« テンピンルーの勤務した日本のラジオ局 | トップページ | 女たちの中国に李香蘭がゲスト出演 »

2009年3月17日 (火)

続 ピンルーの勤務したラジオ局

_________________________

Photo

1937年の12月に鄭蘋如(テンピンルー)がアナウンサーとして採用された「大上海放送局」のコンセプトは、蒋介石国民党の不法行為、破壊行為を非難し、日本軍が中国軍を懲らしめ撃退していくのは当然で、日本軍が破竹の勢いで進撃していくのを高らかに歌い上げる、というものである。


ピンルーはどんな気持ちでアナウンスをしていたのだろうか。


彼女はこのラジオ局に採用された1937年当時、すでに蒋介石親衛隊の地下工作組織、CC団の傘下のグループに属していた、というのが、現在の中国側歴史家の間では定説である。


日本軍特務部が監督するラジオ局への就職は、日本側との人脈づくり、情報ルートの構築という意図が隠されていたと見るのが自然だろう。彼女は、のちに日本側の別の組織(小野寺機関など)でも、中国語新聞の検閲、翻訳の仕事もしていたようである。

そのような裏の役割を遂行していたピンルーであるが、彼女が放送する中国語ニュースの原稿内容は、日本軍の栄光を称えるものであり、中国人にとっては屈辱の内容なわけである。南京の陥落、入城に始まり、杭州を占領、漢口へ進撃していく日本軍。蒋介石の国民党軍のみじめな敗走、それらを連日放送するのだ。

逆に、上海の街のいたるところで、日本軍の南京における蛮行が宣伝され、新聞雑誌には残虐な写真が連日掲載された。。 

ピンルーの一家が最も恐れていたことは、漢奸の疑いを持たれることである。ピンルーはそれまでも、学校などで深刻ないじめにあってきた。それは母親が日本人である宿命だった。盧溝橋での開戦を契機に、「日本人の妻を持つ中国人は、その妻を日本に帰国させよ」、という命令が既に蒋介石国民党政府から出ていた。それに逆らって母親木村はなは上海にとどまった。家族への愛情が厚い木村はなにとってみたら、それは当然の選択であった。同時に、家族全員が漢奸として見られるリスクも背負っていたのである。

そんな状況で、毎日ピンルーは、親日・反蒋介石の放送原稿を中国語で読み続けるのだ。歌を歌っている場合ではなくなってきた。彼女は本名は名乗っていなかったかもしれない。たとえば、李小姐(リーシャオチェ)などの仮名を使っていたかもしれない。しかし、中国服を着てガーデンブリッジを渡り、日本人倶楽部の建物へ入って親日放送を毎日行う、という目立つ行動は、次第に負担になってきていた。

それは、京劇や、話劇、漫才などの演芸を生放送する中国人タレント達の気持ちも同じだった。大上海放送局は、中国人の出演者に事欠くようになっきた。そこで取られた対策が、放送局を、日本人倶楽部からガーデンブリッジの脇に立つ名門ホテルのアスターハウスへ移転することである。

アスターハウスは、ガーデンブリッジからは日本人地区寄りにあったのだが、米国領事館やドイツ領事館、ロシア領事館などが建ち並ぶ中にあった。日本人街のどまんなかにあった日本人倶楽部よりは国際的な雰囲気の中にあったため、中国人出演者の気持ちを和らげることが期待された。多少の効果はあったものの、それでも出演拒否が続き、結局、共同租界内の南京路に小さなスタジオを借りて、中国人の演芸や講演などはそこから中継することになった。

ピンルーであるが、1938年の4月か5月にはラジオ局アナウンサーをやめてしまったようである。12月中旬のスタートだから、半年にも満たない勤務となった。理由は明らかではないが、やはり放送原稿の内容があまりに親日・反蒋介石なため、漢奸容疑を恐れたのが一番の理由ではないだろうか。彼女が地下工作員であることは、皆知らない。世間からは日本軍に協力している漢奸と見られても不思議ではない。彼女が日本軍のラジオ局に勤務し続けることは限界に達した。

