« 上海防空戦 5 | トップページ | 上海防空戦 7 »

2010年2月 6日 (土)

上海防空戦 6

中国空軍第9大隊に属する王漢勲は、1937年8月14日、上海の日本軍陣地を上空から機銃掃射するためにシュライクを発進させた。初陣である。ところが、虹口(ホンキュウ)の西部からザベイ周辺の市街地に展開する日本軍は思いのほか、細い路地にまで浸透しており、上空からの襲撃はなかなか困難だった。おまけに低空に舞い降りると、日本料亭「六三花園」の広大な庭の一角や、日本人小中学校などにいつの間にか設置してあった高射砲から、激しい銃撃を浴びる始末。初戦はさしたる戦果を上げられずに曹娥飛行場に戻り、翌日の襲撃に備えた。

8月15日、日本海軍機動部隊は、午前5時30分(中国時間午前3時30分)、杭州湾の入り口まで来ていた。波浪は厳しかったが大型の空母加賀は、艦首を風上に向けると加速、全速力で走り始めた。相対風力を秒速十数メートルまで上げ離陸に十分となった。そして45機もの艦載機を次々と発進させた。航続距離が不足する戦闘機は護衛に同行せず、爆弾を積んだ飛行機のみの出撃である。

Photo_6

(写真は1932年第一次上海事変当時の空母加賀。1932年2月8日上海郊外呉淞砲台爆撃)

1937kaga909489

(写真は1937年訓練中の加賀甲板。前方より90艦戦、96艦攻)

目標は、南京、蘇州、広徳の中国空軍各飛行場だ。台風は通過したものの、乱気流と厚い雲が行く手をふさいだ。南京に後一歩のところまで近づいた13機の96艦攻は結局密雲に阻まれ、爆弾を一発も落とさずに加賀に帰投した。

Photo

(現在の地図に、当時の中国空軍基地と空母加賀のおおよその位置を入力しました)

また、94艦爆14機は、蘇州飛行場が目標であったが、悪天候のため、より台風に遠い紹興に変更した。ところが、彼らは紹興に行く途中に見つけた飛行場を紹興と誤認、そこは、中国空軍が作ったばかりの秘密基地、曹娥飛行場だったのだ。

曹娥飛行場では、王漢勲ら中国空軍第9大隊が朝食を食べている最中だった。初日に引き続き、この日も上海の日本軍を超低空飛行で銃撃する命令が出ている。彼らのシュライクは、一機あたり4丁の7.7ミリ機銃を、車輪カウルの内部に斜め下向きに備えている。全18機で掃射したら相当の戦果を上げられるはずだ。

O2m_2
その時、彼らは、明るくなり始めた東の空に、9機の複葉機を見た。その機影は中国空軍第15中隊が使っているダグラスOー2Mに見えた。主に共産党との内戦に活躍した飛行機である。近くの杭州中央航空学校が生徒の練習にも使っているため、彼らは訓練生の早朝訓練飛行だと思ってほほえましく見つめていた。

94 と、その訓練機の先頭が急降下してこちらに向かってきた。見る間に後続機もそれに続く。そしていきなり日の丸が目に入った。

「あれは訓練機ではない!」

誰かが叫んだ。

「日本軍だ!」

敵襲だった。それは、中国時間午前3時30分に空母加賀を発進し、曹娥基地を紹興基地だと思いこんで突っ込んでくる日本海軍の94艦爆だったのだ。第9大隊の全員が緊急出動態勢に入った。副隊長の張旭夫以下3名が真っ先にシュライクに駆け寄ると飛び乗り離陸した。

そのころ上空では、杭州方面から曹娥方向に逃げる89艦攻を、追尾していた中国空軍第4大隊の新ホークが襲いかかり、89艦攻がばたばたと打ち落とされていた。その混乱の空へ、張旭夫らの3機のシュライクが離陸したのである。

A12 シュライクは地上を襲撃するための飛行機で、空中戦は苦手だった。しかし彼らは低空から爆撃体勢に入っている94艦爆の一部を射程に捕らえ、斜め下向き機銃で襲いかかった。一機の94艦爆に銃弾が当たると瞬時に爆発、墜落していった。

この日、空母加賀から飛び立った45機の日本海軍艦載機のうち、89艦攻5機、94艦爆の2機の合計7機が撃墜された。これに、乗員は駆逐艦に救助されたものの不時着水となった3機を含めると未帰還機10機にものぼる大損害となった。

一方、シュライクは空襲が収まると、上海へ向けて飛び立った。第一編隊は王漢勲、第二編隊は孟広信に率いられ、15機ほどの編隊である。曹娥から上海までは距離約100キロ。時間にして30分弱。あっという間に彼らは上海上空に達した。

