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2010年1月30日 (土)

上海防空戦 2 

Photo_9(新ホーク カーチスホークⅢ)

一方の日本海軍は、8月8日、96式中型攻撃機18機を、九州鹿屋(かのや)基地から台湾へ向けて離陸させた。台風の近づく中、各機ちりぢりになりながらも、無事に台北松山基地に進出した。

8月9日、上海の海軍陸戦隊、大山中尉が、密かに上海西郊にある中国軍の虹橋空軍基地を偵察するため車で通行中、突然中国側に射殺される事件が発生した。これを中国側の挑発と受け取った日本側は激怒、上海の日中両軍は、引くに引けない所まできていた。北京周辺ではすでに戦闘状態にある。しかし、宣戦布告はなされておらず、決して戦争ではない。盧溝橋事件であり、北支事変である。しかし事変と戦争の区別は、もはや誰にも分からなくなっていた。この北支事変は、人々の知らぬ間に日支事変と呼び名を変え、ずるずると日中戦争になっていったのである。

8月10日、日中両航空隊とも、上海市街地に展開する地上軍の援護と、相手基地襲撃の準備にやっきになっていた。特に中国陸軍は、上海周辺にドイツ軍の指導によるトーチカ陣地を要塞のごとく造成しており、それは5年前の第一次上海事変敗北の直後から着々と準備していたものだ。数日以内に開戦を迎えるであろう、この二度目の上海決戦を、今か今かと待ち望んでいた。蒋介石には勝算があったのだ。

8月12日未明、中華民国陸軍は、上海虹口の日本人地区の包囲陣を徐々に狭めていた。取り囲まれていると知った約3万人の日本人居留民は、不安が頂点となりパニック状態となった。我先に脱出しようと埠頭はごった返した。船に乗れない者のうち、一部は知人を頼ってピアスアパートなどの比較的西洋人が多く住む建物に避難した。第三国人が多く住む建物なら攻撃されないだろうということである。身よりのない者は、日本人学校や、東西の本願寺に避難した。

8月13日、上海商務印書館に陣地を作っていた中華民国陸軍がしびれを切らし、日本軍陣地へ機関銃を発砲。ついに地上戦が始まった。日本海軍第三艦隊司令長官の長谷川長官は、台北の海軍第一航空連隊と空母加賀、空母鳳翔などの艦載機に出撃命令を出した。ただし、その日は、超大型台風の余波による乱流により、一機も飛べるような天候ではなかった。それは中国空軍も一緒だった。

この日まで、蒋介石の妻、宋美齢が事実上のトップにあった中華民国空軍であるが、その指揮権は、アメリカ空軍から派遣されて指導にあたっていたシェンノートに引き継がれた。実戦の指揮は、この独裁者の妻が操れる範囲を超えていたのだ。

8月14日、台風は峠を過ぎた。広徳に進出していた中国空軍第2大隊第9中隊のノースロップ2E軽爆撃機21機は、250キロ爆弾と50キロ爆弾を搭載し、午前8時40分、水しぶきを上げながら滑走路を離陸した。第2大隊長、張延孟ははやる心を抑えきれなかった。待ちに待った日が来たのだ。

厚い雲の上はきらびやかな陽光にあふれていた。一時間も飛ぶと雲の切れ間から上海の街並みと、黄浦江が確認できた。まず地上攻撃部隊が、日本人地区、虹口(ホンキュウ)にある海軍陸戦隊本部ビル、そして武官室のある日本領事館を狙った。雲の上から場所を推測して、すばやく雲の下に出て爆撃するのである。

Photo_3 ところが雲の下に出ると無数の高射砲弾が襲いかかる。日本軍はあらかじめ各所に隠しておいた高射砲で中国空軍に応戦し始めた。爆撃機はあわててしまって狙いが定まらない。目標の位置確認もできないまま、住宅地に爆弾を投下しては雲の上に逃れた。

続いて第2大隊第11中隊のノースロップ2Eが、日本海軍の旗艦出雲とその僚艦を爆撃するために出撃、午前10時10分、爆撃開始。日本郵船の朝日埠頭の東寄りに停泊していた出雲をはじめとした日本艦船には、一発も当たらず、黄浦江に水柱を立てるばかりだった。午前中の第一波攻撃が終わりつかのまの静けさが戻った。

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(写真は黄浦江に停泊する日本海軍「出雲」。後ろにバンドのビル群が見える)

