« 徐小姐のロケット 6 | トップページ | 徐小姐のロケット 8 »

2010年1月 9日 (土)

徐小姐のロケット 7

Jessfieldpark_2 松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」の章から抜粋引用を続ける。

------------------------------------

「徐梨娜(シュ リナ)から聞いた話」

その日から松崎は心を入れ替えた。どんな重大な用件よりも、支那語の勉強を大切にした。朝のその時間を正確にバスに乗った。バスの中で本を開いて音読した。

松崎が正確な時間に現れ、しかも昨日の復習を忘れずに来るのを見て、今度は少々、徐小姐(シュ シャオチェ)の方があっけに取られたほどである。

勉強の時間が終わると、松崎のわずかな支那語と、彼女のわずかな日本語とで、単語を並べあって話をした。

「昨夜は、何をしましたか?」

「姉さんが、お友達、たくさん、招待、ご飯、あとで、跳舞(注:ちょうぶ ダンスのこと)に行きました。アナタは?」

「僕?六三園で、エライ人と、宴会!」

「エライ?・・・それ、なに?」

松崎は、「偉人」と書いた。

宴会なんか、もちろん嘘だ。けれどスパイなら、いつか反応があるだろう。

「明白了(ミンパイラ)・・・わかりました。あなたエライ人、たくさん、友達?」

「うん」

「そお?アナタもエライから、ね?」

こんな日が二週間くらい続いたろうか。松崎達は次第に親しくなり、知ってる単語が次第に加わるにつれて、劉君を借りなくても意味だけはわずかに通じる程度になった。

日曜日、支那語を始めてから、比較的早起きになった松崎は、日曜の朝をもてあました。

そう、バスに乗って終点まで行ってみよう!終点はジェスフィールド公園、その昔、犬と支那人の入場を禁止した公園だ。晴れた日曜の朝、楽しいランデヴーの人たちもいるであろう。

「公園の 白き小径を銃もてる 英兵二人 ならびくる春」  富岡ふゆの(注:松崎の妻)

陽と影の濃い上海の春、公園の小径は若い人たちの恋の温室だ。腕もあらわに、女と男が寄り添うて木陰でつぶやいている。池には模型のヨットが浮かんでいる。大人、子供が、キャッキャと戯れて楽しそうだ。

「樹々の間は 紫羅蘭(あらせいとう)の花群れ咲きて 不思議にきたる 支那の春なり」 富岡ふゆの

松崎は、芝生の路を歩いていた。

「マツザキさん!」

松崎は、きょろきょろと辺りを見回した。徐小姐の声だ、が、どこに彼女はいるのだ。

「マツザキさん!」

Photo_9 振り返った。すると、支那家族の標本とでも呼んでいいほどの、大人から子供にいたる大勢が、一列に並んでこちらを見ているではないか。松崎は思わず赤くなった。徐小姐が、その列の真ん中から声をかけているのだ。そしてその中からするすると抜けて彼に近づくと、

「オサンポ?お一人ネ?」

「・・・・・」

「ワタシ、姉さんを紹介しましょう」

そして彼女は、中年のがっちりした体つきの彼女の姉を呼び、松崎に紹介した。松崎はなんと答えていいのか、ただ面食らって立っていた。握手して、口の中で、わずかに、

「アイム グラッド ツー シー ユー」

と言うや否や、早々に逃げ出した。

翌日、勉強の後で松崎は尋ねた。

「姉さんと妹さん達?」

「違う。姉さんの子供」

「男の人は?」

「朋友」

「そお?好朋友(ハオポンユウ 恋人の意味)ですね?」

「違う。朋友!」

彼女は声を立てて笑った。

「アノ、ワタシ、カマイマセンカ?」

「なに?」

「アノ、アナタ、奥さんある?」

「あります」

「そお。キレイ?」

「綺麗です」

「とても、奥さん、お好き?」

「もちろん」

彼女はあきれた、という顔で松崎を見た。そして話題を転じた。

「アタシ、放送局にいた時、・・・(言葉を探しながら) 江木さん、知ってる?あの人、ワタシに恋人あるかって聞くの」

「で?」

「あたし、ない。あなた奥さんある?って聞いたの」

「ない」と江木さん。

「そお?と言ったらね、あの人突然、「ワタシと結婚して下さい」って言うの。アタシ驚いた!」

「なぜ?」

「でも、おかしいわ」

「どうして?」

「アタシ、その時、まだ日本の習慣知らない。アタシ、後で「アナタ奥さんある?」と聞くのは、スキって言うのと一様(イーヤン)、知った」

誰が、そんなでたらめを教えたのだろう。が、あえて訂正するほどのことでもない。が、松崎は話のきっかけをつかんだ。

「放送局、どうして辞めたの?」

「初め、人少ない、忙しい、面白い、後、面白くない」

「・・・・・」

「姉さん、香港の新聞でワタシの名前見た。危ない。辞めなさい、言う。ワタシ辞めた」

「劉さんとは、いつから知り合い?」

「あの人、金子少佐のパーティーで。劉さん、みんな知ってる、日本と合作してる、みんな知ってる」

一体、これはどういう意味なのだ。彼女は劉君が日本側の工作に協力してくれる事を、支那人が皆知っているからどうだと言うのだ。それを、その意味をはっきりさせるべく、松崎の支那語も彼女の日本語もあまりに貧弱であった。そしてそれから松崎はまたの機会を待つことにした。

