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2010年1月の19件の記事

2010年1月31日 (日)

上海防空戦 3

Photo_3

「青田市上空の雲の上に重々しいエンジンの爆音が出現!日本の重爆撃隊の模様。進路は杭州!」

1937年8月14日、午後3時(日本時間午後5時)過ぎ、杭州筧橋(けんきょう)基地の指揮所で待つ高志航に電話だ。彼はは武者震いした。

中華民国空軍のエース、高志航の属する第4大隊は、南昌から分散配置のため、上海から700キロも離れた周家口にいた。第4大隊は、まず周家口から杭州市筧橋(けんきょう)基地に進出することになった。到着予定は午後4時だ。

高志航は、前日に台風で電話が不通になったため、輸送機で南京へ行き、直接、司令部から出撃命令をもらった。そして再び輸送機に乗って杭州へ先回り、自分の愛機が部下の操縦で回送されてくるのを、今か今かと待っていたのだ。

「敵はもうすぐそばまで来ている!」

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台湾の1937年8月14日は、ようやく超大型台風の影響がなくなった日だった。台湾憲兵隊の台北憲兵分隊長、林秀澄はそのころ、基隆(きりゅう)要塞に出入りする船舶の臨検、台北の松山飛行場周辺の防諜対策などに、気をすり減らす毎日だった。

昼過ぎ、松山飛行場で林秀澄は、96式中攻の搭乗員将校と話をしていた。彼らはこの日、初めての中国大陸爆撃に出撃するのである。林秀澄は素朴な質問をぶつける。

「しかしなぜ戦闘機と一緒に出て行かないのですか。戦闘機の護衛が無いのが不思議なんです」

飛行隊長の新田慎一少佐が答えた。

「林君、何を言っているのだ。昔と今の空中戦は違うのだよ。宙返りなんかやっているひまは無いのだよ。そんなことやっていると、相手の飛行機は見えなくなる」

「いや、しかし・・・・・」

「この中攻なんか、普通の戦闘機で追いかけられるものじゃないのだ。装備もこんなに機関銃を持っているのだ。だから戦闘機なんかいらないんだよ。そもそも戦闘機は航続距離が足らん」

林秀澄は食い下がる。

「だけど、この台北の飛行場に、戦闘機も18機来ているじゃないですか。途中まででも護衛を付けた方が・・・」

と言うまもなく、新田が言う。

「いや、いらないのだ」

新田は林の目線をはずし、イスから立ち上がると、踵をカツカツと鳴らしてドアに近寄った。

ドアの前で止まると、新田少佐は林の方を振り返って、また言った。

「今の爆撃機に戦闘機はいらないのだよ」

キィーときしむ音が二度して白い木製のドアが閉まった。出撃の時間が近づいているのだ。林は一人で部屋に取り残された。

96_2 新田は部下に伝令した。

「杭州爆撃予定時刻、午後6時!(中国時間の午後4時)」

新田少佐に率いられた9機の96式中攻は、日本時間午後2時55分(中国時間午後0時55分)、台北松山飛行場を離陸、杭州の筧橋飛行場空襲へと出撃していった。そして新田隊に続き、浅野少佐率いる広徳飛行場空襲隊の9機も、勇躍、次々と離陸していった。

Photo_5 整備兵が力一杯帽子を振る中、全機がスロットルを全開にして離陸する。最後の一機が飛び立つと、辺りが急に静まりかえった。

林秀澄はどんどん小さくなっていく機影を、司令所の部屋の窓から追っていた。

彼は新田少佐の言葉を信じたかった。

「今の爆撃機は護衛無しで大丈夫なのだ・・・」

しかし、気がさわぐ部分もあって、林は新田少佐が帰ってくるまで飛行場で待つことにした。

新田少佐機を先頭にした96式中攻18機は、台風の余波による乱気流と、いまだ低くたれ込める暗雲に悩まされながらも、コンパスを頼りに北へと針路を取っていた。日本時間午後5時(中国時間午後3時)すぎ、無事に青田市の上空を通過した。杭州まではあと1時間ほどである。

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杭州筧橋基地で、部下達をじりじりと待っている高志航大隊長は、徐々に焦ってきた。

「わが第4大隊の到着は午後4時だ。日本の爆撃機が青田市を通過した時刻と推定速度から計算すると・・・・・日本の爆撃機も、わが部下も午後4時頃(日本時間午後6時頃)、同じ時刻に上空に現れる。これは鉢合わせになるぞ!」

高志航は北の空を見上げ、祈るようにつぶやいた。

「南の空から来たらそれは敵の飛行機だ。北の空から来たら私の部下だ」

と、かすかにエンジンの音が上空から聞こえてきた。小さく、機影が見えてきた。北の空だ。聞き慣れたエンジン音と共に、ぐんぐんと機影が大きくなってくる。李桂丹率いる第21中隊の9機だ。高志航は地上員にすぐに命令を発した。

「彼らを降ろすな!」

「もし着陸したらエンジンを止める前に離陸、迎撃するように命令しろ!」

無線はない。命令は手で合図するしかなかった。何も知らない李中隊長は、飛行場の吹き流しを見て風向きを確認し、一端風下へ機を向けた。そして場周周回に入った。風上に機首を向け着陸態勢を取る。李中隊長には、地上の合図は見えない。手動ハンドルをぐるぐる回し、車輪を出した。スロットルをさらに絞る。一回バウンドしたが、無事に着陸を終えた。

彼はほっとして一つ大きなため息をつき、エプロンの停止線まで来ると、大勢が何かを叫びながら駆け寄ってきた。駆け寄ってくる人の目を見ながら、これは単なる歓迎ではないと直感した。人々がなおも叫びながら上空を指差している。

「敵機がすぐ来る!このまま飛び立ってくれ!」

李中隊長は、ここまで700キロもの行程に疲労困憊していた。しかしすべてを察すると、猛然とエンジンをふかした。部下も同様にふたたび離陸していった。続いて到着した第23中隊も着陸と同時に次々に離陸していく。

そして、ようやく高志航の愛機、カーチス・ホークⅣー1が曹士栄の操縦で回送され、着陸してきた。高大隊長はエンジンをかけたままの愛機に飛び乗ると、すぐにスロットルを全開、空中に浮かぶとハンドルを回し脚を引き上げ、ちぎれ雲の間を上昇していった。

高志航は、計算していた。各機、まだ40分くらい飛べる燃料を残している。燃料消費の多い機でも20分は持つだろう。敵機の方はあと数分で来るはずだ。十分な迎撃ができる。

「上海防空戦 4」に続く←クリック

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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2010年1月30日 (土)

上海防空戦 2 

Photo_9(新ホーク カーチスホークⅢ)

一方の日本海軍は、8月8日、96式中型攻撃機18機を、九州鹿屋(かのや)基地から台湾へ向けて離陸させた。台風の近づく中、各機ちりぢりになりながらも、無事に台北松山基地に進出した。

8月9日、上海の海軍陸戦隊、大山中尉が、密かに上海西郊にある中国軍の虹橋空軍基地を偵察するため車で通行中、突然中国側に射殺される事件が発生した。これを中国側の挑発と受け取った日本側は激怒、上海の日中両軍は、引くに引けない所まできていた。北京周辺ではすでに戦闘状態にある。しかし、宣戦布告はなされておらず、決して戦争ではない。盧溝橋事件であり、北支事変である。しかし事変と戦争の区別は、もはや誰にも分からなくなっていた。この北支事変は、人々の知らぬ間に日支事変と呼び名を変え、ずるずると日中戦争になっていったのである。

8月10日、日中両航空隊とも、上海市街地に展開する地上軍の援護と、相手基地襲撃の準備にやっきになっていた。特に中国陸軍は、上海周辺にドイツ軍の指導によるトーチカ陣地を要塞のごとく造成しており、それは5年前の第一次上海事変敗北の直後から着々と準備していたものだ。数日以内に開戦を迎えるであろう、この二度目の上海決戦を、今か今かと待ち望んでいた。蒋介石には勝算があったのだ。

8月12日未明、中華民国陸軍は、上海虹口の日本人地区の包囲陣を徐々に狭めていた。取り囲まれていると知った約3万人の日本人居留民は、不安が頂点となりパニック状態となった。我先に脱出しようと埠頭はごった返した。船に乗れない者のうち、一部は知人を頼ってピアスアパートなどの比較的西洋人が多く住む建物に避難した。第三国人が多く住む建物なら攻撃されないだろうということである。身よりのない者は、日本人学校や、東西の本願寺に避難した。

8月13日、上海商務印書館に陣地を作っていた中華民国陸軍がしびれを切らし、日本軍陣地へ機関銃を発砲。ついに地上戦が始まった。日本海軍第三艦隊司令長官の長谷川長官は、台北の海軍第一航空連隊と空母加賀、空母鳳翔などの艦載機に出撃命令を出した。ただし、その日は、超大型台風の余波による乱流により、一機も飛べるような天候ではなかった。それは中国空軍も一緒だった。

この日まで、蒋介石の妻、宋美齢が事実上のトップにあった中華民国空軍であるが、その指揮権は、アメリカ空軍から派遣されて指導にあたっていたシェンノートに引き継がれた。実戦の指揮は、この独裁者の妻が操れる範囲を超えていたのだ。

8月14日、台風は峠を過ぎた。広徳に進出していた中国空軍第2大隊第9中隊のノースロップ2E軽爆撃機21機は、250キロ爆弾と50キロ爆弾を搭載し、午前8時40分、水しぶきを上げながら滑走路を離陸した。第2大隊長、張延孟ははやる心を抑えきれなかった。待ちに待った日が来たのだ。

厚い雲の上はきらびやかな陽光にあふれていた。一時間も飛ぶと雲の切れ間から上海の街並みと、黄浦江が確認できた。まず地上攻撃部隊が、日本人地区、虹口(ホンキュウ)にある海軍陸戦隊本部ビル、そして武官室のある日本領事館を狙った。雲の上から場所を推測して、すばやく雲の下に出て爆撃するのである。

Photo_3 ところが雲の下に出ると無数の高射砲弾が襲いかかる。日本軍はあらかじめ各所に隠しておいた高射砲で中国空軍に応戦し始めた。爆撃機はあわててしまって狙いが定まらない。目標の位置確認もできないまま、住宅地に爆弾を投下しては雲の上に逃れた。

続いて第2大隊第11中隊のノースロップ2Eが、日本海軍の旗艦出雲とその僚艦を爆撃するために出撃、午前10時10分、爆撃開始。日本郵船の朝日埠頭の東寄りに停泊していた出雲をはじめとした日本艦船には、一発も当たらず、黄浦江に水柱を立てるばかりだった。午前中の第一波攻撃が終わりつかのまの静けさが戻った。

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(写真は黄浦江に停泊する日本海軍「出雲」。後ろにバンドのビル群が見える)

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昼、第二波攻撃である。第24中隊は、カーチスホークⅢに250キロ爆弾を装着した。彼らは揚子江をさかのぼる日本の駆逐艦を発見し、これに狙いを定めた。駆逐艦は必死にジグザグ運動をし、爆弾を回避する。ホークⅢはやや高度を落として次々に爆弾を投下する。しかし爆弾は外れて、揚子江に次々に吸い込まれていった。

と、中隊長の梁鴻雲機の放った一発の爆弾が、駆逐艦の艦尾に命中した。駆逐艦は徐々に浸水、なんとか沈没はまぬがれたものの、左に40度ばかり傾き戦線離脱した。

午後、第三波攻撃である。徐々に台風の雲はなくなり視界が開けてきた。第24中隊は、揚州基地に戻るやいなや、今度は精鋭3機を選び、再び陸戦隊本部ビルを爆撃することになった。ホークⅢに250キロ爆弾を装着、午後2時に離陸、午後3時に上海に到達した彼らは、高度600メートルから投弾した。しかし爆弾は陸戦隊本部ビルをはずれて落下、周辺の建物をめちゃくちゃに破壊した。

その時だった。上空を哨戒中だった一機の日本海軍水上偵察機が、中国空軍機に、後ろ上方からひたひたと忍び寄った。森澄夫三空曹操縦の95式水偵である。距離を少しずつ詰める。150メートルから100メートル、そして射程距離十分な位置に取りつくと、機銃手が7.7ミリ機銃の引き金を力をこめてグッと引いた。

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(写真は中国空軍機を撃墜したのと同型の95式水上偵察機)

銃弾は梁中隊長のホークⅢに続々と吸い込まれていった。そしてエンジンに当たったのか、黒煙を噴き出した。ホークⅢはゆっくりと降下してゆき、上海から20キロも離れた地点に墜落した。中国空軍の歴史上初めて、日本艦船に爆弾を命中させた梁鴻雲中隊長は、その栄光の4時間後に撃墜され戦死した。

第25中隊の三機のホークⅢも同じく海軍陸戦隊本部を狙っていた。だが彼らにとって思いのほか日本軍の高射砲は手強かった。どこにこんなに隠してあったのか、一斉射撃してくる。第25中隊の3機は、着弾地点の確認もままならず、午後5時20分に揚州基地に着陸した。

地上では、爆弾、砲弾の炸裂する虹口地区、揚樹浦(ヤンジュッポ)、やザベイ地区から、安全と思われるイギリス租界、フランス租界へ、数万人の中国人避難民が押し寄せていた。バンドの大通りは難民の波で埋まっていた。

広徳の第2大隊は、再びノースロップ2Eに爆装した。午後2時40分、午後3時40分の二波に分けて離陸。彼らはそれぞれ4時と5時に上海上空に到達した。積んでいる爆弾は、全22機合わせて、250キロ爆弾18発、120キロ爆弾22発、50キロ爆弾26発である。

 

Photo (絵は日本領事館付近の埠頭に停泊中の出雲。時期は不明。真ん中の三角屋根の建物が爆撃のあったキャセイホテル)

高度3000メートルで出雲上空を哨戒していた山崎二等兵曹操縦、宮田大尉機銃手の95式水上偵察機は、高度約1000メートルあたりの低空を進入するノースロップ2Eの群れを見つけた。すぐにダイブして降下、攻撃に移った。

山崎三空曹は祝鴻信の操縦する907号機に狙いをつけ追尾した。宮田大尉が7.7ミリ機銃を発射した。弾丸はノースロップの風防を貫き祝操縦士の左腕を貫通、任雲閣機銃手の胸部を射貫いた。エンジンから黒煙を吐き出し、高度500メートルまで降下、いまにも墜落するかに見えた。祝操縦士はなんとか体勢を立て直し、上海市西部の虹橋基地に機首を向け、逃走をはかった。

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(写真は中国空軍機による爆撃直後の大衆娯楽センター「大世界」前の交差点)

と、被弾した一機の中国空軍機が共同租界上空で2発の爆弾を機体から切り離した。上海市街地のど真ん中に広大な緑の草地がある。機体を軽くするために爆弾を捨てようというのだろうか。そこは上海国際競馬場である。

しかし二発の爆弾は競馬場には落ちなかった。

午後4時すぎ、競馬場の東南、ちょううど第三コーナーあたりから200メートルほどの距離にある十字路で、大爆発が二度起こった。それは大衆娯楽センター「大世界」(ダスカ)を破壊した。窓は全て破れ火災が発生。舗道上に密集する難民と、ダスカ内の客、合わせて千名以上の死傷者を出した。路上に停めてあった車は火の玉となって50メートルも先に飛ばされた。この交差点の競馬場側はイギリスの統治する共同租界、ダスカ側はフランス租界である。

第2大隊の中国空軍爆撃機は、出雲の上空で次々に爆弾を投下してゆく。ところが、目標とする日本の艦隊には一発も当たらない。それどころか、爆弾のいくつかは黄浦江を飛び越えて共同租界に落ちたり、あるいは、アメリカ海軍巡洋艦オーガスタへの至近弾となって爆発、米軍水兵に死者を出したりもした。

Bombed_destroyed_places_1937jpgjpeg

(上の地図の黒い部分は第二次上海事変での消失地域、赤は1937年8月14日の中国軍の爆弾の着弾地点。一番左の2つ赤印が大世界交差点の2発。左から3,4つ目の赤印がキャセイ、パレス両ホテル、5つめの赤印の近くの黒い艦影が出雲。一番左の黄色は8月23日南京路のデパート街に落ちた。その右の黄色は米軍倉庫に落ちた。川は黄浦江(こうほこう)。地図をクリックすると拡大します。出典Institut d'Asie Orientale)

Photo_2 (中国空軍機によるキャセイホテル前の爆撃直後の写真。被害状況をイギリス軍が調査している。その後イタリア製の爆弾が使われていたと報告された。イタリア製の爆弾を使用していたのは中国空軍である。この爆撃を中国側は当初日本軍の爆撃と発表したが、中国空軍による誤爆である。また、8月23日の南京路への爆弾投下は香港華僑のデパートなどが、ハミルトンハウス裏へ投下された爆弾は米軍倉庫が被弾していることから、こちらも狙った爆撃でなく誤爆であろう)

日本の同盟通信社、上海支局長を務める松本重治は、その日バンドの南端、愛多亜路にある大北電信ビル4階の支社にいた。午後4時過ぎ、彼はビルの窓から、 出雲へと近づく5機のマーチン爆撃機(注:ノースロップ2Eの誤りと思われる)をを目撃した。目撃時間からすると、広徳を出撃した第2大隊だろう。爆撃機 は東南方向から高度600〜700メートルで飛んできて出雲上空に達し、高射砲の飛びかう中を左旋回しながら爆弾投下した。うち、一機に高射砲が命中した のか、射手が真っ逆さまに黄浦江に落ちた。また、別の一機の切り離した二発の爆弾は右に遠心力がついて放物線を描きながら陸上へ落ちていった。

大世界(ダスカ)前が大混乱する中、バンドにあるキャセイホテル前で大爆発が起こった。一発は玄関のあたりで爆発した。着の身着のままの難民でごったがえしていたこの場所で、数百人の中国人が吹っ飛ばされた。続いて倒れているけが人を、高層階から落下してきたガラス片が刃物となって襲う。

イギリスが統治する共同租界は安全だと高見の見物をしていたイギリス人やアメリカ人も8人が死亡。プリンストン大学で近衛文麿首相の長男、近衛文隆に政治学を教えていたロバート・カール・ライシャワー教授もここで亡くなった一人だった。近衛文隆は前月、ライシャワー教授が日本に立ち寄った時に案内役を努めていた。そのすぐ後に恩師の悲報を聞くこととなった。

間髪置かず今度は道路の向かい側、パレスホテル付近に落ちた。こちらも数十名が死傷した。この日の中国軍による市街地爆撃で、中国人難民を中心に、合わせて940名の死者と1400名のけが人が出てしまった。この日を契機に日本政府は不拡大方針を放棄、中国と徹底的に戦うことになった。

「上海防空戦 3」に続く ←クリック

参考:

「支那事変史」皇徳奉賛会

N.Y. TIMES Aug. 16 1937 ※下記に記事引用 

The China Journal September 1937 ※下記に記事引用

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

NY TIMES August 16 1937

U.S. TOURISTS FLEE SHANGHAI DANGERS

Party That Dr. Reischhauer, Killed by Bomb, Had Headed Is in French Area

SHANGHAI, Aug. 15 (AP).  Ten members of an American Oriental tour party that was caught in the Shanghai fighting prepared today to depart home Thursday without their leader, Dr. Robert Karl Reischauer of Princeton University. He was killed by a bomb explosion yesterday.

Those who will leave aboard the Japanese steamer Tatsuta Maru are Leo Drey of St. Louis, Mo.;George Scranton of Harbor Beach, Mich.; Jane Gaston and Anthony Cornell of New York City;  William Verhage of Manukato, Minn.; Alice McGinnis of Boston; Paul Amos of Princeton, N.J.; John Masland of Philadelphia; Harlan Cleland of Harwichport, Mass,, and Dr. Robert Potter of Fresno, Calf., now the leader.

