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2010年2月11日 (木)

上海防空戦 8

1937年後半から、中国空軍は深刻な航空機不足に悩まされた。それを補ったのがソ連の航空機と、パイロットである。高志航や王漢勲ら、生き残った空軍エース達は、1937年後半に一時空戦から遠のき、ソ連製飛行機購入に際しての機種選定や、ソ連人パイロットをまじえた新たな航空隊の編成に時間をさくことになった。

Sb2 王漢勲らの尽力により、中ソ連合航空隊がようやく形になってきた。1938年2月23日、リチャコフに率いられた爆撃隊員たちは、2機のツポレフSB-2に分乗すると、エンジンを始動、南昌飛行場を離陸した。目標は、日本統治下の台湾、松山飛行場である。

リチャコフは快速で上昇した。この新鋭機は、これまでの爆撃機よりも巡航高度が高く取れるうえに、排気管が翼の上面に出ているので、地上で聞こえるエンジン音が小さい。彼らはこれを利用して、相手に発見されることなく高々度から奇襲するこことに期待をかけていた。

海峡を越えて目指す松山飛行場上空に達すると、彼らはなんの障害もなく水平爆撃を行った。日本側は、全く対応ができなかった。探知も、迎撃も、対空砲火も、一切出来なかったのである。歴史上、日本領土が受けた初空襲だった。

その日、台湾憲兵隊台北分隊の事務所にいた林秀澄分隊長は、友人の江花警務部課長と雑談中に、遠くからかすかに響く爆発音を聞き漏らさなかった。林はそれが爆弾の音だと直感したが、江花は空耳だとい言う。

林は警察電話の受話器を掴むと、ダイヤルを回し、松山飛行場にいる部下に直通電話をかけた。

「林だが、今そっちに爆弾が落ちなかったか」

「分隊長殿、大変です。10発くらい爆弾が落ちてきました」

「やっぱりそうか」

言いながら林はちらっと江花の顔を見た。

「空襲警報はなかったのか」

「ございませんでした。全く突然落ちてきました」

「それで、海軍の戦闘機は飛んだのか」

「迎撃には間に合いませんでした」

「そうか。わかった」

林は電話を切った。

江花が言った。

「林さん、あなたが正しかったみたいだね」

「うん、江花君、君の警務区域内だ。親分は飛んでいかなくてはならんだろ。俺も出るから君も早く行け」

林は松山飛行場へと急いだ。

飛行場へ着くと、林は少し安心した。爆弾は飛行場には一発も落ちていなかったのだ。部下にどこに落ちたのか聞いてみると、松山庄という、基隆に行く途中の一本道にある台湾人村落のあたりだという。

行ってみると、なるほど、飛行場に平行に10発くらい爆弾の跡が綺麗に行列している。でかい穴は、おそらく500キロ爆弾だろう。それが二発。あとは、50キロ爆弾だろうか、小型の爆弾の跡が残っていた。

林は、はじめて爆弾で人が死んでいるのを見た。子供の遺体もあった。そばには母親だろうか。女性の遺体がある。正確には遺体の一部である。薄い緑色の物体があった。子供の脳の一部だった。数十名が死傷したようである。彼は魂がえぐられるような思いだった。

林は部下と一緒に松山飛行場に戻った。

「これから台湾も、空襲の予知ができないと大変な事になるんじゃないか」

と、心配症の林はつぶやく。すると、突然けたたましいサイレンの音が響いた。空襲警報だ。林は訓練以外の空襲警報というものを初めて聞いた。

「また爆撃されるぞ!」

林は、部下に叫んだ。

「防空壕に入れ!」

「分隊長殿!」

「なんだ!」

「近くに防空壕はありません!」

「なに?」

「こちらへ早く」

林は部下に腕を引っ張られるようにして、盛り土が連続する土塁の向こう側へと駆け出した。幅1メートルくらいのクリークをジャンプして越える。林は部下を追い越すと、斜面を登り、向こう側の草むらの中に伏せた。

少し落ち着いた林は、頭を上げて飛行場の方を見た。迎撃の戦闘機が離陸の準備を始めている。高射砲隊が上空をにらむ。しかし、待てど暮らせどなにもない。コトリとも音がしない。結局、警報が鳴っただけで何もなかった。

林は一つ大きなため息をつき、すくと立ち上がった。服についた枯れ草を手で払い、部下に言った。

「一度空襲に遭うと、警報を出す方もなにかと神経が過敏になるんだろう。もう大丈夫だ。おまえもそろそろ立ち上がったらどうだ」

その日はそれから4、5回空襲警報が鳴ったろうか。そのたびに林はどきりとして待避した。しかし松山飛行場には爆撃はなかった。そのためか、林はそれらの空襲警報ががすべて誤報だったと戦後のインタビューに答えている(林秀澄談話速記録)。

ところが実際には、松山への空襲から約2時間後の午後1時過ぎに、新竹(しんちく)基地の東方、竹東というところにも空襲があった。中ソ連合航空隊の第二波である。こちらも爆弾が10発ほど落ちて、地元台湾人住民に数十名の死傷者が出た。松山と合わせ64名の死傷者が出たようである。新竹では日本側の戦闘機が迎撃に飛び立った。この時、台湾全島に空襲警報が発令され、何度かサイレンが鳴っていた。それを林が聞いたということだろう。

