« 徐小姐のロケット 9 (最終回) | トップページ | 中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料1) »

2010年1月13日 (水)

徐小姐のロケット あとがき

自分なりのあとがきを書いてみたい。

映画「上海の月」。中華電影設立の立役者、松崎啓次が、志半ばで亡くなった友人の劉吶鴎、穆時英、劉吶鴎の友人である鄭蘋如(テンピンルー)、そしておそらくは妻ふゆのに対する鎮魂歌として作った映画なのだと思う。

ところが、この映画は、切り刻まれて処分されたのだろう、フィルムが半分しか残っていない。東宝映画は、終戦直後に、軍事活動に資するため製作されたと見られかねない映画を、戦犯対策として焼却処分している。いや、逆に、全部を焼却するよう命じられたが、全部焼いたといって半分残した意地の社員がいたという気もする。

しかし、半分になってしまったこの映画は、当然まともな筋がわからず、映画を評価することは不可能になっている。それどころか、その半分の映画を見て、わけのわからぬ国策映画、という評価がなかば定着しているようだ。

私が原作である「上海人文記」の「徐小姐(シュ シャオチェ)のロケット」の章を、”ほぼそのまま丸写し”したのは、映画は見れずとも原作を読むことで、松崎とそして当時製作にあたった人たちの意図が、読者の脳裏に映像として浮かび上がってくるのではないかと考えたからだ。

この一連の記事をアップするに際していろいろと史料をほじくりかえした。すると、やはり情報は埋もれているものである。

2008年8月、読売テレビ系で「二つの祖国を持つ女諜報員 鄭蘋如の真実」が放送された。この番組は私にいくつかのとても重要な事実を教えてくれたが、また同時に、信用できないこと、腑に落ちないことも放送された。

いくつかの腑に落ちなかったことのひとつに、番組のドキュメント部分では進行をつとめ、またドラマ部分ではピンルー役をつとめた中国人女優の耿忠(こうちゅう)さんが、ピンルーがラジオ局をやめた理由をこう推測したのだ。耿忠さんは確かこう言った。

「私は南京で育ちました。南京大虐殺があった街です。鄭蘋如は、アナウンサーとして日本軍の南京入城を放送しました。しかしその後、南京大虐殺を知ったはずです。鄭蘋如が日本のラジオ局をやめた理由は、この南京大虐殺を知ったからだと思います」

耿忠さんがこう思うのは南京出身者としては素直な意見かと思うが、ここが私はずっとひっかかっていた。引っかかる部分は多々あるが、引っかかった部分の一つだ。

私の考える、鄭蘋如が半年ほどで、日本のラジオ局アナウンサーを辞めた理由は、むずかしいことではない。誰でも思いつく。

「漢奸のがれ」

この一言だ。

私の史料あさりで見つかったものの一つが、軍報道部長、馬淵大佐の書いた「報道前線」という1941年発行の本だ。そこに次のような一節が書いてあったので引用する。

----------------

「大上海放送局が建設されたのは昭和12年(1937年)の暮で、すでに蒋介石政権は首都南京を放棄して遠く漢口に遁入した頃であったが、それでも上海の蘇州河一つ距てた空気は極めて険悪で、依然青天白日旗を掲げ、公然抗日的態度を表明するという風で、折角局が出来ても、進んで職員となる者も亦出演する者もなく、すみずみ大上海放送局に関係を持つ支那人があれば、漢奸扱いをされて脅迫状が舞い込むという始末で、職員の採用や出演者の交渉には少なからず困ったものであった。

したがって、局へ出入りする芸人等もその姓名を発表することが出来ず、わずかに維新政府や市政府公署方面要人の講演に限りその氏名が公開されるという有様であった。しかも出演者が放送中電話をもって脅迫されるという事実が一切ならずあり、又ラジオ通信雑誌等のごときは、単に大上海放送局のプログラムを掲載したという理由で数回に渡って脅迫状を受け取ったものである。

下は、上海租界内における大上海放送局の聴取状況調査の際寄せられた抗日的回文の一例であるが、参考までにここに掲げることとする。

一、貴電台放送のニュースには、しばしば日本軍閥および中国大漢奸汪精衛を擁護するものあり。この汝らの提唱する建設東亜新秩序には絶対反対なり。

二、ニュース、演芸に傀儡偽、たびたび耳に入ることあり。遊○(注:○は判読不能)は研究を要す。新聞(注:ニュースのことか)は純正を乞う。同盟通信社(注:日本の通信社)こそ世界まれに見る不純性の通信社なり。   

三、我は汝の売国奴的電台を憎む。正確なるニュース及び抗日宣伝プログラムを希望す。 

四、今後のニュースは大美報新聞報の正確なるものを放送せよ。最後の勝利は日増しに近づけり。泥沼に足を踏み入れぬよう。中華民国万歳!蒋委員長万歳!

