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2009年8月21日 (金)

「近衛家七つの謎」より

工藤美代子氏というノンフィクション作家の書かれた「近衛家の七つの謎」を読んでみた。この作家は皇室ファンと見えて、少々皇室、近衛家擁護の筆致が過ぎるところがあるが、日本語文献としては久しぶりに鄭蘋如(テンピンルー)について言及された本であるので、非常に期待しながら読ませてもらった。第五章で「長男・文隆とハニートラップの謎」という章を設けて、ピンルーと近衛文隆の関係について書かれている。

この第五章の要旨は、「文隆はあえてピンルーを利用した」という、私がこのブログで前回まさに記事にした内容に近いことが書かれていた。日本人としては誰でも、「そうあってほしい」、と思う部分なのかもしれない。これは日本人だからこその歴史の見立てであって、中国人の見立てであるピンルーは純粋な抗日烈士、スパイとして、近衛文隆を誘惑し情報ソースとしたという説とはまた違った角度からの説である。

ただ、工藤氏はこの章の最後をこんなふうに結んでいる。

以下引用

 

テンピンルーと文隆の関係は、今日いわれる「ハニートラップ」だった、というのがこれまでの通説だった。文隆がテンピンルーの色香にはめられた、との解釈がなされてきた。
 だが、小野寺機関との関係などを仔細に見れば、文隆の決意はそれとは逆で、テンピンルーの立場を利用しつつ、蒋介石と対話の糸口を掴もうとしたのだ、という事実が判明した。
(後略)

引用終わり

最後を「事実が判明した」と表現されている。これはどうかと思う。工藤氏の歴史の見立てであって、それは確かに私の見立てとも非常に近いものがあるが、私は100%事実とは確信できていない。それだけの史料が無いのだからそこには類推が入る。その類推は、自分のこうあってほしいという思い、自分の人間力を総動員した想像から絞り出される。それが歴史の見立てであって、歴史は歴史を書く人の数だけあるゆえんである。事実は決して判明していない。

工藤氏は、同じくノンフィクション作家である西木正明氏の書かれた「夢顔さんによろしく」を、「事実と誤認させるような書」、というように批判されている。私に言わせれば今回の工藤氏の著書の方がむしろそのうような感じである。なぜなら、西木氏の著書は最初から小説として書かれている。工藤氏の今回の著書はテレビで言うドキュメントドラマのように、小説部分に加えて、史料の引用を豊富に使い歴史資料としても読ませる構成になっているからだ。

工藤氏のこの著書が、テンピンルーと近衛文隆の関係についての参考本の一つとして今後使われることは確かであろう。余計なお世話とは承知ながらその価値が高くなることを身勝手な目的として、文隆とテンピンルーの出てくるこの第五章に限り、誤りを指摘しておく。ことわっておくが、近衛文隆とピンルーをさらりと知っておく上では、大きな誤りではなく、出来ればこう書くべきだったというものである。

では、順に指摘していく。まずは簡単に、道路の名称、方角についてからである。上海の主要な道路名は、1943年6月30日に日本が汪精衛国民党政府へ共同租界返還を行った前と後では名称が違う。返還後になって付けられた名前は現在まで使われている名前である。工藤氏は新旧がごっちゃで、方角がなぜか90度違うことが多い。

P205 
「外灘を東西に走る中山東一路海岸に面した・・・」

は、

「外灘を南北に走る黄浦灘路(現中山東一路)河岸に面した・・・」

とすべきである。道路の方角が90度間違っているだけでなく、外灘(ワイタン)は海岸ではなく、黄浦江という川に面しているのである。

P206
「その時、上海税関ビルの一区画東寄り南京東路との交差点にあるサッスーンハウス・・・」

は、

「その時、上海税関ビルの一区画北寄り大馬路(現南京東路)との交差点にあるサッスーンハウス・・・」

とすべきである。方角が90度間違っている。私が道路を気にするのは、これらの本を参考にしながら上海を歩き、昔をなぞってみる歴史ファンがいるからである。なお上海の新旧の地理を知る上で絶対に外せない本は、木之内誠氏著「上海歴史ガイドマップ」である。

Photo_4
(上は黄浦江対岸から見た外灘(ワイタン)のビジネス街。中央左よりのひときわ高い尖塔を持つ建物が上海税関、その少し右(北側)の三角屋根がサッスーンハウス。クリックすると大きくなります)

次に上海の租界について。

P206
「上海には早くから英米の租界が一等地の外灘にでき、さらにフランス租界、日本租界、共同租界があった。十二年八月に始まった第二次上海事変以降は、事実上日本が上海の主要部分を支配していたといえる」

