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2009年7月の1件の記事

2009年7月31日 (金)

テンピンルーと近衛忠麿、そして「南瓜(かぼちゃ)の花」

Photo

鄭蘋如(テンピンルー)が1940年1月に日本憲兵隊に捕らえられるまでに、彼女と協力関係にあったとされる日本人の名前が、中国の歴史研究家、許洪新氏による「一个女間諜」、日本語で言うと「一人の女スパイ」 (上海辞書出版社)に列挙されている。

以下、この本から、引用してみる。原文は中国語である。

以下引用

彼女が交流を持ったのは、当時の日本の首相近衛文麿の弟近衛忠麿、
近衛文麿が派遣した交渉代表早水親重(はやみちかしげ)、
当時重慶(注:蒋介石)との交渉機会を得ることを指令されていて、宗子良なる人物と香港で交渉した今井武夫、
陸軍特務部花野吉平ならびに三木亮孝、岡崎嘉平太、
駐上海日本軍報道部の花野慊倉(注:けんそうと読むのか、あるいは謙介などの誤りか)、
海軍諜報機関長小野寺信(注:実際は参謀本部ロシア課所属、小野寺機関長)、
日本軍上海特務機関長片山(注:花野吉平の上司だった時期がある)。

(中略)

花野を通じて知った南満州鉄道株式会社上海事務所の著名な日本共産党員中西功である。

引用終わり

以上各氏のうち、近衛忠麿、早水親重、今井武夫、花野慊倉の4人は、台湾国民政府「中調局」(中央調査統計局)所蔵の史料にも名前が出てくる。

なお、近衛文隆については許洪新氏は一つの章を設け、主に西木正明氏の「夢顔さんによろしく」を引用しながら長文を割いている。

以上の11名のうち、近衛文隆、早水親重、花野吉平、三木亮孝、岡崎嘉平太、小野寺信、片山、中西功の8名は、当ブログの過去の記事で多かれ少なかれ言及してきた。

残りの3氏、近衛忠麿、今井武夫、花野慊倉のうち、今井武夫氏は興味深い自叙伝を書かれている(「支那事変の回想」)ので、後日当ブログで記事にする予定である。日本軍報道部の花野慊倉という方はまったく手かがりがつかめない。近衛忠麿氏は、確かに検索すれば近衛文麿の弟と出てくるが、上海で和平工作に絡んだような情報はまるでつかめず、許洪新氏の何かの勘違いだろうと思っていた。

ところが先日、今井武夫の「支那事変の回想」を読んでいて、水谷川忠麿(みやがわただまろ)氏による日中和平工作の件が書かれているのに出くわした。

ここで私の中で、近衛忠麿と水谷川忠麿が即座に繋がった。こういうのは歴史を学ぶ醍醐味である。この二人は同一人物であった。4人兄弟である近衛文麿首相の一番下の弟、近衛忠麿氏は奈良春日大社の宮司である水谷川(みやがわ)家を継いで、水谷川姓となっていたのだ。以下、このブログでは水谷川忠麿として進めていく。

注目すべきは、早水親重と水谷川忠麿は、おそらく近衛文麿が個人的に上海に派遣した和平交渉人だったということだ。近衛文麿は首相在任期間、盧溝橋事件の処置を誤りその後の日中戦争にはまりこんだ、時の首相として、とても重い責任を負っていることは歴史の定説である。

しかし、私は当時の状況が,、時の首相をして停戦や撤兵が不可能と判断せざるを得なくなるようなものだったのでは?とも考える。それはシビリアンコントロールの効かなくなった、つまり操縦不能となった飛行機のような、糸の切れたタコのような日本軍、もっと言うならば、リーサルウエポンたる殺傷武器を所持した右翼系左翼系問わず各種団体のバックアップを受けた軍という「力」の存在。そしてまた、軍と大衆に迎合する報道をおこない、暴支膺懲(ぼうしようちょう:暴れる支那を懲らしめろ)というスローガンを広めた朝日新聞をはじめとするマスコミの世論操縦によって、やはり無条件での停戦、撤兵を拒否する雰囲気を持つに至った日本の庶民の存在である。