"We are all O.K. and this is a great adventure but I wish I were home," Amos said.
"The tour party moved to the Palace Hotel believing the Astor House unsafe," he said, describing the bombing. "Most of the members were playing bridge yesterday but I was walking along the Whangpoo-River when I saw Chinese airplane flying in battle formation toward the Japanese cruiser Izumo.

"The Izumo fired. I ran toward the hotel and a Chinese bomb landed forty yards from me. Everything was Chaos. The detonation was stunning. Huge slivers of glass fell to the street from windows.
"The street  was lined with bodies, torn and mangled.
"I finally reached the hotel and learned by telephone that Dr. Reischauer was injured. Our party moved its baggage to the United States Consulate and later to an Apartment hotel in the French concession."

日本語訳

ニューヨークタイムズ 1937年8月16日

米国の旅行団一行は上海の危険から逃れる

爆弾によって殺されたライシャワー博士の一行はフランス租界へ

8月15日(AP)上海   上海事変に出くわしたアメリカ人の東洋旅行団の10人のメンバーは、今日木曜日、彼らのリーダー役を務めたプリンストン大学のロバートカール・ライシャワー博士なしで帰国する準備を開始した。 彼は昨日、爆弾の破裂によって死亡した。

日本の汽船立田丸で脱出する人は、ミズーリ州セントルイスのレオDrey、 ミシガン州ハーバービーチのジョージ・スクラントン ニューヨーク市のジェーン・ガストンとアンソニー・コーネル。 ミネソタ州ManukatoのウィリアムVerhage。 ボストンのアリス・マクギニス。 ニュージャージー州プリンストンのポール・アモス。 フィラデルフィアのジョン・マスランド。 マサチューセッツ州Harwichportのハーラン・クレランド、そして現在のリーダーを務めるカルフォルニア州フレスノのロバート・ポッター博士。

「今は私たちは皆、大丈夫です。これはかなりの冒険となりましたが、私は早く家に帰りたいです」と、アモスは言った。

彼は爆撃について説明した。

「旅行団はアスターハウス(注:日本人地区にあるホテル)が危険であると感じ、パレスホテルに移りました」

「メンバーの大部分は、昨日はブリッジをやっていました。私は、黄浦江沿いに歩いていました。すると、突然中国軍機が、戦闘隊形を組んで日本の巡洋艦出雲に向かって来ました」


「出雲が高射砲を撃ち始めました。 私はホテルに向かって走りました。すると、中国の爆弾が私から40ヤードのところで爆発しました。 すべてがめちゃくちゃでした。 爆発はびっくりするほど大きかったです。 ガラスの巨大な砕片が窓から道路に落ちてきました」

「道路には、遺体が多数横たわり、みな引き裂かれて、ゆがんでいました。ホテルに着くと、電話でライシャワー博士が大けがをしたことを知りました。われわれ旅行団は、手荷物をアメリカ領事館に移し、その後、フランス租界のアパートメントホテル移しました」

次に、ダスカ前交差点に誤爆があったときの関連記事が1937年9月発行の英字月刊誌「THE CHINA JOURNAL」のTALES OF OLD SHANGHAI内にあったので、引用する。

One of the other Chinese bombers, apparently hit by shrapnel from the anti-aircraft guns, turned back and proceeded in a north-westerly direction. When it was over the junction of Tibet Road with Avenue Edward VII, at all times Shanghai's most crowded corner and particularly so at this moment with the huge influx of refugees, spectators were horrified to see two bombs released. These fell almost exactly in the centre of the big street crossing, the first striking the ground and tearing a huge hole, the other detonating in mid-air a few feet above ground.

The result was a scene of slaughter that has probably never before been witnessed by man. In less than a second over a thousand people had received their death blows, many being torn to pieces by the terrible blast that swept the square, others mutilated beyond recognition, arms, legs and even heads being scattered about in all directions.

Dozens of motor cars were reduced to scrap-iron, riddled with flying fragments from the bombs or set on fire, their occupants charred to cinders. Overhead electrical cables, broken by the explosions, whipped about causing further destruction. Besides those killed on the spot hundreds of people were injured, many of them crawling away to die in side alleys. Several more foreigners were killed here.

Opinions differ as to just how these bombs came to be loosed over this crowded area, the Chinese official statement being that the bomb-rack had been damaged by anti-aircraft fire. The general opinion of competent observers of the tragic happening seems to be that the pilot, hit by shrapnel, lost his head and released the bombs in an endeavour to get rid of them, apparently trying to drop them on the open space of the nearby Race Course. He subsequently succeeded in landing his damaged machine in Chinese occupied territory, where it is reported to have pancaked on landing, so that it will never be known whether or not its bomb-rack really was damaged.

日本語訳

別の中国空軍機は、明らかに高射砲の破片が命中しており、北西方向へ逃げていた。チベット路(西蔵路)とエドワード二世路(愛多亜路)の交差点、そこは上海で最も賑やかな場所で、なおかつその日は避難民の波でぎっしり埋め尽くされていたが、目撃者は目を疑った。なんと二発の爆弾が投下されたのだ。この爆弾はその交差点のほぼ中央に落ちた。一発目は地面に大きな穴をあけ、もう一発は地面の数フィート手前の空中で爆発した。

その結果は人類がいまだかつて見たこともない虐殺の光景だった。数秒後、千人以上の人が死の爆風と破片を浴びた。多くは交差点を横切る恐怖の一撃により身体を引き裂かれ断片となった。その他の人は見る影もなく、腕、脚、そして頭部までもが四方に散らばった。

十数台のクルマがスクラップになり、爆弾の破片で穴だらけとなり、あるいは炎上し運転手は炭になった。頭上の電線は爆発で切れ、ムチの一振りとなってさらなる被害をもたらした。ここで亡くなった人以外に数百名が負傷し、多くは路地裏へ這って逃れた末に息絶えた。外国人も死亡した。

なぜこんなに人でごった返す場所に爆弾が落とされたのか、意見が分かれている。中国当局は、爆弾のつり下げ装置が(日本軍の)高射砲によって破壊されていたと公式発表した。確かな目撃者達の意見をまとめると、高射砲が飛行機に当たったためパイロットは我を失い、爆弾を捨て去ろうとした。明らかに近くにある競馬場の空地に落とそうとしたようだ。彼はなんとか中国側エリアまで破損した飛行機を飛ばして着陸した。しかし着陸と同時に飛行機がつぶれてしまい、爆弾つり下げ装置が破損していたのかはついに分からずじまいとなった。

引用終わり

次にイギリスTHE TIMESの記事をそのまま貼り付ける。中国空軍による大世界(ダスカ)前交差点への誤爆は、ダスカ周辺の建物、市民に大きな損害を出したが、ここはフランス租界に属する。フランス政府の抗議が中国側に出された。

Times_french_protest

日本語訳

フランスの抗議と警告

パリ発 8月15日

フランス政府は、中国南京と上海の政府高官に、フランス租界への爆撃の抗議を行った。日本側、中国側双方に対して、フランス租界上空での空中戦は許容できず、もし停止されない場合は、しかるべき措置を取らざるを得ないと伝えた。現時点でヨーロッパ人をフランス租界から避難させるつもりはないが、外務大臣はその可能性はなきにしもあらずだと語った。中国軍広報は、「昨日の悲劇を後悔している。爆撃は偶然のアクシデントのようで、今後繰り返されないことが望まれる」と発表した。中立を貫くフランス政府は、上海における権利保護のためにあらゆる手段を用いることを決意した。日本の内閣発表と、土曜日に上海で死亡した外国人の名前は9ページに、写真は14ページに掲載。

引用終わり

上の記事にあるように、中国軍による謝罪がフランス政府に出されている。しかしながら中国側の個人サイトを見ると、ダスカ前交差点の誤爆や、キャセイホテル前誤爆の写真が、日本軍の爆撃によるものとキャプション付けされているものが多い。

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上海防空戦 1

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王漢勲(おうかんくん)は1912年江蘇省の生まれの、中華民国空軍パイロットだった。1933年、21才の時に、中央航空学校の2期生として入学、3年間の研鑽を積み、卒業後は選抜されてイタリアへ航空研修に派遣された。帰国後はテストパイロット、訓練教官の任務についた。(イラストは王漢勲の愛機と同型のシュライク地上攻撃機)

下表の通り、1937年6月には、日本側諜報員の手により、中国空軍の配置がすでに一覧表となっていた。王漢勲(下表の赤い枠内)は空軍第9大隊第26中隊の中隊長ということがわかる。

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(上の表は日本側スパイが入手した情報によって1937年6月に作成された中国空軍編成配置一覧表。上が右半分、下が左半分)

ある日、王漢勲は、出身校である上海大同大学附属中学(注:6年制)の同窓会パーティに参加した。そこで彼は、ひとりの女性を紹介された。名前を鄭蘋如(テンピンルー)といった。

テンピンルーは、自分の住むフランス租界のテラスハウス万宜坊(まんぎぼう)内に、大同大学学長の娘で胡福南という親友を持っていた。一方、福南の兄、新南は王漢勲と親友だった。この兄妹がお互いの親友同士であるテンピンルーと王漢勲を同窓会で引き合わせたのだ。

ピンルーは学年は二つ下だった。付属中学の5年生(注:高校2年生)の時に彼女は話劇団の主役をやっていたこともあって、学内でも目立つ存在だった。彼女の気を引こうとする男子学生は、あまたいた。テニスに誘われたり、乗馬に誘われたり・・・。ピンルーは誘われれば付き合いは良かったが、残念ながら彼女のおメガネにかなう男子はいなかった。なかには彼女の自宅の入り口で待ち伏せして手紙を渡そうとする男子もいた。

一方、王漢勲は、人望厚く、後輩思い。運動はなんでもこなし、バスケットボール部の主将を務めた。また、大学では理学を専攻し、戦争がなければ学問を極める道もあった。そんな二人だったが、学内では話すことはなく、卒業してからは会う機会さえなかった。

この時のパーティーで初めて会話をした二人は、たちまち意気投合した。ピンルーは、大きな身体でどことなく鷹揚、飾らない性格の王漢勲に、いつしか「大熊(ダーション)」というあだ名を付けて呼ぶようになった。中国語で、親しみを込めて「大きないくじなし」という意味である。家族も彼を歓迎した。しかし、それからすぐに王漢勲は、上海から600キロも離れた南昌の町はずれにある空軍基地に勤務を命ぜられたのだった。王漢勲はピンルーに手紙を書くのが日課になった。



中国空軍は、蒋介石の妻、宋美齢が事実上のトップを務めていた。王漢勲は、宋美齢がアメリカに空軍機購入の商談に渡るときの随行員もしていたことから、信頼は厚かったようである。

Photo 王漢勲(左の写真)中隊長の愛機は、二人乗り地上攻撃機シュライクで、アメリカカーチス社が、中国向けにエンジンの馬力をアップした特別仕様で、機銃を斜め下方に向けて取り付けられていた。この斜め下向き機銃と、小型爆弾を多数搭載することによって、原野に展開する共産軍や、上海市街地に土嚢を積んで陣取る日本軍、黄浦江に並ぶ日本海軍艦船を低空で襲撃しようというのである。

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日中両軍とも準備万端整える中、1937年7月7日未明、北京郊外のマルコポーロ橋近くで夜間演習のために散開していた日本軍歩兵一名が、集合時間に戻らなかった。中国側からの銃声が散発的に聞こえていた。

この日本兵は遅れはしたものの、結局無事に戻ってきた。しかし、この夜、それはいつのまにか互いに相手が先に手を出したという事件となっていた。事件は、砲声の音が増すにつれ、事変となった。事変は収まりそうになかった。その事変が、その後8年間も死力を尽くして戦う戦争になるとは誰も思っていなかった。

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1937年8月4日、飛行訓練を終え、王漢勲は宿舎へ戻ると日課となっているピンルーへの手紙の続きを書いていた。一週間分書いたら送るのだ。一方、ピンルーからの返事はたまにしかこなかった。それでも彼は幸せだった。その夜は、南昌空軍基地の近くの料理店で、出征祝いの宴がある。王漢勲は手紙を書き終えると、部下にせかされて料理店へと出て行った。

ここ南昌は、日本海軍の台湾は台北にある松山基地から約600キロの距離にある。日本が開発したという96式中型攻撃機の行動圏内に入っているという話だ。日本軍の奇襲攻撃がいつあるかもしれず、一刻も早く、各大隊を分散配置しないと危険だった。しかもなるべく上海に近い場所に置いて、先手を打つ必要があった。いよいよ、厳しい訓練の成果を生かすときがやって来た。今晩はその前祝いなのだ。

Curtisshawkiii_1933

(写真は新ホーク CURTISS HAWK Ⅲ)

翌8月5日、太陽がまだ出る前の真っ暗な南昌空軍基地。まず第4大隊の新ホークがエンジンを始動した。全28機が上海の700キロ西方にある周家口に向けて離陸していく。それに続いて、第5大隊の新ホークが大隊長を先頭に滑走を始めた。こちらは南京の東80キロにある揚州へ飛び立った。

Photo_6 (写真はシュライク)

王漢勲中隊長はシュライクのエンジンを始動し、暖気運転を始めた。新ホークが続々と離陸するのを、高まる思いで見つめていた。彼の属する第9大隊の劉超然(りゅうちょうぜん)大隊長が彼のシュライクをエプロンから滑走路端へゆっくりと進めた。そして機体を半回転させ、離陸する方向へ機首をぴたりと向けた。

「いよいよ日本軍を大陸から追い落とせるのだ!」

王漢勲は晴れ晴れした気持ちだった。皆がこの戦争に勝てるという自信にあふれていた。劉大隊長の出発の合図を待つ。大隊長は部下全員が滑走路端に揃ったのを確認すると、片腕を風防の外に出し、人差し指で滑走方向を差すと、軽く2回振った。発進の合図だった。

中華民国空軍、第26中隊のシュライクは、スロットルを一斉に開け始めた。耳をつんざくようなエンジン音が鳴り響いた。最初に王漢勲中隊長が発進、そして唐元良副隊長の順に9機が飛び立った。次いで第27中隊の9機が続く。

部下18機が全て飛び立つのを見届けてから、劉大隊長は、風防を閉め、後ろ向きに座る機銃手に合図をするとスロットルを全開にした。滑走路の芝がぐんぐんと後ろへ飛んでいく。すぐ尾輪が持ち上がった。主脚の2本足だけになってさらに加速、すぅっと地面を離れた。劉大隊長は、上空で待つ王漢勲以下18機に合流すると、先頭に立って編隊を形成。彼らは上海から150キロほど南、杭州湾にほど近い曹娥の基地を目指した。曹娥からなら、上海まで空路30分もかからない距離となる。一日に二度三度の波状攻撃が出来る距離だ。

このほかの部隊も、杭州と南京の中間にある広徳基地や、杭州の筧橋(けんきょう ジァンチャオ)基地など、上海を取り囲むように位置する空軍基地を目指して、それぞれ離陸していった。こうして65機の南昌基地の主力機がすべて出陣していった。

「上海防空戦 2」へ続く ←クリック

付記:タイトルを「上海防空戦」としたことに違和感があると思う。しかし、私がこのテーマを記事にまとめようと思ってぱっと思いついたタイトルがこれだ。上海は中国の都市である。中国人の街である。しかし、そこを爆撃したのが中国軍機である。高射砲や水上機で迎撃したのが日本軍である。空からの攻撃に対して街を守る、これは防空戦以外の何ものでもない。しかし、守るのは他国からやってきた日本人である。戦争の持つ不条理をこのタイトルで示せたらと思った。

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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2010年1月29日 (金)

映画「上海の月」 映画旬報より

1937年12月に上海にできた日本のラジオ局、大上海放送局を舞台にした映画「上海の月」の広告記事を、昭和16年(1941年)前半の「映画旬報」より抽出してみたのでここに写真をアップしたい。この映画はフィルムが半分しか残っていないが、写真を通して少しでもかいま見れたらと思う。

Photo_4

ジェスフィールド公園でロケ中の成瀬監督と袁露糸(エン・ロシ。テンピンルーがモデル)役の山田五十鈴。キャプションを読むと、中華映画(=中華電影)の大ステージにて、服部良一指揮のもと、工部局交響楽団、大上海クーニャン合唱団、上海雅楽社などの62名を集めて、主題歌「牡丹の曲」を収録したようである。現在残っているレコードではうかがい知ることの出来ないスケールでこの曲が映画の中で使われたようだ。服部良一はこの映画の音楽監督を務め、上海に渡りロケに同行していた。また、原案の松崎啓次、脚色の山形雄策も、監督の成瀬巳喜男のロケハンに立ち会ったとある。

Photo

こちらは後ろに墓園が映っていることから、静安寺南側の静安寺公墓、現在の静安寺公園と思われる。

Photo_5

左はラジオ局創設に活躍した江木(NHKが1937年夏に上海に派遣した島山鶴雄氏か友安義高氏がモデル)役の大日向伝。一番右が許梨娜(シュ・リナ。「上海人文記」の徐小姐(シュ・シャオチェ)がモデル)役の汪洋(ワンヤン)。中華電影が発掘した新人中国人女優だ。中華映画・上海撮影所とキャプションが入っているが、「中華電影」のことを日本語で表現するときは当時は「中華映画」と日本語に訳していたようだ。

また、関係者一同で、蒋介石国民党の国策映画「秘密電報符牒」を試写して見たようだ。参考にしようということだろうか。重慶政府側の中央電影撮影場によるもので、反軍閥、反共産党をコンセプトとした映画で、南京市の営業収入記録を立てた人気映画だったようだ。監督の成瀬によれば、「内容が宣伝の関係上、会合、演説、スローガンが多すぎる。演出、技術、演技に特に見るべきところは無い・・・」という感想だ。

Photo_2
上の写真、南京路の山田五十鈴。右側遠方に永安公司デパート新楼の高い建物が見える。山田五十鈴の「上海から帰って」というタイトルのついたキャプションを読むと、1941年2月14日から4月30日まで上海に滞在。2月18日には南京の汪主席に挨拶に行ったとある。また、自分の役を、「袁露糸という中国人のアナウンサーで、始め抗日派の間諜となり後に新東亜建設の重大使命を自覚してついに昔の仲間の手に倒される役」と書いている。テンピンルーが、仲間から抗日か親日かの踏み絵を踏まされていたという原作者松崎啓次やその友人劉吶鴎(りゅうとつおう)の見方を反映した役柄だ。

下の写真、一番右はおそらくラジオ局の日本人女性社員役だろう。「上海人文記」では新井さんとなっていた元ピアニストがモデルと思われる。

Photo_3

中華電影のスタジオオープンセットの山田五十鈴。カメラを覗いているのが成瀬監督。中華電影の上海スタジオは、上海事変で日中双方からの爆撃、砲撃によって廃墟となっていたザペイ地区に新しく作られた。

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2010年1月19日 (火)

映画「間諜 海の薔薇」

Photo_2 松崎啓次著「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」 ←クリック  の章では、スパイの嫌疑が最後まで晴れなかったヒロイン、徐梨娜(シュ・リナ)が日本に旅行したところで終わっている。

また、これを原作とする映画「上海の月」では、やはりスパイの嫌疑のあった許梨娜(シュ・リナ)が、日本へ連れて行ってくれと言って終わっている。

松崎啓次のプロデュース映画を調べていたら、「間諜 海の薔薇」という1945年2月22日封切りの映画をプロデュースしていたのがわかった。なかなかに興味を引くタイトルである。

Photo_3 宣伝文句は、

「上海から姿を消した美貌の踊り子、果たして彼女は何者か?」

思った通り、女スパイの映画である。

物語は、アメリカ潜水艦、艦橋には一輪の赤い薔薇を描いた"Sea Rose"「海の薔薇号」が、日本近海に突如浮上するシーンから始まる。「海の薔薇号」は連合国側の諜報本部である。その司令塔にいる極東情報本部長Lee少佐からの司令により、上海のイギリス租界にいる美貌のダンサー、実態はスパイであるエルザが、日本にやってくる。