とある。

ここでの誤りは二点ある。まず、上海に日本租界は無かった。上海租界とは中国政府と正式に土地章程を結んだイギリス租界(のちにイギリスとアメリカの共同租界とした)とフランス租界の二つである。俗に言う日本人租界、日本人地区は、日本人が自然と多く住むようになり、日本領事館警察の巡回地区だった虹口(ホンキュウ)地区であるが、ここはあくまで共同租界の中の一部である。共同租界は工部局という行政庁が統治していた。工部局はイギリス人5名、アメリカ人2名、日本人2名からなる参事が議員のような形で選挙で選ばれ住民代表となっていた。常にイギリスが多数決で勝つことになっており、共同租界はイギリスとアメリカが支配する租界である。

ちなみにこの上海共同租界は、1943年6月30日、南京市において日本政府と汪精衛国民党政府の間で、租界返還の調印がおこなっており、アヘン戦争以後の欧米支配から中国側への解放が果たされている。

二つ目の誤りであるが、1937年の第二次上海事変以降も、日本は上海の主要部分を支配することはできていなかった。上海の主要部分は外灘(ワイタン)と言われる、黄浦江沿いのビジネス地区と、南京路から静安寺路にかけての商業地区である。これらの地区は共同租界の中心地区である。第二次上海事変に勝利したものの、日本はガーデンブリッジ北側の虹口地区を除き、主要地区に対しては相変わらずなんら支配権も有していない。これら上海主要部およびフランス租界地区をも含めて日本が支配力を持ったのは、英米に宣戦布告し、即日武力接収した1941年12月8日以降のことである。

(参考:「ドキュメント昭和 上海共同租界」 角川書店)

次に、蒋介石の私的地下組織、親衛隊であるCC団と蘭衣社に付いての誤りである。

P220

「通称CC団と呼ばれており、組織的には蘭衣社の支配下にあるものの、事実上は国民党の推進エンジンだった。 蘭衣社のボスは戴笠(タイリュウ)といい、上海にはめったに顔を出さない。 CCとは、戴笠のすぐ下で地下組織の実験を握っている陳果夫と陳立夫兄弟の両陳の頭文字からとったものといわれている」

P226

「一つが蒋介石、すなわち重慶政府が裏にいる政治団体蘭衣社と、その武装組織であるCC団や三民主義青年団です」

ここでの誤りであるが、CC団は蘭衣社の支配下にはなかった。蒋介石はこのふたつの組織をあえて並立させていた。蘭衣社は、軍事委員会調査統計局、略して軍統系の情報組織で戴笠(タイリュー)をボスとし、日本の軍事情報収集と対日協力者の摘発を担当していた。


一方、CC団は国民党の組織であり、正式名称は国民党中央執行委員会調査統計局である。ボスは陳立夫と陳果夫兄弟で正しい。主として共産党情報の収集と対日協力者の摘発を担当していた。蘭衣社が軍出身の武闘派であるのに対し、CC団はどちらかというとインテリ派である。

また、CCというのは、陳兄弟の頭文字ではない。中央執行委員会調査統計局の前身である中央倶楽部の英語名であり、Central Clubの略称である。

(参考:岩谷将著「蘭衣社・CC団・情報戦」)

P227

「丁は小男で異様な顔をしています」

丁黙邨の見た目のことである。工藤氏の誤りというよりは、調査不足としておく。他人の容姿を云々言うには慎重がもとめられる。工藤氏がこう書いたのは、犬養健著の「揚子江は今も流れている」に書かれている次の一節を信じたからだろう。

「私は随分多くの人を知ったが、この丁のような異様な容姿の持ち主にはかつて出会ったことがない」

犬養だけなく、影佐機関側の人間は一様に、丁黙邨の容姿、性格を異常に悪く書いている。これにはある意図が隠されていると私は見ているが、それは後の記事とするつもりである。丁黙邨の性格は私にはわからない。しかし丁黙邨の写真を見ると、こと容姿に関しては、別段異様とは思えない。漢奸裁判史 丁黙邨2の記事 に載せた写真を見て皆さんには判断頂きたい。

P229

「ですが、上海には「梅機関」と「七十六号」を正面切って支える陸軍憲兵隊がつねに目を光らせ、われわれの仲間はしばしば反国家的だとして逮捕、拘束、追放されているのが現状です」

時間の前後の誤りである。ここは小野寺機関長、小野寺信が初対面の近衛文隆に語る言葉として書かれている。したがって1939年2月か3月初頭のころである。「われわれ仲間・・・」というのは、文脈からすると小野寺機関員だった早水親重、武田信近のことを言っているはずだが、彼らが逮捕、拘束されるのは1939年6月から7月のことであり、時間の前後が逆になってしまっている。文隆が小野寺機関と行動を共にし始めた頃は小野寺機関は大手を振って活動することができたのである。

(参考:「林秀澄談話速記録Ⅲ」)