Photo_2

昼、第二波攻撃である。第24中隊は、カーチスホークⅢに250キロ爆弾を装着した。彼らは揚子江をさかのぼる日本の駆逐艦を発見し、これに狙いを定めた。駆逐艦は必死にジグザグ運動をし、爆弾を回避する。ホークⅢはやや高度を落として次々に爆弾を投下する。しかし爆弾は外れて、揚子江に次々に吸い込まれていった。

と、中隊長の梁鴻雲機の放った一発の爆弾が、駆逐艦の艦尾に命中した。駆逐艦は徐々に浸水、なんとか沈没はまぬがれたものの、左に40度ばかり傾き戦線離脱した。

午後、第三波攻撃である。徐々に台風の雲はなくなり視界が開けてきた。第24中隊は、揚州基地に戻るやいなや、今度は精鋭3機を選び、再び陸戦隊本部ビルを爆撃することになった。ホークⅢに250キロ爆弾を装着、午後2時に離陸、午後3時に上海に到達した彼らは、高度600メートルから投弾した。しかし爆弾は陸戦隊本部ビルをはずれて落下、周辺の建物をめちゃくちゃに破壊した。

その時だった。上空を哨戒中だった一機の日本海軍水上偵察機が、中国空軍機に、後ろ上方からひたひたと忍び寄った。森澄夫三空曹操縦の95式水偵である。距離を少しずつ詰める。150メートルから100メートル、そして射程距離十分な位置に取りつくと、機銃手が7.7ミリ機銃の引き金を力をこめてグッと引いた。

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(写真は中国空軍機を撃墜したのと同型の95式水上偵察機)

銃弾は梁中隊長のホークⅢに続々と吸い込まれていった。そしてエンジンに当たったのか、黒煙を噴き出した。ホークⅢはゆっくりと降下してゆき、上海から20キロも離れた地点に墜落した。中国空軍の歴史上初めて、日本艦船に爆弾を命中させた梁鴻雲中隊長は、その栄光の4時間後に撃墜され戦死した。

第25中隊の三機のホークⅢも同じく海軍陸戦隊本部を狙っていた。だが彼らにとって思いのほか日本軍の高射砲は手強かった。どこにこんなに隠してあったのか、一斉射撃してくる。第25中隊の3機は、着弾地点の確認もままならず、午後5時20分に揚州基地に着陸した。

地上では、爆弾、砲弾の炸裂する虹口地区、揚樹浦(ヤンジュッポ)、やザベイ地区から、安全と思われるイギリス租界、フランス租界へ、数万人の中国人避難民が押し寄せていた。バンドの大通りは難民の波で埋まっていた。

広徳の第2大隊は、再びノースロップ2Eに爆装した。午後2時40分、午後3時40分の二波に分けて離陸。彼らはそれぞれ4時と5時に上海上空に到達した。積んでいる爆弾は、全22機合わせて、250キロ爆弾18発、120キロ爆弾22発、50キロ爆弾26発である。

 

Photo (絵は日本領事館付近の埠頭に停泊中の出雲。時期は不明。真ん中の三角屋根の建物が爆撃のあったキャセイホテル)

高度3000メートルで出雲上空を哨戒していた山崎二等兵曹操縦、宮田大尉機銃手の95式水上偵察機は、高度約1000メートルあたりの低空を進入するノースロップ2Eの群れを見つけた。すぐにダイブして降下、攻撃に移った。

山崎三空曹は祝鴻信の操縦する907号機に狙いをつけ追尾した。宮田大尉が7.7ミリ機銃を発射した。弾丸はノースロップの風防を貫き祝操縦士の左腕を貫通、任雲閣機銃手の胸部を射貫いた。エンジンから黒煙を吐き出し、高度500メートルまで降下、いまにも墜落するかに見えた。祝操縦士はなんとか体勢を立て直し、上海市西部の虹橋基地に機首を向け、逃走をはかった。

Photo

(写真は中国空軍機による爆撃直後の大衆娯楽センター「大世界」前の交差点)

と、被弾した一機の中国空軍機が共同租界上空で2発の爆弾を機体から切り離した。上海市街地のど真ん中に広大な緑の草地がある。機体を軽くするために爆弾を捨てようというのだろうか。そこは上海国際競馬場である。

