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2010年4月の3件の記事

2010年4月13日 (火)

続 テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件

引き続き、何揚鳴の論文「閑話皇帝騒動の一部始終」、その他を日本語に訳しながら、「新生事件」、そしてテンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)について述べる。間接的にせよ、ピンルーの銃殺の遠因となった事件である。

以下、「閑話皇帝騒動の一部始終」の続きを引用

弁護人の呉凱音が発言した。

一つ目に言いたいのは、「閑話皇帝」は決して天皇を侮辱していないこと、

二つ目には、各国の憲法で規定されているように言論の自由があり、日本は我が国の内政に干渉できないこと、

三つ目に、「閑話皇帝」が発表されたとき、被告は内容を知らなかった。監督不行届の責任はあるが、法廷ですでに遺憾の意をあらわし謝罪している。法廷がもし被告に刑事責任を負わすならば刑法74条と41条によって、執行猶予を与えるか罰金刑とすべきである。

四つ目に、東北(注:満州)の市民の苦難の生活を送っているなかで、日本は撤兵せず市民は帰る家もない、その責任は誰に負わすべきなのか。杜重遠は無罪であり直ちに釈放すべきである。

裁判長の郁華は審議終了を宣言し、退廷、別室に移って協議した。日本人の田中なる人物が奥の部屋まで来て協議している司法官を監視した。数分後、裁判長は出廷し、判決を言い渡した。

「文章による誹謗をした罪により、被告人である杜重遠に懲役1年2ヶ月を命じる。週間「新生」の第2巻15号は没収する」

被告弁護人は、執行猶予あるいは罰金刑が妥当と主張するが、裁判官は許可しなかった。弁護人は控訴を申し出た。法廷は、刑法61条により、控訴を棄却、保釈も認めなかった。

郁華は、最後に被告人に尋ねた。

「何か申し述べることはありますか」

杜重遠は激昂して答えた。

「国を愛することが何の罪になるのだ!中国の法律は日本に征服された。私は中国に法律があるとは信じられない。市民は言論、出版の自由があるはずだ。中国は他国の干渉を受けるべきではない。私に言い渡すべき判決は無罪である!」

傍聴人も一緒になって大声で叫び始めた。彼らは銅貨を取り出して裁判官と日本人記者達に投げつけ抗議した。居合わせた支持者は、「反帝国主義 抗日新生」というビラをまいた。司法警察が出動し大衆を追い払った。追い払われた彼らはすぐさま「新生事件後援会」を組織し、事件の真相究明を求めた。

杜重遠は、司法警察に直ちに護送されて、江蘇第二刑務所へ向かった。杜重遠の妻は、判定に不服で、控訴を主張したが、高等法院第二分院法廷で退けられた。1935年7月22日、妻は再度、最高法院に控訴したが、前回同様の判決だった。

これに先立つ7月7日、国民党中央党部と国民政府は連名で、電報を発した。

「今回の「新生事件」は、外交関係を害した。国民はぜひ皇室の尊厳を尊重しなければならない。同様な記事を厳禁し、違反者は容赦なく厳罰に処す」

7月8日、高等法院第二分院は、「新生」の発行を禁じた。

7月9日、国民党は談話を発表した。

「上海の裁判所は週刊「新生」の責任者に厳しい判決を与えた。国民党が中日関係に対してとった態度は、蒋介石、汪精衛両先生の政策と完全に一致している。中日間のいかなる問題についても、誠意ある平和の態度を皆に望み、首尾良く解決を図ろう」

この「新生事件」は悪い先例となった。その後、新生事件に類似した事件が次々と現れた。上海の「大美晩報」の文芸欄の「文化街」は、「新生事件に思う」を掲載する予定としたところ、検閲により取り消された。四馬路文化図書公司出版の「日本侵略中国漫画鳥瞰図」と、「日本侵略満州蒙古鉄道網計画図」は没収され、責任者は起訴された。舟山路の交差点の小さな露天本屋は、日本軍に抵抗する連続絵物語を売ったため、第一特区法院に、外交妨害罪で起訴され懲役二年の判決が下った。

引用終わり

さて、上海市当局は、出版責任者の杜重遠を執行猶予か罰金刑で済むと言って法廷に引きずり出した。しかし、検察官の鄭鉞と裁判長の郁華は、日本の砲艦外交に屈し、第二次上海事変の挑発であることを危惧した。鄭鉞は、日本側が納得する実刑判決を求刑、裁判長は求刑どおり懲役判決を下したのだ。

その後の中国国内の動きをみるために、上海の代表的な新聞「申報」の報道状況をみてみると、

7月12日  国民政府外交部次長 新生事件が一段落したという談話を発表
7月20日  共同租界工部局警察「新生」の発禁処分を声明
7月21日  杜重遠夫人による上訴棄却
7月23日  杜重遠夫人抗議文
7月24日  弁護士会は討議を終え、新生事件の判決につき司法院に意見書提出へ
7月26日  上海新聞公会 出版法改正に難点あり、立法院で再審議呼びかけ
7月29日  北京新聞学会 出版法再審議要求。全国へ電報、一致主張を呼びかけ