P234

「ええ、父は鄭鉞(ていえつ)といい、日本の大学で法律を学んで帰国し、上海高等法院の主席検察官でした。いまは重慶にいますが。母の本名は木村花、でも中国では鄭華君と名乗っています。二人は下宿で知り合ったようですわ。私が東京で生まれたのは1918年、大正七年になりますか?」

ピンルーが文隆に会って自己紹介している場面である。ここでの誤りであるが、ピンルーの父親、鄭鉞はピンルーと文隆が会った1939年に重慶に住んではおらず、上海在住である。また、ピンルーが生まれたのは中国側の従来の定説1918年ではない。1914年である。1916年後半から1917年1月の間に家族は東京から上海に渡ってきている。また、母親の日本語名の下の名前は「花」ではない。茨城県真壁の木村家の戸籍簿では、ひらがなの「はな」となっている。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

P236

「テンピンルーは小野寺機関とかなり関係をつけているように思われた。彼女の口から小野寺機関で動いている早水、吉田、武田、花野というような名前が頻繁に飛び出してくる」

花野は花野吉平のことだろうが、彼は小野寺機関で動いていない。中支派遣軍特務部思想班の特務部員である。工藤氏は花野が小野寺の指示のもとで活動しているように書いているが、花野は全く独自に活動していた。特務部を出て花野とは別行動となり小野寺機関で動くようになったのは、早水親重である。テンピンルーを知る上で、花野の活動を小野寺機関と切り離して見ることは、実はかなり大切なことである。

(参考:花野吉平著「歴史の証言」)

P254

「後年の史料によれば、テンピンルーと「76号」の丁黙邨は、かつて中学校時代の恩師と生徒という関係であったことが分かっている」

 民光中学校(6年制)時代のことであるが、確かに丁黙邨は校長をしていたことがある。ピンルーはある時期ここの学生であったが、丁黙邨の漢奸裁判での供述では丁黙邨は、大勢いる中の一学生であったピンルーを知らなかったと答弁している。恩師と生徒というのには無理がある。校長と一学生であり、決して知り合いではなかったのである。そこを工藤氏は「恩師と生徒という関係であったことが分かっている」と断定している。それは少し言い過ぎである。蔡徳金著「汪偽特工総部口述秘史」によると、憲兵隊の藤野少佐がピンルーに丁黙邨を紹介したとある。この記述も実は見逃せないものの一つである。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

「文隆が去った後のテンピンルーはいっそう激しい活動を開始し、その丁の愛人となってクリスマスの晩、暗殺を仕掛けるが失敗する。巻き添えになった通行人の多くが死亡するなか、かろうじて脱出した丁の背広のポケットに一枚の名刺が入っていた。名刺にはテンピンルーの文字で、「成仏」と走り書きがしてあった。(「漢奸裁判史」)」

これに関しては、工藤氏の誤りというより、引用が適切ではなかったということだ。引用図書名が書いてある。この「漢奸裁判史」は私も購入して読んだが、この引用部分のそのまた引用元はかの有名な晴氣慶胤(はるけよしたね)の「謀略の上海」である。この影佐機関員である晴氣の恣意的文章がどれだけ後年の著者を惑わしていることか。ピンルーの絡んだ丁黙邨暗殺未遂事件の翌日の上海新聞各紙は、「幸い死傷者はゼロ」と大きく報道している。通行人の多くが死亡というのは晴氣の誤解、あるいは嘘である。「ピンルーの起こしたテロによって、罪のない中国人市民が多数亡くなった。テンピンルーとはとんでもないテロリストである」、という印象操作を図った可能性がある。

そしてなによりも、事件に関係したと真っ先に疑われるであろうピンルーが、いったいぜんたい、自分の名刺に「成仏」などと自筆で書いて暗殺相手の背広のポケットに入れるだろうか。暗殺が暗殺で無くなるではないか!この晴氣慶胤に限らず、テンピンルーについての元影佐機関員や元憲兵による戦後の恣意的、誘導的文章は、逆にテンピンルーの処刑について、彼らに後ろめたい気持ちがあったことの表れだと私は思っている。

P254

「二十一才の短い生涯だった」

これはピンルーの亡くなった歳を言っているが、彼女は満25才、数えで26才で亡くなっている。

(参考:許洪新著「一个女間諜」)

以上、細かな点ばかりを指摘させてもらった。冒頭に書いたように、このブログ記事の趣旨は工藤氏の著書の資料としての価値を補完するのが目的である。近衛文隆がテンピンルーの地下工作に一方的にひっかった、という従来からの定説に疑問を呈する、という趣旨においてならば、私は工藤氏と同じ意見である。ただし、将来私がブログ記事にする予定でいる「ある仮説」においては、重要な指摘をさせてもらったことも確かである。

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