しかし二発の爆弾は競馬場には落ちなかった。

午後4時すぎ、競馬場の東南、ちょううど第三コーナーあたりから200メートルほどの距離にある十字路で、大爆発が二度起こった。それは大衆娯楽センター「大世界」(ダスカ)を破壊した。窓は全て破れ火災が発生。舗道上に密集する難民と、ダスカ内の客、合わせて千名以上の死傷者を出した。路上に停めてあった車は火の玉となって50メートルも先に飛ばされた。この交差点の競馬場側はイギリスの統治する共同租界、ダスカ側はフランス租界である。

第2大隊の中国空軍爆撃機は、出雲の上空で次々に爆弾を投下してゆく。ところが、目標とする日本の艦隊には一発も当たらない。それどころか、爆弾のいくつかは黄浦江を飛び越えて共同租界に落ちたり、あるいは、アメリカ海軍巡洋艦オーガスタへの至近弾となって爆発、米軍水兵に死者を出したりもした。

Bombed_destroyed_places_1937jpgjpeg

(上の地図の黒い部分は第二次上海事変での消失地域、赤は1937年8月14日の中国軍の爆弾の着弾地点。一番左の2つ赤印が大世界交差点の2発。左から3,4つ目の赤印がキャセイ、パレス両ホテル、5つめの赤印の近くの黒い艦影が出雲。一番左の黄色は8月23日南京路のデパート街に落ちた。その右の黄色は米軍倉庫に落ちた。川は黄浦江(こうほこう)。地図をクリックすると拡大します。出典Institut d'Asie Orientale)

Photo_2 (中国空軍機によるキャセイホテル前の爆撃直後の写真。被害状況をイギリス軍が調査している。その後イタリア製の爆弾が使われていたと報告された。イタリア製の爆弾を使用していたのは中国空軍である。この爆撃を中国側は当初日本軍の爆撃と発表したが、中国空軍による誤爆である。また、8月23日の南京路への爆弾投下は香港華僑のデパートなどが、ハミルトンハウス裏へ投下された爆弾は米軍倉庫が被弾していることから、こちらも狙った爆撃でなく誤爆であろう)

日本の同盟通信社、上海支局長を務める松本重治は、その日バンドの南端、愛多亜路にある大北電信ビル4階の支社にいた。午後4時過ぎ、彼はビルの窓から、 出雲へと近づく5機のマーチン爆撃機(注:ノースロップ2Eの誤りと思われる)をを目撃した。目撃時間からすると、広徳を出撃した第2大隊だろう。爆撃機 は東南方向から高度600〜700メートルで飛んできて出雲上空に達し、高射砲の飛びかう中を左旋回しながら爆弾投下した。うち、一機に高射砲が命中した のか、射手が真っ逆さまに黄浦江に落ちた。また、別の一機の切り離した二発の爆弾は右に遠心力がついて放物線を描きながら陸上へ落ちていった。

大世界(ダスカ)前が大混乱する中、バンドにあるキャセイホテル前で大爆発が起こった。一発は玄関のあたりで爆発した。着の身着のままの難民でごったがえしていたこの場所で、数百人の中国人が吹っ飛ばされた。続いて倒れているけが人を、高層階から落下してきたガラス片が刃物となって襲う。

イギリスが統治する共同租界は安全だと高見の見物をしていたイギリス人やアメリカ人も8人が死亡。プリンストン大学で近衛文麿首相の長男、近衛文隆に政治学を教えていたロバート・カール・ライシャワー教授もここで亡くなった一人だった。近衛文隆は前月、ライシャワー教授が日本に立ち寄った時に案内役を努めていた。そのすぐ後に恩師の悲報を聞くこととなった。

間髪置かず今度は道路の向かい側、パレスホテル付近に落ちた。こちらも数十名が死傷した。この日の中国軍による市街地爆撃で、中国人難民を中心に、合わせて940名の死者と1400名のけが人が出てしまった。この日を契機に日本政府は不拡大方針を放棄、中国と徹底的に戦うことになった。

「上海防空戦 3」に続く ←クリック

参考:

「支那事変史」皇徳奉賛会

N.Y. TIMES Aug. 16 1937 ※下記に記事引用 

The China Journal September 1937 ※下記に記事引用

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

NY TIMES August 16 1937

U.S. TOURISTS FLEE SHANGHAI DANGERS

Party That Dr. Reischhauer, Killed by Bomb, Had Headed Is in French Area

SHANGHAI, Aug. 15 (AP).  Ten members of an American Oriental tour party that was caught in the Shanghai fighting prepared today to depart home Thursday without their leader, Dr. Robert Karl Reischauer of Princeton University. He was killed by a bomb explosion yesterday.