以上の記事がある。このうち7月24日の記事は、こう書いている。

「新生の杜重遠の判決について、上海弁護士公会が行った長時間の討論の結果を司法院へ提出することになった。(中略)杜重遠に対する判決には、違法と考えられる箇所、および市民感情に沿わない箇所があり、判決に対する修正を主張し、その結果を公示するように要求した。また「新生事件」を発端として始まった「出版法」改正をめぐって、上海や北京の新聞界組織は反対意見を表明した」  (参考:論文「新生事件」をめぐる日中両国の報道及その背景に関する分析 差異と原因  楊韜著)

上の記事には、出版法の改正とある。国民党はこの事件をきっかけとして、出版界全体の言論統制を強めようとしたようだ。これは、日本の天皇に対する言論を統制しようという狭いものではなく、蒋介石独裁態勢の維持、特に共産党対策があったものと思われる。このどさくさ紛れとも取れる出版法改正からは、国民党がこの新生事件を利用しようとした可能性が見て取れる。郁華と鄭鉞によって行われた有罪実刑判決への誘導、被告人杜重遠にとってみたら「冤罪」とも取れる判決には、日本の砲艦外交に負けた、と言う面だけでなく、国民党内部、蒋介石からの言論統制強化という政治的圧力もあったと類推される。

さらに関連する中国語文献を見ていくと、1年後の1936年6月7日、興味深い大会が上海で開かれていたことがわかった。上海弁護士会による冤罪(えんざい)賠償運動第二回大会である。(参考:論文「20世紀30年代の冤罪賠償運動」  孫彩霞) 

まず議長の沈釣儒(注:のちの最高裁判所裁判長)が挨拶し、全国の冤罪賠償運動の報告をし、各界が一致団結して政府に冤罪賠償法の制定を促した。そして次に、鄭鉞(ていえつ)が出てくるのである。事件から1年経ち、もはや誰もが冤罪判決だったという評価をくだした「新生事件」の担当検察官であり、被告の実刑判決を求刑した鄭鉞が、こう挨拶した。

「弁護士会の主張に賛成を表し、早期に成功することを望んでいます。会議は熱のこもったもので盛大かつ厳かでした。司法、立法に電報を送り、速やかに冤罪賠償法を制定することを促してまいります」

どのような気持ちで鄭鉞はこの挨拶を行ったのだろうか。私は、苦渋の決断の末、杜重遠の冤罪判決に荷担した鄭鉞が、その後二度と政治的圧力、特に日本軍部の武力的威圧には負けないと心の中で誓っている姿が目に浮かぶ。そこには司法の独立を守りきれなかった自分への深い悔悟と反省の念が存在するはずだ。そしてそれは、裁判長、郁華も同じだろう。

私は、鄭鉞のこの重い経験が、愛する娘ピンルーの釈放と、親日政権側へ自分が転向するという「人質取引」を拒絶した遠因になっている気がしてならない。新生事件以降、どのようなことがあっても司法の独立を守ると固く誓った。その父親の思いは娘もわかっていたのではないだろうか。

郁華は1939年7月、日本軍部が作り上げたテロ組織、ジェスフィールド76号の新聞社襲撃事件における殺人犯に死刑判決を出したところ、逆に彼らの凶弾に倒れた。鄭鉞にも連日のように脅迫が行われた。しかし彼は粛々と共同租界での凶悪事件の起訴を続けた。

監禁されたテンピンルーはまさか処刑されるとは思っていなかった、という説がある。妹の天如さんは語る。

「父親には一時、この取引に乗ろうとういう妄想が芽生えていました」

ピンルーが生きて釈放される可能性の火がともった瞬間である。しかし、その灯火はすぐに消える。鄭鉞自身が消したのだ。

父親の司法の独立にかける思いを理解していたピンルーは、父親が決してこの取引に乗らないと分かっていたはずだ。その意味で、ピンルーにとって覚悟の処刑だったのではないだろうか。

監禁場所から、

「私は大丈夫」

という短い手紙を、釈放される人に託したというピンルー。彼女は父親に、自分の釈放を促すのではなく、

「どうかお父さん、そのまま信念を貫いて下さい」

と伝えたかったのではないだろうか。

「自分が釈放されることは、再び父親を苦しめ、冤罪に苦しむ人が増えることを意味する・・・・・」

彼女にはそのことが分かっていたはずだ。そして、かつて一緒に日中の平和に向けて活動し、今も違法に監禁されている花野吉平や早水親重の姿も重なったことだろう。彼女は自分だけ出て行くわけに行かなかった。彼女は自分の命と引き替えに、家族の名誉と、父親が求めてやまなかった司法の独立を最後まで守ろうとしたのだ。

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「鄭蘋如」を読んで 

柳沢隆行著の「鄭蘋如」を読了した。内容は、以前放送された読売テレビの番組の書籍版であった。この番組は映像を使った史料集の体裁だったが、そのときの詰め込み的な編集に、私は時間内におさまらないなら書籍で出すべきと感じた。また、この番組の主題は「鄭蘋如の悲劇」ではなく「木村はなの悲劇」だと述べた。今回まさにこの番組の書籍版が出たのだと言える。この本は当初から番組製作と同時進行だったのだろう。

著者が、数多くの取材を長い時間かけてこなした跡が見て取れる。関係者に実際に会って、話しを聞けるならばできる限りそうしている。そこはまさに脱帽で、説得力がある。非常な情熱をもって調査を行い、この本を執筆されたことが伝わってくる。

