« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月の1件の記事

2010年3月25日 (木)

小野寺機関員、武田信近

1939年春の上海。影佐禎昭率いる影佐機関が汪精衛(汪兆銘)をみこしに乗せて担ぎ上げ、日本の言いなりになる傀儡(かいらい)政権を作ることに和平のへ道、言葉を変えれば「日本に有利な現状の固定化」の道、を見出そうとしたならば、小野寺信率いる小野寺機関は、あくまで多くの中国国民の支持を受ける蒋介石を相手に和平の道を探ろうとした。小野寺はラトビア大使館付き武官を経て参謀本部ロシア課から上海へ派遣されていた。ロシアのコミンテルン、いわゆる世界共産党とその支部である中国共産党の動きから、日本は早急に蒋介石国民党と和平し、ロシア、共産党対策を優先すべしと考えていたと思われる。

小野寺機関には、その趣旨に賛同する幾人かの者が出入りした。1938年1月に「蒋介石を相手とせず」と言ってしまった元総理大臣近衛文麿を父に持つ、近衛文隆。その近衛文麿が自分の腹心として秘密裏の和平の使いとして上海に送り込んだ早水親重。そして武田信近である。なお、小野寺機関は鄭蘋如(テンピンルー)を翻訳係として雇っていたという説もある。

近衛文隆については当ブログ記事「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 前編」 ←クリック で述べた。また早水親重については、当ブログ記事「テンピンルーと早水親重」 ←クリック で述べた。早水親重も史料が非常に少なかったが、武田信近の史料はほぼ皆無であった。

ところが、ふとした検索の結果、2000年9月に発行された「月刊 アジアの友」という冊子のPDFファイルがネット上にあり、そこで武田信近について語られた記事があったので、ここで紹介したい。追悼記事である。

以下引用

武田信近さんを偲ぶ    田井重治

 武田信近さん※1は慶応の相撲部出身でしたが、鹿児島の方で、昔は薩摩藩と言った田舎のお生まれでした。金丸三郎先生※2とは鹿児島一中の頃からずっとご一緒で、無二の親友でした。
 
 武田さんには個人的にも随分お世話になりましたが、このアジア学生文化協会もその設立の時から本当にお世話になっています。穂積先生※3は病弱な方でしたから、あるいは先生とご一緒に、あるいはその代理で色々なお役所と話合ったり、先生には出来ないようなことも一人でせっせとやっておられました。

 武田さんというとなんといっても有名なのが、まだ若い頃のアジア放浪の旅ですが、旧満州を振り出しに、イスタンブールまでほぼ一年をかけて歩いて回っていらっしゃいます。当時の日本とアジア諸国との関係を考えて、お坊さんの恰好をして数珠と聴診器をぶらさげておられたそうで、聞くと笑い出す人が多いんですが、本人としては随分大変だったことだろうと思います。その後も、何度もアジア各地を旅行されてますが、あんな物騒な時期に一人で歩き回れると言うことは、よほどアジアの人々に心を許される人物だったに違いありません。

 よく想い出すのは敗戦後はじめて荻窪に穂積先生を訪ねて見えたとき、長いことビルマにいたからビルマ料理をご馳走してやると言って、ご自分で料理して下さったことです。穂積先生は菜食でしたがそれでもおいしいおいしいと言って食べていました。
 
 武田さんは、敗戦の随分前からビルマでイギリス軍にスパイ容疑で掴まっていたのですが、偶然、そのとき捕虜収容所にいたという人から武田さんの話しを伺ったことがあります。周りのみんなが、もう敗戦も決まって息も絶え絶えで、中には日本になんか帰りたくないという人もいるのに、武田さんだけが一生懸命メモを取りながら、日本の再建についてしきりに考え込んでいたそうです。周りのみんなは、「あの人は一体何者だろう」と噂し合っていたそうです。

 武田さんは尞関係者※4には珍しく、非常にスマートな方で、それでいて誰とでも平気で快活に話しをする人でした。当時、寮には随分おっかないのがいたのに、全く平気で、話題も豊富だし、武田さんといるとほんとに楽しかったんです。それなのに、みんなが武田さんに一目置くんですから、不思議な人でしたね。

 訃報を聞いたとき、しまった、もっとお話を伺いたかったのにとつくづく思いました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


※1アジア学生文化協会創立者の一人で初代事務局長。(財)海外技術者研修協会専務理事を経て相談役。大正2年(1913年)鹿児島県生まれ(注:テンピンルーの1歳上である)。2000年7月16日逝去。享年87歳。