しかし、悲しいかな、劉君のあれだけの証言にもかかわらず、松崎の心からは、彼女がもしかしてスパイであるかも知れないという気持ちは片時も離れなかった。それを忘れるには伴野氏や、金子少佐を松崎はあまりに知りすぎていた。氏らを尊敬もしていた。そしてまた、徐小姐を疑えば疑えない事もないのであった。たとえば・・・

彼女は次第に松崎の行動に興味を示すようになった。雑談の中から昨夜はどこへ行った、誰と遊んだ、あなたはダンスが出来るか、どんな友達があるか、あなたの友達を紹介しろ・・・松崎は半分本当のことを、半分嘘のことを、警戒しながら、でもその警戒を彼女には知られぬように、試験の答案を書くように注意深く話をした。

いつであったか、松崎は報道部で偶然新任の大澤に逢った。彼とは東京以来の知人であり、彼が企画院から上海の報道部に派遣されて来ようなどとは、夢にも考えなかっただけにうれしかった。彼と松崎と、応召でこれも報道部にいた石浜知行氏と、晩餐を共にし、あちらこちらと夜の上海のを浮かれ歩いた。彼らは、いつの間にか高等学校の昔に帰った。「紅もゆる」や「ああ玉杯に」を歌い出し兼ねない気持ちだった。

「勝っている日本は自粛して何から何まで統制しようとするのに、負けている支那のこのだらしない程の浪費はどうしたことだ」

「馬鹿!上海は断じて支那じゃない。毛唐(注:けとう 欧米人の蔑称)に最も好都合な独立国だ。ここの支那人を見て支那を知ったと思ったら大間違いだぞ」

「支那へ来て最初の二三年は、支那に溺れる程好きになる。それから大嫌いになる。その二つの時期を通って初めて支那を客観的に批判できるんだ」

彼らはこんな話をしたり、飲んだり歩いたりして、別れるのが厭で、松崎のホテルに帰って、ボーイに特別のコミッションを出して、熱いコーヒーをもらい、夜の明けるまで話を続けた。

翌日は、さすがに頭が少しぼんやりしていた。が、松崎はバスに乗って出かけた。

「アナタ、今日、変よ」

徐小姐が言った。

「昨夜、遊びすぎたので」

「そお?ダンス?」

「ダンス」

松崎は、またいい加減に話をした。

と、彼女はペンを取って書いた。

上海是罪悪都市、

在這地方犯了什麽

罪也不算是罪悪。

(上海は罪悪の都、ここではどんな罪も、悪ではない)

「わかる?この意味。アナタ今いい人。上海、たくさんいる、悪い人よ」

松崎は、彼女の顔を見た。

彼女の顔は、笑みをたたえて松崎を見ている。

「気をつけなさい、上海に負けてはいけない」と語っているようだ。

この女がスパイであろうか。スパイであり得ようか。

---------------------------------------

引用終わり

この節では、映画「上海の月」でラジオ局のリーダー格であった江木という名前がそのまま出てくる。特務部放送班でラジオ局の責任者といえば、実際にはNHK新潟放送局長から1937年12月に転任の浅野一男少佐がおり、また先遣隊として9月に派遣され、最初の節で伴野氏という仮名で登場しているNHK小倉局の島山技師、もしくはNHK東京報道部アナウンサーの友安氏がいる。

映画の江木は1937年夏の上海事変後の灯火管制の元で敵側ラジオを聴いているシナリオなので、江木は、9月から上海に来ていた島山技師か友安氏をモデルとした可能性がある。島山技師は、上海赴任時は子供もいる既婚者であり、また最初の節「伴野氏に聞いた話」の伴野氏の可能性が高いので、江木は友安氏かもしれない。

さて、徐小姐は松崎から、ラジオ局をやめた理由を問われ、最初はおもしろかったけど、だんだんつまらなくなってきたと答えた後、お姉さんから「あぶないから早く辞めなさい」というようなことを言われたと答えている。日本のラジオ局で働くことは漢奸と見なされる。脅迫もあったようであるが、この辺は軍報道部長馬渕大佐の書いた「報道戦線」に書かれているので、後日記事とする。ピンルーがラジオ局を辞めた理由もわかるはずである。

また、この節で、大澤という名前が出てくる。大澤というと、「戴志華の銃殺」での戴、つまりテンピンルーが丁黙邨暗殺未遂にかかわった後に一時かくまってもらったのが、フランス租界にあった大澤の家だ。大澤は、松崎とは東京時代からの友人で企画院の官僚から上海の報道部へ派遣されていたようだ。ラジオ局の関係でピンルーと知り合いになっていたのだろう。

徐小姐のロケット 8 へ続く  ←クリック

|

« 徐小姐のロケット 6 | トップページ | 徐小姐のロケット 8 »

テンピンルー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 徐小姐のロケット 6 | トップページ | 徐小姐のロケット 8 »