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2010年1月30日 (土)

上海防空戦 1

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王漢勲(おうかんくん)は1912年江蘇省の生まれの、中華民国空軍パイロットだった。1933年、21才の時に、中央航空学校の2期生として入学、3年間の研鑽を積み、卒業後は選抜されてイタリアへ航空研修に派遣された。帰国後はテストパイロット、訓練教官の任務についた。(イラストは王漢勲の愛機と同型のシュライク地上攻撃機)

下表の通り、1937年6月には、日本側諜報員の手により、中国空軍の配置がすでに一覧表となっていた。王漢勲(下表の赤い枠内)は空軍第9大隊第26中隊の中隊長ということがわかる。

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(上の表は日本側スパイが入手した情報によって1937年6月に作成された中国空軍編成配置一覧表。上が右半分、下が左半分)

ある日、王漢勲は、出身校である上海大同大学附属中学(注:6年制)の同窓会パーティに参加した。そこで彼は、ひとりの女性を紹介された。名前を鄭蘋如(テンピンルー)といった。

テンピンルーは、自分の住むフランス租界のテラスハウス万宜坊(まんぎぼう)内に、大同大学学長の娘で胡福南という親友を持っていた。一方、福南の兄、新南は王漢勲と親友だった。この兄妹がお互いの親友同士であるテンピンルーと王漢勲を同窓会で引き合わせたのだ。

ピンルーは学年は二つ下だった。付属中学の5年生(注:高校2年生)の時に彼女は話劇団の主役をやっていたこともあって、学内でも目立つ存在だった。彼女の気を引こうとする男子学生は、あまたいた。テニスに誘われたり、乗馬に誘われたり・・・。ピンルーは誘われれば付き合いは良かったが、残念ながら彼女のおメガネにかなう男子はいなかった。なかには彼女の自宅の入り口で待ち伏せして手紙を渡そうとする男子もいた。

一方、王漢勲は、人望厚く、後輩思い。運動はなんでもこなし、バスケットボール部の主将を務めた。また、大学では理学を専攻し、戦争がなければ学問を極める道もあった。そんな二人だったが、学内では話すことはなく、卒業してからは会う機会さえなかった。

この時のパーティーで初めて会話をした二人は、たちまち意気投合した。ピンルーは、大きな身体でどことなく鷹揚、飾らない性格の王漢勲に、いつしか「大熊(ダーション)」というあだ名を付けて呼ぶようになった。中国語で、親しみを込めて「大きないくじなし」という意味である。家族も彼を歓迎した。しかし、それからすぐに王漢勲は、上海から600キロも離れた南昌の町はずれにある空軍基地に勤務を命ぜられたのだった。王漢勲はピンルーに手紙を書くのが日課になった。



中国空軍は、蒋介石の妻、宋美齢が事実上のトップを務めていた。王漢勲は、宋美齢がアメリカに空軍機購入の商談に渡るときの随行員もしていたことから、信頼は厚かったようである。

Photo 王漢勲(左の写真)中隊長の愛機は、二人乗り地上攻撃機シュライクで、アメリカカーチス社が、中国向けにエンジンの馬力をアップした特別仕様で、機銃を斜め下方に向けて取り付けられていた。この斜め下向き機銃と、小型爆弾を多数搭載することによって、原野に展開する共産軍や、上海市街地に土嚢を積んで陣取る日本軍、黄浦江に並ぶ日本海軍艦船を低空で襲撃しようというのである。

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日中両軍とも準備万端整える中、1937年7月7日未明、北京郊外のマルコポーロ橋近くで夜間演習のために散開していた日本軍歩兵一名が、集合時間に戻らなかった。中国側からの銃声が散発的に聞こえていた。

この日本兵は遅れはしたものの、結局無事に戻ってきた。しかし、この夜、それはいつのまにか互いに相手が先に手を出したという事件となっていた。事件は、砲声の音が増すにつれ、事変となった。事変は収まりそうになかった。その事変が、その後8年間も死力を尽くして戦う戦争になるとは誰も思っていなかった。

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1937年8月4日、飛行訓練を終え、王漢勲は宿舎へ戻ると日課となっているピンルーへの手紙の続きを書いていた。一週間分書いたら送るのだ。一方、ピンルーからの返事はたまにしかこなかった。それでも彼は幸せだった。その夜は、南昌空軍基地の近くの料理店で、出征祝いの宴がある。王漢勲は手紙を書き終えると、部下にせかされて料理店へと出て行った。

