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2010年1月17日 (日)

中支那派遣軍報道部放送班概要 (史料1)

鄭蘋如(テンピンルー)、そして「上海人文記」の徐小姐(シュシャオチェ)がアナウンサーとして勤務した、大上海放送局。このラジオ局を管理運営するのが、中支那派遣軍報道部放送班であるが、当放送班につき、1938年(昭和13年)4月13日に書かれた文書を入手したので、ここに2回に分けて記載する。

前に、当ブログに「テンピンルーの勤務したラジオ局」として、主に福田敏之著の「姿なき尖兵」という本を参考に記事を書いたが、今回は一次資料として原則的にそのまま記載する(句読点の若干の追加、助詞のカタカナをひらがにする、旧漢字を現在の漢字にする変更は行うがそれ以外は原文通りとする。追記は「注」と付する)。


ピンルーと徐小姐のラジオ局勤務の実態に少しでも近づくとともに、1930年代上海における日本のラジオ放送につき参考になればと思う。この文書の発見、閲覧、複写にはそれなりの手間と時間が伴ったので、ここに電子データとして入力、ネット検索可能とすることで将来の研究者の役にたてばと思う。


引用開始

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中支那派遣軍報道部放送班概要(4月13日作製)(注:マル秘の印あり)
放送班概要

中支那派遣軍報道部放送班の概要を報告すること次の如し

一、大上海放送局の設立

大上海放送局(10kW)は、軍の特殊目的のため昭和12年10月29日、日本電信電話工事株式会社の手により放送設備工事に着手、同年12月5日電波発射、12月7日試験放送開始、昭和13年1月7日工事の一部未完成のまま引継ぎ、1月17日本放送開始、工事の完成を待ち、3月18日正式引継ぎを完了、現在に至れるものなり(大上海放送局概要参照)

二、機構

昭和13年2月14日まで、中支那方面軍特務部諜報班乙として、その業務を大上海放送局の名において遂行したるも、2月15日より中支那派遣軍報道部放送班として大上海放送局および4月1日より業務を開始せる放送監督所の二つを一括し、現在次のごとき編成機構により業務を遂行しつつあり。(注:下記組織図は原本をもとにブログ管理人が作製。クリックすると大きくなります)

Photo

三、要員

4月1日現在の要員(未発令のものを含む)は、57名にしてこれを身分その他により区別すれば次の如し。

 1,身分別
将校1、奏嘱1、奏侍嘱3、判嘱2、判侍嘱7、判侍雇8、通信技工2、雇員9、傭人17、応召兵7、

 2,担務別
班長1、放送科9、報道科6、技術科25、業務科12、監督所4、

 3、勤務場所別
虹口(注:ホンキュウ)演奏所(注:スタジオ)31、楊樹浦(注:ヤンジュッポ)放送所17、南京路演奏所1、監督所2、聴査室2、要員宿舎4、(兼務のものは本務場所にのみ参入せり)

 4.国籍別
日本人44、支那人13、

 5.男女別
男50、女7、

以上の通りなるも、現在の機構において更に次の要員補充を必要とす。

放送科 学芸係主任1、通訳2、アナウンサー1(※1)、小計4、

報道科 ニュース編集係1、翻訳係2、講演係1、小計5、

技術科 ラジオ塔・拡声器・共同聴取設備要員3、超短波・搬送設備要員2、放送時刻園長に伴う要員4、小計9、

業務科 筆耕1、給仕2、小計3、

監督所 聴査監督1、聴査係1、技術係2、庶務係2、翻訳係2、小計11、

合計32、

なお、将来放送班業務の新計画例の宣撫地に小局を設置するがごとき場合には、此に対する補充員を更に必要とするものなり。されども放送事業の特殊性により、一部のものを除き、これを現地に求め、ただちに実務に当たらしむことは極めて困難なるをもって、次の三方法、すなわち、

 一、現地採用者を養成しつつ使用する方法

 二、内地より経験者を採用する方法

 三、応召兵より適任者を求むる方法

の三方法を考え得るも、三は予測し得ざる時期に帰還することあるべく、かかる場合更に新しく補充員を求むべき結果となるところあり(現在7名の応召兵あり)。一、二、共に相当の困難を予想せらるるをもって、要員補充は大いに考慮すべき問題たり。

四、建物
現在使用中の建物次の如し。

日本人倶楽部内        大上海放送局虹口演奏所
白楊幼稚園           大上海放送局楊樹浦放送所
東部小学校内          大上海放送局楊樹浦受信所
哈同(注:ハードン)大楼内  大上海放送局南京路演奏所
同右                広播無線電監督所弁事所
毎日ハウス内          広播無線電監督所聴査室
昆山路              放送班要員宿舎