※2アジア学生文化協会創立以来の理事。鹿児島県知事、参議院議員、総務庁長官を歴任。学生時代に穂積先生主宰の新星学寮(旧五軒寮)在住。

※3アジア学生文化協会創立者穂積五一氏(1902年〜1981年)

※4上記穂積五一氏主宰の新星学寮(旧五軒寮)寮友。アジア学生文化協会の母体となった。

引用終わり

(注)引用文の脚注で新星学寮(旧五軒寮)とあるが、新星学寮(旧至軒寮)の誤りと思われます。

ということで、短い追悼文ではあるが、武田信近の人となりがかいま見れるのではないだろうか。豪放磊落で胆力と社交性があり、それでいて緻密なところもあった、そんな人物像が思い描かれる。満州を皮切りにイスタンブール放浪、とあるが、おそらくその途中、1939年に上海にいて、早水親重らと合流したということなのだろう。

当ブログ記事「テンピンルーと早水親重」で書いたが、早水も相撲をやっていたことがあり、彼の出身大学は九州大学である。武田信近と早水親重は九州の出、部活動が相撲部、という共通点があったのだろう。その二人が1939年に上海で交差、小野寺機関で一緒に活動をすることになったのだ。1939年2月、この二人は連れだって、東亜同文書院の学生主事として赴任してきた近衛文隆に面会をした。文隆は小野寺機関と歩調を合わせ、蒋介石直接交渉によって和平の道をさぐる工作を開始した。文隆とピンルーの縁はこの時に始まったのであろうと推測される。

また、上海特務部員で、ピンルーとも和平活動をしていた花野吉平の著書「歴史の証言」にも、わずかながら武田信近の名前が出てくる。花野は1936年7月末に、胸の疾患で鹿児島県西方にある武田信近の実家で療養したとあるのだ。武田信近の兄、武田鳳徳は九州大学卒の医者だったので、武田の兄に病気を診てもらっていたようだ。

また、この花野の著書には、早水親重が「満州で関東軍と軍警統一問題で対立し、満州国官吏をやめた」、ということも書いてあった。花野も早水に続いて満州国官吏をやめており、満州で同僚の関係だったようだ。1937年秋に特務部思想班ができて、花野吉平、早水親重、武田信近の三名が上海に結集した、ということだろう。

1939年5月、日本軍部の内部抗争の結果、影佐機関と手を組む林秀澄率いる憲兵隊の摘発に合い、小野寺機関の和平工作は頓挫した。早水と武田は二人で一旦帰国、新たな活動を行うため上海に戻ったところを、少なくとも早水親重は憲兵隊に違法拘束された。違法とここで言えるのは、当の監禁した側の憲兵隊特高課長林秀澄が、戦後になってこの監禁についてこう語っているからだ。

「今まで取り調べもせずに約10ヶ月間以上放り込んでおった、これは私の違法行為なんだ。どうぞこれについて文句があれば適法に処置をしていただきたい。あなた方のやったことは私としては改めて追求しようと思わない。けれども将来は行動に気をつけなさい」(林秀澄談話速記録Ⅲ P116)

こう語れたのも、もはや時効、ということだろう。

武田のこの後の足取りは全く分からない。早水の違法監禁は1940年4月に解かれた。なぜなら、影佐機関側の汪精衛政権が無事に発足したからである。武田も一緒に監禁されていたのだろうか。あるいは逃げおおせていたのだろうか。林秀澄は武田信近に言及していないことからして、おそらく拘束はされなかったものと推測する。彼は、上に引用した追悼文からはトルコのイスタンブールまで足を伸ばしていたようであるが、もしかしたら憲兵隊からの逃亡の意味があったのかもしれない。

武田信近は、戦後はアジア学生文化協会を通じて、アジアから日本へ来る留学生の世話を焼いたようである。私はそこに、清国からの、また中華民国からの数万人の留学生を日本が受け入れておきながら、彼らに銃を向けることになった日本を代表して罪滅ぼしをしたい、という気持ちがあるような気がしてならない。

ちなみに、早水親重や同じく監禁していた反戦和平派の花野吉平らを「死刑に処す!」と恫喝していた憲兵塚本誠は、終戦後に電通の役員となり、戦後日本の世論誘導の一翼を担った(田原総一郎著「電通」P61)。田原総一郎によると、上海憲兵隊は、報道調整、検閲を通じて電通に対し便宜を計っていたらしい。それに報いる人事、ということだろう。

| | コメント (2)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »