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2010年1月 8日 (金)

徐小姐のロケット 6

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」から抜粋引用を続ける。時は1939年2月頃。東宝映画のプロデューサーであり、日本軍特務部宣伝班の密命を帯びた松崎啓次が台湾出身の映画人、劉吶鴎(りゅうとつおう)の協力を仰ぎながら、上海で映画工作をしていた時の話である。ちなみに、鄭蘋如(テンピンルー)が近衛文隆に会ったのもこの頃のことである。

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「劉君から聞いた話」

電話で劉吶鴎を呼び出して、松崎は西魔路の名もない喫茶店で待った。大切な話をするときは、日本人のいそうもない、そして日本語を知っている人たちがいない所を選んで会った。

「昨夜、徐小姐のことを金子少佐から聞いた」

と松崎は、劉吶鴎の目を見ながら言った。

「ん?少佐はあの人が怪しいと言ったんだろ?」

「そうだ。知ってたのか」

「知ってた」

「では、なぜ僕には言わなかったんだ」

「僕は、断じて違うと言い切れると思ったからだ。我々の交際を通じて、違うことを証明してやれると思ったからだ」

「でも・・・」

「君たち日本人は余りに潔癖すぎると思う。ねえ、考えてみたまえ。ここは支那なんだ。蒋介石の国民政府に、あるいは重慶へ行った人たちに親戚や友人達がいない人はほとんどいないのだ。例えば僕自身のことを考えてみよう。僕は台湾からここへ来て十八年になる。国籍を隠して南京の中央撮影所の監督になった。事変後、僕は日本の手先になって、スパイとして南京へ入り込んでいたのだ、と言うが、僕はいつか君に話そうと思っていたのだが、植民地に生まれた人間の不幸を、その不幸を忘れたいために、この国に来てこの国の文化運動に参加した。考えようではやつは蒋介石の方から、日本へスパイに入っているのだとも言えるかもしれない。

しかし、決して日本のスパイでも支那のスパイでもない。徐小姐を見たまえ。もしあの人がスパイなら、素晴らしいスパイではないか。小姐としての態度を少しも変えないで、自然のままですましていられるスパイなんか考えられるか?彼女の話のどこに政治的な臭いがある?彼女が日本から望むものは、ただわずかのお小遣いに過ぎないのではないか。彼女は広東人だ。広東の女は外に出て働きたがる。その数多い例の、彼女も一例に過ぎないのだ。かつて僕は誘われて彼女の家に行った。彼女の姉さん、姉さんの子供達に紹介された。みんないい人達だった。蒋介石から送られたスパイが家族と一緒に住んでいるだろうか」

「徐小姐は、日本の放送局にいたことがあるかね?」

「うん、ある」

「その時、」

「知ってる。伴野さんの話だろ。汪君から聞いた」

「そう」

「呉って女ね、あれは的確にその種の人間だと思う。スパイは善良な人を利用することがあるとは思わないか?」

「どうして君はまた、それほど徐小姐を信用するんだね」

「信用?いや、人の噂や想像で判断したくないだけさ。もっと詳しく言おう。彼女は公安局にも勤めていたんだ」

「・・・・・」

「公安局。日本なら警視庁だ。そんなことも彼女を疑う原因になっているのだろう」

「・・・・・」

「彼女の死んだ義理の兄は、昔、公安局長だったそうだ。彼女が姉の紹介状を持って、今の公安局長のところへ就職の頼みに行ったら、百五十ドルの月給ですぐに採用された。少し優遇されすぎたので仲間達から、あれは蘭衣社と関係があるんだと言われたそうだ」

「・・・・・」

「事変の当初、公安局は移転してしまい、失業した彼女は、南京にいた姉一家と消息は絶え、困り果てて新聞で、北京語、広東語、上海語のできる女性を求む、という広告を見て放送局に行ったのだ。はじめ、もちろん日本の放送局とは知らなかったそうだ。働くうちに日本の放送局と知って驚き、辞めようと何度思ったか知れないけれど、みんな日本の人たちは親切でいい人達だったので、そのままずっと勤めていた。

が、姉たちが香港を回って帰ってきて、日本の放送局にいることを、とてもいやがるので辞めた、と言うのだ。彼女自身は日本人を決して悪いとは思っていない。何かの機会に姉たちも日本びいきにしてみせると言っているのだ」

劉吶鴎はいつになく熱を帯びて語る。松崎は黙って聞いていた。

「本当のスパイをスパイと知らずに起こす悲劇はもちろんたくさんある。が、スパイでない人をスパイとして扱うことも悲劇だ。私は金子少佐も伴野さんも知っている。いい人達だ。だが、あの潔癖すぎる人たちがこうだ、と言うことに対して言葉を返して違うとは言い切れない。私は彼女がそんな人でないと信じる。日本に好意を持ち、我々の仕事を助けようとする人たちを、私たちはもっと親切にみてやろうじゃないか」

松崎は思った。

「劉君が徐小姐のことを、このように強く弁護する気持ちは、多分彼が、ありあまる才能を持ちながら、日本人達からも日本人として遇せられず、支那人達からも支那人として遇せられなかった悲しい日の抗議であろうか・・・。私は、彼のために、もう少し寛大になろう」

松崎の表情が次第に柔らぐのを見て、劉吶鴎は声を落として言葉をついだ。

「しかし、不気味なことはあるんだ。先日、黃君と街を歩いていて、さて一時間ほど暇があったので、易者にでも見てもらおうかと、通りすがりの易者の家に飛び込んだ僕に、女難の相があると言うのだ。しかも一番悪いのが徐という名の女だそうだ。徐というと僕は二人知っている。一人は踊り子。一人は彼女。だが二人とも女難というには遠い、ただの友達だ。が、黃君はこのことをとても気にして、もう一ついやな話を加えてくれた。

街で徐小姐と姉さん達に逢って、一緒にお茶を飲んだことがあるそうだ。黃君と徐小姐は広東語で話をした。ところが、彼女は姉と北京語で話をしているのだ。広東人の家庭の中で、北京語を使用する。彼は暗い影を感じて早々に別れた、と言うのだ。

取るに足りないたわごとさ。でも僕だっていやな気がしないことはない。いずれにしても、もう少し気長に様子を見ようではないか。誰かが怪しいと言った。それだけで次々に葬られるとしたら、僕なんか直ちに葬られる。敵の方では、日本側がスパイに恐々としていると知れば、そんな術はすぐに使うだろうからな」

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引用終わり

昨日は徐小姐を遠ざけようと決心した松崎は、劉吶鴎の熱い語りを聞いて考え直した。気にしすぎていたのだと。もっと寛大になろうと。人をスパイなのかスパイじゃないのか、疑いはじめたら訳が分からなくなる。現に熱く語った劉吶鴎も、実は徐小姐には不気味なところもあるんだと揺れている。そしてまた、劉吶鴎の熱い語りは、彼が、台湾人なのか、日本人なのか、支那人なのか、さだかではない、アイデンティティがぐらぐらと揺さぶられている状況をも赤裸々にした。

もうひとつ、徐小姐が日本人との交際で見せる自然な振る舞いを劉吶鴎は指摘している。このような人がスパイであろうかと。これは、中国の歴史研究家、許洪新氏が鄭蘋如についても指摘していたことだ。ピンルーも、スパイだったという話がある一方で、どのような調査によっても蘭衣社やCC団の名簿に名前が出てこないし、スパイという証拠も挙がってこない。徐小姐の無垢で自然な振る舞いは、ピンルーの日常の振る舞いにも近いものがあったはず、と想像させるものがある。

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