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2009年4月18日 (土)

「川島芳子は生きていた!」を見て

コメント頂いたcountryさんのご好意に甘えて、ビデオを送って頂き、さきほど番組を全て見ることができた。

まずもって、この番組が科学的検証を重視しようとする姿勢には共感が持てた。同時に、いい悪いは置いておいて「川島芳子は生きていた」という前提のシナリオがあからさまでもあった。「川島芳子はやはり死んでいた。」では企画そのものが通らないし、この番組の製作に入れないからそれは仕方ないところもある。

前回の記事で、孫と書いた張鈺(ちょうぎょく)さんは、よく考えてみれば血のつながりがあるはずもなく、方おばあさん、こと川島芳子に孫のように育てられた人、ということだった。この張鈺さんを最初から最後まで登場させることで、番組の芯のようなものができていて、真偽のほどはともかく、わかりやすく見やすい構成になっていた。

私が最も注目し、唯一証拠足りえると感じたのは、川島芳子の処刑写真と生前の川島芳子の写真にもとづく骨格鑑定、法科学鑑定研究所による分析である。それによれば処刑された人物と川島芳子が同一人物である確率は1%以下、ということだ。これが本当なら、替え玉が川島芳子の刑死写真として使われたとみていいだろう。しかし、この鑑定の作業工程が少しだけ番組で見れたが、プロットする点をわずかにずらすだけで、骨格ががらりと変わる。また、なによりも、替え玉刑死写真の存在は、それだけでは、川島芳子が戦後ずっと生きのびたことの証明にはならない。

残念ながら、DNA鑑定と指紋鑑定は、材料の不足によって不可能だった。「川島芳子は生きていた?」の問いに対する答えは、「おそらく処刑を逃れた」、と言う意味に置いては、骨格鑑定がすでにイエスの確率が非常に高い、という結果を出した。それ以外の、張鈺さんの記憶による再現ドラマや、遺品や歌の披露、いつくかのインタビュー、来日して李香蘭に会うなどの番組構成は、生きのびた後の川島芳子を浮かび上がらせるという肉付けの部分となろう。

この肉付けの部分は、正直言って生きのびた川島芳子を確信させるものは無かった。いじわるを言えば、遺品として提示されたものは、骨董品と言えるものである。どこにでも骨董品市場がある。私も、李香蘭の1940年代のSPレコードを2枚と1920年代製作のグラモフォン(蓄音機)を通販で買ったことがあるが、李香蘭のレコードでいえばインド製のコピーが多く出回っていて、レーベルを見ればわかる。レコードには番号が振られている。コロンビアの「蘇州の夜」は100333bである。これは番組で出てきたレーベルでも確認できた。100333aならA面で「乙女の祈り」が収録されている。今回出てきたレコードは本物である。しかしそれが川島芳子から張鈺さんへ渡された物、という証拠はどこにもない。

また張鈺さんの持っていた蓄音機は非常に珍しい物で、初めて存在を知った。大量生産品にはあのような形のものはない。旧日本海軍では、造船所などの軍需産業に、半ば強制的にほぼ決まった品の寄贈をさせていて、その目録は国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている。その目録を見ると寄贈品のトップのほうに必ず蓄音機が入っている。他には卓球用具やサッカーボール、冷蔵庫や扇風機、おもしろいものでは相撲ふんどしも必ず入っている。長い船上生活での娯楽という意味があったのだろう。

今回見た蓄音機はいかりのマークが入っており、旧日本海軍への寄贈用に作った特注品の可能性がある。これは軍に通じるルートを持った人にしか手に入らない物だと思う。これを張鈺さんが持っているというのは、彼女の親、親戚あるいはもしかして方おばあさんが、旧日本海軍関係者につながる何かを持っていた可能性を示している。

(注:2009年4月25日追記)    改めて番組録画を見て調べてみたところ、この碇(いかり)のマークは旧日本海軍の碇マークとはデザインが異なり、旧日本海軍とは無関係なことがわかりました。

Japanese_navy_mark_3  こちらは旧日本海軍が使用していた毛布に印刷された碇マーク

Photo_3こちらは張鈺さん所有の蓄音機のサウンドボックス上の碇マーク。縦棒の途中に丸いふくらみが入っている

番組では、専門家の意見として「日本の海軍専用に作られた高級蓄音機」と説明されていましたが、サウンドボックスと呼ばれる、針のついている丸い装置、をスローで何度も見たところ、「瑞康洋行」(ずいこうようこう)という印字が読めることがわかりました。「瑞康洋行」という文字を挟むようにして、「瑞商」という文字も印字されているようです。中国語でスイスのことを瑞士と表記するので、瑞商はスイスの会社という意味でしょう。他の同社の蓄音機にも碇マークが同じ位置に入っており、この碇マークは商標マークだと思われます。写真では見えませんが、上部にアルファベットの「SONATA」と印字されており、ブランド名のようです。

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Photo_3この写真は16,500元(約28万円)で中国のネット通販で骨董品として売りに出ている据え置き型蓄音機の、サウンドボックスのアップ。MADE IN SWITZERLANDと印字してある。

