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2009年4月の4件の記事

2009年4月22日 (水)

続 「川島芳子は生きていた!?」

一応タイトルに、!と?を付けさせてもらいました。

(注:4月18日記事「川島芳子は生きていた」を見て に追記をいれております。青字の部分です。ご覧ください。)

2009年4月20日、中国のネットニュースサイトである、「人民網」に、川島芳子の記事が載っていた。人民網は、中国共産党機関紙「人民日報」のネット版である。つまり、国の思想、政策を国民に伝える宣撫、広報機関である。宣撫目的のため、中国人からも「題名と日付しか合っていない」と皮肉を言われる新聞のようであるが、政府、共産党の公式見解を伝えるメディアとしてやはり重要性があるとも見られている。

先日のテレビ朝日の放送と歩を合わせたような記事であったが、独自の内容もあったので、こちらで3つほど紹介したい。もしかしたら、テレビ朝日でも同じ情報を得ていたのかも知れないが、なんらかの理由で、あえて放送を控えたか、本当に時間が無かったか、そのような情報はそもそもなかったか、いずれにせよ放送されなかった部分である。

1. 李香蘭こと山口淑子氏は、「川島芳子以外の何者でもない」と語る?

テレビ朝日の放送では、画家でもある張鈺(ちょうぎょく)さんの描いた方おばあさんの絵をみて、「これはお兄ちゃん」(注:お兄ちゃんとは李香蘭から見た川島芳子の呼び名)だという山口淑子氏の発言を得ていた。しかし、もしこの絵を張鈺さんが、川島芳子の写真を見ながら描いたとしたら、似ていて当たりまえである。これは残念ながらなんの証拠にもなっていなかった。

ところが、人民網の記事では、張鈺さんが山口淑子氏に、方おばあさんの生活習慣や住居、茶室の装飾を伝えると、山口氏は、「それはお兄ちゃんだ」と言ったというのだ。となると話は別である。そして、取材者があらためて山口氏に「方おばあさんは、川島芳子でしょうか?」と訊ね、山口氏が「それ以外考えられない」と答えたというのだ。

山口淑子氏によって15分と制限された取材時間は、結局4時間に及んだという。しかし、山口氏が本当にそう答えたかどうか、我々には確認のしようがない。


2. 筆跡鑑定の結果、方おばあさんは、川島芳子だと・・・

張鈺さんが言うには、方おばあさんは、張鈺さんを描いた肖像画を一枚描いたらしい。そしてそこにはかすかに、”姥留念”(うばの記念、という意味)という三文字が書いてあった。吉林省の筆跡鑑定家である郭相武が、その三文字と、川島芳子が川島浪速に宛てた手紙の文字を比較したところ、癖が一致しており、その癖は、偽者が思いも寄らないものであり、同一人物だと認定したらしい。


3. テレビ朝日の放送では、寺に安置してあった方おばあさんの物と思われる骨片が、なんらかの妨害工作により入手できなかったとなっていたが、実際は、骨片を調査しており、その骨は完全に焼却されていたため十分なDNAが採取できなかったということである。

以上が、テレビ朝日の放送で提供された情報以外の部分である。そのほか、たとえば日本側の骨格鑑定調査の結果なども記載されている。歴史調査は往々にしていいとこ取りをしがちで、海外にそれを見つけると、お互いが知らないうちにキャッチボールをしていることがある。今回の中国側調査の結果は、ほぼ100%、方おばあさん=川島芳子ということのようである。

さて、冒頭にも書いたが、人民網は人民日報なる中国共産党機関紙のネット版である。その記事は、政府・中国共産党の意志、政策、思想を国民の間に浸透させる目的を持っている。この川島芳子の記事はいったいどういう意図があるのだろうか。

あるいは、三面記事的、娯楽的要素を持った記事なのだろうか。もしかしたら政治的な要素抜きに、本当にそうなのかもしれない。

記事は、しっかりと最後に囲みで川島芳子のプロフィールを以下のようにまとめている。あくまで川島芳子は中国にとっては悪人であることでは一貫している。

東方の魔女 川島芳子(1906〜1948)

