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2010年2月の6件の記事

2010年2月20日 (土)

「上海」-支那事変後方記録より

「上海」-支那事変後方記録、という東宝の映画がある。1938年2月1日に日本で公開されたようだ。そこに第二次上海事変の時の上海防空戦のことを小学校の生徒に先生がインタビューしているシーンがあった。(3分28秒から5分8秒まで)

「上海」・支那事変後方記録2/8 へのリンク ←クリック

以下、その時の会話を文字にしてみた(3分28秒から5分8秒まで)。

Photo 先生    みんな、あのー、今度の事変は怖かったか?

生徒    怖くない!
生徒    怖い!
生徒    怖くない!
生徒    怖い!

先生    怖いか。 渡辺君は、上海事変の時は、どこに避難してきた?

渡辺君   ピアス

先生    ピアスアパートに避難してきた?

渡辺君   うん、はい。

先生    誰と?

渡辺君   ばばも母ちゃんもみんな

先生    そのときはどんな気持ちしたか?

渡辺君   うれしかった

先生    うれしかった?ほー。なぜうれしかった?

渡辺君   わからん

先生    わからん?

   (生徒一同笑い)

先生    怖いと思ったのを、こちらに避難したからうれしかったんでしょ?

渡辺君   うん。

先生    ねー。 
       瀬川君は?瀬川君はどこいたの。

瀬川君   漢口(はんこう)銀行に落っこちたの(注:爆弾が)

先生    漢口(はんこう)銀行に落っこちたの
       見に行ったか

瀬川君   んん?

先生     見に行ったか?

瀬川君   見に行った。それで、あのお、アスターにひとつ落っこちたの。それでアスターのウインドの前に行ったの。

先生     ウインドの前まで行ったのか。

瀬川君   うん。

先生     ほー。どうだ、みんな、支那の飛行機が来たときは怖くなかったか?

生徒     怖くなかった!

生徒     怖くないよ。面白いよ!

先生     ほー、どうしておもしろかったか。

生徒     高射砲撃つからおもしろいよ!
生徒     高射砲撃つから。
生徒     機関銃や高射砲撃つから。

先生     赤い火やら青い火やら飛んだでしょ?

生徒     うん 飛んだ、飛んだ
生徒     その次撃つやつ屋上行って見た

先生     屋上行ったか。そりゃ忙しかったね。
        飛行機の爆撃を見た人手上げてみい

     (生徒一同はい、はい、と言って手を挙げる)

先生     おお、だいぶたくさんあるね。よろしい、手を降ろしてよろしい。

以上

ピアスアパート(中国語で披亜司公寓)は、上海日本人地区に1931年完成の、西洋人向けアパートメントだ。徐々に日本人も住むようになり、上海事変後しばらくして日本人だけとなった。上海事変時は、まだ第三国人(西洋人)が多く住んでいたので、攻撃されないだろうということで、日本人居留民の避難場所になったようである。

アスターに見に行った、と子供が言っているが、ガーデンブリッジの脇にあるアスターハウスホテルのことである。この1937年の年末には日本のラジオ局が日本人倶楽部に出来たが、2月にアスターハウスに移転している。鄭蘋如(テンピンルー)がアナウンサーを務めていたラジオ局である。このホテルは元々はイギリス系の名門ホテルだったが、上海事変後、日本軍御用達のようなホテルになった。子供がアスターのウインドと言っているが、これはなんだろう。窓のウインドウのことだろうか、謎である。

上の生徒達、特に男の子達の受け答えからすると、高射砲による反撃が効果的だったこともあってか、中国空軍機からの爆弾はそれほど驚異とはならなかったようである。爆弾の落ちた跡を見に行く子や、屋上から空襲と高射砲の攻防を眺めていた子もいた。

青い火や赤い火というのはおそらく曳光弾(えいこうだん)のことを言っているのであろう。花火のように光の尾を引き、弾の着弾点を知らせて狙いを定めるためのもので、機銃弾の数十発に一発充填されている。Photo

(写真は2009年2月スリランカの首都コロンボ空爆事件で高射砲が放った曳光弾)

日本人の被った空襲というと、ほとんど反撃できなかった沖縄や日本本土の壊滅的な被害を連想するが、この第二次上海事変時は、高射砲と数少ない迎撃機、しかもフローターをぶら下げた水上機によって中国空軍機が何機も撃墜されており、日本人居留民の人的被害はそれほど大きくなかったことがうかがえる。また、それを日本国内で映画として流すことで、上海に平和が戻ったことを日本国民に宣伝し、上海への復帰を促す、という目的もあったかもしれない。

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2010年2月11日 (木)

上海防空戦 8

1937年後半から、中国空軍は深刻な航空機不足に悩まされた。それを補ったのがソ連の航空機と、パイロットである。高志航や王漢勲ら、生き残った空軍エース達は、1937年後半に一時空戦から遠のき、ソ連製飛行機購入に際しての機種選定や、ソ連人パイロットをまじえた新たな航空隊の編成に時間をさくことになった。

Sb2 王漢勲らの尽力により、中ソ連合航空隊がようやく形になってきた。1938年2月23日、リチャコフに率いられた爆撃隊員たちは、2機のツポレフSB-2に分乗すると、エンジンを始動、南昌飛行場を離陸した。目標は、日本統治下の台湾、松山飛行場である。

リチャコフは快速で上昇した。この新鋭機は、これまでの爆撃機よりも巡航高度が高く取れるうえに、排気管が翼の上面に出ているので、地上で聞こえるエンジン音が小さい。彼らはこれを利用して、相手に発見されることなく高々度から奇襲するこことに期待をかけていた。

海峡を越えて目指す松山飛行場上空に達すると、彼らはなんの障害もなく水平爆撃を行った。日本側は、全く対応ができなかった。探知も、迎撃も、対空砲火も、一切出来なかったのである。歴史上、日本領土が受けた初空襲だった。

その日、台湾憲兵隊台北分隊の事務所にいた林秀澄分隊長は、友人の江花警務部課長と雑談中に、遠くからかすかに響く爆発音を聞き漏らさなかった。林はそれが爆弾の音だと直感したが、江花は空耳だとい言う。

