜7:00 ニュース(上海語)

7:00〜7:30 講演

7:30〜7:45 休憩

7:45〜8:00 ニュース(英語)

8:00〜9:00 演芸

9:00〜9:25 ニュース(北京語)

9:25〜9:50 演芸

9:50〜10:05 時事解説(北京語)

10:05〜10:10 番組予報(北京語)

休日プログラムは、午後6時からの日本語講座が北京語の週間ニュースになる。

以上は地元向け中波放送。

漢口、長沙、重慶などの蒋介石国民党中心地に向けに1938年4月15日からは、短波放送も行っており、午後9時のニュース(北京語)から、午後9:50の時事解説(北京語)の中波と同じ内容を短波で同時送出した。

このプログラムを見ると、日本語ニュースがないので、中国人向け宣撫ということが一目でわかる。中国人アナウンサーは、北京語、上海語、広東語が要求されていたことがわかり、また局員とのコミュニケーションには日本語能力が重宝されたであろうから、ピンルーはまさに適任だったのだろう。

続きは、後日 「続 テンピンルーの勤務した日本のラジオ局」としてアップします。

また、一次史料として「中支那派遣軍報道部放送班概要」をこちらに収録しました。←クリック

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コメント

Cosmopolitanさん

ブログをご紹介頂きありがとうございます。皇軍慰問の観桜会と書いてありますが軍人だけでなく、在留の民間日本人と一緒のお祭りみたいなもののようですね。なんとなく、幹事さんが、「皇軍慰問と書けば、企画が通るだろう」みたいな、工夫のあとのような気もしますが(苦笑)。李香蘭はこのような慰問を終戦の直前までやっていたようですね。

1940年の2月7日とありますが、これはテンピンルーが銃殺された月なのですが、前に大陸新報のこの月のマイクロフィルムを見たら、2月1日~2月3日の上海は寒波が襲ってきて雪だったようです。かなり寒い冬だったようなので、桜というよりは梅か桃?だったのかもしれません。(2010年1月5日追記:yanagiさんのブログ、李香蘭と支那の夜の記事を見たら、2月でなく、4月7日に福岡から飛行機で到着していました。桜ですね。当然、温かい春の観桜会でしたね。失礼しました)

投稿: bikoran | 2009年3月11日 (水) 17時53分

私などよりもずっと当時の事情に通じていらっしゃるBikoranさんならもうご存じかも知れませんが、1940年2月7日に李香蘭と長谷川一夫が飛行機で上海ぼ虹口せ開かれる觀桜會で挨拶するために来たという邦人誌の記事が写真版で出ていますね。
http://scott.at.webry.info/200702/article_1.html
 支那の夜の撮影もあったのでしょうが、この当時は、李香蘭は撮影のために移動するときに飛行機を使っていたことが分かります。
 放送局を設置し、当時急激に日本人の数が増加した虹口の日本人居留民のための日本語放送や、映画上映、コンサート開催などの「啓民」活動、「娯民」活動のために、芸能人や文士たちまで動員されたのでしょう。

投稿: Cosmopolitan | 2009年3月11日 (水) 16時30分

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