Photo 五一五事件、二二六事件という、シビリアン(文民、非軍人)にとって恐るべき、軍人による政治家殺傷事件が連続して起きた当時の日本。そしてまた、南京陥落に、提灯行列と打ち上げ花火をもって応えた日本の庶民。

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1938216 そのあげくが、「今後国民党政府を相手とせず」という近衛文麿首相の信念無き豪語となったのである。

2010年2月20日追記

当記事において、近衛文麿の「今後国民党政府を相手とせず」という1938年1月16日発言、つまりトラウトマン和平工作放棄による日中戦争拡大方針がなされたのは、文民である近衛文麿内閣が、軍部の圧力に屈したからだという意味のことを書いた。しかし、全く逆の見方もあるので、ここに併記したい。

花野吉平著「歴史の証言」P66に次のような一節がある。これによると、軍部が和平を願い、文民内閣が戦争を主張したようである。

以下引用

1938年1月15日午前、政府大本営の運命的な会議が開かれる。参謀本部すなわち統帥部を代表する多田駿一参謀次長(閑院宮参謀総長は皇族であることにより出席すべきでないとの政府の意見により列席しなかった。(注:重大な決断を迫られる場には皇族の参謀総長は責任回避したようだ)、海軍軍令部次長古賀峯一は中国側の最終回答を待つよう提案するも、交渉打ち切りを主張する政府と対立し、連絡会議は議論白熱して、午前も、午後もまとまらず、一旦休憩にもちこまれる。

会議の席上で杉山陸相(注:文民である内閣)、「期間までに返事のないのは、和平の熱意がない証左である。蒋介石を相手にせず、屈服するまで作戦すべし」と主張した。多田次長との意見の不一致をあらわにした。広田外相は、「永き外交官生活の経験に照らし、中国側の応酬振りは、和平解決の誠意なきこと明瞭である。参謀次長は外務大臣を信用しないのか」と迫り、近衛首相は、「すみやかに和平交渉を打ち切り我が態度を明瞭ならしめるを要す」と主張している。

この日の連絡会議は、政府(近衛首相、米内海相、杉山陸相、賀屋蔵相、末次内相(注:文民、シビリアン))と、大本営(多田参謀次長、古賀軍令部次長(注:軍部))の対立、陸軍省(注:文民)対参謀本部(注:軍部)の対立を暴露している。米内海相は「統帥部(注:軍部)が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任であるから政府は辞職のほかない」と言う。

夕方の休憩中に陸軍省側は、参謀本部工作をはじめ、多田次長が了承しなければ内閣は総辞職するよりほかないが、内外政況は重大であると強圧する。多田は夕刻に豹変してついに屈服したのである。堀場は、「戦争指導班の議に列すれば、内閣崩壊を賭するも目的貫徹を主張せしや必せり(注:軍部の和平交渉延長案に賛成すれば内閣崩壊を覚悟しないといけない、という意味)」と記している。翌日、15日「国民政府を相手とせず」の近衛声明が発表された。この発表の裏に、このトラウトマン工作があったのである。

このトラウトマン工作は日中政府間の和平工作としては最初で最後のものとなっている。敗戦まで諸々の工作が行われたが、それらは一部軍人その他の謀略に終わった。

それにしても、南京陥落の提灯行列に酔った国民はいざ知らず、近衛、米内、広田等が国家の運命を決する重大会議に和平の政治精神を喪失しているこの事実に唖然とする。

一般には政府側(注:文民、シビリアン)がハト派で、参謀本部(注:軍部)がタカ派と理解され、軍を背景とした統帥権の影に内閣は操られているとする批判は、この場合、この実像は何を物語っているであろうか。そこには権力を握っている醜い人間集団と、天皇を補弼(注:ほひつ=補助)する群衆と国家組織の欠陥が浮き彫りにされる。これらの輔弼にあぐらをかいているのが天皇制である。

「国民政府を相手にせず」の近衛声明は、日本のもっとも恥ずべき、また、前途を暗くした政府声明として銘記されるべきであり、長袖階級の日和見主義者近衛、決意なき決心の連続たるハイカラ紳士、自覚なき戦争責任をかいかぶることによる失敗と崩壊は次々と発生するが、近衛新体制運動はその極限である。

