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2010年2月11日 (木)

上海防空戦 7

上海防空戦二日目の1937年8月15日、日本の台湾憲兵隊、台北憲兵分隊長、林秀澄は、眠るまもなく松山飛行場へかけつけた。午前4時である。

機体の整備が黙々と行われている。飛行場のエプロンには14機が並んでいる。前日の攻撃で、2機が中国空軍に撃墜され、1機は基隆沖に不時着、機体は海に没した。もう1機は片脚で着陸したものの大破。この機は数えると73発も被弾しており、二度と空を飛ぶことなく東京の東郷神社に飾られた。そのほかにも無事に帰ってきた大杉大尉機と石大尉機が被弾していたが、こちらは発電機の取り替えや穴のあいたジュラルミンの補修だけで、今日の出撃には問題がなかったようだ。

昨晩、飛行機が戻ってきたのは、午後9時から10時頃。そして現在は、日付が変わり午前4半を回ったところである。乗員はわずかな睡眠を取ることができた。しかし、整備兵は夜通しの作業となった。今日の出撃は、午前5時だ。

と、出撃直前の出来事だった。整備兵の集中が一瞬とぎれたのであろうか。事故だ。飛行場の一角に人が集まり始めた。救急車が出ていく。林が聞いてみると、高速で回転するプロペラに整備兵が当たったようだ。飛行場全体がブンブンとエンジンのうなり声に満ちていて、しかも眠いものだから、一瞬プロペラが回っている感覚を失ってしまったようなのだ。彼は即死だった。

出撃は午前5時から午前7時20分に変更になった。そして、14機はようやく無事に離陸していった。それにしても、一回の攻撃で18機が14機に減っているのである。

「いったいこれのどこが、護衛不要なのだろうか」

林は不思議でしかたなかった。

「とても海軍のやることとは思えない。このペースではあっというまに爆撃機はゼロになってしまうではないか」

実際のところ、最高速度を比べてみると、96式中攻が時速約350キロ、主要な敵戦闘機カーチスホークⅢ(新ホーク)が時速390キロというように、96式中攻は、もはや高速爆撃機とは言えなくなっていた。しかし、その事実は搭乗員には伏せられていた。

96 二日目の攻撃目標は、上海から700キロ離れた中国空軍の総本山、南昌である。14機は南昌付近の上空に到達した。ところが、連日の大雨で南昌付近は水をかぶっており、上空から目印とすべき道路、線路などが読み取れないようになっていた。編隊は次第に分離して単機で飛行場を探し回った。日本時間午前10時40分から11時55分のの間に、なんとか8機が南昌飛行場を見つけ出し、高度を500メートルに下げて爆撃態勢に入った。

降下してみると、飛行場に敵飛行機が全然見えない。一機もいないのだ。一番心配だった迎撃機さえも一機も現れない。中国空軍精鋭部隊は、すでに南昌を抜け出し、上海周辺の飛行場に分散配置されており、もぬけのからも同然となっていたのだ。

しかたなく8機の96式中攻は、格納庫、指揮所を目標にして爆弾を落とした。飛行場を発見できず、爆弾を抱えたまま戻った6機とともに、この日14機は全て台北の松山飛行場に帰投した。林が全機帰還を喜ぶのもつかのま、敵機がいなかったことを耳にはさむと、これが果たして成功なのかは疑問だった。

翌、8月16日。今度は南京郊外の句容飛行場の爆撃である。三日連続の出撃だ。搭乗員も整備兵も、極度の緊張からへとへとだった。林はこの日もじっと帰りを待っていた。すると、初日に続き、また帰ってこない機がある。3機撃墜されているのだ。これで18機が11機だ。たったの3日間でだ。

海軍司令官の戸塚大佐は、思惑通りに行かない作戦にいらいらいを募らせた。そして、そのはけ口が林秀澄に向かった。

「おい、林」

「はい、なんでございましょうか」

「お前、こんなに損害があるのは、お前が悪い」

「は?」

「台北の防諜に問題がある」

「台北の防諜のどこがでございましょうか?」

「支那側はこちらがいつどこを爆撃するかあらかじめ予知しておるぞ」

「・・・・・」

「とにかく分隊長、しっかりやってもらわないと困るのだ」

林が率いる台北憲兵分隊は、松山飛行場が大変だということで、人員を割いて飛行場周辺の防諜に特に気を使っていた。それがこの言い方をされたので、林は少しカチンときた。少し言葉が過ぎるのは林の、良きにつけ悪しきにつけひとつの癖である。