エルザは、中国人とフィリピン人の混血で、中国語、日本語、英語、そしてタガログ語を使いこなす。「東洋人にして東洋人を忘れた女」として、日本人の敵となる。日本国内ではアメリカのスパイはすでに憲兵隊によって一掃されていたが、唯一残ったのが、神戸の教会管理人ハイランドと、その部下でユダヤ人のグルーシュタインである。

Photo_4 日本に帰国している日系二世の富谷は、エルザの美貌に魅せられ、他の無警戒な日本人とともに、アメリカのスパイ活動に協力してしまう。何人もの不用意な市民からの情報によって、スパイ達は、日本人乗員を大勢乗せた護送艦隊の行動予定を伝送することに成功する。そこへ、日本憲兵隊が活躍をし、逆に「海の薔薇号」を含む米潜水艦を撃沈する結果となる。エルザは変装して逃げるがついに捕らえられた。しかし、やがて東洋人の自覚を持つに至って彼女は、温情により許される、というもの。

「上海の月」以上に、いかにも、というストーリー展開であるが、それもそのはず、サブタイトルとして、「憲兵司令部指導」という文字がつくらしい。台本の最初のページに、製作意図として、「決戦下国家防諜の盤石(ばんじゃく)を期すゆえんを強調し、国民の防諜精神を喚起せんとするものである」と書いてある。

「上海の月」から5年経つと、検閲だけではなく、脚本を書く段階から憲兵隊が「指導」に入るようになったわけだ。また、防諜の相手が蒋介石中国から、アメリカに変わり、女スパイが日中混血ではなく、中国とフィリピンの混血になっている点が、日本の主要な戦いが中国大陸から太平洋戦線そして日本国内に変わりつつあることを示している。

上海の美しい女スパイが日本にやってくる。確かに、「上海の月」の続編という気もしなくはない。ただ、松崎も劉吶鴎も、徐小姐がスパイだとは断定していなかった。いや、スパイではないと思いたがっていた、というのが正解だろう。

しかし、憲兵隊は疑わしきはスパイと断定して、物語を作っている。国策防諜映画たるゆえんである。

2 さて、この映画、実はアメリカ人が7、8名出演している。アメリカの潜水艦が司令部なのだから当たり前とも言えるし、いや戦争中の日本映画にアメリカ人が出演するわけがないとも言える。しかし、アメリカ人が出演しているのである。

種明かしをすると、捕虜である。東京都大森の現在は平和島競艇のメインスタンドがあるところに、戦争中は大規模な捕虜収容所があった。アメリカ人だけでなく、イギリス人、カナダ人、オーストラリア人がいた。みな、港の荷役や延焼防止のための家屋取り壊しなどの肉体労働をしていて、食料が少なかったからやせ細ってはいたが、大男が多かった。

捕虜は数百名いたようだが、衣笠監督らによって人選がなされ、十数名が出演者に選ばれた。ちなみに、当初出演希望だった将校の数名がどたんばで出演を拒否したらしい。敵国の国策映画に出演することの危険性を考えたのだろう。中国風の言葉を使えば、漢奸のがれ、ということだ。

以下、「私の昭和映画史」を書いた広沢栄一氏の言葉を借りる。

引用開始

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Photo 「出演の俘虜達は、迎えのバスに乗り走り出すと、遠足の子供のようにはしゃいで歓声を上げた。つかのまの開放感にうきうきとなり、ひゅーひゅーと口笛を鳴らすものもいた。「鬼畜米英」というスローガンとは違って、どの顔も人なつこく、陽気な顔にあふれていた」

「世田谷区喜多見の東宝撮影所に到着したのはもう昼近い時刻だったと思う。俘虜達にはまず食事を供したと聞いている。丼に大盛りの銀しゃり飯にフライなどがついた当時としては上等のランチであったという。その食事が俘虜達へのギャラだったという。たしかにその当時のエキストラ料は1円30銭から1円80銭くらいが相場だったが、俘虜の身の彼らがそんな金をもらっても仕方がない。そこで警備の兵や俘虜達と話し合ってこういう食事をすることになった。外人だからパンを用意しようかと言ったら、いやライスの方がいいという希望だったという」

「そのランチタイムが終わると、俘虜達は衣裳部へ案内される。そこで衣裳部が用意した新品のアメリカ海軍の軍服を着る。そして床屋できれいに散髪し、髪をとかしてポマードを塗る。立派な髭の持ち主はそのまま生かして手入れする。私も立ち会っていたが、みんなみるみるうちに別人のようになり、ハリウッドスターみたいになってきた」

「セットはその日から数日続いたが、俘虜達はまるで水を得た魚のようにいきいきしていた。「テスト」「アクション」「カット」「オーケー」などの映画用語は、もともとハリウッドから伝来した英語なのだから彼らはすぐ理解することができたし、また思わぬところで母国語を聞いたので、みんなうれしそうに顔をほころばせていた。もとより潜水艦乗りの経験者など一人もいなかったが、かなり心得顔で伝声管に向かって「ダイブ、ハリーアップ、ワンハンドレッドフィート」などと、渋い声で言う」

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引用終わり

なかなかに意外なエピソードではある。

この映画「間諜 海の薔薇」は、現在存在しない。敗戦直後、東宝が戦犯として追求されるのを怖れて、ネガフィルムごと焼却処分してしまったからである。銀シャリ飯をたらふく食った捕虜達も、出演の証拠がなくなったことで、漢奸のそしりを受けることなく楽しい思い出とすることができたわけだ。

いずれにせよ、この映画を映画館で実際に見た方々の声はいつしか届かなくなる。そしていくつかの絶版本にひっそりと情報が眠るだけ・・・、というのは、とても残念なことである。

参考

「私の昭和映画史」広沢栄一

「日本映画の時代」広沢栄一

「大東亜戦争と日本映画」桜本富雄

「帝国の銀幕」ピーター B ハーイ

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2010年1月18日 (月)

映画「上海の月」の主題歌

映画「上海の月」には主題歌もあった。一つは主演女優である山田五十鈴の歌う「牡丹の曲」。

歌詞の中に、

「星の光に ロケット開けりゃ 君の横顔なつかしいとし」

とあるので、「上海人文記」の 「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」 ←クリック  を意識した歌詞であることは明らかだ。歌の方は、ロケットの中に写真が、原作ではが入っていたという違いはある。ちなみにネット上では、「ロケット」ではなくて、「ポケット」と誤記されているのが多い。やはり原作や映画が一般的に知られていないからだろうが、ちょっとさみしい部分ではある。 この歌は台湾でも1955年ごろに流行ったようだ。

作曲:服部良一、作詞:西条八十という「蘇州夜曲」コンビで、歌が山田五十鈴である。

赤い牡丹の
花びら染めた
踊り衣裳が涙で濡れる
泣いちゃいけない支那人形
春は優しくまた還る

星の光に
ロケット開けりゃ
君が横顔なつかしいとし
乙女心を だれが知る  
春は優しく  また還る

呼べば答える
こころと心
海をへだてた二つの国に
笑顔花咲く 愛の空  
春は優しく また還る

※おそらくレコードに収まりきらなかったためと思われますが、草稿段階では下記の歌詞もあったようです。

花の馬車(マーチョ)で
あなたの歌に
つんだ租界の紫すみれ
なんであのまま色褪せよ
春は優しく また還る

youtubeはこちらをクリック→「牡丹の曲」へ

もう一曲は「明日の運命(あすのさだめ)」と言って、やはり、服部良一、西条八十のコンビに、歌は霧島登、渡辺はま子のデュエットである。

youtubeはこちらをクリック→「明日の運命」へ

夕焼け雲の かげ映す
流れの岸に 語らえど
結ぶすべなき 二つの心
ああ、秋の上海 うずら鳴く

乙女の胸の 紅染めて
せつなき色の 夕雲に
君が心を やさしく問えば
ああ、雲は答えず 落ち葉降る

かたきと知れど ふるさとの
妹に似たる うしろかげ
明日のさだめも 唐撫子(からなでしこ)の
ああ、君は歌うよ 愛の歌

行き来の雲の たまたまに
逢うては落とす 小夜時雨(さよしぐれ)
晴れて大陸 ほのぼの登る
ああ、朝の日の出ぞ たのもしき

yanagi様からコメントで貴重なご指摘を頂いた。この「明日の運命」は、シンガポール、香港などの中華圏では、「希望在明天」として今でも歌われていることがわかったので下記、追記する。

ちなみに、中国語歌詞の作詞者は、陳蝶衣(ちんちょうい チャン・ディエイー)という方で、1908年江蘇省武進生まれ、2007年10月15日に香港で99才で亡くなった方。中国語歌謡の世界では「詞聖」とも呼ばれたヒットメイカーらしい。上海の租界で新聞雑誌の発行編集にかかわった後、1941年から作詞を始めた。

また、作曲者名は、夏端齡となっている。これが誰だかさっぱりわからなかった。どうやらハットリという音を広東語の音で当て、服部良一自身が1960年代に電懋公司の招きで香港で活動した時に付けたようだ。カタカナだとハートゥンリーのような発音となろうか。この香港での活動時に、服部は香港EMI所属の中国人歌手達に「胸の振り子」「チャイナタンゴ」など20曲ほどを提供、今回の席静婷の「希望在明天」もそのうちの一曲らしい。

最初、中国語バージョンの曲は音符の数が増やされている、また微妙に位置を変化させているように感じたが、楽譜をネットで購入して見てみたらほぼそのまま再現されていた。日本語の方ではこぶしを回しているところを、中国語バージョンはそこにきっちり言葉の音を入れ、かつテンポがかなりゆったりした速度になっている。この中国語バージョンもいい雰囲気が出ていると思う。ダンサブルなジャズテイストになっていて、youtubeで見ると多くの歌手がリズムに合わせて踊りながら歌っている。youtubeではシンガポールのものが多く、華僑圏でも特に新がポールでこの歌が歌いつがれているようだ。

こちらのyoutubeは静婷(ジンティ)の「希望在明天」。この女性が中国語バージョンを最初に歌ったようだが、このyoutubeはかなり後になってのもののようだ。もともとは1960年代のポップスとしてとらえられている。

希望在明天(シーワン ツァイ ミンティエン) 

作詞 陳蝶衣  作曲 夏端齡(=服部良一)

你可知道        希望在明天

ニーカーチーダォ  シーワンツァイミンティエン

明天      並非路萬千

ミンティエン  ビンフェィルーワンチェン

只要過了今夜
ジィヤォカーラジンイェ

它就到眼前
タージュダォイェンチェン

和你會重相見
フォニーフェイーチョンシァンジェン

你還是展開笑臉
ニーファーンシジャンカイシャオリェン

等候明天見
ドンホミンティェンジェン

你的面
ニーディミェン

再告訴你      一個好消息

ツァイガォスニー イグハオシャオシー

你的希望在明天
ニーディシーワンツァイミンティェン

こちらはパワフルで大人っぽい「希望在明天」。

(日本語訳)

あなたは明日に望みがあることを知っています

明日への道は決して遠くはありません

越えるのは今夜、ただそれだけ

それは目の前


あなたと次に出会うとき

きっと笑顔を見せてくれますね

明日また会えることを祈って

もう一度、いいこと教えます

あなたの望みは明日にあります

こちらは、かわいらしくハッピーな感じの「希望在明天」

1941年の日本の映画主題歌が、巡り巡って、日本ではなく、現代の中華圏で歌い継がれていたわけだ。映画「上海の月」の主題歌二曲は、SPレコードのA面B面として、一枚のレコードとなって映画とほぼ同時に販売された。上海の虹口地区などでも手に入ったのかもしれない。上海から香港に移住していた作詞家陳蝶衣が、それに中国語の詩をつけた。

日本語歌詞は、中国人女性を愛し、日本人男性を愛した結ぶ術なき敵国人同士の二人に対し、4番の歌詞のラスト、大陸にのぼる朝日、によって希望を持たせる展開になっている。

一方、陳蝶衣による中国語歌詞は、「あなた」に対し、明日への希望を持ちなさい、というシンプルなメッセージを発信している。イメージは近いものがある。この明日への希望という思いが、いったい何を指すのか気になるところだ。自分の生まれ故郷中国での、共産党の文革による重い空気を反映したものなのかもしれない。同胞よ、もう少しの辛抱だと。

しかし、これを歌う現代の中国人の誰一人として、オリジナルの歌には1930年代末の上海で、日本のラジオ局で働いた若き中国人女性のせつない思いがつまっているのだ、とは思いが至らないだろう。

劉吶鴎(りゅうとつおう)、穆時英(ぼくじえい)や、漢奸として倒された多くの中国人ラジオ局職員達への鎮魂歌として・・・、そしてテンピンルーと徐小姐(シュ・シャオチェ)への思いをこめて作られた映画「上海の月」。その主題歌は、なかばこの世から消え失せようとしていた。それがなんと香港やシンガポールなど中華圏の人々の間で、高らかに歌い継がれていたのだ。

歴史とはたまに思いも寄らぬことをするものだ。

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2010年1月17日 (日)

中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料2)

引き続き、大上海放送局の運営組織、中支那派遣軍報道部放送班の概要についての文書を引用する。

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(二)報道科
1,要員
現在6名にして、科長の下にニュース編集、翻訳、庶務の3係を置き、ニュース編集係に主任1、経済ニュース係1、を置き、原稿の編集に当たらしめ、翻訳係に主任1、を置き、庶務係1名は原稿、新聞切り抜き、記録その他の雑務を担当す。

2.業務の現在および将来
(イ)ニュース
北京語一日二回、上海語一日一回、広東語一日一回、英語一日一回

(ロ)ニュース解説
新語、新問題の解説、週間ニュース、以上いずれも北京語により宣伝的内容を盛りたるもの

(ハ)経済ニュース
上海語により為替相場、重要商品値段等

(二)講演
放送科の講演とは別個に近き将来、政治的思想的なものを一週間一回まで放送する予定なり。反蒋防共親日を内容とせるものにして中支新政権成立後は、極めて必要なるものと認める。

3.一キロ短波による奥地向け放送

漢口、重慶、長沙等の蒋政権中心地に向け、四月十五日より純然たる宣伝放送としてニュース及びニュース解説を放送せんとす。聴取層は、蒋政権の言論統制下にあることを顧慮し、これに対応して緩急よろしきを得たる編集方法による予定なり。なおこれには演芸を挟み、放送科とタイアップする放送なるも、便宜上報道科の欄に記し置くものなり。

4.報道方針

支那民衆を反蒋、防共、親日の方向に誘導し、敗戦支那、中北支における決定的事実の暴露、開明に努め、皇軍占領地域における民生楽○(注:○は判読不能)、治安、宣撫の実情等地方状況の周知に意を注ぐ。

5.取材

同盟通信社、陸海軍報道部、外務側その他より提供の材料を、適宜編集し、又支那側新聞その他により支那側の情報を逆用する宣伝ニュース編集して、デマ宣伝に対抗しつつあり。

6.将来の計画

事態の推移-中央新政権(注:親日政権の維新政府)の成立等-により、大方報道放送は宣伝より宣撫の方式によれるも、将来報道放送の一部をもって支那人の実生活に利用せしめんとし、日本事情紹介、職業紹介、遺失物の知らせ、出入船舶の知らせ等を計画しつつあり。

(三)技術科

1.要員

現在25名にして、技術科長の下に、

放送所係11,(内主任1、甲組4、乙組4、工作2、とし甲乙組は日夜勤交替危機の保守、調整を行う)

演奏所係7、(内主任1、係員6、虹口及び南京路両演奏所の機器の保守、調整を行う)

試験係3、(内主任1、係員2、諸計画に伴う機器の製作及び試験を行う)

庶務係3、(技術用品の請求、警戒、衛生、炊事等の雑務)

2.設備の概況

(イ)放送所
昨今改良工事も一段落を告げ、性能優秀なり。但し、長時間の運転及び酷暑期における耐熱設備、長期間運転に対する予備設備等、今後相当の追加施設を必要とし、目下計画並びに工事を実施中なり。

(ロ)演奏所(注:スタジオ)
楊樹浦(注:ヤンジュッポ)放送所、虹口演奏所及び南京路演奏所は、いずれも一室までの演奏室を有するも、応急的設備なるため長時間の使用は衛生上不適当なる箇所あり。又音響設備の上にも多々改良を必要とするも臨時設備としては一応の使用に堪え得るものと信ぜらる。なお設備の改良、拡張の計画並びに実施を行いおれり。

(ハ)連絡線
虹口演奏所及び南京路演奏所と放送所を連絡する線路は、すべて上海電話会社より専用線なるが故に、性能良好ならず。又時々障害に遭遇し、その都度少なからざる放送支障を受ける状態なり。最近、該線の特性を改良する装置を研究の上追加せるも、なお外に超短波により演奏所と放送所を連絡することを計画し、目下機器試作中なり。

(二)大東放送局との連絡設備
大東放送局との間には、番組交換用連絡設備ありて、相互に放送番組を交換中継し得る状態にあり。

(ホ)日本電信局短波1KW電話送信機との関係
右送信機は9,300KCにより毎日午後九時より十時まで(上海時)奥地向け放送に使用するものなるも虹口演奏所よりこれに放送番組を供給するために連絡線及び機器設備を有し、操縦のために臨機人員を派遣することあり。

3.計画中の設備
(イ)放送時間延長の対策
現在午前十一時より午後十時十分(上海時)の放送時間なるも、将来なおこれを延長すべきにより機器設備及び人員配置計画を進めつつあり。

(ロ)ラヂオ塔拡声器
広く大衆に聴取せしむべくラヂオ塔及び拡声器を上海市内、南京杭州塔に設置する計画の下に、機器準備中にして、取り敢えず調査のため係員三名近日中に杭州に出張の予定なり。

(ハ)共同聴取設備
現在南市に一組の共同聴取設備を実施おるも、更に適当なる箇所に増設すべく目下設計中なり。

(二)超短波装置
上海電話会社の市内電話線を使用して、放送を実施することは、種々の不便不利あるをもって、これを超短波装置により置換せんとし目下機器製作中なり。

(ホ)搬送電話線装置
南京蘇州等との間における臨時中継放送に供すべく、又放送に使用せざる時は軍通話回線の一補助装置となすべく、搬送電話装置を設計し、一回試験を行いたる結果、可能の見込みつきたるに付き、目下一組の通話装置を設計中なり。

(四)業務科
現在12名にして文書、会計、庶務の3係に分け、おのおの陣中日誌、諸報告、人事、命令会報の伝達、文書、金銭出納、予算、物品の受払保管、配車、衛生、炊事、警戒等を担務す。

(五)現在主任1、聴査2、雑役1、にして四月一日より業務を開始、三回に亘り各放送局に対し司令を発して監督権の接収と再認可の必要を通告したり。これに対し目下四局の申請あり。将来機能の全面的発動行使により、中支放送局群に対する放送電波の監督取り締まりに遺憾なきを期せんとす(広播無線電監督所業務報告号外其一参照)

以上

本報告の内、虹口演奏所及び要員宿舎移転の件は、軍報道部において好適の建物を使用せしむべきに付き、近日中に移転の予定なり。

備考

本書は在上海中村技師より通信部会長宛参考まで報告ありたるものなり

(統括部)

------------全引用終わり

参考として、「ラヂオ年鑑 昭和15年1月5日印刷版」に大上海放送局のプログラム、「放送事項別時刻表」が掲載されていたので以下、記載しておく。

平日午前

11:00〜11:30 家庭の時間

11:30〜11:59 宗教の時間

11:59〜0:00 時報(北京語)

平日午後

0:00〜1:00 レコード(洋楽)