林は警察電話の受話器を掴むと、ダイヤルを回し、松山飛行場にいる部下に直通電話をかけた。

「林だが、今そっちに爆弾が落ちなかったか」

「分隊長殿、大変です。10発くらい爆弾が落ちてきました」

「やっぱりそうか」

言いながら林はちらっと江花の顔を見た。

「空襲警報はなかったのか」

「ございませんでした。全く突然落ちてきました」

「それで、海軍の戦闘機は飛んだのか」

「迎撃には間に合いませんでした」

「そうか。わかった」

林は電話を切った。

江花が言った。

「林さん、あなたが正しかったみたいだね」

「うん、江花君、君の警務区域内だ。親分は飛んでいかなくてはならんだろ。俺も出るから君も早く行け」

林は松山飛行場へと急いだ。

飛行場へ着くと、林は少し安心した。爆弾は飛行場には一発も落ちていなかったのだ。部下にどこに落ちたのか聞いてみると、松山庄という、基隆に行く途中の一本道にある台湾人村落のあたりだという。

行ってみると、なるほど、飛行場に平行に10発くらい爆弾の跡が綺麗に行列している。でかい穴は、おそらく500キロ爆弾だろう。それが二発。あとは、50キロ爆弾だろうか、小型の爆弾の跡が残っていた。

林は、はじめて爆弾で人が死んでいるのを見た。子供の遺体もあった。そばには母親だろうか。女性の遺体がある。正確には遺体の一部である。薄い緑色の物体があった。子供の脳の一部だった。数十名が死傷したようである。彼は魂がえぐられるような思いだった。

林は部下と一緒に松山飛行場に戻った。

「これから台湾も、空襲の予知ができないと大変な事になるんじゃないか」

と、心配症の林はつぶやく。すると、突然けたたましいサイレンの音が響いた。空襲警報だ。林は訓練以外の空襲警報というものを初めて聞いた。

「また爆撃されるぞ!」

林は、部下に叫んだ。

「防空壕に入れ!」

「分隊長殿!」

「なんだ!」

「近くに防空壕はありません!」

「なに?」

「こちらへ早く」

林は部下に腕を引っ張られるようにして、盛り土が連続する土塁の向こう側へと駆け出した。幅1メートルくらいのクリークをジャンプして越える。林は部下を追い越すと、斜面を登り、向こう側の草むらの中に伏せた。

少し落ち着いた林は、頭を上げて飛行場の方を見た。迎撃の戦闘機が離陸の準備を始めている。高射砲隊が上空をにらむ。しかし、待てど暮らせどなにもない。コトリとも音がしない。結局、警報が鳴っただけで何もなかった。

林は一つ大きなため息をつき、すくと立ち上がった。服についた枯れ草を手で払い、部下に言った。

「一度空襲に遭うと、警報を出す方もなにかと神経が過敏になるんだろう。もう大丈夫だ。おまえもそろそろ立ち上がったらどうだ」

その日はそれから4、5回空襲警報が鳴ったろうか。そのたびに林はどきりとして待避した。しかし松山飛行場には爆撃はなかった。そのためか、林はそれらの空襲警報ががすべて誤報だったと戦後のインタビューに答えている(林秀澄談話速記録)。

ところが実際には、松山への空襲から約2時間後の午後1時過ぎに、新竹(しんちく)基地の東方、竹東というところにも空襲があった。中ソ連合航空隊の第二波である。こちらも爆弾が10発ほど落ちて、地元台湾人住民に数十名の死傷者が出た。松山と合わせ64名の死傷者が出たようである。新竹では日本側の戦闘機が迎撃に飛び立った。この時、台湾全島に空襲警報が発令され、何度かサイレンが鳴っていた。それを林が聞いたということだろう。

この全島空襲警報は午後3時42分に解除となった。日本本土では、この出来事は号外になった※1。その日の夕方には、さっそく大阪毎日新聞が「支那機、台湾に現る」の見出しで印刷、街ゆく人に配られた。亡くなった台湾人遺族のもとには、日本軍が手分けして弔問におもむき、今後の台湾防衛を誓った。「台湾日日新報」は市民から義捐金を募り、日本人台湾人合わせて、当時のお金で5248円が集まり遺族に手渡された。また二日後の25日にはイギリスのタイムズ紙が報道した。※2

その頃、王漢勲は内陸部の蘭州で、新人訓練にいそしんでいた。新人の一人に、名古屋飛行学校を卒業した珍しい人材がいた。日本の航空学校留学中に日支事変となり軟禁状態となっていたところ、日本人の母親、木村はなの尽力で中国に戻って来た鄭海澄(ていかいちょう)だった。鄭蘋如(テンピンルー)の上の弟である(下の写真は名古屋飛行学校での鄭海澄)。

Photo_4 彼は中国帰国後、すぐに中国空軍に入隊志願した。しかし、日本に長く滞在し、日本人の血が半分流れていることが障害となり、なかなか入隊が許可されなかった。言われ無き差別に苦しんだ。彼は姉ピンルーへ宛てた手紙にこう書いている。

「今月もまた給料がもらえそうにありません。こうなったら、きっぱりと陸軍にでも入って、日本軍と刺し違えるくらいじゃないとだめみたいです」

鄭海澄は、母の国である日本に銃を向けることができるのかどうか、仲間からも教官からも疑いの目で見られていたのだ。彼は自分が中国人であることを証明せねばならない悩みをかかえた。そんな教官達の中でも、王漢勲だけは別だった。彼は、この4歳年下の部下、鄭海澄をことのほかかわいがり、ことあるごとに守った。

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台湾初空襲の緊張もようやくとけた2月末のことだった。林秀澄は辞令を受けた。

「1938年3月1日付けをもって、中支那派遣軍 憲兵隊付き少佐に任ず」

中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。

林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。

その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。

以上で「上海防空戦」終わります。

(参考史料をもとに再構成しました)

参考

※1 大阪毎日新聞第二号外 昭和13年2月23日 下記記事全文   

支那機、台湾に現る    
飛行場を狙い民家へ盲弾    
我戦闘機に撃退さる


台湾軍司令部発表(23日午後4時40分)
23日午前11時5分頃、台北飛行場上空に突如敵飛行機2機現れ、爆弾約十個を投下せしも、敵はわが防空施設の完備せるに恐れたるか、稀なる好天気にも拘らず地上より敵影を認めざる高度より爆弾を投下し、ために爆弾は飛行場を離る遠き地区に落下、うち数個は台北市東方松山庄民家に命中し、その付近にありし婦女子数名を殺傷したるほか大なる被害なく、また午後1時過ぎ、新竹東方竹東上空に機数不明の敵機現われ、爆弾約十個を投下したるも、これまた数名を殺傷したるのみにて、直ちにわが戦闘機のために撃退せられたり。敵機来襲とともに軍は全島に警報を発令したるも、午後3時42分にこれを解除せり、右警報により各地区においては既にその勤務に移りしが、従来の防空訓練の成果により、全島平穏にして何等の動揺なく、ますます防衛の完全を制しつつあり。