王漢勲は操縦桿を左に傾け、翼をバンクさせながら左旋回に入った。眼下に、整然とした並木道の街並みが見えた。プラタナスの緑が夏の日差しに輝いている。フランス租界だ。そこには大同大学付属中の同窓会パーティーで知り合ったばかりの鄭蘋如(テンピンルー)がいる。ピンルーにはもうずいぶん手紙を書いた。しかし手紙には日時や場所、飛行ルートを想像させるものなどを書くことはいっさい禁止されている。テンピンルーは今、上空に爆音を響かせて編隊飛行している飛行機の中に王漢勲がいることなど知るよしも無かった。

Photo_3 それよりもピンルーは、昨日14日、イギリス租界に中国軍機が爆弾を落としたという街のうわさの方が気になっていた。彼女は今朝、いつもより早く起きると、万宜坊の家を出て1キロほど北にあるアヴェニュージョッフルまで行った。そして新聞スタンドで英字新聞を買ってみた。黄浦江脇の、バンドにあるキャセイホテルとパレスホテルに爆弾が落ちたらしい。それから競馬場のところにある「大世界」にも落ちたようだ。記事は中国空軍を強く非難している。

子供の手を引き着の身着のままの中国人難民とイギリス、アメリカ人など死傷者2000名近くが出た大爆発の原因が、中国空軍による爆弾だという記事を読んで、彼女はふさぎ込んだ。複雑な思いだった。



「中国空軍がなぜ中国人を?」

ピンルーは記事が本当かどうか確かめねば気が済まなかった。彼女はバスに乗って現場を見ようと思った。しかしその日はバンドまでは運行しないらしい。バンドの銀行や商店も全てシャッターを閉めているという話も入ってくる。彼女はせき立てられるように家に戻ると、自転車に乗ってバンドに急いだ。やがて競馬場の交差点を過ぎると大世界の爆発地点が見えた。遺体はかたずけられていた。しかしがれきの山、ゆがんだ洋車(注:ヤンチョ 人力車)、燃えたおちた自動車、血のついたガラス片やビルの壁に飛び散る血痕が全てを物語っていた。

Photo_3 そして日本人が多く住む虹口(ホンキュウ)と揚樹浦(ヤンジュッポ)の方からもうもうと上がる煙と爆音。上空には中国空軍機。市民の中には黄浦江に浮かぶ日本の「鬼子(グイヅ)兵艦」がどんな風にやっつけられるのか、歓呼しながら青天白日旗マークの飛行機を見守る者も大勢いた。


ピンルーに一瞬、嫌な予感がよぎった。



「母の国、そして自分が生まれた国の日本。父の国、そして自分が育った国の中国。戦争になるのでは・・・・・」







「まさか」

ピンルーは首を横に振りながら、自宅へ戻るしかなかった。


王漢勲らのシュライクは黄浦江上空を通過して、浦東上空に達した。初日の攻撃で、日本側の高射砲陣地の位置はほぼ把握した。第9大隊は全機、一気に高度を下げる。まず揚樹浦(ヤンジュッポ)の埠頭沿いにある日本側施設に機銃を掃射した。NYKと大きく書かれた日本郵船会社の倉庫の屋根から白い破片がパッパッと飛び散る。次にシュライクは出雲を中心とする日本艦船を銃撃した。

シュライクの機銃は斜め下向きに付けられている。着弾点は操縦席からは見えない。それはとりもなおさず、自分を射撃している相手を確認することもできないということだ。低速度、低空で銃撃することを科せられたシュライクは、日本軍の対空砲火の恰好の餌食になった。爆撃機のように、爆弾を落としたらあっという間に上昇して雲隠れの術、というわけにいかないのだ。

墜落は免れたものの、ほとんどのシュライクに被弾の跡が残った。帰途、緊急着陸した機を見ると、主翼、尾翼にも多数の穴が開いている。操縦系統をやられている機もあった。南京まで帰れた機の搭乗員にも重軽傷者がおり、中には徐漢霊中隊長のように、着陸直後のコックピットで息絶えるパイロットもいた。

8月23日、日本軍は苦戦する上海市街戦を援護するために上海北部の揚子江沿岸、川沙に陸軍部隊を上陸させ、羅店鎮に向け進撃していた。そのころ、上海市街の日本軍襲撃にあまり効果の無かったシュライクは、日本軍の空襲を避けるため、一旦、広州の天河飛行場に避難していた。その第9大隊に、この飛行機の特徴にふさわしい作戦が、ようやく与えられた。羅店鎮方面の原野、沼地、畑を進軍する日本軍上陸部隊を上空から襲撃するのだ。まさに、これは原野に展開する共産党軍相手に戦っていた頃、シュライクが輝いていた頃と同じ戦法である。

Photo

(現在の地図に日本軍上陸地点の川沙と、要塞の羅店鎮を入力しました)