1:00〜1:30 ニュース(英語)

1:30〜2:00 レコード(北京劇)

2:00〜2:30 ニュース(北京語)

2:30〜3:00 経済市況(上海語)

3:00〜5:00 休憩

5:00〜5:30 子供の時間

5:30〜6:00 ニュース(広東語)

6:00〜6:30 日本語講座

6:30〜7:00 ニュース(上海語)

7:00〜7:30 講演

7:30〜7:45 休憩

7:45〜8:00 ニュース(英語)

8:00〜9:00 演芸

9:00〜9:25 ニュース(北京語)

9:25〜9:50 演芸

9:50〜10:05 時事解説(北京語)

10:05〜10:10 番組予報(北京語)

休日プログラムは、午後6時からの日本語講座が北京語の週間ニュースになる。

「上海人文記」には、テンピンルーは「北京語、上海語、英語を自国語のように話す」と書いてあり、また、徐小姐は広東出身とある。したがって、ニュースのうち北京語、上海語、英語をテンピンルーが、北京語、上海語、広東語を徐小姐(仮名)がアナウンスしていたと思われる。

上記概要には、虹口演奏所が近日中に移転の予定と書かれているが、福田敏之著「姿なき尖兵」によると、確かに1938年4月に日本人倶楽部からホテルアスターハウスの2階に移転したとある。上記の報告書だと、狭くて不衛生ということが理由のように書いてあるが、福田は、

「致命的なことは、共同租界に住む中国人タレントが蘇州河を越えて虹口に来ることを嫌がった。つまり漢奸と見なされることを極度に怖れたからだった」

と書いている。こちらが本当の理由なのであろう。映画「上海の月」の滝村プロデューサーが書いていたように、1940年頃までは複数の中国人職員が抗日側のテロにより暗殺されている。

このような状況の中で、中国人アナウンサーという仕事をテンピンルーと徐小姐(仮名)は行っていたわけである。

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中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料1)

鄭蘋如(テンピンルー)、そして「上海人文記」の徐小姐(シュシャオチェ)がアナウンサーとして勤務した、大上海放送局。このラジオ局を管理運営するのが、中支那派遣軍報道部放送班であるが、当放送班につき、1938年(昭和13年)4月13日に書かれた文書を入手したので、ここに2回に分けて記載する。

前に、当ブログに「テンピンルーの勤務したラジオ局」として、主に福田敏之著の「姿なき尖兵」という本を参考に記事を書いたが、今回は一次資料として原則的にそのまま記載する(句読点の若干の追加、助詞のカタカナをひらがにする、旧漢字を現在の漢字にする変更は行うがそれ以外は原文通りとする。追記は「注」と付する)。


ピンルーと徐小姐のラジオ局勤務の実態に少しでも近づくとともに、1930年代上海における日本のラジオ放送につき参考になればと思う。この文書の発見、閲覧、複写にはそれなりの手間と時間が伴ったので、ここに電子データとして入力、ネット検索可能とすることで将来の研究者の役にたてばと思う。


引用開始

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中支那派遣軍報道部放送班概要(4月13日作製)(注:マル秘の印あり)
放送班概要

中支那派遣軍報道部放送班の概要を報告すること次の如し

一、大上海放送局の設立

大上海放送局(10kW)は、軍の特殊目的のため昭和12年10月29日、日本電信電話工事株式会社の手により放送設備工事に着手、同年12月5日電波発射、12月7日試験放送開始、昭和13年1月7日工事の一部未完成のまま引継ぎ、1月17日本放送開始、工事の完成を待ち、3月18日正式引継ぎを完了、現在に至れるものなり(大上海放送局概要参照)

二、機構

昭和13年2月14日まで、中支那方面軍特務部諜報班乙として、その業務を大上海放送局の名において遂行したるも、2月15日より中支那派遣軍報道部放送班として大上海放送局および4月1日より業務を開始せる放送監督所の二つを一括し、現在次のごとき編成機構により業務を遂行しつつあり。(注:下記組織図は原本をもとにブログ管理人が作製。クリックすると大きくなります)

Photo

三、要員

4月1日現在の要員(未発令のものを含む)は、57名にしてこれを身分その他により区別すれば次の如し。

 1,身分別
将校1、奏嘱1、奏侍嘱3、判嘱2、判侍嘱7、判侍雇8、通信技工2、雇員9、傭人17、応召兵7、

 2,担務別
班長1、放送科9、報道科6、技術科25、業務科12、監督所4、

 3、勤務場所別
虹口(注:ホンキュウ)演奏所(注:スタジオ)31、楊樹浦(注:ヤンジュッポ)放送所17、南京路演奏所1、監督所2、聴査室2、要員宿舎4、(兼務のものは本務場所にのみ参入せり)

 4.国籍別
日本人44、支那人13、

 5.男女別
男50、女7、

以上の通りなるも、現在の機構において更に次の要員補充を必要とす。

放送科 学芸係主任1、通訳2、アナウンサー1(※1)、小計4、

報道科 ニュース編集係1、翻訳係2、講演係1、小計5、

技術科 ラジオ塔・拡声器・共同聴取設備要員3、超短波・搬送設備要員2、放送時刻園長に伴う要員4、小計9、

業務科 筆耕1、給仕2、小計3、

監督所 聴査監督1、聴査係1、技術係2、庶務係2、翻訳係2、小計11、

合計32、

なお、将来放送班業務の新計画例の宣撫地に小局を設置するがごとき場合には、此に対する補充員を更に必要とするものなり。されども放送事業の特殊性により、一部のものを除き、これを現地に求め、ただちに実務に当たらしむことは極めて困難なるをもって、次の三方法、すなわち、

 一、現地採用者を養成しつつ使用する方法

 二、内地より経験者を採用する方法

 三、応召兵より適任者を求むる方法

の三方法を考え得るも、三は予測し得ざる時期に帰還することあるべく、かかる場合更に新しく補充員を求むべき結果となるところあり(現在7名の応召兵あり)。一、二、共に相当の困難を予想せらるるをもって、要員補充は大いに考慮すべき問題たり。

四、建物
現在使用中の建物次の如し。

日本人倶楽部内        大上海放送局虹口演奏所
白楊幼稚園           大上海放送局楊樹浦放送所
東部小学校内          大上海放送局楊樹浦受信所
哈同(注:ハードン)大楼内  大上海放送局南京路演奏所
同右                広播無線電監督所弁事所
毎日ハウス内          広播無線電監督所聴査室
昆山路              放送班要員宿舎

右の中、日本人倶楽部内虹口演奏所は、放送班業務を総括実施する場所にして、各科(技術科を除く)要員の大部を収容せる所なるも、極めて狭隘なるため、事務運行上著しき支障あり。早急にしかるべき建物を求めて移転する要あるものと認む。又、昆山路要員宿舎は外人所有建物にしてこれが明け渡しを要請せられつつあるをもって、これまた、至急移転の要あり。

五、各科ならびに監督所の概要

(一)放送科
1.要員

現在9名にして、放送科長の下に学芸、告知、庶務の3係を置き、学芸係に主任1、(現在業務科長兼務)、通訳1を置き、放送番組編成に当たる。告知係は、主任アナウンサー以下4をもってアナウンス業務に当たり、ほかにレコード操作、放送記録番組発表、スタジオ雑役等を担務するもの3をもって庶務係とす。ほかに局長(班長兼務)ならびに放送科長の諮問機関として外部に放送番組編成委員会を置く。

2,業務の現在及び将来

(イ)一般講演     学術、宗教、趣味、家庭に関する講演

(ロ)講座        連続的のものにして、現在日本語講座を連講す

(ハ)演芸        一流芸術家をもってし、俄然支那小局を圧しつつあり

(二)子供の時間   童話、および子供向けレコード

(ホ)内地向け放送  昨冬末より戦時歳晩風景、寒山寺除夜鐘、陸海両最高指揮官の年頭の辞、支那音楽、子供の時間等の内地向け放送を行いたり。将来これが資料はますます増加するものと見るべく、日本放送協会と連絡し、一層その送出回数も増加することとなるべし。

(へ)スタジオ外中継放送  (ハ)(注:(ホ)の間違いか)に掲上せる内地向け放送の大部は、スタジオ外中継にして、最近においては南京における維新政府成立式の実況録音、玉仏寺における日支合同慰霊祭等を中継せり。現在のスタジオ外放送は、治安上いまだ自由に実施しえざる情勢にあるも、将来の放送計画中重要なる地位を占めるものにして、大東放送局との番組交換と相まち、一層その充実を期せんとしつつあり。

現在はこの中、演芸に主力を注ぎ、新設大上海放送局に対する一般支那聴取層の興味関心を誘導し、聴取者を多数獲得せんとする第一期の段階にあり。

一旦引用終了----------------

続く

ブログ管理人コメント

アナウンサーは、放送班告知係に属していたことがわかる。要員は、主任アナウンサー以下4名と記載されている。主任アナウンサーはおそらくNHK友安アナウンサーであり、もう一人日本人女性アナウンサーで岩井アナウンサーという方がいたことがわかっているので(「放送機の神様 島山鶴雄の生涯」P130による)、残りの二人が、鄭蘋如(テンピンルー)と徐梨娜(シュ リナ、本名は不明だが、ここでは松崎啓次が「上海人文記」で仮名として使った徐梨娜と表記する)であった可能性が高い。つまり、当初の放送班告知係のメンバー4名は、

 友安義高主任アナウンサー(NHK)

 岩井アナウンサー(日本人女性。現地採用と思われる)

 鄭蘋如(北京語、上海語、英語)

 徐梨娜(仮名。北京語、上海語、広東語)

となろう。

また、1938年4月13日に書かれたこの文書にて、アナウンサー1名の補充を要求(※1参照)していることから、テンピンルー、もしくは徐梨娜のどちらかが、退職する話が出ていたのではないだろうか。松崎の「上海人文記」の記載から類推すると、ピンルーは1938年の5月〜6月頃に退職(※2)、徐梨娜は、少なくとも1939年1月頃よりも前(※3)に退職している。タイミングからすると、ピンルーの退職希望に伴う補充の可能性が高い。

(※2) 「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章に、「漢口作戦がたけなわの頃、上海は夏であった」と記述された日に、放送班の職員が松崎に「テンピンルーは2、3ヶ月前にアナウンサーを辞めました」と言っている。漢口作戦は、1938年8月22日に発動され、11月15日漢口陥落をもって終了している。漢口作戦たけなわの頃の夏を1938年8月下旬とすると、そこから3ヶ月前として5月、2ヶ月前として6月となる。

(※3) 「上海人文記」の「徐小姐のロケット」の章に、1939年の上海の冬空の頃に、徐小姐がラジオ局を辞めた理由を劉吶鴎から松崎が聞いている。松崎は1939年正月に日本から再度上海に来て、徐小姐を劉吶鴎の紹介で中国語の個人教師とした。それから2週間くらいたった時の話なので、少なくとも1939年1月頃より前に徐小姐は辞めていることになる。

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2010年1月13日 (水)

徐小姐のロケット あとがき

自分なりのあとがきを書いてみたい。

映画「上海の月」。中華電影設立の立役者、松崎啓次が、志半ばで亡くなった友人の劉吶鴎、穆時英、劉吶鴎の友人である鄭蘋如(テンピンルー)、そしておそらくは妻ふゆのに対する鎮魂歌として作った映画なのだと思う。

ところが、この映画は、切り刻まれて処分されたのだろう、フィルムが半分しか残っていない。東宝映画は、終戦直後に、軍事活動に資するため製作されたと見られかねない映画を、戦犯対策として焼却処分している。いや、逆に、全部を焼却するよう命じられたが、全部焼いたといって半分残した意地の社員がいたという気もする。

しかし、半分になってしまったこの映画は、当然まともな筋がわからず、映画を評価することは不可能になっている。それどころか、その半分の映画を見て、わけのわからぬ国策映画、という評価がなかば定着しているようだ。

私が原作である「上海人文記」の「徐小姐(シュ シャオチェ)のロケット」の章を、”ほぼそのまま丸写し”したのは、映画は見れずとも原作を読むことで、松崎とそして当時製作にあたった人たちの意図が、読者の脳裏に映像として浮かび上がってくるのではないかと考えたからだ。

この一連の記事をアップするに際していろいろと史料をほじくりかえした。すると、やはり情報は埋もれているものである。

2008年8月、読売テレビ系で「二つの祖国を持つ女諜報員 鄭蘋如の真実」が放送された。この番組は私にいくつかのとても重要な事実を教えてくれたが、また同時に、信用できないこと、腑に落ちないことも放送された。

いくつかの腑に落ちなかったことのひとつに、番組のドキュメント部分では進行をつとめ、またドラマ部分ではピンルー役をつとめた中国人女優の耿忠(こうちゅう)さんが、ピンルーがラジオ局をやめた理由をこう推測したのだ。耿忠さんは確かこう言った。

「私は南京で育ちました。南京大虐殺があった街です。鄭蘋如は、アナウンサーとして日本軍の南京入城を放送しました。しかしその後、南京大虐殺を知ったはずです。鄭蘋如が日本のラジオ局をやめた理由は、この南京大虐殺を知ったからだと思います」

耿忠さんがこう思うのは南京出身者としては素直な意見かと思うが、ここが私はずっとひっかかっていた。引っかかる部分は多々あるが、引っかかった部分の一つだ。

私の考える、鄭蘋如が半年ほどで、日本のラジオ局アナウンサーを辞めた理由は、むずかしいことではない。誰でも思いつく。

「漢奸のがれ」

この一言だ。

私の史料あさりで見つかったものの一つが、軍報道部長、馬淵大佐の書いた「報道前線」という1941年発行の本だ。そこに次のような一節が書いてあったので引用する。

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「大上海放送局が建設されたのは昭和12年(1937年)の暮で、すでに蒋介石政権は首都南京を放棄して遠く漢口に遁入した頃であったが、それでも上海の蘇州河一つ距てた空気は極めて険悪で、依然青天白日旗を掲げ、公然抗日的態度を表明するという風で、折角局が出来ても、進んで職員となる者も亦出演する者もなく、すみずみ大上海放送局に関係を持つ支那人があれば、漢奸扱いをされて脅迫状が舞い込むという始末で、職員の採用や出演者の交渉には少なからず困ったものであった。

したがって、局へ出入りする芸人等もその姓名を発表することが出来ず、わずかに維新政府や市政府公署方面要人の講演に限りその氏名が公開されるという有様であった。しかも出演者が放送中電話をもって脅迫されるという事実が一切ならずあり、又ラジオ通信雑誌等のごときは、単に大上海放送局のプログラムを掲載したという理由で数回に渡って脅迫状を受け取ったものである。

下は、上海租界内における大上海放送局の聴取状況調査の際寄せられた抗日的回文の一例であるが、参考までにここに掲げることとする。

一、貴電台放送のニュースには、しばしば日本軍閥および中国大漢奸汪精衛を擁護するものあり。この汝らの提唱する建設東亜新秩序には絶対反対なり。

二、ニュース、演芸に傀儡偽、たびたび耳に入ることあり。遊○(注:○は判読不能)は研究を要す。新聞(注:ニュースのことか)は純正を乞う。同盟通信社(注:日本の通信社)こそ世界まれに見る不純性の通信社なり。   

三、我は汝の売国奴的電台を憎む。正確なるニュース及び抗日宣伝プログラムを希望す。 

四、今後のニュースは大美報新聞報の正確なるものを放送せよ。最後の勝利は日増しに近づけり。泥沼に足を踏み入れぬよう。中華民国万歳!蒋委員長万歳!

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引用終わり

これらは脅迫状ではなく、アンケートの回答である。大上海放送局では、実際、中国人職員を何名か暗殺によって失っている。

以下は、映画「上海の月」のプロデューサー、滝村和男の文章である。

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最初は相手が抗日軍であり非占領地帯の民衆であるため、中国人を職員として放送を行ったが、蒋介石はこの”姿なき武器”の攻勢に驚愕、中国人の職員に対して迫害脅迫をもって阻害したので、一昨年(1939年)秋、芸専出身の大上海放送局設目(注:プログラム)員、席時泰ら、相当の殉職者を出したものである。

こうして三カ年半に亘る努力の結果、情勢は変化して、昭和14年(1939年)7月10日の汪精衛氏の歴史的和平声明は、実に大上海放送局のマイクを通じて行われ、大陸各地に中継、重慶側にも放送、蒋介石の心臓を寒からしめた訳である。

中略

席時泰氏は大上海放送局員として活躍した。東京芸専出身の彼は、浅草の某病院に勤務したが、事変勃発後帰国し、戦火のため塗炭の苦しみにあえぐ中華民衆を救おうと欣然、大上海放送局に参加した。毎日のように送られてくる脅迫状をものともせず、プログラム係(設目員)として活躍したが、昭和14年4月出勤の途上、共同租界南京路大新公司付近でテロの凶弾に倒れた。

同氏の発した功績が大きかっただけにその急逝は各方面から惜しまれ、同氏の葬儀の際、班長として苦難の道を共に戦い続けてきた浅野少佐が、血涙共に下る弔文を朗読するや、式場は嗚咽の声に満たされたのであった。

張麗森氏も、また大上海放送局員であった。同氏は席時泰氏の良き友であり、全中華における国楽の大家として知られ、演芸プログラム係として活躍中であったが、席時泰氏の遭難から一年後の昭和15年4月、北京路付近で重慶テロ分子の凶弾に倒れた。

同氏の死は、席時泰氏同様各方面から惜しまれると同時に、我が方ではこれらの事件によって今まで協力してきた華人職員の精神的動揺を怖れたが、僚友の死に奮起した華人職員達はかえって結束を固め、新しき国民政府の発展のため死を賭して最善を尽くす結果となったのである。

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引用終わり

「上海人文記」の「徐小姐のロケット」の章では、徐小姐がラジオ局をやめた理由を松崎に語っていたが、姉があぶないから辞めろとうるさいので辞めた、というようなことを言っていた。この、あぶないから、というは、漢奸と見なされて殺されるかもしれないからということである。

また、冒頭の節「伴野氏に聞いた話」では、徐小姐が伴野を電話で呼び出すシーンがあって、伴野氏は徐小姐が抗日テロに襲われそうになっているのでは?と心配し、ピストルを携行してボディガードと共に家を出るシーンが書かれている。

さて、ピンルーであるが、やはり同様な理由で辞めたのかと思う。耿忠さんの言う南京大虐殺が理由という意見については、それが原因でピンルーが日本のラジオ局を抗議の意味でやめる、というのだったら、もっと早い時期、南京の実態が上海に伝わってくるであろう1月〜2月頃に辞めているはずだ。彼女は南京事件のあった1937年12月に採用され、1938年5月から6月頃に辞めている。

私は、ピンルーが日本のラジオ局アナウンサーになったのは、当初、CC団あるいは蘭衣社の、諜報目的の組織的命令によるもの、あるいはピンルーが自発的に考えて、自分だからこそできる諜報ルート獲得のための、日本側情報ルート開拓のための就職、と見ていた。しかし、それだったら、漢奸に見られることを怖れる必要はない。いや、諜報目的としての就職だったのなら、少なくとも抗日側工作組織から漢奸には見られないし、逆にもっと長く勤めていた、あるいはもっと長く”勤めねば”ならなくはないだろうか。

しかし、ピンルーは辞めた。約半年間の勤務である。これは漢奸に見られることを怖れた結果である可能性が高い。この前提に立って、歴史を逆引きすると、ピンルーの大上海放送局アナウンサー就職は、単純に、自分の特技である北京語、上海語、英語、そして少しの日本語が話せることを生かす、そして歌が得意で性格的には目立つことが好き、母親が日本人であり母親の薦めもある、といったピンルー自身のパーソナリティを活かした通常の就職活動の結果であった、という線も出てくる。