「大佐、南京句容に飛行機が進入なさいますときに、海軍はどういう高度からお入りになるのでしょうか」

「進入高度を君に言う必要はないだろう」

「まさか、揚子江の上を非常な低空でお飛びになって、いきなり南京にお入りになるのではないと思いますが」

「なにを聞いとるか。お前は」

「陸を通らないで入る方法がございますか、と言っているんです」

「陸を通るに決まっとるだろう」

「では、台湾から南京方面に飛ぶのですから、一時間くらいは陸を飛ぶわけですね」

「そうだ」

「でしたら、何も台湾の防諜が完全にできておろうとおるまいと、必ず大陸のどこかの町には見つかっているでしょう。これでは南京の上空、句容の上空には、もう敵の戦闘機は待ちかまえているのは当たり前ではないですか」

「君に言われなくともわかっとる。それと台湾の防諜は別の話だ」

林は柄にもなくふくれっつらをした。

そこに、林のそばで、立って話を聞いていた台湾総督府武官室付きの肥後中佐が、間に入るように歩み寄ってきた。ちなみに、肥後中佐は、翌1938年には上海の軍報道部の委員会メンバーになって、日本のラジオ局「大上海放送局」の番組編成に一役買っている。その時の縁からか、テンピンルーと親しくなり、花野吉平とともに、鄭家に出入りが許された二人の日本人のうちの一人だった。

肥後中佐は言った。

「林君、とにかく飛行場の防諜については、君が一番一生懸命やってるのはわかっておる。ただ、君、人員が少し足りんのじゃないのか」

「はい。人員はいくらあっても足りたことはありません」

「ならば、早速、台湾総督府の警務局長に申し入れをしようじゃないか」

肥後中佐の行動は早かった。翌朝、肥後は林を台湾総督府に連れて行った。そして、主に憲兵隊の人材面での要望を伝えてくれた。そんなことも経験しながら、林の勤務場所は台北分隊よりもむしろ松山飛行場を職場として1937年の秋を過ごした。


その頃、上海は、かなりきわどい戦いの末、日本側の勝利が見えてきた。日本陸軍の戦線は上海から離れた南京方面へ延びつつあった。上海周辺に安全に飛行場を設置できてきた。たとえば公大飛行場がそれである。楊樹浦の東にあるこの飛行場は、第一次上海事変の後、日本側の手でゴルフ場として造成された場所だ。このゴルフ場は極秘裏に将来の飛行場へ造り直すことを含んでのものだったのだろう。第二次上海事変が始まるや、すぐに飛行場へ造り変える工事が急ピッチで開始された。

ニューヨークタイムズ紙の記者にはそれがわかっていたようである。この新聞はアーカイブされてネット販売されている。1937年8月14日分を購入すると以下のような記事があった。Ny_times

日本語訳:日本は楊樹浦(ヤンジュッポ)にある飛行場の整備を終えつつある。そこは1932年の上海事変で使われたが、1932年以降はゴルフコースになっていた。明らかに、将来飛行場とすることを考えていたのだろう。

かたや、蒋介石はそのすぐ北方、呉松にドイツ軍の指導のもと、トーチカ要塞を造る。日本側は偽のゴルフ場を造る。第一次上海事変後の両軍の動きを見ると、第二次の日中の衝突があるであろうことは想定の範囲だということがわかる。

こうして台北の主力飛行機は、数機を残して、みなこれら上海の基地に転進してしまった。林は松山飛行場に張り付く必要がなくなり、台北分隊の分隊長室にいることが多くなった。

年も明け、1938年、基隆の時代から林と仲の良かった台湾警務部高等課長の江花が、台北分隊長室によく遊びに来るようになった。

2月23日の昼前のことだった。林と江花が馬鹿話をしていると、遠くから低くドカンドカンと音が聞こえてきた。それが一発や二発ではない。

林は、いつか台北も中国から空襲をされるのではないかと、たえず心配していた。

「あっ、やられたな」

と、その音を聞いた瞬間に感じた。林は江花課長に言った。

「ああ、ついにやられてしまったよ」

江花はきょとんとして、

「林さん、なんですって?」

と言う。

「君、今、音が聞こえなかった?」

「二階で誰か転んだんじゃないですか?」

「冗談じゃないよ。江花君、これは爆撃されたのに違いない」

「いや、林さん、おどかしなさんな。林さんの心配性はよっぽどですね」

「そうかな」

「海軍の演習砲か何かでしょう」

そういわれると、林も自信がなくなるのだった。

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参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

N.Y.Times 1937.8.14 オンラインアーカイブス

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

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