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2010年1月 4日 (月)

徐小姐のロケット 2

松崎啓次の「上海人文記」の「徐小姐(シュ シャオチェ)のロケット」の章より引用し、最後に分析を加えていく。なお、意味を変えずに表現をわかりやすく変更したり、原文では第一人称「私」で進行していくが、ここでは「松崎」として進行させる。

以下、引用開始

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「伴野氏から聞いた話」(注:伴野氏はNHK小倉局から上海へ派遣された技術者島村鶴雄氏か、NHK東京報道部中継係、友安義高中尉と思われるが確定できないので原文通り掲載する)

伴野が上海に到着したのは、上海に事変が飛び火した1937年の9月であった。彼は放送局の人。租界の中にある40の放送局が、口を揃えて日本軍の敗退、日本軍の不信を放送している時、日本には真実を伝えるたった一つの放送局も無かった。

彼は最も勇敢な兵隊さんと同じくらいの勇敢さと、情熱と努力を傾け、大勢の人と協力して軍報道部、放送班をつくることに成功した。

松崎が伴野に会ったのは、その翌年の1938年2月の始めであった。伴野は南京入城の歴史的放送を全世界にラジオで送り、上海の日本語放送局の第一歩を築いて、意気揚々と上海に帰ってきた。松崎と伴野はアスターバーで落ち合った。

すると伴野は、数日前に遭遇した奇妙な話を語り始めた。

南京から帰って来た日だった。一ヶ月近い前線生活の垢を一風呂浴びて、さてこれから飯でも、という時に電話だ。ボーイが、

「支那  お嬢さん  電話」

と言う。伴野は自分に支那のお嬢さんの友達は無いはずだけれど、ととにかく電話口に出てみた。

「我 是 徐小姐!」(ワォ シ シュ シャオチェ)

Photo と、電話は言う。伴野はすぐわかった。放送局のアナウンサーだ。彼女がどうして自分の電話番号を知っていたか、どうして伴野が今日南京から帰ってきたかを知ったか、などという事はその時は少しも考えに浮かばなかった。

(写真は1938年に日本軍報道部が設立した南京放送局(南京広播電台)の中国人アナウンサー)

「今、あなたは暇がありますか?」

「ある」

「では、すみませんが、グランドシアターの横にある「雪園」という菜館にすぐに来て下さいませんか。お願いです」

伴野はとっさに「行く」と答えた。

当時、我々と協力する支那人はわずかであった。しかもそれらの中で、彼女は当時普通にやられていたように縁故をたどって得た人ではなかったのだ。

局を開設するのに、上海語、北京語、広東語を話せるアナウンサーが必要になった時、大胆にも新聞に募集広告を出した。もちろん日本の放送局ということを秘密にして。大勢の応募者の中から数名選んだのだけれど、少し働いて日本側の機関だとわかると、いつのまにか一人減り、二人減って、ついに彼女一人だけになった。もちろん彼女も何度かやめそうな様子も見えたし、また、二三日来なかったこともある。が、めずらしく実直に働き続けてくれた。

その彼女が「来てくれ」と言うからには、特別の事情があるに違いない。伴野は早速でかけた。しかも、ピストルをズボンのポケットに忍ばせることと、ボディガード役の汪君に伝えることは忘れなかった。

自動車が南京路にさしかかった時、道が群衆であふれているのを知った。「爆弾さわぎだ」と誰かの声が聞こえる。クラクションを鳴らし続け、道を迂回して、やっと指定の「雪園」に到着した。

彼女はやや面長の赤らんだ顔が今夜は少し青ざめて、怒り気味の眉がひきつっている。伴野は徐小姐の顔に恐怖を見て取った。最初、彼女は誰かに脅迫されているなと思った。彼女に近づくと、あわてて伴野にもう一人の女性を紹介する。線の太い体つきで、眼や眉のはっきりした女だ。

「我 的 朋友、 呉小姐」(ウォ ダ ポンユウ、ウーシャオチェ。私の友達、ウさんです)

徐小姐はこう言うと既に普段のにこやかな態度を取り戻している。伴野は彼女たちに並んで座った。彼女は照れたように笑うと、友達の女に広東語で話しかけた。伴野は広東語がわからない。彼女たちが会話している間、伴野は黙ってお茶を飲んでいた。彼女がやっと伴野に話しかけた。