この説が正しいかどうか、永遠に真実は分からないかもしれない。妹天如さんは、姉ピンルーのラジオ局勤務については全く語っていない。甥の鄭国基氏が少し触れて、アナウンスだけなく歌も歌ったとインタビューで答えているのみだ。これは国基氏の母親代わりだったおば、木村はなから聞いたことなのだろう。ピンルーが好きな歌をラジオで披露、となると、やはりいやいや勤めていたのではないようにも思う。それでも辞めるのは、それなりに強い理由があったのだろう。もしかしたら日本側に、彼女はスパイかもしれない、という疑念が生じたのかもしれない。徐小姐が疑われていたのと同様に。辞めたのではなく、辞めさせられた、という可能性もゼロではなかろう。

話は少し脱線しているかもしれない。しかし、徐小姐を脳裏に思い浮かべることによって、ピンルーが見えてくるのだ。少なくとも私のピンルー理解は、徐小姐を通じてかなり深まった。

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2010年1月11日 (月)

徐小姐のロケット 9 (最終回)

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐のロケット」の章より、引用を続ける。徐小姐(シュ・シャオチェ)が意外な行動に出る。

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「再び徐小姐に逢う」

上海の租界に、住宅難が加わってきた。奥地から上海へ逃げ込んでくる人たち、蒋介石と行動を共にして、再び香港を回って、人知れず上海に帰ってくる者達、家賃の値上げ、権利金の暴騰が続いた。

そして、決定的に、二三年は上海で生活しなければならなくなったので、松崎は妻と住むために、毎日ノースチャイナ デイリーを片手に、上海の街々を右往左往して住居を求めた。わからぬ番地をやっと見つけてベルを押すと、

「ソーリー、ジャストナウ、フィニッシュ」

である。

また、部屋数も手頃、家具も悪くない、そして場所は住宅街・・・すべて理想的だ、松崎は先着のロシア女が、権利金2500ドルと言うので、しきりに考え、負けろ負けないと押し問答の間じっと待ちながら、どんなにじれて待ったろう。そしてロシア女があきらめて帰ったとき、松崎は飛びつくようにその家のミセスに、

「アイ ウォント ジス リビング」

と立ち上がった。

アメリカ人らしいその美しい女は、肩をすぼめて両手を広げ、

「ソーリー、ここは外国人、オンリー」と言うのだ。

「しかし、僕も外国人だ」

「どこ?」

「日本」

「日本?大家が日本人を外国人と認めるかいなか、私は分からない」

「では、電話で尋ねてくれ」

「OK」

そして、その婦人は大家に電話する。

「日本人には貸してくれるな」

「なぜ」

「貸したくない」

という返事。松崎はグラグラとたぎる憤りを感じる。この東洋の上海で、しかも、教養も、生活も、流れ者の毛唐(注:けとう 欧米人の蔑称)なんかより数等上である我々を、なんたる不愉快な扱いぞ。

が、そんな時の毛唐の態度たるや、これまた、木石以上に冷たくかたくなである。思わず、「畜生。今に見ろ!」と捨て台詞でも残さずには立ち去れない気持ちになる。

こんな思いを幾度となく繰り返した。それでも家はあった。と、為替の暴落である。法弊(注:国民政府の発行貨幣)の暴落は必然に物価を倍以上にしてしまった。上海はまことに住みにくい街になりつつあった。しかし東京に中途半端な未練を残してはならないと、一切を振り捨てるようにして松崎夫婦は上海に移り住んだ。



楡(にれ)の樹も 空なる雲も かささぎも われを見知らぬ街にきて住む(ふゆの)



西を見ても東を見ても、上海語が悪夢のように鳴り響いて、妻ふゆのも松崎も上海語は分かりませんぬという証拠のようにおぼつかない英語で買い物をし、ボーイやアマに用を命じた。


遠くきて ひとり住めれば日のくれに 香りいづる花もせつなきものを (ふゆの)



そして会社の様子も落ち着き、街の生活に慣れた頃、秋(注:1939年)が訪れた。

上海では、オフィスは九時から十二時まで。昼食二時間、午後二時から又五時までが厳重に守られている。したがって、仕事の性質上、会食の多い松崎達は、この昼の時間を一番多く利用した。

昼であった。劉吶鴎が言った。


「今日、約束ある?」

「ない」

「では、話がある。一緒に行こう」

そして二人は永安公司デパートの三階の食堂へ行った。そこの広東風の点心は日本人の口に合うので、上海通の人たちがよく行く所であった。松崎達が席に着くと、すぐに劉吶鴎は言った。


「徐小姐がね、日本へ行くと言うんだ」

「?」

松崎は驚いて彼を見上げた。あの日、そうだ、酔っぱらった日は春で、今は秋だ。その長い間、松崎は彼女を見なかった。そう、忘れさえもしていた。広東から日本に帰り、会社の設立総会のために南京へ行き、上海に家を求めて転宅した。そして、この言葉の分からぬ、習慣の違う街で、妻との生活。追われるように日が経ったのだ。



しかも、徐小姐の事はなんとなく、ついに妻に言い出せなくて、秘密のように心に残っているのが、松崎を絶えず苦しめた。


というのは、広東から日本へ帰った日、彼の妻はトランクを整理した。そして、松崎が徐小姐から学んでいた中日会話の本を発見して、彼女はページを開いた。どのページもカナをつけたりマークをつけたりして苦心の跡、歴然たるものがあった。


妻は単純に言うのであった。



「まあ、かわいそうに。こんな事にも苦労してたのね」


彼女の顔には、「すまなかったわ」という表情さえもある。



「おい、ちょっと上海行ってくるよ」

「あら、いつ」

「明日!」

「まあ、明日?飛行機で?」

「うん」

「何日くらい?」

「まあ、分からない。まあ、一ヶ月くらいかな」




こんな風にして、松崎はいつも上海へ飛んだ。そして用事は大抵延びて、二ヶ月も、もっとかかる事が多かった。こんな事が四五回続くと彼女は言った。



「私、もう一人でお留守をするのはどうしてもいや。淋しいとか何とか、そんなんじゃない。人がね、「あら、旦那様、まだ上海?お淋しいわね・・・、上海ってそれは面白いんですってね。ダンスホールや、お酒を飲むところが、夜明けまであって。あら、でも、あなたの旦那様はお酒もダンスもなさらないから安心ね」というような言い方で、意地悪を言うの。私もういや」


松崎は、どこにいても、何をしていても、妻からは信用されていたし、その信用に値する行動しかしなかった。それで、徐小姐の事も、もちろんお茶のみ話のように平気で話せるはずであったし、また話すべきであった。



が、なぜか、ロケットの一件がいつも頭にこびりついて松崎を後ろめたくした。その上、徐小姐から学んだ北京語の本を見て、買い物やバスに乗って言葉を知らない国でした労苦と、その独習書のひたぶるの勉強法を見て悲しがってくれる妻に・・・


松崎は、

「それは支那の女の人から教わったんだ。その人はね・・・、」

などと話すのはあまりに残酷だと考えた。「機会を見て話そう・・・」それは、松崎の悪い習慣だが、ちょっと延ばしに延ばしてしまった。そのうちに機会を失って日が経った。そして、松崎は今は、徐小姐の事はもう忘れてさえもいたのだった。




「徐小姐が、日本へ行く・・・」



何の意味だろう?と松崎は思って、劉吶鴎の次の言葉を待った。


「徐小姐が、日本へ行くと言うのだ。遊びに行くと言うのだ」

「?」

「行ったっていいさ。けれど僕は偶然、彼女の名が憲兵隊のリストにある事を知ったんだ。スパイの嫌疑なんだ」

「またか」

と松崎はいやな気さえした。が、彼は熱心に言った。



「スパイの嫌疑がある女が、ぼんやり日本へ遊びなどに行って間違いがあったらどうするんだ?しかも、彼女を色々と日本の人たちへ紹介したこの俺は」


劉君は、すっかりあわててさえもいる。かつて彼女のスパイ云々を、あれほど確信を持って否定した彼が、またなんというあわて方だろう。憲兵隊のリストに、彼女の名がマークされていると言うのは本当だろうか。植民地の人特有の畏れ方で、劉君は青ざめさえもして、憲兵隊の事を強調した。



「私は、彼女の日本行きを断然止めたいと思う。戦争している日本へ、スパイの嫌疑をかけられている女が行くのは、なんとしてもいけないと思う。私は、彼女を午後オフィスへ呼ぶ。彼女が来たら、日本がいかにスパイ網に対して、厳重であるかを説明して止めさせてはくれまいか」


と劉君は言うのだ。



彼女は午後、オフィスに来た。半年ぶりで見る彼女は、服の好みから、化粧の仕方まで変わっていた。全てが派手で、持ち物などもぐっと立派になっていた。

月並みの挨拶の後、松崎は彼女に聞いた。



「日本へ行くのですって?」

「ええ」

「遊びに?」

「そう、日本のお友達、みんな是非日本へいらっしゃい、きっと、もっと日本が好きになりますって言うの」


彼女の日本語は素晴らしい進歩を遂げていた。




「劉君の話、聞いた?」

「私がスパイだっていう?」

「そう」

「私、スパイじゃありません。私、日本へ行って文化的な方面しか興味ありません。誰が見ても、私、悪いことしません」

「・・・・・」

「私、私のからだ、蒋介石のものでも、支那のものでもない、私は、私のものです。分かりますか。スパイではありません」

「では、どうしても行くのですね」

「ええ、行かなければかえって怪しいわ、今更」

「・・・・・」


松崎は劉吶鴎を見た。

彼は黙って松崎を見る。どうすればいいのだ。





「では、劉君、憲兵隊へこの人と一緒に行って、日本へ行ってもいいか悪いか聞いてみたらどう?」

「うん」

「行きますか?」

と、松崎は徐小姐を見た。

「ええ・・・、いいわ」

彼女は、ちょっと考えて、はっきり言った。



「何時?」と松崎。

「何時?」劉吶鴎がオウム返しに彼女に問う。

「早い方いい・・・。今、いかが?」

「今・・・?いい、ちょっと待って」

と、劉吶鴎は立って、部屋を出て行った。

二人だけになった。

「私、もうパスポート持ってるの。ほら」

突然、彼女はハンドバッグから出して見せた。

「ほう」

と、松崎は、パスポートに貼られた写真を見ながら言う。



「その写真、えー・・・、」

と、幾枚かの写真を彼女は、ハンドバッグから更に取り出す。

半身の、更に大きい写真である。



「一枚ください。いい?」

松崎は、一枚抜いて言う。

「いい、あげます」

と、彼女は、松崎の手からその写真を取って裏に走り書きをする。




想念之際看此影
連解苦思一二分
願君永存不相棄
此影笑顔亦長存

       徐 梨娜

  昔を懐かしむ時は、この写真を見て下さい
  少しの間、思い出してください
  そしてどうか永遠に棄てないで下さい 
  この写真の笑顔とともに

           徐梨娜(シュ・リナ)






「謝々、謝々」

松崎は、支那風に両手を組んで、おどけて有り難うを言う。


その日から二週間を経ったであろうか。
劉君と、松崎とは、彼女が日本に到着し、日光に遊んだという走り書きの手紙を受け取った。なにはともあれ、こうして親日的な女性が生まれていくのであろうと、松崎はうれしく思った。

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最終回 終わり

なんと、徐小姐は日本に旅行したようである。スパイの嫌疑はあったものの、それ以上に親日側に立った人物と認められたのであろうか。また、日本側の確かな身元保証人でもいたのかもしれない。彼女は、同盟通信社や三井物産などの社員の中国語個人レッスンをしていたと少し前の節にあった。パスポート取得や日本での受け入れにも、そういう人脈が功を奏したのかもしれない。

前回のロケットの節といい、今回の日本行きの節といい、なかなかに劇的な展開であった。これらが本当に実話なのか?「上海人文記」の他の章を全て読んでみると、その具体性、またそれをそう書く松崎の動機を想像してみても、創作話ではなく、やはり実体験が、ベースになっているのだろうと思う。もちろん、検閲に通すための細かな変更点はあるだろう。

今回の節では、劉吶鴎がだいぶ徐小姐のスパイ嫌疑を怖れていたようだ。時は1939年秋。5月から7月にかけて、小野寺機関員や、近衛文隆、早水親重、花野吉平などの、蒋介石直接和平交渉派、反戦和平派が、左遷、強制帰国、また一斉に検挙、監禁された年である。仮に日本側に食い込んでいたスパイを日本人大勢に紹介した張本人、となると劉吶鴎にもあらぬ嫌疑が掛かりかねないと思ったのかもしれない。

徐小姐は、そんなスパイ疑惑を、「私は、蒋介石のものでも、支那のものでもない。私は、私のもの」と否定した。時代の荒波をものともせず、なにものにも属さず、自分に正直に生きているだけ、そう主張しているようである。

松崎は、最後に徐小姐のことを指して、「親日女性が生まれて良かった」と、この章を結んでいる。しかし私には、そう言う松崎に対して徐小姐が、

「もちろん、私は日本のものでもないわ」

と笑いながらくぎをさしている、そんな姿が目に浮かぶのだ。

以上で、上海人文記「徐小姐のロケット」を終わります。

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2010年1月10日 (日)

徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット 8

Locket 松崎啓次の「上海人文記」より、「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」の引用を続ける。時は1939年5月、中華電影の設立目前のことである。松崎が徐小姐に対し、驚きの行動に出る。

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「徐小姐のロケット」

明朝、飛行機で広東に出発するようにと電話が掛かってきたので、松崎はとりあえずその打ち合わせに走っていった。

もちろん、広東に行くのも映画会社設立に関する用件であったが、任務は複雑で、松崎は自分のような者に果たしてやり遂げられるかどうか、自信がなかった。気が進まなかった。新しい仕事に立ち向かうとわき上がってくるいつもの勇気が、この場合少しもわき上がらなかった。松崎は広い広い海の真ん中へ、きりきり舞いながら落ちて行く、飛行機が眼前に現れては消えるのを見た。


・・・この旅行にはきっと私に何か不幸な事が起こるかも知れない。

松崎は心で思った。が、彼は行かなければならない。



「はい、分かりました。行きます」



松崎は、ホテルに帰り、トランクを整理した。飛行機は夜明けに飛ぶはずである。



電話だ。劉吶鴎(りゅうとつおう)から。




「明日出発だって?今、川喜多さんから聞いた。今夜、君のために送別会をやる。四馬路(スマロ)、王賓和(ワンビンフェ)。いいね」



四馬路・・・あの雑踏の巷。そしてそこの有名な老酒の飲み屋。松崎はお酒は弱いのであったけれど、そこのつき出しや家庭的な食べ物を、おでん屋のそれのように特別に好いていた。


広東に行くことも急に決まった以上、誰にも知らさずに行くのが本当なので、送別会と言っても劉君、黄君、川喜多氏、そして劉君の電話で徐小姐が駆けつけた。五人で飯を食うだけのことであった。


が、松崎は、その日、珍しく飲んだ。意識的に飲んだ。ご馳走の皿が運ばれるごとに、「乾杯」「乾杯」と杯を挙げた。乾杯しては、杯の底に一滴も残っていないことを相手に見せる、支那式のやり方で、松崎達は飲んだ。松崎は徐小姐をマークして、折を見ては、


「徐小姐(シュ・シャオチェ)、乾杯!」


と強いたものだ。彼女ははじめ多少躊躇していたが、明らかな松崎の挑戦に、


「好、来来」(ハオ、ライライ)


とばかり、二杯、三杯と、あおった。

あっちの部屋でも、こっちの部屋でも、広東姑娘(クーニャン)の甲高い歌声が、洋琴にまじって聞こえ、支那拳のだみ声が爆発し始めた。松崎は酔ってグラ、グラっとくずれそうになった。しかし、「いけない、今夜はくずれるもんか」と、心を緊張させて飲んだ。


酔って松崎の目に見えるもの、それは徐小姐が、この四・五日、首につけ始めた、ロケットであった。支那語を学び、松崎が読みつかえて困り果てていると、のぞき込むようにして、「こんな易しいことが」と、からかうように見る彼女の首にロケットを初めて見たとき、「おや?」っと思った。翌日も、その翌日もロケットを首に見て、松崎はなぜか彼女の秘密の鍵を感じた。




彼女のロケットの中に、何がひそんでいるのだろう。



「彼女が生まれるとすぐに死んだという母親の写真であろうか」

「抗日を叫んで奥地へ逃れて行ったであろう、彼女の愛人の写真であろうか」

「または、あるいは彼女が属しているかも知れない、秘密結社のタブーの言葉であろうか」



「彼女を酔わせて、酔いつぶして、無理にでも、あのロケットを奪ってやろう。
彼女がスパイであっても、
彼女がスパイでなくとも、
私たちには、きっとよい教訓をもたらすであろう。
そして私は、明日広東へ行くのだ。
今夜、私は、必ず彼女の秘密をあばいてみせる」


松崎は心に誓っていた。


松崎も酔ったが、彼女はさらに酔った。

「もう一口も、一滴も」

という様子が、ありありと見えた。が、松崎は、ここぞとばかりにさらに強いた。彼女は最後の杯を口にすると、倒れそうになって立ち上がった。苦しいのであろう。外気に触れたいのであろう。松崎も続いて立った。彼女を追って、抱くようにして街路の見える窓際に来た。彼女は欄干に寄ると苦しそうにあえいで、目を閉じた。



「今だ」




松崎はとっさに思った。
そして、ちぎるようにしてロケットを奪った。
彼女はもちろん、さっと立ち上がった。
酔いが一気に覚めたのであろうか。



「イケナイ、イケナイ、ソレイケナイ」



が、松崎はもちろん無言であった。松崎は残忍なまでに冷たく強かった。右手で彼女を防いで、左手で松崎はロケットを開こうとする。彼女は必死である。だけど、彼女はなぜか大きな声は立てなかった。



「さあ、もういくらあなたが芝居してもだめ。これで、あなたの事は、みんな分かるのだ。このスパイ野郎」



・・・松崎は、すごい勢いで彼女を突き飛ばしてロケットを開いた。



そこに、何を松崎は見たか。一枚の小さく切った紙に、走り書きの詩が一つ。





敵国的愛人呀!
他是冷淡但含着熱情的眼晴
我是愛他了

敵国的愛人呀!
我的母親和妹妹被
他門的爆弾和機鎗
把他両送走了

敵国的愛人呀!
我是己経愛上他了
母親!妹妹!怒了我罷!

 

 敵国のあの人を 私は愛してしまった!
 あの情熱的な瞳は
 なぜ私にいつも冷たいの

 敵国のあの人を 私は愛してしまった!
 母も妹もあの国の
 爆弾と機関銃に
 追われていった

 ああ、敵国のあの人を 私はなぜ愛してしまったのだろう!
 お母さんよ、妹よ、
 ゆるして 許しておくれ





今度は突き飛ばされたのは松崎の方だ。
完全に背負い投げを食らった形で、松崎は顔をそむけた。


立ち直る余裕もなく、投げつけるようにロケットを彼女に返して、松崎は街へ飛び出した。乱暴だった自分を恥じる心、きれいな心の彼女を疑い続けたいやしい自分の心。松崎は後悔と恥ずかしさに耐えかねて、街をどんどん歩いた。


誰も知ってる人のいない四馬路(スマロ)の雑踏は、でも混乱した松崎を批判するのに役立ってくれた。


「・・・支那と日本とは味方であろうか。敵であろうか。


蒋介石と我々は戦っている。そして若いインテリ達は、蒋介石の味方だ。が、現実を認めて味方になってくる人たちは日一日と増加している。

前線では、我々の同胞が大切な青春を枯らして、また生命を投げ出して「敵国支那」と戦っている。が、我々がここでやっている事は平和工作だ。支那は我々にとって敵であり、味方である。味方と、敵を、支那人達の中から見分ける事は容易ではない。しかも言葉も、人情も、性格も、多種多様である彼らから。

そして、上海の、この街では人種の数と国語の数は、その複雑さを幾何級数的に増加させるではないか。この街で、胸に秘密を持って人を疑いつつ、笑って生きていく・・・そんな苦しい事が私にやれる事であろうか。

もし上海に住まなければならないとして、私はやはり、日本のあの撮影所で、単純に「いいこと」「悪いこと」を色分けして生きてきた、そのままの生き方を、ここでも続けて行けるだろうか。が、そうしなければ、私はただ判断する事だけで疲れて狂ってしまうだろう。


徐小姐!