※2 英字紙 THE TIMES Feb. 25 1938 (オンラインアーカイブスより抜粋)

Article8_2

The new British Ambassador to China and Lady Clark Kerr arrived this morning after a rough passage in H.M.S. Falmouth. They had been delayed two days by bad weather. One of the Ambassador's earliest duties will be to make the adventurous journey to Chungking, 1,400 miles inland, to present his Letters of Credence. Japanese accounts of the raid on Formosa state that the damage was negligible, and that the total casualties were only 64. The Chinese, on the other hand, state that over 40 Japanese aero- planes were observed parked on the air- field, while there were doubtless others under cover. The raid was a complete surprise, for no aeroplanes went up to resist the attack nor were any guns fired. Over 20 Chinese machines took part, dropping bombs which set petrol stores on fire, destroyed Japanese machines on the ground, and ruined the airfield.

ブログ管理人解説:Formosa(フォルモッサ)というのは、「台湾」の欧米での呼び名である。このTHE TIMESの記事によると、中国軍機による台湾奇襲攻撃の損害は、日本側の発表では、「損害は無視できる程度、64名が死傷」ということのようだ。一方、中国側は、「40機の日本軍機を飛行場で発見、その他は隠されていたのは間違いない。完全な奇襲攻撃となり、反撃の飛行機も高射砲もなし。20機以上の中国軍機が参加し、爆弾を投下、石油タンクに火災を起こし、飛行機と滑走路に損害を与えた」と発表している。中山雅洋著「中国的天空」は、日本語による中国空軍に関してのバイブルのような存在だが、多くは中国側の史料をもとにしている。この台湾空襲に関しても、28機のSB爆撃機が参加したと書かれている。これは、THE TIMES紙の中国側発表の20機以上参加、というのと符合する。中国側としてみたら、大規模な作戦と見せたかったのだろう。真実は、「林秀澄談話速記録Ⅱ」に書かれた被害の状況から、おそらく2機プラスアルファ程度の空襲が2回、に近いと見ていいだろう。

その他参考図書

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

「上海時代」(下)松本重治

「支那事変戦史」皇徳奉賛会

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上海防空戦 7

上海防空戦二日目の1937年8月15日、日本の台湾憲兵隊、台北憲兵分隊長、林秀澄は、眠るまもなく松山飛行場へかけつけた。午前4時である。

機体の整備が黙々と行われている。飛行場のエプロンには14機が並んでいる。前日の攻撃で、2機が中国空軍に撃墜され、1機は基隆沖に不時着、機体は海に没した。もう1機は片脚で着陸したものの大破。この機は数えると73発も被弾しており、二度と空を飛ぶことなく東京の東郷神社に飾られた。そのほかにも無事に帰ってきた大杉大尉機と石大尉機が被弾していたが、こちらは発電機の取り替えや穴のあいたジュラルミンの補修だけで、今日の出撃には問題がなかったようだ。

昨晩、飛行機が戻ってきたのは、午後9時から10時頃。そして現在は、日付が変わり午前4半を回ったところである。乗員はわずかな睡眠を取ることができた。しかし、整備兵は夜通しの作業となった。今日の出撃は、午前5時だ。

と、出撃直前の出来事だった。整備兵の集中が一瞬とぎれたのであろうか。事故だ。飛行場の一角に人が集まり始めた。救急車が出ていく。林が聞いてみると、高速で回転するプロペラに整備兵が当たったようだ。飛行場全体がブンブンとエンジンのうなり声に満ちていて、しかも眠いものだから、一瞬プロペラが回っている感覚を失ってしまったようなのだ。彼は即死だった。

出撃は午前5時から午前7時20分に変更になった。そして、14機はようやく無事に離陸していった。それにしても、一回の攻撃で18機が14機に減っているのである。

「いったいこれのどこが、護衛不要なのだろうか」

林は不思議でしかたなかった。

「とても海軍のやることとは思えない。このペースではあっというまに爆撃機はゼロになってしまうではないか」

実際のところ、最高速度を比べてみると、96式中攻が時速約350キロ、主要な敵戦闘機カーチスホークⅢ(新ホーク)が時速390キロというように、96式中攻は、もはや高速爆撃機とは言えなくなっていた。しかし、その事実は搭乗員には伏せられていた。

96 二日目の攻撃目標は、上海から700キロ離れた中国空軍の総本山、南昌である。14機は南昌付近の上空に到達した。ところが、連日の大雨で南昌付近は水をかぶっており、上空から目印とすべき道路、線路などが読み取れないようになっていた。編隊は次第に分離して単機で飛行場を探し回った。日本時間午前10時40分から11時55分のの間に、なんとか8機が南昌飛行場を見つけ出し、高度を500メートルに下げて爆撃態勢に入った。

降下してみると、飛行場に敵飛行機が全然見えない。一機もいないのだ。一番心配だった迎撃機さえも一機も現れない。中国空軍精鋭部隊は、すでに南昌を抜け出し、上海周辺の飛行場に分散配置されており、もぬけのからも同然となっていたのだ。

しかたなく8機の96式中攻は、格納庫、指揮所を目標にして爆弾を落とした。飛行場を発見できず、爆弾を抱えたまま戻った6機とともに、この日14機は全て台北の松山飛行場に帰投した。林が全機帰還を喜ぶのもつかのま、敵機がいなかったことを耳にはさむと、これが果たして成功なのかは疑問だった。

翌、8月16日。今度は南京郊外の句容飛行場の爆撃である。三日連続の出撃だ。搭乗員も整備兵も、極度の緊張からへとへとだった。林はこの日もじっと帰りを待っていた。すると、初日に続き、また帰ってこない機がある。3機撃墜されているのだ。これで18機が11機だ。たったの3日間でだ。