彼女は敵を味方と取り違えて、日本軍国主義の暴威を頼り、清帝国復活の甘い夢を実現するために日本のスパイになった。“男装の女性スパイ”と称されて、満州傀儡政権を画策する日本と、国民党との間に立って、秘密兵器となった。日本の中国侵略戦争で重要な作用を発揮。満州事変、満州の独立などの重大な秘密活動をして、国内外を驚かせ、第一次上海事変で売国奴的な活動をした。日本の諜報機関の一枝の花。

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2009年4月18日 (土)

NHK土曜ドラマ「遙かなる絆」スタート

Photo_2

NHKで毎週土曜全六回、夜9時から2時間ドラマとして放送する「遙かなる絆」。

これはお薦めです。原作本の「あの戦争から遠く離れて」を読み、満州に取り残された日本人孤児の実情を知ると共に、置き去りにされた孤児を我が子のように育てた中国人の養母、そして文化大革命の恐怖を知りました。実話にもとづくドラマです。ユンチアンの「ワイルドスワン」も文化大革命を知ることの出来る本でしたが、日本人の実体験にもとづくものは初ではないでしょうか。

演出は、「エトロフ遙かなり」の岡崎栄。

楽しみです。

(以下は、番組視聴後に記載)

で、さっそく第一回を見てみた。しっかりした作りのドラマということは予感させるのだが、第一回として、グッと引きつけるものがなかった。それは、主人公の孫玉福、つまり、残留孤児である城戸幹さんを、原作者である娘、城戸久枝さんが、「父」という三人称で解説をし始めるという番組構成に対する違和感が原因だと思う。

ドラマが始まり、子供時代のちっちゃな主人公、孫玉福(城戸幹さん)に感情を移入し始める。すると突然、現代の場面になって、実の娘役の鈴木杏さんが、孫玉福を「父はこのときはなになに」などと、解説し始める。

孫玉福、そして育ての母に感情移入しつつある私は、突然誰かに観察されて感想を述べられている気がして、なんともばつの悪い気分になり、「そうだ、わたしは視聴者、孫玉福は孫玉福、今の声は娘役の鈴木杏」と、冷静に、客観的な自分に戻らされてしまう。このドラマは、父城戸幹ではなく、娘城戸久枝に感情移入すべきなのだろうか。

原作を読んだ時は思わず涙したものである。原作では、第一部で、孫玉福が育ての母親の愛情をいっぱいに受けて、困難に立ち向かう様がノンフィクション小説のように書かれ、第二部で、娘であり原作者である城戸久枝さんが、父親の足跡をたどる、という完全分離の本になっていた。

テレビではどうやら、娘の目線を常に用意して、過去と現在を行ったり来たりするようである。第一回目は違和感があったが、次回以降どうなっていくか、続けて見てみたい。

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「川島芳子は生きていた!」を見て

コメント頂いたcountryさんのご好意に甘えて、ビデオを送って頂き、さきほど番組を全て見ることができた。

まずもって、この番組が科学的検証を重視しようとする姿勢には共感が持てた。同時に、いい悪いは置いておいて「川島芳子は生きていた」という前提のシナリオがあからさまでもあった。「川島芳子はやはり死んでいた。」では企画そのものが通らないし、この番組の製作に入れないからそれは仕方ないところもある。

前回の記事で、孫と書いた張鈺(ちょうぎょく)さんは、よく考えてみれば血のつながりがあるはずもなく、方おばあさん、こと川島芳子に孫のように育てられた人、ということだった。この張鈺さんを最初から最後まで登場させることで、番組の芯のようなものができていて、真偽のほどはともかく、わかりやすく見やすい構成になっていた。

私が最も注目し、唯一証拠足りえると感じたのは、川島芳子の処刑写真と生前の川島芳子の写真にもとづく骨格鑑定、法科学鑑定研究所による分析である。それによれば処刑された人物と川島芳子が同一人物である確率は1%以下、ということだ。これが本当なら、替え玉が川島芳子の刑死写真として使われたとみていいだろう。しかし、この鑑定の作業工程が少しだけ番組で見れたが、プロットする点をわずかにずらすだけで、骨格ががらりと変わる。また、なによりも、替え玉刑死写真の存在は、それだけでは、川島芳子が戦後ずっと生きのびたことの証明にはならない。

