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2009年8月22日 (土)

「堀田善衛(ほったよしえ)上海日記」より

Photo_3 日本敗戦直後、国民党の旗の打ち振られる上海を人力車で行く李香蘭(DVD「李香蘭」角川映画より)



2008年11月24日のブログ記事「李香蘭の収容場所」 の続きである。書きかけでそのまま放置してあったのだがここに掲載しておく。

日本の敗戦時に上海にいた堀田善衛の日記から少し。

1945年10月24日の日記より
阿媽(アマ。賄い婦)階級までが、戦には勝ったけれど、よいことは一つもない、物価は高くなる一方で苦しいばかりだ、つまらないと言っているらしい。日本人の屋台に中国人がたくさんたかっているのは、物珍しいだけでなくて、やはり彼らもまた何とかしなければならぬ事態に達しているからかもしれない。何しろ勝ったけれどもちっともよいことがない、これはどうしたことだという反省があるらしいことはたしかだ。この状態は共産党のつけこむところになりはせぬかという論もあるらしい。

Photo_5 日僑の腕章を付けて舞台衣裳を売りにガーデンブリッジを渡る李香蘭(DVD「李香蘭」角川映画より)

1945年12月4日の日記より
菊池氏のところでの話に、新市街、フランス租界などには打倒蒋介石 日僑歓迎などという共産軍らしいビラがはってあるという。(注:日僑(にっきょう)とは日本人収容者のこと)(引用終わり)

これは見事に将来を予見している。中国は戦勝国ではあるが、蒋介石国民党政権は戦後統治の準備が整っておらず、経済が混乱をきたし、人心が離れつつあったようである。彼の別の書籍からは、延安の中国共産党の新聞に「惨敗」ならぬ「惨勝」との文字があったようだ。


虹口に収容されている日本人は商魂たくましく、いろんな屋台を出していて、そこに中国人が買い物に来ていたようである。そんな状況に、共産党が徐々に浸透してきていたようだ。日僑歓迎という共産党ビラからは、戦後に日本を取り込もうという共産党の国際戦略がかいま見える。


1945年12月21日の日記より
大平さんの話によると、杭州のの「槍」(注:武装集団)が全部CCに行ったという。これは大変なことだ。北支サカヒ中将(注:坂井中将か)の軍団も行ったというし、これがもし武装解除という名目でアメリカの中共援助の口実になったとすれば、我々さまよえる日僑の運命もますます悪化するであろう。(引用終わり)

テンピンルーも一時関係していた上海のCC団(蒋介石国民党の地下工作団)は、ジェスフィールド76号によって壊滅的な打撃を受けていたが、中国全土でみたら組織として終戦後も残っていたようである。また、「サカヒ中将の軍団も行った」というのは、山西省の日本軍の将兵2600名あまりが武装解除されずに蒋介石国民党の軍閥に組み込まれ、共産党の人民解放軍との内戦に巻き込まれた史実を言っている。この戦後の戦争によって亡くなった日本兵は少なくない。

アメリカはこのころ中国共産党を驚異とは認識しておらず、戦争中は蒋介石国民党を援助していたのが一転して共産党を援助するようになっていた。蒋介石の独裁的な政策運営に不信感があったようである。日本の占領政策もそうであったが、アメリカは途中から共産党弾圧に変化していく。

中国大陸での国共のつばぜり合いは、戦後の日本を自陣営に取り込もうとする静かな戦いとなっており、それが大陸に取り残された日本人にとって生命の保証に役立ったことは間違いないだろう。

中支派遣軍特務部で経済を担当し、テンピンルーの弟南陽とは囲碁仲間でもあった岡崎嘉平太(戦後は全日空社長)によれば、蒋介石は終戦後の日本人の扱いに対して、「以徳報怨」つまり、「徳をもって怨に報いる」と宣言したという。この言葉は実際に実行され、思いの外、中国大陸に取り残された日本人は敗戦に伴う迫害を受けていなかったようである。満州からシベリアに集団で拉致をされた抑留日本人とは際だった違いとなった。

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