私は最初に読んだ西木氏の「夢顔さんによろしく」の影響を受けていたので、当ブログでは彼女をテンピンルーと表記した。これは日本では既に彼女のスタンダードな表記となっている。柳沢氏はあくまで「ていひんにょ」である。それはほかの中国人の名前も日本語読みで統一するという整合性からは正しい。私も当初より悩んだところだが、私の中ではやはりテンピンルーはテンピンルーとさせてもらった。他の家族がたとえ、鄭鉞(ていえつ)、鄭海澄(ていかいちょう)となろうともだ。「北京」を「ほっきょう」とは読まず、またピンイン表記のBeijingに近い「ベイジン」とも読まず、「ペキン」とカナを振るのと一緒で、現実のスタンダードに合わせさせてもらっった。

この本の発行をもって、影佐機関出身者が戦後も日本で行ってきたピンルーをおとしめる世論誘導の影響もようやく終わりをつげることだろう。戦後出されてきたピンルーを登場させる小説は、ほとんどが晴氣本「謀略の上海」を参考としているためか、ピンルーはあくまで妖艶な色気を漂わすハニートラップの名手、毒蛇のような女として描かれてきた。また、これも影佐機関員だった議員、犬養健の「揚子江は今も流れている」を参考にした小説は、ピンルーを援助交際を求める少女のような浮ついた女として描くのだ。しかし、この本の発行をもって彼女の名誉は回復することだろう。

実はこのブログの目的の一つがそこであった。歴史についてアマチュアな私が、2年半にわたって情熱を持って調査を続けられた原動力は、ピンルーの名誉回復であった。なぜ私がそれを、というのは実は自分でもわからない。私がやらねばと勝手に思ってやってきた。その部分においては、肩の荷が降りた感じであり、柳沢氏には感謝である。

しかし、私の目から見て、僭越ながら掘り下げが足りないと思われる部分があった。そこは非常に肝心な部分だと私は判断している。それは歴史に対する見方の違い、歴史への見たての違いとも言える部分かもしれない。主に、丁黙邨暗殺未遂事件への李士群のかかわりと、父鄭鉞が娘の命を犠牲にしてまでかたくなに親日政権側へ転向しなかった理由の部分である。

前者については、過去の記事、「日中戦のはざまで テンピンルーの悲劇 後編」←クリック を参照頂きたい。この記事は当初書いたのが2008年1月なので既に2年以上経ったが、書き換えるに足る「これは」という情報を得るたびに加筆修正している(書籍と違いブログのいいところだと思っている。どこをどう変えたかは自分でも既にわからない、という無責任さはご容赦頂きたい)。

また後者については、タイミングよく「テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と新生事件」←クリック を書きあげたので参照いただきたい。

さらに、近衛文隆との交際についてだが、中国側は一貫して、文隆とピンルーの交際を、文隆がまんまと騙されたものとして扱っている。地下工作員として目的を持って近づいたピンルーに、青春真っ盛りの文隆がメロメロになったというスタンスだ。柳沢氏もこの中国側のスタンスに立っている。私はそうじゃないと思っている。

柳沢氏よりも限られた史料を使って、私なりに見たてているので、大いなる勘違いの可能性もあるが、私は自分の説に自信を持っている。

さて、本書を読ませていただき、いくつか疑問、というよりも質問、そして意見があるので、以下挙げてみたい。

P109  ピンルーの生まれは、読売の番組だと法政大学の名簿、法学志林の住所記載により、東京牛込区早稲田鶴巻となっていたが、本書では東京小石川の音羽となっている。この不一致の理由は何だろうか。

P167 「鄭家とも親交のあった、阪義雄がこの話しを聞きつけ、鄭蘋如を彼らに紹介・・・」とある。この阪氏は、本書の他の部分にも度々登場する。ネット上では、妹天如さんも阪氏に言及し、日中の和平の集会にピンルーが出るようになったのは、阪氏が誘ったのがきっかけで、母方の親族である、と語っているサイトがあるが、本書ではどのような人物か説明がなかった。

P174  松崎啓次の「上海人文記」に触れ、「松崎は、このことがきっかけになり、特務部の金子少佐らの手で、鄭蘋如は日本軍のスパイとして働くことになったと書いた」と、柳沢氏は松崎の書を紹介する。しかし、「上海人文記」のどこを読んでも「ピンルー(注:同書では戴志華の仮名で登場する)が日本軍のスパイとして働くことになった」とは書かれていない。「上海人文記」のP10には、「スパイとして銃殺される第一項の日記が、ここに書き込まれたのだ。」と記載されている。ここのスパイとは、文脈からは中国側スパイ、という意味で使われている。柳沢氏の解釈は逆であるがどうだろうか。

P175 「かわいそうなのは華君(注:母木村はな)である。娘に利用されたあげく、お国の役にも立てなかったのだ。松崎の書にもあるように、蘋茹は母親に対しては、日本軍傀儡の維新政府で働いていると言いくるめていたフシがある」とある。

ここは、歴史の解釈の違いと言える。私は、母親とピンルーは一体だったと信じている。娘というものは人生のぎりぎりの判断の時に母親に相談せずに逆にだます、ということができるだろうか。これでは家族関係が崩壊している。ピンルーが母親を「だまし、利用した」証拠を挙げていただきたい。ここは読売のテレビ番組でも同じ作りだった。歴史、historyは「ハイ ストーリー」とも揶揄され、著者の作り出す「高度な物語」である。しかし、本書はノンフィクション小説ではなく史料の体裁を取っている。できれば証拠を挙げてほしい。