あなたは、敵国の誰を愛したのです。

あなたを、スパイとして疑ったのは誰?」



松崎は、いつの間にか、大世界(注:ダスカ。エドワード通りにある遊技場)の裏の暗い路地に紛れ込んでいた。

そして、翌払暁、ひとり松崎は大場鎮の飛行場を出発した。広東へ!

そして松崎は、半年あまり徐小姐に逢う事はなかったのだ。

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引用終わり

今回の節は、全体の章と同じ「徐小姐のロケット」というタイトルだけあって、劇的である。松崎の抑えていた感情が酒の力もあってか、暴発したようである。その感情は、決して美しいものではない。すでにかなり親しくなった中国語の先生、徐小姐。その彼女がこれみよがしに首から下げはじめたロケット。ただでさえ、スパイなのかスパイじゃないのか、気になっているのに。はっきりさせたい!という日頃の欲求が爆発してしまったのだろう。そしてさらには、徐小姐への、抱いてはいけない微妙な恋愛感情もあったのではないだろうか。

肝心のロケットの中身であるが、詩が入っていた。実際のところはどうなんだろう。小さなロケットに詩を書いた紙片を入れるだろうか。それをすぐ読み取って記憶できるだろうか。可能といえば可能だ。しかし、誰かの顔写真が入っていて、一瞬にして松崎が事情を読み取った・・・・・・という気もしなくはない。

ちなみに、映画「上海の月」の主題歌、「牡丹の曲」(作曲:服部良一、作詞:西条八十、歌:山田五十鈴)があって、そちらの歌詞に、

「星の光に ロケット開けりゃ 君の横顔  懐かし愛おし」

とあり、こちらではロケットの中身は写真である。歌詞の流れからは、上海から日本に帰った日本人男性の写真を見て、懐かしく愛おしい、という内容だ。映画はどうだったのだろうか。主題歌の歌詞ということからすると、映画のロケットの中身も写真だったようにも思うが。

また、映画「上海の月」では、ダブルヒロインの一人、許小姐(シュ・シャオチェ)が登場する。彼女の映画の中での名前は許梨娜(シュ・リナ)である。そう、「徐小姐のロケット」の徐梨娜(シュ・リナ)同じである。もう一人のヒロイン、鄭蘋如役は袁露糸(エン・ロシ)と、全くの別名になっている。この辺りにも、松崎の徐小姐に対する思い入れの強さが出ているのかもしれない。



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(以下は、当時の松崎異動を取り巻く環境について備忘とする) 

1939年の3月、中支派遣軍参謀本部の高橋大佐は、川喜多長政に、数ヶ月後に設立を控えた中華電影の副社長、事実上のトップへの就任を要請した。 一方、1938年1月から、この中華電影設立に向け松崎と苦楽を共にしてきた特務部長、金子少佐は報道部を解任され弘前の連隊付きに異動となってしまって いた。

金子少佐の解任の原因であるが、辻久一著の「中華電影史話」に二つの話がある。ひとつは、「茶花女」事件である。中国映画「茶花女」(原作は椿姫)は、劉吶鴎が金子少佐からの「軍資金」を使って製作された中国映画だ。

こ れが中国国内だけで上映されたならよかった。好評でもあった。ところが、日本へ輸出され、1938年12月、東宝系で公開されたのだ。出演者や製作にかか わった中国人は、日本に協力したと見なされかねない。上海の文化界は、自国の作品が敵国に渡ったのは日本側の工作として大いに憤激した、という。つまり、 金子少佐の工作は裏目に出た、ということだろう。


もうひとつの話はこうだ。辻は「中国電影史話 第二集」から引用してる。「金子少佐は中国の事情に疎く、かつ戦勝者づらをした傲慢な態度は、人を決して近づきがたからしめた。

(中略)日本軍部は、金子少佐の工作が一向に成績があがらず、上海の映画界は依然としてなんらの組織も作ることが出来ないのを見て、ついに川喜多氏を派遣して金子氏の工作を引き継がしめることになった」

今回の節では、松崎が広東へ半年の出張に行くことが書いてある。中国南支地区に日中合弁の映画会社を設立する準備であったろう。満州には甘粕(あま かす)ひきいる満映(1937年8月)、北京周辺の北支には華北電影(1939年12月)、上海周辺の中支には今回の中華電影(1939年6月)ができ る。最後に広東周辺をカバーする南支の電影会社を作る密命を帯びていたのだろう。この出張は、同時に、金子派と目されていた松崎を半年ばかり中華電影から 遠ざける意味もあったのではないかと私は推測している。「川喜多の中華電影」、という環境を整えるという意味だ。

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2010年1月 9日 (土)

徐小姐のロケット 7

Jessfieldpark_2 松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」の章から抜粋引用を続ける。

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「徐梨娜(シュ リナ)から聞いた話」

その日から松崎は心を入れ替えた。どんな重大な用件よりも、支那語の勉強を大切にした。朝のその時間を正確にバスに乗った。バスの中で本を開いて音読した。

松崎が正確な時間に現れ、しかも昨日の復習を忘れずに来るのを見て、今度は少々、徐小姐(シュ シャオチェ)の方があっけに取られたほどである。

勉強の時間が終わると、松崎のわずかな支那語と、彼女のわずかな日本語とで、単語を並べあって話をした。

「昨夜は、何をしましたか?」

「姉さんが、お友達、たくさん、招待、ご飯、あとで、跳舞(注:ちょうぶ ダンスのこと)に行きました。アナタは?」

「僕?六三園で、エライ人と、宴会!」

「エライ?・・・それ、なに?」

松崎は、「偉人」と書いた。

宴会なんか、もちろん嘘だ。けれどスパイなら、いつか反応があるだろう。

「明白了(ミンパイラ)・・・わかりました。あなたエライ人、たくさん、友達?」

「うん」

「そお?アナタもエライから、ね?」

こんな日が二週間くらい続いたろうか。松崎達は次第に親しくなり、知ってる単語が次第に加わるにつれて、劉君を借りなくても意味だけはわずかに通じる程度になった。

日曜日、支那語を始めてから、比較的早起きになった松崎は、日曜の朝をもてあました。

そう、バスに乗って終点まで行ってみよう!終点はジェスフィールド公園、その昔、犬と支那人の入場を禁止した公園だ。晴れた日曜の朝、楽しいランデヴーの人たちもいるであろう。

「公園の 白き小径を銃もてる 英兵二人 ならびくる春」  富岡ふゆの(注:松崎の妻)

陽と影の濃い上海の春、公園の小径は若い人たちの恋の温室だ。腕もあらわに、女と男が寄り添うて木陰でつぶやいている。池には模型のヨットが浮かんでいる。大人、子供が、キャッキャと戯れて楽しそうだ。

「樹々の間は 紫羅蘭(あらせいとう)の花群れ咲きて 不思議にきたる 支那の春なり」 富岡ふゆの

松崎は、芝生の路を歩いていた。

「マツザキさん!」

松崎は、きょろきょろと辺りを見回した。徐小姐の声だ、が、どこに彼女はいるのだ。

「マツザキさん!」

Photo_9 振り返った。すると、支那家族の標本とでも呼んでいいほどの、大人から子供にいたる大勢が、一列に並んでこちらを見ているではないか。松崎は思わず赤くなった。徐小姐が、その列の真ん中から声をかけているのだ。そしてその中からするすると抜けて彼に近づくと、

「オサンポ?お一人ネ?」

「・・・・・」

「ワタシ、姉さんを紹介しましょう」

そして彼女は、中年のがっちりした体つきの彼女の姉を呼び、松崎に紹介した。松崎はなんと答えていいのか、ただ面食らって立っていた。握手して、口の中で、わずかに、

「アイム グラッド ツー シー ユー」

と言うや否や、早々に逃げ出した。

翌日、勉強の後で松崎は尋ねた。

「姉さんと妹さん達?」

「違う。姉さんの子供」

「男の人は?」

「朋友」

「そお?好朋友(ハオポンユウ 恋人の意味)ですね?」

「違う。朋友!」

彼女は声を立てて笑った。

「アノ、ワタシ、カマイマセンカ?」

「なに?」

「アノ、アナタ、奥さんある?」

「あります」

「そお。キレイ?」

「綺麗です」

「とても、奥さん、お好き?」

「もちろん」

彼女はあきれた、という顔で松崎を見た。そして話題を転じた。

「アタシ、放送局にいた時、・・・(言葉を探しながら) 江木さん、知ってる?あの人、ワタシに恋人あるかって聞くの」

「で?」

「あたし、ない。あなた奥さんある?って聞いたの」

「ない」と江木さん。

「そお?と言ったらね、あの人突然、「ワタシと結婚して下さい」って言うの。アタシ驚いた!」

「なぜ?」

「でも、おかしいわ」

「どうして?」

「アタシ、その時、まだ日本の習慣知らない。アタシ、後で「アナタ奥さんある?」と聞くのは、スキって言うのと一様(イーヤン)、知った」

誰が、そんなでたらめを教えたのだろう。が、あえて訂正するほどのことでもない。が、松崎は話のきっかけをつかんだ。

「放送局、どうして辞めたの?」

「初め、人少ない、忙しい、面白い、後、面白くない」

「・・・・・」

「姉さん、香港の新聞でワタシの名前見た。危ない。辞めなさい、言う。ワタシ辞めた」

「劉さんとは、いつから知り合い?」

「あの人、金子少佐のパーティーで。劉さん、みんな知ってる、日本と合作してる、みんな知ってる」

一体、これはどういう意味なのだ。彼女は劉君が日本側の工作に協力してくれる事を、支那人が皆知っているからどうだと言うのだ。それを、その意味をはっきりさせるべく、松崎の支那語も彼女の日本語もあまりに貧弱であった。そしてそれから松崎はまたの機会を待つことにした。

しかし、悲しいかな、劉君のあれだけの証言にもかかわらず、松崎の心からは、彼女がもしかしてスパイであるかも知れないという気持ちは片時も離れなかった。それを忘れるには伴野氏や、金子少佐を松崎はあまりに知りすぎていた。氏らを尊敬もしていた。そしてまた、徐小姐を疑えば疑えない事もないのであった。たとえば・・・

彼女は次第に松崎の行動に興味を示すようになった。雑談の中から昨夜はどこへ行った、誰と遊んだ、あなたはダンスが出来るか、どんな友達があるか、あなたの友達を紹介しろ・・・松崎は半分本当のことを、半分嘘のことを、警戒しながら、でもその警戒を彼女には知られぬように、試験の答案を書くように注意深く話をした。

いつであったか、松崎は報道部で偶然新任の大澤に逢った。彼とは東京以来の知人であり、彼が企画院から上海の報道部に派遣されて来ようなどとは、夢にも考えなかっただけにうれしかった。彼と松崎と、応召でこれも報道部にいた石浜知行氏と、晩餐を共にし、あちらこちらと夜の上海のを浮かれ歩いた。彼らは、いつの間にか高等学校の昔に帰った。「紅もゆる」や「ああ玉杯に」を歌い出し兼ねない気持ちだった。

「勝っている日本は自粛して何から何まで統制しようとするのに、負けている支那のこのだらしない程の浪費はどうしたことだ」

「馬鹿!上海は断じて支那じゃない。毛唐(注:けとう 欧米人の蔑称)に最も好都合な独立国だ。ここの支那人を見て支那を知ったと思ったら大間違いだぞ」

「支那へ来て最初の二三年は、支那に溺れる程好きになる。それから大嫌いになる。その二つの時期を通って初めて支那を客観的に批判できるんだ」

彼らはこんな話をしたり、飲んだり歩いたりして、別れるのが厭で、松崎のホテルに帰って、ボーイに特別のコミッションを出して、熱いコーヒーをもらい、夜の明けるまで話を続けた。

翌日は、さすがに頭が少しぼんやりしていた。が、松崎はバスに乗って出かけた。

「アナタ、今日、変よ」

徐小姐が言った。

「昨夜、遊びすぎたので」

「そお?ダンス?」

「ダンス」

松崎は、またいい加減に話をした。

と、彼女はペンを取って書いた。

上海是罪悪都市、

在這地方犯了什麽

罪也不算是罪悪。

(上海は罪悪の都、ここではどんな罪も、悪ではない)

「わかる?この意味。アナタ今いい人。上海、たくさんいる、悪い人よ」

松崎は、彼女の顔を見た。

彼女の顔は、笑みをたたえて松崎を見ている。

「気をつけなさい、上海に負けてはいけない」と語っているようだ。

この女がスパイであろうか。スパイであり得ようか。

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引用終わり

この節では、映画「上海の月」でラジオ局のリーダー格であった江木という名前がそのまま出てくる。特務部放送班でラジオ局の責任者といえば、実際にはNHK新潟放送局長から1937年12月に転任の浅野一男少佐がおり、また先遣隊として9月に派遣され、最初の節で伴野氏という仮名で登場しているNHK小倉局の島山技師、もしくはNHK東京報道部アナウンサーの友安氏がいる。

映画の江木は1937年夏の上海事変後の灯火管制の元で敵側ラジオを聴いているシナリオなので、江木は、9月から上海に来ていた島山技師か友安氏をモデルとした可能性がある。島山技師は、上海赴任時は子供もいる既婚者であり、また最初の節「伴野氏に聞いた話」の伴野氏の可能性が高いので、江木は友安氏かもしれない。

さて、徐小姐は松崎から、ラジオ局をやめた理由を問われ、最初はおもしろかったけど、だんだんつまらなくなってきたと答えた後、お姉さんから「あぶないから早く辞めなさい」というようなことを言われたと答えている。日本のラジオ局で働くことは漢奸と見なされる。脅迫もあったようであるが、この辺は軍報道部長馬渕大佐の書いた「報道戦線」に書かれているので、後日記事とする。ピンルーがラジオ局を辞めた理由もわかるはずである。

また、この節で、大澤という名前が出てくる。大澤というと、「戴志華の銃殺」での戴、つまりテンピンルーが丁黙邨暗殺未遂にかかわった後に一時かくまってもらったのが、フランス租界にあった大澤の家だ。大澤は、松崎とは東京時代からの友人で企画院の官僚から上海の報道部へ派遣されていたようだ。ラジオ局の関係でピンルーと知り合いになっていたのだろう。

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2010年1月 8日 (金)

徐小姐のロケット 6

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」から抜粋引用を続ける。時は1939年2月頃。東宝映画のプロデューサーであり、日本軍特務部宣伝班の密命を帯びた松崎啓次が台湾出身の映画人、劉吶鴎(りゅうとつおう)の協力を仰ぎながら、上海で映画工作をしていた時の話である。ちなみに、鄭蘋如(テンピンルー)が近衛文隆に会ったのもこの頃のことである。

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「劉君から聞いた話」

電話で劉吶鴎を呼び出して、松崎は西魔路の名もない喫茶店で待った。大切な話をするときは、日本人のいそうもない、そして日本語を知っている人たちがいない所を選んで会った。

「昨夜、徐小姐のことを金子少佐から聞いた」

と松崎は、劉吶鴎の目を見ながら言った。

「ん?少佐はあの人が怪しいと言ったんだろ?」

「そうだ。知ってたのか」

「知ってた」

「では、なぜ僕には言わなかったんだ」

「僕は、断じて違うと言い切れると思ったからだ。我々の交際を通じて、違うことを証明してやれると思ったからだ」

「でも・・・」

「君たち日本人は余りに潔癖すぎると思う。ねえ、考えてみたまえ。ここは支那なんだ。蒋介石の国民政府に、あるいは重慶へ行った人たちに親戚や友人達がいない人はほとんどいないのだ。例えば僕自身のことを考えてみよう。僕は台湾からここへ来て十八年になる。国籍を隠して南京の中央撮影所の監督になった。事変後、僕は日本の手先になって、スパイとして南京へ入り込んでいたのだ、と言うが、僕はいつか君に話そうと思っていたのだが、植民地に生まれた人間の不幸を、その不幸を忘れたいために、この国に来てこの国の文化運動に参加した。考えようではやつは蒋介石の方から、日本へスパイに入っているのだとも言えるかもしれない。

しかし、決して日本のスパイでも支那のスパイでもない。徐小姐を見たまえ。もしあの人がスパイなら、素晴らしいスパイではないか。小姐としての態度を少しも変えないで、自然のままですましていられるスパイなんか考えられるか?彼女の話のどこに政治的な臭いがある?彼女が日本から望むものは、ただわずかのお小遣いに過ぎないのではないか。彼女は広東人だ。広東の女は外に出て働きたがる。その数多い例の、彼女も一例に過ぎないのだ。かつて僕は誘われて彼女の家に行った。彼女の姉さん、姉さんの子供達に紹介された。みんないい人達だった。蒋介石から送られたスパイが家族と一緒に住んでいるだろうか」

「徐小姐は、日本の放送局にいたことがあるかね?」

「うん、ある」

「その時、」

「知ってる。伴野さんの話だろ。汪君から聞いた」

「そう」

「呉って女ね、あれは的確にその種の人間だと思う。スパイは善良な人を利用することがあるとは思わないか?」

「どうして君はまた、それほど徐小姐を信用するんだね」

「信用?いや、人の噂や想像で判断したくないだけさ。もっと詳しく言おう。彼女は公安局にも勤めていたんだ」

「・・・・・」

「公安局。日本なら警視庁だ。そんなことも彼女を疑う原因になっているのだろう」

「・・・・・」

「彼女の死んだ義理の兄は、昔、公安局長だったそうだ。彼女が姉の紹介状を持って、今の公安局長のところへ就職の頼みに行ったら、百五十ドルの月給ですぐに採用された。少し優遇されすぎたので仲間達から、あれは蘭衣社と関係があるんだと言われたそうだ」

「・・・・・」

「事変の当初、公安局は移転してしまい、失業した彼女は、南京にいた姉一家と消息は絶え、困り果てて新聞で、北京語、広東語、上海語のできる女性を求む、という広告を見て放送局に行ったのだ。はじめ、もちろん日本の放送局とは知らなかったそうだ。働くうちに日本の放送局と知って驚き、辞めようと何度思ったか知れないけれど、みんな日本の人たちは親切でいい人達だったので、そのままずっと勤めていた。

が、姉たちが香港を回って帰ってきて、日本の放送局にいることを、とてもいやがるので辞めた、と言うのだ。彼女自身は日本人を決して悪いとは思っていない。何かの機会に姉たちも日本びいきにしてみせると言っているのだ」

劉吶鴎はいつになく熱を帯びて語る。松崎は黙って聞いていた。

「本当のスパイをスパイと知らずに起こす悲劇はもちろんたくさんある。が、スパイでない人をスパイとして扱うことも悲劇だ。私は金子少佐も伴野さんも知っている。いい人達だ。だが、あの潔癖すぎる人たちがこうだ、と言うことに対して言葉を返して違うとは言い切れない。私は彼女がそんな人でないと信じる。日本に好意を持ち、我々の仕事を助けようとする人たちを、私たちはもっと親切にみてやろうじゃないか」

松崎は思った。

「劉君が徐小姐のことを、このように強く弁護する気持ちは、多分彼が、ありあまる才能を持ちながら、日本人達からも日本人として遇せられず、支那人達からも支那人として遇せられなかった悲しい日の抗議であろうか・・・。私は、彼のために、もう少し寛大になろう」