海軍司令官の戸塚大佐は、思惑通りに行かない作戦にいらいらいを募らせた。そして、そのはけ口が林秀澄に向かった。

「おい、林」

「はい、なんでございましょうか」

「お前、こんなに損害があるのは、お前が悪い」

「は?」

「台北の防諜に問題がある」

「台北の防諜のどこがでございましょうか?」

「支那側はこちらがいつどこを爆撃するかあらかじめ予知しておるぞ」

「・・・・・」

「とにかく分隊長、しっかりやってもらわないと困るのだ」

林が率いる台北憲兵分隊は、松山飛行場が大変だということで、人員を割いて飛行場周辺の防諜に特に気を使っていた。それがこの言い方をされたので、林は少しカチンときた。少し言葉が過ぎるのは林の、良きにつけ悪しきにつけひとつの癖である。

「大佐、南京句容に飛行機が進入なさいますときに、海軍はどういう高度からお入りになるのでしょうか」

「進入高度を君に言う必要はないだろう」

「まさか、揚子江の上を非常な低空でお飛びになって、いきなり南京にお入りになるのではないと思いますが」

「なにを聞いとるか。お前は」

「陸を通らないで入る方法がございますか、と言っているんです」

「陸を通るに決まっとるだろう」

「では、台湾から南京方面に飛ぶのですから、一時間くらいは陸を飛ぶわけですね」

「そうだ」

「でしたら、何も台湾の防諜が完全にできておろうとおるまいと、必ず大陸のどこかの町には見つかっているでしょう。これでは南京の上空、句容の上空には、もう敵の戦闘機は待ちかまえているのは当たり前ではないですか」

「君に言われなくともわかっとる。それと台湾の防諜は別の話だ」

林は柄にもなくふくれっつらをした。

そこに、林のそばで、立って話を聞いていた台湾総督府武官室付きの肥後中佐が、間に入るように歩み寄ってきた。ちなみに、肥後中佐は、翌1938年には上海の軍報道部の委員会メンバーになって、日本のラジオ局「大上海放送局」の番組編成に一役買っている。その時の縁からか、テンピンルーと親しくなり、花野吉平とともに、鄭家に出入りが許された二人の日本人のうちの一人だった。

肥後中佐は言った。

「林君、とにかく飛行場の防諜については、君が一番一生懸命やってるのはわかっておる。ただ、君、人員が少し足りんのじゃないのか」

「はい。人員はいくらあっても足りたことはありません」

「ならば、早速、台湾総督府の警務局長に申し入れをしようじゃないか」

肥後中佐の行動は早かった。翌朝、肥後は林を台湾総督府に連れて行った。そして、主に憲兵隊の人材面での要望を伝えてくれた。そんなことも経験しながら、林の勤務場所は台北分隊よりもむしろ松山飛行場を職場として1937年の秋を過ごした。


その頃、上海は、かなりきわどい戦いの末、日本側の勝利が見えてきた。日本陸軍の戦線は上海から離れた南京方面へ延びつつあった。上海周辺に安全に飛行場を設置できてきた。たとえば公大飛行場がそれである。楊樹浦の東にあるこの飛行場は、第一次上海事変の後、日本側の手でゴルフ場として造成された場所だ。このゴルフ場は極秘裏に将来の飛行場へ造り直すことを含んでのものだったのだろう。第二次上海事変が始まるや、すぐに飛行場へ造り変える工事が急ピッチで開始された。

ニューヨークタイムズ紙の記者にはそれがわかっていたようである。この新聞はアーカイブされてネット販売されている。1937年8月14日分を購入すると以下のような記事があった。Ny_times

日本語訳:日本は楊樹浦(ヤンジュッポ)にある飛行場の整備を終えつつある。そこは1932年の上海事変で使われたが、1932年以降はゴルフコースになっていた。明らかに、将来飛行場とすることを考えていたのだろう。

かたや、蒋介石はそのすぐ北方、呉松にドイツ軍の指導のもと、トーチカ要塞を造る。日本側は偽のゴルフ場を造る。第一次上海事変後の両軍の動きを見ると、第二次の日中の衝突があるであろうことは想定の範囲だということがわかる。

こうして台北の主力飛行機は、数機を残して、みなこれら上海の基地に転進してしまった。林は松山飛行場に張り付く必要がなくなり、台北分隊の分隊長室にいることが多くなった。

年も明け、1938年、基隆の時代から林と仲の良かった台湾警務部高等課長の江花が、台北分隊長室によく遊びに来るようになった。

2月23日の昼前のことだった。林と江花が馬鹿話をしていると、遠くから低くドカンドカンと音が聞こえてきた。それが一発や二発ではない。

林は、いつか台北も中国から空襲をされるのではないかと、たえず心配していた。

「あっ、やられたな」

と、その音を聞いた瞬間に感じた。林は江花課長に言った。

「ああ、ついにやられてしまったよ」

江花はきょとんとして、

「林さん、なんですって?」

と言う。

「君、今、音が聞こえなかった?」

「二階で誰か転んだんじゃないですか?」

「冗談じゃないよ。江花君、これは爆撃されたのに違いない」

「いや、林さん、おどかしなさんな。林さんの心配性はよっぽどですね」

「そうかな」

「海軍の演習砲か何かでしょう」

そういわれると、林も自信がなくなるのだった。

「上海防空戦 8」に続く ←クリック

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

N.Y.Times 1937.8.14 オンラインアーカイブス

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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2010年2月 6日 (土)

上海防空戦 6

中国空軍第9大隊に属する王漢勲は、1937年8月14日、上海の日本軍陣地を上空から機銃掃射するためにシュライクを発進させた。初陣である。ところが、虹口(ホンキュウ)の西部からザベイ周辺の市街地に展開する日本軍は思いのほか、細い路地にまで浸透しており、上空からの襲撃はなかなか困難だった。おまけに低空に舞い降りると、日本料亭「六三花園」の広大な庭の一角や、日本人小中学校などにいつの間にか設置してあった高射砲から、激しい銃撃を浴びる始末。初戦はさしたる戦果を上げられずに曹娥飛行場に戻り、翌日の襲撃に備えた。

8月15日、日本海軍機動部隊は、午前5時30分(中国時間午前3時30分)、杭州湾の入り口まで来ていた。波浪は厳しかったが大型の空母加賀は、艦首を風上に向けると加速、全速力で走り始めた。相対風力を秒速十数メートルまで上げ離陸に十分となった。そして45機もの艦載機を次々と発進させた。航続距離が不足する戦闘機は護衛に同行せず、爆弾を積んだ飛行機のみの出撃である。