P250 「小野寺機関が近衛文麿による近衛家防衛のためにつぶされた・・・云々」は、とても新しい見方で興味深い。目から鱗が落ちる部分だ。しかし、小野寺機関の主要メンバーであった早水親重は、1944年には近衛文麿の和平工作の代理人として恐らく三度目となる上海を訪れている。早水親重が「近衛文隆追悼集」に寄せた文章にはこう書いてある。

「昭和19年、東条内閣総辞職後、土井章、栗本両君らと、中国を介して連合軍との和平交渉の道をあけ、近衛公に取り次ぎ、公の代理として、水谷川氏らと共にこれ努めたが、ついに軍の反対で成らず、その間文隆君がいてくれたならば、と思わぬ日はなかった」

自分がまさに命がけで活動した組織、小野寺機関ををつぶした近衛文麿の代理人として、再び活動するだろうか。私は文麿は文隆の帰国騒動に関しては受け身に終始したと感じる。宮仕え系でもし文隆帰国の策略をしたとするなら、国体護持に異常な執念を持ち続けた木戸幸一あたりのような気がする。この辺は改めて調査したい。

P253 「ふたりの交際(注:ピンルーと王漢勲)は、八年前の1931年にはじまった」とある。これは大同大学付属中の二人の友人がピンルーと王漢勲をパーティーで紹介しあって知り合ったと妹天如氏が言っていることからである。天如氏はこのパーティーを「同学会」と中国語で表現している。「同学会」は「学友会」」と訳し、英語だとAlumni Party(アルムナイパーティ)となる。つまり、同じ学校の卒業生なら誰でも出られるパーティーであり、現在でも特に欧米系大学では盛んである。参加者は学年は違えど同じ学校の卒業生との人脈を広げることを目的とし、学校側は卒業生からの寄付金が目当てである。柳沢氏は、この同学会を在校中のクラス会のようなニュアンスとして語っている。しかもピンルーが17歳、王漢君が19歳の時の。これだと確かに長いお付き合いである。

私は二人が出会った学友会は、1937年、王漢勲が空軍の出撃準備のため南昌基地へ赴任する直前くらいだと思う。妹天如が以前アメリカのプレス向けに、姉はボーイフレンドとは短いおつきあいだった、とインタビューで答えていたからだ。「テンピンルーの妹、鄭天如さんの記者会見記事」を参照←クリック また、杨莹(ヤンユイン)という中国の女流作家による天如さんへのインタビューでは、「二人が知り合って間もなく王漢勲は重慶に行きました。その後は手紙だけの付き合いとなりました」と言っている。重慶は蒋介石国民党軍の本拠地である。おそらく二人は1937年8月13日の第二次上海事変勃発の影響を受け、短い期間で離ればなれになったのだろう。

P256 近衛文隆は日本に帰国前、ピンルーに「古龍」というブランドものの香水を人づてにプレゼントしたとある。妹天如は、「なにか(注:男女関係が)あれば自分で渡すのでは?」と、「文隆とピンルーの恋愛関係は無かった」と言いたかったようで、柳沢氏もそれに同調し、「近衛文隆と鄭蘋如の関係はこんな風にしてはじまり、残念ながら(?)、こんな風に終わった」と書いている。残念ながらに(?)マークを付けたところなど、文隆とピンルーの交際にロマンを見い出していた人(私もその一人だが)には、小馬鹿にされた感じがするが、それはさておき、文隆とピンルーの交際を引き裂こうとする憲兵隊の策略の中、帰国直前の文隆はピンルーに会いにくい事情があったのではないだろうか。

さらに、林秀澄の談話速記録を引用しているが、原文では「そのころ文隆君は鄭蘋如「と」熱くなってしまいまして・・・」と書かれているところを、「文隆は鄭蘋如「に」熱くなって・・・」と微妙に引用が違っている。「と」であれば二人とも熱くというニュアンスであり、「に」であれば文隆が勝手に一人で熱くなったということだ。この辺は、ピンルーと文隆の男女関係をなかったこととしたい中国側の意図に乗り過ぎていないだろうか。

また、本書ではピンルーが文隆のことを中国語で「あの子」と呼んでいたと妹天如さんのことばを紹介している。こういう見下したような呼び方をする仲だった、と言いたいようである。が、中国は女尊男卑の国である。ピンルーが少なくとも一時期、親愛なるボーイフレンドとしていた王漢勲のことを彼女は「大熊」(ターション。中国語で「大きな意気地無し」という意味)と呼んでいた。「あの子」も「大きな意気地無し」も似たようなものだ。むしろ親しさの表れと見てもいいのではないだろうか。

本書では、王漢勲をピンルーの婚約者と記載しており、これは中国側のサイトがくり返し述べる中国語表現「未婚夫」の日本語訳であろう。しかし婚約していた証拠はどこにあるのだろうか。私は目にしたことがない。

ちなみに、許洪新の著書「一个女間諜」に、1939年春に王漢勲がピンルーに2通の手紙を出し、香港で結婚式を挙げようとプロポーズしたとある。しかしピンルーは「戦争に勝利するまでは・・・」とやんわりと断ったことが書いてある。これはどう解釈すべきだろうか。文字通り取れば、やがては結婚をするつもりの婚約者同士のようにも取れる。