松崎の表情が次第に柔らぐのを見て、劉吶鴎は声を落として言葉をついだ。

「しかし、不気味なことはあるんだ。先日、黃君と街を歩いていて、さて一時間ほど暇があったので、易者にでも見てもらおうかと、通りすがりの易者の家に飛び込んだ僕に、女難の相があると言うのだ。しかも一番悪いのが徐という名の女だそうだ。徐というと僕は二人知っている。一人は踊り子。一人は彼女。だが二人とも女難というには遠い、ただの友達だ。が、黃君はこのことをとても気にして、もう一ついやな話を加えてくれた。

街で徐小姐と姉さん達に逢って、一緒にお茶を飲んだことがあるそうだ。黃君と徐小姐は広東語で話をした。ところが、彼女は姉と北京語で話をしているのだ。広東人の家庭の中で、北京語を使用する。彼は暗い影を感じて早々に別れた、と言うのだ。

取るに足りないたわごとさ。でも僕だっていやな気がしないことはない。いずれにしても、もう少し気長に様子を見ようではないか。誰かが怪しいと言った。それだけで次々に葬られるとしたら、僕なんか直ちに葬られる。敵の方では、日本側がスパイに恐々としていると知れば、そんな術はすぐに使うだろうからな」

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引用終わり

昨日は徐小姐を遠ざけようと決心した松崎は、劉吶鴎の熱い語りを聞いて考え直した。気にしすぎていたのだと。もっと寛大になろうと。人をスパイなのかスパイじゃないのか、疑いはじめたら訳が分からなくなる。現に熱く語った劉吶鴎も、実は徐小姐には不気味なところもあるんだと揺れている。そしてまた、劉吶鴎の熱い語りは、彼が、台湾人なのか、日本人なのか、支那人なのか、さだかではない、アイデンティティがぐらぐらと揺さぶられている状況をも赤裸々にした。

もうひとつ、徐小姐が日本人との交際で見せる自然な振る舞いを劉吶鴎は指摘している。このような人がスパイであろうかと。これは、中国の歴史研究家、許洪新氏が鄭蘋如についても指摘していたことだ。ピンルーも、スパイだったという話がある一方で、どのような調査によっても蘭衣社やCC団の名簿に名前が出てこないし、スパイという証拠も挙がってこない。徐小姐の無垢で自然な振る舞いは、ピンルーの日常の振る舞いにも近いものがあったはず、と想像させるものがある。

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徐小姐のロケット 5

松崎啓次著「上海人文記」の「徐小姐(シュ・シャオチェ)のロケット」を続ける。今回の節は、松崎の上海での仕事の同僚、台湾出身の映画人、劉吶鴎(りゅうとつおう)が住む、憶定盤路(おくていばんろ、 エディンバロ)の家にまつわる話である。憶定盤路という通りは、ジェスフィールド公園にほど近い、租界西側の越界地区にある。越界地区とは、租界を少しずつ延長させて拡大していった新しい租界地区のことである。松崎は、劉吶鴎の家で、毎朝中国語のレッスンを徐小姐から受けることになったのだ。時は1939年1月頃の話しである。

ちなみに、この少し前頃、松崎は日本に一時帰国している。その前日、劉吶鴎が幹事となってささやかな送別会を開いてくれた。劉吶鴎が呼んだ女性の中にテンピンルーがいた。テンピンルーが、「日本の人がみんな日本に帰ったら戦争が終わるのに・・・・」と松崎に少しからんだエピソードがあった時だ。「上海人文記1」を参照←クリック

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「憶定盤路・劉君の家」

朝のコーヒーを済ますと、松崎は駆けるようにして、いかめしい建物の並ぶバンドを二階建てバスに飛び乗った。こんな日が一週間位は続いたろうか。松崎は支那語の生徒としては決していい生徒ではなかった。次第に突発的な用事が増大してきて、約束の時間は守れない。予習の時間も復習の時間も全く無くなってしまうのだ。

 

たとえばこんな日もあった。松崎は六時に起きて四声(注:中国語独特の4つの抑揚のこと)を音読した。コーヒーを飲んで、さて部屋に鍵をかけて出かけようとする、と、電話である。I中佐だ。漢口にいるはずの氏が、昨日、飛行機で来て、松崎を捜したけれど会えなかった。これからすぐ行くから待ってろと言うのだ。氏と会って三十分、ボーイが名刺を持ってくる。東京から知人の紹介でと言って、レコード会社の人が来たのだ。続いて劉吶鴎が飛び込んでくる。

そんなこんなしているうちに、時は午前十時を回っている。あわてて劉君の家へ電話する。今日は北京語の勉強は中止しますと。しかし、電話をかけられるときはまだいい方であった。行こう行こうと思って、仕事にけりがついて時計を見ると午後二時などと言うことさえあった。こんな日が続いてもう松崎は北京語を断念していた。午後五時、劉君と松崎は小暇を得た。彼は一度家に帰って子供の顔が見たいと言う。松崎も一緒に彼の家へ行った。

彼の奥さんがドアを開けるとすぐに、「松崎さん、悪い。徐さん、きのうも今日も、朝、午後、そして四時と三度も、あなたを訪ねてきた。先生をそんなふうに扱うのは失礼だ」と言うのだ。失礼に違いない。で、お詫びにその夜、暇な時間を利用して、劉君一家と徐さんを招待することにした。

Photo 支那食のご馳走となると、十四、五皿はあるだろうか。で、どうしても七八人がテーブルを囲む必要がある。徐小姐、劉夫妻、黄夫妻と、そして金子少佐に電話して、松崎と七人、場所は南京路の大新公司デパート(写真中央の建物。道路は南京路。右側は国際競馬場)の三階にある東亜飯店を選んだ。

夜は野鶏(ヤチ。売春婦)がこのデパートの前に立ち並び、四階から上はホテルであるが、麻雀牌の音が一晩中騒がしく、時としてアヘンの臭いさえ漏れてくるが、ここの広東料理は不思議とうまかった。それに部屋の数が多いのでフリーで出かけても断られる心配がない。

夜の七時、皆ここに集まった。夫人達はそれぞれピカピカ光る夜のドレスを着ていたが、徐小姐は白の支那緞子(どんす)で作った長い袖の着物を着ていた。彼らは金子少佐を待つことにした。女たちは特有の社交性を発揮して、しゃべっては笑っていた。支那の人たちの社交のうまさについては定評がある。初対面の人たちでも即刻、十年の知己のような話をする。これも食事の時、一つの卓を囲んで、嫌でも応でも話をしながら一つの皿から食べねばならぬ、この国の習慣のたまものであろうか。

金子少佐がやっと来た。松崎は立って紹介しようとした。と少佐は、

「久遠、久遠(チュウュォン、久しぶり)」

と、徐小姐の手を握るではないか。徐小姐ももちろん声を上げて満面に喜びの表情を浮かべ、少佐の手を握る。「なんだ、知り合いか」、と松崎は思った。

「ほう、徐小姐は俺の老朋友だ。君たちはまた、どうして知ってるんだね。この人を」

少佐は劉吶鴎に話しながら席に着く。

四つのオードブルの熱い皿が運ばれる。広東料理は熱い皿、四川料理は冷たい皿。彼らは杯を挙げて、

「乾杯!」

「乾杯!」

とお互いの健康を祝し合う。

料理が次から次に運ばれる。

話は弾んで杯も重なる。

少佐は徐小姐に、

「今、どこに住んでるの?」

「何をしてるの?」

などということを料理と料理の間に、冗談交じりにしゃべりながら訊ねている。

近況を知らない老朋友。顔の広い少佐のことだ。事変前からの知人かななどと思って松崎は見る。

九時半、やっと食事が終わった。さてどこへ遊びに行こうかということになる。ここでまた一評定である。ダンスホール、シネマ、そしてギャンブルハウス。女たちはしきりと賭博場を主張しているらしい。この街では想像を裏切って、賭博場は華やかに明るく、賭ける人達は負けても勝っても楽しそうである。

この兵乱と水害の多い国では、既に生きること自体が賭博なのだ。したがって人々はルーレットやさいころの目で百圓(百円)儲けようと千圓損しようと免疫になっているのだろうか。

衆議が賭博場行きと決定したらしいので、金子少佐と松崎は残念ながら用事があると巧みに座をはずした。日本人は、どこへ行っても日本人であることを忘れてはならない。賭博は許されない事である。

金子少佐と二人、久しぶりで虹口の街をぶらついた。北四川路も呉松路も活気づいて、ネオンサインがまばゆい。歩きながら少佐が言う。

「徐って女・・・、いつか話をしたことがあったっけ。呉という蘭衣社の女の友達なんだ。気をつけろよ」

松崎は背中に冷たいものが走るのを感じて立ち止まった。徐が、あの徐小姐が、金子少佐がかつて語った日本の機関の中で働いているスパイの一人であるかもしれないとは・・・。考えられることだろうか。

支那では四億人の人口に対して、姓が百あまりしかない。したがって黄、梁、張、徐、周のような姓は、十人集まれば二ないし三人は必ずいる。それほど多い名であるだけに、松崎は気にもとめなかったが、さて徐、徐・・・と考えてゆけば伴野氏の放送局にいたという女も確かに徐小姐であった。

「徐、徐、・・・徐小姐、彼女は何者だろうか。それも全上海にアンテナを張り巡らしている劉君が彼女のことを全く知らないのであろうか。あるいは知っていて私に話さないとすれば・・・。彼自身も怪しいことになるではないか」

「しかし、彼女と映画マリーアントワネットを見たとき、母としての悲しい皇女の最後に、涙を流していたではないか。他人の悲しい運命に涙を流す女!それはやさしい女ではないか。ああ!私にはわからない」

松崎は、夜更けのホテルに帰って暗い階段をぼんやりと昇りながら考え続けた。

「劉君に明日の朝、すぐに会おう。素直に私の聞いた、徐小姐の話をして、いづれにしても、今後我々の周囲から彼女を遠ざけよう」

ベッドに入った松崎は、いつの間にか眠りに落ちていた。その夜、松崎は悪夢にうなされた。黒く沈んだブロードウェイマンションの上に月が浮かんで、雲足の速いのが、いやに不気味に思われる夜だった。

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引用終わり

松崎は、中国語レッスンにあまり乗り気ではなかったようである。まずはかなり忙しかったこと。そして、根っこには、いつまで上海にいるのか、中国にどこまで漬かるのか先が読めないこと。そして、まだまだ日本で活躍したい、という思いがあったことが大きかったろう。

そこへ来て金子少佐の、徐小姐には気をつけろ、というアドバイス。あのやさしそうな徐はスパイなのか?一度疑い始めたら、とめどなく疑わしく思えてくる。

彼はせっかくお詫びの席で徐と仲直りができたのに、明日の朝、紹介者である劉吶鴎に、もう彼女とは会わないと宣言するようである。

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2010年1月 4日 (月)

徐小姐のロケット 4

Photo  (写真は映画を見て涙を流すワンチアチ。ピンルーをモチーフとした映画「Lust Caution」のヒロインである)

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュシャオチェ)のロケット」の章から、引用を続ける。

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「映画 マリーアントワネットを見た日」

雑誌「改造」に載った、火野葦平の「麦と兵隊」が素晴らしく人気を呼んでいた1938年秋から冬にかけての頃であった。

ある午後、松崎は南京路の新雅で点心を食べながら、劉吶鴎(りゅうとつおう リュウノウオウ)と会った。彼は声を潜めて松崎に聞いた。

「支那人の間で、日本軍が近いうちに租界を攻略するという噂があるんだけど。実際、またフランス租界ではそれに備えてトーチカを急造していると言うんだけど、・・・本当かしら」

「さあ、知らない。噂だけだろ」

「うん、僕もそう思う。けれど支那人達は、日本の軍隊がとてもたくさん郊外に駐屯して機会を待っていると言うんだ。たくさんの兵隊で現状維持には必要以上だと言うんだ」

「うーん、そうかね。本当か嘘かは一二ヶ月たってみないと分からないな」

実際、支那人達の耳は早い。口も早い。そしてこの世界の地底である上海は、どんな秘密も秘密でない街だと言われている。どんな秘密も一日前には分かるところだと言う。こんな事さえある。生きている人の死亡広告が発表された。そしてその人がその新聞を買って読んで真っ青になった時、テロ団に撃たれて死んだのだ。が、皇軍の場合だけはもちろん例外である。また例外であらねばならない。

しかし、後で知ったことであるが、皇軍は確かに郊外に終結していた。そして彼らは租界をではなく、南の天を睨んで広州湾上陸作戦の日を待っていたのだ。そうだ、火野軍曹もその作戦に参加すべき運命を感じて、「公務が忙しくなる」と言ったのだろう。

上海の冬空には、目に見えない黒雲が流れていた。上海の人たちは焦燥を感じていた頃であった。

Photo_2 話を新雅に戻そう。松崎と劉吶鴎は、ただ人を待つ間にそんな雑談をしたにすぎない。劉吶鴎は、「紹介したい人があるんだ」と松崎を引っ張ってきた。松崎は誰に会うのか知らない。お茶を飲んで待っていた。

(写真は現在の南京東路にある新雅)

「来た!」

とつぶやくと、劉吶鴎は手を挙げた。松崎は振り返った。来たのは女であった。少々赤みを帯びた面長の顔、眉がつりあがって印象的な顔だが、特に美しいというほどではなかった。

彼女は茶褐色の毛皮のオーバーを脱ぎながら、特徴のある少々遅い上海語で、

「すみません。わたし少し遅れましたね。バスがとても混んで・・・」

と弁解する。

劉吶鴎と彼女はしばらく上海語で何か話を続けた。松崎はぼんやり窓外の群衆を眺めていた。

と、話している彼女の視線が突然、松崎に向かった。

「アノ、・・・・・アナタ、ペキンゴ、ホシイ? シャンハイゴ、ホシイ?」

松崎は面食らって劉吶鴎を見る。彼はあわてて説明する。

「徐小姐は、なにか仕事があったら紹介してくれって言うんだ。彼女は今、一生懸命日本語を勉強しているのだけど、こういう人は将来、我々の会社が出来たら必要になると思うから。しばらくたくさんいい日本人を紹介するから、支那語を教えなさいと話したところだよ」

「で、僕が最初の被害者?」

「いや、同盟通信のM氏。三井のK氏らも教えているそうだ」

「でも・・・・・・・」

と言いかけて松崎は口をつぐんだ。松崎は自問自答した。

「自分は上海にあと幾日滞在するのだろうか・・・。また将来も支那で仕事をしていくだろうか・・・。もちろん、今日の日本人にとって、体当たりで支那を勉強すること、そして今日の支那の動きをハッキリ掴むことは、どれだけ自分の生活を豊かにするかは分かっている。けれど、私は日本でのやり始めた仕事を中途で投げ出して上海へ来た。

若い日本の映画も、やっと私たちの多年の希望の一端を受け入れてくれるだけに成長してきた。その今日、簡単に日本の仕事と離れられるだろうか。亀井や秋元や三木や、そして大村のいる日本の映画界を。

私は、映画会社設立の見通しがついたら、要領よく逃げ出さねばならない。私の仕事は映画を作ることであって、会社を作ることではない。人間の仕事には限度がある。私は心の中で自分の行動を批判し続けていた。が、これは最後まで劉吶鴎には言えなかった。あれほど親しかったけど、彼を見捨てて帰るということはついに口には出せなかった。

支那語を学ぶ。それはいいことだ。学びたい。が、私は劉吶鴎や黄君が次第に親しくなり、彼らの昔の友達と仇敵の関係となり、漢奸と呼ばれ、彼らを葬れ!という文字が、新聞にさえ現れている事を知っている。

もし、私が日本の仕事を断念して上海に残るとすれば、ただ彼らの友情に答えるためだけでしかない。彼らに対する友情は、ここにとどまることなのだろうか、まだ私は決心できない。

そこへ女の子である。しかも、将来、我々の会社で使うことを前提にして考えなければならない女の子である」

劉吶鴎は、徐小姐に松崎が同意であるものとして話を進めている。「いやだ!」と言った場合の彼のメンツも考えなければならないだろう。劉吶鴎はその間に彼女と話をどんどん進めていった。

「いい? では、毎日、朝八時から九時。僕の家へ彼女が来る。で、君も僕の家へ来る。教科書は彼女が見つけるそうだ」

いいだろう・・・

松崎は考え直した。仕事の都合で、当時、虹口のアスターハウスに松崎は住んでいた。松崎は朝の散歩のつもりでバスで彼の家へ通う。そして九時に劉吶鴎と仕事に出かける。

「いい?  では、明日から」

「うん、明日から」

彼女にも劉吶鴎は伝えた。劉吶鴎がすっきりして言う。

「ねぇ、映画を見ようよ。マリーアントワネットを。とてもいいらしいよ。徐小姐、你、 好不好?(シュシャオチェ、二、ハオ プハオ?)」

彼女は、

「好(ハオ)」

と答えた。

松崎も答える。

「見よう!」

Avenue_joffre (上の絵はがきはアヴェニュージョッフルで、左角に、この日の3人が映画「マリーアントワネット」を見たキャセイシアターが見える)

フランス革命を扱った映画で、日本では到底上映されない映画であった。そして女優ノーマシアラーがカムバックしたと伝えられる名画と噂が高かった。三人はフランス租界のアヴェニュー ジョッフルにあるキャセイシアターに自動車を走らせた。

「マリーアントワネットは、マリアテレサの娘にして・・・」

Photo_2

から始まった。皇女に生まれた娘の、夢多き日からフランス皇帝の皇后となり、宮廷の裏の闘争の中で、妻としての悩み、母としての愛、苦悩、そして革命の犠牲になって、しかもギロチンに登るアントワネット。松崎も劉吶鴎も息を潜めてその映画を見ていた。

ふと気がつくと、横に座っていた徐小姐の頬に涙がとめどなく流れている。彼女はぬぐおうともしない。松崎はそれを不思議に思った。泣いている支那の女の顔を初めて見たのだ。そして、それは永い間、松崎の眼底に残って消えなかった。

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引用終わり

この徐小姐は誰なのか・・・・・?本当に日本のラジオ局アナウンサーとして、テンピンルーの同僚としてこのような中国人女性がいたのか?「徐小姐のロケット 1」で書いたように、私は当初、徐が、抗日スパイと疑われている日本ラジオ局のアナウンサーということで、ピンルーを指すものだと思った。同じとも思えるし、違うとも思える。今回の節では、松崎が徐の顔の特徴を言っているが、「戴志華(タイ シホワ)の銃殺」で出てくる戴、つまりピンルーとは違う見た目で書いている。後の節では、徐は広東出身で母親は徐が小さなころに亡くなっていると書いていたり、中年で大柄な姉がいるという。話の具体性から、やはり別人ということで、松崎の書いたことを信じるべきなのだろう。

これはとりもなおさず、抗日スパイと疑われた中国人女性アナウンサーが同時期に二人、日本のラジオ局、大上海放送局にアナウンサーとして働いていたということだ。そのことが映画「上海の月」で見せた、江木に対する三角関係の脚本につながっていったわけだ。「徐小姐のロケット」を読むことで、フィルムが断片的に半分しか残っておらず、訳の分からない国策映画という評しかつかない「上海の月」も、ストーリーがずいぶんと見えてくるはずだ。

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徐小姐のロケット 3

Photo_3

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐のロケット」より、引用を続ける。(写真は金子少佐のいた昆山花園アパート)


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「金子少佐から聞いた話」 

1938年1月下旬、上海に来た当初から松崎は金子少佐の指導で仕事を始めた。金子少佐は、支那について全く無知だった松崎を巧みに指導して、ついに松崎を支那の仕事から抜き差しならぬようにしていった男だ。松崎は、日本でちょうど仕事に油が乗りかけているところであったし、文化映画の勝利を目指して十年間働いてきて、やっと芽を出しかけた頃だったので、その仕事を捨てて支那に来ることがどんなに苦しかったか。