残念ながら、DNA鑑定と指紋鑑定は、材料の不足によって不可能だった。「川島芳子は生きていた?」の問いに対する答えは、「おそらく処刑を逃れた」、と言う意味に置いては、骨格鑑定がすでにイエスの確率が非常に高い、という結果を出した。それ以外の、張鈺さんの記憶による再現ドラマや、遺品や歌の披露、いつくかのインタビュー、来日して李香蘭に会うなどの番組構成は、生きのびた後の川島芳子を浮かび上がらせるという肉付けの部分となろう。

この肉付けの部分は、正直言って生きのびた川島芳子を確信させるものは無かった。いじわるを言えば、遺品として提示されたものは、骨董品と言えるものである。どこにでも骨董品市場がある。私も、李香蘭の1940年代のSPレコードを2枚と1920年代製作のグラモフォン(蓄音機)を通販で買ったことがあるが、李香蘭のレコードでいえばインド製のコピーが多く出回っていて、レーベルを見ればわかる。レコードには番号が振られている。コロンビアの「蘇州の夜」は100333bである。これは番組で出てきたレーベルでも確認できた。100333aならA面で「乙女の祈り」が収録されている。今回出てきたレコードは本物である。しかしそれが川島芳子から張鈺さんへ渡された物、という証拠はどこにもない。

また張鈺さんの持っていた蓄音機は非常に珍しい物で、初めて存在を知った。大量生産品にはあのような形のものはない。旧日本海軍では、造船所などの軍需産業に、半ば強制的にほぼ決まった品の寄贈をさせていて、その目録は国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている。その目録を見ると寄贈品のトップのほうに必ず蓄音機が入っている。他には卓球用具やサッカーボール、冷蔵庫や扇風機、おもしろいものでは相撲ふんどしも必ず入っている。長い船上生活での娯楽という意味があったのだろう。

今回見た蓄音機はいかりのマークが入っており、旧日本海軍への寄贈用に作った特注品の可能性がある。これは軍に通じるルートを持った人にしか手に入らない物だと思う。これを張鈺さんが持っているというのは、彼女の親、親戚あるいはもしかして方おばあさんが、旧日本海軍関係者につながる何かを持っていた可能性を示している。

(注:2009年4月25日追記)    改めて番組録画を見て調べてみたところ、この碇(いかり)のマークは旧日本海軍の碇マークとはデザインが異なり、旧日本海軍とは無関係なことがわかりました。

Japanese_navy_mark_3  こちらは旧日本海軍が使用していた毛布に印刷された碇マーク

Photo_3こちらは張鈺さん所有の蓄音機のサウンドボックス上の碇マーク。縦棒の途中に丸いふくらみが入っている

番組では、専門家の意見として「日本の海軍専用に作られた高級蓄音機」と説明されていましたが、サウンドボックスと呼ばれる、針のついている丸い装置、をスローで何度も見たところ、「瑞康洋行」(ずいこうようこう)という印字が読めることがわかりました。「瑞康洋行」という文字を挟むようにして、「瑞商」という文字も印字されているようです。中国語でスイスのことを瑞士と表記するので、瑞商はスイスの会社という意味でしょう。他の同社の蓄音機にも碇マークが同じ位置に入っており、この碇マークは商標マークだと思われます。写真では見えませんが、上部にアルファベットの「SONATA」と印字されており、ブランド名のようです。

Photo

Photo_3この写真は16,500元(約28万円)で中国のネット通販で骨董品として売りに出ている据え置き型蓄音機の、サウンドボックスのアップ。MADE IN SWITZERLANDと印字してある。

瑞康洋行社は、1925年にイギリス国籍のユダヤ人、R.M.Josephなる人物が上海に起業したレコードおよび楽器を扱う会社です。1929年、アメリカ系の音楽関係大手、ブランズウィック社に買収されています。ということで、番組に出てきた蓄音機は、瑞康洋行社がスイスのSONATAに発注しスイスで製造され、瑞康洋行社が上海の上流階級向けに輸入販売していたものと思われます。希少価値のある品であることは確かです。