引用終わり

なかなか厳しい意見である。

私は、政治家近衛文麿を免罪するつもりはない。少なくとも彼は選挙で選ばれた職業政治家である。しかし、個人的和平工作員としての早水親重と水谷川忠麿の中国派遣に、文麿の本心が見える気がする。早水親重が近衛文麿の日中和平交渉人であったことは、当ブログの前記事「テンピンルーと早水親重」で書いた通りである。また、水谷川忠麿も、今井武夫著の後述の引用史料から類推されるとおり近衛の放った和平に向けての地下活動員とみなすべきだろう。

明治憲法によると、軍を管理、コントロール、統帥するのは「天皇」である。天皇は、あたりまえだが軍務については素人なので、助言、補佐、補弼(ほひつ)が必要だろうということで、陸軍参謀本部と、海軍軍令部がその役目を担った。したがって、国会や首相が軍の動きを管理しようとすると、「天皇の統帥権を犯しているぞ!」とくる。当時の軍の管理には、国民の意思の反映という面において、憲法上の限界があった。軍の管理において明治憲法は欠陥憲法である。

正攻法では和平の道は見いだせない。近衛文麿の苦肉の策が、自分の腹心である早水親重と、弟忠麿の派遣であったのではないか。そう考えると、実の長男、近衛文隆を上海東亜同文書院に就職させたのも同様に、最初から和平の糸口を掴むための地下工作を目的とした、戦略的派遣であった可能性が出てくる。確かに上海における文隆の目標は、東亜同文書院での学生主事の仕事をまっとうすることではなく、赴任早々から、重慶の蒋介石と日本の首相の直接和平交渉へ向けての地ならしへの動きとなっていた。

では当の本人、近衛文麿には、蒋介石と直接会って和平交渉をする意志があったのだろうか?これについての史料はまだ私は目にしていない。しかし、1941年7月、対米強硬派だった松岡外相を更迭して第三次近衛内閣が成立した一ヶ月後、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの8月18日の日記にこう記されている(「近衛家の太平洋戦争」近衛忠大著より)。

以下、グルー大使の交渉相手、豊田外相が語った部分を引用する。

日米間の危機を克服するもっとも望ましい方策は、共通の願いを持つ日米のリーダーが広い視野を持って率直に話し合うことだと考える。ルーズベルト大統領が同意するなら、近衛公爵がホノルルへ行き、大統領と個人的に話し合うことが極めて望ましい。首相が外国へ行くという前例が日本の歴史に無いことは言うまでもない。しかし、国内の一部に反対があることを承知の上で、首相たる近衛公爵は大統領に会う決意を固めている。

引用終わり

この提案はルーズベルトに伝わり、ルーズベルトは「ホノルルへ行くのは困難だが、アラスカのジュノー辺りでどうか。三、四日ばかり会談することが望ましい」と述べているようである。残念ながらこれは米国務省の慎重論、あるいは米国内開戦派の暗躍があったのか、幻の日米首脳会談となってしまった。しかし文麿に日米首脳会談の腹づもりがあったわけであり、日中間でもそのような覚悟があったと考えることに無理はないだろう。

ここまでの文脈でテンピンルーと文隆の出会いについて再考すると、これはむしろ近衛文麿側が求めての結果にも感じる。文麿は文隆の上海派遣前からテンピンルーの存在を知っていたのではないだろうか。文麿の腹心早水親重とピンルーは同じ小野寺機関に属していた。早水親重は文麿に適時報告を入れていたはずである。

あるいは、もう一つのルートとして、花野吉平を上海に送り込んだ尾崎秀実(おざきほつみ)を経由し、尾崎をブレーンとして使っていた近衛文麿へ、というルートである。花野が上海で属していた特務部思想班は、尾崎秀実の進言でできた組織だ。尾崎の中国情報収集機関という裏の役割があったようにも思う。ちなみに、尾崎秀実は、ピンルーが憲兵隊に捕まったときに、助命嘆願運動に一肌脱いだという大胆な説もある(政治部記者永松浅造は著書「ゾルゲ事件」の中で、尾崎が知人の新聞記者に頼んで、ピンルーは釈放が当然だ、という内容の投書を偽名で掲載させたという)。