「お忙しくなければ私たちをどこかへ連れて言って頂戴」

「どこへ?」

「よろしければダンスに」

「いいけど・・・。どこ?」

「どこがいいかしら」

彼女は友達に目を向ける。

「大華(アンバサダー)」

「ああ、あのエドワード路の」

「行きましょう?」

「よし、行こう」

みなは伴野の自動車に乗った。

ところで、彼女達は何の必要があって自分らを呼び出したのだろう。この点、ボディガード役としてついてきてもらった汪君は心得たものだ。彼女達との世間話の中に、どんなきっかけで伴野と今夜遊ぶことになったのかを聴いている。早口の支那語で十分には意味が取れないけれど。

南京路はもう群衆が散っていた。呉小姐はしきりに窓の外を眺めている。爆弾騒ぎが特別珍しいのか。

自動車は競馬場の横の道を南へ抜け、やがてアンバサダーに着いた。ちょうど旧正月前のことだったので、このダンスホールは家族連れの人たちで大変なにぎわいだ。女たちは晴れのイブニングドレスを着て化粧も濃く浮き浮きしている。

伴野達は席に着くとすぐホールに出て踊った。伴野は徐小姐と、汪君が呉小姐と。音楽が終わって席に帰ると汪君が日本語で私にささやいた。

「呉小姐ってのはすみに置けませんよ。踊りながらポケットのピストルに感づいて、どうしたの?そんな物騒なものを持ってきて!ですって。返答に困りました」

その時であった。どよめきが起こった。抗日ではない中立的な記事を書くある新聞社が爆弾に見舞われたのだ。ここから一丁と離れていないところ。中立的で、客観的な論調が抗日派からひどく毛嫌いされていた新聞社だ。

伴野は今度は呉小姐と踊った。

「今夜はいやに爆弾が飛びますね」

「そおね、わたし怖いわ。こんな夜。もう家へ帰りたい。送って下さる?」

「え・・・? えぇ」

「ありがとう、では私、帰ります」

人を呼び出して遊ぼうと言いながら、また帰るというわがままさにちょっとあきれた伴野は黙っていた。

呉小姐は席に帰ると、すぐにハンドバッグを取り上げて、徐小姐にも汪君にも同じ言葉を繰り返した。で、みな帰らざるを得なくなった。

エドワード路は非常警戒のまっただ中で、クルマは止められ、身体検査をされるところであったが、伴野が「ジャパニーズ」と言うと、フランス人巡査が黙ってOKの合図をした。呉小姐は、運転手に、フランス租界の暗い道を右に折れ、左に折れるように指図を続け、静かな屋敷街に来て、「再会、再会」(ツァイホイ、ツァイホイ)と握手してクルマを降りた。

我々は、次に徐小姐を送って、汪君と二人で西馬路のカフェ・フェデラルでお茶を飲むことにした。少々あっけらかんとした感じで伴野は汪君に尋ねた。

「徐小姐がすぐに来てくれと言うんで行ったんだけど、訳がわからない。なんだったんだろう一体」

「単純ですよ。爆弾騒ぎの非常警戒で、巡査が身体検査をするでしょう。支那の女たちはそれが嫌いです。で、日本人は治外法権なので、一緒にいればフリーパスでしょ。で、あなたを呼んだんですよ」

「ふーん。そんなことか。僕はまた、徐小姐が抗日分子にでも脅迫されたのかとあわてて飛び出したんだぜ。なんとバカな」。

新青年好みの冒険心に胸を膨らませた自分が恥ずかしく、伴野は声をあげて笑った。

だがしかし、その後二日経って、伴野は偶然、あるところで一枚の写真を発見した。それは紛れもなく呉小姐のプロフィールである。彼女が的に向かってピストルの狙いをつけているプロフィール。その様子はまさに蘭衣社の一員だ。蒋介石腹心の秘密結社。その規律と訓練と猛悪で名高い蘭衣社に彼女は属している!