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(写真は1932年第一次上海事変当時の空母加賀。1932年2月8日上海郊外呉淞砲台爆撃)

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(写真は1937年訓練中の加賀甲板。前方より90艦戦、96艦攻)

目標は、南京、蘇州、広徳の中国空軍各飛行場だ。台風は通過したものの、乱気流と厚い雲が行く手をふさいだ。南京に後一歩のところまで近づいた13機の96艦攻は結局密雲に阻まれ、爆弾を一発も落とさずに加賀に帰投した。

Photo

(現在の地図に、当時の中国空軍基地と空母加賀のおおよその位置を入力しました)

また、94艦爆14機は、蘇州飛行場が目標であったが、悪天候のため、より台風に遠い紹興に変更した。ところが、彼らは紹興に行く途中に見つけた飛行場を紹興と誤認、そこは、中国空軍が作ったばかりの秘密基地、曹娥飛行場だったのだ。

曹娥飛行場では、王漢勲ら中国空軍第9大隊が朝食を食べている最中だった。初日に引き続き、この日も上海の日本軍を超低空飛行で銃撃する命令が出ている。彼らのシュライクは、一機あたり4丁の7.7ミリ機銃を、車輪カウルの内部に斜め下向きに備えている。全18機で掃射したら相当の戦果を上げられるはずだ。

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その時、彼らは、明るくなり始めた東の空に、9機の複葉機を見た。その機影は中国空軍第15中隊が使っているダグラスOー2Mに見えた。主に共産党との内戦に活躍した飛行機である。近くの杭州中央航空学校が生徒の練習にも使っているため、彼らは訓練生の早朝訓練飛行だと思ってほほえましく見つめていた。

94 と、その訓練機の先頭が急降下してこちらに向かってきた。見る間に後続機もそれに続く。そしていきなり日の丸が目に入った。

「あれは訓練機ではない!」

誰かが叫んだ。

「日本軍だ!」

敵襲だった。それは、中国時間午前3時30分に空母加賀を発進し、曹娥基地を紹興基地だと思いこんで突っ込んでくる日本海軍の94艦爆だったのだ。第9大隊の全員が緊急出動態勢に入った。副隊長の張旭夫以下3名が真っ先にシュライクに駆け寄ると飛び乗り離陸した。

そのころ上空では、杭州方面から曹娥方向に逃げる89艦攻を、追尾していた中国空軍第4大隊の新ホークが襲いかかり、89艦攻がばたばたと打ち落とされていた。その混乱の空へ、張旭夫らの3機のシュライクが離陸したのである。

A12 シュライクは地上を襲撃するための飛行機で、空中戦は苦手だった。しかし彼らは低空から爆撃体勢に入っている94艦爆の一部を射程に捕らえ、斜め下向き機銃で襲いかかった。一機の94艦爆に銃弾が当たると瞬時に爆発、墜落していった。

この日、空母加賀から飛び立った45機の日本海軍艦載機のうち、89艦攻5機、94艦爆の2機の合計7機が撃墜された。これに、乗員は駆逐艦に救助されたものの不時着水となった3機を含めると未帰還機10機にものぼる大損害となった。

一方、シュライクは空襲が収まると、上海へ向けて飛び立った。第一編隊は王漢勲、第二編隊は孟広信に率いられ、15機ほどの編隊である。曹娥から上海までは距離約100キロ。時間にして30分弱。あっという間に彼らは上海上空に達した。

王漢勲は操縦桿を左に傾け、翼をバンクさせながら左旋回に入った。眼下に、整然とした並木道の街並みが見えた。プラタナスの緑が夏の日差しに輝いている。フランス租界だ。そこには大同大学付属中の同窓会パーティーで知り合ったばかりの鄭蘋如(テンピンルー)がいる。ピンルーにはもうずいぶん手紙を書いた。しかし手紙には日時や場所、飛行ルートを想像させるものなどを書くことはいっさい禁止されている。テンピンルーは今、上空に爆音を響かせて編隊飛行している飛行機の中に王漢勲がいることなど知るよしも無かった。

Photo_3 それよりもピンルーは、昨日14日、イギリス租界に中国軍機が爆弾を落としたという街のうわさの方が気になっていた。彼女は今朝、いつもより早く起きると、万宜坊の家を出て1キロほど北にあるアヴェニュージョッフルまで行った。そして新聞スタンドで英字新聞を買ってみた。黄浦江脇の、バンドにあるキャセイホテルとパレスホテルに爆弾が落ちたらしい。それから競馬場のところにある「大世界」にも落ちたようだ。記事は中国空軍を強く非難している。

子供の手を引き着の身着のままの中国人難民とイギリス、アメリカ人など死傷者2000名近くが出た大爆発の原因が、中国空軍による爆弾だという記事を読んで、彼女はふさぎ込んだ。複雑な思いだった。



「中国空軍がなぜ中国人を?」

ピンルーは記事が本当かどうか確かめねば気が済まなかった。彼女はバスに乗って現場を見ようと思った。しかしその日はバンドまでは運行しないらしい。バンドの銀行や商店も全てシャッターを閉めているという話も入ってくる。彼女はせき立てられるように家に戻ると、自転車に乗ってバンドに急いだ。やがて競馬場の交差点を過ぎると大世界の爆発地点が見えた。遺体はかたずけられていた。しかしがれきの山、ゆがんだ洋車(注:ヤンチョ 人力車)、燃えたおちた自動車、血のついたガラス片やビルの壁に飛び散る血痕が全てを物語っていた。

Photo_3 そして日本人が多く住む虹口(ホンキュウ)と揚樹浦(ヤンジュッポ)の方からもうもうと上がる煙と爆音。上空には中国空軍機。市民の中には黄浦江に浮かぶ日本の「鬼子(グイヅ)兵艦」がどんな風にやっつけられるのか、歓呼しながら青天白日旗マークの飛行機を見守る者も大勢いた。