いずれにせよ、ピンルーの存在が近衛文麿に伝わっていた可能性は高いように思う。近衛文麿が、日中の和平に役立つのならと自分の息子と会わせてみようと思ったというのも、まったく無いわけではないだろう。

中国側の定説では、テンピンルーは、近衛文隆の持つ機密情報を収集し、CC団のメンバーに提供するために、早水親重の紹介を得て文隆に接触した、というものだ。しかし逆に近衛文麿の秘密裏の和平工作の中で、文麿系の地下活動員である早水親重や水谷川忠麿らの計らいで、ピンルーと文隆が出会った、という見方もあり得ない話ではないだろう。日中の和平に燃えるこの若い二人を会わせることで、何らかのポジティブな化学反応が起こらないとも限らない、そんな思いがあったのだとしたら面白いなと、大胆に想像させてもらった。

さて、以下は、史料として、水谷川忠麿(みやがわただまろ)の昭和19年の和平工作についての文章で、今井武夫の「支那事変の回想」より引用する。

以下引用

 昭和19年12月になって、佐藤賢了少将が、支那派遣軍総参謀長として、東京から赴任してきた。(中略)

 彼は東京出発に先立ち、前総理大臣近衛文麿の実弟水谷川忠麿の訪問を受け、何世楨(かせいてい)を通じて行う対重慶和平路線について協議を受けたが、総司令部へ着任後、南京の現地で詳細打ち合わせすることを約した。

 何世楨は国民政府の司法部次長の経歴もある人で、当時上海に在住し、浙江、福建両省を防備していた、重慶国民政府軍の中国第三戦区司令長官、顧祝同(こしゅくどう)上将と密接に連絡した国際事情研究所の関係者と伝えるものもあった。

 何世楨はこの年の秋、重慶国民政府から派遣されたと称する徐明誠(じょめいせい)を、水谷川らに紹介したが、徐は日華和平に関する重慶政府の条件なるものを、政府の正式意向なりとして提案した。

 その内容は、

1,日本は天皇の親政とする
2.満州事変以来の戦争責任者を罰する
3.日本軍は中国から全面的に撤退する
4.日本が前記3条件の実行を同意する場合に限り、重慶国民政府は日本との和平交渉に応じる

というものである。

 水谷川は、満鉄経済調査局の土井章とともに、この会見談を近衛文麿に報告し、近衛の指示で、時の外務大臣重光葵に2回にわたって報告した。重光はしばらく情勢を静観する必要を力説し、当面の処置として、中国側との連絡のため、土田豊参事官を上海に常駐させると称した。

 この頃の日本政府は最高戦争指導会議において、対重慶和平工作は挙げて南京国民政府(注:汪精衛側政府)に一任し、同政府をして実行させることに決定した直後である。重光が動かず、静観を主張したのも、恐らくこの政府決定があったためではないかと思われる。

 佐藤の南京着任後、土井は水谷川、佐藤の前約に従い佐藤を訪ねたが、佐藤の依頼で、当時一緒に総参謀副長をしていた私が、土井と面会することとなったので、私もまた、当時の政府決定にもとづき、総軍の対重慶和平工作を一切厳禁されていたため、やむを得ず、この工作を当分静観するほかなきことを述べた。

  これがため、水谷川や土井は大いに失望し、総軍司令部の無理解を憤ったかもしれないが、私としてはこの種の工作の必要を認識しながら、本工作の緻密な内容を詳細に知るを得ず、真価を判断出来かねた以上、特に政府決定のらち外に行動することを許されず、他に仕方のない回答であった。

 その後水谷川は、軍からそれとなく上海退去を求められたそうであるが、もちろんこれは全く私のあずかり知らぬことであった。何しろ当時は一般に重慶との連絡といえば、反戦行為で、国家に対する裏切りのように単純に思われがちな時代であったから、重慶工作の事実が血気の軍人に知れわたれば、誰がそういう越権行動をとったかも知れぬことは、この種の工作に従事した私自身がかつて体験した種々の現状から考え、あり得ぬ事態では無かったと反省される。