----------------

引用終わり

これらは脅迫状ではなく、アンケートの回答である。大上海放送局では、実際、中国人職員を何名か暗殺によって失っている。

以下は、映画「上海の月」のプロデューサー、滝村和男の文章である。

----------------

最初は相手が抗日軍であり非占領地帯の民衆であるため、中国人を職員として放送を行ったが、蒋介石はこの”姿なき武器”の攻勢に驚愕、中国人の職員に対して迫害脅迫をもって阻害したので、一昨年(1939年)秋、芸専出身の大上海放送局設目(注:プログラム)員、席時泰ら、相当の殉職者を出したものである。

こうして三カ年半に亘る努力の結果、情勢は変化して、昭和14年(1939年)7月10日の汪精衛氏の歴史的和平声明は、実に大上海放送局のマイクを通じて行われ、大陸各地に中継、重慶側にも放送、蒋介石の心臓を寒からしめた訳である。

中略

席時泰氏は大上海放送局員として活躍した。東京芸専出身の彼は、浅草の某病院に勤務したが、事変勃発後帰国し、戦火のため塗炭の苦しみにあえぐ中華民衆を救おうと欣然、大上海放送局に参加した。毎日のように送られてくる脅迫状をものともせず、プログラム係(設目員)として活躍したが、昭和14年4月出勤の途上、共同租界南京路大新公司付近でテロの凶弾に倒れた。

同氏の発した功績が大きかっただけにその急逝は各方面から惜しまれ、同氏の葬儀の際、班長として苦難の道を共に戦い続けてきた浅野少佐が、血涙共に下る弔文を朗読するや、式場は嗚咽の声に満たされたのであった。

張麗森氏も、また大上海放送局員であった。同氏は席時泰氏の良き友であり、全中華における国楽の大家として知られ、演芸プログラム係として活躍中であったが、席時泰氏の遭難から一年後の昭和15年4月、北京路付近で重慶テロ分子の凶弾に倒れた。

同氏の死は、席時泰氏同様各方面から惜しまれると同時に、我が方ではこれらの事件によって今まで協力してきた華人職員の精神的動揺を怖れたが、僚友の死に奮起した華人職員達はかえって結束を固め、新しき国民政府の発展のため死を賭して最善を尽くす結果となったのである。

---------------------

引用終わり

「上海人文記」の「徐小姐のロケット」の章では、徐小姐がラジオ局をやめた理由を松崎に語っていたが、姉があぶないから辞めろとうるさいので辞めた、というようなことを言っていた。この、あぶないから、というは、漢奸と見なされて殺されるかもしれないからということである。

また、冒頭の節「伴野氏に聞いた話」では、徐小姐が伴野を電話で呼び出すシーンがあって、伴野氏は徐小姐が抗日テロに襲われそうになっているのでは?と心配し、ピストルを携行してボディガードと共に家を出るシーンが書かれている。

さて、ピンルーであるが、やはり同様な理由で辞めたのかと思う。耿忠さんの言う南京大虐殺が理由という意見については、それが原因でピンルーが日本のラジオ局を抗議の意味でやめる、というのだったら、もっと早い時期、南京の実態が上海に伝わってくるであろう1月〜2月頃に辞めているはずだ。彼女は南京事件のあった1937年12月に採用され、1938年5月から6月頃に辞めている。

私は、ピンルーが日本のラジオ局アナウンサーになったのは、当初、CC団あるいは蘭衣社の、諜報目的の組織的命令によるもの、あるいはピンルーが自発的に考えて、自分だからこそできる諜報ルート獲得のための、日本側情報ルート開拓のための就職、と見ていた。しかし、それだったら、漢奸に見られることを怖れる必要はない。いや、諜報目的としての就職だったのなら、少なくとも抗日側工作組織から漢奸には見られないし、逆にもっと長く勤めていた、あるいはもっと長く”勤めねば”ならなくはないだろうか。

しかし、ピンルーは辞めた。約半年間の勤務である。これは漢奸に見られることを怖れた結果である可能性が高い。この前提に立って、歴史を逆引きすると、ピンルーの大上海放送局アナウンサー就職は、単純に、自分の特技である北京語、上海語、英語、そして少しの日本語が話せることを生かす、そして歌が得意で性格的には目立つことが好き、母親が日本人であり母親の薦めもある、といったピンルー自身のパーソナリティを活かした通常の就職活動の結果であった、という線も出てくる。

この説が正しいかどうか、永遠に真実は分からないかもしれない。妹天如さんは、姉ピンルーのラジオ局勤務については全く語っていない。甥の鄭国基氏が少し触れて、アナウンスだけなく歌も歌ったとインタビューで答えているのみだ。これは国基氏の母親代わりだったおば、木村はなから聞いたことなのだろう。ピンルーが好きな歌をラジオで披露、となると、やはりいやいや勤めていたのではないようにも思う。それでも辞めるのは、それなりに強い理由があったのだろう。もしかしたら日本側に、彼女はスパイかもしれない、という疑念が生じたのかもしれない。徐小姐が疑われていたのと同様に。辞めたのではなく、辞めさせられた、という可能性もゼロではなかろう。

話は少し脱線しているかもしれない。しかし、徐小姐を脳裏に思い浮かべることによって、ピンルーが見えてくるのだ。少なくとも私のピンルー理解は、徐小姐を通じてかなり深まった。

|

« 徐小姐のロケット 9 (最終回) | トップページ | 中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料1) »

テンピンルー」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 徐小姐のロケット 9 (最終回) | トップページ | 中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料1) »