しかし、時期的に、この手紙のやりとりと微妙に関係しそうなのが、松崎啓次著「上海人文記」の「戴志華の銃殺」の章 ←クリックで出てくる次のせりふである。蒋介石側のある中国人男性、おそらくは王漢勲とピンルーの共通の友人、がピンルーにこう言うのだ。

「電話をかけたり、手紙を出したり、使いをやったりするのに、なぜあなたはあの人に会ってやらないのです!」

さらにその男は声を低くしてこう言う。

「あなたは最近、日本人とつき合っているって噂ですが、本当ですか?私のうちへ明日の午後来て下さい。明日ですよ」

もちろんこの通り言ったのではないだろうが、このような意味のことを言ったのだろう。時期はやはり1939年春だ。このあとのシーンではピンルーが男女間の悩みをかかえていたように描写されている。著者松崎が思いつきでこういうエピソードを入れる動機が見つからない。私はこの頃に、ピンルーの男女関係、心境の変化があったと見ている。

P333 事件後、「ひとり残された蘋如は、とっさに、「スリに遭いました。助けて下さい」と、租界の外国人パトロール警官に頼んで、そのまま家に送り届けてもらった」とある。ここも新説である。事件後のピンルーの状況がかいま見れる。こういう新説には出典を付けて頂けたら本書を史料として使う際に助かる。おそらくは妹天如さんの話しからとは思うが。

P340  事件後、ピンルーは、「家を出たあと76号には行かなかった。行動隊のアジトに身を潜めたのである。隊員のすすめに従って、そこからいくつかの探りの電話を入れた」とある。これも新説である。出典がほしい。私は、松崎啓次の「上海人文記」にある通り、日本側知人などの個人宅に身を隠していたでのは、と思っている。

P343〜344  ピンルーが「まさか処刑されるとは夢にも思っていなかったらしい」とあるが、私は彼女は処刑は覚悟の上、と考えていたと判断している。その理由は当ブログの記事「続 テンピンルーの父鄭鉞と新生事件」を参照してもらえばわかる。ピンルーの事件と逮捕監禁の意味を深く掘り下げれば、そこには上海共同租界の刑事事件を牛耳る主席検察官、父鄭鉞の取り込みの目的があったことが導き出される。そして父娘の共通の思いを類推すれば、ピンルーはやはり処刑を覚悟していた、と私は考える。

P352 丁黙邨暗殺の共同実行犯だった嵇希宗が、1941年の段階になると、丁黙邨と手を組んでいるくだりがある。これも驚くべき新説である。ピンルーが命をかけて暗殺の手伝いをし、それを命じた嵇希宗は、数年の後には暗殺対象の人物と手を組んでいるとは。著者を信用しないわけではなく、史料としての出典があるとうれしい。当時の地下工作員の節操の無さ、あるいはまた、地下工作員を取りまく恐怖の状況が分かろうというものである。

著者は、本書で当時の歴史の背景説明にもページをかなり割いている。むしろそちらのページ数の方が多いかもしれない。背景を知った上で、ピンルーを理解してほしい、ということだろう。しかし、背景に上げた歴史はもう少し対象を選りすぐってもよかったと思う。

残念ながら本書が取り上げなかったものの、私が思わずうなってしまった歴史の「連関」を少し挙げてみる。

○父鄭鉞(ていえつ)がピンルーを見殺しにせざるを得なかったのは、1935年の「新生事件」という、影佐禎昭や鄭鉞のかかわった事件と深いつながりがあった。

○王漢勲はパイロットとして上海爆撃に参加、彼ら中国空軍の落とした爆弾により上海市民千名以上が死傷したが、近衛文隆が数日前まで日本案内をしていたプリンストン大学の恩師ライシャワー氏も、キャセイホテル前で爆死。

○その王漢勲らがいる中国空軍基地を叩く日本海軍の台北基地には、のちにピンルーを捕えることになる台湾憲兵隊台北分隊長、林秀澄が勤務していた。

これらのピンルーを取り巻く周辺情報は当ブログにまとめてある。下記リンクから参照頂きたい。

王漢勲や林秀澄の登場する「上海防空戦1〜8」はこちら←クリック

ピンルーの父、鄭鉞が関わった「新生事件」はこちら ←クリック

付け加えるとすると、ピンルーが勤めていた日本側ラジオ局、大上海放送局アナウンサー時代の考証もあると良かったと思う。「ピンルーの勤務したラジオ局 大上海放送局」はこちら←クリック

私としては、本書を大いに参考にさせて頂き、さらに周辺情報を集め、私独自の見立てでテンピンルーにまつわる歴史を解明していきたい。

本書は一般読者向けではない。一言で言うと、ピンルーマニア向けの「史料」だ。私のような者には情報の宝庫である。しかし彼女に興味のない方はページをめくる指が鈍ることだろう。それは読売のテレビ番組がドラマではなく、史料の映像版だったのと同じ事だ。感動を誘う書き方や劇的な書き方はされているわけではなく、また柳沢氏独自の解釈とストーリが幅を利かせているわけでもない。著者自身の調査にもとづき、淡々と事実と思われることが提示されていく。冒頭にも述べたとおり、感動するとしたら著者の徹底的でち密な取材姿勢に対してである。ピンルーとその家族の「史料」を入手したい方にはお薦めの本である。