ピンルーの短いアナウンサー生活はそうして終わりを告げた。

さて、松崎啓次の「テンピンルーを最初に書いた「上海人文記」1 を再び紐解いてみると、松崎がアスターハウスで、この放送局の知り合いとばったり会って、ピンルーの消息を訊ねる場面があった。1938年夏のある日のことである。なお原文ではテンピンルーは戴小姐(タイ シャオチェ)という仮名で登場する。

 

「テンピンルー?ああ、あのアナウンサーをしていた綺麗な人でしょう。あの人、もうやめました。2、3ヶ月前かな。なにか、維新政府(注:日本軍が南京に作った親日政権)の機関で働いているんでしょう今。ご存じなんですか、あの人を」

「ううん、別に。で、新井さんは?」

「新井さん、あの人、今南京です。南京の放送局はこれからというところで、人手が足りず大変なんです。新井さんは応援に行ったまんま、忙しくて帰れないのですよ」

という会話が交わされる。ピンルーの同僚であった元看護婦で大上海放送局の新井さんは、南京に新たに設置される日本軍のラジオ局「南京中央放送局」に派遣されていたようだ。こちらの開局は1938年9月15日。番組構成は大上海放送局とそっくりで、中国語による占領地民衆に対する宣伝工作が基本だった。

中国軍兵士の戦線離脱気分をあおるための、郷愁を誘うような民俗芸能番組も多かったようだ。年配の中国人が南京の街角で、ラジオから聴こえてくる京劇に合わせて一緒に口ずさんでいる風景を「姿なきが尖兵 日中ラジオ史」の著者福田敏之が目にしている。

この南京のラジオ局では第二放送で日本語局も開局し、在留邦人向けの娯楽番組も増えたようである。「ラジオ太郎のディスクジョッキー」という独自の企画があって、週一回の15分番組でテーマを考え、それに合わせてレコードを選曲し放送した。気の利いたおしゃべりと軽快な音楽という斬新さが受けたようだ。後には女性ディスクジョッキーのラジオ花子も現れ、こちらは宝塚出身の女性が爽やかな彩りを添えた。

さて、1937年、上海から進撃を開始した日本軍は、首都南京の占領を経て、1938年10月、漢口をも占領した。ここは蒋介石が南京を脱出した後に首都を置いた大都市で、国民党の「漢口広播(こうばん)電台」というラジオ局があった。

このラジオ局については、ある日本人女性に注目せざるを得ない。漢口を日本軍が占領する前の数ヶ月間、1938年7月2日19時を皮切りに、漢口からは日本人女性による抗日ラジオ放送が流れていたのだ。声の主は、長谷川テルという、日本に留学中の中国人男性と結婚した女性だ。彼女は、夫について中国に渡り、戦火の上海をのがれ、漢口に来ていた。そこで国民党国際宣伝部というところに職を得ていたのだ。(参考 「長谷川テル 日中戦争下で反戦放送をした日本女性」長谷川テル編集委員会編)

長谷川テルは、彼女が元々持っていた反戦平和の思いと、日本国民が軍閥、財閥にだまされていること、中国では全民族が抗戦の覚悟を決めていることを、在留日本人と日本軍兵士に向けて訴えた。「この放送をすれば二度と日本へは戻れない」という厳しい選択であった。

この漢口での日本語謀略放送に驚いた日本憲兵隊は、声の主を捜し出すのにやっきとなったが、分からなかった。漢口占領後に破壊された放送局を捜索して、残された原稿を発見し、やっと長谷川テルだとわかった。その情報は、スクープとして、売国奴長谷川照子として写真付きで日本国内で新聞報道された。家族は迫害され、父親は自決せよと脅された。

上海では中国人のテンピンルーが、中国語で、日本軍の正当性を語りかける。漢口では、日本人の長谷川テルが、日本語で、反戦と中国軍の抗日力を宣伝する。そしてお互い、漢奸としての、売国奴としての疑いと非難に苦しむ。歴史の皮肉とはまさにこのことである。

|

« テンピンルーの勤務した日本のラジオ局 | トップページ | 女たちの中国に李香蘭がゲスト出演 »