Those who will leave aboard the Japanese steamer Tatsuta Maru are Leo Drey of St. Louis, Mo.;George Scranton of Harbor Beach, Mich.; Jane Gaston and Anthony Cornell of New York City;  William Verhage of Manukato, Minn.; Alice McGinnis of Boston; Paul Amos of Princeton, N.J.; John Masland of Philadelphia; Harlan Cleland of Harwichport, Mass,, and Dr. Robert Potter of Fresno, Calf., now the leader.

"We are all O.K. and this is a great adventure but I wish I were home," Amos said.
"The tour party moved to the Palace Hotel believing the Astor House unsafe," he said, describing the bombing. "Most of the members were playing bridge yesterday but I was walking along the Whangpoo-River when I saw Chinese airplane flying in battle formation toward the Japanese cruiser Izumo.

"The Izumo fired. I ran toward the hotel and a Chinese bomb landed forty yards from me. Everything was Chaos. The detonation was stunning. Huge slivers of glass fell to the street from windows.
"The street  was lined with bodies, torn and mangled.
"I finally reached the hotel and learned by telephone that Dr. Reischauer was injured. Our party moved its baggage to the United States Consulate and later to an Apartment hotel in the French concession."

日本語訳

ニューヨークタイムズ 1937年8月16日

米国の旅行団一行は上海の危険から逃れる

爆弾によって殺されたライシャワー博士の一行はフランス租界へ

8月15日(AP)上海   上海事変に出くわしたアメリカ人の東洋旅行団の10人のメンバーは、今日木曜日、彼らのリーダー役を務めたプリンストン大学のロバートカール・ライシャワー博士なしで帰国する準備を開始した。 彼は昨日、爆弾の破裂によって死亡した。

日本の汽船立田丸で脱出する人は、ミズーリ州セントルイスのレオDrey、 ミシガン州ハーバービーチのジョージ・スクラントン ニューヨーク市のジェーン・ガストンとアンソニー・コーネル。 ミネソタ州ManukatoのウィリアムVerhage。 ボストンのアリス・マクギニス。 ニュージャージー州プリンストンのポール・アモス。 フィラデルフィアのジョン・マスランド。 マサチューセッツ州Harwichportのハーラン・クレランド、そして現在のリーダーを務めるカルフォルニア州フレスノのロバート・ポッター博士。

「今は私たちは皆、大丈夫です。これはかなりの冒険となりましたが、私は早く家に帰りたいです」と、アモスは言った。

彼は爆撃について説明した。

「旅行団はアスターハウス(注:日本人地区にあるホテル)が危険であると感じ、パレスホテルに移りました」

「メンバーの大部分は、昨日はブリッジをやっていました。私は、黄浦江沿いに歩いていました。すると、突然中国軍機が、戦闘隊形を組んで日本の巡洋艦出雲に向かって来ました」


「出雲が高射砲を撃ち始めました。 私はホテルに向かって走りました。すると、中国の爆弾が私から40ヤードのところで爆発しました。 すべてがめちゃくちゃでした。 爆発はびっくりするほど大きかったです。 ガラスの巨大な砕片が窓から道路に落ちてきました」

「道路には、遺体が多数横たわり、みな引き裂かれて、ゆがんでいました。ホテルに着くと、電話でライシャワー博士が大けがをしたことを知りました。われわれ旅行団は、手荷物をアメリカ領事館に移し、その後、フランス租界のアパートメントホテル移しました」

次に、ダスカ前交差点に誤爆があったときの関連記事が1937年9月発行の英字月刊誌「THE CHINA JOURNAL」のTALES OF OLD SHANGHAI内にあったので、引用する。

One of the other Chinese bombers, apparently hit by shrapnel from the anti-aircraft guns, turned back and proceeded in a north-westerly direction. When it was over the junction of Tibet Road with Avenue Edward VII, at all times Shanghai's most crowded corner and particularly so at this moment with the huge influx of refugees, spectators were horrified to see two bombs released. These fell almost exactly in the centre of the big street crossing, the first striking the ground and tearing a huge hole, the other detonating in mid-air a few feet above ground.

The result was a scene of slaughter that has probably never before been witnessed by man. In less than a second over a thousand people had received their death blows, many being torn to pieces by the terrible blast that swept the square, others mutilated beyond recognition, arms, legs and even heads being scattered about in all directions.