 そればかりでなく、水谷川等が東京から、改めて上海に到着した時には、既に徐明誠も重慶に帰還し、上海で連絡出来かねたから、結局この工作も中断のやむなきに至り、水谷川も内地に引き上げてしまった。

 (後略)引用終わり

 

以上の引用により、水谷川忠麿が、重慶側(蒋介石側)交渉人との会談内容を近衛文麿に報告し、文麿の指示で時の外務大臣に伝え、和平に向けて国を動かそうと行動していたことが伺える。上の引用の中に、土井章と出てくるが、彼の名前に少し記憶があって当ブログ前記事「テンピンルーと早水親重」を読み返したところ、早水が「近衛文隆追悼集」に寄せた一文の中にも出てきていた。そしてそこになんと水谷川という名字も書かれていたのである。忠麿という下の名前が書いてなかったので、許洪新氏の言う近衛忠麿、つまり水谷川忠麿と繋がらなかっただけだった。これで早水親重と水谷川忠麿(近衛忠麿)はペアで日中和平に向けての地下活動を行っていたことが明らかになった。

水谷川忠麿はいったいどんな職業についていたのだろうか。春日大社の宮司を継いだ、というのはわかった。さらに少し調べてみると、1937年に、第一次近衛文麿内閣の賀屋(かや)大蔵大臣の秘書をしていた。また1945年9月の敗戦直後の第88回臨時国会で貴族院議員として名を連ねてもいた。政治家秘書から議員へというコースは恐らく兄であり首相であった近衛文麿の導きがあったのだろう。文麿は1938年、長男文隆を自分の首相秘書官として用い、帝王学を伝えた。しかし文隆は1939年テンピンルーとの一件がきっかけになり政治家の道を閉ざされた。文麿は、この異母弟、水谷川忠麿を文隆の代わりに政治家として育てたかったのかもしれない。

さて、水谷川忠麿はいくつかの著書を書いている。1942年1月出版のエッセイ集「南瓜の花(カボチャの花)」を紐解くと、彼が中国に滞在していた時のことに少しだけ触れていた。下記引用する。

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引用開始

「南瓜(かぼちゃ)の花」 水谷川忠麿

 いつも訪ねる天津(てんしん)のS翁は四川の生活が長かった人で、その家の食卓で出される四川料理は、他のどこでも味わえない風味がある。一体に野菜が多く使われているのが一つの特徴のようである。

 一度だいだい色の軟らかいものの揚げたのを出されたことがある。

 淡黄の衣の中に、だいだい色の中身が光っているのが美しく、口にするとそのだいだい色が極めて軟らかく、噛みしめると新鮮な野菜特有の甘みがある。

 食えどもその味を知らずで、度々箸を運んでみたが、ついにその正体がわからぬので、主翁に尋ねてみると、それは南瓜の花で、四川料理では常に用いる。そして裏の畑に咲いたのを採ったのだと言う。

 道理で新鮮な甘みがあった。がしかし南瓜の花を食べるのは初めてである。

 それにしても揚げてあるのでよくわからないが、南瓜の花にしては少し小さい様である。支那の南瓜は花が小さいのであるか、あるいは大きい花の一、二片の花弁をちぎってあるのかわからないが、もしか言葉の不自由からきゅうりか何か他の瓜の花の間違いではあるまいかとも思って、聞き直して見たが、結局要領を得なかった。

 帰って一度試してみようと思いながらつい怠っている間に、もう南瓜の花もなくなりそうな季節になっている。 

引用終わり

かぼちゃの花の唐揚げ、一度食べてみたくなるようなエッセイではある。このエッセイ集は1941年末より以前の忠麿の日常体験をもとに書かれている。彼は少なくとも一時期、中国に住んでいたことがわかる。テンピンルーの生きていた時代、1939年当時に忠麿が上海にいてもおかしくないことの裏付けとなろう。

以上で、「テンピンルーと近衛忠麿」を終わります。

 

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