金子少佐から電話である。

「おい、今夜は暇かい?」

「はい」

「俺も暇だ。うちへ来いよ。久しぶりにお茶漬けを食おう。塩鮭があるぞ」

「素敵ですね!じゃ今すぐ行きます」

「だめだめ、俺はこれからまだ二三軒まわるところがある。一時間たったら来てくれ」



松崎は、虹口(ホンキュウ)の崑山花園(こんざんかえん)の金子少佐のアパートにいた。弾丸の破片で痛んだ窓の応急修理の跡と、二階に住む英国の婆さんが窓から突きだした英国国旗(第三国人だから弾丸を撃つなという記号)が、いまだ戦争気分を残している。が、部屋は暖かく、花園には赤い花が咲き残っていた。

中略

少佐は話しを転じた。

「スパイはどこにでもいる。と言うのは至言だ。呉小姐(ウ シャオチェ)とダンスホールリドーで会った時だ。踊っている呉の視線が一人の女を追っているのだ。その女を俺も知っている。どこかで会った女だが思い出せない。なんでも日本側の機関で働いている女だった。踊りが終わって席に帰ろうとすると、呉がその女のところへ行って何か話をしてからテーブルに帰ってきた」

Photo_4 (写真はダンスホールリドー(舞庁麗都)の舞票で、踊る相手のいない男性もこのチケットでダンスホールの女性と踊ることができた)

俺は聞いてみた。

「君の友達?」

「ええ、あの人をご存知?」

「いや、思い出せない」

「あの人、あなたのことを知ってるわ」

「そう」

「あの人・・・。わたし今あの人から、自分のことをあなたには何も言わないで、と頼まれたのよ」

「それどういう意味?」

「あの人、昔、公安局にいたの」

「公安局?」

「ええ、公安局よ」


松崎君、知ってるかい。スパイは自分のカモフラージュのために、よく他人をスパイと思わす言動をするんだ。どっちがスパイでどっちがスパイでないか、俺は知らない。両方がスパイかもしれない。


「では、君の同僚だったんだね」

と、俺は一丁ズバッとやったね。呉のやつ、サーッと青くなった。やつも蘭衣社の分子として公安局にいたんだ。


少佐は続けて言う。

「日本側の機関の中にスパイが入り込む危険はだんだん多くなるだろう。ことに君のやる文化的な仕事には敵側からスパイも送り込みやすいのだ。よく気をつけるんだね」

後略

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引用終わり


さて、金子少佐は、軍報道部や日本のラジオ局を管轄する特務部の長である。「戴志華(タイ シホワ)の銃殺」の章では、ピンルーの母親からの面談依頼を受け、ピンルーのラジオ局就職の世話をして、実務担当の浅野少佐に採用を薦めた人物だ。

金子少佐は呉と踊っているダンスホールで日本の機関で働いているある中国人女性を見かけた。それがピンルーかどうかはわからない。呉が問わず語りに、その女性のことを、要注意人物だとわざわざ金子に警告したわけだ。




徐小姐のロケット 4へ続く←をクリック

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徐小姐のロケット 2

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ シャオチェ)のロケット」の章より引用し、最後に分析を加えていく。なお、意味を変えずに表現をわかりやすく変更したり、原文では第一人称「私」で進行していくが、ここでは「松崎」として進行させる。

以下、引用開始

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「伴野氏から聞いた話」(注:伴野氏はNHK小倉局から上海へ派遣された技術者島村鶴雄氏か、NHK東京報道部中継係、友安義高中尉と思われるが確定できないので原文通り掲載する)

伴野が上海に到着したのは、上海に事変が飛び火した1937年の9月であった。彼は放送局の人。租界の中にある40の放送局が、口を揃えて日本軍の敗退、日本軍の不信を放送している時、日本には真実を伝えるたった一つの放送局も無かった。

彼は最も勇敢な兵隊さんと同じくらいの勇敢さと、情熱と努力を傾け、大勢の人と協力して軍報道部、放送班をつくることに成功した。

松崎が伴野に会ったのは、その翌年の1938年2月の始めであった。伴野は南京入城の歴史的放送を全世界にラジオで送り、上海の日本語放送局の第一歩を築いて、意気揚々と上海に帰ってきた。松崎と伴野はアスターバーで落ち合った。

すると伴野は、数日前に遭遇した奇妙な話を語り始めた。

南京から帰って来た日だった。一ヶ月近い前線生活の垢を一風呂浴びて、さてこれから飯でも、という時に電話だ。ボーイが、

「支那  お嬢さん  電話」

と言う。伴野は自分に支那のお嬢さんの友達は無いはずだけれど、ととにかく電話口に出てみた。

「我 是 徐小姐!」(ワォ シ シュ シャオチェ)

Photo と、電話は言う。伴野はすぐわかった。放送局のアナウンサーだ。彼女がどうして自分の電話番号を知っていたか、どうして伴野が今日南京から帰ってきたかを知ったか、などという事はその時は少しも考えに浮かばなかった。

(写真は1938年に日本軍報道部が設立した南京放送局(南京広播電台)の中国人アナウンサー)

「今、あなたは暇がありますか?」

「ある」

「では、すみませんが、グランドシアターの横にある「雪園」という菜館にすぐに来て下さいませんか。お願いです」

伴野はとっさに「行く」と答えた。

当時、我々と協力する支那人はわずかであった。しかもそれらの中で、彼女は当時普通にやられていたように縁故をたどって得た人ではなかったのだ。

局を開設するのに、上海語、北京語、広東語を話せるアナウンサーが必要になった時、大胆にも新聞に募集広告を出した。もちろん日本の放送局ということを秘密にして。大勢の応募者の中から数名選んだのだけれど、少し働いて日本側の機関だとわかると、いつのまにか一人減り、二人減って、ついに彼女一人だけになった。もちろん彼女も何度かやめそうな様子も見えたし、また、二三日来なかったこともある。が、めずらしく実直に働き続けてくれた。

その彼女が「来てくれ」と言うからには、特別の事情があるに違いない。伴野は早速でかけた。しかも、ピストルをズボンのポケットに忍ばせることと、ボディガード役の汪君に伝えることは忘れなかった。

自動車が南京路にさしかかった時、道が群衆であふれているのを知った。「爆弾さわぎだ」と誰かの声が聞こえる。クラクションを鳴らし続け、道を迂回して、やっと指定の「雪園」に到着した。

彼女はやや面長の赤らんだ顔が今夜は少し青ざめて、怒り気味の眉がひきつっている。伴野は徐小姐の顔に恐怖を見て取った。最初、彼女は誰かに脅迫されているなと思った。彼女に近づくと、あわてて伴野にもう一人の女性を紹介する。線の太い体つきで、眼や眉のはっきりした女だ。

「我 的 朋友、 呉小姐」(ウォ ダ ポンユウ、ウーシャオチェ。私の友達、ウさんです)

徐小姐はこう言うと既に普段のにこやかな態度を取り戻している。伴野は彼女たちに並んで座った。彼女は照れたように笑うと、友達の女に広東語で話しかけた。伴野は広東語がわからない。彼女たちが会話している間、伴野は黙ってお茶を飲んでいた。彼女がやっと伴野に話しかけた。

「お忙しくなければ私たちをどこかへ連れて言って頂戴」

「どこへ?」

「よろしければダンスに」

「いいけど・・・。どこ?」

「どこがいいかしら」

彼女は友達に目を向ける。

「大華(アンバサダー)」

「ああ、あのエドワード路の」

「行きましょう?」

「よし、行こう」

みなは伴野の自動車に乗った。

ところで、彼女達は何の必要があって自分らを呼び出したのだろう。この点、ボディガード役としてついてきてもらった汪君は心得たものだ。彼女達との世間話の中に、どんなきっかけで伴野と今夜遊ぶことになったのかを聴いている。早口の支那語で十分には意味が取れないけれど。

南京路はもう群衆が散っていた。呉小姐はしきりに窓の外を眺めている。爆弾騒ぎが特別珍しいのか。

自動車は競馬場の横の道を南へ抜け、やがてアンバサダーに着いた。ちょうど旧正月前のことだったので、このダンスホールは家族連れの人たちで大変なにぎわいだ。女たちは晴れのイブニングドレスを着て化粧も濃く浮き浮きしている。

伴野達は席に着くとすぐホールに出て踊った。伴野は徐小姐と、汪君が呉小姐と。音楽が終わって席に帰ると汪君が日本語で私にささやいた。

「呉小姐ってのはすみに置けませんよ。踊りながらポケットのピストルに感づいて、どうしたの?そんな物騒なものを持ってきて!ですって。返答に困りました」

その時であった。どよめきが起こった。抗日ではない中立的な記事を書くある新聞社が爆弾に見舞われたのだ。ここから一丁と離れていないところ。中立的で、客観的な論調が抗日派からひどく毛嫌いされていた新聞社だ。

伴野は今度は呉小姐と踊った。

「今夜はいやに爆弾が飛びますね」

「そおね、わたし怖いわ。こんな夜。もう家へ帰りたい。送って下さる?」

「え・・・? えぇ」

「ありがとう、では私、帰ります」

人を呼び出して遊ぼうと言いながら、また帰るというわがままさにちょっとあきれた伴野は黙っていた。

呉小姐は席に帰ると、すぐにハンドバッグを取り上げて、徐小姐にも汪君にも同じ言葉を繰り返した。で、みな帰らざるを得なくなった。

エドワード路は非常警戒のまっただ中で、クルマは止められ、身体検査をされるところであったが、伴野が「ジャパニーズ」と言うと、フランス人巡査が黙ってOKの合図をした。呉小姐は、運転手に、フランス租界の暗い道を右に折れ、左に折れるように指図を続け、静かな屋敷街に来て、「再会、再会」(ツァイホイ、ツァイホイ)と握手してクルマを降りた。

我々は、次に徐小姐を送って、汪君と二人で西馬路のカフェ・フェデラルでお茶を飲むことにした。少々あっけらかんとした感じで伴野は汪君に尋ねた。

「徐小姐がすぐに来てくれと言うんで行ったんだけど、訳がわからない。なんだったんだろう一体」

「単純ですよ。爆弾騒ぎの非常警戒で、巡査が身体検査をするでしょう。支那の女たちはそれが嫌いです。で、日本人は治外法権なので、一緒にいればフリーパスでしょ。で、あなたを呼んだんですよ」

「ふーん。そんなことか。僕はまた、徐小姐が抗日分子にでも脅迫されたのかとあわてて飛び出したんだぜ。なんとバカな」。

新青年好みの冒険心に胸を膨らませた自分が恥ずかしく、伴野は声をあげて笑った。

だがしかし、その後二日経って、伴野は偶然、あるところで一枚の写真を発見した。それは紛れもなく呉小姐のプロフィールである。彼女が的に向かってピストルの狙いをつけているプロフィール。その様子はまさに蘭衣社の一員だ。蒋介石腹心の秘密結社。その規律と訓練と猛悪で名高い蘭衣社に彼女は属している!

では、その彼女を朋友と言って伴野に紹介した徐小姐は何者だ!彼女もまた蒋介石から派遣された女であろうか。そうだ、その日の爆弾騒ぎと彼女たちは関係があるのかもしれない。伴野は彼女たちのアリバイを立てるために利用されたのではないだろうか。それとも伴野がこんな風に考えるのは、やはり新青年の影響だろうか。

伴野はここまで松崎に話をして、返事を促すように松崎の顔を見た。が、どうして松崎に返事ができよう。松崎は上海に来てまだ四日目だった。

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引用終わり

さて、この文章からは、徐小姐に蘭衣社に属する女友達がいたことがわかる。しかも秘密を共有しているようだ。伴野は呉小姐が親日新聞社の爆破テロに関係していたのかもしれないと疑いを持ち、その夜一緒にいた徐小姐も関与したのかもしれないと疑った。

ところで鄭蘋如(テンピンルー)はこれまで様々な研究者がくまなく調べても蘭衣社やCC団の地下工作員の名簿には載っていない。彼女の研究の第一人者である許洪新氏によると、ピンルーは蘭衣社やCC団の正式なメンバーだったことはなく、CC団のメンバーであり上海法政学院の上級生である嵇希宗(けいきしゅう)についた運用人員だった、というところまでしか分かっていない。運用人員とは、補助人員、手伝いをする人、という程度の意味だろう。

伴野がこの日経験したことからは、徐小姐は呉小姐と行動を共にして新聞社爆破を行った、あるいはそれを行った呉小姐の逃亡を助けアリバイ作りの協力をした、と疑えなくもない。呉の堂々と落ち着いた振る舞い。徐小姐が最初は青ざめた顔をしていて、伴野がこれは脅迫されているに違いないと思った、と言っていることなどを考えると、私は呉が徐に指示を出し、徐がやむにやまれず日本人を呼んだ、というのもありかなと思う。

つまり呉が徐小姐を呼び出して、知り合いの日本人を来させ、日本人と一緒にやすやすと租界警察の警戒網をくぐり抜けて帰宅する。また、同時に日本人の会社の上司とレストラン、そしてダンスホールにいたというアリバイを作った、という筋書きだ。呉と徐について書かれた他の節を読むと、呉が大胆不敵で線の太い強気な女性、徐は映画で涙を流すやさしい女性であることからも、この推測に違和感はない。

この一件は、丁黙邨暗殺未遂事件で、ピンルーが、実行犯としてではなく、あくまで標的である丁黙邨を暗殺場所まで誘導するという「手伝いをした」、という行動を思い起こさせる。以前引用した記事「上海人文記 4」←クリック では、こういうくだりがあった。

彼女が日支の混血であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求を提出したんだ。彼女に維新政府側のめぼしい人たちを暗殺する手引きを・・・強いたのだ。

ピンルーは日中混血なだけに、親日を疑われ、それを晴らすための行動を強いられた。徐も、日本のラジオ局で親日放送をしていたがために、漢奸と疑われ、やはり同じように抗日的行動を見せる必要に迫られていたのではないだろうか。

ところで映画「上海の月」で、日本のラジオ局に時限爆弾がセットされる設定があった。私はこの設定に唐突感があったのだが、どうやら伴野から聞いたこの日の爆弾さわぎの話がベースになっていたようだ。

新聞社の爆破についてであるが、昭和16年発行、馬淵逸雄著「報道戦線」に、次のような記載がある。

 「事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞による宣伝は全く歯が立たない実情であつた」

このように親日系の新聞社に対する爆弾テロはいくつかあったようであるし、また後には日本側による抗日新聞社への襲撃もあったようである。

なお、この章で仮名で出てくる伴野氏が誰を指すか、であるが、1937年9月に上海へ派遣されたラジオ放送のための要員は、NHK小倉局主任技師島山鶴雄氏と、NHK東京報道部中継係(記者)の友安義高氏(1930年入局。予備役陸軍中尉)の二名がいる(福田敏之著「姿なき尖兵」)。両氏は、特務部長金子少佐とともに自動車で上海から南京へ1937年12月13日に入り、軍の南京入城を録音取材。友安氏はアナウンサーとして音声を入れ、島山氏は機材セッティングなどを担当し12月18日、二人とも上海へ戻った。

その後、島山氏はしばらく間をおいて、特務部の命令により再度南京入りし、蒋介石国民党のラジオ局、南京広播電台の損害調査に行っている。12月13日から都合、約一ヶ月くらい南京にいたとしてもおかしくない。松崎は、この章で話を聞いた相手、伴野氏が一ヶ月近い南京での前線生活を送った、と書いている。ということは、どちらかというと、伴野氏は島村鶴雄氏を指すものと思われるが、いかがだろうか。

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2010年1月 3日 (日)

徐小姐(シュ シャオチェ)のロケット 1

以前、松崎啓次の「上海人文記」の「戴志華(タイ シーホワ)の銃殺」という章を抜粋引用しあらすじとして5回に分けて掲載した。「上海人文記」が映画「上海の月」の原作であり、鄭蘋如(テンピンルー)の事が書いてあると知ったからだ。この章での戴志華はあきらかにテンピンルーである。

昨年末、この「上海人文記」の残りの章をいくつか読んでみようと思った。テンピンルーについていろいろと調べているが、引っかかるところがずっと残ってしまい、打開できていないため、なにかヒントがあれば、と思ったのだ。特に、テンピンルーと親しかった台湾出身の映画人、劉燦波(りゅうさんぱ。ペンネームは劉吶鴎(りゅうとつおう、リュウノウオウ) )に関して、「劉燦波撃たる」という章がある。劉吶鴎はピンルーと親しかったのでこの章になにかヒントがあるかもしれないと思った。

同時に「徐小姐(シュシャオチェ)のロケット」という章も、戴志華とは別人の女性ではあろうが、なにかヒントが得られるかもしれないと思って読んでみた。すると、映画「上海の月」は「戴志華の銃殺」という章よりもむしろ、この「徐小姐のロケット」という章が原作だったのだ。

この「徐小姐のロケット」の章には、二人の中国人女性が出てくる。徐ともうひとり、呉という女性だ。この呉は、蘭衣社のスパイだと明白に書いてある。その友人が徐なのだ。スパイの友人はまたスパイではないのか?松崎の疑いは晴れない。徐はスパイなのか。著者が最後までわからないのだから、読者はなおさら分からない。そして徐小姐が首からさげてるロケットの中身は?

松崎は、上海での生活の一つ一つを後の映画の素材となればと記録した。そしてそれを当時の芸術人が避けて通れない「検閲」、をくぐり抜けるために部分的に手直しをして出版していると思う。松崎の上海での日常を書き留めたメモ、「上海人文記」は、事実からの変更や脚色が入っていることは否定できないだろう。

一方で、のちに「上海狂想曲」を書いた高崎隆治が、「上海人文記」の巻末にこんな解説を寄せている。娯楽読み物でも小説でもないこれらはすべて実際の出来事であり、この本が当局によって一行も削除されなかったのは不思議な気がする。おそらくスパイはどこにでもいるから注意せよという宣伝との関係で検閲を通ったのだろう。あるいは現地の特務機関が背後で工作をしたのかもしれない」

「上海人文記」は、全て本当でないにせよ、全てが嘘でもない。いやほとんど全てが真実なのかもしれない。この「徐小姐のロケット」の章を引用し、私なりの分析をしてみたいと思う。

2010年1月7日追記:最初にこの「徐小姐のロケット」を読んだとき、私は徐小姐はテンピンルーであると感じました。ラジオ局の中国人女性アナウンサーで、かつ抗日スパイを疑われるという女性がそんなに大勢いるとは思えなかったので。そして松崎は、ピンルーの中にある二面性を、戴と、徐という二人の女性を登場させることで表したのかなと思いました。それが映画「上海の月」でも二人を登場させることに繋がっていったのだと・・・。


しかし、その後何度も何度もこの章を読むうちに、徐小姐はあくまで徐小姐であって、ピンルーではない、という結論に達しました。松崎は「上海人文記」を思ったよりも脚色していない、名前を仮名にした部分以外、ほとんどは事実を書いている、そう思うに至りました。書くと大変な迷惑をかける部分はあえて書いていない、というのはあると思います。しかしそれは登場人物への気遣いというものでしょう。当初、徐イコール鄭蘋如としてこの記事を書き進めていましたが、徐は徐として修正いたしました。

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2010年1月 1日 (金)

ピンルーのための音楽ミックス Vol.2

あけましておめでとうございます。大晦日の夜は、ピンルーのための音楽ミックス Vol.2を作って夜が更けました。前回に続いてThe Shanghai Restoration Project の曲からピックアップしました。今回はピンルーを呼び出して皆でパーティーに行く、というテーマで作りましたのでタイトルも"Party for PingRu" です。

Shanghai_restoration_project

Party for PingRuへのリンク をクリックして移動したらプレーヤーソフトの再生ボタンを押して下さい。

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