番組ではいかりのマークに注目し、「専門家によれば日本の海軍専用の高級蓄音機」とナレーションが入りました。私は正直申しあげると、このナレーションに引きずられたのと、「旧日本海軍に関係する蓄音機であってほしい。それが川島芳子と関係があったら面白い」という思いが合わさって、記事を書き進めてしまいました。あやふやな情報に引きずられた事例として、自戒をこめてあえてそのまま残しておきます。

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告すると、Josephは日本軍に逮捕され収容所に入れられやがて行方不明になりました。瑞康洋行社の洋館は、日本軍に接収され、日本軍高級将校が使用するようになったようです。現在は東湖賓館というホテルの一部として営業しています(下の写真。一般の宿泊はオフリミットの東湖賓館7号楼となっている)。

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道路向かいには当時の上海の裏社会を牛耳った杜月笙(とげっしょう)の別荘もありました。こちらは東湖賓館1号楼(ホテル本館)として一般の宿泊に利用されています。追記終わり。

ちなみに、番組で川島芳子との関係もとりざたされていた笹川良一は、上海憲兵隊特高課長の林秀澄へのインタビュー集「林秀澄談話速記録3」にも出てくる。それによれば、笹川は上海での鞄持ちとして児玉誉士夫を使っていた。児玉誉士夫は旧日本海軍に巣くって児玉機関を自称し、上海のガーデンブリッジ脇にあるブロードウェイマンションに事務所を置いていた。彼は海軍から物々交換用の物資を手にし、中国人から格安で航空機用の金属原料を調達、海軍に卸していた人物である。そしてブロードウェイマンションの最上階は、川島芳子が上海での居所としていた場所とも言われている。

余談になるが、児玉誉士夫は、戦後戦犯となっが、アメリカGHQとの何らかの取引により釈放されている。また旧日本海軍との取引で得た莫大な資産は、戦後、秘密裏に日本に持ち帰られ、自民党の前身である自由党結党の資金になったという噂もある。この辺は、実にアンタッチャブルな世界であり、日本の大手マスメディアには真相の掘り起こしができない領域だろう。

この番組で放送された一つ一つを掘り下げ行くことは、とても興味深いことだ。いくつか行われたインタビューなど、もう少し掘り下げて検証してほしい部分が多かった。この辺は、広いけど浅い、浅いけど広いテレビメディアから得られる情報の限界であろう。ヒントだけを次々と与えられる感じがして、気が急いてしまう。昨年、読売テレビが、「鄭蘋如の真実」というドキュメンタリードラマを製作した。この時も思ったが、これだけの調査にコストをかけたにもかかわらず、放送時間に収まらないのなら、テレビの枠に固執せず、文字メディアでも世に出していくべきだと思うのだが。

張鈺さん自身、中国残留孤児である日本人の母親と中国人の父親を持つ日中のハーフであった。私は、少し前に「あの戦争から遠く離れて離れて」※という、中国残留孤児の実話本を読んだ。文化大革命当時の中国の、異端的存在、つまり非共産中国的なもの、たとえば残留日本人や国民党的な存在を徹底的に弾圧してきた様子がよくわかる本だった。

この本を読むと、仮に川島芳子が替え玉によって処刑をのがれ、生きていたとして、その後の困難はかなりのものであったと想像がつく。川島芳子、こと金璧輝は日本的な存在であり、清王朝的な存在でもあり、国民党による漢奸裁判で死刑宣告されていたのに、「賄賂」によって生きのびた、という腐敗した国民党からの受益者でもあるのだ。

文化大革命的には、生きのびた川島芳子はまっ先につるし上げ、弾圧すべき存在だったはずである。彼女は生きながらにして死んでいたと言っても過言ではない。まったく表にでることは不可能であったろう。銃殺を逃れたものの、時間をかけて社会的には処刑されていたとも言える。文化大革命時代は住民同士が皆密偵のようになる。この嵐をなんとかやりすごし、1979年まで生きのびていたとしたら、替え玉処刑よりも、こちらの方が驚きだ。