ピンルーに一瞬、嫌な予感がよぎった。



「母の国、そして自分が生まれた国の日本。父の国、そして自分が育った国の中国。戦争になるのでは・・・・・」







「まさか」

ピンルーは首を横に振りながら、自宅へ戻るしかなかった。


王漢勲らのシュライクは黄浦江上空を通過して、浦東上空に達した。初日の攻撃で、日本側の高射砲陣地の位置はほぼ把握した。第9大隊は全機、一気に高度を下げる。まず揚樹浦(ヤンジュッポ)の埠頭沿いにある日本側施設に機銃を掃射した。NYKと大きく書かれた日本郵船会社の倉庫の屋根から白い破片がパッパッと飛び散る。次にシュライクは出雲を中心とする日本艦船を銃撃した。

シュライクの機銃は斜め下向きに付けられている。着弾点は操縦席からは見えない。それはとりもなおさず、自分を射撃している相手を確認することもできないということだ。低速度、低空で銃撃することを科せられたシュライクは、日本軍の対空砲火の恰好の餌食になった。爆撃機のように、爆弾を落としたらあっという間に上昇して雲隠れの術、というわけにいかないのだ。

墜落は免れたものの、ほとんどのシュライクに被弾の跡が残った。帰途、緊急着陸した機を見ると、主翼、尾翼にも多数の穴が開いている。操縦系統をやられている機もあった。南京まで帰れた機の搭乗員にも重軽傷者がおり、中には徐漢霊中隊長のように、着陸直後のコックピットで息絶えるパイロットもいた。

8月23日、日本軍は苦戦する上海市街戦を援護するために上海北部の揚子江沿岸、川沙に陸軍部隊を上陸させ、羅店鎮に向け進撃していた。そのころ、上海市街の日本軍襲撃にあまり効果の無かったシュライクは、日本軍の空襲を避けるため、一旦、広州の天河飛行場に避難していた。その第9大隊に、この飛行機の特徴にふさわしい作戦が、ようやく与えられた。羅店鎮方面の原野、沼地、畑を進軍する日本軍上陸部隊を上空から襲撃するのだ。まさに、これは原野に展開する共産党軍相手に戦っていた頃、シュライクが輝いていた頃と同じ戦法である。

Photo

(現在の地図に日本軍上陸地点の川沙と、要塞の羅店鎮を入力しました)

Photo_3

同盟通信社の記事などによると、川沙での日本陸軍第一次上陸は、8月23日未明に開始された。中国側からの砲弾が炸裂し、トーチカ陣地から止めどない銃弾が飛び交う中、日本軍は初日に1000メートルほど進出した。

8月27日まで、中国側の砲撃は激しかった。じめじめして軟弱な湿地帯に難儀しながらも、川沙から羅店鎮に近づく日本軍は、総攻撃の時まで砲撃部隊が沈黙を守っていた。そして28日夜明け前、日本陸軍の砲兵の一斉砲撃が開始された。そんな中を、第9大隊のシュライクが襲撃するのである。

シュライクはまず、南京の大校場基地に立ち寄り、7.7ミリ機銃弾を満装塡した。すぐに離陸すると揚子江を左手に見ながら東へ飛んだ。蘇州上空を過ぎしばらくすると眼下に現れたのは、両軍の砲撃の煙が漂う羅店鎮であった。揚子江に目を転じると、川沙方面に日本軍の大型輸送船が二隻見え、護衛の駆逐艦がいる。そして上陸用舟艇が岸との間を往復し、物資と兵員を運んでいた。日本軍は完全に不意を突かれた。

第一分隊長の王漢勲は、部下と3機編隊で降下する。北から東南にかけて、日本軍の砲列に沿って飛び、小型爆弾を投下、機銃掃射を開始した。副隊長の張旭夫は揚子江の川面に白い弾着の泡を立て、その泡の列がミシン目のように輸送船を通り過ぎる時に弾薬箱を爆発させた。艦上の兵員がなぎ倒された。張機は通り過ぎると、今度は後部座席に後ろ向きに座る機銃手が再度銃弾を撃ち込む。

日本軍上陸部隊は、身を隠す間もなく、大きな被害が出た。しかし、日本の駆逐艦からも当然撃ってくる。なんと日本軍の歩兵までが、低空を飛ぶシュライクに向けて三八銃をパンパンと撃ってくる。シュライクとは撃ちつ撃たれつの関係になった。

この正面切っての決闘はお互いを消耗させた。日本の輸送船の操舵室は蜂の巣になった。そして、副隊長の張旭夫は自分の右足に灼熱感を覚えた。見ると血が噴き出している。おまけにエンジンから出た煙が操縦席に侵入してきた。次の瞬間にはエンジンが止まってしまった。彼のシュライクは滑空状態になった。不時着するために揚子江の下流の田んぼへ機を向けた。彼は着地と同時に衝撃を感じると気を失ってしまった。

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(上海遠東競技場に不時着した第25中隊2503号機の新ホーク、カーチスホークⅢを調査をする日本軍)

気がつくと中国人の農民に囲まれていた。村人達は心配顔に、

「これは中国空軍だ」

とか、

「すぐに日本兵が来るぞ」

などと、上海の方言で言っている。

と、村の長老がやってきた。

「すぐに服を着替えさせるんだ。 ボロ着でいいから持ってきなさい」

と村の女に指示を出した。

村人達は、張旭夫の飛行服を脱がせて燃やすと、農民の恰好をさせた。そして日暮れを待って舟に乗せると上海の病院に連れて行った。

シュライクの空からの攻撃もむなしく、その日の内に、羅店鎮は日本軍が占領した。しかし、日本軍にかなりの損害を与えたことも事実だった。数日後、司令部は、第9大隊に再び出撃命令を出した。今度の襲撃地点は、羅店鎮から少し内陸部に入った楊林である。

ところが、今回は日本軍は襲撃を1、2時間前に察知していたようだ。地上からの高射砲による応戦が前回とは全く違い、正確で激しかった。地対空の激戦の末、第9大隊は5機が撃墜され、パイロット7名が死傷、無事に戻った他の機も被弾の跡なまなましく、激しく損傷した。さらには自国で飛行機を生産していない悲しさか、部品不足によって、損傷した機の修理が遅々として進まない。完全な状態で使えるシュライクはついになくなった。

第9大隊についに休息の時がきた。生き残ったパイロットはそれぞれほかの隊に異動になった。王漢勲は空輸大隊の隊長となった。そして、ソ連やアメリカからの新たな飛行機の選定、購入、試験飛行、新人パイロットの訓練にあけくれることとなる。

「上海防空戦 7」に続く←クリック

 

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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2010年2月 2日 (火)

上海防空戦 5

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(写真は、日本海軍、台北松山飛行場)

台北憲兵分隊長、林秀澄は、日がとっぷりと落ちた後も松山飛行場に残っていた。護衛の戦闘機はいらないと言った新田少佐はまだ帰ってこない。夜の9時も近づいてきた頃、ようやく北の空から爆音が聞こえてきた。

「無事に帰って来た!」

林はほっとして外に出る。真っ暗な空を見上げても何も見えないのだが、音だけは近づいてくる。ただ、編隊を組んで堂々と飛んでくるものとばかり思っていたのが、一機ずつバラバラに帰ってくるのを感じ、林は少し妙に思った。

「これはだいぶやられたな・・・・」

一番先頭で帰ってきた飛行機は無事に着陸した。誘導路へ入り、次の機のために滑走路をあけ、エプロンに綺麗に駐機させた。

二番機が着陸態勢に入る。

接地した。

「ガリガリガリガリ」

林の耳に、とんでもない音が聞こえてきた。大きな声で号令がかかった。強力なサーチライトが煌々と照らされた。林も目をこらしてライトの先を見つめる。すると、向こう向きに着陸したはずの飛行機が、こちらを向いているではないか。

林は驚いた。着陸しそこねてでんぐり返ったのか。エプロンで待機していた救急車が出ていく。林はそれに飛び乗った。飛行機に近づいてみて初めて分かった。もう機体は穴だらけである。機内には重傷者もいる。左の主脚のタイヤが敵弾に打ち抜かれてパンクしていた。飛行機が着陸後に後ろ向きになったわけは、左側だけパンクしていたために、抵抗になって、機体がくるりと左回りに回ってしまったのだ。

救護隊に聞いてみると、機長は大串曹長だという。つい4時間ほど前、新ホークの高志航機と撃ち合いになった、あの大串機だったのだ。大串機は、高志航の放った弾丸が左エンジンに二発当たり、エンジン停止になっていた。右側エンジンだけでなんとか台北までたどり着いたのだ。96式中攻の主脚は、エンジンのすぐ後部に格納するように出来ている。高志航が左エンジンを狙った弾は、左タイヤも破壊していたのだ。

二番機が滑走路で事故を起こしたため、滑走路は一時的に使えなくなった。上空には着陸許可を待つ数機の96式中攻が低いエンジン音を響かせながら周回を重ねている。その機はどんどん増えていく。

しばらくすると、林は司令部に呼び出された。

「林君、いま無線が入った。燃料のなくなった一機が基隆(きりゅう)港外の社尞島の近くに不時着水する。基隆に連絡して、なんとか救援体勢を取ってくれ」

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(写真は、当時社尞島と呼ばれた和平島からみた小川一空曹機の不時着水付近。手前は砲台跡)

広徳爆撃からの帰途、小川一空曹機は、鄭少愚分隊長の新ホークに出くわして銃撃を食い、燃料タンクに穴があいていた。ふらふらしながらもなんとか台北の近くまで飛行機を持ってきたが、やはり燃料がもたなかったのである。

「はい。すぐに手配します」

林は基隆要塞の海軍だけでなく、何隻かの商船にも連絡した。基隆港に出入りする商船は通常は無線閉鎖せねばらない。しかし林は、何人かの船長、通信員に話しをつけて、無線閉鎖の取り締まりをゆるくしてやる代わりに、ラジオを通じて得られる国内情報を持ってこさせていた。彼は台湾勤務が終わったら東京勤務に出世できると踏んでいた。国内の最新情報を頭に入れておくことは彼にとって重要だったのだ。こうして培っていた商船との関係が役に立ち、小川空曹の機体は水中に没したものの、全員が救助された。

「18機出て行って、2機がつぶれてしまった。しかもまだ2機が戻らない・・・・」

林はいよいよ心配になってきた。

夜11時を回ってきた。林はぶしつけとは思いながら、司令に聞いてみた。

「無事ではないのかもしれませんね・・・」

司令は毅然と言う。

「燃料のあるうちは待っておらなくてはいかん」

林はずっと司令部に残ることにした。

12時を過ぎた頃だった。突如、サーチライトが二本、飛行場の上空にすーと立ち上がった。漆黒の闇に、真っ白い光の筋が伸びる。目印だ。地上でできるせめてもの援護である。「帰ってきてくれ!」という思いと共に、二本の光の筋は何時間も立ち続けた。

「味方にも目立つが、敵にも目立つ。お返しに台北飛行場も爆撃されるのじゃないか」

心配性の林はぶつぶつとつぶやく。

午前3時。司令は判断した。

「もはや燃料は無し」

サーチライトが消され、辺りは再び真っ暗闇に包まれた。林は帰ってこない2機のことを案じた。ひょっとしたらどこかに不時着しているのじゃあるまいかなどとも考えたが、明日に備えるため帰宅することにした。

「俺はそろそろ帰る。明日も海軍航空隊の出撃があるかもしれん。そしたら連絡をくれたま
え」

林は、部下にそう言うと憲兵分隊宿舎に帰って行った。

午前3時半頃、分隊に着くと、当直員が林に得意げに言う。

「分隊長殿、支那のラジオを聞いておりましたところ、すごい情報を入手しました」

「なんだ?言って見ろ」

林は眠気もあって、ぶっきらぼうに言った。

「はい!支那側が杭州と広徳を爆撃されたニュースを放送しておりました」

「それで、なんと言っておった」

「はい!それによりますと、昨日、中国時間午後4時(注:日本時間午後6時)頃、杭州の飛行場で日本の爆撃機2機が撃墜されておるようです。それがニュースになって流れておりました!」

「なんだと。こちらは何も知らんで、3時まで待っておったんだ」

「はいっ」

「お前、聞いたらすぐ松山飛行場に電話せんか」

「申し訳ございません」

「そんなことじゃ、お前は憲兵としてつとまらん!」

「申し訳ございません」

この帰らぬ2機は、桃崎三空曹機、三井一空曹機である。高志航率いる中国空軍第4大隊の新ホークに杭州筧橋飛行場上空で撃墜されていたのでである。

そうこうしているうちに、飛行場に残った憲兵から、林あてに電話が入る。電話に出るなり部下が言う。

「分隊長殿!」

「なんだ」

「海軍は午前5時を期して出撃するそうです」

「なに?もう一度言ってみろ」

「海軍は、   午前5時を期して、   出撃するそうです」

「もうか」

「はい、もうでございます」

林は頭がくらくらしてきた。運転手をすぐに呼び戻す。

「松山飛行場へ行ってくれ」

「また、でございますか」

「そうだ。まただ」

林秀澄は、後部座席でつかの間の睡眠をむさぼりつつ、ふたたび松山飛行場へと向かっていった。

「上海防空戦 6」へ続く ←クリック

(余話)