テンピンルー」カテゴリの記事

コメント

yanagiさん

映画を見れる施設の紹介、ありがとうございます。国会図書館にはたまに史料をあさりに出かけていますので、映画のほうも見てみようかと思います。

投稿: bikoran | 2009年3月26日 (木) 00時22分

支那の夜に関しては大陸映画、ということで多少のお目こぼしがあったようです。
検閲に関して知りたいのであれば当時の、李香蘭以外の映画を見ることをお勧めします。
bikouranさんならば当時のお約束、ガイドラインがわかると思います。

首都圏にお住みなら、南千住図書館、新宿TSUTAYA、国会図書館が充実していますよ。

投稿: yanagi | 2009年3月25日 (水) 22時42分

コメントありがとうございました。「支那の夜」も甘いラブロマンス、という見方もできますが、「上海の月」の公開はその翌年の1941年。以降、検閲も厳しさを増していたのでしょうかね。「姿三四郎」の公開は1943年のようですね。なぜ上映ができなかったか謎の「私の鶯」も1943年で徐々に検閲の基準が厳しくなっているのかもしれませんね。

投稿: bikoran | 2009年3月21日 (土) 12時23分

この頃は「この非常時に恋愛などにうつつを抜きすとは何事だ!」
とやかましく言われた時代です。
映画の世界も同じで、軟弱に見える恋愛シーンには検閲官も目を光らせていました。
上海の月が放映された太平洋戦争前後は特に厳しかったようです。

黒澤明の「蝦蟇の油」に書いてあったと思うのですが、「姿三四郎」の、何でもない男女の逢引きシーンが問題になったほどです。

戦中映画史私話は戦中の記事を集めた本ですので
カットは戦中でしょう。

投稿: | 2009年3月21日 (土) 00時43分

yanagiさん

「上海の月」の情報をありがとうございました。最初にご紹介頂いた本を当たってみます。三角関係というと、「支那の夜」の長谷、桂蘭、三浦とし子の微妙な関係もありましたが、程度問題なのでしょうかね。


複数の支那女性にもてる日本人男性、という形は、支那と日本の関係に置き換えると、日本の国策的には問題無いと思うのですが・・・

カットされたのが戦後なのか、封切り時にはカットされたものが上映されたのか・・・・これもちょっと気になるところです。

投稿: bikoran | 2009年3月20日 (金) 00時36分

bikouranさん

 飯島正著・戦中映画史私記に上海の月の
話題が出ています。抜粋すると

 ひととおりの筋さえ通らないという点は、きくところによると大分事前検閲のためにそうなったという話である。おそらくそれは、日本人の主人公と支那の女との三角関係についてであろうと
おもうが、そらならばそれで、さらにあっさりアクションだけに変えてしまうことが必要であったと思う。(「新潮」41・8)

 検閲の理由はいろいろあると思いますが、三角関係、というのもその一つでしょうね。この時代、検閲官からすればずいぶん不謹慎に見えたと思います。

 上海の月に関しては「女優 山田五十鈴」「紫陽花や 山田五十鈴という女優」などにも記載があり、山田五十鈴の上海ロケの感想が載っています。

投稿: yanagi | 2009年3月19日 (木) 22時59分

「支那の夜」がテンピンルー絡みということが少しずつ明るみになってきましたが、同時期に製作されたもうひとつのピンルー絡みの映画、「上海の月」、こちらもずたずたにカットされて、元の半分のフィルムしか残っていないらしいです。私にはピンルーという女性がいた、その歴史の記憶を消す意図があったのではないか、とまでも詮索し始めています。

投稿: bikoran | 2009年3月18日 (水) 23時10分

Yanagiさんのご指摘はおもしろいですね。

私がフィルムセンターでみた「支那の夜」では、桂蘭の母が、長谷が亡くなったという報を聞いた後で訪ねてきて、桂蘭を引き取りたいのだけれども娘がいうことを聞かないと話すシーンがあったのですが、それは全部日本語でしゃべっていたような記憶があります(ビデオ版の「蘇州夜曲」では省略されている)。
これに対して、桂蘭の家で働いていた使用人と桂蘭が長谷のアパートで再会するシーンでは、中国語でやりとりが行われていました。(俳優はみな日本人です)
こうしてみるともとのシナリオでは、桂蘭の母は日本人として設定していた可能性が高いですね。
そうすれば、テンピンルーの母親のイメージが投影されていたことになるでしょう。

投稿: Cosmopolitan | 2009年3月18日 (水) 13時34分

yanagiさん

ありがとうございます。
ノーカットの「支那の夜」を見てみたいなと改めて思いました。見る機会が非常に限られているのが残念でなりません。戦後にカットされた部分は中国人にとって不快に思う部分だとされていますが、それだけでは無いのかもしれませんね。

桂蘭が戻ってきて、母親がとっさに日本語で「桂蘭じゃないか」と言う部分、本来NGだったのでしょうかね。しかし、使う言語を間違えるというのは、脚本家としても、台本執筆者にしても、現場監督としても、単純すぎるほどのミスになりますから、私はやはり意図的なものを感じます。

投稿: bikoran | 2009年3月18日 (水) 08時49分

そのシーンは戦後公開された映画ではカットされていますね。

まあ、製作者がそこまで考えていたかといえば断言はできないと思います。

脚本の上では中国語で、という指示があったかもしれませんが、役者が日本人ということであまり考えずに日本語が使われたのかもしれません。

やはり中国人の娘に再開しての第一声が「桂蘭じゃないか?」は不自然です。

この映画、結構粗が目立つ映画です。明らかなNGシーンやよく聞き取れないセリフももそのまま収録したりしますから、ありえない話ではないと思います。

とはいっても、桂蘭がハーフという裏設定はいかにもありそうな話です。李香蘭にもそんな噂がながれていたようですし。

支那の夜の台本があるなら見てみたいですね。
戦前公開のバージョンでもカットされた部分は他にもあるようですし
支那の夜には謎がまだまだ隠されているように
思えます。

投稿: yanagi | 2009年3月18日 (水) 06時49分

yanagiさん

ご覧になったのは、短縮版の蘇州夜曲ではなく、本物の支那の夜だったのでしょうか。私の録画した短縮版には桂蘭の母親が日本語を使う部分は残念ながらカットされているようで見れませんでした。しかし、桂蘭の母親がとっさに出た言葉が日本語だということは・・・・これは桂蘭が実は日本人あるいは日本人と中国人とのハーフ、ということを暗示していますね。

となると、ますます桂蘭とテンピンルーの重なりを意識せざるを得ませんね。

ところで、松崎啓次の「上海人文記」ではテンピンルーは戴小姐(たいシャオチェ)という仮名で出てくるのですが、実は前書きの一カ所だけ、「鄭」という本名が、まるで誤字が残ってしまったかのように置いてあるのです。これなども、戴小姐は鄭蘋如なんですよ、ということを読者にそれとなく伝えているような気がします。

当時の演出家が、将来の読者、観劇者に気づいてもらうよう、そっと置いた暗示。それはとても興味深いものですね。

投稿: bikoran | 2009年3月18日 (水) 02時48分

bikouranさん
テンピンルーの母親の話を聞いてちょっと気になることがあります。

映画・支那の夜で、桂蘭が母親と再会したシーン、母親が最初に言った言葉は「桂蘭じゃないか?」と日本語だったのです。
中国人なのになぜ日本語?とその時は失笑したのですが、もしこれが製作者の意図的なものであるとしたら面白いですね。

もし桂蘭の母親が日本人だとしたら、桂蘭の日本語がペラペラなのも納得です。

投稿: yanagi | 2009年3月18日 (水) 00時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« テンピンルーの勤務した日本のラジオ局 | トップページ | 女たちの中国に李香蘭がゲスト出演 »