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2009年10月17日 (土)

テンピンルーの兄弟について少し

「一个女間諜」(一人の女スパイ)許洪新氏著より、ピンルーの兄弟姉妹について書かれた章から少し引用する。

0018 長女、真如(左の写真)は、バイオリンの演奏が得意で、また、魏碑(注:魏の国の時代の碑文文字のことと思われる)の書が上手だった。彼女は比較的おとなしい性格だった。

0019 ピンルーの弟、長男海澄は、日本柔道に精通していた。彼は人助けに活躍することが多かった。ある日同級生と海水浴場で泳いでいると不意に大波が来た。同級生がおぼれかけると危険を省みず救ったことがあった。

中略

1916年10月28日生まれ。1936年秋に弟南陽と日本に留学。名古屋飛行学校入学。日中戦争勃発後、日本政府は中国人留学生の帰国を禁じた。彼は同級生からの監視を受けることになった。彼の帰国は中国空軍軍人が一名増え、日本側が一人減ることを意味することは彼にも分かっていた。

母親木村はなは、子供を取り戻すことを決意。船長を賄賂で買収、親として日本に行くのだと言って船に乗り込んだ。ある日、子供達を郊外のピクニックに連れ出した。監視任務にある同級生を安心させるため、海澄は全ての荷物を置いて、身一つで帰りの船に乗り込み、1937年10月、無事帰国した。

中略

帰国してすぐ結婚。新婚早々、香港経由で昆明に移動。国民政府中央航空学校第11期駆逐科に所属した。日本の血統があり日本から帰国したということで、入校の審査は時間がかかりかつ頻繁であった。ここで彼の受けた精神的な痛みは相当だった。

彼は姉ピンルーに一通の手紙を出している。それにはこう書いてあった。

「(日本の血統だということで)給料がまたもらえそうにありません。こうなったら、きっぱりと陸軍にでも入って、日本軍と一戦まみえる必要がありそうです」

彼は空軍の任務中に重傷を負い、1944年1月19日亡くなった。遺体は重慶黃山航空烈士陵園第54号に埋葬された。

0026_2

次男南陽は、囲碁が得意であった。13,14才のころ、段祺瑞と対戦、その後は当時中国で著名な棋士陳祖徳や、中日民間貿易の第一人者岡崎嘉平太(注:全日空社長歴任)らが彼の囲碁仲間となった(注:花野吉平ら多くの日本人が彼の囲碁仲間になっていたようである)。段祺瑞は言った。「これだけの才能のある者は長生きはしないものだ」。南陽は1919年生まれ。2003年にアメリカで84才で亡くなっている。これは長生きというものだろう。


0020_2 一番下の妹(左の写真)、天如は、歌、踊りが好きだった。筆者(許洪新氏)は彼女の成績表を見る機会があった。音楽が98点だった。全般にすぐれ、体育も甲だった。万宜坊内には著名な画家、張充仁がおり、天如は彼の絵画教室「充仁画室」の弟子となった。性格は明朗、狩猟も好きだった。
(一口メモ:張充仁はベルギーの漫画「タンタンの冒険 青い蓮」の共同制作者。張はベルギーのブリュッセルに留学しており、1930年代前半の上海の状況や風景、町並みを作者エルジェに教え、エルジェはベルギーに居ながらにして、上海での冒険劇を描くことが出来た。張充仁本人も、この作品の中の洪水に流されそうになった場面で、タンタンに救われた少年チャン・チョンジェンとして登場する。上海の街並みや路上の人物など、エルジェのタッチと違う絵が多く、これらは張充仁が描いたものかもしれない。張は上海時代はミッションスクールに通っていたらしく、もしかしたらピンルーと同じく大同大学付高に通っていたかもしれない)

中略

彼女は学校で、「小東洋」(シャオトンヤン。トンヤンは、東洋の悪人の意味)と呼ばれていじめられ、不意に石が飛んできて頭に当たることがあった。先生までもが筆で頭を叩いた。母親は天如が泣いて帰ってくるのを見ても何も言うことはできなかった。木村はなはある日、ベランダに立っていると、突然シャーという声とともに、左腰に射撃を受けた。服は破れ血がにじみ出てきた。家の向かい側はそう遠くない。子供がいたずらで、「日本鬼子婆」と言って空気銃を撃ったのだ。母親は孫と子を急いで部屋に入れ、ベランダに行かないように言うしかかなった。

中略

天如は日中戦争後期のある日、兄海澄のいる内陸の航空部隊を訪れた。

彼女は美人だったため、プロポーズをしてくる男性が多かった。彼女は条件を出した。日本軍の飛行機を一番多く撃ち落とした人が私にプロポーズしてくださいと。この条件を満たしたのが、後に彼女の夫となった舒鶴年(じょかくねん)氏である(注:彼は日中戦争後の中国共産軍と台湾国民党軍の空中戦で台湾空軍として活躍し勲章を得ている)。

中略


引用終わり

長女真如は、かわいそうなことに、男子倍倍(べいべい)を生んだ後、産後の肥立ちが悪かったのか病気で亡くなっている。日本人地区の虹口(ホンキュウ)にあった日本人経営の福民病院で治療を受けていたようである。

長男海澄と次男南陽を比べると、海澄がどちらかというと正義感のあふれる体育会系、南陽は学究肌だったようだ。海澄は当時エリートしか入校できな かった名古屋飛行学校へ中国人留学生として入校し、パイロットとして養成され優秀な成績を残している。また柔道もこの頃習っていたようである。海澄は帰国後のつかのまの新婚生活で子供が出来たようだ。それが彼の息子、鄭国基氏である。上海郊外に今でも在住しており、映画「ラスト コーション」以来、多くの マスコミのインタビューに答えている。

次男南陽は、医者を目指して日本に学びに来ていた。まず日本語習得のために成城学校に入学した。大好きな囲碁は日本で覚えたのだろう。中国帰国後は 日本が満州に作った南満州医科大学でも研修したことがあり、戦後の上海で開業医となった。その後おそらく母親木村はな、妹天如と一緒だった思われるが、共 産中国建国時に台湾に移住。最終的にアメリカに渡っている。1993年8月に台湾新竹市で行われた模範的父親表彰大会に鄭南陽の名前があるが、本人だろう か定かではない。

一番下の天如は、母親木村はなの世話をずっとやいてきた。共産中国となる混乱の時期に国民党とともに台湾に渡っている。現在もロスアンジェルスに健在である。性格的にはピンルーに一番似ているようだ。芸術的な才能があるようだし、美人で自己主張もしっかりする女性だ。

天如が受けたいじめの実態は具体的だ。これは木村はなに育てられた孫、鄭国基氏が、直接はなから聞いた話だろう。また海澄も中国空軍でだいぶ差別に苦労していたようだ。

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