この1937年8月14日の中国空軍と日本海軍96式中型陸上攻撃機の間の空中戦は、当時の中国(大陸の中華民国)では、自軍の被撃墜無し、日本軍の被撃墜6機と報道された。現在もネット上に「八一四空戦大勝 0:6」などと、当時の報道のまま書かれているサイトが多い。

実際の日本側の損害は、上の記事に書いた通り、被撃墜2機、不時着1機、飛行場での着陸時大破1機である。また、中華民国側には、戦闘機2機の不時着がある。飛行場へ帰還したかどうかを基準とすると、「0:6」ではなく、「2:3」となろう。いずれにせよ、日本側にしてみたら、初の渡洋爆撃は損失のほうが大きかったことは確かだ。

また、中華民国側から見ても、これが「大勝」なのかどうか、現在の台湾の歴史家には疑問を呈する人達も出てきている。しかし台湾では、今でも「814空軍記念日」として松山飛行場で式典が毎年華々しく開催されている。

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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上海防空戦 4

96高志航は、一旦雲の上に出た。そこはまばゆい太陽の光と、きらきらと光る純白の雲が絨毯のように広がる別世界である。左右を遠くまで見渡すが、味方機ばかり。敵の96式中型攻撃機(上のイラスト)の姿は見えなかった。

中国軍が台湾に送り込んでいた諜報員からの情報により、96式中型攻撃機を様々な角度から見た機体形状を全員が頭にたたき込んでいる。見間違えはないはずだ。

次に、彼は左翼を下げ、降下を始めた。機首を雲に突っ込む。21中隊機もこれに続く。一瞬雲が切れた。

「あっ!」

962 と、彼は声を上げた。二枚の垂直尾翼と二発のエンジンを持ち、緑の迷彩色を機体に塗装した巨大な爆撃機の群れに出くわしたのだ。はっきりと日の丸がみえた。

「これが96式中攻か!」

高志航は、心臓が高鳴った。機を旋回させ、追尾に入った。すぐに我がカーチス・ホークの方がスピードで十分に上回ることがわかった。

「これはいけるぞ!」

と、思った瞬間、96中攻の背部銃座の機銃手が彼のホーク目がけて射撃を始めた。とっさに降下し、旋回動作に入る。彼は、下方にも別の96式中攻がいるのを確認、同時に他の21中隊のホークがそこかしこで攻撃を加えているのが見えた。

高志航大隊長は、まず自分を撃ってくるこの機銃手を狙った。何度かの銃撃の末に機銃手は動かなくなった。もはや怖れるものはなかった。100、50、30メートル。再度引き金を引くと、銃弾が96中攻の右翼の付けに付近に吸い込まれていった。一瞬閃光が走り、ばらばらとジュラルミンの破片がはがれてゆく。96中攻は煙を吐きながら急に高度を下げた。目で追っていくとやがて地上で再び閃光が走り、大きな煙が上がった。中国空軍に撃墜された最初の96式中型攻撃機であった。

彼の部下、李桂丹、柳哲生、王文驊の三機は、共同で一機の96中攻を狙っていた。こちらの96中攻も、なすすべもなく杭州と西山の間に墜落していった。

カーチス・ホークが乱舞する中、新田少佐に率いられて台北からやってきたこの9機の96中攻は、落ち着いて爆撃するどころではなかった。それができたのは、わずかに大杉機と大串機であった。しかし、彼らの落とした爆弾は飛行場を通り越し、場外で爆発した。午後4時25分であった。

初陣で一機の96中攻を撃墜した高志航大隊長は、勇躍、着陸態勢に入った。ハンドルを回して、主脚を出す。スロットルを絞ろうかというまさにその時だ。今度は低空で筧橋飛行場を爆撃中の大杉、大串両機と出くわした。

高は大串機に狙いを定めた。

「よし、二機目の撃墜だ!」

照準器のど真ん中に大串機を入れ、機銃を発射しようとした瞬間、96中攻の機銃手が撃った弾が、高の右翼に当たった。そして次の弾丸がエンジンに命中、シリンダー一個を砕いた。出力が急低下する。高も構わず引き金を引く。合計73発もの命中弾を大串機は浴びた。搭乗員も弾を浴び重傷を負った。左エンジンに二発食い、やがて停止した。大串機は右エンジンだけでフラフラと台北に向けて飛び続けた。一方、高志航のエンジンも、煙を吐き出していたのが、やがて小さな炎となった。高は急いで大串機から離れなんとか着陸までこぎ着けた。

新田少佐と途中で別れ、広徳飛行場の爆撃に向かっていた浅野少佐率いる9機の96式中攻は、迎撃する敵機が全くいない中、冷静に爆撃を開始。しかし全ての爆弾が飛行場の外の田んぼに着弾、稲をなぎ倒しただけだった。

浅野少佐部隊の9機は、2発だけ250キロ爆弾を残して、台北への帰路についた。この2発は、杭州筧橋飛行場に落とすために取っておいたのだ。と、銭塘江の上空で、一機の新ホークと出くわした。22中隊、鄭少愚分隊長の機である。彼はここぞとばかりに射撃を開始、狙われたのは小川一空曹の操縦する96中攻である。おびただしい銃弾を浴び、燃料タンクに穴があいた。徐々に高度を落とした。それでも、ふらふらと低空を這うように台北へ向けて飛び続けた。

浅野少佐部隊は、筧橋飛行場上空で最後の2発の爆弾を投下した。この爆弾も飛行場の外へ落ちてしまったが、引き込み線に止まっていた燃料輸送貨車に命中、大火災が生じた。

この爆弾投下を最後に、8月14日の96中攻による世界初の渡洋爆撃は終わった。後は台北松山飛行場まで無事に機を連れ戻すだけである。

松山飛行場では、台北憲兵分隊長、林秀澄が、全機無事の帰りを待っていた。

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参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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