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2010年4月12日 (月)

テンピンルーの父、鄭鉞(ていえつ)と「新生事件」

花野吉平は著書「歴史の証言」の中で、影佐禎昭に触れているが、その中で「閑話皇帝事件」いわゆる「新生事件」とからめて彼を語っている部分がある。影佐禎昭が、暴漢に資金を出して不穏な行動を策させ、上海で暴動を強行しようとした、と記述されているのだ。


私はここの意味がよくわからなかった。しかし中国側の史料にあたることでようやくその意味がわかった。また、鄭蘋如(テンピンルー)の父、鄭鉞(ていえつ テンユエ)が、ピンルーの命を犠牲にしてまでかたくなに親日側に転向しなかった理由が見えてきた。

以下、この裏面史を、「新生事件」を理解することから紐解いていきたい。


まず、花野吉平の「歴史の証言」から該当部分を引用する。

引用開始

1935年5月、上海で発刊されていた週刊誌「新生」に、易水という変名であるが日本に留学した者が、「閑話皇帝」の一文を記述したのである。その訳文は次の如きものである。これは、抗日と日本天皇制が綾をなし、中国民衆に批判される事件となる。

「・・・日本の天皇は一人の生物学者である。世襲的関係のために、天皇になっている。天皇の名の下に一切の行事に名義を貸しているようなものである。ただ外賓接見のとき天皇を用い、閲兵のとき天皇を用い、なにかの大典礼のとき天皇を用いる。その他の場合の天皇は、人民からまったく忘却されている。

日本軍部、資本階級が真正な統治者であることは上述の通りである。現状の日本の天皇は、一人の生物学研究の愛好者である。もし彼が皇帝とならず、幾多の雑事にわずらわされないならば、その生物学上の成果は、現在よりももっと多いであろう。彼が生物学上発見したものは、相当多数あるということだ。彼が帝位にあるということは、学術上莫大な損失である。

しかるに目下の日本が、天皇という1個の骨董を捨て去ることができないのは、天皇が現段階の統治上、あまりにも大きな幇助を行っているからである。つまり天皇を用い来たって、いさい内部各層の衝突を緩和し、一部の人間の罪悪を粉飾しようとしているのである。・・・

日本は天皇は神聖にして侵すべからずと称しているが、事実上において、真正統治者の傀儡(かいらい)にすぎない」

まことに他愛ない三文記事である。天皇は傀儡の刻印を受けた。英国、イタリア、ユーゴスラビア、タイ、満州国(皇帝は傀儡の傀儡と評されている)については、なにも問題はおこっていない。

それが大きな火の手となったのは、日本軍部の華北進出が開始され、日本軍部上海出先の海軍、陸軍影佐等が民衆の抵抗を逆用して、上海に暴動を強行しようとしたからである。

上海共同租界内の江蘇省高等法院第二分院で、日本側の圧力によって、「新生」社主、杜重遠は、刑法誣告(ふこく)罪、国交妨害罪により起訴され、懲役一年二ヶ月の判決が申し渡された。弁護人からの最高法院への上訴提起、上訴中の身柄保釈の願い出もいっさい却下された。

杜重遠は傍聴席にむかい、「余は中国の法律を認めず」と絶叫し、満員の傍聴人からはこれに呼応して、「反帝国抗日新生万歳」「打倒日本帝国主義」「反対売国裁判」が合唱された。

上海のインテリゲンチャーに忘れることのできない、日本天皇制への憎悪の歴史を作った「新生」不敬記事事件、河北事件などにより、対日親善派は媚日(びにち)売国弾劾案を監察院に提出されており、汪兆銘行政院長は辞表を提出した。それが尾を引いて、六中全会で汪は狙撃され重傷をうける。

私はこの事実を鄭蘋如の父鄭鉞から直接聞くことができた(彼は当時法院に関係していた)。影佐は資金を出して暴漢に不穏な行動を策させ、妻が(注:鄭鉞の妻木村はなが)日本人なので日本官権の通弁(注:通訳)の日本人から脅迫されたことがあり、影佐は中国将校に日本婦人を情婦にして情報をとっていた低級な男だと誹謗した。リストに東京帝国大学に聴講生となる(注:影佐が)ということが、記されているので驚いたのであるが、こんな悪党が汪兆銘工作の責任者になるのだから中国の民衆、とくに知識層は知っているので相手にはしないのである。こういう悪党軍人が功績を掠奪して将官になるのである。この連中が日本軍閥のエリート官僚であるから、その人間的品性を計ることができる。

引用終わり

表現が激しいが、著者花野吉平はのちに影佐機関側から牢獄に約一年つながれ、また一緒に活動した鄭蘋如が銃殺されるなどしたため、恨みもこもっているのだろう。

この「新生事件」、簡単に言うと、匿名で一人の中国人評論家が、雑誌「新生」に、天皇は傀儡にすぎないという記事を書き、それに日本側がかみつき、圧力をかけて有罪判決を引き出した。その圧力には影佐らの暴動画策や海軍の威嚇がからんでいた、ということだ。

次に、何揚鳴の論文「閑話皇帝騒動の一部始終」を、若干の補足と共に日本語に訳したので下記掲載する。

 