右の中、日本人倶楽部内虹口演奏所は、放送班業務を総括実施する場所にして、各科(技術科を除く)要員の大部を収容せる所なるも、極めて狭隘なるため、事務運行上著しき支障あり。早急にしかるべき建物を求めて移転する要あるものと認む。又、昆山路要員宿舎は外人所有建物にしてこれが明け渡しを要請せられつつあるをもって、これまた、至急移転の要あり。

五、各科ならびに監督所の概要

(一)放送科
1.要員

現在9名にして、放送科長の下に学芸、告知、庶務の3係を置き、学芸係に主任1、(現在業務科長兼務)、通訳1を置き、放送番組編成に当たる。告知係は、主任アナウンサー以下4をもってアナウンス業務に当たり、ほかにレコード操作、放送記録番組発表、スタジオ雑役等を担務するもの3をもって庶務係とす。ほかに局長(班長兼務)ならびに放送科長の諮問機関として外部に放送番組編成委員会を置く。

2,業務の現在及び将来

(イ)一般講演     学術、宗教、趣味、家庭に関する講演

(ロ)講座        連続的のものにして、現在日本語講座を連講す

(ハ)演芸        一流芸術家をもってし、俄然支那小局を圧しつつあり

(二)子供の時間   童話、および子供向けレコード

(ホ)内地向け放送  昨冬末より戦時歳晩風景、寒山寺除夜鐘、陸海両最高指揮官の年頭の辞、支那音楽、子供の時間等の内地向け放送を行いたり。将来これが資料はますます増加するものと見るべく、日本放送協会と連絡し、一層その送出回数も増加することとなるべし。

(へ)スタジオ外中継放送  (ハ)(注:(ホ)の間違いか)に掲上せる内地向け放送の大部は、スタジオ外中継にして、最近においては南京における維新政府成立式の実況録音、玉仏寺における日支合同慰霊祭等を中継せり。現在のスタジオ外放送は、治安上いまだ自由に実施しえざる情勢にあるも、将来の放送計画中重要なる地位を占めるものにして、大東放送局との番組交換と相まち、一層その充実を期せんとしつつあり。

現在はこの中、演芸に主力を注ぎ、新設大上海放送局に対する一般支那聴取層の興味関心を誘導し、聴取者を多数獲得せんとする第一期の段階にあり。

一旦引用終了----------------

続く

ブログ管理人コメント

アナウンサーは、放送班告知係に属していたことがわかる。要員は、主任アナウンサー以下4名と記載されている。主任アナウンサーはおそらくNHK友安アナウンサーであり、もう一人日本人女性アナウンサーで岩井アナウンサーという方がいたことがわかっているので(「放送機の神様 島山鶴雄の生涯」P130による)、残りの二人が、鄭蘋如(テンピンルー)と徐梨娜(シュ リナ、本名は不明だが、ここでは松崎啓次が「上海人文記」で仮名として使った徐梨娜と表記する)であった可能性が高い。つまり、当初の放送班告知係のメンバー4名は、

 友安義高主任アナウンサー(NHK)

 岩井アナウンサー(日本人女性。現地採用と思われる)

 鄭蘋如(北京語、上海語、英語)

 徐梨娜(仮名。北京語、上海語、広東語)

となろう。

また、1938年4月13日に書かれたこの文書にて、アナウンサー1名の補充を要求(※1参照)していることから、テンピンルー、もしくは徐梨娜のどちらかが、退職する話が出ていたのではないだろうか。松崎の「上海人文記」の記載から類推すると、ピンルーは1938年の5月〜6月頃に退職(※2)、徐梨娜は、少なくとも1939年1月頃よりも前(※3)に退職している。タイミングからすると、ピンルーの退職希望に伴う補充の可能性が高い。

(※2) 「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章に、「漢口作戦がたけなわの頃、上海は夏であった」と記述された日に、放送班の職員が松崎に「テンピンルーは2、3ヶ月前にアナウンサーを辞めました」と言っている。漢口作戦は、1938年8月22日に発動され、11月15日漢口陥落をもって終了している。漢口作戦たけなわの頃の夏を1938年8月下旬とすると、そこから3ヶ月前として5月、2ヶ月前として6月となる。

(※3) 「上海人文記」の「徐小姐のロケット」の章に、1939年の上海の冬空の頃に、徐小姐がラジオ局を辞めた理由を劉吶鴎から松崎が聞いている。松崎は1939年正月に日本から再度上海に来て、徐小姐を劉吶鴎の紹介で中国語の個人教師とした。それから2週間くらいたった時の話なので、少なくとも1939年1月頃より前に徐小姐は辞めていることになる。

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