ここ南昌は、日本海軍の台湾は台北にある松山基地から約600キロの距離にある。日本が開発したという96式中型攻撃機の行動圏内に入っているという話だ。日本軍の奇襲攻撃がいつあるかもしれず、一刻も早く、各大隊を分散配置しないと危険だった。しかもなるべく上海に近い場所に置いて、先手を打つ必要があった。いよいよ、厳しい訓練の成果を生かすときがやって来た。今晩はその前祝いなのだ。

Curtisshawkiii_1933

(写真は新ホーク CURTISS HAWK Ⅲ)

翌8月5日、太陽がまだ出る前の真っ暗な南昌空軍基地。まず第4大隊の新ホークがエンジンを始動した。全28機が上海の700キロ西方にある周家口に向けて離陸していく。それに続いて、第5大隊の新ホークが大隊長を先頭に滑走を始めた。こちらは南京の東80キロにある揚州へ飛び立った。

Photo_6 (写真はシュライク)

王漢勲中隊長はシュライクのエンジンを始動し、暖気運転を始めた。新ホークが続々と離陸するのを、高まる思いで見つめていた。彼の属する第9大隊の劉超然(りゅうちょうぜん)大隊長が彼のシュライクをエプロンから滑走路端へゆっくりと進めた。そして機体を半回転させ、離陸する方向へ機首をぴたりと向けた。

「いよいよ日本軍を大陸から追い落とせるのだ!」

王漢勲は晴れ晴れした気持ちだった。皆がこの戦争に勝てるという自信にあふれていた。劉大隊長の出発の合図を待つ。大隊長は部下全員が滑走路端に揃ったのを確認すると、片腕を風防の外に出し、人差し指で滑走方向を差すと、軽く2回振った。発進の合図だった。

中華民国空軍、第26中隊のシュライクは、スロットルを一斉に開け始めた。耳をつんざくようなエンジン音が鳴り響いた。最初に王漢勲中隊長が発進、そして唐元良副隊長の順に9機が飛び立った。次いで第27中隊の9機が続く。

部下18機が全て飛び立つのを見届けてから、劉大隊長は、風防を閉め、後ろ向きに座る機銃手に合図をするとスロットルを全開にした。滑走路の芝がぐんぐんと後ろへ飛んでいく。すぐ尾輪が持ち上がった。主脚の2本足だけになってさらに加速、すぅっと地面を離れた。劉大隊長は、上空で待つ王漢勲以下18機に合流すると、先頭に立って編隊を形成。彼らは上海から150キロほど南、杭州湾にほど近い曹娥の基地を目指した。曹娥からなら、上海まで空路30分もかからない距離となる。一日に二度三度の波状攻撃が出来る距離だ。

このほかの部隊も、杭州と南京の中間にある広徳基地や、杭州の筧橋(けんきょう ジァンチャオ)基地など、上海を取り囲むように位置する空軍基地を目指して、それぞれ離陸していった。こうして65機の南昌基地の主力機がすべて出陣していった。

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付記:タイトルを「上海防空戦」としたことに違和感があると思う。しかし、私がこのテーマを記事にまとめようと思ってぱっと思いついたタイトルがこれだ。上海は中国の都市である。中国人の街である。しかし、そこを爆撃したのが中国軍機である。高射砲や水上機で迎撃したのが日本軍である。空からの攻撃に対して街を守る、これは防空戦以外の何ものでもない。しかし、守るのは他国からやってきた日本人である。戦争の持つ不条理をこのタイトルで示せたらと思った。

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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コメント

名無し様、お返事遅くなりすみません。

上海防空戦7での2機撃墜された出典は「林秀澄氏談話速記録Ⅱ」P199からです。8月14日、18機の96式中攻が台湾の松山飛行場から飛び立ち2機が被撃墜、他の2機は着陸時損壊と海上不時着でした。

8月15日の空母加賀からの発進分につきましては、中山雅洋「中国的天空」P192が出典です。原典は同書によれば、「軍艦加賀戦闘詳報」(旧防衛庁防衛研修所戦史部資料室蔵)とのことです。

「中国的天空」には9月以降の空戦の状況も記載があります。当時最新鋭の96式艦上戦闘機も被撃墜されているようです。被撃墜機は当然研究分析の対象ですが、中国軍でなく米軍が入手しようとしたことは十分考えられますね。中国空軍は新規の製造はせず購買と修理しかしていませんでしたから。