事の発端は、1935年5月4日発行の雑誌「新生」の「閑話皇帝」という投稿記事に、日本外務省天津総領事の川越茂がかみついたことである。

翌月の6月24日、「新生」の出版社がある上海の総領事、石射猪太郎は、なるべく穏便に済ませたかったが、マスコミが騒ぎ出したため、上海市長、呉鉄城に覚書を渡し、「新生」の「間話皇帝」が天皇を馬鹿にして日本人が怒り、事態が深刻で中国政府が迅速に事態を処理すべきと申し入れた。

上海市長呉鉄城はばつが悪く、すぐさま詫びをいれた。この「閑話皇帝」の原稿は、上海市の図書雑誌審査委員会の審査基準を満たしており、事前審査を通っていたのだ。

石射総領事は詫びを受けた後、なぜ審査を通したのか詰問した。呉市長は、一貫して日本との親善を主張し、偶発的な事件で、反日宣伝ではないと理解を求めた。

石射総領事は、すぐさま以下の要求を出した。

1.直ちにこの雑誌の発行を禁じ、転載も禁じる。

2.「新生」責任者と作者の処罰

3.事前審査員の処罰

4.上海市政府の書面での陳謝

5.再発防止策

呉市長は受け入れを表明したが、雑誌「新生」は共同租界にある出版社だったため、担当裁判所は租界を担当する江蘇高等法院第二分院となった。

石射猪太郎総領事の強硬な動きに同調して、日本側は極力緊迫した情勢を作った。日本海軍の軍艦が呉淞の河口まで入ってきて威圧し、海軍陸戦隊は配備に付いた。日本人地区虹口の3つの日本語新聞は中国側を脅迫する宣伝記事を書いた。「新生」の杜重遠は有名な反日活動家で、「新生」は抗日雑誌であり、張学良から資金援助を受けている、などと書いた。

石射総領事が上海市庁舎を出るとすぐに呉市長は市公安局に命令して、「新生」の社屋を差し押さえ、今後の発刊を禁じた。そして裁判を受けるかどうかを問うた。また、電話をかけ審査を通した審査員を厳しく責め、中日の外交問題に影響している責任を明らかにすると表明した。

上海市関係者は話し合いの末、杜重遠が個人的に勝手に記事を掲載した、ということとし、市政府は責任を逃れる案を作った。しかし、杜重遠は承認しなかった。杜重遠の承諾を得るために、市関係者は最初は脅しすかしの方法を採るが、最後は恐怖の手段を取ることで一致した。

24日の晩、国民党上海市党部の委員は福州路384号の「新生」編集部を訪れ、責任者を探しだし、法廷では「新生」は「間話皇帝」が審査を通っていたと認めてはならないと申し入れた。「新生」責任者はこれに反発し、審査を通っている証拠となる印鑑付きの清刷り原稿を金庫に隠した。

杜重遠は作者、易水に上海を離れるように勧めた。易水は中国共産党の助けを得てフランスに渡った(1949年彼は中国共産党の理論宣伝活動に従事したが、文革の中で迫害され死に至った)。

上海市関係者と杜重遠は2度交渉した。杜は、原稿は審査を経ておりその証拠もある。市政府は日本側の要求を受けるべきではなく、法律上の裁きを受けると主張した。作者易水は匿名であり住所は分からず探し出すことはできない。杜は一人で刑罰を受けると望んだ。

上海市関係者は、杜の強硬姿勢に対し、最後の方法を採るかどうか悩んだ。上海のマスコミはこの事件に対して不満で、杜重遠に対して最後の方法を採ると大衆の怒りを買うのを怖れた。

日本総領事はさらに厳しく催促してきた。中国側の陳謝を要求し、日本の暴漢を使って挑発した。市当局は杜重遠に説得を行うほかなかった。呉鉄城市長は自ら杜重遠を説得した。

「政府を巻き添えにしないでほしい。裁判所の判決が出るとしてもそれは日本側を懐柔するためだけで、執行猶予がついて、今後も仕事ができる」

と表明した。

杜はやっと法廷に出ることを承認した。双方は嘘の裁判をやることを相談した。開廷前、呉開先は、せいぜい罰金刑だろう、費用は市党部が負担すると言った。

国民党上海市政府は、1935年7月初旬、江蘇高等法院第二分院に提訴した。第一回は、杜重遠と易水に対する捜査で、傍聴席は20、30名だった。呉市長が個人の車で杜重遠を送迎し、保証人を立てる500元も市党部の予算から出た。

日本側は、この事件が罰金刑で済まされそうだと知って、市政府に圧力をかけた。上海の日本語新聞は中国当局の努力が足りないと書き、国民党に全責任があると主張した。日本の武官(注:1935年当時は影佐禎昭が武官として領事館に詰めていた)は、日本の記者に対し談話を発表、「新生」事件は、「外交以外の手段」でも解決できると言った。

やむをえず上海市政府は二回目の裁判を行うこととなった。かれらはまた杜重遠に会って、「間話皇帝」が審査を経ていないと声明し、作者易水に嘘をついて責任を負わすように懇願した。

1935年7月9日、第二回が開廷する。その日、完全武装の日本海軍陸戦隊が上海に上陸、示威活動を開始。日本の私服武装兵と暴漢もあちらこちらに展開した。イギリスの工部局警察は、虹口の日本軍司令部から浙江路の江蘇高等法院第二分院まで治安維持に出動した。偶発事故を防ぐため、司法警察が裁判所の周りを警備した。上海市公安局の工作員も治安維持に出動した。