Photo_3

同盟通信社の記事などによると、川沙での日本陸軍第一次上陸は、8月23日未明に開始された。中国側からの砲弾が炸裂し、トーチカ陣地から止めどない銃弾が飛び交う中、日本軍は初日に1000メートルほど進出した。

8月27日まで、中国側の砲撃は激しかった。じめじめして軟弱な湿地帯に難儀しながらも、川沙から羅店鎮に近づく日本軍は、総攻撃の時まで砲撃部隊が沈黙を守っていた。そして28日夜明け前、日本陸軍の砲兵の一斉砲撃が開始された。そんな中を、第9大隊のシュライクが襲撃するのである。

シュライクはまず、南京の大校場基地に立ち寄り、7.7ミリ機銃弾を満装塡した。すぐに離陸すると揚子江を左手に見ながら東へ飛んだ。蘇州上空を過ぎしばらくすると眼下に現れたのは、両軍の砲撃の煙が漂う羅店鎮であった。揚子江に目を転じると、川沙方面に日本軍の大型輸送船が二隻見え、護衛の駆逐艦がいる。そして上陸用舟艇が岸との間を往復し、物資と兵員を運んでいた。日本軍は完全に不意を突かれた。

第一分隊長の王漢勲は、部下と3機編隊で降下する。北から東南にかけて、日本軍の砲列に沿って飛び、小型爆弾を投下、機銃掃射を開始した。副隊長の張旭夫は揚子江の川面に白い弾着の泡を立て、その泡の列がミシン目のように輸送船を通り過ぎる時に弾薬箱を爆発させた。艦上の兵員がなぎ倒された。張機は通り過ぎると、今度は後部座席に後ろ向きに座る機銃手が再度銃弾を撃ち込む。

日本軍上陸部隊は、身を隠す間もなく、大きな被害が出た。しかし、日本の駆逐艦からも当然撃ってくる。なんと日本軍の歩兵までが、低空を飛ぶシュライクに向けて三八銃をパンパンと撃ってくる。シュライクとは撃ちつ撃たれつの関係になった。

この正面切っての決闘はお互いを消耗させた。日本の輸送船の操舵室は蜂の巣になった。そして、副隊長の張旭夫は自分の右足に灼熱感を覚えた。見ると血が噴き出している。おまけにエンジンから出た煙が操縦席に侵入してきた。次の瞬間にはエンジンが止まってしまった。彼のシュライクは滑空状態になった。不時着するために揚子江の下流の田んぼへ機を向けた。彼は着地と同時に衝撃を感じると気を失ってしまった。

2503_2

(上海遠東競技場に不時着した第25中隊2503号機の新ホーク、カーチスホークⅢを調査をする日本軍)

気がつくと中国人の農民に囲まれていた。村人達は心配顔に、

「これは中国空軍だ」

とか、

「すぐに日本兵が来るぞ」

などと、上海の方言で言っている。

と、村の長老がやってきた。

「すぐに服を着替えさせるんだ。 ボロ着でいいから持ってきなさい」

と村の女に指示を出した。

村人達は、張旭夫の飛行服を脱がせて燃やすと、農民の恰好をさせた。そして日暮れを待って舟に乗せると上海の病院に連れて行った。

シュライクの空からの攻撃もむなしく、その日の内に、羅店鎮は日本軍が占領した。しかし、日本軍にかなりの損害を与えたことも事実だった。数日後、司令部は、第9大隊に再び出撃命令を出した。今度の襲撃地点は、羅店鎮から少し内陸部に入った楊林である。

ところが、今回は日本軍は襲撃を1、2時間前に察知していたようだ。地上からの高射砲による応戦が前回とは全く違い、正確で激しかった。地対空の激戦の末、第9大隊は5機が撃墜され、パイロット7名が死傷、無事に戻った他の機も被弾の跡なまなましく、激しく損傷した。さらには自国で飛行機を生産していない悲しさか、部品不足によって、損傷した機の修理が遅々として進まない。完全な状態で使えるシュライクはついになくなった。

第9大隊についに休息の時がきた。生き残ったパイロットはそれぞれほかの隊に異動になった。王漢勲は空輸大隊の隊長となった。そして、ソ連やアメリカからの新たな飛行機の選定、購入、試験飛行、新人パイロットの訓練にあけくれることとなる。

「上海防空戦 7」に続く←クリック

 

参考

「支那事変史」皇徳奉賛会

China Journal September 1937

「上海時代」松本重治

「林秀澄談話速記録Ⅱ」

「一个女間諜」許洪新

「中国的天空」中山雅洋

|

« 上海防空戦 5 | トップページ | 上海防空戦 7 »

テンピンルー」カテゴリの記事

日中の歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 上海防空戦 5 | トップページ | 上海防空戦 7 »