私の想像では、パネイ号は日本軍の被撃墜機の残骸を積んで米国での研究対象としようとしていた、日本軍はその情報を掴んでおり誤爆と見せかけて攻撃、見事撃沈した、ということかと思います。

タンカーの件は情報は持っていません。アメリカは中国空軍、ドイツは中国陸軍に軍備の輸出を図っていましたが、軍産が一体となって、燃料を含めた軍需物質輸出ルートを構築しようとしていたのかもしれませんね。

投稿: bikoran | 2016年2月10日 (水) 01時24分

突然のお訊ねで恐縮です。

上海防空戦7で「前日の攻撃で、2機が中国空軍に撃墜され」、上海防空戦6では、

「この日、空母加賀から飛び立った45機の日本海軍艦載機のうち、89艦攻5機、94艦爆の2機の合計7機が撃墜された。」

とお書きになっています。これらの出典を教えていただけないでしょうか。

またこれ以外、特に上海戦以後南京攻略戦中(12月12日以前)にシナ軍によって上海、南京付近で撃墜された日本軍機は何機くらいあったのでしょうか。

このようなことをお伺いするのは、以下の説が事実であるかどうか知りたいからです。

1937年12月12日に起きた日本海軍機によるパネー号(Panay)誤爆誤射事件のときパネー号の船倉にシナ本土で撃墜された日本軍機の残骸が積まれていたという説があるのですが、当時撃墜された日本軍機が一機もなければその説は成立しないわけです。また、上海戦勃発当初撃墜されただけなら、12月12日までには間がありすぎるようです。

また、パネー号の喫水は1.6メートルしかなかったから、日本軍機の残骸は船倉に収納できなかった(だからパネー号による日本軍機残骸移送は事実ではない)という者がありますが、どうお考えでしょうか。私は、残骸なら量にもよるでしょうが収納できるのではないかと思うのですが。
https://en.wikipedia.org/wiki/USS_Panay_(PR-5)

それから余談ですが、中村 粲『大東亜戦争への道』(530頁)によると事件の時パネー号が護送していた米スタンダードオイル社の3隻のタンカーはシナ空軍基地へ(密かに?)油を輸送中だったという説があるそうですが、これを裏付ける資料をご存知でしたら教えていただけないでしょうか。 中村 粲自身はその説の出典を記していないので。

長々とすみません。よろしくお願いします。

投稿: 名無し | 2015年12月 7日 (月) 17時15分

はなちるさと様

コメントを頂きありがとうございました。またお返事が遅くなりすみません。「上海防空戦」は、二年半ほど前に書いた記事ですが、当時わたしの探究心は止めどが無く、好奇心のおもむくままに史料をかき集めて一気に書きました。百年後、いや数十年後、中国人による「東京防空戦」が起こらないことを祈りながら。

投稿: bikoran | 2015年4月27日 (月) 18時25分

日本ではほとんど紹介されることのない、当時の中国と日本の関係についての情報が満載で、特に諜報による中国側の航空機配置資料など、とても興味深く拝見させていただきました。ありがとうございました。

投稿: はなちるさと | 2015年3月19日 (木) 10時38分

g様
コメントを頂き、ありがとうございます。
日本が上海にて高射砲による防空行動、飛行機による迎撃行動を取り、その相手が空爆をしかけてくる中華民国空軍機だったのは事実です。

ただし、日本が防空活動をした地域は、通称日本租界、その実、武力によってもぎ取った虹口地区、倉庫の並ぶ揚樹浦周辺のみでした。イギリス租界、フランス租界の防空については無関心でした。つまり、本来的な意味で上海という都市、そこに住む都市住民全てを敵から守る防空意識は無く、日本の権益を守る意識だったと思います。

そのため、「上海防空戦」というタイトル付けは私にとっては「言い過ぎか?」という思いが付きまといました。しかしあえてそうしたのは、「他国の軍隊が、地元軍の空爆に対し、防空・迎撃する奇妙さ」を「戦争の不条理」として表現できたらと思ったからです。

将来、「1930年代上海」が、「2030年代東京」として入れ替わり、中国軍が東京で自衛隊機を迎撃していると想像すると恐ろしくなりますが、そういう想像は必要だと思います。「欧米の搾取から亜細亜を解放する、自衛隊をせん滅し善良な日本人を守る」などのスローガンのもとに。

投稿: bkoran | 2012年11月 5日 (月) 11時49分

戦争の不条理?
支那空軍が上海を爆撃して、日本軍が防空戦闘を行ってることには変わりはない。

投稿: l | 2012年11月 5日 (月) 10時43分

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