この全島空襲警報は午後3時42分に解除となった。日本本土では、この出来事は号外になった※1。その日の夕方には、さっそく大阪毎日新聞が「支那機、台湾に現る」の見出しで印刷、街ゆく人に配られた。亡くなった台湾人遺族のもとには、日本軍が手分けして弔問におもむき、今後の台湾防衛を誓った。「台湾日日新報」は市民から義捐金を募り、日本人台湾人合わせて、当時のお金で5248円が集まり遺族に手渡された。また二日後の25日にはイギリスのタイムズ紙が報道した。※2

その頃、王漢勲は内陸部の蘭州で、新人訓練にいそしんでいた。新人の一人に、名古屋飛行学校を卒業した珍しい人材がいた。日本の航空学校留学中に日支事変となり軟禁状態となっていたところ、日本人の母親、木村はなの尽力で中国に戻って来た鄭海澄(ていかいちょう)だった。鄭蘋如(テンピンルー)の上の弟である(下の写真は名古屋飛行学校での鄭海澄)。

Photo_4 彼は中国帰国後、すぐに中国空軍に入隊志願した。しかし、日本に長く滞在し、日本人の血が半分流れていることが障害となり、なかなか入隊が許可されなかった。言われ無き差別に苦しんだ。彼は姉ピンルーへ宛てた手紙にこう書いている。

「今月もまた給料がもらえそうにありません。こうなったら、きっぱりと陸軍にでも入って、日本軍と刺し違えるくらいじゃないとだめみたいです」

鄭海澄は、母の国である日本に銃を向けることができるのかどうか、仲間からも教官からも疑いの目で見られていたのだ。彼は自分が中国人であることを証明せねばならない悩みをかかえた。そんな教官達の中でも、王漢勲だけは別だった。彼は、この4歳年下の部下、鄭海澄をことのほかかわいがり、ことあるごとに守った。

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台湾初空襲の緊張もようやくとけた2月末のことだった。林秀澄は辞令を受けた。

「1938年3月1日付けをもって、中支那派遣軍 憲兵隊付き少佐に任ず」

中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。

林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。

その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。

以上で「上海防空戦」終わります。

(参考史料をもとに再構成しました)

参考

※1 大阪毎日新聞第二号外 昭和13年2月23日 下記記事全文   

支那機、台湾に現る    
飛行場を狙い民家へ盲弾    
我戦闘機に撃退さる


台湾軍司令部発表(23日午後4時40分)
23日午前11時5分頃、台北飛行場上空に突如敵飛行機2機現れ、爆弾約十個を投下せしも、敵はわが防空施設の完備せるに恐れたるか、稀なる好天気にも拘らず地上より敵影を認めざる高度より爆弾を投下し、ために爆弾は飛行場を離る遠き地区に落下、うち数個は台北市東方松山庄民家に命中し、その付近にありし婦女子数名を殺傷したるほか大なる被害なく、また午後1時過ぎ、新竹東方竹東上空に機数不明の敵機現われ、爆弾約十個を投下したるも、これまた数名を殺傷したるのみにて、直ちにわが戦闘機のために撃退せられたり。敵機来襲とともに軍は全島に警報を発令したるも、午後3時42分にこれを解除せり、右警報により各地区においては既にその勤務に移りしが、従来の防空訓練の成果により、全島平穏にして何等の動揺なく、ますます防衛の完全を制しつつあり。

※2 英字紙 THE TIMES Feb. 25 1938 (オンラインアーカイブスより抜粋)

Article8_2

The new British Ambassador to China and Lady Clark Kerr arrived this morning after a rough passage in H.M.S. Falmouth. They had been delayed two days by bad weather. One of the Ambassador's earliest duties will be to make the adventurous journey to Chungking, 1,400 miles inland, to present his Letters of Credence. Japanese accounts of the raid on Formosa state that the damage was negligible, and that the total casualties were only 64. The Chinese, on the other hand, state that over 40 Japanese aero- planes were observed parked on the air- field, while there were doubtless others under cover. The raid was a complete surprise, for no aeroplanes went up to resist the attack nor were any guns fired. Over 20 Chinese machines took part, dropping bombs which set petrol stores on fire, destroyed Japanese machines on the ground, and ruined the airfield.

ブログ管理人解説:Formosa(フォルモッサ)というのは、「台湾」の欧米での呼び名である。このTHE TIMESの記事によると、中国軍機による台湾奇襲攻撃の損害は、日本側の発表では、「損害は無視できる程度、64名が死傷」ということのようだ。一方、中国側は、「40機の日本軍機を飛行場で発見、その他は隠されていたのは間違いない。完全な奇襲攻撃となり、反撃の飛行機も高射砲もなし。20機以上の中国軍機が参加し、爆弾を投下、石油タンクに火災を起こし、飛行機と滑走路に損害を与えた」と発表している。中山雅洋著「中国的天空」は、日本語による中国空軍に関してのバイブルのような存在だが、多くは中国側の史料をもとにしている。この台湾空襲に関しても、28機のSB爆撃機が参加したと書かれている。これは、THE TIMES紙の中国側発表の20機以上参加、というのと符合する。中国側としてみたら、大規模な作戦と見せたかったのだろう。真実は、「林秀澄談話速記録Ⅱ」に書かれた被害の状況から、おそらく2機プラスアルファ程度の空襲が2回、に近いと見ていいだろう。

その他参考図書

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

「上海時代」(下)松本重治

「支那事変戦史」皇徳奉賛会

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