では、その彼女を朋友と言って伴野に紹介した徐小姐は何者だ!彼女もまた蒋介石から派遣された女であろうか。そうだ、その日の爆弾騒ぎと彼女たちは関係があるのかもしれない。伴野は彼女たちのアリバイを立てるために利用されたのではないだろうか。それとも伴野がこんな風に考えるのは、やはり新青年の影響だろうか。

伴野はここまで松崎に話をして、返事を促すように松崎の顔を見た。が、どうして松崎に返事ができよう。松崎は上海に来てまだ四日目だった。

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引用終わり

さて、この文章からは、徐小姐に蘭衣社に属する女友達がいたことがわかる。しかも秘密を共有しているようだ。伴野は呉小姐が親日新聞社の爆破テロに関係していたのかもしれないと疑いを持ち、その夜一緒にいた徐小姐も関与したのかもしれないと疑った。

ところで鄭蘋如(テンピンルー)はこれまで様々な研究者がくまなく調べても蘭衣社やCC団の地下工作員の名簿には載っていない。彼女の研究の第一人者である許洪新氏によると、ピンルーは蘭衣社やCC団の正式なメンバーだったことはなく、CC団のメンバーであり上海法政学院の上級生である嵇希宗(けいきしゅう)についた運用人員だった、というところまでしか分かっていない。運用人員とは、補助人員、手伝いをする人、という程度の意味だろう。

伴野がこの日経験したことからは、徐小姐は呉小姐と行動を共にして新聞社爆破を行った、あるいはそれを行った呉小姐の逃亡を助けアリバイ作りの協力をした、と疑えなくもない。呉の堂々と落ち着いた振る舞い。徐小姐が最初は青ざめた顔をしていて、伴野がこれは脅迫されているに違いないと思った、と言っていることなどを考えると、私は呉が徐に指示を出し、徐がやむにやまれず日本人を呼んだ、というのもありかなと思う。

つまり呉が徐小姐を呼び出して、知り合いの日本人を来させ、日本人と一緒にやすやすと租界警察の警戒網をくぐり抜けて帰宅する。また、同時に日本人の会社の上司とレストラン、そしてダンスホールにいたというアリバイを作った、という筋書きだ。呉と徐について書かれた他の節を読むと、呉が大胆不敵で線の太い強気な女性、徐は映画で涙を流すやさしい女性であることからも、この推測に違和感はない。

この一件は、丁黙邨暗殺未遂事件で、ピンルーが、実行犯としてではなく、あくまで標的である丁黙邨を暗殺場所まで誘導するという「手伝いをした」、という行動を思い起こさせる。以前引用した記事「上海人文記 4」←クリック では、こういうくだりがあった。

彼女が日支の混血であることを知った彼の仲間は、彼と彼女が仲間を決して裏切らない証拠にと、過酷な要求を提出したんだ。彼女に維新政府側のめぼしい人たちを暗殺する手引きを・・・強いたのだ。

ピンルーは日中混血なだけに、親日を疑われ、それを晴らすための行動を強いられた。徐も、日本のラジオ局で親日放送をしていたがために、漢奸と疑われ、やはり同じように抗日的行動を見せる必要に迫られていたのではないだろうか。

ところで映画「上海の月」で、日本のラジオ局に時限爆弾がセットされる設定があった。私はこの設定に唐突感があったのだが、どうやら伴野から聞いたこの日の爆弾さわぎの話がベースになっていたようだ。

新聞社の爆破についてであるが、昭和16年発行、馬淵逸雄著「報道戦線」に、次のような記載がある。

 「事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞による宣伝は全く歯が立たない実情であつた」

このように親日系の新聞社に対する爆弾テロはいくつかあったようであるし、また後には日本側による抗日新聞社への襲撃もあったようである。

なお、この章で仮名で出てくる伴野氏が誰を指すか、であるが、1937年9月に上海へ派遣されたラジオ放送のための要員は、NHK小倉局主任技師島山鶴雄氏と、NHK東京報道部中継係(記者)の友安義高氏(1930年入局。予備役陸軍中尉)の二名がいる(福田敏之著「姿なき尖兵」)。両氏は、特務部長金子少佐とともに自動車で上海から南京へ1937年12月13日に入り、軍の南京入城を録音取材。友安氏はアナウンサーとして音声を入れ、島山氏は機材セッティングなどを担当し12月18日、二人とも上海へ戻った。

その後、島山氏はしばらく間をおいて、特務部の命令により再度南京入りし、蒋介石国民党のラジオ局、南京広播電台の損害調査に行っている。12月13日から都合、約一ヶ月くらい南京にいたとしてもおかしくない。松崎は、この章で話を聞いた相手、伴野氏が一ヶ月近い南京での前線生活を送った、と書いている。ということは、どちらかというと、伴野氏は島村鶴雄氏を指すものと思われるが、いかがだろうか。

徐小姐のロケット 3へ続く←をクリック

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