Dozens of motor cars were reduced to scrap-iron, riddled with flying fragments from the bombs or set on fire, their occupants charred to cinders. Overhead electrical cables, broken by the explosions, whipped about causing further destruction. Besides those killed on the spot hundreds of people were injured, many of them crawling away to die in side alleys. Several more foreigners were killed here.

Opinions differ as to just how these bombs came to be loosed over this crowded area, the Chinese official statement being that the bomb-rack had been damaged by anti-aircraft fire. The general opinion of competent observers of the tragic happening seems to be that the pilot, hit by shrapnel, lost his head and released the bombs in an endeavour to get rid of them, apparently trying to drop them on the open space of the nearby Race Course. He subsequently succeeded in landing his damaged machine in Chinese occupied territory, where it is reported to have pancaked on landing, so that it will never be known whether or not its bomb-rack really was damaged.

日本語訳

別の中国空軍機は、明らかに高射砲の破片が命中しており、北西方向へ逃げていた。チベット路(西蔵路)とエドワード二世路(愛多亜路)の交差点、そこは上海で最も賑やかな場所で、なおかつその日は避難民の波でぎっしり埋め尽くされていたが、目撃者は目を疑った。なんと二発の爆弾が投下されたのだ。この爆弾はその交差点のほぼ中央に落ちた。一発目は地面に大きな穴をあけ、もう一発は地面の数フィート手前の空中で爆発した。

その結果は人類がいまだかつて見たこともない虐殺の光景だった。数秒後、千人以上の人が死の爆風と破片を浴びた。多くは交差点を横切る恐怖の一撃により身体を引き裂かれ断片となった。その他の人は見る影もなく、腕、脚、そして頭部までもが四方に散らばった。

十数台のクルマがスクラップになり、爆弾の破片で穴だらけとなり、あるいは炎上し運転手は炭になった。頭上の電線は爆発で切れ、ムチの一振りとなってさらなる被害をもたらした。ここで亡くなった人以外に数百名が負傷し、多くは路地裏へ這って逃れた末に息絶えた。外国人も死亡した。

なぜこんなに人でごった返す場所に爆弾が落とされたのか、意見が分かれている。中国当局は、爆弾のつり下げ装置が(日本軍の)高射砲によって破壊されていたと公式発表した。確かな目撃者達の意見をまとめると、高射砲が飛行機に当たったためパイロットは我を失い、爆弾を捨て去ろうとした。明らかに近くにある競馬場の空地に落とそうとしたようだ。彼はなんとか中国側エリアまで破損した飛行機を飛ばして着陸した。しかし着陸と同時に飛行機がつぶれてしまい、爆弾つり下げ装置が破損していたのかはついに分からずじまいとなった。

引用終わり

次にイギリスTHE TIMESの記事をそのまま貼り付ける。中国空軍による大世界(ダスカ)前交差点への誤爆は、ダスカ周辺の建物、市民に大きな損害を出したが、ここはフランス租界に属する。フランス政府の抗議が中国側に出された。

Times_french_protest

日本語訳

フランスの抗議と警告

パリ発 8月15日

フランス政府は、中国南京と上海の政府高官に、フランス租界への爆撃の抗議を行った。日本側、中国側双方に対して、フランス租界上空での空中戦は許容できず、もし停止されない場合は、しかるべき措置を取らざるを得ないと伝えた。現時点でヨーロッパ人をフランス租界から避難させるつもりはないが、外務大臣はその可能性はなきにしもあらずだと語った。中国軍広報は、「昨日の悲劇を後悔している。爆撃は偶然のアクシデントのようで、今後繰り返されないことが望まれる」と発表した。中立を貫くフランス政府は、上海における権利保護のためにあらゆる手段を用いることを決意した。日本の内閣発表と、土曜日に上海で死亡した外国人の名前は9ページに、写真は14ページに掲載。

引用終わり

上の記事にあるように、中国軍による謝罪がフランス政府に出されている。しかしながら中国側の個人サイトを見ると、ダスカ前交差点の誤爆や、キャセイホテル前誤爆の写真が、日本軍の爆撃によるものとキャプション付けされているものが多い。

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コメント

誰が支那人の言うことを信じるのか。
馬鹿な奴だけだ。

投稿: | 2012年11月 5日 (月) 10時39分

誰が支那人の言うことを信じるのか。
馬鹿な奴だけだ。

投稿: | 2012年11月 5日 (月) 10時39分

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