替え玉処刑後の川島芳子の事実を知る立場にいた人たちは、自分の身を守るためにも川島芳子のことは口外してこなかったのだろう。真相は置いておいて、今の中国では「生きていた」とオープンに言えるようになったということである。

「川島芳子は生きていたのか?」の問に対する答えは、文化大革命後の中国の改革開放の進展によって、すくなくとも、

「処刑された」

から

「生きていたかもしれない」

へと変化しつつあるのである。

事実は一つしかない。しかし歴史は複数ある。
歴史は作られる、そういう事例の一つなのかもしれない。

「あの戦争から遠く離れて離れて」を原作とする実話ドラマが4月18日(土)21時から全6回、NHKで放送されます。http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/土曜ドラマ「遙かなる絆」公式サイトはこちら  原作が素晴らしいものだったので、おすすめです。

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2009年4月13日 (月)

川島芳子は生きていた?テレビ放送される

たまたまテレビを付けたら、李香蘭役の女優が出ており、また川島芳子の孫と自称する中国人女性も出ていた。この番組は前もって知らなかったのでもう終わりに近いところから見ることとなった。

この張さんは、日本語の「蘇州夜曲」を、李香蘭バージョンの歌い回しで歌っていた。耳で覚えた歌、という感じだった。そしてこの女性が東京に住む李香蘭(山口淑子氏)の自宅を訪ねた。日本にわざわざ古い蓄音機を持ってきていた。彼女が言うには、川島芳子は「方おばあちゃん」という名で通っていたようである。方おばあちゃんから渡されたという形見のレコード「蘇州の夜」も携えていた。この曲は1941年(昭和16年)11月に、映画「蘇州の夜」のサントラとしてコロンビアから出たレコードだ。Clumbiaの独特な赤いレーベルがしっかりと見えたので本物のレコードだろう。

川島芳子は、これを李香蘭に渡せば、全てがわかる、と言い残していたらしい。しかし、張さんがバネの弱くなった蓄音機のゼンマイを巻きながらまわすレコードを聴く李香蘭からは、特に目新しい発言はなかった。

川島芳子の生存説は1948年の処刑直後からある。つまり、もう60年もの間、生存していた、いや処刑されたと議論を呼んでいる。昨年から今年にかけてはひとつの大きな波が来ている。李香蘭は、川島芳子について、既に語れることは全て語っているのだろう。特に著書「李香蘭を生きて」ではかなり詳しく書いている。もはや李香蘭からは新たな事実は出て来ないと思う。もし語り尽くしていない事実を李香蘭が胸の内にしまっていたとしたら、今後とも公にはしないはずだ。

ひとつ、李香蘭の発言で私にとっては興味をひいた発言があった。川島芳子が李香蘭に、「オレを見ろ」だか「オレみたいにはなるなよ」だか、そのように言っていたようなのだ。これまで川島芳子の出てくるドラマでは、一人称がすべて「僕」だった。私はこれが実は結構引っかかっていた。男装をして男っぽく振る舞う川島芳子。たしかに格好はりりしい男装であるが、会話での一人称が「僕」となると、とたんにその男装がお遊びに聞こえてしまう弱さがあった。しかし、今回の李香蘭の発言からは、川島芳子は、自分のことを「オレ」とも言っていたようである。

さて、川島芳子は生きていたか?今回の番組を見てみても、結局なぞが残ったままだった。

私はやはり、益井康一が「漢奸裁判史」で書いた次の一節が全てを物語っているのかなと思う。すこし引用する。

執行官はひざまづくように命じ、やがて一発の銃弾が彼女の後頭部を貫いた。波乱に富んだ34年間の生涯を閉じた。係官の話によると、「彼女は貴婦人のように、眉一つ動かさず、誇り高く死んだ」と伝えられた。

北京の市民は、「3才の時、日本人の養女となり、日本人として育った以上、真の日本人なら誰でもするであろうことをしたまでだ」と言って、彼女に心から同情した。

彼女を惜しむ心理が後日、ちまたに、「刑死したのは替え玉で、本当の川島芳子は密かに脱走して生きている」という噂をふりまいた。

川島芳子の漢奸裁判史についての過去記事はここをクリック

※この番組に関しては、ビデオで番組を全て見てから再度投稿する予定です。

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