開廷の数時間前、裁判所の周りは至る所人の群れとなった。内外の新聞記者や総領事がやってきた。裁判長は郁華だ。杜の弁護人は呉凱音で、彼は法廷で天皇に関連する発言をしないわけにいかず、うっかり天皇を侮辱するかもしれないため、発言に気を使うことが必要だった。日本側の暴漢は天皇を侮辱した場合、弁護人を撃ち殺すと言いふらしていた。

弁護人呉凱音は、事前に主席検察官の鄭鉞(注:ていえつ。テンピンルーの父)と打ち合わせをしていた。彼らは今回の事件は、「法律より外交が重い」と判断した。日本側はこの機会を狙って挑発し、暴動騒乱を誘発しようとしていると考えた。人民の生き地獄の苦しみを免れるため、慎重に処理する。しかし日本側の理不尽な要求、中国の司法への干渉を拒絶すべきとした。

午前10時、開廷した。主席検察官の鄭鉞が言った。

「間話皇帝」の一文は、各友好国の元首のことを話題にしているが、日本の天皇については特に多くを述べ、しかも侮辱している部分がある。作者の易水を呼び出す目処が立たないため、発行人兼編集長が全責任を負うべきである。新刑法第310条第2項、旧刑法第325条第2款の誹謗罪、及び新刑法第116条の規定により本刑三分の一を加重し、法廷上で法にもとづき厳しく処置されることを請求する」

裁判長、郁華は被告人杜重遠に問うた。

「なぜ友好国の元首を侮辱しましたか」

杜は答える。

「元首が生物学者であると言っただけで、攻撃したり侮辱するものではありません」

郁華は言う。

「天皇がもし研究に専念するならもっと業績が大きかったろう、などと言うことは、友好国を風刺し、嘲笑し、礼儀を知らず、罪に当たるとは思いませんか」

杜は答える。

「私は東北(注、満州)で仕事をしていて東北事件(注:満州事変か)の後すぐに上海の生活を対象とした出版社に来て「新生」を発行した。4月初旬、江西で仕事をしており、事務編集は代行を人に頼んでいた。「閑話皇帝」の原稿は、代理人が植字に回し、印刷に回した。事後に内容を見た。作者は日本留学生だが、天皇のことを学んでおらず、影響も考慮していないと言える。私が上海にいたならこの原稿は決して発表されることはなかった。しかし監督不行届の責任があり、私は応分の負担をするつもりだ。申し訳なかった」

杜は続ける。

「投稿記事だったため、作者易水の住所が分からず、今となっては原稿も探し当てることができない。しかし、文章は決して天皇を侮辱していない。日本は中国の内政に干渉しようとしている。日本軍人は横暴で、東北(注:満州)を横取りした。天皇は軍人に命令できるならなぜこうなるのか。これは風刺ではない。忠告だ。天皇の叡知によって日本軍は東北を撤退し私たちの山河を返すべきだ」

郁華は、

「それは政治問題であり、刊行物で気の向くままに発表することは許されない。この文章は、風刺、嘲笑によって外交を損ない、法律を犯した」

と言う。

(続く)一旦引用終わり

さて、後に影佐機関を作る影佐禎昭は、1934年8月1日から1年間、上海駐在武官であった。上の何楊鳴の引用文には影佐の人名はなかったが、「日本の武官は、日本の記者に対し談話を発表、「新生」事件は、「外交以外の手段」でも解決できると言った」とある。この武官が影佐であろう。

花野吉平の「影佐は資金を出して暴漢に暴動を策させた」というくだりや、1935年7月3日発行の東京朝日新聞夕刊の「日本海軍第三艦隊が上海に待機」という記事からして、「外交以外の手段で解決できる」という意味は、裁判に対する武力による威圧、つまり「砲艦外交」以外の何物でもないだろう。

被告を守る側の弁護人と、訴える側の主席検察官の鄭鉞が公判前に打ち合わせしている。どのような判決に持って行くか、すり合わせをしている。「法律より外交が重いと」と言って・・・・。私は司法の専門的なことはよくわからない。しかしこれはやはりあってはならないことだろう。彼らの脳裏には、1932年の第一次上海事変の地獄絵が思い浮かんだのだろう。特に、日本に10年も住んでいた鄭鉞は、日本人、中でも日本軍部がどれだけ天皇の神格性を重視しているかがわかっていた。

裁判長の郁華と鄭鉞は、古くからの友人である。彼らは一心同体と見ていいだろう。「新生事件」は最初から出来レースの裁判だった。被告人に実刑判決を下すという犠牲をもって、日本の軍隊に引いてもらおうという、司法に政治判断が介入した悪しき事例となったわけだ。

このことが、鄭鉞と郁華をその後ずっと悩ますことになった。鄭鉞が「新生事件」の裁判に関わっていたことは、中国側が書くピンルー関連情報からは全く欠落している。書きにくいことだと思う。これができるのは日本側の研究者だけなのかもしれない。歴史を知り、知らしめることは、将来の幸福の為にある、という思いのもとで書かさせていただく。


当記事の続編でこの裁判が、間接的にせよもたらした結果を述べる。

続 テンピンルーの父 鄭鉞と「新生事件」に続きます  ←クリック

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