瑞康洋行社は、1925年にイギリス国籍のユダヤ人、R.M.Josephなる人物が上海に起業したレコードおよび楽器を扱う会社です。1929年、アメリカ系の音楽関係大手、ブランズウィック社に買収されています。ということで、番組に出てきた蓄音機は、瑞康洋行社がスイスのSONATAに発注しスイスで製造され、瑞康洋行社が上海の上流階級向けに輸入販売していたものと思われます。希少価値のある品であることは確かです。

番組ではいかりのマークに注目し、「専門家によれば日本の海軍専用の高級蓄音機」とナレーションが入りました。私は正直申しあげると、このナレーションに引きずられたのと、「旧日本海軍に関係する蓄音機であってほしい。それが川島芳子と関係があったら面白い」という思いが合わさって、記事を書き進めてしまいました。あやふやな情報に引きずられた事例として、自戒をこめてあえてそのまま残しておきます。

1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告すると、Josephは日本軍に逮捕され収容所に入れられやがて行方不明になりました。瑞康洋行社の洋館は、日本軍に接収され、日本軍高級将校が使用するようになったようです。現在は東湖賓館というホテルの一部として営業しています(下の写真。一般の宿泊はオフリミットの東湖賓館7号楼となっている)。

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道路向かいには当時の上海の裏社会を牛耳った杜月笙(とげっしょう)の別荘もありました。こちらは東湖賓館1号楼(ホテル本館)として一般の宿泊に利用されています。追記終わり。

ちなみに、番組で川島芳子との関係もとりざたされていた笹川良一は、上海憲兵隊特高課長の林秀澄へのインタビュー集「林秀澄談話速記録3」にも出てくる。それによれば、笹川は上海での鞄持ちとして児玉誉士夫を使っていた。児玉誉士夫は旧日本海軍に巣くって児玉機関を自称し、上海のガーデンブリッジ脇にあるブロードウェイマンションに事務所を置いていた。彼は海軍から物々交換用の物資を手にし、中国人から格安で航空機用の金属原料を調達、海軍に卸していた人物である。そしてブロードウェイマンションの最上階は、川島芳子が上海での居所としていた場所とも言われている。

余談になるが、児玉誉士夫は、戦後戦犯となっが、アメリカGHQとの何らかの取引により釈放されている。また旧日本海軍との取引で得た莫大な資産は、戦後、秘密裏に日本に持ち帰られ、自民党の前身である自由党結党の資金になったという噂もある。この辺は、実にアンタッチャブルな世界であり、日本の大手マスメディアには真相の掘り起こしができない領域だろう。

この番組で放送された一つ一つを掘り下げ行くことは、とても興味深いことだ。いくつか行われたインタビューなど、もう少し掘り下げて検証してほしい部分が多かった。この辺は、広いけど浅い、浅いけど広いテレビメディアから得られる情報の限界であろう。ヒントだけを次々と与えられる感じがして、気が急いてしまう。昨年、読売テレビが、「鄭蘋如の真実」というドキュメンタリードラマを製作した。この時も思ったが、これだけの調査にコストをかけたにもかかわらず、放送時間に収まらないのなら、テレビの枠に固執せず、文字メディアでも世に出していくべきだと思うのだが。

張鈺さん自身、中国残留孤児である日本人の母親と中国人の父親を持つ日中のハーフであった。私は、少し前に「あの戦争から遠く離れて離れて」※という、中国残留孤児の実話本を読んだ。文化大革命当時の中国の、異端的存在、つまり非共産中国的なもの、たとえば残留日本人や国民党的な存在を徹底的に弾圧してきた様子がよくわかる本だった。

この本を読むと、仮に川島芳子が替え玉によって処刑をのがれ、生きていたとして、その後の困難はかなりのものであったと想像がつく。川島芳子、こと金璧輝は日本的な存在であり、清王朝的な存在でもあり、国民党による漢奸裁判で死刑宣告されていたのに、「賄賂」によって生きのびた、という腐敗した国民党からの受益者でもあるのだ。

文化大革命的には、生きのびた川島芳子はまっ先につるし上げ、弾圧すべき存在だったはずである。彼女は生きながらにして死んでいたと言っても過言ではない。まったく表にでることは不可能であったろう。銃殺を逃れたものの、時間をかけて社会的には処刑されていたとも言える。文化大革命時代は住民同士が皆密偵のようになる。この嵐をなんとかやりすごし、1979年まで生きのびていたとしたら、替え玉処刑よりも、こちらの方が驚きだ。

替え玉処刑後の川島芳子の事実を知る立場にいた人たちは、自分の身を守るためにも川島芳子のことは口外してこなかったのだろう。真相は置いておいて、今の中国では「生きていた」とオープンに言えるようになったということである。

「川島芳子は生きていたのか?」の問に対する答えは、文化大革命後の中国の改革開放の進展によって、すくなくとも、

「処刑された」

から

「生きていたかもしれない」

へと変化しつつあるのである。

事実は一つしかない。しかし歴史は複数ある。
歴史は作られる、そういう事例の一つなのかもしれない。

「あの戦争から遠く離れて離れて」を原作とする実話ドラマが4月18日(土)21時から全6回、NHKで放送されます。http://www.nhk.or.jp/dodra/harukanaru/土曜ドラマ「遙かなる絆」公式サイトはこちら  原作が素晴らしいものだったので、おすすめです。

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